オリジナル。登山、微百合、日常のぐだぐだ。
書き溜めの霊圧が……消えた……?
エイプリルフールはスルーしました。文章書いて全力で嘘ぶっぱするのが生業なのにこれ以上どう嘘をつけと言うのだ。
とりあえず消費税8パーセント引き上げはマジファックだと思います。どうせ10パーセントまで既定路線でそこからさらに値上げするんでしょう? 税金にしろ原発にしろなんにしろ、どこかですっぱり切り替えないと行き着くところまで行き着きますよ、と。
あー、私もいい加減切り替えないと。
芦田は今年で二十八歳、空より二つ年下で、少年期は櫛灘親子のごくごく近所に住んでいた。芦田が櫛灘文太に誘われ、山を登るようになったのは十歳の夏、そのときにはもう両親に対して恐怖以外のどんな感情も持たないようになってしまっていた。常に能力以上のことを要求され、気の休まる暇は一瞬もなく、引き篭もりがちの臆病な少年に成り果てていた。たぶん、山という別世界を知らなければいまもそのままだっただろう。
その時期の子供にとってはたった二歳の違いが途方もない遠い差に感じる。彼が初めて空を――年上の少女を――見たとき、空は既にいっぱしのソロ・クライマーだった。遥かに遠い存在であり、手の出せないところにいる侵せざる女だった。当時は語彙が少なすぎて、『空姉』を形容することばを持たなかったが、いまならどうにか表現できる――
セックスに興味のない淫魔。性的衝動の代わりに山を求めるサキュバス。それがいちばんしっくりくる。
足柄下郡湯河原町、幕山公園。駐車場。空が帰ってくると、芦田は愛車のタイヤを蹴飛ばして言う。「水無さんは?」
「トイレ。すぐ戻ってくるよ」
「ああ、そうかよ。ご苦労なこった。最近のてめえはなんだ? 姫川さんやら杏奈ちゃんやら侍らせて槍だのなんだの登るのに飽き足らず、また別の女の子を誘い込んで登らせる。どういうつもりだよ? 山でハーレムでも築く気か、ええ?」
「別にあたしが誘ったわけじゃないよ。あの子がやりたいっつったから、ザイルの結び方を教えてやってるだけさ。あたしから登ろうなんて、畏れ多くて言えるもんじゃない」
「真衣はてめーに惚れてた。知ってたか、そのこと?」
空は噴き出した。「なんだいそれ?」
芦田は鼻で笑った。「恋慕じゃなくてな……たぶん……人間的に。気持ちはわかるんだがな。てめーが登ってるとこ見りゃ……てめーは性的な魅力なんか一ミリたりともありゃしない女だが、登ってるときだけは話が別だ。それは、てめーの親父殿や篠原さん、美奈子さんなんかにもあった。けどおまえにはどこか一線を画すところがある。言っとくが褒めてるわけじゃねえからな」
「わかってるよ」
『空姉』に対する恋慕めいた気持ちは、幼かった頃の芦田にもあるにはあった。恋慕めいた、というものであって、恋慕そのものではなかった。遠い山脈を見上げて感じるような途方もない憧憬。それに準じるひどく人間的で単純な想い。もうひとりの父であり、師であった、櫛灘文太に対するのと同じベクトルの感情だった。
芦田にとって、山は、ある意味で空が山に求めているもの以上に大切な存在だった。現在の芦田という人間の大きな部分を占有していた。空が山に登るのは、本能よりもさらに深い部分にある、そこにあって当たりまえ、それがなくては生きていくことさえ困難になるという類のものだ。だが芦田にとって山は、自分を救ったものだった。世界の打擲から護ってくれ、引っ張り上げてくれたものだった。
芦田は俯いて言う。「……わかってんだがよ」
「なにが?」
「もうザイルを使うような登山はやらねえなんて言っても、どこかでまた登りに行かなきゃ、いつか潰れちまう。おれにとって山は自分のすべてを賭けて挑戦するところじゃない。てめえみたいに自分のすべてを投げ打って居座るべきところじゃない。けど、てめえや、櫛灘さんとは別のベクトルで、おれは山を必要としてる」
空は微笑んで言う。「そうだね。そういう愛し方もあるんだろうね」
「櫛灘さんがあの山のてっぺんを見せてくれたおかげでおれは生きている。それは他の誰も教えてくれなかったことだ。たぶんおれはいずれ生まれてくるおれの子供に同じ光景を見せなきゃならん。おれって人間は他の誰かに与えるものをなんにも持っちゃいない。でも、山にはある。おれが子供を育てることができなくても、山は差し出してくれる。望めば望んだぶんだけ……」
