オリジナル。登山、微百合、日常のぐだぐだ。
現在時制に戻りまーす。
えー、特に他に書くこともないので本編どうぞ!
椿希は鏡のまえに座り、衣服を肌蹴て、背中を映した。首を捻じって自分を見やる。
右肩から袈裟懸けに、腰にかけて、細い線が赤く隆起している。そこだけ皮膚が谷間をつくっており、外気に触れると思い出したように痛んだ。じんじんと神経が文句を言う。
「なかなか治らないわね、どうにも……格好悪い。せめて目立たないくらいになってくれるといいんだけど」
その傷が――というよりは、その傷が連想させる記憶のほうがあまり愉快でなく、鼻を鳴らして心の揺らぎをやり過ごす。桐生の分家にきてから、ずぐりと荷を背負うような重みはかなり薄れてくれていたが、それでもやはり思い返すと穏やかではない。
道場の掃除を終え、天見は雑巾を突っ込んだバケツを手に、次に掃除しろと言われている部屋に向かっていた。夜が蒼白い月灯りを縁側に送ってきている。
あれこれと注文をつける椿希のノリにはだいぶ慣れてきた。“世話役”のバイトに慣れてきたかといえばあまり自信はないが。なんだかんだでまだ初任給ももらってないから、自分がどう評価されているかわからないというのは、居心地があまりよろしくないようで落ち着かない。時間的にはかなり拘束されているのだから、せめて山に苦労しないくらいには稼ぎたいものなのだが。
角を曲がり、ふと爪先になにか当たった感触がして見下ろす。黒い小さなものが足元に転がっている。
「財布……」
誰かが落としたのか。悪いと思いつつも中身を検めると、自動車免許証を見つけ、あの家政婦の顔が映っている。入江弘枝。
彼女はこの時間はもう帰ってしまっているはずだ。よほど遠くなければもう自宅に着いている頃合だろう。とりあえず椿希に届けてしまうのが最善と思う。
椿希の部屋に方向を転じ、すぐに着く。声をかけるのと戸を開け放つのが同じタイミングだった。「椿希さん、これ――」
一瞬、時間が止まる。
椿希は部屋の隅で衣服を肌蹴ており、背中を鏡に映していた。それを眼に焼きつけるには容易な一瞬だった。彼女の背中。明らかに尋常ではない、細く大きな赤い傷痕が右肩から腰にかけて刻印されており、椿希の驚いた表情と一緒に視界に飛び込んできていた。
思考が削られるような時が過ぎ、天見が思うのは、どうしてこうも悪いタイミングばかりに遭遇するのかといううんざりとしたような気持ちだ。
「……すみません」
戸を閉めて撤退する。
せっかく見つけたバイトなのに、これでおさらばかな、と思う。しかし、すぐに内側から戸が開かれ、椿希の顔には特になんの気まずさもなかった。
「ちょっと、ちょっと。別に逃げなくてもいいわよ、もう」
「……はあ」
「気の抜けたような顔をしないで頂戴。まったく、これに関しちゃ、あれこれ気を遣わせてしまうほうが厄介だわ。入って。お掃除ご苦労様」
ほっとする。
その後で湧いてきたのは、むらむらとした正直な好奇心で、そういう思いを抱いたこと自体のほうが疲れるような感じだ。しかし、そのままでいることのほうが不自然なように思われ、仕方なく天見は訊く。
「なんですかそれ。って訊いてもいいですか?」
「刀傷」
「……。はあ?」
「後ろ傷は恥ずかしいんだけどね。でも一応言っておくけど、逃げ傷じゃないのよ? 不意でばっさりやられただけ。こっちくるまえにやったんだけど、なかなか治らなくてね……」
いまは西暦何年だっけ? と天見は少し混乱する。幕末じゃあるまいし。
「色々とこじれてるのよ」と椿希は手をひらひらさせる。「実家のことだけれど。まったく、穏やかじゃないことにね。それで、どうしたの? お掃除まだ終わってないでしょ?」
「そう。椿希さん、これ」
「お財布」
「入江さんのです」
「ああ、落としちゃったのね。彼女明日明後日お休みだから、連絡して、取りにきてもらわないと。ええと」椿希は顎に指を添えて、「……あら困ったわね、私弘枝さんの電話番号知らないわ。叔父様と叔母様はお仕事で遅くなるし、シズも留守」
「入江さんの家遠いんですか?」
「ここから歩いて十五分くらいだったはず。まあ、こちらから届けてしまいましょうか。ついてきて頂戴」
「掃除まだ途中ですけど」
「いいわよ、別に急ぎじゃないし。女だもの、夜道の一人歩きのほうがイヤだわ」
最初に会ったとき、真夜中にうろうろしていたくせによく言う。とはいえ、天見は頷いてバケツを置いた。
