オリジナル。ジャンルはごった煮。
筆が乗らずにぎりぎり進行。
あー、えー、特にないので本編どうぞっ
長い夢から目覚める。すべての悪夢が悪夢でしかなかったことを悟ると、朝の陽射しが闇を切り刻んでいるなかで身を起こし、しばらく壁を睨みつけている。愛梨は鈍く震える腕を伸ばし、ペットボトルを鷲掴みにしてそっと口許に運ぶ。
しんとした静寂。泥濘のような時間が流れ、まだ、自分がここでない場所で停滞していることを知る。昨夜の夢はいつも以上に生々しく、古い匂いさえ漂い、感触さえ明らかに浮かび上がるようなおぞましい代物だった。記憶が浚われ、ひっくり返されたような感覚だった。なぜ? どうしてか懐かしい匂いを嗅いだせいかもしれない。あの見知らぬ娘。
「愛梨さま」
襖の外から呼びかけられ、愛梨は気だるげに首を巡らす。
「お食事をお持ちしました……まだ、お休みでしたでしょうか?」
低く言う。「入りなさい」
襖が開き、敷居の外で正座した娘が頭を下げる。
紫藤清音は十五歳、桐生の遠い親戚筋にあたる娘で、平均よりかなり小柄な肢体と、これといった特徴のない涼やかな顔つきをした少女だった。本来ならこのような召使めいた仕事をする立場ではない。しかし、本来の役職に就いていた入江の者を愛梨が追い出してしまったため、急な代理としてこうして働いていた。ひとつひとつの仕草に、不慣れさが染み出していた。
「失礼します……」
「清音」愛梨は静かに言う。「椿希が帰ってきたっていうのは本当の話?」
「あ……はい」清音は首を落とすようにして頷く。「昨日、戻られまして……お疲れのようでしたので、そのままお休みになられたのですが、愛梨さまは、ここに篭もっておられましたので……」
「椿希ひとり?」
「いえ、その、世話役という方をおふたり連れておられました。十二歳と、十三歳の女の子でしたが、なにか――」
「十二?……十三……」
昨日のあの娘はどちらかと思う。どちらにしてもおかしくないからだつきだったが、その眼と表情だけが、異様に大人びていた感じはあった。染めた髪に反抗的な瞳。異常に強い指の力。
「もういい。戻りなさい、清音。食器は昼に取りにきなさい」
「あの、愛梨さま。旦那さまが、お呼びになっておられます。椿希さまのことで……」
「私を呼びつけて、おまえのほうからこっちにこいって? 冗談を言わないで。私が行きたくなったら行くし、そうじゃなければ行かない。そして、向こうからこちらにくることは許さない。あの男にはそう伝えておきなさい」
「ですが、愛梨さま」
「『ですが』? そんなことばは聞きたくもない。いいから出てけっつってるのよ、愚図。これ以上私になにを喋らせるつもりなの? あんたはどこの何様?」
清音はひっと息を呑み、素早く頭を下げてこそこそと出て行く。
誰もいなくなると、愛梨は食器に眼をくれもせず、得た情報を反芻する。
十二……十三。
初めて出会った頃の、あの生意気な娘は――櫛灘文太の忌々しい一人娘は――いくつだったっけ? たしか十歳ちょうど、だったはず。そうして二年、三年と経った頃には、どうなっていたっけ?
