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2024/05/03 01:32 |
そらとあまみ 67
オリジナル。
ここで一区切りします。次の更新は未定。
始まって終わるいつもの。


すげえ……難産だった。しかも産み切ってないという。ああ、不完全燃焼。
でもとりあえず次は別のものを書きたい。ふう……


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 感情が昂ぶりすぎていたせいかもしれない。その夜、愛梨は夢を見た。夢などもう何年も見ていなかった。見た瞬間に夢だと気づく夢で、意識も記憶もはっきりしていた。気づいたのは、もう死んでいるはずの櫛灘文太の背中が、その部屋の隅でザックに山の装備を詰めていたからだった。
 愛梨は壁に背を預けて彼を見ていた。ポケットに両手を突っ込んで、顎を引き、咎めるように。女子高生の頃のからだだった。いまよりもさらに細い、若々しい肢体で、少女から女になったばかりのガラスのように薄く繊細な腕の肌だった。部屋は薄暗く、蛍光灯が頼りなくちりちりと音を立てている。開け放った窓の外に粉を撒いたような星空が輝いていた。

 「死にやがった……」

 愛梨は唸るように言っていた。その声も蜃気楼の儚さに紛れて二重に歪んでいた。

 「まるで……まるで、なんの意味もないみたいに……塵屑みたいに……死にやがった」

 それは過去の愛梨が文太の葬儀で口にしたことばだった。彼が生きていた頃には思いもせず、他のなにより、彼に言いたかったことばだった。そして、言おうとして言ったのではなかった。気がつくと口にしていた。
 文太は装備をザックに詰め続けていた。すべて詰め終わると、ザックをひっくり返してすべて取り出し、また一から入れ直し始めた。愛梨の声など聞こえていないかのように。しかし、永遠にも長く思える時間の後、不意に彼の声が聞こえた。

 「すまん」

 あの聞き慣れた声だった。吹雪と暴風に削り切られ、潰れかけた喉の絞り出すしゃがれ声。それでいて空間にしんと染み渡るような低い声。耳よりも奥深くで聞き取ったような感覚が訪れ、愛梨はからだをくの字に曲げた。

 「そんなことばが聞きたかったんじゃない」と愛梨は喘いだ。「そんなことばが……」
 「おれがいないあいだ、空をよろしく頼むな」
 「違う……そんなことばが聞きたいんじゃない。私はあいつになんにもできない。なんにも……できなかった」
 「信頼してる」

 愛梨は両手で顔を覆った。視界が暗闇に閉ざされ、夢より深い闇が訪れた。過去という光のないシーン。

 「先生の葬儀で、私はあいつになんにも言えなかった。なんの励ましも、なんの慰めもできなかった。されたのは私のほうだった。私よりあいつのほうが哀しかったはずなのに。先生の娘は私じゃなく、あいつだったのに」
 「おまえのことは家族のように思っていた」
 「やめろ!」愛梨はかぶりを振った。「先生はそんなこと一言も口にしなかった……!」
 「おまえはおれを破滅させようとしてた。でも、ありがとう。おまえに関しちゃ、おれにとって、山以外では数少ない自分の本来でいられる場所だった。おれはおまえが好きだったと思うよ。悪意も敵愾心もみんなひっくるめて」
 愛梨は引き摺るような叫びを上げた。「それはあいつが口にしたことばだ! 先生のことばじゃない!」

 文太は装備を詰め、広げ、詰め、広げ、詰め、広げ続けた。同じ作業を延々と繰り返し続けていた。愛梨に背中だけを向け、山の岐路にケルンを積み上げるかのように。星空が注ぐ蒼白い光を一筋、破片のように右肩から袈裟懸けに背負い、そこだけが疵のように真っ白に浮かび上がっていた。その白の境界がゆっくりと千切れ始め、室内に浸食を広げ、いつしか畳の上に雪が積もり出していた。
 気がつくと愛梨は海のように広い雪原の上に立ち尽くしており、冴え冴えと広がる青黒い寒空の下で、茫然とあたりを見渡していた。自分が辿ってきた足跡が後方に延びており、それは世界に対してあまりにも小さすぎ、あまりにもささやかすぎた。地平線の果てに遠い山脈が横たわる獣のようにそびえていた。こんなところにまで山はあった。

