オリジナル。登山、微百合、日常のぐだぐだ。等々。
過去編はこれで終わりです。次回から現在時制。
書き溜めがギリギリで危ない。そして展開が難しい。ぐぬぬ。
そして全作試しに足してみたら700kb越えてた件。お……おう……
頂上アタックの日に、雪崩に呑み込まれたということだった。セラックの崩壊。
ザイル・パートナーである篠原は高所順応に失敗してベースキャンプに下っていた。櫛灘文太はひとりだった。雪崩の予兆があったかどうか? 空は現地を見ていないから、わからない。急激に温度が上がったようなことはなく、新雪が積もっていたということもなく、文太の行動が特別遅かったというわけでもなかった。運が悪かった? 仮に他の、もっと強く、もっとタフで、もっと思慮深く、最前線のさらに最前線にいるようなクライマーが彼の立場にあったとして、雪崩を避けれたかどうか。
どれだけ後付けで櫛灘文太の失敗を掘り起こしたところで、彼は戻ってこない。それだけが厳然たる事実となる。
それから葬儀に至るまでの空の記憶は曖昧で、なにをどうしたのかあまり思い出せない。誰があらゆる手続きをしたのか。誰が喪主を務めたのか。学校へ行っていたかどうかさえ定かではなかった。
会ったこともない、文太の両親に親権が渡ると聞いたことも、よく覚えていなかった。彼の妹とかいう女性から電話がかかってきたような気もする。しかし、空には根本的に関係がなかった。文太の実家からは誰も葬儀にこなかった。
葬儀の場で空が感情を露にすることはなかった。取り乱すようなこともなかった。ほとんど石のような態度で、文太の教え子たちが少なからず涙を流すなか、機械的に儀式をこなして人々の合間を抜けた。誰かの囁き声が聞こえた――「あの子、全然哀しんでるようには見えない。父親が死んだっていうのに、感情がないの?」
文太の遺体は帰ってこない。いまもパキスタンの山中に埋まっている。マロリーのように、何十年もした後にどこかから出てくることになるのか、永遠に星の子宮に埋没したままになるのか、そのどちらかなのだろう。そうであるがために、どうしても父親が死んだという実感が湧いてこなかった。彼が登山で不在にするのはいつものことなのだから。
式場の長椅子に篠原が座っており、目許に手を当てて深く俯いていた。彼を目にするのは随分と久し振りだった。空が近づいていくと、篠原は顔を上げ、痛烈に表情を歪めた。空はわずかに微笑んだ。
「よ」
篠原は頭を落とした。「すまん」
「なにが?」
「おれは帰ってくるべきじゃなかった。おれは……」一言一句が苦痛であるかのような声だった。「櫛灘さんのザイル・パートナーだったのに」
「親父が死んだのを自分の責任だと思ってるなら、それはお門違いだ」と空は言う。「雪崩に呑まれたのは親父で、あんたじゃない。アタックの判断をしたのも親父で、あんたじゃない。親父が自分で判断する男だって、ちゃんとあたしにはわかってるよ。ベースキャンプからどんなに急かされたところで、親父は、登れるって確信がなきゃ登ろうとしない人間だった。山がどういうものかってきちんとわかってただろうし、それはあたしにしたっておんなじだ。別にあんたのせいだとは思わないよ」
「櫛灘さんはひとりで行ってしまった。ソロ・クライマーじゃなかったのに」
「あんたは下りて正解だった。SPO2(動脈血酸素飽和度)、ずっと50切ってたんだろ? そんなんで登ろうとするほうがまずかったろうさ」
篠原は唇を曲げた。「山に拒絶された。おまえはくるなって罵られた。そんな感じがする。アンナプルナのときは、うまくいったのにな……」
美奈子さんからずっと励まされてただろうに、と空は思う。彼の気持ちがわかるなどとは思わない。結局のところ、文太のザイル・パートナーだったのは篠原であって、空ではなかったのだから。
しかし、篠原がどう感じているのか、彼の佇まいからそれは一目瞭然だった。空はぼんやりと言う。「登りたかった?」
篠原は空を見つめた。
「親父抜きでも登りたかったと思う?」
文太の大切な一人娘は父親と同じくひとりの山屋だった。それが幸福なのかどうか。少なくとも空は山というフィールドがどういうものかわかっていた。篠原はどうにか言う。「ああ」
「親父も登りたかったろうさ。あんたとおんなじで。それで失敗して、そうなったんだから――本望だったとは言わないけどさ」
「……ああ」
空は篠原の隣に座った。篠原は空の横顔を見、その表情の静寂を見、どうしてこの娘はこんなにも落ち着いているんだろうと思う。必要以上に哀しんだり、取り乱したりといった、普通の反応が彼女にはまったく見られなかった。岩のように安定しており、氷のように冷静だった。こちらは、もうこれ以上ないほど無様に沈んでしまっているというのに。
「親父だったら」と空は言う。「あんたを巻き添えにしなくてよかった、って言うだろうよ。あんたが無事に帰ってこれてよかったって。親父はそういう男だった。いや、ごめんよ、それはあたしよりあんたのほうがわかってることだった」