「……っ」
凄まじいほど激烈なノスタルジアが胸を切り裂き、愛梨はからだを折り曲げる。嘔吐感が喉の奥底から湧き上がり、暗がりのなかでひとり喉を震わせる。
天見は庭を歩き、庭から逸れ、軽い斜面になっている竹林に入る。がさがさと落ち葉を鳴らしながらさらに歩く。木漏れ日が柔らかく足元を照らし、梅雨で湿気った濃密な香りを立ち昇らせている。そこでふっと息をつく。
どうしてか知らないが、桐生本家の人々は、椿希や、シズら分家の人々とは雰囲気から違っていた。椿希を、その世話役である自分に向ける視線はひどく尖っており、厄介者に向ける悪感情しか見て取ることができなかった。早々に疲れてしまい、天見は椿希についてきたことを少し後悔した。
(愛梨……さん、か。あれが、椿希さんが仲直りしたいって言ったひとなんだろうけど)
離れの女。掴まれた肩に手を添え、溜息をつく。
椿希はなんと言っていたのだったか? 『毒婦』。そう思って考えてみれば、なるほどあれがそういう女かという気がしないでもない。暗がりから出てきた彼女は、たしかに、背筋が凍るような美しさがあった。相手を無条件に見下し、萎縮させるタイプの。顔に椿希のつけた大きな傷が残っていてさえ、その美貌には一点の翳りもないように思えた。そして、あの態度。
(厭な匂いがする? なんだってんだ。自分がいい匂いだなんて思わないし、たしかに山に篭もって何日も風呂に入らないこともあるけど、普段から臭いなんて言われたことはない。水無先輩にも、部長にも、根岸先輩にも、鵠沼さんにも、言われてない。でもちょっと気にはなるな)
自分の腕を軽く嗅いでみる。まあ、わかりはしないのだが。
竹林にきたのは、椿希がこちらに歩いてくるのが見えたからで、注意深くあたりを見渡すと、木陰の奥に彼女の姿がどうにか見えた。立ち尽くして腰に手を当て、切っ先のような木漏れ日を浴びて、空を見上げている。天見はそこまでゆく。
「椿希さん」
椿希は振り返った。「ああ、天見さん。ごめんなさいね、別にいなくなろうとしたわけじゃないんだけど」
「気持ちはわかりますけど。この家、椿希さんの味方はいないんですか?」
「みんな一応私の味方ってスタンスよ。まあ、実際のところは置いといて。疲れちゃうでしょ? 分家に移った気持ち、わかってくれたかしら。幹一さん――弘枝さんのお父様は良くしてくれたけど、愛梨さんに追い出されちゃったわ」
「昨日、その愛梨さんに会いました。ちょっと話しただけですけど」
「あらそう。どうだった? なんていうかこう、凄味のあるひとだったでしょ」
「まあ……美人だなとは思いました」
山のほうから強い風が吹き、竹をしならせ、葉々が揺れて大きな音を立てる。ふたりの髪と衣服がはためき、天見は眼を細める。
「そう、美人ね。こっちのほうが女としての自信をなくしちゃうくらい」天見の眼から見ても相当の美人である椿希が言う。「父の身の丈には合わないわ。不相応。最初、父は彼女をものにしたと思い込んで大得意だったけれど、まあ、逆に思い通りにされてたわけ。まったく、体面ばかり気にするんだから、あの小物は」
「……。で、どうするんですか」
「話さないことには話が進まないわよね。でも、私にしてもちょっと気圧されちゃうからねえ。ほら私なんか所詮私にすぎないから。天見さん、彼女と話してどう感じた? 怖いとは思わなかったかしら」
「はあ、別に」
「あら……」椿希は胸前で両手を合わせてみせる。「それはなかなかのものね。じゃあ、天見さんにも付き合ってもらおうかしら。ふたりがかりなら、私でもなんとかなるでしょ」
天見は頭を掻く。
「愛梨さま……」
昼。清音は再び離れまで行き、愛梨の部屋のまえで膝をつく。襖越しに声をかける。が、返事はない。
「愛梨さま?……失礼、します」
襖を開く。敷居越しになかを覗く。誰もいない。
ほとんど手のつけられていない食器が置いてあり、清音は息をつく。この家にきてから、愛梨がまともに食事をしているところを見た試しがない。椿希が分家に移ってから、それがますます悪化してしまっているようで、清音は気が気でなかった。健康さえ維持できているかどうか怪しい。時折、具合悪そうに佇んでいるのを、何度も見たことがある。
愛梨に対して、恐怖はある。椿希の父や、他の男たちが惹かれているような破滅的な魅力は、しばしば、清音の眼には恐ろしいものとして映る。単純な見目なら、女の眼からでも美しいのだが、それ以上に、纏うものが妖しいのだ。向き合うとどうしようもなく気圧されてしまう感じがする。