 「どうして……っ!」

 文太の姿は消えていた。
 山の一角から白い煙がもうもうと立ち込めていた。雪崩だ、と思う。そう思った直後、轟々と唸る地響きが鳴り渡り、白い煙の下で雪が流れ出した。神のようにすべてを呑み込む無限の力がその手で山を撫でていた。
 いつの間にか隣に美奈子が佇んでおり、愛梨と同じ方向を見ていた。篠原もいて山を見ていた。文太の葬儀で一度見ただけの芦田とかいう少年もいて雪崩を見ていた。その雪崩は文太を呑み込んだ雪崩だった。彼を殺した山がただイメージの欠片となって彼女のまえに現出していたのだった。

 「どうして!……」

 愛梨は悲鳴を上げて山を見上げた。どこまでも率直な憎悪が湧き出し、どうしてあの男を殺したのだと、途方もない疑問を抱えて叫びを上げた。どうしてあんなにも山を愛した人間をわざわざ選んで殺したのだと。山を憎んでいる自分ではなく、山を愛しているあの男を。
 しかし、答えはなかった。山は山でしかなかった。それが夢でも現実でも、山から答えを得ることはできなかった。何度問いかけても、それは結局、石や雲に問いかけるのとなんら変わりなかった。

 「なんで……」

 自分の叫びで眠りから覚め、愛梨は布団のなかで眼を開いた。
 視界は涙で滲んでいた。薄暗がりのなか、天井に一筋の光が射し、色気のない木目を浮かび上がらせていた。
 しばらくは立ち上がれなかった。全身を虚脱感が満たし、悪夢の後のどうしようもない感覚が心を包んでいた。

 「おれがいないあいだ、空をよろしく頼むな」

 主のいない声だけが宙ぶらりんに繰り返され、そのことばに根元から打ちのめされる感覚がした。




 その朝、椿希は天見と桜花を伴って愛梨の離れに向かった。しかし、もうすでに愛梨はいなかった。別れの一言もなしに、姿を消していた。
 先にきていた清音が、部屋の真ん中で茫然と突っ立っていた。椿希が問いかける眼を送ると、清音は哀しげな顔をして首を振った。

 「私がここにきたときには、もう……」

 愛梨の荷物を詰め込んだキャリーバッグはなく、それがそのまま愛梨の行く末を示していた。これほどあっさりと、これほどなんの頓着もないように立ち去ってしまうことが、椿希には信じられなかった。仮にも一年以上も過ごした家だ。これほどまでに、愛着の素振りも見せず、速やかに姿を消せるものなのか?

 桜花がおぼろげに言う。「ネトゲだとさあ、『やめる』って仲間内に言ってからやめるやつは、だいたい戻ってくるもんなんだけど、なんにも言わないで消えるやつって二度と戻ってこないんだよねえ。これってどっちだろ?」

 椿希は室内を見渡した。ものの見事に、愛梨がここにいたという証は掻き消えていた。彼女の持ち物はなにもない。少なくとも、愛梨がここに戻ってくる理由となり得るものはなにもないように思われた。
 桜花が部屋の隅に置いてある机にぱっと近づき、なんの気兼ねもなく引き出しを開けた。そうして声を上げる。

 「写真があるよー? 古いやつ」
 三人は桜花の肩越しにそれを覗き込んだ。いまよりも二十近く若い愛梨がそこに映っていた。映っている範囲が狭く、どこのものか見当もつかなかったが、愛梨はひとりではなかった。
 「これは……?」

