オリジナル。登山、微百合、日常のぐだぐだ。
過去編は来週で一段落。
MHF。
現在は一通り秘伝書が揃ったので、ヘビィの秘伝防具のために紙集め中。一部位つくるだけでどんだけ連戦するんだこれ。これが……十部位(絶望
G級はもう少し緩和するまでお預けか、さっさと上がって報酬ブースト目当てでSR帯にサブキャラ作成しとくのがいいのか。現状、所持している覇種武器が狙熱射、天嵐武器が真闇とゼルレウスガンス。ガンスを強化しようとして覇種アンノウンに挑んで絶望。みなもとさえ貫通して一撃死とかなんじゃあれは。安定していなせる覇種がオディバのみとか。そろそろ絶望が見えてきたぞ……
G級のモンスと早くいちゃつきたいんだけどなー。やることが尽きねえ。
まあssと同じでマイペースに進めていくかー。ぼっちなので急ぐ理由もなく。しばらくはMHFだけで遊んでいられますね!(震え声
恐らくはその短い二年のあいだだけ、自分はひとりの人間として父親と接していたのだろうと、空は思う。親娘として。兄妹として。親友として。ザイル・パートナーとして。毎週のように、土日を使って山へ向かい、登山道を進み、岩壁を攀じ登り、雪稜を辿った。八ヶ岳はもちろん、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、奥秩父に奥多摩、富士山、谷川岳にまで足を伸ばした。時間が許す限りあらゆるルートを登って、登って、登り尽くした。あらゆる光景、あらゆる天候、あらゆるシチュエーションにおいて突き進んだ。朝の光芒のなかを、夜の闇黒のなかを、濃霧の純白のなかを、吹雪の灰色のなかを。
ときには篠原もいた。また、美奈子もいた。近所の臆病者で泣き虫で引き篭もりがちの少年だった芦田もいた。たぶん、人生において最も濃密に幸福を感じた二年間だったんだろう、と思う。
登っているあいだ、ことばは少なく、ことば以上に多くのものを交わしあった。空はフォロワーとして文太の登る姿を見、ときどき、トップとして文太の登ってくる姿を見下ろしもした。山の深奥で悪天に遭い、ふたりで雪洞を掘って夜を過ごし、遠い朝陽を待ち望む時間を共有したりもした。
そして、だからだろう、とも思う。父親と血の繋がりがないことをいつしか悟っていた。誰よりも近しいところにいた者だからこその直観だった。もともと似通った親娘ではなかったが、それとは関係なく、どこか、ほとんど神がかった感覚から感じ取っていた。山に登り続けてきたからこそ得た感覚だったかもしれない。とはいえ、なんにせよ、櫛灘親子にとってそんな事実はほんの些細なものでしかなかった。空は父親を愛していたし、文太もまた娘を愛していた。そしてふたりはザイル・パートナーだった。
冬の日、ふたりはテントを出、夜明けまえの瑠璃色の闇のなかを登った。
稜線の雪は硬く締まってアイゼンがよく効き、表層は風に吹き飛ばされてほとんどラッセルもなかった。月も星も輝きを失いつつあり、ヘッドライトのささやかな灯りだけが光源となって、行く先を控えめに照らし出していた。重い衣擦れとザイルが雪を掠める音、ざくり、ざくりと、氷に近い雪を踏む音があった。
ふたりきりの時間。ザイルを繋げば互いのことがなんでもわかると思うほど、ふたりはロマンチックな山屋ではなかったが、それでわかることも確かにいくらかはある。捉えがたい心の深い平静。
そのとき、文太ははっきりと思い至った。おれの娘はどうやら根っからのソロ・クライマーのようだ、と。こうしてザイルを繋いでいても、空はパートナーに頼る風なところがまったくなかった。他者を当てにしてなにかを行うというところがまったく見られなかった。常にどこかひとりで登ることを想定していて、心の裡に遠い孤独を飼い慣らしていた。それは自分と一緒にいるときでさえそうだった。そのような登山家を、文太は何人か知っていた。そのうち半分はもう山で亡くなっていた。
寂しいことだと思うと同時に、どこか清々しく思う自分もいることに文太は気づいていた。おれがいなくなっても、娘はどこまでも強くやっていけるだろう、と。そうなってしまえば、文太はもう娘を子供として見ることができなくなっていた。ふっと肩の力を緩め、顔を巡らし、山脈の遠い世界を見つめた。
陽が昇りつつあり、世界を白く染め始めていた。
文太は立ち止まり、茫洋として言う。「なあ、空」
空は振り返った。「なに、親父」
「夜が明けるな」
空は文太から視線を外し、世界を見つめた。まさにそうあるところだった。稜線のスカイラインが白より白く輝き始め、その純然たる美しさを浮かび上がらせる瞬間だった。
空は唇を綻ばせて頷いた。「うん」
陽光がふたりの影を細く長く伸ばしていた。
沈みつつある陽光。窓辺。愛莉は窓枠に肘をつき、煙草を吸っていた。紫煙の行方を見るともなく見、思考を介さぬままぼんやりとしていた。
不意に顔の横から腕が伸び、煙草を奪って言った。「未成年が煙草を吸ってるんじゃない。法律じゃない。若いからだに毒だからだ」
愛莉は眉をひそめ、煙草を奪い返した。「私もう二十歳なんだけど、先生」
文太は肩を竦めた。「そうだったか。それは悪かったな、すまん」
