オリジナル。日常、登山、微百合、ぐだぐだ。
なんだかシリアス続きでも杏奈を出すだけで空気が変わるぜ!
MHF。
ヘビィのSRがやっと870。G級まであと少しですね(白目
課金コースでフルブーストかければあっという間なんだろうけれど、(乳揺れ装備以外に金をかけるつもりは)ないです。秘伝防具の紙集めが辛い。連戦連戦また連戦。
ギルド優先依頼、天で安定して狩れるのはグレンゼブル、ソロで五ラスタ前後。次点でテオ・テスカトルとドラギュロス、こちらは十ラスタいかない。
クシャルダオラさんだとどうあがいても十ラスタ切れない上に突進で小突かれて起き攻めにアルティメットクシャストーム重ねられて稀に死ぬ。古龍の特異個体はかっこいいなあ。
しかしここまでくるともうさっさとG級上がりたいところ。あと百ランクが遠い……
「本日はお忙しい中、貴重な時間を割いていただきありがとうございます。二年生の桐生シズと申します。杏奈先輩にはとてもお世話になっておりまして、一度ご挨拶申し上げたいと考えておりました。なかなか機会に恵まれず、もどかしく思っておりましたが、此度こうしてお父様にお会いできまして、大変嬉しく感じております」
篠原はひどく恐縮して頭を下げた。「い、いや、これはどうもご丁寧に。こちらのほうこそうちの娘がなにかご迷惑かけてないかと心配で」
「とんでもございません。わたくしのほうこそ、なにかと良くしていただくばかりで、お礼も充分にできず。先輩には日頃から大変感謝しておりますわ」
「むむ、はは、そいつはどうも」
篠原家。一階のリビング。篠原武士とシズは向かい合って座り、それを少し離れたところから杏奈ががちがちになりながら見つめている。このバカ親父が余計なことを言わないか、あるいはシズがとんでもないことを言わないか、まったく気が気でない。杏奈はむしろ、震えてさえいた。
(なんでこんなことになった……ッ!)
心のなかで嘆き、杏奈はもう倒れてしまいそうなほど緊張していた。こんなことはなんでもない、ただ仲のいい後輩がウチに訪ねてきただけだと思おうとしても、なにせ関係が関係だから心休まる間もない。
篠原にしてみれば娘の友人がこうして訪問してくることも稀で、おまけにあのお嬢様学校の生徒だから、まったく珍しく思うのだ。いわゆるお嬢様とかいう人種と話すことも初めてで――妻にしろ娘にしろ空にしろそうした人種と対極にいるような女たちだ――ははあなるほどこれがそういうものかと、感心ばかりしている。まったく美少女どころか、纏う雰囲気まで気品があって麗しいときたもんだ。杏奈の中学受験で、エスカレーター式の学校に通わせたことに、ある種の後悔めいた思いもあったが、ここにきてようやく悪いことでもなかったかと考えることができている。しかし当然、シズが杏奈にどういう想いを抱いているか想像もついていない。
本格的にぶっ倒れそうになり、杏奈はふらふらしながらリビングを出てダイニングに向かう。ダイニングキッチンで、美奈子が忙しく動きながら晩飯の準備をしており、邪魔しちゃ悪いとこそこそしながら冷蔵庫を開ける。スポーツドリンクのペットボトルを取り出し、態勢を立て直す意味でラッパ飲み。
そのとき、美奈子がぽつりと呟く。
「あたし武さんが女でも結婚してたかなー」
「ブフゥ――ッ!?」
「あれ、杏奈ちゃんいたの? もー、武さんとお客さんをふたりにしちゃだめでしょ、杏奈ちゃんがあれこれ気遣ってあげないといけないのにー」
杏奈は顔を真っ赤にして手の甲で口許を拭う。「おかっ、お母さんッ、ちょっ、なに!?」
「なにが?」
「お父さんが女でも!? なにさいきなり!?」
「へ?」美奈子は首を傾げて、「このまえ武さんに訊いたんでしょ? あたしが男でも結婚してた!?って。なんでいきなりそんなこと訊いたのかわからない、って武さん言ってたけど、あたしもちょっと考えててねー。うん。まあ武さんに会ってなかったら空ちゃん口説きにいってたかなあって。空ちゃんそーゆーこと興味なさそうだったから、振られてただろうけど」