傷痕。
そういえば――と、天見は思う。杏奈の顔にも、それっぽい痕がある。右頬。顎から目許にかけてすっと伸びる白い線。普通にしていればほとんど目立たないし、よく眼を凝らさなければ見えもしない程度のもので、クライミング・ジムで初めて彼女を見たときは妙に印象に残ったが、それ以降は忘れてしまっていた。なにせ向き合ってもなかなかわからないくらい薄いのだ。
もちろん、山をやっていれば傷痕をつくる理由など山ほどあるのだが。転倒に滑落、落石、藪の枝の跳ね返りなんかでも。しかしやはり、刀傷などありえない。
(背中か。ザック背負うとき痛そうだな)
そういう考え方をする。
椿希の後ろを半歩下がって、夜道を歩く。農道は、少しゆくとすぐ舗装路になり、民家の点在する、いかにもな田舎道風になる。酒・タバコ店。畳屋に米屋。峠ではないが道はうねっており、県道だが、この時間は車の通りが少ない。
弘枝の住んでいるアパートは、小奇麗な二階建ての真新しいもので、以前見たことのある空のアパートとはまったく印象が違って見えた。空の住み処はおんぼろというのが控えめな物言いになるほどのものだったが、ここはどう穿ってもそうは見えない。
インターホンを――こんなものも空のアパートにはなかった――押す。どたばたとなかで人の動く気配があって、玄関でもたついているようだった。椿希と天見は大人しく待つ。なかから扉越しにくぐもって声が聞こえてくる……
「ンだよ、クソ! こんな時間だってのに、手間かけさすんじゃねえよ! オレんとこは新聞も宗教も間に合ってる! ったく、給料日まえだってのに財布なくしちまって、悲惨なのに、今度ぁ――」
扉が数センチだけ開く。なかから弘枝が不機嫌そのものの表情で顔を出し、椿希とばちりと眼が合う。
「……」
「……」
硬直の数瞬。思考のフリーズ。
ややあって、椿希のほうが先に態勢を立て直す。
「……こんばんは、弘枝さん」
弘枝はぎこちなく扉を開け放ち、丁寧に閉めなおし、両手を腹のあたりで重ね、小さく咳払いする。「……お疲れ様です、椿希様。こちらにおいでになるとは思いませんでした。私になにか――うおッ!!」
「きゃっ!?」
突然、弘枝が後ろから蹴り飛ばされ、つんのめって椿希に激突していた。
弘枝の後ろにいたのは、弘枝をそのまま幼く縮めたような少女で、頬を膨らませてたったいま蹴り飛ばした女を睨んでいた。軽やかな声が飛ぶ。
「遅いよ、お姉ちゃん! もうクエスト終わっちゃったじゃん、ほらさっさと戻って次のクエ貼って! せっかく課金コース買ったんだからさあ、一時間も無駄にはできないんだよ! わかってる!? レアドロップ率二倍ったって、結局数回さなきゃ引っ掛かりもしないんだから!」
弘枝は顔を歪めて、「おいばか桜花、それどころじゃ――」
「ん、んん?」
弘枝にぶつかって抱き止めるようなかたちになり、すっかり驚いて眼を白黒させている椿希。桜花は首を傾げて彼女を見つめ、上から下までじろじろと眼を走らせ、ぽんと手を合わせる。
「お? もしかしてあれかな? 桐生サマんとこの、お嬢サマ? それとも最近きたっていう、椿希サマとかいう?」
「ばか桜花余計なこと言うな引っ込め!」
弘枝の腕が扉を思いっきり閉める。もろに鼻先をぶつけ、桜花が悲鳴を上げる。
「イタァイ!」
弘枝は椿希の両肩に手を置き、そっと身を離して、ごほんごほんともう一度咳払いをする。眉を潜めるようにしてキリっとした表情をつくり、椿希と天見を交互に見つめて、
「……失礼しました、椿希様。妹は、まだ物を知らぬ歳でして、どうかご容赦ください。して、椿希様と天見さんはどうしてこちらに――」
「やりやがったなバカ姉ェ! 大人しくしてりゃいい気になりやがって、思い知らせてやるッ!」
「ふがッ!!」
「ひゃぁっ」
内側から思いっ切り扉が蹴り開けられ、その正面にいた弘枝はまたたたらを踏んで椿希に抱きつく。さらに桜花の回し蹴りが炸裂し、弘枝は椿希もろとも地面に倒れる。桜花は続けざまに姉の背中に足を落とす。弘枝の潰れた呻き声。椿希はもちろんその下にいる。
「っしゃァッ!」
桜花は勝ち誇ったように拳を天に突き上げる。天見はさっきから呆れたように三人を眺めている。どうしたものかと。
が、そこで弘枝の下から椿希の腕がスッと伸びる。桜花の足首を掴んで――
「ファッ!?」