 愛梨の他にふたりいる。かなりがっしりした体格の、日焼けした中年の男と、愛梨より幼いくらいの小柄な少女。当然ながら、桐生の家の者ではない。親子にしては似ておらず、他人にしては仲睦まじげな雰囲気をしている。機嫌が悪そうな愛梨に反して、ふたりとも穏やかな微笑を浮かべ、その表情だけが似通っている。
 天見はその少女の顔をじっと見つめた。
 椿希は、愛梨の親戚が誰かだろうと思い、連絡先でも記されていないかと写真を裏返した。色褪せたセピア色の裏地だけでなにもなかった。彼女の実家はどこだと言っていたか? たしか長野だったはずだが、それ以上の手がかりはなかった。そもそも彼女がここを去って実家に戻るような女だとは思えなかった。

 「師匠。他になにかない?」
 「んー、なんにも。これも捨てていったのかなー? 引き留めて欲しいんならもっと別のもんを残すだろーし。で、どうする? どうする?」
 「……。どうしようも――」

 天見の手がすっと伸び、写真を取り上げ、踵を返す。はっとして、椿希は天見を見つめた。天見は写真をひらひらさせて言う。

 「追いましょうか」
 「でも」
 「いいんじゃないですかね。口実もできたことだし。見つからなかったらどうしようもないですけど、この辺でバス停って私らがきたとこだけじゃないですか。あそこ、一時間に一本しかバスきませんし」

 椿希はまだ迷っていた。これ以上彼女になんと言えばいいのか? この家に引き留めることは、彼女は望んでおらず、彼女のためになるとも思えない。別れのことばに意味はない。愛梨になにを差し出すこともできない。

 「後悔しますよ」

 天見はそれだけ言い、部屋の敷居を跨いで出ていく。清音は慌てて天見を追う。
 桜花に促す眼で見つめられ、ややあって、椿希も天見について部屋を出る。




 椿希は歩きながら、天見から受け取った写真をもう一度見つめた。
 男にしても、少女にしても、妙に存在感のある人間のように見えた。その気軽な立ち姿。写真から読み取れる人物像などほとんどないが、それでも、まるで旋盤に削られた鋼のような力強さが染み出しているように感じた。親戚だとしても、愛梨にも似ていない。ひどく不安定なところのある愛梨と違い、しっかりと地に足をつけているような空気がある。男は筋肉質に大柄で、いかにも頼りがいがあり、また頼られることにも慣れているような顔をしている。少女のほうは、まだ幼いとはいえ、なにか――見るべきものがあるように見えた。それがなにか? それ以上見つめてもなにもわからなかったが、それでも……

 椿希は何気なく言う。「この女の子、なんだか天見さんに似た雰囲気があるわね」
 「そうですか?」
 「なんて言えばいいのかしら。なんだか……なんというか……おなじ眼をしているわ。うまくことばにできないけれど、表に出ている光の色は違うのに、その奥……」
 天見は鼻を鳴らす。「そうは思いませんね。まだ遠い。魔女と野良犬くらい遠い」
 「え――?」




 幾重にも折り重なった雲、黒と白のまだら模様の空。糸のように細い小雨が降っている。傘は必要ないほどで、地面もほとんど濡れていないが、空気が濡れていた。風が強く、しばしば眼に水滴が滲んだ。
 その道路にはほとんど車が通っていない。見晴らしの良い、雲を抱く南アルプスの山脈まで見通せる崖際。安部川を見下ろす一角にそのバス停はあった。晴れていないぶん、数日前にきたときよりも世界が重く感じられる。
 待合室代わりの、黒ずんだ木の屋根の下に、愛梨は座っていた。

 椿希は彼女を見つけると、三人を置いてひとり彼女の許に近づいていった。言うべきことばは何一つ見つからなかった。愛梨のまえまでくると、力なく言う。「隣、いいかしら?」
 愛梨は彼女を見、そっけなく言う。「勝手にすれば」
 椿希は愛梨の隣に座る。