憎まれ口を叩く気分ではなく、愛莉はそれ以上なにも言わなかった。もう一度肺に煙を収め、灰皿に置いて火を潰した。
当たりまえのことだが、文太はもう愛莉の教師ではなかった。愛莉はもうとっくに高校を卒業していた。しかし、まだ文太のことを先生と呼ぶ。それ以外の呼び方をすることができないでいる。
もう何度こうして無為な時間を過ごしているのだろう。愛莉は無性に虚しくなって言う。「なんでこんなことしてるんだかもう自分でもわからない」
文太はゆっくりとした動作でソファーに腰かける。
「おんなじことに拘りすぎて最初の動機を忘れかけてる。邪悪なやり方も。先生が――先生と空が憎くてたまらない、でもどうしてこんなに憎く思ってるのか、わかった試しが一度だってありゃしないんだ」
文太は煙草を咥え、火を点けないままゆらゆらと動かす。もう何年も吸ってはいないのに、吸う真似事だけはする。
「なにもかもぶっ壊したい」
窓辺に腕を預け、深く頭を落とす愛莉の姿。斜陽が薄く影を引き、蜃気楼のような弱々しさを浮かび上がらせて沈んでいる。文太はもうひとりの娘とでも言うべき女の背中を見つめ、自分という人間の限界をぼんやりと感じていた。
「おまえの家庭環境については知ってる」と文太は言う。「おまえが入学して、おれのクラスに回されたとき、おれはおまえの中学に出向いて副担任だった教師に話を聞いた。物静かで思慮深そうな壮年の女性教師で、百戦錬磨とでもいうような雰囲気のひとだったが、でも、彼女でさえどうしておまえがあんなことをしでかしたんだか想像もつかないようだった。問題が起こるはずのないところに起こった、と言っていたよ。
火野家は父母とひとり娘の三人家族で、両親の仲は良好、親戚もそれなりにいて、近所付き合いではみんなから一目置かれている自治会のまとめ役といった風な夫婦だった。父親は銀行員で趣味はゴルフ、母親は専業主婦で手芸教室なんかもやってる。こんなおんぼろアパートとは正反対の広くて綺麗なマイホーム。後ろめたい過去などなにもなく、順風満帆の人生を送ってきていま現在に至る、誰もがこうありたいと思うような理想的な男女だった。当然、酒も煙草もやらない、ギャンブルなんてもっての他。美しい日本の美しい日本人。憧れの対象になる青写真があり、また大切なひとり娘もこうして」文太は手を持ち上げ、見えない煙草の先で愛莉を指差した。「このうえなく美人に育った」
「なにもかもお見通しってわけ?」
「そんな風には思っちゃいないよ。おれは聞いたことを言っただけだ。そうして、だから、ほんのいっときの過ちだって判断されたんだろうな。情状酌量の余地は充分にあるって。おまえと寝た教師は人生を破滅させてしまったが、おまえは未成年で、彼は社会人だった。責任は年長者にありってことになった。
でも、おまえを見てると、別の考えばかりが浮かんでくるよ」
子供はどこまでも純粋で罪がなく、悪魔などいないと考えるほど、文太は現実に幻想を抱いてはいなかった。自分の子供時代を振り返ればそれは明白だった。実家に背を向けることとなった経緯と、いまだ実家と向き合うことのできない、中途半端ないまの自分の立ち位置が、人間という種の汚濁を証明するひとつの根となっていた。実際のところ、半ば絶望しかけている自分の一部もあった。それは普遍的な思いでもある。
愛莉は窓を押すようにして身を起こし、文太のところまで歩いた。疲れ果てたような顔をして彼を見下ろした。彼女は今年で二十歳になる。その年齢にどう相応しい振りをすればいいのか、彼女にはどうしても判別がつかなかった。そういう迷いの現れている顔だった。
「立派な親御さんと相反するように、どうしても真っ直ぐに生きられない子供を、何人も見てきたよ」と文太は言った。「『不満を持つのは甘え』みたいなことばですっぱり断ち切られて、ますますどうしようもなくなってしまう子供も。なんでなんだろうな……恵まれているって自分でわかっているから、なおさら追い詰められてしまう、そんな印象も受けるよ。うちの近所に芦田って男の子がいて、ときどき一緒に山登ってるんだがな、その子も、両親とうまくいってなくて苦しんでる。決して特異な環境ってわけでもないのに……どうしてそうなってしまうんだろうな」
愛莉は吐き出すように言う。「『立派な親御』なんていやしない。人間なんかはみんなクソだ」
「……。そうかもな」
愛莉の言い分を否定できる立場に文太はいなかった。自分という父親を顧みて、空に充分以上のことをしてやれているかどうかと問えば、明白な答えなど出るはずもなかった。文太は自分のちっぽけさを思い知っていた。空に母親さえ与えてやれない。
高校を卒業し、短大に進学するにあたって、愛莉は誰にも文句のつけられない道を歩んでいた。少なくとも外面を見れば。しかし、彼女がどれほど“餓えて”いるのかを、文太は肌で感じ取っていた。自分が傍にいることでその餓えをいくらか凌いでやることができれば。そう考えてこうしているものの、彼女の器には底が見えなかった。途方もない無力感だけが転がっている。
文太は一ミリも減っていない煙草を屑篭に放り、立ち上がって窓辺に身を寄せた。「仮におれがなにもかもおまえに差し出したところで、おまえはなんにも満足しないだろうよ」
