オリジナル。登山、微百合、日常。
特にこちらに書くことないのででは続きどうぞっ!
椿希の実家、桐生の本家は静岡県にあるという。静岡? それは南アルプスの地だ。興味を覚えると、天見は早速ガイドを買って、一通り読み漁ってみた。
南アルプス――赤石山脈。諏訪湖を起点とする天竜川と、日本三大急流のひとつである富士川に挟まれる、南北百二十キロ、東西四十キロに及ぶ、日本有数の山脈で(当然だ!)、最高峰は標高3193メートルの北岳。北岳は同時に富士山に次ぐ日本第二の高峰でもある。北岳を含めて九座もの3000メートル峰――付属峰も含めれば十四座――が連なり、十座もの山が深田百名山に選定されている。静岡、山梨、長野(また長野県!)の三県に跨っており、北端は鋸岳、南端は光岳、有名な峰は鳳凰三山や仙丈ヶ岳、塩見岳、赤石岳などが挙げられる。アプローチが比較的楽なのもポイントで、シーズン中には甲府駅から広河原まで直通のバスに乗ることができる。
気候は太平洋側の影響を受け、北アルプスに比べて冬季の積雪は少なく、夏季の雨量が多く、森林限界も高めで、2600メートル付近まではシラビソやツガなどの常緑性針葉樹を見ることができる。北部、中部、南部と細かに特徴を明記すればキリがないが、どこにしろやはり六月の中旬までは登山道に雪が残っているようで、もしその季節に登ろうとすれば、最低でも四本爪の軽アイゼンは必須だろう。
静岡から登るならば――JR東海道本線から大井川鉄道を経て、そのあたりからバスでアプローチすると考えれば、光岳、聖岳、赤石岳、荒川岳あたりになるのだろうか。土地鑑がないからわからないが、そこから北は、甲府駅からのほうが早いように思えた。バスの本数は少ないが光岳の東にある畑薙湖まで静岡駅から直行バスが出ている。とはいえ山自体がかなり深く、主な山はどれも二泊三日以上の日数を要する。椿希についていったもののついでというには、なかなかヘヴィな山行になってしまうだろう。
(ガイドを読むと無闇にわくわくしてくるな。でも、丹沢と違って単独はさすがにまずいか。大無間山や青薙山くらいなら、なんとかなりそうだけど……)
しかし、差し当たっての目標にはなるだろう。ひとまずこの山域を目指してトレーニングしてみるというのが、良さそうな感じがした。想定ができればモチベーションも上がるというものだ。
(クライミングって考えると、北岳バットレスなんかが有名だけど、どうなんだろう。篠原さんは登ったことあるのかな。空さんは経験ありそう)
まだ見ぬ山域。そう思うと、ひどく高揚してくる自分が現れるのを、天見は感じた。
「南アルプス」と空は言った。「あそこにゃ、あんまりいい思い出がない。いや、あるにはあるんだけど、よくない思い出のほうがちょっとばかり多いって意味でね。あたしは長野出身なんだけど、北アルプスや八ヶ岳のほうが近くてそっち行ってばっかりだったってこともあって、機会がちょっと少なめでね。いいところだよ? でも、あたしが行くと雨ばっかりなんだ」肩を竦めて――「北岳バットレスをやったとき、天気図も天気予報も良かったのに、途中で土砂降りになっちまって。たしか、第四尾根だった。取り付きからもうひどくて、“マッチ箱のコル”に懸垂下降したときには、ちょっとした嵐になってたね。岩は濡れて滝みたくなるわ、濃霧で視界が真っ白でルートファインディングもしくじるわ、下着までずぶ濡れになっちまって夏なのに物凄く寒くて、散々だったよ。地蔵岳の、オベリスクのときもそうだった。簡単なクライミングだったはずが、鳳凰三山についた途端、ザーザー降りになって、唖然としてるうちに暴風まで吹いてきた。そうなるともうテクニック云々はどっか吹っ飛んでしまって、気合と根性が幅を利かせる、ゴリ押しの世界になる。まあ最高のトレーニングにはなったけどね」
丹沢、塔ノ岳山頂。
天見と以前登ったところで、ちょっとしたロータリーのように広い面積に、尊仏山荘、廃墟となっている日の出山荘もそのままだったが、天見と登ったときと違って、もう雪はなく、登山客も多い。晴れているが雲は重く、降雨になりそうな気配があったが、しばらくはまだ大丈夫そうだった。
空は煙草を咥えて訊く。「一服してもいい?」
「ええ、どうぞ」
「ありがと。
なんだっけ? そうそう。とりあえず3000メートル経験してみたいなら、南アルプスはいいところだね。天見とは北アルプスの穂高に行ったけど、これからのシーズンあそこは大人気で、新宿からの高速バスも、一ヶ月以上まえから予約が一杯になっちまう。北岳。そこなら、甲府駅からバスが出て、広河原まで直通だから、悪くない。電車を考えても、松本と甲府じゃだいぶ違うしね。