 待合場の突き出た屋根から、雨水が一滴ずつ零れ落ちている。ふたりのからだは濡れるほど濡れていないにしても、湿っていた。いつもより全身が重苦しく感じるのは錯覚ではなかったのだろう。風が吹き込むと、壁に反射して行き場なくわずかに渦巻く。

 椿希は写真を彼女に差し出す。「忘れ物よ」
 愛梨はその古い写真を見下ろす。思い出が思い出のままに映っている。
 「勝手に見て悪いとは思ったけれど。でも、大切なものなんじゃない? 引き出しの奥にそっとしまってあったから……」
 愛梨は否定も肯定もせずにそれを受け取った。

 どうしてまだこんなものを持っているのか、愛梨はひどく自分を愚かしく思った。いつまでも情けなく引き摺っているからこそ、今朝のようなくだらない夢を見てしまったのだろう。過去に囚われるばかりでただの一歩もまえに進めない。そうであるとわかっていても、愛梨はそれだけは捨て去ることができなかった。故郷を離れ、血縁から遠ざかり、破滅をもたらすたびに幾度となく過去を清算し続けてきても、そこからだけはまだ離れることができていない。愛梨にとって、それは過去ではなかった。現在進行形でまだ続いているものだった。彼の遺体は帰ってきていないのだから。彼は埋葬されていないのだから。

 「家族の写真?」
 「……いや。赤の他人だよ」
 「そう。でも、仲が良さそうに見えるわ。一枚の写真からでも結構わかることがあるものね。このひとたちは、あなたと一緒に映って、楽しげに見えるけれど」
 「どうだか。こいつらが考えてることなんか、私には一度だって理解できた試しがなかった」
 「あなたの故郷のひと?」
 「男はもうとっくに死んでる。女の子とはもう十年以上顔を合わせてもいない」

 椿希は小さく息を呑んだ。躊躇いがちに、「……地雷だったかしら」
 愛梨は自らを嗤うように唇を曲げる。「かもね。善良なやつだったよ、私と違って……。そういうやつから先に死んでくもんだ。何度も、忘れようと思った。忘れたいと思った。でもどうしても忘れられなくて、こんな古い思い出をまだ捨てられないでいる」とことん自虐的な気持ちになり、眼に憎悪を浮かべて呟く。「くだらない……」心が虚ろにざわめき、首を振って、「でも、丁度いい機会だ」

 その写真のなかほどを両手でつまみ、一息に縦に千切った。稲妻のような音を立てて両断された。泣き別れになったふたつの部位を重ね、もう一度千切った。さらに重ねて千切り、それを何度も繰り返し、手のなかで細かくなるまで続けた。
 ゆっくりと手を広げると、写真の残骸は風に浚われ、花びらのように舞い上がった。渦巻く風に震えて待合場から出ていく。雨を伴って湿り気を帯び、遠くへ掻き消えていく。すぐになにも見えなくなり、愛梨は眼を閉じた。それでもまだ瞼の裏側に残っていた。イメージのなかで、その像も何度も千切っていく。

 「死んだ人間の足首を掴んでいてもなんにもならない。わかってんだよ、そういうことは。わかってても手放せないからどうしようもないんだ」哀しむというよりも怒りに震えながら、愛梨は横の壁に拳を叩きつけた。「ちくしょう」

 そこから見える反対車線の道端にも、椿の花が群生していた。わずかな勾配となった坂道に、花が転がることもなく落ちている。風になぶられ、いまにも飛んでいきそうに見えるほど儚かった。雨に打たれて血を流すように濡れていた。