「お母さんレズだったん!?」
「男でも女でも、人柄と相性で選ぶってだけだよう。いくらイケメンでも、少しのパチンコ(継続登攀)でへばるようなヒトはごめんだしねー。でもそうだね、武さん女だったらどうしてたかな。オランダなりベルギーなりスウェーデンなりスペインなりポルトガルなり、イタリアなりデンマークなりフランスなり、カリフォルニアなりワシントンなりアイオワなりマサチューセッツなり、適当なとこで婚姻届だしてたかもねー」
「ここ日本! 日本だから!」
「もー杏奈ちゃんってば視野が狭いよ? 空ちゃんみたいに、将来的に海外の山も登りたいなら、ワールドワイドってやつで物事を考えないと」
「登らないよ! 日本で充分!」
「またまたー」
「あたし山狂いじゃないから! 普通に普通の女だから! 安定した就職して寿退職して出産して専業主婦やってめでたしめでたしで天寿を迎えるから! くしなっさんとは違うんだからね!?」
「んふふ。はいはい」
「ちっ、ちくしょう――ッ!」
あまりに理想とかけ離れた現実に、杏奈は半泣きになって逃げ出した。
空は葛葉に言う。「この時期、八ヶ岳や日本アルプスなんかはまだまだ残雪期だけど、さすがに丹沢じゃもうそういうのもないね。このまえ降った雪で最後だったし、それももう融けちまった。梅雨の時期にゃ、丹沢っつったら沢登りなんだけど、初心者にいきなり沢登りもアレだね。やっぱりオーソドックスに、伊勢原からバスに乗って、大山を目指すのがいちばんだろう。塔ノ岳でも構わないけど、大倉尾根は、三時間ずっと登りのバカ尾根だしね。でももちろん、そっちもやってみる価値は充分にある」
「地図で見ると、ずいぶん東西に長いんですね。姫川さんは全山縦走したのか……」
「ガイドなんかだと、東丹沢に西丹沢、丹沢山より先は裏丹沢みたいな区分けをされてる。人気なのは東丹沢だね。小田急線でアプローチも楽で、景観もなかなかのもんだ。逆に西丹沢は、樹林帯が目立って、暗めの雰囲気の、幽谷って印象がある。裏丹沢は深山だね。歩いて、相模湖まで行けちまう」
駅前の、少し洒落た感じの喫茶店。落ち着いた雰囲気の、ガラス張りの窓は西向きで、店内全体が若干暗い。客はまばらで話し声も小さく、流れている音楽は古い時代のクラシック、張り詰めた気を収めるには最適といった風な場所だった。空と葛葉は窓からいちばん離れたふたりがけの席にいて、陽射しの影すら届かない。
空は微笑んで、「ほんとうはあたしなんかより、山岳会にでも入って、リーダー慣れしたその道の熟練者から教わるのがいちばんいい。学校の山岳部やワンダーフォーゲル部なんかでも。あたしはずっとソロで登ってきたし、教師って人種にはほど遠いから、教えることに関しちゃまるで自信がないんだ。天見は頭のいい子だから、あたしがなにもしなくても勝手に学んじまうところがあったけど」
「私はどっちかっていうと体育会系ですけど、頭はそんなに悪くないつもりですよ?」
「ふふ。別にあんたの知能指数を疑ってるわけじゃないよ。要は、あたしに教えられることは少ない以上に少ないってことだ。もちろん、ハイキング程度ならいくらでも付き合ってやれる。信用できる大人の付き添い、ってわけにはいかないけれどね」
「姫川さんは櫛灘さんのことを心から信頼しているみたいでした。姫川さんは、そう簡単には心を開いてくれない子だから、櫛灘さんがどういうひとなのか、それだけで結構わかると思ってます」
「おっと、これは参ったね。そういうプレッシャーをかけてくるとは」
冗談めかして空は言ったが、たしかに、プレッシャーになった。天見の友人を無下に応じるわけにもいかない。それに実際、山をやる少女が増えることには、多少の嬉しさもあった。