で、どうだい?」
「私でも行けますか?」
「それはあんた次第。でも、雪さえなきゃ、ある程度の体力と根性があればなんとかなるもんだよ。技術的なもんはあたしがフォローできるし」
空の向かいにいるのは、葛葉だった。根っからの登山者という格好ではなく、バスケの練習に使うのと同じジャージで、ザックと登山靴だけが空から借りているものだった。汗ばんで、慣れない行為に戸惑っているようだったが、なんにせよバテずに登ってきたのだ。
紫煙を吐き出し、空は続けた。「あたしの見るところ」にやりとして――「あんたは、そうだね、いわゆる天才ってやつなんだろう。初めての登山で、このバカ尾根をなんの弱音もなくやり遂げられることもなかなかのもんだけど、それ以前に、歩き方からなにか常人とかけ離れてる。まるで下界を歩くのと同じように、バランスを崩すってことがなかった。それはわかりにくい才能だけど、得難いものだ。同じ距離を歩いても消耗がまるで違う」
「新体操やってた経験ですかね」
「そうかも。新体操と登山じゃ要求される能力はまったく違うようで、実は結構共通してるのかもしれない。バランス感覚。そう、それがいちばん大事だ。それ以前に、あんたにゃ運動系全般に素質があるのかもね」
「褒めすぎじゃないですか?」
「褒めて伸ばすタイプなんだ、あたし。たとえば天見。あの子にゃなにより、苦痛を耐え忍ぶ能力がある。それはあらゆる試練をまえにしたとき、歯を食い縛って爪を剥いて、凄まじいほどの闘志を燃やして立ち向かう力だ。エンデュアランス。それは場合によっちゃどんな天賦の才よりも強力極まりない武器になる。特に山に関しちゃ、何十年もやり続けることが重要なところがあるからね」
「よく見てますね。たしかに、姫川さんを見てるとそんな印象を受けます。ときどき羨ましくなるくらい」
「あたしもさ。あたしに天見くらい強烈な反逆心があれば、いっときにしろ山から離れることはなかったかもしれない」
そう、長い人生のなかで、それこそがなによりも必要なものだったのかもしれない。いまの空にはそれがわかる。なによりも続けることが困難なのだ。あらゆる試練、あらゆる困難、それらすべてに抵抗するための強い意志。それが足りなかったからこそ、空は山を追いやられ、自分からなにより大切なものを奪い去った。
そこから得たものはなんだったのか? 自分を改めて見つめなおし、倒れ伏したところから立ち上がり、無様ながらも舞い戻ってきた。その経験。それが価値あるものかどうか、自分では判別できない。しかし、天見を見つめて得たものは確かだった。獣の眼。かつて砂漠で向き合ったコヨーテと共通する、不可解さと不気味さ、全世界に寄り添うことなく反逆してみせる孤狼の佇まい。破滅を踏み躙って突き進む者の眼。
かつて誰かが定義したアメリカ人の魂がある。あれはフロンティアのガン・マン魂だったか? 堅牢、ストイック、独立独歩、そして殺意、だそうだ。日本人に置き換えるとなにになるだろう。武士道とは死ぬことと見つけたり。雨にも負けず風にも負けず。
「そう、あんたにその気があるなら、南アルプスもいいかもね。雪解けの時季だ。梅雨で、ただでさえ雨の多いあの山域はますます雨の山になるけれど、それもまた山だ。ただかなり時間がかかるから、学校はちょいとズル休み、ってことになるだろう。六月は連休もないしね……」
「いままで皆勤賞だったんで、ちょっとくらい休んでも文句は言われないと思います」
「そいつはいいね。じゃあ機会を窺って、ちょっとばかし我儘といこう。あたしはいつでもいいぜ。気楽で将来性のないフリーター女だ」
(んん――北岳バットレス)
天見はさらにアルパイン・クライミングのルート集を買い求めて、引き続き資料蒐集に当たった。不登校だが、学校の勉強は余裕も余裕、片っ端から暗記するだけで済んでしまうのでスルーした。ルート集はA4サイズの、少し薄いがカラーの充実しているタイプで、北岳だけでなく、穂高・剱岳・谷川岳をはじめとして、甲斐駒・鹿島槍・錫杖・黒部・八ヶ岳など、エリアは多岐に渡る。クラシック・ルートがメインだ。
北岳バットレスはアルパイン・ルートとして非常に人気が高く、北岳自体が日本第二位の高峰というだけではなく、高低差は約六百メートルにも及び、東面であるために陽が当たって明るく、頂上に抜けるというシチュエーションも恵まれている。バットレスとは英語で控え壁、元々は建築用語で、主壁に対して柱の役割として直角に支える補助的な壁のことを指す。北岳バットレスには絶壁を支える岩稜がいくつも伸びており、たしかにぴったりな名称のように思えた。命名が明治四十一年というから、なかなか古い歴史のようだ。