桜花のからだが魔法のように空中を一回転する。天見が後退りすると同時に、椿希が弘枝の下から這い出て、立ち上がり、桜花をそのまま受け止めている。脇を抱えて持ち上げ、同じ高さの目線から、にっこりと微笑みかける。しかし眼が笑っていない。
「……お、おう?」桜花が首を傾げ、
「天見さん。受け止めといて」椿希が言う。
「は?」
ふわりと桜花のからだがさらに持ち上がる。
ほとんど飛び上がるように、アパートの二階のベランダすれすれまで投げられる。椿希の手は桜花の手首を掴んでおり、そこを軸に、まるで物理法則が無視されたように一回転、二回転、三回転。大道芸のように、V字を描いてさらに投げられ、天見の頭上に。そのときにはもう、桜花は完全に眼を回している。
「桜花ー――っッ!?」
弘枝の悲鳴。
天見は眼を細めて面倒くさそうに投げ飛ばされる少女を見上げる。「……」
ぱっと椿希が手を離す。慣性に従い、天見の頭上から墜落してくる。
天見は普通にかわした。
「きゃん!」
天見の足元には弘枝がいて、夢中で伸ばされた腕が、間一髪で桜花をキャッチしていた。しかし勢いを完全に止めきることはできず、尻餅をつくかたちで、桜花は地面に落ちていた。
「はあ」椿希は溜息をついた。「弘枝さんあの家じゃネコ被ってたのね。なんだか拍子抜けしたというか、肩透かし喰らっちゃったわ」
弘枝は気まずそうに、「いや、別に……そういうわけでは。仕事中に、普段どおりのことば遣いをするわけにいもいきませんので」
「まあそうよね。はい、弘枝さんのお財布。ないと困るでしょ?」
「あ。わざわざ届けてくださったのですか?」
「電話番号知らなかったから。じゃあ、夜中に悪かったわね、これで帰るわ」
「――。お待ちください、せっかくですから、お茶でもお出ししますよ。どうぞ上がっていってください」
「あらいいの?」
弘枝は微笑んだ。「一割の謝礼というわけではありませんが、お礼もしたいので。ありがとうございます」
「拾ったのは天見さんだけどね」
で、そういうことになる。
椿希ににこりと笑いかけられ、桜花はびくりと素早く退いて陰に隠れた。椿希と弘枝が部屋に入っていってやっと一息つく。おっかねーと呟いて、ふと天見に顔を向けた。
「あれ、家政婦さん? にしてはなんか、あたしと変わんないくらいだね」
「……中一。ただのバイト」
「お、先輩かな? 先輩かな? あたし○○小だけど!」
「聞いたことない」
「あちゃー、残念。え? お姉ちゃん働いてるとこ中学生でも募集かけてんの?」
「顔見知りってだけ」
天見もふたりの後を追う。雇われの身で、ただでお茶などいただけないから、台所でごそごそやっている弘枝に声をかける。
「なにか手伝うことあります?」
「悪ィな。でも、いいよ、オレやっとく。どうせ湯沸かして茶っ葉に淹れるだけだ。そこの棚にお菓子あるから適当に持ってって」
「……なんか随分印象違いますね」
「仕事とそうでないとこでオンオフかけてるってだけだよ」薬缶をがんとコンロに置いて、「いきなりきたもんだからびっくりしちまった。ああ、姫川さん、ありがとな。明日から連休だってのに、財布なくなってたらテンション下がって家でごろごろしてるしかなくなっちまうとこだったから。助かった」
「妹さんと結構歳離れてますね」
「干支一回りぶんな。末の妹なんだ。あいだに四人弟がいる。姫川さんは兄弟は?」
「いえ……」
椿希と初めて会ったとき、天見は家でセックスをしている両親にうんざりして夜に抜け出していたのだった。仮にあれで子ができていれば、十三も年下の弟だか妹だかが産まれることになる。空も杏奈も一人っ子だから、そうした姉妹を目の当たりにするのは初めてだった。
あの桜花という少女は、先ほどなんの遠慮もなく弘枝を蹴飛ばした。そう、なんの気兼ねもなく。普段、仲睦まじいからこそ、そういうことができるんだろう。少し暗澹とする。自分がそんな関係を築けるとは思えない。
「ちぇー。時限配信のクエ終わっちゃった。せっかくこのために課金コース入れたのに、あんま稼げなかったなー。レア素材救済なのにドロップ率低すぎんだよー」
「あら、ゲーム?」
「んー、ネトゲ。ちと古いからグラはあんまりだけど、根っこの部分でゲーム性が優秀なのよ。まあアップデートしすぎてバランス崩れたり課金要素導入しまくって懐にえぐくなってたりすっけど、ライト層だと割り切ってのんびりやればそれなりに――お、椿希サマゲーム興味あるっ?」