こんなことは金と労力がかかるばかりでつまらない、引き返せ、と忠告することもできる。空は山の怖ろしさと凄まじさを知っている以上に知っている。思い知っている。幾度となく打ちのめされ、叩きのめされ、撤退させられ、拒まれてきた。が、それ以上に素晴らしいことを知っているのも空だった。葛葉に、別にエクストリームなことをさせるわけじゃない。どうするか選択するのは葛葉自身の判断だ。
「オーケー、葛葉。こういうのはまずやってみてから考えればいいことだ。あんたがどこかへ行きたいっていうなら、ガイドの役を演じてやるよ。友達価格で、料金は取らないからさ。三年生だっけ? 本格的にやりたいなら高校で部活を探せばいいしね」
「ありがとうございます、櫛灘さん」
「ただ、覚悟しといてほしいことがひとつだけあるんだけど」
「なんですか?」
空は身を乗り出し、内緒話をするように首を落とす。葛葉は緊張し、どんなことを言われても応対できるよう、身構える。
「“山女”はモテないぜ?」
「……ぷっ」
空はにやりとする。「おいおい、笑うなよ。これはとても重大で、重要なことだ。なにせ下界のあらゆるイベントに背を向けることになるんだから。あたしくらいになるとクリスマスも正月もバレンタイン・デイも山のなかでやり過ごすし、見なよ、あたしの顔。風雪に削られて、これ以上ないってくらい不細工になっちまってるだろう? ちょっと気を抜くと、あんたもそうなる。せっかくの美少女が、台無しになるよ?」
梅雨の時季は恐らく、一年のなかで最もロック・クライミングに向いていない季節だろう。
濡れた岩はデリケートだ。クライミング・シューズの摩擦力が大幅に下がり、細いホールドを捉える指は滑り、間断なく降り注ぐ雨はクライマーから視界と判断力を奪う。プロテクションを中間支点にセットすることすら、経験なしではままならなくなり、言うまでもなくコンディションは劣悪、ビレイヤーもひたすら待ち続けるあいだはこれ以上ないストレスになる。ルートグレードはもちろん最良の状況下が前提だから、なんでもないはずのショート・ルートが、時として常にグランドフォールの可能性を孕む怖ろしい壁に変貌することさえある。
もちろん、いわゆるホンチャンのアルパイン・クライミングにおいては、そう文句も言っていられない。なんといっても気まぐれな自然、そのなかでもさらに気まぐれな山稜の世界。天に近づけば近づくほど状況の変化は残酷なほど素早く、快晴が秒速で豪雨に移り変わる可能性もありうる。そうなれば撤退だ。なんにせよ、ゲレンデでのロック・クライミングであれば、早々に諦めて尻尾を巻いて逃亡するのが最善の判断だろう。練習でザイルを痛めてしまうのもつまらない。
そういうわけで、天見と杏奈は久し振りにクライミング・ジムにきていた。屋内であれば雨も関係ない。ジムの外は細い針のような小雨が降っており、雨雲は太陽を透かして、世界が淡い白に染まっている。
天見はようやく、五級程度の課題ならなんとかこなせるようになった。しかし四級が遠い。得意なムーヴに限定し、調子が完全に最高ならば、どうにか登れる機会が一、二度はあるが、安定というには程遠い。天見の筋力はまだ体格相応の少し上程度しかなく、テクニックをカヴァーできるほどのリーチもない。天性のバランス感覚のようなものがあるわけでもない。間違っても天才ではないのだ。
(気長にやらないと上達しないってわかってはいるけど)
凡人レベルの身体能力しかない自分が恨めしかった。
顔を転じて、杏奈のクライミングを見やる。
彼女のムーヴは誰にでもできそうな気を起こさせるほど自然なかたちなのが不思議だ。グレードは初段。一年や二年の蓄積では到底手の届かない、非凡な課題であるにもかかわらず、まるで無理というものが見えない。こうあるべきムーヴをこうあるべきがままに行う。正しいムーヴを必ず実行し、間違ったムーヴは必ず避ける。それが徹底しているからこそ、そう見えるのだろう。ひどく長い年月の蓄積、その賜物のように感じた。