篠原は両手で顔を覆った。
「あんたはあたしが生まれるよりもまえから親父とザイルを繋いでたんだから」
死んだ人間と共にあったあらゆる人生を辿り、篠原は小さく肩を揺らした。
「美奈子さん。愛莉がどこ行ったか見かけなかった?」
「うん。斎場を出て、川のほうに歩いてったよ。まだその辺にいるんじゃないかな」
「ありがとう」
喪服姿の美奈子は、ひどく幼い娘の手を引いて、彼女に似つかわしくない静かな表情を浮かべていた。篠原の登ったただひとつの8000メートル峰、アンナプルナから、杏奈、と名づけられたその娘は、なにもわかっていないような顔をして、不安げに母を見上げていた。
母娘。これがそうなのか、と空は思う。空には母親がいない。それを寂しく思ったことなどただの一度もなかったが、いま、そのことをひどく不思議に感じる。
空はしゃがんで杏奈に視線の高さを合わせ、不器用に微笑んで言う。「退屈だったろ? ごめんね。でも、もう少しだけ付き合っておくれ」
「……」
「はは。顔立ちがびっくりするくらい美奈子さんに似てら。きっとすごい美人さんになるんだろうね」
眠いのだろう、ぼんやりした瞳に靄がかかっていた。空は手を伸ばし、軽く触れ、目やにを取ってやった。
「空ちゃん。武さんを励ましてくれてありがとね」
「話しただけです。力になれなくてすみません」
「んーん」美奈子は首を振った。「武さんはあたしより空ちゃんのほうを信頼してるようなとこがあるから。なんだかんだで付き合い長いもんね。文太さんのことで、聞く耳を持つとしたら、空ちゃんのことばのほうがずっと重いよ。あたしは少しまえからの文太さんのことしか知らないから……」
「あたしにしたって、親父のことをなんでも知ってるなんて言えませんけどね」
実際、空が文太とザイルを繋いだ期間はあまりにも短かった。篠原の十分の一もないだろう。彼に自分の登山を秘密にしてきた時間を悔やむようなことはなかったが、このタイミングで父を亡くしたことに、言いようのない感覚を憶える。
立ち上がって行きかけ、空はふと訊く。「美奈子さん」
「なに?」
「あの山は――」ふっと息を沈めて、「親父の死んだ山、どうでした?」
美奈子は遠い目をした。「あたしにとっては、初めての海外遠征だった。そうだからってわけじゃないけど、すごく……」
「すごく?」
「途方もない感じがしたよ。近くで見上げてもまだ遠くにあるような山だった。一生かけて歩き続けて、それでも辿り着けるかどうか見当もつかない……仮に頂へ足を踏み入れても、まだ上があるんじゃないかって感じてしまいそうな……」
そこで首を振り、小さく微笑んだ。
「素晴らしかった。登らなかったあたしに言えるのは、それくらいだよ」
「後で写真もらえます?」
「もちろん」
ひそひそ声。内緒話。耳打ち。
『櫛灘先生の一人娘』についてあれこれと小声が行き来する。空の態度はあまりに……異様すぎた。わかりやすく哀しんでいなかった。あまりに落ち着きすぎており、それは誰もが表現する感情と隔たりが大きすぎた。とはいえ心無い批評もいっときのものに過ぎない。それぞれがそれぞれ、故人の死を悼み、悔やむ。結局のところこの儀式にやってくる誰もが多かれ少なかれ傷ついているのだから。
空は遺された家族として礼儀正しく挨拶をして回る。きてくれたことの礼を紡ぎ、必要以上にことばを交わさず、求められれば文太の思い出を差し出す。声音は滑らかで一言一句噛みさえしない。
空という人間を知っていれば、そうした態度のほうこそ異様であることに気づいただろう。少なくとも彼女は社交性のあるほうではないのだから。わかりにくいにしろ、それが彼女なりの哀しみだった。心を覆い隠して深みに落とす。
篠原は気づいていたし、美奈子も気づいていた。黙りこくって斎場の端で自らの存在を消し続けていた芦田も気づいていた。とはいえ空本人は、あたしは冷血なんだろうかと思っている。丁寧に隠された感情に、自分でさえ気づけないところがあった。
斎場を出て、遠い山並を右手に見ながら雪の道路を歩く。薄い雲越しの白い陽射し。冬が深まっており、風の冷気が頬の肌を削ぐ。マフラーに口許を埋め、鼻の周りを赤く染めて、斎場にいなかった女を探す。
その川は一級河川で、幅が広く、河川敷を部活動らしい少年たちが大勢でランニングをしている。草野球もやっている。楽しげなざわめきが横を通り過ぎ、空は振り返って笑顔を追う。親父が死んでも世界はなんにも変わらないなと思う。
単線の電車が遮断機の音を伴って遠ざかっていく。
愛莉は橋の真ん中に突っ立っている。コートのポケットに両手を突っ込み、凄まじい眼をして世界を睥睨している。空ははっとするような思いで立ち止まる。
「愛莉」