椿希は溜息をついた。「家じゃ全然触らせてもらえなくてね。子供のとき、他所の子が羨ましかった。そういうところで不自由だったわ。ファミコン?も買ってもらえなくて。最近のパソコンのゲームって、実際どうなの?」
「スペックさえあればねー。コンシューマーのほうが面白いっちゃ面白いけど次から次へと新世代機が出て長くできないんだよなー。ソシャゲはゲーム性よりイラストと声優だし。椿希サマちょっとやってみる?」
「ン……いいのかしら。私こういうの全然わからないんだけど……」
「アクションだから初心者は辛いかもねー。ゲーセンとか行かないん?」
「付き合いで何回か。でも、実際やったのはクレーンゲームくらいよ」
促されて、椿希はパソコンのまえに座る。
恐る恐るコントローラーを握ってみる。
戻ってきた弘枝は、その光景を眼にして、ひどい眩暈がした。そして顔を蒼褪めさせた。
パソコンのまえに座ってコントローラーを握り、眉をひそめて真剣そのものの眼でモニターを見つめる椿希。その横で興味なさそうに見物している天見。そしてまったく勘弁してほしいことに、よりにもよって、椿希を座椅子にしてあれこれと指示を出す妹の桜花。
「なるほどだいたいわかったわ。この回避行動中の六十分の何秒かにだけ攻撃が当たらないのね。そして敵さんの攻撃にはほとんどわかりやすい予備動作があって、それに合わせて回避しつつ、出鼻と抜き技で応じつつ体力を削っていく、と。こっちは二三発くらったらもうやられそうなのに、敵さんは随分とタフなのね。何度も攻撃を当てないと、怯みさえしてくれない。あっ、でもなんか疲れてるみたいだわ、足引き摺ってる」
「おおー、椿希サマもうフレーム回避覚えちゃったか。すげえや、天才! お姉ちゃんより全然才能あるよ!」
「引き技、飛び込み技、返し技、一通りできるのね。この敵さん、竜かしら? 動作が活き活きしていて、迫力がある。すごいわ、最近のゲームってよくできてる」
「このゲーム屈指の良モンスって評価されてるもんね! でも部位破壊限定素材が鬼畜なのが惜しいんだよなあ、武器にも防具にもやたら数要求されるのに、ドロップ率5パーしかないし。お、そこまで追い詰めればもう少しだよ、気を抜かないで!」
「ええ、了解よ。手負いの獣ほど怖いものもないって言うわね。でもゲームとはいえ、なんだか哀しいわ。よくよく見ればこの角といい、牙といい、小さな瞳といい、愛嬌がある。あら、終わっちゃった?」
「やったぜ」
「なかなか楽しませてもらったわ。ありがとうございました」
危うく盆を落としそうになり、弘枝はたたらを踏んだ。桐生本家の一人娘である椿希を、桜花は座椅子にして、タメ口まで聞いているのである。入江は桐生家に代々仕えてきた庭師の家系、仮に父や祖父がこの光景を眼にすれば雷を落とすのは必至である。弘枝に忠誠心はないが祖父は怖い。
「桜花、おい、桜花……っ!」
「お? お姉ちゃんやっと帰ってきた。もー椿希サマがモンスター狩るほうがよっぽど早かったじゃん! あー喉渇いたー」
「ばかおまえちょっこっちこいっ!」
「え? んもーなに? あ、椿希サマお姉ちゃんよりずっと筋いいよ、今度一緒にログインして遊ぼうぜ! 月額二千円ぽっちだからさー!」
「そうね、考えておくわ。またいろいろ教えて頂戴ね」
「おう任せろよ! 最前線くるまでばっちりエスコートしてやるぜ!」
「はい師匠」
弘枝は倒れそうになった。
「……あ、天見さん、ちょっと電話してくるわね」
「はい」
椿希は部屋を出て、夜を見上げる。月灯りが煌々と照り輝き、星の瞬きを喰らっている。
いつまでも逃げ続けてはいられない。それはわかっている。ここにいる意味。
天見に背中の傷を見られて、あまりショックでない自分に気がついていた。いい機会、なのだろう。問題なのはこの傷そのものではなく、この傷をつけた者であり、傷つけられた後に自分がした行動であり、そうして、自分がつけたほうの傷であった。
細い吐息をひとつ。そうして携帯を操作し、実家の番号を呼び出す。彼女の携帯の番号は知らないのだ。内線で、直接繋げられるはずだった。
ややあって、その声が出る。『はい……桐生です』
できるだけ自然な声色になるよう心がけつつ言う。「ああ、愛莉さん? 私よ、椿希――」
名を出した瞬間に繋がりが切れる。
椿希は額に手を当てて溜息。
「はあ。まあ、嫌われてるわよねえ」
夜の風が吹く。梅雨が近い。
現在時制に戻りまーす。
えー、特に他に書くこともないので本編どうぞ!