そこで葛葉が帰ってくる。初めてのクライミング体験に少し頬を紅潮させながらも、しっかりとした足取りで、ふたりの元に歩いてくる。芦田は顔を上げ、その美しい少女を見て言う。
「楽しかったかよ。ええ?」
葛葉は苦笑して、「はい」
「ふん。そいつぁなによりだ」
芦田が運転席に潜ると、空は葛葉に笑いかける。
「クライミング技術は絶対に必要ってわけじゃない。日本の山は、一般縦走路が充実していて、山頂に至るまでの道程はいくつもある。登るだけなら、ハイ・グレードのテクニックはいらないんだ。でも初歩的な技術を知ってさえいれば、選択肢が広がる。いざというときに役に立つ。もちろん金メダルまで突き詰めようとすればどこまでも突き詰められるけど、ロック・クライミングは切符みたいなもんだ」
「姫川さんは――」
「天見は一般縦走路よりもヴァリエーション・ルートを好むところがあるね。同じ山を、様々な尾根や壁から、何度も登って味わい尽くすほうが性にあってる。そういうクライマーはクライミング・テクニックを向上させる必要性がある。でも、あんたはそうじゃない。無理して、捻くれた困難なルートを辿ることはないよ」
葛葉は肩を落とす。「そうですね。私は山頂を踏むだけで満足しちゃうかも。でも、いろんな山をやってみたいって気持ちはあります」
「ピーク・ハントも立派な登山さ。なんだったら、かの高名な深田久弥さんが選定した日本百名山を、順繰りに登ってみるって手もある。私も結構やってみたから言えるけど、とてもいい山ばかりだよ。困難で登りごたえのある山から、易しくて誰でも登れる山まであるけど、なんといっても外れってやつがない」
深田百名山は、3000メートル級の日本アルプスだけでなく、日本の北から南まで広大な山域に分布している。旅路を思い、葛葉はちょっとわくわくした。
いつかの夜のように、椿希は車のドアを蹴り開け、飛び出し様に叩きつけるように閉めて、運転席の男に向けて中指を突き立てた。それだけでは収まらず、親指を下に向けた。そうして言い放つ。
「父に伝えておきなさい。ついでに、母にも」不遜そのものの態度で――「私をどうにかしたければ、あなたたちが直接こちらへきなさいな。つまんない男を寄越すんじゃなく。話しててなんの興味も引かれない人間に時間を割く趣味はないのよ」
桐生本家の使いの男は椿希を睨んだ。しかし、所詮は操り人形に過ぎない男に迫力もなにもあったものではなかった。椿希は軽く首を傾け、挑むように眼を眇めて見返した。
「思い知ってるでしょうが。私は誰の思い通りになるつもりはないし、誰にも操られるいわれはない。反逆心。それそのものが私って女よ。それがわからないから、あなたたちはあなたたちでしかないの」
そこでにっこりと笑ってみせ、続けて言った。「でも、安心なさいな。近いうちに帰るつもりよ。けどそれは、あなたたちと話すためじゃなく、愛梨さんと話すため。ほんの少しでも理解できた? だったら、さっさとおうちにお帰り、ポチ。それともまだやりあいたい? もっと殴り合ってみたい?」
椿希が踵を返すまえにアクセルが踏まれ、テール・ライトが逃げるように夜を遠ざかっていった。
椿希は溜息をついた。
娘に直接物を言おうとしない両親に対して、率直な苛立ちがある。自分がああいうタイプの人間の血を引いているという事実。従妹のシズが羨ましかった。昔から感じていたことだったが、叔父は、あの家に生まれたのが不思議に思えるほど善意の塊のような人間だった。それはこの分家に移ってきてから余計に感じてきており、それがためにますます彼らに対して悪いような気がしていた。
ないものねだりだとわかってはいる。
部屋に戻ると、ちょうど、天見が与えられた仕事を終えて、待っているところだった。やはり例の、媚を売るところのない石のような無表情を浮かべており、それでもぺこりと頭を下げた。椿希はようやく相好を崩した。
「……へつらいのない子供を見るとなんだか安心するわね」
「はい?」
「なんでもないわ」椿希は手をひらひらさせて言う。「ただ、ちょっとうんざりしちゃっててね。でも、もう少しだけうんざりしてみようと思うわ。しばらくここにいて頂戴」
天見は首を傾げる。
「なにをすればいいですか?」
「なにもしなくていいわ。ちょっと、電話をかけてみるつもり。父の愛人さんにね。ここにいてくれるだけで助かるから」
「……」
「ひとりで頑張るのってしんどいのよ」