盆を持って引き返す。そのとき、不意に後ろから衝撃がきて、口から内臓が飛び出るほど驚き竦みあがる。
「ひぃっ!?」
「ハァイ。お嬢さん」椿希は清音の後ろから腕を回し、抱き寄せるようにして言う。「えーと、誰だったかしら。たしか、紫藤のところの子? 清音とか言ったわね。ご両親はお元気?」
「つ、椿希さま! あの、えっと、はい、父も母も変わりなく――」
「いまはあなたが幹一さんの代わりをやってるのね。高校生でしょ? まったく、こんな子まで面倒事に引き摺りこんで。あなたもちゃんと学校行きなさいな、不登校でもあるまいに」
「ご、ごめんなさいっ! 今日は、いつもの方がお仕事でいなくて、どうしてもと」
「で、愛梨さんはどこ? お話ししたいのに、姿が見えないんだけど」
言いながらも椿希は清音のからだに腕を預け、ブラウスの胸元に手を這わせたりしている。両手で盆を支えている清音は身を捩ることしかできない。
「あわわっ、ちょ、あのっ、椿希さま!?」
「聞こえなかった? 愛梨さんはどこ?」
「わ、わかりませんっ! 椿希さまが分家へお出になられたときから、時折ふらっといなくなってしまうことがあるんですが、どこへいらしてるんだか私にはとんと存じておりません! いつお帰りになるのかも存じません! あまり遠くへは行っておられないと考えますがっ!」
「……。あーそう。まったく、出鼻が挫かれることばかりだわね……」
椿希は不機嫌に鼻を鳴らす。清音の胸元で指が感情を映してわずかに曲がり、ブラウスに皺をつくってその下の曲線を露わにする。清音は悲鳴を上げかけ、膝を震わせる。
「はわわ、椿希さまっ、おやめください!」
「なにを?」
「ひん! ほ、ほんとうになにも知りませんから! 嘘はついておりませんっ! ひゃあっ」
「もちろんそうよねえ。別になにも期待しちゃいないわよ。あら結構あるわね、大胸筋で盛ってる残念な篠原さんと違って、ちゃんと柔らかくて張りがあるわ。やっぱり女の子はこうでないとねえ」
桜花がなんの前触れもなくひょいと廊下の角から出てくる。「マジで!? お姉ちゃんとどっちがおっきい!?」
「弘枝さんのはあんまり触ってないからわからないわねえ。師匠が確かめてみたら?」
「そーするー! 椿希サマ片方借りるね!」
清音は愕然とする。「増えたー!?」
離れを見て回っていた天見が彼女らの元に戻ってきたのはその少し後で、愛梨が離れにいないことを確かめ、椿希に報告しようとしていた。悲鳴が聞こえて、なんだと思ったが面倒極まりなかったので、わざとのろのろと足を進めていた。で、角を曲がると、椿希が十五歳ほどの少女を後ろから抱えて、桜花が前から、ふたりして少女の胸を揉みしだいているところだった。
清音の顔はもう真っ赤に煮立っており、椿希が手放せばそのまま床に崩れ落ちそうなほど膝が揺れていた。手に持つ盆さえいつ落ちるかわからない。ふたりの指が動くたびにひくひくと肩を震わせて、虚ろな唇は半開きになっていた。
なに遊んでるんだと思いながら、天見は無愛想に言う。「椿希さん。愛梨さんやっぱりいないみたいですけど」
「ええ、天見さん。ときどきいなくなるみたいねえ。どうしようかしら、待ってるだけって性に合わないの。ちょっと探してみましょうか」
「行き違いになったらどうします?」
「師匠、離れで待っててくれる? 愛梨さんが帰ってきたら、あんまり相手にしなくていいから、私に連絡して頂戴」
「いいよ! 漫画でも読みながら気楽に待ってる!」
「ぁ、ぁ……ぁんっ」
「まあどっか行くったってバスも一時間待たなきゃ通らないところだし、さっきちらっと見たけど愛梨さんの車も置きっぱなしだったから、そう遠くへは行ってないはずね。行きましょ、天見さん」
「はい」
椿希はぱっと清音を開放する。限界だったのだろう、清音は膝から床に崩れ落ち、盆を落として放心する。腰砕けで立ち上がれそうにもない。
椿希と天見が行ってしまうと、桜花は清音ににこりと笑いかける。邪気のない子供の笑顔。しかし、清音はびくりとしていた。桜花が持ち上げた両手を胸のまえでわしわしと不吉に動かしているからだった。
そっと清音の耳に口を寄せ、にこにことしたまま囁く――「ところで、ねーちゃん。ええからだしてんなァ……」
いろいろと敏感になっている清音は耳に息が吹きかけられただけで飽和する。「ふわぁっ……」
清音のからだを引き摺り、桜花は敷居を跨ぐと、襖をきっちりと閉める。