振り返り、夕陽を背に影を抱いてさらに言った。「全世界を貪り尽くしてもまだ満足なんてしないだろう。おまえにはそういうところがある。それは、おまえが必要としているのが全世界なんかじゃないからだ。おまえの望んでいるものが、おまえに必要なものじゃないからだ。山屋にとっての山に相当するものがおまえにはない。飢餓感。それそのものがおまえって女だ」
愛莉は唇を歪めた。頬から顎にかけての美しい線が底なし沼のへりのようになった。「そう通信簿に書いてくれればよかったのに」
「書けなかったよ。学校は、残念ながら、そういうことを評価する場所じゃないから」
沈黙が降りた。全世界を握り潰すほど重い圧力を持ったひどい静寂だった。いっとき、ふたりはその手のひらに収まり、批難するように身を縮めた。
長い沈黙だった。
かなりときが経って、文太はようやく言う。
「来年、おれは海外の山に行く。山岳会の遠征で」
愛莉は眼を眇めて文太を睨んだ。
「篠原や美奈子さんも一緒だ。でも、空は置いていく。おれがいないあいだ、空をよろしく頼むな」
「そんなのはごめんだ。あいつにはなんにもできない」
「信頼してる」
「……」
また沈黙が降りた。今度の静寂には先ほどの十倍近い圧力があった。
ヒマラヤは六月から八月にかけて、モンスーンの影響を強く受け、山が荒れる。比較的気候が安定する十月に、文太は山岳会のチームと旅立った。
旅立ちの日、日本には台風が近づいていた。観測史上十年振りの大型低気圧で、飛行機が発つかどうかの瀬戸際だったため、出発が一日繰り上げられ、慌しい日になった。早朝、文太は朝食前に荷物を背負い、おんぼろアパートの玄関を出た。彼が二度とその敷居を跨ぐことはなかったが、その事実を事前に知っていたとしても、空が彼を止めたかどうかはわからない。結局のところ、それは登山家の出発だった。
「気をつけてな。美奈子さんによろしく」
「ああ」
短いやりとり。いつも通りの。それは空が物心つくまえからの儀式であり、文太が国内のどんな山に向かうときともなんら変わりない光景だった。が、文太が不意に振り返り、その太い腕をふっと伸ばしたところでいつものルーチンが途切れた。
大きな手のひらが空の頭に乗せられ、秒のあいだ、捉えどころのない感情が行き来した。文太は不器用な表情でおずおずと微笑み、空も同じ笑みで応じた。その瞬間、紛れもない親子だけが繋ぐことのできる時間が流れた。
「……じゃあな」
結局、別れはそうして訪れるのだろう。後になって、空はその記憶からその事実を学んだ。ほんとうになんでもない、劇的なところなどどこにもない、穏やかな日常でしかなかった。入山は彼女たちにとって非日常ではなかった。
その夜は荒れに荒れた。暗闇のなかで蒼い稲妻が何度も迸り、アパートの狭い部屋をカーテン越しに何度も閃光で埋めた。空は窓際でその景色を茫洋と眺め、しかし、頭にあったのは明日からの自分の山行だった。少し足を伸ばして北アルプスに向かい、冠雪した剱岳をやっつけるつもりでいた。脳内であらゆるルートを試み、あらゆる登攀を試し、心はもうすでに3000メートルジャストの地点に飛んでいた。父親のことさえ、もう忘れかけていた。自分よりも遥かに経験値のある熟練した登山家をどう心配しろというのだろう?
文太がいなくても、空の生活習慣はおおむね変わることはなかった。寂しいと思うこともなかった。思わないという現実。
もともとあたしはひとりきりの人間なのかもしれないと感じる。たとえば孤独。それを自嘲として思うのは、ただ学校という場で、社会という場で、自分だけがそうであるという現実に対応しているからに過ぎない。すべてを引き剥がしてしまえばそれはなんでもない単なる事実でしかなくなる。恥かそうでないかというだけの話。
登っているあいだはなにをどう足掻いたところでひとりだ。
クライミングの練習場所に使っている近所の丘、頂上部の城址。石垣に指を這わせながら、空は自分の登る姿を思い描いている。ホールドのひとつひとつ、スタンスのひとつひとつ。辿り続ける行為の兆し。そうして、腰のチョークバックに手を突っ込み、指先を炭酸マグネシウムの粉の白に染めて、登る。幼い頃から何度もしていることだ。いまさらなにも遮る障害はなく、上まで数十秒で登り切ってしまう。
上からの光景は、ここにくるようになった当初からなにひとつとして変わっていない。初冠雪を終えた八ヶ岳の膨大な山並み。盟主赤岳の岩肌、赤岳に寄り添う阿弥陀岳、赤岳から権現岳に至る切れ落ちたキレット、硫黄岳から横岳を越えて伸びる長々とした稜線、天狗岳の双耳峰……
それらをスポットライトのように照らす白い陽光さえ、幼き日のままだった。薄く棚引く雲が、太陽をぼんやりと覆い隠し、真っ白な真円に化粧している。吹き抜ける風の匂いさえ、初冬のさやかな澄んだ冷気を含んで、またこの季節がやってきたと感じる。素肌に訴えかける途方もないきざし。