その眼に浮かんでいるものは哀しみではなかった。斎場の人間たちが揃って表現していた感情ではなく、率直な、あまりに剥き出しの怒り、そう、激怒だった。歯を噛み砕かんとするほど唇を歪め、白く凍る吐息さえ燃えていた。
空の存在に気づいていたのかどうか。空は震える声を聞く。
「死にやがった……」
いや、それが現実の声だったかどうかもわからない。風に弄られ、彼女の囁きが聞こえたかどうか、後になってその現実さえ幻想めいてしまう。彼女が思ったことを耳にしたのかもしれない。心の声を聞いたのかもしれない。しかし、愛莉の表情が明白に語っていた。
八ヶ岳のほうを見ていた。ここからいちばん近い山。そこに文太がいるわけもないのに、愛莉はそこ以外に山を知らないのだ。そして、山を睨んでいた。八ヶ岳ではなく、山という概念そのものに荒ぶる怒りの矛先を向けていた。
亡霊のように蒼くなった愛莉の顔。ときが経っても、空はその光景をずっと覚えている。ひとりの山屋の死。それがどういうことか、山と関係ないはずの、彼女の顔によって印象づけられる。醜悪な美貌。
空は愛莉の隣に立った。愛莉の吐息が聞こえた。誰かを殺そうとでもしているかのように重苦しい吐息だった。
なにを言うこともできず――愛莉は山の女ではなかったから――空は欄干に肘を突き、愛莉と同じ方向を見つめた。八ヶ岳の山並はどこまでもいつもどおりで、稜線上は白く輝き、真っ白な曇り空を背負って穏やかだった。先日、赤岳鉱泉から硫黄岳に至る登山道で雪崩が起きており、大学の山岳部が巻き込まれていた。かなり大きなニュースになっていた。それでも山はなにも変わっていない。
「まるで……」空のほうを見ず、愛莉は喘ぐように呟いた。「まるで、なんの意味もないみたいに……塵屑みたいに……死にやがった」
「うん」
「あんたは」一秒の沈黙を挟んで、「悔しくないの? 腹が立たないの? 先生はあんたをひとりだけ遺して逝っちまった。そういうのって……」
「死のうと思って死んだんじゃないんだ。あたしがどうこう言えるもんじゃないよ」
「あんたは先生の子だ。あんたにはその権利が、ある……」
「ないよ」
空は首を振った。それは山に接してから心のどこかで覚悟していたことだった。
「親父の人生は親父のもんだ。あたしのじゃなく。親父がどこでなにをどう消耗したところで、あたしにはそれに文句をつける権利なんかない。『おれはおまえのために苦しんでるんだ』って言われたほうがよっぽど辛かったろうけど、親父はそんなこと一言も口にしなかった。あたしをずっとひとりの人間として扱ってくれた。親父が山に登ってたのはどこまでもどこまでも自分の楽しみのためで、そこにあたしが介入する余地なんかなかった。あたしはそのほうが嬉しいし、感謝してる。親父はあたしのために自分を犠牲にするってことがなかった」
「それは父親としてどうなんだ? 娘に対する愛情が足りなかったってことじゃないの?」
「なあ、あたしは正直に話してるんだぜ。愛莉なら理解してくれると思ってるからさ。あたしは父親って人種じゃないから、そりゃ、親父について批評するなんてことはできないよ。でも、わかってるだろうけど、あたしは親父を責めることなんかできないし、しない」
先に死んでいたのは自分のほうだったかもしれないのだ。
山を登り始めたときから死の匂いは常にこの身のそばにあった。
それを思えば、空には、父親についてあれこれと批判する気にはなれなかった。結局のところ、なにをどうしても現実を変えることはできない。
「あんたは石か雲みたいだ」と愛莉。
「……」
「父親が――いちばん身近な人間が――まるで手の届かない場所でどうにかなっちまったってのに、全然堪えてるように見えない。なんにも取り乱してない。すごく……哀しんでるってのはわかる。何年も一緒にいれば、私にだって、あんたのことはそれくらいはわかる、でも……だからなんだっていう風にしか見えない。私にはそれが信じられない……」
「そうかい? これでも、生まれて初めてってくらいには傷ついてるつもりだけど」
「あんたは」愛莉はうなだれた。「あんたは……」
愛莉はこれからどうするのだろう、と空は思う。
文太は死んだ。もう二度とあのおんぼろアパートに帰ってくることはない。それはつまり、愛莉があそこへやってくる理由の消滅だった。愛莉にとって文太の存在がどういうものだったのか、空は完全に知っているわけではない。
中学の教師を破滅させた、と言っていた。けれど、だからなんなのか。文太もそういう風にしたかったのか。少なくとも、これまでそれは叶わなかったように見えたし、これからはもうどうすることもできないだろう。が、なぜそうしたのか、なぜそうしようとしたのか、空にはわからなかった。
(あんたには悪魔がいない、か)
そう言ったときの愛莉は完全にあたしを拒絶していた。大事なところに近寄らせず、彼我の距離を寸断していた。わかってはいる。自分に文太の代わりは務められない。