忘れようとすればするほど思い出す。覚えている。そして、山を見上げるたびに記憶のさざ波が寄せては返し、寄せては返す。海のように不毛な繰り返し。
彷徨、さ迷い歩き、どれだけ遠くへ逃げ続けても、ふとした瞬間に山の黒い影が視界に映り込む。そうして記憶が爆発するように押し寄せ、感情を掻き乱し、荒れ狂い、この身を打擲する。山はどこにでもあった。日本列島のどこに行ってもそびえ立っていた。山岳国家という呪いに侵され、愛梨はまだ過去から逃れられないでいる。
『全世界を貪り尽くしてもまだ満足なんてしないだろう。おまえにはそういうところがある。それは、おまえが必要としているのが全世界なんかじゃないからだ。おまえの望んでいるものが、おまえに必要なものじゃないからだ。山屋にとっての山に相当するものがおまえにはない。飢餓感。それそのものがおまえって女だ』
餓えている。涎を垂らして、みすぼらしく望んでいる。その感覚は、物心つくまえからずっとあった。なにもかもを与えられても、まだ満足できないでいる自分の一部が、いつも月に向かって吼えている。欲しい、と。もっと欲しいと。
望んでいるのは破壊だった。身の回りにあるすべてを打ち壊し、潰し、狂わせ、おしゃかにしたい。上っ面を引き剥がして醜いものを曝け出したい。破滅させたい。内なる声に耳を傾ければ、あらゆる善なるものを無条件に憎悪する理由のない衝動が、獲物を求めて身を捩っている。けれどそれはきりのない感覚だった。どれだけそうしても満足できないもうひとつの感覚が芽吹き続けていた。
『仮におれがなにもかもおまえに差し出したところで、おまえはなんにも満足しないだろうよ』
椿の花が足元に転がっている。斬り落とされた首。グランドフォールしたクライマー。
花を踏みにじり、頭を上げる。山はまだ……そこにあった。南アルプスの深南部、大地の根元がここにまで続いていた。
「……っ」
愛梨はただ舌打ちをする。
なにか途方もない予感めいた感覚が鼻を――嗅覚を――突き抜け、愛梨は弾かれたように振り返った。
竹林の、落ちた枝葉を踏む軽い足音がし、木陰のあいだから、天見が姿を現す。天見は愛梨に気づくと、小さく会釈をし、首を捩じって後ろに顔を向けた。
「つば――」
声を上げかけた瞬間に愛梨の手が素早く口許を覆っていた。天見は愛梨を見上げた。
愛梨の眼は病的な光を灯して爛々と輝いている。遥か彼方から見下ろすように天見を見つめて言う。「なんていったっけ――姫川、天見? 椿希がここにきてるの?」
天見は頷く。
「私はあいつに会いたくない。あいつが会おうとしなければ離れに引っ込んでるつもりでいる。なぜ? この家を取り戻しにきたってわけ? 目障りな厄介者を追い払って、元通りに修復しようとしてるの?」
天見はゆっくりと愛梨の手を引き剥がし、小声で言う。「『元通り』なんて知りませんけど。私は新参で桐生の家のことはこれっぽっちも知らない。椿希さんが一緒にこいって言ったから、ついてきただけです」
「椿希の世話役らしいね、あんた。どういうこと?」
「ただのバイトです。この歳でできる仕事が他になかったんで」
愛梨の胸を押し、天見は愛梨から離れる。数歩後退りして距離を取る、が、その動作にはなんの感情も滲んでおらず、恐怖や困惑もなく、ただパーソナル・スペースの維持というだけの淡々とした行為だった。愛梨の刺々しいことばになんのショックも受けていなかった。
記憶のどこかが刺激され、愛梨はこめかみを手のひらで抑える。頭がずきずきと痛み始める。自分がそうした反応をしたことに困惑し、かぶりを振って不快な感覚を追い出そうとする。ほとんど、歯を食い縛るようにさえしている。
天見は怪訝そうに言う。「大丈夫ですか」
愛梨は天見を睨む。
「そんな眼をされてもどうしようもないですけど。椿希さんに会いたくないっていうなら、別に無理して呼んだりしません。でも、いいんですかね。椿希さんはあなたと争おうとしてこっちに帰ってきたわけじゃないです」
愛梨は歯の奥から声を押し出す。「じゃあ、なんだっての」
「仲直りしたいって言ってました」
「……」
「顔に傷をつけてしまったこと」天見は自分の頬を指先でなぞって言う。「背中に傷をつけられたこと。部外者の私がどういう風にも言えるもんじゃないですけど、別に悪くないんじゃないですかね……そういうのって」
天見は答えを求めるように愛梨を見つめる。愛梨はなにも答えずにただ見返し、見下ろし、睨みつける。
ややあって、天見は溜息をついて背を向ける。愛梨はその背が見えなくなるまで立ち尽くしている。