見下ろすと、いつかの日と同じように、愛莉が不機嫌そうな顔でこちらを見上げていた。足元に椿の花が落ちているところさえ変わらなかった。変わっているのは、互いの年齢で、空はもう子供というには年月を過ごしすぎていたし、愛莉はもう成人して少女ではなかった。十六歳と二十一歳。初めて顔を見合わせた日から六年もの歳月が過ぎていた。
それでも、彼我のあいだにある感情は変わらなかった。愛莉は空をほとんど憎むほど想っていたし、空は愛莉が嫌いではなかった。――いや、空のほうに限って言えば、愛莉を家族のように想うほど近しく感じていた。
「親父がいないってのに、よくもまあマメにくるもんだよ」と空は言った。「仕事、忙しいだろうにさ……ポイント稼ぎなんか、ならないよ。親父が帰ってきてから、親父に直接したらどう……」
「……」
空は石垣の横を滑り降り、愛莉のところまで下った。
愛莉はもうさすがに制服姿ではなかった。代わりにスーツを着て、ネクタイまできっちり締めていた。コスプレのような印象はなくなっていたが、それでもブラウスの胸元を押し上げる豊かな曲線が誘うような外見になっていた。毒々しい淫靡さは深みを増すばかりだった。
愛莉は疲れたように言う。「……先生になに言ったって、私の思い通りになんかなりゃしない」
石垣に背を預け、うずくまってさらに言う。「あんたたちを破滅させたい。どうしようもないところまで追い詰めて、滅茶苦茶にして、直視できないような醜い部分を余すところなく曝け出させてやりたい。潰して壊しておかしくさせて消し去りたい。でも、先生はあんたがいるから現実に踏み止まってる。あんたが心底憎い。先生の愛情を一身に受けてるあんたが口惜しい」
「それはあたしのせいじゃないだろ」空は鼻で笑った。「いいこと教えてあげる。親父をどうにかしたけりゃ、親父がいちばん大切にしてるものを奪わなきゃ。でも、それってあたしじゃない。山だよ。まずは親父から山を取り上げなきゃ。けどさ、山屋から山を取り上げるなんてこと、山屋本人以外にはできやしないことだよ」八ヶ岳のほうを見つめて――「あたしらがなにをどうしたところで、山は山でしかないんだから」
「わかってんだよ、そういうことは」
愛莉は首を落とし、手のひらで顔を覆った。
「何年かまえに、あんたと美奈子とであそこを登った……クソみたいな、死ぬような思いして……わかってる。あんなに広大で膨大なところを、私がどうにかしようと思ったって、とてもできることじゃない。山頂で思い知った。あそこに比べりゃ、私なんかどうしようもないくらいちっぽけで、屑みたいで……」
「そうだね」
「あそこよりももっと高くて、もっと大きなものが先生の根っこにあるなら、私なんかがどうして先生をものにできる? どうして奪える? なにがお近づきになるだよ、美奈子の奴……結局、自分の屑っぷりを思い知っただけだった。なによりも悔しいことに、あそこを美しいなんて思っちまった。単純に、綺麗だって。そういうのってもうほとんど絶望みたいなもんだ」
愛莉は縋るように腕を伸ばし、空の頬に触れた。顎の線に爪を立てるようにした。空は彼女を見つめながら、彼女の指先の冷たさを感じた。
「あんたが憎い。憎くてたまらない。先生とおんなじものを根っこに持ってるあんたが憎い」
空は眼を細めて言う。「なんだってそんなに親父に拘ってるんだい? いや、親父じゃなくてもいいんだろ、ほんとうは。あんたはただ誰かを破滅させたがってる。なにがそんなに気に食わないんだい」
愛莉は指に力を篭める。「あんたにはわかんないよ……あんたには悪魔がいない」
「天使だっていた試しがないけど」
太陽が輝きを喪う。
夜、ろくに鳴った試しのない電話が鳴り、空はふらつきながら寝床を這い出る。
思うのは、こんな時間に鳴る電話などろくでもないに決まっているということだった。
「はい……」
国際電話だった。声の主は美奈子だった。いつもと声の調子が違っていた。そうして、空は聞く。
「……」
文太が旅立った日と同じく、夜に稲妻が走っていた。蒼白い閃光が何度も部屋を貫き、轟音が壁越しに伝っていた。ほとんど地震のように。空は首を巡らし、カーテンを見つめた。風もないのに蛇のように揺らいでいた。
運命。あるいは宿命。そういうことを思う。茫洋とした感覚が訪れ、空はゆっくりと眼をしばたたかせた。瞼の裏であらゆる光景が流れた。
「……」
地べたに転がる椿の花。斬り落とされた首。グランドフォールしたクライマー。心象風景のなかで荒野が乾き、ひび割れ、黒い断裂が音を立てて刻まれる。現実味が失われ、足場が崩れ落ちていく。
「……。……」
空は電話を切る。
歩いて窓際まで行き、カーテンを押し開ける。夜の暗がり、闇が幾度となく引き裂かれる。永遠と深淵。遥かな世界が眼前に広がっており、地図のへりが音を立てて燃え始める。舐めるような火が心のきわを撫でつける。
「……」
愛莉に連絡しなければ、と思う。
しかし、空にはできなかった。少なくとも夜が明けるまで、そういうことをできそうになかった。なんでもない夜だった。けれど、それがずっと消えることのないイメージとなる。空の心に刻まれた古い光景となる。
永遠が終わり、刹那になる。途方もない気分になり、途方に暮れるような気分になり、空は眼を閉じる。
過去編は来週で一段落。
MHF。