(空さんみたいに、魔法めいて登らなくてもいいんだ。ああいう風に、私もやれれば……)
差し当たっての手本。そういうことになるのだろう。
杏奈が戻ってくると、天見は彼女の顔を見上げ、ふと思い至って注視する。傷痕――確かにある。穴の開くほど見なければわからないほど薄いが、頬に、目許から顎にかけて、白く細い線が走っている。
杏奈は首を傾げる。「なに?」
「えー」天見は少し迷って、「篠原さん。それって傷痕ですか?」
「ああ、これ」杏奈は自分の頬を撫で、唇をむずむずさせる。「いや、まあね。昔さ、アイゼンの爪ですっぱりやっちゃったのよ」
「アイゼンで?」
「ほら、くしなっさんに教わらなかった? アイゼンのキックステップ、足の向きを必ず平行にしなきゃダメだって。あれでさー、爪をゲートルに引っ掛けちゃったんだよね。それでビリッと破いちゃって、スッ転んで、足が変な風に曲がってでんぐり返し、それで頬をズバッと。いや、下山んときだったからよかったけどさあ、血がぼたぼた零れて止まらないわ、ゲートルのなかに雪が入り放題になるわ、もう散々だったよ。姫ちゃんも気をつけてね! っても、もう雪の季節も終わっちゃったけど」
「ああ……」
なんとなく想像がついた。登山靴に装着するアイゼンは、分厚い氷を捉えて支えるために、研ぎ澄まされた鋼の爪が何本も突き出ている。普通は十本か十二本、軽アイゼンでも四本か六本はある。積雪期登山の必需品だが、その鋭さはピッケルと同じくテントに入れてはならないほどで、場合によってはナイフよりもずっと危ない。
とはいえもちろん、刀などではないが。
「背中を刀で斬られる状況ってどう思います?」
「へっ?」
杏奈はぽかんと口を開ける。
「……時代劇?」
「ああ、そうか。撮影かなんかの事故ってこともあるのか。けどさすがに本物なんか使わないだろうし、実家って言ってたっけ? よくわからないな……」
「ひ、姫ちゃん?」
いきなり物騒なことを訊く天見に、杏奈は動揺しておろおろする。それに、こちらから訊かなければならないこともある。いまさら言いづらいが、年上として知っておかねばなるまい。
「あ、あのさ姫ちゃん、このまえ電話したときその、アルバイトって――」
「はい。無事面接受かったんでいま働いてます。どれくらい給料もらえるかわかりませんけど、全部山に注ぎ込むつもりなんで、山行くときはいつでも誘ってください」
「いやそーゆーことじゃなくて! 姫ちゃん中学生でしょ!?」
「……? 高校生に見えます?」
「なんのバイトしてんの!?」
「家政婦みたいな感じの」天見は立ち上がる。「やるか。オンサイトなんて贅沢なこと考えないで、とにかく鍛えないとな。時間だってタダじゃないんだ」
要領を得ない。杏奈はもどかしく思って拳を開いたり閉じたりする。
篠原家にお邪魔した『お礼』名目で、また桐生家に招かれ、杏奈は警戒レベルをMAXにして門をくぐる。
シズはともかくあの椿希とかいう従姉と出くわすのはまったく勘弁したいのだ。初っ端から胸を揉まれて投げ飛ばされて太腿までいじられれば当然である。こそこそしながら庭を横切り、玄関を避け、油断なくあたりに目線を走らせる。あの作務衣姿の家政婦が、松に脚立をかけて枝を切り払っている。杏奈はぎこちなく挨拶する。
「こっ、こんちはっす。あの、あたしシズさんにお招きされまして――」
弘枝は脚立を降り、丁寧に頭を下げて言う。「はい。篠原様でいらっしゃいますね。お嬢様からお話は伺っております、どうぞお上がりください」
「ど、ども」
「屋内で働いている者がいると思いますので、お望みでしたら彼女に案内させますが」
「あっ、結構です、場所は覚えてるんで……」
その場を素早く立ち去る。なにせこれだけ懇切丁寧に接されることにも慣れていない、ここは撤退の一手が正解だ。縁側を伝って、シズの部屋に向かう。
(ああー、もうっ! なんも後ろめたいことないはずなのに、なんだってこんなこそこそしなきゃならんのだっ!)