椿希は携帯を取り出し、電話帳から番号を呼び出す。ひとつ息をつき、天見を視界に入れながらコールをかける。
ややあって、「――愛梨さん?」
椿の花。
地べたに転がる椿の花。斬り落とされた首。グランドフォールしたクライマー。
夜の下、愛梨は道を歩いている。その忌々しい花が幾重にも折り重なって足元に転がっている。噎せ返るような香りが立ち込め、視界は白く霞がかり、ほとんど現実のものでないような空気に満ち満ちている。愛梨はまだ過去を歩いている。
転送された電話が鳴り、携帯が懐で震える。ままならない指を差し入れ、画面を見下ろすと、椿の花から与えられた女の名が表示されている。見つめ続けると、あらゆる想いが回帰し、伏せた瞼の下で瞳が震える。
愛梨はすべてを破壊したかった。打ち壊し、叩き伏せ、破滅させたかった。それはもはやどこから湧き出てくるのかもわからず、なにを始まりとして生み出された衝動なのか、彼女自身にさえもうわからないほど遠く近しいものだった。身の内に潜む悪魔。嘘偽りのないところにある救い難い律動。
顔に傷をつけられたあの日から、指の震えはもう止めようのないところまできていた。けれどそれは、表層に出てきたものにすぎないとわかっているのも愛梨だった。ずっと、あった。ずっとずっとすぐそばにあった。愛梨はようやく携帯の画面に触れ、耳に押し当て、その声を聴く。
『――愛梨さん?』
息が詰まる。視界が揺らぎ、破滅の手が自分へと帰ってくる。
「椿希……」
その女に刻まれた顔の傷が疼く。
それ以上に、そのさらに昔、あの親子に刻まれた傷以上の傷がうねる。
誰の思い通りにもならないもの――
愛梨は夜空を見上げ、眼を細め、ほとんど睨むようにした。
あの男は、娘の名について一言だけ口にした。その由来。“世界でいちばん美しいものの名を”。そう、たしかそうだった。それを聞いて以来、空を見上げるたびにあの少女のことを思い出す。思い出してしまう。足元に椿の花が舞い散り、夜の空の下、眼に見えないものすべてに包囲されている感覚がある。どうして……と思う。どうして、思い出はいつも私に対峙してくるのか。放っておいてくれないのか。
携帯の向こう側で息をついたような間があり、声が遅れてやってくる。『愛梨さん? どうか切らないでいてほしいんだけど。……そこにいる?』
愛梨はどうにか言う。「ここにいる」
『そう、ありがと。なんて言えばいいか、私もちょっとわからないんだけどね。まあ、お久し振り。元気にしてた?』
「元気だったことなんか生まれてこの方一度もない」
『あらそう。それは大変ね。その家、窮屈なんじゃないかと思ってね……まあ私が言えることじゃないけれど。顔の傷、その後の具合はどう?』
愛梨は鋭く言った。「なんの用?」
『用? そんなもの特にはないわ。ただ身内がどうしてるか、気になっただけ。なにかおかしいかしら』
「私はあんたのは身内じゃない」
『やあねえ。取り付く島もない。でも、こうして話してくれてるだけでありがたい、か。私もね、背中の傷、だいぶよくなってきたから、そろそろ一度帰省しようかと思ってるの。その事前連絡』
またこの女と向かい合わなくてはならないと思うだけで心の一部が軋みを上げる。愛梨は深く息を吸い、吐き、秒刻みにずたずたになっていく自分を感じながら、喘ぐように言う。
「あんたの名前が嫌いだ」
『……それは名付け親に言って頂戴な』
「椿の花は――」
『率直に言って、私も別にこの名前が気に入ってるわけじゃない。でも、他にいい名前があったかっていうと、あんまり想像もつかないわ。なんだかどうでもいいことを話してるわね。とにかく、そういうことだから、今度直接会ったときにいろいろ話しましょう? 積もる話ってやつ』
「……」
『ま、そのときにはよろしく』
通話が切れ、愛梨は腕を落とす。力なく垂れた手のなかで携帯の明かりも消える。
椿希はまた溜息をつく。そのあとで天見に眼をやり、力なく微笑んで言う。
「自分の名前は好き?」
「はい?」
「天見……ね。あんまり聞かない名前だけど、由来はなにかしら」
「父方の曾祖母の名からだそうですけど。別に、好きでも嫌いでもないです。でも、最近はそれなりに思うところはあります」
天見は眼を細め、あらぬ方を見て言う。
「山に登るようになってから、空を見る機会が増えた」
空を見、その名の女とともに登るようになってから――
葛葉が偶然、空と出会っていたことを、天見はその週末に初めて知った。