(中央稜に、第一、第二、第三、第四、第五尾根。すごいな、六本も尾根がある。これだけロングルートが引ければ、それは人気にもなるよな)
写真で見るだけでも、素晴らしい威容だ。なだらかな曲線を描く山頂に向かって、剥き出しの灰色の岩壁が、屏風のように広がっている。森林限界を越えたところで、岩筋が影を抱いて明暗を刻み、靄の漂う谷間まで一直線に落ちている。比較的近くに、こんな山があるとは。そしてこんなところを登るとは! 昔の人間はまったく素敵なことを思いついたものだ。
(技術的には入門向け? 3000メートルのゲレンデといった趣? 初級者の私にはうってつけだ。いちばんポピュラーなのは、第四尾根か。ルートがはっきりしていて、岩も安定している。もちろん、素晴らしい眺めなんだろうな。そこらじゅうにテラスがあって体力や精神力も温存できる。取り付きから、一、二……八ピッチ。いちばん難しいグレードでもⅤで、セカンドならこれくらいは簡単だ。リード、してみたいけどな……)
見るからに楽しそうなルートだ。なんといっても、そのまま北岳の頂上に登れてしまうのが大きい。一般縦走路より、遥かに興味深いじゃないか! モデルになっている人物はどの写真でもにやりと不敵な笑みを浮かべていて、空と同じように手馴れ、熟練している老練なクライマーなのだろう、心から堪能している様子が伝わってきた。自分もこうありたいものだ。
どこを起点にすべきか? 白根御池小屋。シーズン中ならば甲府駅から広河原まで直通バスが出ており、小屋まではコースタイムで三時間。テントサイトもきちんとあり、北岳の標高を考えれば近すぎるくらいだ。アプローチは、大樺沢二俣からバットレス沢を詰め、そこから下部岩壁を数ピッチ。こちらもいくつかルートを取れ、格好のウォーミング・アップとなってくれるだろう。下りは、北岳から真っ直ぐ白根御池小屋に戻り、およそ二時間といったところ。すべて合わせてきっちり一日分消費することになる。
(空さんなら基部でビヴァークして、何日かかけて、何本も登るかな? いや、落石の危険性もあるようだから、あんまり得策じゃないだろう。危険と困難は違う。そういうのはできるだけ避けたいから、やっぱり白根御池小屋でテントを張るのがいちばんなんだろうな)
北岳。
日本第二位の高峰。一概に高きは貴しとは限らないが、なんにせよ高いに越したことはない。なんといっても、いま自分の到達した最高峰は奥穂高岳の3190メートル、そこよりも二メートル高いというのだ。経験しておいて損はないだろう!
桐生家に『出勤』すると、いつもと違い、椿希が道着に着替えていた。鞘に収められた刀を手に持っており、天見は反射的に緊張したが、椿希は軽く微笑んで、「模擬刀よ。刃物じゃないわ」と言った。
「天見さん。道場まで来て頂戴。軽く振っておきたいのだけれど、シズが拗ねちゃって練習相手がいないの」
「はい。でも私そういうのできませんけど」
「突っ立ってるだけでいいわ」
夜の暗がりに小雨が細く降っていた。庭はぬかるみ、一歩進むごとに引き込まれるような感触が足裏に伝わる。県道は遠く、車の気配もなく、ひどく静かな世界のなか、虫の音が散発的に響いている。
道場に立ち入るのは初めてだったが、イメージよりもだいぶ広く、天井が高く、畳を変えたばかりなのかどこかいい匂いがした。神棚のまえで礼をする椿希の見様見真似をする。その後で、素振り用の木剣を手渡された。
「椿希さん?」
「頭の上で構えていればいいわ。剣道くらいは知ってるでしょう?」
「まあ……」
打ち込み稽古でもするつもりなのか。天見はとりあえず適当に、椿希と向き合うと、木剣を両手で持ち、頭の上で横に構え、両足を肩幅に広げて防御の姿勢を取った。
椿希が細く呼吸をするのを見る。
ふと、その顔、人を喰ったような表情の底に、いつもと違う、何事かを考えているような色を見つけて、眼を細める。稽古というからには、当然、真剣になるところもあるだろうが、それとは違うような印象があった。バスケ部で、練習に臨む女とは何度も向き合っている。紡、氷月、渓、葛葉……しかし、いまの椿希が浮かべている表情は、彼女らの真剣さとは色が異なっていた。眼のまえの相手に没頭する動きではなく、むしろ、違うことに気を取られているような顔だった。
(……?)