現在は一通り秘伝書が揃ったので、ヘビィの秘伝防具のために紙集め中。一部位つくるだけでどんだけ連戦するんだこれ。これが……十部位(絶望
G級はもう少し緩和するまでお預けか、さっさと上がって報酬ブースト目当てでSR帯にサブキャラ作成しとくのがいいのか。現状、所持している覇種武器が狙熱射、天嵐武器が真闇とゼルレウスガンス。ガンスを強化しようとして覇種アンノウンに挑んで絶望。みなもとさえ貫通して一撃死とかなんじゃあれは。安定していなせる覇種がオディバのみとか。そろそろ絶望が見えてきたぞ……
G級のモンスと早くいちゃつきたいんだけどなー。やることが尽きねえ。
まあssと同じでマイペースに進めていくかー。ぼっちなので急ぐ理由もなく。しばらくはMHFだけで遊んでいられますね!(震え声
恐らくはその短い二年のあいだだけ、自分はひとりの人間として父親と接していたのだろうと、空は思う。親娘として。兄妹として。親友として。ザイル・パートナーとして。毎週のように、土日を使って山へ向かい、登山道を進み、岩壁を攀じ登り、雪稜を辿った。八ヶ岳はもちろん、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、奥秩父に奥多摩、富士山、谷川岳にまで足を伸ばした。時間が許す限りあらゆるルートを登って、登って、登り尽くした。あらゆる光景、あらゆる天候、あらゆるシチュエーションにおいて突き進んだ。朝の光芒のなかを、夜の闇黒のなかを、濃霧の純白のなかを、吹雪の灰色のなかを。
ときには篠原もいた。また、美奈子もいた。近所の臆病者で泣き虫で引き篭もりがちの少年だった芦田もいた。たぶん、人生において最も濃密に幸福を感じた二年間だったんだろう、と思う。
登っているあいだ、ことばは少なく、ことば以上に多くのものを交わしあった。空はフォロワーとして文太の登る姿を見、ときどき、トップとして文太の登ってくる姿を見下ろしもした。山の深奥で悪天に遭い、ふたりで雪洞を掘って夜を過ごし、遠い朝陽を待ち望む時間を共有したりもした。
そして、だからだろう、とも思う。父親と血の繋がりがないことをいつしか悟っていた。誰よりも近しいところにいた者だからこその直観だった。もともと似通った親娘ではなかったが、それとは関係なく、どこか、ほとんど神がかった感覚から感じ取っていた。山に登り続けてきたからこそ得た感覚だったかもしれない。とはいえ、なんにせよ、櫛灘親子にとってそんな事実はほんの些細なものでしかなかった。空は父親を愛していたし、文太もまた娘を愛していた。そしてふたりはザイル・パートナーだった。
冬の日、ふたりはテントを出、夜明けまえの瑠璃色の闇のなかを登った。
稜線の雪は硬く締まってアイゼンがよく効き、表層は風に吹き飛ばされてほとんどラッセルもなかった。月も星も輝きを失いつつあり、ヘッドライトのささやかな灯りだけが光源となって、行く先を控えめに照らし出していた。重い衣擦れとザイルが雪を掠める音、ざくり、ざくりと、氷に近い雪を踏む音があった。
ふたりきりの時間。ザイルを繋げば互いのことがなんでもわかると思うほど、ふたりはロマンチックな山屋ではなかったが、それでわかることも確かにいくらかはある。捉えがたい心の深い平静。
そのとき、文太ははっきりと思い至った。おれの娘はどうやら根っからのソロ・クライマーのようだ、と。こうしてザイルを繋いでいても、空はパートナーに頼る風なところがまったくなかった。他者を当てにしてなにかを行うというところがまったく見られなかった。常にどこかひとりで登ることを想定していて、心の裡に遠い孤独を飼い慣らしていた。それは自分と一緒にいるときでさえそうだった。そのような登山家を、文太は何人か知っていた。そのうち半分はもう山で亡くなっていた。
寂しいことだと思うと同時に、どこか清々しく思う自分もいることに文太は気づいていた。おれがいなくなっても、娘はどこまでも強くやっていけるだろう、と。そうなってしまえば、文太はもう娘を子供として見ることができなくなっていた。ふっと肩の力を緩め、顔を巡らし、山脈の遠い世界を見つめた。
陽が昇りつつあり、世界を白く染め始めていた。
文太は立ち止まり、茫洋として言う。「なあ、空」
空は振り返った。「なに、親父」
「夜が明けるな」
空は文太から視線を外し、世界を見つめた。まさにそうあるところだった。稜線のスカイラインが白より白く輝き始め、その純然たる美しさを浮かび上がらせる瞬間だった。
空は唇を綻ばせて頷いた。「うん」
陽光がふたりの影を細く長く伸ばしていた。
沈みつつある陽光。窓辺。愛莉は窓枠に肘をつき、煙草を吸っていた。紫煙の行方を見るともなく見、思考を介さぬままぼんやりとしていた。
不意に顔の横から腕が伸び、煙草を奪って言った。「未成年が煙草を吸ってるんじゃない。法律じゃない。若いからだに毒だからだ」
愛莉は眉をひそめ、煙草を奪い返した。「私もう二十歳なんだけど、先生」
文太は肩を竦めた。「そうだったか。それは悪かったな、すまん」
憎まれ口を叩く気分ではなく、愛莉はそれ以上なにも言わなかった。もう一度肺に煙を収め、灰皿に置いて火を潰した。