未だに保留の返事。建前上は先輩後輩、その裏側で進退窮まる。何故か先に親へ挨拶を済ませるかたちになってしまい、印象がこれ以上ないくらい良好なのが余計にツライ。あのバカ親父はシズが帰った後まるで感動でもしたかのように彼女を褒めちぎりやがったのだ。まあ気持ちはわかる。彼にとって女とは美奈子であり、杏奈であり、空である。天見のことばを借りればまったく『普通じゃない』面々、そこにシズのようなお嬢様がどんと現れればそりゃカルチャーショックくらい受ける。
本人の与り知らぬところで着々と包囲網が狭まっていく。杏奈自身、シズの人柄に関しては悪印象などこれっぽっちもないから、いまさらばっさり袖に振るのも心が痛い。しかし、恋愛となれば話は別である。
(んなもん想像もつかんわ……)
まあ、そもそも異性を相手にしたところで想像もできないことに代わりはないのだが。
素直にシズの部屋に迎えず、迷う振りをしてうろうろしたり、無駄に立ち止まったりして時間を浪費。うんうん唸って頭を抱え、そうこうしているうちに陽が茜色に滲む。影が燃えるように濃くなり、梅雨越しの夏の香りがあたりに漂う。季節の移り変わり。おいちょっと待てよまだ志望校だってはっきりしてないんだよと訴えかけても、時間は無常に突き進んでいく。
「あ、篠原さんどうもお疲れ様です」
「おー。姫ちゃんおっすおっす」
擦れ違いざま声をかけられ、杏奈は反射的かつ無意識に応じる。
そのまま数秒、間抜けに過ぎて、
「……。――……ッっっッ!!??」
杏奈がばっと振り向いたときには、天見の後姿は廊下の先に小さく、作務衣を着ているとはいえあの金髪と小柄な姿を間違えるわけがない。一瞬、無闇に迷いすぎて白昼夢を見ているのかと思う、頬をつねると痛みは明白だ。
「……――なんでじゃァー――ッっ!?」
混乱、動揺、あらゆる困惑を振り切って杏奈はダッシュし、天見を追いかけ、すぐに追いつく。後ろから悲鳴めいた声を上げる。
「姫ちゃん!?」
「はい?」
「はい? じゃないよ!! 姫ちゃんなんでここにいるの!? ってゆーかなにしてんの!? 作務衣!! あっ、結構似合ってる!! 可愛い!! じゃなくて!!」
天見は顔をしかめて耳に手を当てる。「篠原さんうるさいです。山じゃないんだからちゃんと聞こえてます」
「あっ、ごめんなさい……じゃなくて!!」
どこからどう穿ってみても天見本人である。つい先日一緒にクライミング・ジムに行ったときのままの。雑巾を突っ込んだバケツを手に、いつもどおりの無愛想な表情でこちらを見上げている。だからこそ杏奈はますますうろたえ、口をぱくぱくさせ、いるはずのない少女に唖然とする。
「なんで!?」
「バイトですけど」
「ここで!?」
「言ってませんでしたっけ? 家政婦みたいな感じのって。じゃあ、まだ仕事残ってるんで」
「ちょっちょっちょっちょ」
納得いくはずがないのである。なんで桐生さんちに姫ちゃんいるんだ。どういう経緯で!? まったく、意味がわからない。
「ってーかなんでそんな姫ちゃん冷静なのさ!? なぜにこうっ、なんてーかこうっ、そう! あたしがなんでここにいるのかとか、そういう返しは!?」
「……はあ? シズさんと同じ学校通ってるって、椿希さんに聞きましたけど。仲がいいらしくてこのまえ遊びにきたって。ああそういう偶然もあるんだなあって思いましたけど、別にそこまで驚くことないじゃないですか。バイト先に顔見知りがきたってだけです」
「椿希――あーそうだ! それだよそれ! 姫ちゃんこんなとこで働いてて大丈夫なん!? あいつにセクハラされたりしてない!?」
「セクハラ……?」
天見が首を傾げたとき、不意に杏奈の後ろから声がかかる。「私がなにか?」
「ひぃっ!!」
びくりとして振り返った瞬間、椿希の腕がフッと伸び、杏奈の胸を制服のブラウス越しに鷲掴みにする。そのままわしわし。