少し疑問に思う。練習するのじゃなかったのか?
そして、椿希の腕が動く。
柄に手をかけ、鞘から抜き放ちざまに、腕が跳ね上がった。一瞬の動きに、模擬刀の刃が銀色を引き摺って翼のように広がった。そう見えたときには、木剣と模擬刀の刀身が蛇のように絡み、天見の手から木剣がもぎ取られて、腕に痺れが走ると同時に頭上が激しい音を立てていた。飛び上がった木剣が天井に激突していた。
それほど軽く握っていたわけではない。しかし、問答無用で奪われたような感触があった。はっとした瞬間に、模擬刀がくるりと回転し、天見の眼前に稲妻のような速度で振り下ろされていた。
「――」
反応するよりも先に天見の頭の上で寸止めされていた。刃とのあいだには紙一重よりも薄い隙間しかなかった。
「……」
そのまま静止する。椿希の眼。氷のような色で天見の眼を見つめていた。足は、爪先が触れ合うほど近く、しんとした道場の音が、張り詰めている。ややあって、天井から落ちてきた木剣が畳に跳ねて鈍い音を立てた。天見の腕はまだびりびりと痺れている。
一連の動作が角のない、留まるところのない動きだった。何度もやっていることなのだろう、と天見は冷静に分析する。空や杏奈のクライミングと同じように、何年も蓄積して到達したような、柔らかな激しさの印象的なムーヴだった。アスリートの滑らかさ。しかし、どうして椿希はそんな眼をしているのか――
「すごいですね」
天見は無感動に言った。
椿希は模擬刀を鞘に収めた。その収める動作すら気品があり、戦場の技術ではなく、居合というひとつの洗練された演技、舞のような雰囲気があった。後退りして、礼をする。そして袴の裾を払って、正座し、刀を膝のまえに置いた。
ややあって、椿希は言う。「実は」
「はい?」
「本物の刀なのよ、これ。実際にひとが斬れる」
「……。はあ……」
「って言ったら、天見さん、信じてくれる?」
天見は首を傾げた。「さあ。本物って、見たことないんで。よくできてると思いますけど」
「そう、実際よくできてる。外見だけじゃ、素人目にはなにをどうしてもわからないくらい。で、もしほんとうに刃があって、天見さんにあと数ミリ食い込んでたら、頭の皮がふたつに割れてた。そう想像すると、どう? 怖くならない?」
天見はやはり感情を動かさずに言う。「そうですね」
「……怖そうには見えないわね。恐怖って、感じたことある?」
「そりゃ、ありますよ」
「どんなときに?」
話の意図がいまいち掴めなかった。天見には、その刀が本物かどうか判別がつかなかった。リアルからは程遠い世界。それがいま、自分を傷つけるところだったのだ――と思ってみても、雲のように霞がかった心に訴えかけてくるものがなかった。
どんなときに恐怖を感じるか? 自分の感覚が、一般からそれほど遠く離れているとは思わないが。最近いつ恐怖を感じた? 順繰りに思い返してみて、ゴールデンウィーク、杏奈と登った奥穂高岳南稜のヴァリエーション・ルートが思い起こされた。
「雪の稜線……」と天見は言う。「雪壁。岩峰。ザイルを繋いで、頼りにならない足場を踏んで、登っているとき。アイゼンで氷を踏んで、ふと足元を見ると、すっぱりと切れ落ちた絶壁。限りない視界。確保されてるとわかっていても、墜ちれば、そのまま下界まですっ飛んでいきそうな遠い世界。あのときはなんの掛け値もなく怖かった。神経が削げ落ちてくほど集中して、それでも我に還ると、信じられないほど高いところに立っている。保障されない安全が私の身の回りを取り囲んでいる」
椿希はくすりとする。「あなたはクライマーなのね」
「でも、恐怖だけじゃなかった。素直な感動があった。それは、もっとまえに、槍ヶ岳を登ったときにもあった。たぶん私にとって、怖れは感動と直結するものなんだと思う。
で、だからなんですか?」