椿希は鏡のまえに座り、衣服を肌蹴て、背中を映した。首を捻じって自分を見やる。
右肩から袈裟懸けに、腰にかけて、細い線が赤く隆起している。そこだけ皮膚が谷間をつくっており、外気に触れると思い出したように痛んだ。じんじんと神経が文句を言う。
「なかなか治らないわね、どうにも……格好悪い。せめて目立たないくらいになってくれるといいんだけど」
その傷が――というよりは、その傷が連想させる記憶のほうがあまり愉快でなく、鼻を鳴らして心の揺らぎをやり過ごす。桐生の分家にきてから、ずぐりと荷を背負うような重みはかなり薄れてくれていたが、それでもやはり思い返すと穏やかではない。
道場の掃除を終え、天見は雑巾を突っ込んだバケツを手に、次に掃除しろと言われている部屋に向かっていた。夜が蒼白い月灯りを縁側に送ってきている。
あれこれと注文をつける椿希のノリにはだいぶ慣れてきた。“世話役”のバイトに慣れてきたかといえばあまり自信はないが。なんだかんだでまだ初任給ももらってないから、自分がどう評価されているかわからないというのは、居心地があまりよろしくないようで落ち着かない。時間的にはかなり拘束されているのだから、せめて山に苦労しないくらいには稼ぎたいものなのだが。
角を曲がり、ふと爪先になにか当たった感触がして見下ろす。黒い小さなものが足元に転がっている。
「財布……」
誰かが落としたのか。悪いと思いつつも中身を検めると、自動車免許証を見つけ、あの家政婦の顔が映っている。入江弘枝。
彼女はこの時間はもう帰ってしまっているはずだ。よほど遠くなければもう自宅に着いている頃合だろう。とりあえず椿希に届けてしまうのが最善と思う。
椿希の部屋に方向を転じ、すぐに着く。声をかけるのと戸を開け放つのが同じタイミングだった。「椿希さん、これ――」
一瞬、時間が止まる。
椿希は部屋の隅で衣服を肌蹴ており、背中を鏡に映していた。それを眼に焼きつけるには容易な一瞬だった。彼女の背中。明らかに尋常ではない、細く大きな赤い傷痕が右肩から腰にかけて刻印されており、椿希の驚いた表情と一緒に視界に飛び込んできていた。
思考が削られるような時が過ぎ、天見が思うのは、どうしてこうも悪いタイミングばかりに遭遇するのかといううんざりとしたような気持ちだ。
「……すみません」
戸を閉めて撤退する。
せっかく見つけたバイトなのに、これでおさらばかな、と思う。しかし、すぐに内側から戸が開かれ、椿希の顔には特になんの気まずさもなかった。
「ちょっと、ちょっと。別に逃げなくてもいいわよ、もう」
「……はあ」
「気の抜けたような顔をしないで頂戴。まったく、これに関しちゃ、あれこれ気を遣わせてしまうほうが厄介だわ。入って。お掃除ご苦労様」
ほっとする。
その後で湧いてきたのは、むらむらとした正直な好奇心で、そういう思いを抱いたこと自体のほうが疲れるような感じだ。しかし、そのままでいることのほうが不自然なように思われ、仕方なく天見は訊く。
「なんですかそれ。って訊いてもいいですか?」
「刀傷」
「……。はあ?」
「後ろ傷は恥ずかしいんだけどね。でも一応言っておくけど、逃げ傷じゃないのよ? 不意でばっさりやられただけ。こっちくるまえにやったんだけど、なかなか治らなくてね……」
いまは西暦何年だっけ? と天見は少し混乱する。幕末じゃあるまいし。
「色々とこじれてるのよ」と椿希は手をひらひらさせる。「実家のことだけれど。まったく、穏やかじゃないことにね。それで、どうしたの? お掃除まだ終わってないでしょ?」
「そう。椿希さん、これ」
「お財布」
「入江さんのです」
「ああ、落としちゃったのね。彼女明日明後日お休みだから、連絡して、取りにきてもらわないと。ええと」椿希は顎に指を添えて、「……あら困ったわね、私弘枝さんの電話番号知らないわ。叔父様と叔母様はお仕事で遅くなるし、シズも留守」
「入江さんの家遠いんですか?」
「ここから歩いて十五分くらいだったはず。まあ、こちらから届けてしまいましょうか。ついてきて頂戴」
「掃除まだ途中ですけど」
「いいわよ、別に急ぎじゃないし。女だもの、夜道の一人歩きのほうがイヤだわ」
最初に会ったとき、真夜中にうろうろしていたくせによく言う。とはいえ、天見は頷いてバケツを置いた。
傷痕。