 「物心ついたときからなにもかもが憎くてたまらなかった。幸せそうな顔をしているやつらが。善人ぶってなにもかもに満たされているような顔をしてるやつらが。一皮剥けば途端にカスみたいな本性曝け出して自分の意にそぐわない側を廃絶させようとしてくるくせに、自分こそが正しいと信じて疑わないやつらが。人間が。私が――」
 「それがあなたの――万人に対する怒り?」
 「私の両親はその最たる例だった。私がほんの少しあいつらの気に喰わない素振りをするだけで、徹底的に矯正して、再教育させようとする。あいつらの望む子供でいるように強制されて、それが叶わないと見るや否や諦めたように放逐する。生まれついてのクズとして私を見る。あいつらはどこの誰が見ても正しいと思うような生き方をしていた。みんなが正しいと思う服を着て、みんなが正しいと思う振る舞いをして、みんなが正しいと思う生き方をしていた。それ以外の服はみんな理解不能の異国の服で、考えるまでもなく悪だった」ぎりぎりと歯を噛むように唇を剥いて――「物事を深く考えもせずすぐに正義の旗を振りたがる連中がいる。私はそんなやつらに囲まれていた」

 写真を千切り捨て、心のリミッターもどこかで途切れたようだった。感情が際限なく昂ぶり、愛梨は両手で顔を覆った。封じていたものが零れ落ちていく。軋むような音を立てて血管が収縮する。

 「あんたにこんなことを話してもどうにもならないけど。そう、そんなやつらばっかりだった。小学生のとき、クラスメイトを殴りつけたことがある。そのクラスはどこの誰が見てもなにもかもが巧く廻っている、誰もが理想に描くような素晴らしいクラスだった。なにひとつ問題はなく、みんなが優秀で仲の良い、みんなに好かれた教師が担任の……でも、それは……みんながが仲良しだったのは、汚れ役がたったひとりだったからだ。教師が好かれていたのは、その教師がなににも気づけない木偶の坊のクソだったからだ。あらゆる陰湿ないじめが、その子だけに集中して外に漏れなかった。その子をいじめてみんなが笑ってた。その子だけが気持ち悪がられていた。そうして、私だけが笑えなかった。クラスの輪から離れていくと、私のほうが――通信簿なんかに、協調性に難ありみたいなことを書かれた」
 「――」
 「いじめがエスカレートしていくたびに、クラスのみんなが仲良くなっていった。机に落書きされ、帰り道に待ち伏せされて袋叩きにされ、ありもしない事件を捏造されて悪者にしたてあげられた。そうまでしてもその子はなんにも弁解しなかった。できなかった。先に限界がきたのは私のほうだった。私が殴りつけたのは、そのいじめの主犯格で、みんなが正しいと思う学校でいちばんの優等生だった」嘲りを浮かべて言う。「後はお察し。悪いのは全面的に……私ってことになった。教師からも、親からも、非難轟々に……」嘲りを深めてさらに言う。「それが人間だ。そんなやつばっかりだった」

 嘲りの表情はほとんど苦痛を背負っている人間のそれだった。
 正しいものすべてに対する膨大な憎悪が顔を覗かせ、押し退け難い塊となって心を占有していた。間違っている者の最後の砦。

 「なにもかもぶっ壊したい。なにもかも。でも」愛梨は首を落とすようにうなだれた。「でも、もう、疲れた……」

 虚しさが去来するたびに空と最後に交わしたことばを思い出す。『悪意も敵愾心もみんなひっくるめて』。
 みんなひっくるめて、このどうしようもない自分を受け入れてくれた者は、他に誰もいなかった。あの男だけに関しては、最初から破滅の目的は明白だった。最初から曝け出していた。それでも、あの男だけは自分を否定したことは一度もなかった。ほとんど、一緒に苦しむような素振りさえあった。
 しかし、厳然たる事実として、もうあの男はいない。自分が壊すよりも先に、山に呑まれてしまった。

 「もう……」

 椿希はその消耗しきった横顔を見つめ、もどかしいような、狂おしいような思いに浸る。毒婦と呼ばれた女の苦しみ。果てのない荒野を見つめているような感覚がある。乾ききってひび割れた心の際を。