文太の存在は愛莉をここに引き止めていた。クライミング・ルートの中間支点のように。その行く先がどこにしろ。だったら、これから先、どうするのか。
(なんで親父が死んで、自分のことじゃなく、愛莉のことを心配してんだろうな)
少なくとも、自分に関しては明白だった。なにも変わらなかった。登り続ける以外に、空という人間の為すべきことはなにもなかった。
「親父がいなくなっちまったから、あたしが言っておかなきゃと思うんだけど」
「なに……」
「なんていうか、なんだろ。言いにくいんだけど、親父には、あんたがいてくれてよかったと思うよ」
愛莉は不意を突かれたように空を見つめた。
「あんたがどういうつもりだったにしろ、嬉しかった。わかるだろ? 親父は、なんでか知らないけど、実家から絶縁されてて、こっちにゃ親類のひとりもいない。今日も葬式だってのに故郷から誰も別れにこない。親父にとっちゃ、故郷はもう異国で、誰もいなかったんだ。あんたがうちにくるようになるまえ、ときどき、親父はすごく寂しそうにしてた。
知らなかっただろ?」
「私は」
「でも、あんたがくるようになってから、そういう親父は全然見なくなったよ。そりゃ、あんたのことで色々と悩んではいたけど、たぶんそれは、親父にとっては全然いやなことなんかじゃなかった。教師だったんだから。あたしがこんなこと言ったってあんたは信じたくないだろうけど」
愛莉はほとんど身を縮めるようにした。
「あんたは親父を破滅させようとしてた。でも、ありがとう。あんたに関しちゃ、親父にとって、山以外では数少ない自分の本来でいられる場所だった。親父もあんたが好きだったと思うよ。悪意も敵愾心もみんなひっくるめて」
愛莉は最後に空を抱き締めて去っていった。
彼女がそうした風に素直な感情を示したのはそれが初めてのことで、空はひどく驚き、これ以上ないほど驚き、呆然と彼女の背中を見送っていた。そして、いまのところ、それが愛莉と語り合った最後の機会となってしまっている。
愛莉は行方知れずになってしまった。あの日以来、彼女とただの一度も出会っていない。
遠い、遠い時間が流れた。文太の死から一年後、空は篠原と共に文太を打ちのめした山を登っていた。今度は山は篠原を拒絶しなかった。ふたりを厳しく、優しく迎え入れた。空はそうして父親の思い出を弔った。
空はさらに一年ごとに成長し、ただひとりで生き続け、登り続け、高校を卒業してすぐアメリカへ渡り、クライミング・トリップに青春を費やした。ボディー・ランゲージでコミュニケーションの壁を攀じ登り、非正規労働で生活費を稼ぎ、モーテルやクライミング仲間のトレーラーで眠り、登り、時にはカリフォルニアのデス・ヴァレーといった砂漠などにも足を伸ばし、法に触れる一歩手前のことにまで巻き込まれたりもした。
マフィアとカルト集団の銃撃戦に出くわしたりもしたし、そのときには頬の横を銃弾が掠めたりもした。長い旅のなかで海を渡り、ヨーロッパを転々とし、かの偉大なるラインホルト・メスナーの実家を目にしたりもしたし、アイガーやグランドジョラス、マッターホルンの北壁や、ドリュの西壁をやったりもした。
そのなかであらゆる人種と出会い、時にはザイルを繋ぎ合い、時には衝突し合い、望まなかったこととはいえ未踏ルートの初登を掠め盗ってしまったこともあった。自分の登山そのものを否定され、人格を否定され、登ることそのものに疲れ果てるまで登り、日本に帰ってきたときには自分のなかでかなりのものが削れ果てていた。
詳しいエピソードは別の機会に譲ろう。自分という人間から山を奪い、山から離れ、わかったのは、そんな試みは結局時間の浪費でしかなかったということだ。“社会復帰”しかけたところで極度のストレスから病に冒され、入院し、姫川陽子と出会った。彼女のことばに励まされ、もう一度自らの世界に回帰する過程で陽子の娘、天見と出会い、篠原と再会し、篠原と美奈子の娘である杏奈と再会し、気づいたときには、三十路の壁を越えていた。
そうしてまた、登り続けている。これしかないというよりは、これが、空という人間だった。幸いだったのは、山はまだ山であったということだ。断絶を経ても、かの地はなにも変わらず、なにも失っていなかった。
(悪魔、ね。いまはいるよ、たぶん)
と思う。
眠りから覚め、空は携帯を手に、天見に連絡する。二回のコールで彼女は出る。どこか愛莉に似た声の、世界のすべてに反逆しているようなところのある娘は、いつも通りの無愛想な声で応じる。
『はい』
「天見? 今週末さ、どこか登ろうと思ってるんだけど。暇?」
『私のほうから連絡しようと思ってたところです』
空は微笑んで頷く。「じゃあ、行こう。どこへでもさ……」
父親のように、中途で墜ちてしまうことだけはしたくないと思う。天見には、愛莉のような顔をさせたくはなかった。怒りを篭めて山を見上げさせるようなことはさせたくなかった。いまはただ、それだけを願う。少なくとも。
過去編はこれで終わりです。次回から現在時制。