そういえば――と、天見は思う。杏奈の顔にも、それっぽい痕がある。右頬。顎から目許にかけてすっと伸びる白い線。普通にしていればほとんど目立たないし、よく眼を凝らさなければ見えもしない程度のもので、クライミング・ジムで初めて彼女を見たときは妙に印象に残ったが、それ以降は忘れてしまっていた。なにせ向き合ってもなかなかわからないくらい薄いのだ。
もちろん、山をやっていれば傷痕をつくる理由など山ほどあるのだが。転倒に滑落、落石、藪の枝の跳ね返りなんかでも。しかしやはり、刀傷などありえない。
(背中か。ザック背負うとき痛そうだな)
そういう考え方をする。
椿希の後ろを半歩下がって、夜道を歩く。農道は、少しゆくとすぐ舗装路になり、民家の点在する、いかにもな田舎道風になる。酒・タバコ店。畳屋に米屋。峠ではないが道はうねっており、県道だが、この時間は車の通りが少ない。
弘枝の住んでいるアパートは、小奇麗な二階建ての真新しいもので、以前見たことのある空のアパートとはまったく印象が違って見えた。空の住み処はおんぼろというのが控えめな物言いになるほどのものだったが、ここはどう穿ってもそうは見えない。
インターホンを――こんなものも空のアパートにはなかった――押す。どたばたとなかで人の動く気配があって、玄関でもたついているようだった。椿希と天見は大人しく待つ。なかから扉越しにくぐもって声が聞こえてくる……
「ンだよ、クソ! こんな時間だってのに、手間かけさすんじゃねえよ! オレんとこは新聞も宗教も間に合ってる! ったく、給料日まえだってのに財布なくしちまって、悲惨なのに、今度ぁ――」
扉が数センチだけ開く。なかから弘枝が不機嫌そのものの表情で顔を出し、椿希とばちりと眼が合う。
「……」
「……」
硬直の数瞬。思考のフリーズ。
ややあって、椿希のほうが先に態勢を立て直す。
「……こんばんは、弘枝さん」
弘枝はぎこちなく扉を開け放ち、丁寧に閉めなおし、両手を腹のあたりで重ね、小さく咳払いする。「……お疲れ様です、椿希様。こちらにおいでになるとは思いませんでした。私になにか――うおッ!!」
「きゃっ!?」
突然、弘枝が後ろから蹴り飛ばされ、つんのめって椿希に激突していた。
弘枝の後ろにいたのは、弘枝をそのまま幼く縮めたような少女で、頬を膨らませてたったいま蹴り飛ばした女を睨んでいた。軽やかな声が飛ぶ。
「遅いよ、お姉ちゃん! もうクエスト終わっちゃったじゃん、ほらさっさと戻って次のクエ貼って! せっかく課金コース買ったんだからさあ、一時間も無駄にはできないんだよ! わかってる!? レアドロップ率二倍ったって、結局数回さなきゃ引っ掛かりもしないんだから!」
弘枝は顔を歪めて、「おいばか桜花、それどころじゃ――」
「ん、んん?」
弘枝にぶつかって抱き止めるようなかたちになり、すっかり驚いて眼を白黒させている椿希。桜花は首を傾げて彼女を見つめ、上から下までじろじろと眼を走らせ、ぽんと手を合わせる。
「お? もしかしてあれかな? 桐生サマんとこの、お嬢サマ? それとも最近きたっていう、椿希サマとかいう?」
「ばか桜花余計なこと言うな引っ込め!」
弘枝の腕が扉を思いっきり閉める。もろに鼻先をぶつけ、桜花が悲鳴を上げる。
「イタァイ!」
弘枝は椿希の両肩に手を置き、そっと身を離して、ごほんごほんともう一度咳払いをする。眉を潜めるようにしてキリっとした表情をつくり、椿希と天見を交互に見つめて、
「……失礼しました、椿希様。妹は、まだ物を知らぬ歳でして、どうかご容赦ください。して、椿希様と天見さんはどうしてこちらに――」
「やりやがったなバカ姉ェ! 大人しくしてりゃいい気になりやがって、思い知らせてやるッ!」
「ふがッ!!」
「ひゃぁっ」
内側から思いっ切り扉が蹴り開けられ、その正面にいた弘枝はまたたたらを踏んで椿希に抱きつく。さらに桜花の回し蹴りが炸裂し、弘枝は椿希もろとも地面に倒れる。桜花は続けざまに姉の背中に足を落とす。弘枝の潰れた呻き声。椿希はもちろんその下にいる。
「っしゃァッ!」
桜花は勝ち誇ったように拳を天に突き上げる。天見はさっきから呆れたように三人を眺めている。どうしたものかと。
が、そこで弘枝の下から椿希の腕がスッと伸びる。桜花の足首を掴んで――
「ファッ!?」
桜花のからだが魔法のように空中を一回転する。天見が後退りすると同時に、椿希が弘枝の下から這い出て、立ち上がり、桜花をそのまま受け止めている。脇を抱えて持ち上げ、同じ高さの目線から、にっこりと微笑みかける。しかし眼が笑っていない。