杏奈は悲鳴を上げる。「ぎゃぁぁぁああああ!!!!」
「うるさい。硬い。下着くらいきちんとしたのつけなさいよ、せっかくそれなりの大きさなのに台無しだわ。花の女子高生なのに、油断しすぎ」
「余計なお世話だよ!」
杏奈が力づくで腕を振り払うと、椿希はにこりと愛想よく微笑む。
「お久し振りね、篠原さん。シズから、山をやってるとは聞いたけど、天見さんとお知り合いだったなんてね。世間は狭いわ。まあ、どちらも山が趣味というから、それほど不思議なことではないのだろうけど」
「がるるるるるるる」
「その威嚇は飽きたわ。ああそうそう天見さん、こうして篠原さんがいらしてくれたことだし、お茶を用意して頂戴。後でシズのお部屋に持ってきてね」
「はい。じゃあ行きますんで――」
が、行きかけた天見に杏奈の腕がガッと回され、保護するかのように縫い止められる。天見はつんのめって面倒くさそうな顔を杏奈に向けたが、杏奈は憤然とした表情で椿希を睨んでいる。
「姫ちゃんに変なことしてねーだろうな!?」
「あら失礼ね、私だって相手くらいわきまえるわよ。中学生以下に手は出さないし、姫川さんは貴重な労働力だもの。面白い子ではあるけどね。せいぜい、煙草を一本譲ってあげたくらい」
「犯罪じゃねえか!!」
「あらそう? それは困ったわね、私逮捕されちゃうかしら。姫川さん口裏合わせて隠蔽してくれる?」
「なにも喋りませんよ……」
「というわけでね。煙草なんてなかった。それより篠原さん、シズのところに行かなくていいの? 待ちくたびれて、拗ねちゃうわよ? 拗ねたシズはそれはもう面倒で、昔は一週間も口を利いてくれなかったくらい」
杏奈はますます強く天見を抱き締める。「放っておけるかっ……! こんな危ない女と! そのうちいかがわしいことさせようって、腹じゃ――!」
「そんなんじゃないってば。そんなに天見さんが大事? あなた天見さんのなに?」
「ザイル・パートナーだよ!! 大事に決まってんだろッ!!」
椿希は肩を落とす。「あらそう、それはそれは。もう、シズもいっそ篠原さんを追って登ってみれば?」
「えっ」
杏奈は振り返る。廊下の先に、シズがひどく寂しそうな顔をして突っ立っている。
「……」
杏奈は天見を手放し、頬をひくつかせて両腕を所在無く広げる。
シズの表情が緩やかに移り変わる。寂しさから、なんともいえない辛そうな色に。嫉妬、というよりは、嫉妬を抱いた自分を情けなく感じているかのような、慎ましい狼狽。どう反応していいのかさえ迷うような間。自分に対して、杏奈がはっきりと明白に好意を示すことはこれまでないのだ。うろたえてばかりでまともに会話することさえ怪しい。自分の告白が原因とわかっているから、余計に哀しい。触れ合うことすらそうない。なのに、天見に対してはいとも容易く抱きつく……
なにより嫉妬という感情自体が自分で見苦しくて、シズはそっとその場を立ち去る。
「……っちょ、っと! 待って桐生さん――!」
杏奈がいなくなってその場が一気に静かになる。天見はぶすっとして溜息をつく。続いて椿希も溜息をつく。
「めんどくさい子たちねえ」
「じゃあ、ほんとうに行きますんで。お茶、沸かしときます」
「ええお願いね天見さん。――あ、そうそうもうひとつ」
椿希はぽんと思いついたように手を合わせる。天見は首を傾げる。
「なんですか?」
「あなた、私の世話役として雇ってるわけだけど。私はしばらくここに滞在するつもりだけれど、一時的に、何日か静岡に戻ることもあるかもしれない。そのとき、あなたもついてきてって言ったら、ついてきてくれる?」
「はあ。まあ、スケジュールが合えば構いませんけど」
椿希はにこりとする。「ありがとう。そのときはよろしくね、天見さん」
常識人が翻弄されるのは世の常なのかあ。
しかし登場時の安定感、安心感はすごいと感心する。