書き溜めがギリギリで危ない。そして展開が難しい。ぐぬぬ。
そして全作試しに足してみたら700kb越えてた件。お……おう……
頂上アタックの日に、雪崩に呑み込まれたということだった。セラックの崩壊。
ザイル・パートナーである篠原は高所順応に失敗してベースキャンプに下っていた。櫛灘文太はひとりだった。雪崩の予兆があったかどうか? 空は現地を見ていないから、わからない。急激に温度が上がったようなことはなく、新雪が積もっていたということもなく、文太の行動が特別遅かったというわけでもなかった。運が悪かった? 仮に他の、もっと強く、もっとタフで、もっと思慮深く、最前線のさらに最前線にいるようなクライマーが彼の立場にあったとして、雪崩を避けれたかどうか。
どれだけ後付けで櫛灘文太の失敗を掘り起こしたところで、彼は戻ってこない。それだけが厳然たる事実となる。
それから葬儀に至るまでの空の記憶は曖昧で、なにをどうしたのかあまり思い出せない。誰があらゆる手続きをしたのか。誰が喪主を務めたのか。学校へ行っていたかどうかさえ定かではなかった。
会ったこともない、文太の両親に親権が渡ると聞いたことも、よく覚えていなかった。彼の妹とかいう女性から電話がかかってきたような気もする。しかし、空には根本的に関係がなかった。文太の実家からは誰も葬儀にこなかった。
葬儀の場で空が感情を露にすることはなかった。取り乱すようなこともなかった。ほとんど石のような態度で、文太の教え子たちが少なからず涙を流すなか、機械的に儀式をこなして人々の合間を抜けた。誰かの囁き声が聞こえた――「あの子、全然哀しんでるようには見えない。父親が死んだっていうのに、感情がないの?」
文太の遺体は帰ってこない。いまもパキスタンの山中に埋まっている。マロリーのように、何十年もした後にどこかから出てくることになるのか、永遠に星の子宮に埋没したままになるのか、そのどちらかなのだろう。そうであるがために、どうしても父親が死んだという実感が湧いてこなかった。彼が登山で不在にするのはいつものことなのだから。
式場の長椅子に篠原が座っており、目許に手を当てて深く俯いていた。彼を目にするのは随分と久し振りだった。空が近づいていくと、篠原は顔を上げ、痛烈に表情を歪めた。空はわずかに微笑んだ。
「よ」
篠原は頭を落とした。「すまん」
「なにが?」
「おれは帰ってくるべきじゃなかった。おれは……」一言一句が苦痛であるかのような声だった。「櫛灘さんのザイル・パートナーだったのに」
「親父が死んだのを自分の責任だと思ってるなら、それはお門違いだ」と空は言う。「雪崩に呑まれたのは親父で、あんたじゃない。アタックの判断をしたのも親父で、あんたじゃない。親父が自分で判断する男だって、ちゃんとあたしにはわかってるよ。ベースキャンプからどんなに急かされたところで、親父は、登れるって確信がなきゃ登ろうとしない人間だった。山がどういうものかってきちんとわかってただろうし、それはあたしにしたっておんなじだ。別にあんたのせいだとは思わないよ」
「櫛灘さんはひとりで行ってしまった。ソロ・クライマーじゃなかったのに」
「あんたは下りて正解だった。SPO2(動脈血酸素飽和度)、ずっと50切ってたんだろ? そんなんで登ろうとするほうがまずかったろうさ」
篠原は唇を曲げた。「山に拒絶された。おまえはくるなって罵られた。そんな感じがする。アンナプルナのときは、うまくいったのにな……」
美奈子さんからずっと励まされてただろうに、と空は思う。彼の気持ちがわかるなどとは思わない。結局のところ、文太のザイル・パートナーだったのは篠原であって、空ではなかったのだから。
しかし、篠原がどう感じているのか、彼の佇まいからそれは一目瞭然だった。空はぼんやりと言う。「登りたかった?」
篠原は空を見つめた。
「親父抜きでも登りたかったと思う?」
文太の大切な一人娘は父親と同じくひとりの山屋だった。それが幸福なのかどうか。少なくとも空は山というフィールドがどういうものかわかっていた。篠原はどうにか言う。「ああ」
「親父も登りたかったろうさ。あんたとおんなじで。それで失敗して、そうなったんだから――本望だったとは言わないけどさ」
「……ああ」
空は篠原の隣に座った。篠原は空の横顔を見、その表情の静寂を見、どうしてこの娘はこんなにも落ち着いているんだろうと思う。必要以上に哀しんだり、取り乱したりといった、普通の反応が彼女にはまったく見られなかった。岩のように安定しており、氷のように冷静だった。こちらは、もうこれ以上ないほど無様に沈んでしまっているというのに。
「親父だったら」と空は言う。「あんたを巻き添えにしなくてよかった、って言うだろうよ。あんたが無事に帰ってこれてよかったって。親父はそういう男だった。いや、ごめんよ、それはあたしよりあんたのほうがわかってることだった」