「……お、おう?」桜花が首を傾げ、
「天見さん。受け止めといて」椿希が言う。
「は?」
ふわりと桜花のからだがさらに持ち上がる。
ほとんど飛び上がるように、アパートの二階のベランダすれすれまで投げられる。椿希の手は桜花の手首を掴んでおり、そこを軸に、まるで物理法則が無視されたように一回転、二回転、三回転。大道芸のように、V字を描いてさらに投げられ、天見の頭上に。そのときにはもう、桜花は完全に眼を回している。
「桜花ー――っッ!?」
弘枝の悲鳴。
天見は眼を細めて面倒くさそうに投げ飛ばされる少女を見上げる。「……」
ぱっと椿希が手を離す。慣性に従い、天見の頭上から墜落してくる。
天見は普通にかわした。
「きゃん!」
天見の足元には弘枝がいて、夢中で伸ばされた腕が、間一髪で桜花をキャッチしていた。しかし勢いを完全に止めきることはできず、尻餅をつくかたちで、桜花は地面に落ちていた。
「はあ」椿希は溜息をついた。「弘枝さんあの家じゃネコ被ってたのね。なんだか拍子抜けしたというか、肩透かし喰らっちゃったわ」
弘枝は気まずそうに、「いや、別に……そういうわけでは。仕事中に、普段どおりのことば遣いをするわけにいもいきませんので」
「まあそうよね。はい、弘枝さんのお財布。ないと困るでしょ?」
「あ。わざわざ届けてくださったのですか?」
「電話番号知らなかったから。じゃあ、夜中に悪かったわね、これで帰るわ」
「――。お待ちください、せっかくですから、お茶でもお出ししますよ。どうぞ上がっていってください」
「あらいいの?」
弘枝は微笑んだ。「一割の謝礼というわけではありませんが、お礼もしたいので。ありがとうございます」
「拾ったのは天見さんだけどね」
で、そういうことになる。
椿希ににこりと笑いかけられ、桜花はびくりと素早く退いて陰に隠れた。椿希と弘枝が部屋に入っていってやっと一息つく。おっかねーと呟いて、ふと天見に顔を向けた。
「あれ、家政婦さん? にしてはなんか、あたしと変わんないくらいだね」
「……中一。ただのバイト」
「お、先輩かな? 先輩かな? あたし○○小だけど!」
「聞いたことない」
「あちゃー、残念。え? お姉ちゃん働いてるとこ中学生でも募集かけてんの?」
「顔見知りってだけ」
天見もふたりの後を追う。雇われの身で、ただでお茶などいただけないから、台所でごそごそやっている弘枝に声をかける。
「なにか手伝うことあります?」
「悪ィな。でも、いいよ、オレやっとく。どうせ湯沸かして茶っ葉に淹れるだけだ。そこの棚にお菓子あるから適当に持ってって」
「……なんか随分印象違いますね」
「仕事とそうでないとこでオンオフかけてるってだけだよ」薬缶をがんとコンロに置いて、「いきなりきたもんだからびっくりしちまった。ああ、姫川さん、ありがとな。明日から連休だってのに、財布なくなってたらテンション下がって家でごろごろしてるしかなくなっちまうとこだったから。助かった」
「妹さんと結構歳離れてますね」
「干支一回りぶんな。末の妹なんだ。あいだに四人弟がいる。姫川さんは兄弟は?」
「いえ……」
椿希と初めて会ったとき、天見は家でセックスをしている両親にうんざりして夜に抜け出していたのだった。仮にあれで子ができていれば、十三も年下の弟だか妹だかが産まれることになる。空も杏奈も一人っ子だから、そうした姉妹を目の当たりにするのは初めてだった。
あの桜花という少女は、先ほどなんの遠慮もなく弘枝を蹴飛ばした。そう、なんの気兼ねもなく。普段、仲睦まじいからこそ、そういうことができるんだろう。少し暗澹とする。自分がそんな関係を築けるとは思えない。
「ちぇー。時限配信のクエ終わっちゃった。せっかくこのために課金コース入れたのに、あんま稼げなかったなー。レア素材救済なのにドロップ率低すぎんだよー」
「あら、ゲーム?」
「んー、ネトゲ。ちと古いからグラはあんまりだけど、根っこの部分でゲーム性が優秀なのよ。まあアップデートしすぎてバランス崩れたり課金要素導入しまくって懐にえぐくなってたりすっけど、ライト層だと割り切ってのんびりやればそれなりに――お、椿希サマゲーム興味あるっ?」
椿希は溜息をついた。「家じゃ全然触らせてもらえなくてね。子供のとき、他所の子が羨ましかった。そういうところで不自由だったわ。ファミコン?も買ってもらえなくて。最近のパソコンのゲームって、実際どうなの?」