当たりまえのことだが、文太はもう愛莉の教師ではなかった。愛莉はもうとっくに高校を卒業していた。しかし、まだ文太のことを先生と呼ぶ。それ以外の呼び方をすることができないでいる。
もう何度こうして無為な時間を過ごしているのだろう。愛莉は無性に虚しくなって言う。「なんでこんなことしてるんだかもう自分でもわからない」
文太はゆっくりとした動作でソファーに腰かける。
「おんなじことに拘りすぎて最初の動機を忘れかけてる。邪悪なやり方も。先生が――先生と空が憎くてたまらない、でもどうしてこんなに憎く思ってるのか、わかった試しが一度だってありゃしないんだ」
文太は煙草を咥え、火を点けないままゆらゆらと動かす。もう何年も吸ってはいないのに、吸う真似事だけはする。
「なにもかもぶっ壊したい」
窓辺に腕を預け、深く頭を落とす愛莉の姿。斜陽が薄く影を引き、蜃気楼のような弱々しさを浮かび上がらせて沈んでいる。文太はもうひとりの娘とでも言うべき女の背中を見つめ、自分という人間の限界をぼんやりと感じていた。
「おまえの家庭環境については知ってる」と文太は言う。「おまえが入学して、おれのクラスに回されたとき、おれはおまえの中学に出向いて副担任だった教師に話を聞いた。物静かで思慮深そうな壮年の女性教師で、百戦錬磨とでもいうような雰囲気のひとだったが、でも、彼女でさえどうしておまえがあんなことをしでかしたんだか想像もつかないようだった。問題が起こるはずのないところに起こった、と言っていたよ。
火野家は父母とひとり娘の三人家族で、両親の仲は良好、親戚もそれなりにいて、近所付き合いではみんなから一目置かれている自治会のまとめ役といった風な夫婦だった。父親は銀行員で趣味はゴルフ、母親は専業主婦で手芸教室なんかもやってる。こんなおんぼろアパートとは正反対の広くて綺麗なマイホーム。後ろめたい過去などなにもなく、順風満帆の人生を送ってきていま現在に至る、誰もがこうありたいと思うような理想的な男女だった。当然、酒も煙草もやらない、ギャンブルなんてもっての他。美しい日本の美しい日本人。憧れの対象になる青写真があり、また大切なひとり娘もこうして」文太は手を持ち上げ、見えない煙草の先で愛莉を指差した。「このうえなく美人に育った」
「なにもかもお見通しってわけ?」
「そんな風には思っちゃいないよ。おれは聞いたことを言っただけだ。そうして、だから、ほんのいっときの過ちだって判断されたんだろうな。情状酌量の余地は充分にあるって。おまえと寝た教師は人生を破滅させてしまったが、おまえは未成年で、彼は社会人だった。責任は年長者にありってことになった。
でも、おまえを見てると、別の考えばかりが浮かんでくるよ」
子供はどこまでも純粋で罪がなく、悪魔などいないと考えるほど、文太は現実に幻想を抱いてはいなかった。自分の子供時代を振り返ればそれは明白だった。実家に背を向けることとなった経緯と、いまだ実家と向き合うことのできない、中途半端ないまの自分の立ち位置が、人間という種の汚濁を証明するひとつの根となっていた。実際のところ、半ば絶望しかけている自分の一部もあった。それは普遍的な思いでもある。
愛莉は窓を押すようにして身を起こし、文太のところまで歩いた。疲れ果てたような顔をして彼を見下ろした。彼女は今年で二十歳になる。その年齢にどう相応しい振りをすればいいのか、彼女にはどうしても判別がつかなかった。そういう迷いの現れている顔だった。
「立派な親御さんと相反するように、どうしても真っ直ぐに生きられない子供を、何人も見てきたよ」と文太は言った。「『不満を持つのは甘え』みたいなことばですっぱり断ち切られて、ますますどうしようもなくなってしまう子供も。なんでなんだろうな……恵まれているって自分でわかっているから、なおさら追い詰められてしまう、そんな印象も受けるよ。うちの近所に芦田って男の子がいて、ときどき一緒に山登ってるんだがな、その子も、両親とうまくいってなくて苦しんでる。決して特異な環境ってわけでもないのに……どうしてそうなってしまうんだろうな」
愛莉は吐き出すように言う。「『立派な親御』なんていやしない。人間なんかはみんなクソだ」
「……。そうかもな」
愛莉の言い分を否定できる立場に文太はいなかった。自分という父親を顧みて、空に充分以上のことをしてやれているかどうかと問えば、明白な答えなど出るはずもなかった。文太は自分のちっぽけさを思い知っていた。空に母親さえ与えてやれない。
高校を卒業し、短大に進学するにあたって、愛莉は誰にも文句のつけられない道を歩んでいた。少なくとも外面を見れば。しかし、彼女がどれほど“餓えて”いるのかを、文太は肌で感じ取っていた。自分が傍にいることでその餓えをいくらか凌いでやることができれば。そう考えてこうしているものの、彼女の器には底が見えなかった。途方もない無力感だけが転がっている。
文太は一ミリも減っていない煙草を屑篭に放り、立ち上がって窓辺に身を寄せた。「仮におれがなにもかもおまえに差し出したところで、おまえはなんにも満足しないだろうよ」