篠原は両手で顔を覆った。
「あんたはあたしが生まれるよりもまえから親父とザイルを繋いでたんだから」
死んだ人間と共にあったあらゆる人生を辿り、篠原は小さく肩を揺らした。
「美奈子さん。愛莉がどこ行ったか見かけなかった?」
「うん。斎場を出て、川のほうに歩いてったよ。まだその辺にいるんじゃないかな」
「ありがとう」
喪服姿の美奈子は、ひどく幼い娘の手を引いて、彼女に似つかわしくない静かな表情を浮かべていた。篠原の登ったただひとつの8000メートル峰、アンナプルナから、杏奈、と名づけられたその娘は、なにもわかっていないような顔をして、不安げに母を見上げていた。
母娘。これがそうなのか、と空は思う。空には母親がいない。それを寂しく思ったことなどただの一度もなかったが、いま、そのことをひどく不思議に感じる。
空はしゃがんで杏奈に視線の高さを合わせ、不器用に微笑んで言う。「退屈だったろ? ごめんね。でも、もう少しだけ付き合っておくれ」
「……」
「はは。顔立ちがびっくりするくらい美奈子さんに似てら。きっとすごい美人さんになるんだろうね」
眠いのだろう、ぼんやりした瞳に靄がかかっていた。空は手を伸ばし、軽く触れ、目やにを取ってやった。
「空ちゃん。武さんを励ましてくれてありがとね」
「話しただけです。力になれなくてすみません」
「んーん」美奈子は首を振った。「武さんはあたしより空ちゃんのほうを信頼してるようなとこがあるから。なんだかんだで付き合い長いもんね。文太さんのことで、聞く耳を持つとしたら、空ちゃんのことばのほうがずっと重いよ。あたしは少しまえからの文太さんのことしか知らないから……」
「あたしにしたって、親父のことをなんでも知ってるなんて言えませんけどね」
実際、空が文太とザイルを繋いだ期間はあまりにも短かった。篠原の十分の一もないだろう。彼に自分の登山を秘密にしてきた時間を悔やむようなことはなかったが、このタイミングで父を亡くしたことに、言いようのない感覚を憶える。
立ち上がって行きかけ、空はふと訊く。「美奈子さん」
「なに?」
「あの山は――」ふっと息を沈めて、「親父の死んだ山、どうでした?」
美奈子は遠い目をした。「あたしにとっては、初めての海外遠征だった。そうだからってわけじゃないけど、すごく……」
「すごく?」
「途方もない感じがしたよ。近くで見上げてもまだ遠くにあるような山だった。一生かけて歩き続けて、それでも辿り着けるかどうか見当もつかない……仮に頂へ足を踏み入れても、まだ上があるんじゃないかって感じてしまいそうな……」
そこで首を振り、小さく微笑んだ。
「素晴らしかった。登らなかったあたしに言えるのは、それくらいだよ」
「後で写真もらえます?」
「もちろん」
ひそひそ声。内緒話。耳打ち。
『櫛灘先生の一人娘』についてあれこれと小声が行き来する。空の態度はあまりに……異様すぎた。わかりやすく哀しんでいなかった。あまりに落ち着きすぎており、それは誰もが表現する感情と隔たりが大きすぎた。とはいえ心無い批評もいっときのものに過ぎない。それぞれがそれぞれ、故人の死を悼み、悔やむ。結局のところこの儀式にやってくる誰もが多かれ少なかれ傷ついているのだから。
空は遺された家族として礼儀正しく挨拶をして回る。きてくれたことの礼を紡ぎ、必要以上にことばを交わさず、求められれば文太の思い出を差し出す。声音は滑らかで一言一句噛みさえしない。
空という人間を知っていれば、そうした態度のほうこそ異様であることに気づいただろう。少なくとも彼女は社交性のあるほうではないのだから。わかりにくいにしろ、それが彼女なりの哀しみだった。心を覆い隠して深みに落とす。
篠原は気づいていたし、美奈子も気づいていた。黙りこくって斎場の端で自らの存在を消し続けていた芦田も気づいていた。とはいえ空本人は、あたしは冷血なんだろうかと思っている。丁寧に隠された感情に、自分でさえ気づけないところがあった。
斎場を出て、遠い山並を右手に見ながら雪の道路を歩く。薄い雲越しの白い陽射し。冬が深まっており、風の冷気が頬の肌を削ぐ。マフラーに口許を埋め、鼻の周りを赤く染めて、斎場にいなかった女を探す。
その川は一級河川で、幅が広く、河川敷を部活動らしい少年たちが大勢でランニングをしている。草野球もやっている。楽しげなざわめきが横を通り過ぎ、空は振り返って笑顔を追う。親父が死んでも世界はなんにも変わらないなと思う。
単線の電車が遮断機の音を伴って遠ざかっていく。
愛莉は橋の真ん中に突っ立っている。コートのポケットに両手を突っ込み、凄まじい眼をして世界を睥睨している。空ははっとするような思いで立ち止まる。
「愛莉」
その眼に浮かんでいるものは哀しみではなかった。斎場の人間たちが揃って表現していた感情ではなく、率直な、あまりに剥き出しの怒り、そう、激怒だった。歯を噛み砕かんとするほど唇を歪め、白く凍る吐息さえ燃えていた。