 バスが坂道を下ってくる。
 愛梨は立ち上がり、屋根の下から身を乗り出す。霧雨が全身を覆い、その姿が白くけぶる。そして何気なく反対車線の側道を見やり、ひとつの人影が坂道の下から登ってくるのを見つける。
 愛梨は硬直する。

 バスが扉を開く。
 しかし、愛梨が乗る素振りを見せないことを確認すると、扉を閉め、すぐに行ってしまう。

 「愛梨さん?」

 愛梨は胸に刃を立てられたかのように身じろぎしない。




 バスの待合場からやや離れたところに、三人はいる。桜花は首を傾げて言う。「センパイ。さっきのひと誰ー?」
 天見は鼻を鳴らす。「魔女」しかし、それもあまり適当なことばでないように思えた。それでさらに言う。「セックスに興味のない淫魔。性的衝動の代わりに山を求めるサキュバス。たぶんそれがいちばんしっくりくる。私の先生」
 清音も首を傾げる。「先生……?」




 記憶が風となって溢れ出し、吹き荒び、心の荒野を駆け抜ける。散らされた椿の花を浚い、柔らかい雨をもたらす。
 愛梨の表情が崩れていく。解き放たれたものを止める手立ては存在しない。唇が捩じれて曲がり、震え、視界が壊れていく。夢の意味。

 空は――櫛灘文太のただひとりの娘は――思いがけないものを見つけた顔で言う。「愛梨……?」
 愛梨はもがくように首を振る。そうして、ほとんど少女のような表情で、とうとう涙を零す。「せんせぇ……!」




 空は口を噤んだ。愛梨の声。愛梨の表情。それだけで、ほとんど神がかり的な直感から、すべての糸を繋げる。かつて愛梨が自分の父親にしようとしていたこと。天見の話したこと。
 ああ、そうか、と思う。
 頭を掻いて、彼女に近づく。愛梨はただ固まり、空を――空の背中にあるものを――震えながら見つめていた。

 「なんだかね。つくづくね。なんでこんな生き方しかできないんだろうね、あたしらは」
 椿希は愛梨と空を交互に見、戸惑ったように言う。「あなたは……?」
 空はただ肩を落とす。

 幼い少女に先祖返りしたように細かく震えている愛梨の肩を抱き、有無を言わせずに引き寄せ、そっと呟く。「ごめんよ。いまのいままで放っておいちまってさ。でも、あたしだって大変だったんだよ。自分の悪魔とずっと向き合ってた」
 そうして、椿希を見下ろし、許しを求めるというよりは淫らにさえ見える表情を浮かべて言う。


 「ねえ。この女、あたしがもらってくけど、いいね?」


 『ねえ。あんたのお父さん、私がもらっちゃってもいい?』


 椿希は変わり果てたような愛梨の様を見つめた。
 そして、魔法のように突然現れたこの見知らぬ女も見つめた。
 ただそれだけでわかることもある。写真に映っていた小さな少女。

 こんなことがあるのかと思いながら、椿希は諦めたように微笑を浮かべ、手のひらを上に向けて言う。「ええ、どうぞ。旅のお方。たぶん、それがいちばんいいことなんでしょうね。私の計り知れないところから結果がやってきたってことにはほんと憤慨しそうだけれど」
 空は表情を深める。「ありがと」

 そうして、なにもかもを壊されたようになった愛梨は、空に肩を抱かれながら坂道を下りていく。
 椿希は彼女らの姿が見えなくなるまで見送り、なにかひどく安心したような心地になって、そっと呟く。