振り返り、夕陽を背に影を抱いてさらに言った。「全世界を貪り尽くしてもまだ満足なんてしないだろう。おまえにはそういうところがある。それは、おまえが必要としているのが全世界なんかじゃないからだ。おまえの望んでいるものが、おまえに必要なものじゃないからだ。山屋にとっての山に相当するものがおまえにはない。飢餓感。それそのものがおまえって女だ」
愛莉は唇を歪めた。頬から顎にかけての美しい線が底なし沼のへりのようになった。「そう通信簿に書いてくれればよかったのに」
「書けなかったよ。学校は、残念ながら、そういうことを評価する場所じゃないから」
沈黙が降りた。全世界を握り潰すほど重い圧力を持ったひどい静寂だった。いっとき、ふたりはその手のひらに収まり、批難するように身を縮めた。
長い沈黙だった。
かなりときが経って、文太はようやく言う。
「来年、おれは海外の山に行く。山岳会の遠征で」
愛莉は眼を眇めて文太を睨んだ。
「篠原や美奈子さんも一緒だ。でも、空は置いていく。おれがいないあいだ、空をよろしく頼むな」
「そんなのはごめんだ。あいつにはなんにもできない」
「信頼してる」
「……」
また沈黙が降りた。今度の静寂には先ほどの十倍近い圧力があった。
ヒマラヤは六月から八月にかけて、モンスーンの影響を強く受け、山が荒れる。比較的気候が安定する十月に、文太は山岳会のチームと旅立った。
旅立ちの日、日本には台風が近づいていた。観測史上十年振りの大型低気圧で、飛行機が発つかどうかの瀬戸際だったため、出発が一日繰り上げられ、慌しい日になった。早朝、文太は朝食前に荷物を背負い、おんぼろアパートの玄関を出た。彼が二度とその敷居を跨ぐことはなかったが、その事実を事前に知っていたとしても、空が彼を止めたかどうかはわからない。結局のところ、それは登山家の出発だった。
「気をつけてな。美奈子さんによろしく」
「ああ」
短いやりとり。いつも通りの。それは空が物心つくまえからの儀式であり、文太が国内のどんな山に向かうときともなんら変わりない光景だった。が、文太が不意に振り返り、その太い腕をふっと伸ばしたところでいつものルーチンが途切れた。
大きな手のひらが空の頭に乗せられ、秒のあいだ、捉えどころのない感情が行き来した。文太は不器用な表情でおずおずと微笑み、空も同じ笑みで応じた。その瞬間、紛れもない親子だけが繋ぐことのできる時間が流れた。
「……じゃあな」
結局、別れはそうして訪れるのだろう。後になって、空はその記憶からその事実を学んだ。ほんとうになんでもない、劇的なところなどどこにもない、穏やかな日常でしかなかった。入山は彼女たちにとって非日常ではなかった。
その夜は荒れに荒れた。暗闇のなかで蒼い稲妻が何度も迸り、アパートの狭い部屋をカーテン越しに何度も閃光で埋めた。空は窓際でその景色を茫洋と眺め、しかし、頭にあったのは明日からの自分の山行だった。少し足を伸ばして北アルプスに向かい、冠雪した剱岳をやっつけるつもりでいた。脳内であらゆるルートを試み、あらゆる登攀を試し、心はもうすでに3000メートルジャストの地点に飛んでいた。父親のことさえ、もう忘れかけていた。自分よりも遥かに経験値のある熟練した登山家をどう心配しろというのだろう?
文太がいなくても、空の生活習慣はおおむね変わることはなかった。寂しいと思うこともなかった。思わないという現実。
もともとあたしはひとりきりの人間なのかもしれないと感じる。たとえば孤独。それを自嘲として思うのは、ただ学校という場で、社会という場で、自分だけがそうであるという現実に対応しているからに過ぎない。すべてを引き剥がしてしまえばそれはなんでもない単なる事実でしかなくなる。恥かそうでないかというだけの話。
登っているあいだはなにをどう足掻いたところでひとりだ。
クライミングの練習場所に使っている近所の丘、頂上部の城址。石垣に指を這わせながら、空は自分の登る姿を思い描いている。ホールドのひとつひとつ、スタンスのひとつひとつ。辿り続ける行為の兆し。そうして、腰のチョークバックに手を突っ込み、指先を炭酸マグネシウムの粉の白に染めて、登る。幼い頃から何度もしていることだ。いまさらなにも遮る障害はなく、上まで数十秒で登り切ってしまう。
上からの光景は、ここにくるようになった当初からなにひとつとして変わっていない。初冠雪を終えた八ヶ岳の膨大な山並み。盟主赤岳の岩肌、赤岳に寄り添う阿弥陀岳、赤岳から権現岳に至る切れ落ちたキレット、硫黄岳から横岳を越えて伸びる長々とした稜線、天狗岳の双耳峰……
それらをスポットライトのように照らす白い陽光さえ、幼き日のままだった。薄く棚引く雲が、太陽をぼんやりと覆い隠し、真っ白な真円に化粧している。吹き抜ける風の匂いさえ、初冬のさやかな澄んだ冷気を含んで、またこの季節がやってきたと感じる。素肌に訴えかける途方もないきざし。
見下ろすと、いつかの日と同じように、愛莉が不機嫌そうな顔でこちらを見上げていた。足元に椿の花が落ちているところさえ変わらなかった。変わっているのは、互いの年齢で、空はもう子供というには年月を過ごしすぎていたし、愛莉はもう成人して少女ではなかった。十六歳と二十一歳。初めて顔を見合わせた日から六年もの歳月が過ぎていた。