空の存在に気づいていたのかどうか。空は震える声を聞く。
「死にやがった……」
いや、それが現実の声だったかどうかもわからない。風に弄られ、彼女の囁きが聞こえたかどうか、後になってその現実さえ幻想めいてしまう。彼女が思ったことを耳にしたのかもしれない。心の声を聞いたのかもしれない。しかし、愛莉の表情が明白に語っていた。
八ヶ岳のほうを見ていた。ここからいちばん近い山。そこに文太がいるわけもないのに、愛莉はそこ以外に山を知らないのだ。そして、山を睨んでいた。八ヶ岳ではなく、山という概念そのものに荒ぶる怒りの矛先を向けていた。
亡霊のように蒼くなった愛莉の顔。ときが経っても、空はその光景をずっと覚えている。ひとりの山屋の死。それがどういうことか、山と関係ないはずの、彼女の顔によって印象づけられる。醜悪な美貌。
空は愛莉の隣に立った。愛莉の吐息が聞こえた。誰かを殺そうとでもしているかのように重苦しい吐息だった。
なにを言うこともできず――愛莉は山の女ではなかったから――空は欄干に肘を突き、愛莉と同じ方向を見つめた。八ヶ岳の山並はどこまでもいつもどおりで、稜線上は白く輝き、真っ白な曇り空を背負って穏やかだった。先日、赤岳鉱泉から硫黄岳に至る登山道で雪崩が起きており、大学の山岳部が巻き込まれていた。かなり大きなニュースになっていた。それでも山はなにも変わっていない。
「まるで……」空のほうを見ず、愛莉は喘ぐように呟いた。「まるで、なんの意味もないみたいに……塵屑みたいに……死にやがった」
「うん」
「あんたは」一秒の沈黙を挟んで、「悔しくないの? 腹が立たないの? 先生はあんたをひとりだけ遺して逝っちまった。そういうのって……」
「死のうと思って死んだんじゃないんだ。あたしがどうこう言えるもんじゃないよ」
「あんたは先生の子だ。あんたにはその権利が、ある……」
「ないよ」
空は首を振った。それは山に接してから心のどこかで覚悟していたことだった。
「親父の人生は親父のもんだ。あたしのじゃなく。親父がどこでなにをどう消耗したところで、あたしにはそれに文句をつける権利なんかない。『おれはおまえのために苦しんでるんだ』って言われたほうがよっぽど辛かったろうけど、親父はそんなこと一言も口にしなかった。あたしをずっとひとりの人間として扱ってくれた。親父が山に登ってたのはどこまでもどこまでも自分の楽しみのためで、そこにあたしが介入する余地なんかなかった。あたしはそのほうが嬉しいし、感謝してる。親父はあたしのために自分を犠牲にするってことがなかった」
「それは父親としてどうなんだ? 娘に対する愛情が足りなかったってことじゃないの?」
「なあ、あたしは正直に話してるんだぜ。愛莉なら理解してくれると思ってるからさ。あたしは父親って人種じゃないから、そりゃ、親父について批評するなんてことはできないよ。でも、わかってるだろうけど、あたしは親父を責めることなんかできないし、しない」
先に死んでいたのは自分のほうだったかもしれないのだ。
山を登り始めたときから死の匂いは常にこの身のそばにあった。
それを思えば、空には、父親についてあれこれと批判する気にはなれなかった。結局のところ、なにをどうしても現実を変えることはできない。
「あんたは石か雲みたいだ」と愛莉。
「……」
「父親が――いちばん身近な人間が――まるで手の届かない場所でどうにかなっちまったってのに、全然堪えてるように見えない。なんにも取り乱してない。すごく……哀しんでるってのはわかる。何年も一緒にいれば、私にだって、あんたのことはそれくらいはわかる、でも……だからなんだっていう風にしか見えない。私にはそれが信じられない……」
「そうかい? これでも、生まれて初めてってくらいには傷ついてるつもりだけど」
「あんたは」愛莉はうなだれた。「あんたは……」
愛莉はこれからどうするのだろう、と空は思う。
文太は死んだ。もう二度とあのおんぼろアパートに帰ってくることはない。それはつまり、愛莉があそこへやってくる理由の消滅だった。愛莉にとって文太の存在がどういうものだったのか、空は完全に知っているわけではない。
中学の教師を破滅させた、と言っていた。けれど、だからなんなのか。文太もそういう風にしたかったのか。少なくとも、これまでそれは叶わなかったように見えたし、これからはもうどうすることもできないだろう。が、なぜそうしたのか、なぜそうしようとしたのか、空にはわからなかった。
(あんたには悪魔がいない、か)
そう言ったときの愛莉は完全にあたしを拒絶していた。大事なところに近寄らせず、彼我の距離を寸断していた。わかってはいる。自分に文太の代わりは務められない。
文太の存在は愛莉をここに引き止めていた。クライミング・ルートの中間支点のように。その行く先がどこにしろ。だったら、これから先、どうするのか。