 「なにかしらね。魔女かなにか?」




 泣きじゃくる愛梨が空に連れられて下りてくると、桜花はぽかんと口を開けた。
 「えっなにそれは」
 清音もまったく状況が理解できていない顔だった。

 空は一度立ち止まり、天見を見つめて、簡潔に問う。「どうして――そうだってわかったんだい?」
 「確信したのは写真を見たからですけど、空さんみたいな境遇のひとがそう何人もいるとは思えなかったんで。まあ違ってたら違ってたで別にどうでもよかったです」
 空は肩を竦め、苦笑する。「怖い子だね。まるで運命を繋げるみたいにさ……」

 小さな駐車場だった。彼女らの横に車が一台だけ止まっており、それが空をここまで送ってきた車だった。空を認めると、篠原美奈子が扉を開けて陽気な声を上げる。

 「おっ? なんでなんで? うわーっすっごい久し振り、愛ちゃんいんじゃーん!」
 「その呼びかたやめろぉ……っ!」
 「いーじゃんかわいーよー。なんだか知らんけどほら乗って乗って! 葛葉ちゃん疲れ切って待ちくたびれて寝ちゃってるし! 帰ろっか! えっと、姫ちゃん? だっけ? 今度あたしとも一緒に登ろうね! 杏奈ちゃんと一緒でもいいからさ!」
 「その呼びかた嫌いなんでやめてください」

 愛梨を車に押し込んで、自分も乗る直前、空は天見に振り返って言う。「天見」
 「はい」
 「……なんつったらいいのかわかんないけど。でも、ありがとう」
 「私なんにもしてませんが」
 「いいんだよ。そう言いたい気分なんだからさ」
 「愛梨さんも、空さんにありがとうって伝えてくれって言ってました。まあもう直接言えばいい話ですね」
 「……はは。直接は言ってくれないだろうなあ。じゃあ、また今度。せっかくこっちまできたのに、あんたと一緒に登れなかったのは残念だったよ」
 「いいですよ別に。山は逃げないんで」
 「そう」空は深く頷いた。そうして微笑を浮かべる。「そうだね。あんたの言うとおりだ」

 霧雨のなかを車が下っていく。
 天見は腰に手を当て、鼻から息を吐いた。肩の荷が下りたような気分だった。言いたいことは、直接言えばいいのだ。これからはそれができるだろう。

 清音はおずおずと言う。「あの、姫川さん……? 結局、どういうことなんですか、これは……?」
 「見たまんまじゃないですかね」天見は素っ気なく言う。「毒婦は淫魔に攫われた。残されたのは」霧の向こうを見上げて――「果てのない山並だけ」

 霧の上に、かすかに山の黒い影が見えていた。
 わずかに稜線だけを垣間見せ、そうであっても、山はただ山でしかなかった。憎悪の眼で見上げる者がいなくなっても、自分にはなんの関係もないかのように、ただ悠然としてそびえていた。在りし日とおなじように。ただ。
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2014/05/18 07:37 | Comments(4) | SS

コメント

ひとつの旅が終わったんだな、と読み終えて感じました。櫛灘家マジ似た者親子。
posted by NONAME at 2014/05/18 11:41 [ コメントを修正する ]
2部?お疲れ様でした。
月並みな言葉ですがおもしろかったです。
次回作もお待ちしております!
posted by NONAME at 2014/05/18 12:47 [ コメントを修正する ]
やっぱりそらとあまみが持っていきましたね。

今はただただ、お疲れ様でしたと言いたいです。
本当に、ほんとうに、ありがとうございました。

posted by 446 at 2014/05/18 17:39 [ コメントを修正する ]
>>1様
血が繋がってないほうが絆が強い気がしてなりません。そういう厨二病ry

>>2様
実は執筆的には第五部だったりします。椿希が登場してから五部だったんですがここからが長すぎた(汗

>>446様
とにかく空と愛梨が書きたかったのですが、迷走気味も否めずっ。小説は奥が深い……
こちらこそご読了ありがとうございましたっ!
posted by 夜麻産 at 2014/07/04 22:44 [ コメントを修正する ]

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