丹沢広沢寺、弁天岩。天見が最初にロック・クライミングに触れたその岩場で、空と天見は久し振りにふたりで登っている。もともと人気のゲレンデだから、ルートというルートにトップロープが簾のように張られ、片っ端から登るというわけにはいかなかったが、そのおかげで会話の機会が増える。葛葉のことを聞いたとき、天見は、なんとも言えない心地になった。
「水無先輩が本気で取り組んだら、私なんかすぐに追い抜かれるって気がする」
「そうかもね」空は微笑んで、「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。山なんかいろんな楽しみ方があるもんだ。天見、あんた最近、杏奈と一緒によくクライミング・ジムに通ってるんだろ? そういう技術は積み重ねだ。でも、葛葉はむしろ外に出たいだろうよ」
「まあ……」
「杏奈と奥穂南稜をやっつけたとき、どう感じた?」
問われて、天見は眼を閉じた。
あのヴァリエーション・ルートはまだ鮮烈な記憶として脳裏に刻まれている。一般縦走路からの最短の道ではなく、わざわざ困難でザイルを必要とするルートを選び、セカンドだったとはいえ、脚だけでなく四肢のすべてを使って雪壁を登った。いま現在の天見が持ち得る技術を総動員した登攀。
そうして、率直に言う。「いままででいちばん楽しかったです」
「ああ、そいつはいいことだ。いまのあんたにゃ難しかっただろうけど、だから楽しいっていうところがある。わざわざそういうところから登るんだ。ただ山頂を目指すんじゃなく、より困難で、美しいルートを選ぶ。そういう価値がある。あんたはきっと、そのほうが性に合ってるよ。もちろん、それだけに拘るんじゃなく、いろいろチャレンジしてみるのがいいと思うけどね」
「水無先輩は……?」
「ピークハントに興味があるみたいだったね。あんたが丹沢でやったような全山縦走を、日本アルプスでやってみるのがいいかもしれない。何週間も山に篭もって、尾根から尾根へ、延々と歩き続ける――学生なら夏休みなんかでまとまった休みを取れるから、手段は容易だ」
天見は想像してみた。それもまたなかなか楽しそうだと思う。しかし、せっかくクライミングなんぞやっているのだから、縦走だけでなく登攀も交えてみたいという気持ちもある。
想像のなかで登る天見から視線を離して、空は少しのあいだ、ぼんやりと遠い眼をして岩壁を見つめた。空と天見だけでなく、何人かの女性が男性クライマーのなかに交じって登っていた。だいたいが中年女性だが、杏奈ほどの少女もいる。ここ数年で、女性クライマーの人口が増えたような印象もある。山で擦れ違う同性も増えた。
思考は遠い。ややあって、空はふと言う。
「昔な」
天見は顔を上げて空を見つめた。
「山を、哀しい眼で睨むひとを見たことがある。親父の葬儀のときだった。教師だった親父の教え子で、あたしたちとそれなりに親しくしてくれた女だったんだけど、もちろん山とは無縁の、普通のひとだった。彼女にとって、親父を奪っていった山は――」
「空さん?」
空はふっと微笑んで、天見に眼を戻す。
「……いや、なんでもない。ちょっと思い出しちまってね。あたしにとって山はお楽しみだけど、苦い記憶もあるにはある。こうして山の場に戻ってきても、まだしこりみたいなのはあってさ。まだ過去を全部清算できてないって感じがする。でも、ちょっと救われてるあたしもいるんだ。あんたや杏奈や、葛葉や……山と前向きに接してくれる女を見てるとね。
悪い、変な空気にしちまった。登ろうや。ちょうど、端のルートが空いてるみたいだし」
「はい」
「ああそうそう……葛葉と今度、南アルプスへ行ってみようって話になってる。来週だけど、葛葉には学校を休んでもらって、五日間くらいね。天見はどう? 予定が空いてるんなら――」
天見は肩を落とした。「すみません。ちょうどそのとき、たぶん別ごとで静岡に行ってると思います」
「ありゃ残念」
「でも、下山して、もし近くにきてたら会いにきてください。私も南アルプス、どこかやってみたい。北岳バットレスとか」
空は声を上げて笑った。「そいつはいいや。なかなか楽しそうなところの名前を挙げてくれるね」
おかげで闇黒片を読み直すいいきっかけになりましたけど。がんばる絣ちゃん可愛すぎてにやける。
しかし本編、空一族の増殖が止まんないですね。いいことだ。
理解者(ホントに分かってるかは別として)がいることは幸せなことです。