「刀で斬りかかられたとき、どういう反応をするかなと思ってね」椿希は丁寧に頭を下げた。「意地悪してごめんなさい」
「……別にいいですけど」
「ひとを殴ったことはある?」
予想外のことを問いかけられ、天見はますます眼を細めた。そして、いまだその感触が鮮やかに残る拳を握り締めた。クラスメイトに馬乗りになって何度も殴打した黒い記憶が氾濫した。そのときの感情も。
「……ありますよ」
「あら、それは予想外。習い事で、柔道や空手なんかは、やってなかったのよね?」
「良い子ってやつじゃなかったんで」
「そう」
椿希は考え込むような仕草をする。
「だったら、実際に他人を殴ったときの気分、わかってくれると思うけれど。言いにくいんだけれど、私が実家からこちらへ移ってきた理由に、それがあってね」
「やったことに後悔なんかない。そうしようとして、明白に感情があったから、やった。でもそういうこととは関係なく心に黒い部分は残る」
「あなたはそうなのね。私のほうの理由とは少し違うかもしれない。私は後悔してるわ。殴った後に我に還って、そのときにはもう手遅れだった。顔にね、大きな傷をつけてしまったの。拳の骨の硬い部分が思いがけず強く当たってしまって、頬から」椿希は指を己の右頬に当て、「鼻を抜けて」鼻の中ごろを縫い、「反対側の頬まで」左頬まで抜けた。
椿希は溜息をついて続けた。「そこまでするつもりはなかった――と言えるかどうか。思わず、かっとなってしまったから。相手はなんの武術の心得もない一般人で、私は幼い頃から教え込まれていたんだから、そうするべきじゃなかった。ボクサーにとっての拳が凶器扱いになるのとおんなじで。正当防衛といえばそうなのだけれど」
「正当防衛?」
「見たでしょう? 背中の傷」
「ああ……」
「ちょっと複雑でね。ずっと考えているのだけれど、私にはちょっと正解がわからないわ。どうすればよかったのか。斬りかかられて、頭がかっとなって、反撃した。でも、そこに至るまでの経緯もある。
まあ、そういうことがあったのよ」
よくわからず、天見は少しのあいだ沈黙した。
そして言う。「そういうことを私に話して、どういうつもりですか?」
「そうね。とりあえず、知ってほしかった。一緒に実家についてきてくれる、ということが前提でね。続きはおいおい話すつもりだけど、どうかしら? もう厭になって、パスしたくなったんじゃない?」
「私は雇われなんで、椿希さんが話したいんならいいんじゃないですかね。本気で厭になったらやめさせていただきますんで」
椿希は苦笑した。「そう。じゃ、様子を見ながら少しずつ知っていってもらおうかしらね」
愛莉は鏡のまえに座り、櫛灘文太に言われたことを思い出している――『飢餓感。それそのものがおまえって女だ』。
死んだ人間がどれほど的確に自分を見つめていたのか思い知らされる瞬間がある。そのことにどれだけ自分が無頓着でいたのかも。あらゆることばが鉛のような重りを伴って蘇り、その一言一句に打ちのめされるような心地がした。過ぎ去っていったものばかりが大切になり、現在時制のすべてが取るに足らないものになる。
気持ち悪くなり、愛莉は身を丸めるようにしてうずくまった。目許に手を当てて吐き気を堪えた。千の針が心臓の内側から突き出し、肉を抉り、皮膚を突き破り、血を削るような感覚がした。
苦しげに顔を上げ、変わり果てた自分の姿を鏡に見つめた。なにもかもぶっ壊したかった。文太の哀しげな声を幻想の耳に聞く――『どうしてそうなってしまうんだろうな』。
頬に手を当て、傷痕をなぞった。砂州のように色を失い、灰色に変質した醜い凹みになってしまっていた。すべてが忌々しかった。右頬から、鼻の中ごろを縫い、左頬に抜ける。真新しい痛みが駆け抜け、顔をしかめてまた俯いた。
いまの自分を見ても、文太はもう、このうえない美人だとは言ってくれないだろうと、痛烈に思う。