「スペックさえあればねー。コンシューマーのほうが面白いっちゃ面白いけど次から次へと新世代機が出て長くできないんだよなー。ソシャゲはゲーム性よりイラストと声優だし。椿希サマちょっとやってみる?」
「ン……いいのかしら。私こういうの全然わからないんだけど……」
「アクションだから初心者は辛いかもねー。ゲーセンとか行かないん?」
「付き合いで何回か。でも、実際やったのはクレーンゲームくらいよ」
促されて、椿希はパソコンのまえに座る。
恐る恐るコントローラーを握ってみる。
戻ってきた弘枝は、その光景を眼にして、ひどい眩暈がした。そして顔を蒼褪めさせた。
パソコンのまえに座ってコントローラーを握り、眉をひそめて真剣そのものの眼でモニターを見つめる椿希。その横で興味なさそうに見物している天見。そしてまったく勘弁してほしいことに、よりにもよって、椿希を座椅子にしてあれこれと指示を出す妹の桜花。
「なるほどだいたいわかったわ。この回避行動中の六十分の何秒かにだけ攻撃が当たらないのね。そして敵さんの攻撃にはほとんどわかりやすい予備動作があって、それに合わせて回避しつつ、出鼻と抜き技で応じつつ体力を削っていく、と。こっちは二三発くらったらもうやられそうなのに、敵さんは随分とタフなのね。何度も攻撃を当てないと、怯みさえしてくれない。あっ、でもなんか疲れてるみたいだわ、足引き摺ってる」
「おおー、椿希サマもうフレーム回避覚えちゃったか。すげえや、天才! お姉ちゃんより全然才能あるよ!」
「引き技、飛び込み技、返し技、一通りできるのね。この敵さん、竜かしら? 動作が活き活きしていて、迫力がある。すごいわ、最近のゲームってよくできてる」
「このゲーム屈指の良モンスって評価されてるもんね! でも部位破壊限定素材が鬼畜なのが惜しいんだよなあ、武器にも防具にもやたら数要求されるのに、ドロップ率5パーしかないし。お、そこまで追い詰めればもう少しだよ、気を抜かないで!」
「ええ、了解よ。手負いの獣ほど怖いものもないって言うわね。でもゲームとはいえ、なんだか哀しいわ。よくよく見ればこの角といい、牙といい、小さな瞳といい、愛嬌がある。あら、終わっちゃった?」
「やったぜ」
「なかなか楽しませてもらったわ。ありがとうございました」
危うく盆を落としそうになり、弘枝はたたらを踏んだ。桐生本家の一人娘である椿希を、桜花は座椅子にして、タメ口まで聞いているのである。入江は桐生家に代々仕えてきた庭師の家系、仮に父や祖父がこの光景を眼にすれば雷を落とすのは必至である。弘枝に忠誠心はないが祖父は怖い。
「桜花、おい、桜花……っ!」
「お? お姉ちゃんやっと帰ってきた。もー椿希サマがモンスター狩るほうがよっぽど早かったじゃん! あー喉渇いたー」
「ばかおまえちょっこっちこいっ!」
「え? んもーなに? あ、椿希サマお姉ちゃんよりずっと筋いいよ、今度一緒にログインして遊ぼうぜ! 月額二千円ぽっちだからさー!」
「そうね、考えておくわ。またいろいろ教えて頂戴ね」
「おう任せろよ! 最前線くるまでばっちりエスコートしてやるぜ!」
「はい師匠」
弘枝は倒れそうになった。
「……あ、天見さん、ちょっと電話してくるわね」
「はい」
椿希は部屋を出て、夜を見上げる。月灯りが煌々と照り輝き、星の瞬きを喰らっている。
いつまでも逃げ続けてはいられない。それはわかっている。ここにいる意味。
天見に背中の傷を見られて、あまりショックでない自分に気がついていた。いい機会、なのだろう。問題なのはこの傷そのものではなく、この傷をつけた者であり、傷つけられた後に自分がした行動であり、そうして、自分がつけたほうの傷であった。
細い吐息をひとつ。そうして携帯を操作し、実家の番号を呼び出す。彼女の携帯の番号は知らないのだ。内線で、直接繋げられるはずだった。
ややあって、その声が出る。『はい……桐生です』
できるだけ自然な声色になるよう心がけつつ言う。「ああ、愛莉さん? 私よ、椿希――」
名を出した瞬間に繋がりが切れる。
椿希は額に手を当てて溜息。
「はあ。まあ、嫌われてるわよねえ」
夜の風が吹く。梅雨が近い。
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って誰が言ってたんだっけな。
さて、愛莉さんの場合は…?