それでも、彼我のあいだにある感情は変わらなかった。愛莉は空をほとんど憎むほど想っていたし、空は愛莉が嫌いではなかった。――いや、空のほうに限って言えば、愛莉を家族のように想うほど近しく感じていた。
「親父がいないってのに、よくもまあマメにくるもんだよ」と空は言った。「仕事、忙しいだろうにさ……ポイント稼ぎなんか、ならないよ。親父が帰ってきてから、親父に直接したらどう……」
「……」
空は石垣の横を滑り降り、愛莉のところまで下った。
愛莉はもうさすがに制服姿ではなかった。代わりにスーツを着て、ネクタイまできっちり締めていた。コスプレのような印象はなくなっていたが、それでもブラウスの胸元を押し上げる豊かな曲線が誘うような外見になっていた。毒々しい淫靡さは深みを増すばかりだった。
愛莉は疲れたように言う。「……先生になに言ったって、私の思い通りになんかなりゃしない」
石垣に背を預け、うずくまってさらに言う。「あんたたちを破滅させたい。どうしようもないところまで追い詰めて、滅茶苦茶にして、直視できないような醜い部分を余すところなく曝け出させてやりたい。潰して壊しておかしくさせて消し去りたい。でも、先生はあんたがいるから現実に踏み止まってる。あんたが心底憎い。先生の愛情を一身に受けてるあんたが口惜しい」
「それはあたしのせいじゃないだろ」空は鼻で笑った。「いいこと教えてあげる。親父をどうにかしたけりゃ、親父がいちばん大切にしてるものを奪わなきゃ。でも、それってあたしじゃない。山だよ。まずは親父から山を取り上げなきゃ。けどさ、山屋から山を取り上げるなんてこと、山屋本人以外にはできやしないことだよ」八ヶ岳のほうを見つめて――「あたしらがなにをどうしたところで、山は山でしかないんだから」
「わかってんだよ、そういうことは」
愛莉は首を落とし、手のひらで顔を覆った。
「何年かまえに、あんたと美奈子とであそこを登った……クソみたいな、死ぬような思いして……わかってる。あんなに広大で膨大なところを、私がどうにかしようと思ったって、とてもできることじゃない。山頂で思い知った。あそこに比べりゃ、私なんかどうしようもないくらいちっぽけで、屑みたいで……」
「そうだね」
「あそこよりももっと高くて、もっと大きなものが先生の根っこにあるなら、私なんかがどうして先生をものにできる? どうして奪える? なにがお近づきになるだよ、美奈子の奴……結局、自分の屑っぷりを思い知っただけだった。なによりも悔しいことに、あそこを美しいなんて思っちまった。単純に、綺麗だって。そういうのってもうほとんど絶望みたいなもんだ」
愛莉は縋るように腕を伸ばし、空の頬に触れた。顎の線に爪を立てるようにした。空は彼女を見つめながら、彼女の指先の冷たさを感じた。
「あんたが憎い。憎くてたまらない。先生とおんなじものを根っこに持ってるあんたが憎い」
空は眼を細めて言う。「なんだってそんなに親父に拘ってるんだい? いや、親父じゃなくてもいいんだろ、ほんとうは。あんたはただ誰かを破滅させたがってる。なにがそんなに気に食わないんだい」
愛莉は指に力を篭める。「あんたにはわかんないよ……あんたには悪魔がいない」
「天使だっていた試しがないけど」
太陽が輝きを喪う。
夜、ろくに鳴った試しのない電話が鳴り、空はふらつきながら寝床を這い出る。
思うのは、こんな時間に鳴る電話などろくでもないに決まっているということだった。
「はい……」
国際電話だった。声の主は美奈子だった。いつもと声の調子が違っていた。そうして、空は聞く。
「……」
文太が旅立った日と同じく、夜に稲妻が走っていた。蒼白い閃光が何度も部屋を貫き、轟音が壁越しに伝っていた。ほとんど地震のように。空は首を巡らし、カーテンを見つめた。風もないのに蛇のように揺らいでいた。
運命。あるいは宿命。そういうことを思う。茫洋とした感覚が訪れ、空はゆっくりと眼をしばたたかせた。瞼の裏であらゆる光景が流れた。
「……」
地べたに転がる椿の花。斬り落とされた首。グランドフォールしたクライマー。心象風景のなかで荒野が乾き、ひび割れ、黒い断裂が音を立てて刻まれる。現実味が失われ、足場が崩れ落ちていく。
「……。……」
空は電話を切る。
歩いて窓際まで行き、カーテンを押し開ける。夜の暗がり、闇が幾度となく引き裂かれる。永遠と深淵。遥かな世界が眼前に広がっており、地図のへりが音を立てて燃え始める。舐めるような火が心のきわを撫でつける。
「……」
愛莉に連絡しなければ、と思う。
しかし、空にはできなかった。少なくとも夜が明けるまで、そういうことをできそうになかった。なんでもない夜だった。けれど、それがずっと消えることのないイメージとなる。空の心に刻まれた古い光景となる。
永遠が終わり、刹那になる。途方もない気分になり、途方に暮れるような気分になり、空は眼を閉じる。
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