(なんで親父が死んで、自分のことじゃなく、愛莉のことを心配してんだろうな)
少なくとも、自分に関しては明白だった。なにも変わらなかった。登り続ける以外に、空という人間の為すべきことはなにもなかった。
「親父がいなくなっちまったから、あたしが言っておかなきゃと思うんだけど」
「なに……」
「なんていうか、なんだろ。言いにくいんだけど、親父には、あんたがいてくれてよかったと思うよ」
愛莉は不意を突かれたように空を見つめた。
「あんたがどういうつもりだったにしろ、嬉しかった。わかるだろ? 親父は、なんでか知らないけど、実家から絶縁されてて、こっちにゃ親類のひとりもいない。今日も葬式だってのに故郷から誰も別れにこない。親父にとっちゃ、故郷はもう異国で、誰もいなかったんだ。あんたがうちにくるようになるまえ、ときどき、親父はすごく寂しそうにしてた。
知らなかっただろ?」
「私は」
「でも、あんたがくるようになってから、そういう親父は全然見なくなったよ。そりゃ、あんたのことで色々と悩んではいたけど、たぶんそれは、親父にとっては全然いやなことなんかじゃなかった。教師だったんだから。あたしがこんなこと言ったってあんたは信じたくないだろうけど」
愛莉はほとんど身を縮めるようにした。
「あんたは親父を破滅させようとしてた。でも、ありがとう。あんたに関しちゃ、親父にとって、山以外では数少ない自分の本来でいられる場所だった。親父もあんたが好きだったと思うよ。悪意も敵愾心もみんなひっくるめて」
愛莉は最後に空を抱き締めて去っていった。
彼女がそうした風に素直な感情を示したのはそれが初めてのことで、空はひどく驚き、これ以上ないほど驚き、呆然と彼女の背中を見送っていた。そして、いまのところ、それが愛莉と語り合った最後の機会となってしまっている。
愛莉は行方知れずになってしまった。あの日以来、彼女とただの一度も出会っていない。
遠い、遠い時間が流れた。文太の死から一年後、空は篠原と共に文太を打ちのめした山を登っていた。今度は山は篠原を拒絶しなかった。ふたりを厳しく、優しく迎え入れた。空はそうして父親の思い出を弔った。
空はさらに一年ごとに成長し、ただひとりで生き続け、登り続け、高校を卒業してすぐアメリカへ渡り、クライミング・トリップに青春を費やした。ボディー・ランゲージでコミュニケーションの壁を攀じ登り、非正規労働で生活費を稼ぎ、モーテルやクライミング仲間のトレーラーで眠り、登り、時にはカリフォルニアのデス・ヴァレーといった砂漠などにも足を伸ばし、法に触れる一歩手前のことにまで巻き込まれたりもした。
マフィアとカルト集団の銃撃戦に出くわしたりもしたし、そのときには頬の横を銃弾が掠めたりもした。長い旅のなかで海を渡り、ヨーロッパを転々とし、かの偉大なるラインホルト・メスナーの実家を目にしたりもしたし、アイガーやグランドジョラス、マッターホルンの北壁や、ドリュの西壁をやったりもした。
そのなかであらゆる人種と出会い、時にはザイルを繋ぎ合い、時には衝突し合い、望まなかったこととはいえ未踏ルートの初登を掠め盗ってしまったこともあった。自分の登山そのものを否定され、人格を否定され、登ることそのものに疲れ果てるまで登り、日本に帰ってきたときには自分のなかでかなりのものが削れ果てていた。
詳しいエピソードは別の機会に譲ろう。自分という人間から山を奪い、山から離れ、わかったのは、そんな試みは結局時間の浪費でしかなかったということだ。“社会復帰”しかけたところで極度のストレスから病に冒され、入院し、姫川陽子と出会った。彼女のことばに励まされ、もう一度自らの世界に回帰する過程で陽子の娘、天見と出会い、篠原と再会し、篠原と美奈子の娘である杏奈と再会し、気づいたときには、三十路の壁を越えていた。
そうしてまた、登り続けている。これしかないというよりは、これが、空という人間だった。幸いだったのは、山はまだ山であったということだ。断絶を経ても、かの地はなにも変わらず、なにも失っていなかった。
(悪魔、ね。いまはいるよ、たぶん)
と思う。
眠りから覚め、空は携帯を手に、天見に連絡する。二回のコールで彼女は出る。どこか愛莉に似た声の、世界のすべてに反逆しているようなところのある娘は、いつも通りの無愛想な声で応じる。
『はい』
「天見? 今週末さ、どこか登ろうと思ってるんだけど。暇?」
『私のほうから連絡しようと思ってたところです』
空は微笑んで頷く。「じゃあ、行こう。どこへでもさ……」
父親のように、中途で墜ちてしまうことだけはしたくないと思う。天見には、愛莉のような顔をさせたくはなかった。怒りを篭めて山を見上げさせるようなことはさせたくなかった。いまはただ、それだけを願う。少なくとも。
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