杏奈「恋人といる時の雪って、特別な気分に浸れて僕は好きです って冬山で言ってみろクソリア充どもォー――ッ!!(厳冬期3000メートル級雪稜で猛吹雪のなか猛然と雪洞を掘りながら)」
天見「(何言ってんだこの人……)」
短いあいだに色々あったと思う。
山裾を美奈子とともに歩いているところを文太に見つけられ、自分が登っていることを隠し通すことには苦労した。美奈子に必死でアイ・コンタクトを送り、ただ単に父親と同じクライマーである女が珍しかったから時折話すようになったのだと、誤魔化してもらった。そのときはそれで済んだが、文太のほうが美奈子と気が合い、ときどき一緒に登るようになってしまった。文太のザイル・パートナーであった篠原武士と美奈子が出会ったのもそういう過程で、空にはなにがどうなってそうなったのかまったくわからなかったが、ふたりは二年後に結婚して早々と娘を産んでしまったのだった。
文太の与り知らぬところで、空のクライミング技術は格段に向上していた。美奈子の教えを余すところなく吸収し、父親の所蔵している技術書から知識を深め、成長期特有の光り輝くような日進月歩、中学に入学する頃にはすでにいっぱしのソロ・クライマーになっていた。まさに天賦の才としか言いようがなかった。才能以上に煮え滾るような情熱があり、若さゆえの猛進が赴くままにあらゆる山に登った。山小屋への歩荷バイトで資金を貯め、文太の道具をちょろまかし、長野県という立地も多いに貢献した。
「あんたいつまで先生に山登ってること内緒にしてるの」
ある日、帰宅したところ、アパートの階段に所在なさげに座っていた愛莉に問われ、空は困ったように頬を掻いた。
愛莉は高校三年生になっており、空の眼には、日ごとにその容姿に毒々しい美しさを増していくように思われた。五歳年上のこの女が次第に大人のからだつきになっていくのを目の当たりにしていたのだった。もう黒のセーラー服は淫靡極まりないコスチュームになりかけていた。特徴的なサイド・テールも、その印象を和らげるのには役立たずになっていた。
「どうしようか」と空は言った。「いまさらなんて顔して打ち明ければいいかわからない。内緒にしすぎて、秘密でいるのが当たりまえになっちまった」
「子供が背伸びなんかするから……」
「そうしないと登れなかったんだ。仕方ないだろ? でも、いつかは打ち明けないとって思うよ」
「いつかっていつよ」
「わかんね。そのときがくればわかる気がする」
「そのときってなに?」
「どうせ、いつまでも隠していられることでもないしさ」
空は愛莉の横にザックを下ろし、そこに腰かけた。
冬の夕空が燃え盛るように色づいていた。風がひどく冷たく、雪の香りを運んで震える。視界は白かった。愛莉はコートを羽織りなおし、背筋を曲げて身を丸めた。
「ところで、いいの?」と空。
「なにが」
「親父をもらうんじゃなかったっけ? 美奈子さんに先、越されてるけど。いつあんたはあたしの母ちゃんになるの?」
「うるさい」
「あたしの眼には、二年まえからこれっぽっちも進歩がないように見えるよ。しつこいくらいよく来るのにさ……それともあたしが知らないだけで、もう一発やっちゃったりしてんの?」
愛莉は空を睨んだ。空は邪気のない微笑で応じた。
櫛灘文太は四十二歳。まだ独身で、空には結婚する気もないように思えた。暇さえあれば山ばかり行っている。今日も留守にしており、だからこそ空が登れる時間が確保できているところがある。そのせいで、愛莉はむしろ空とばかり話しているように感じられて、もどかしいというよりイラつく。
愛莉は空が嫌いだった。文太のひとり娘であることも、子供に似つかわしくない落ち着いた佇まいも、父親に内緒で山なんぞ登っている生意気さも、飾るところのない自然な容姿も、自分に対する率直な好意も、眼も。空の存在そのものが愛莉をイラつかせ、むかつかせた。近頃は機嫌を悪くするためだけにここにきているような感じがした。
「あんた今年で卒業だろ。どうすんの?」
「……」
「大学行くん? 上京するんだったら……美奈子さん、いま神奈川だってね? 篠原の奴が神奈川だからさ……あの辺、山ってあったっけ。横浜とか湘南とか、海のイメージしかないや」
「山より海のほうがいい」
「そうかい? あたしは海って見たことないけど、どうなんだろ。北アルプス全山縦走して、日本海まで突っ切ってみようかな。親父に内緒で、そんな長い期間留守にするのは、厳しいけど」
空はぼんやりして夕空を見上げた。紫色の火。その先にあるはずの山脈を想い、胸の奥底から震えが昇ってくるような感覚がした。
同じ長野県とはいえ北アルプスまではそれなりに遠い。電車で松本まで行って、乗り継いで新島々。上高地まではさらにそこからバスを使う。山は深い。とても日帰りというわけにはいかないし、交通費も厳しい。そこまですればさすがに文太も気づくだろう。
文太はまだ帰ってくる気配がなかった。空は愛莉に言う。「待ちぼうけも退屈だね。その辺歩かない?」
「鍵は?」
「ウチでひとりで待つつもり?」
愛莉は溜息をついて立ちあがった。
月が水底の火のように蒼白かった。粉のような輝きが下界まで舞い降りてきていた。
その光が農道を照らしていた。穏やかな風に、麦の穂が波のように揺れている。緩やかな温度。遠い八ヶ岳の山脈の黒々とした影が、眠りを貪る巨獣のように静かだった。その背ビレのような稜線を見ながら歩いた。
かなり長い時間一緒にいるにもかかわらず、空は愛莉のことをほとんど知らなかった。愛莉のほうで自分のことを語らなかったこともあるが、空自身が彼女のことにあまり興味を示さなかったからでもある。社交儀礼のように、空は訊いた。
「あんた中学でなにしでかしたんだい?」
まえをゆく愛莉が肩越しに振り返って空を睨んだ。空は肩を上げて悪意のないことを示した。
「先生に聞いたんじゃないの」
「いや、あたしはなんにも聞いちゃいないよ。親父は、生徒についてあれこれ言うような男じゃないしね。でも、あんたのほうで何度か親父に言ってたろ。それっぽくほのめかすような感じで……」
「あんたには関係のないことだ」
「そうだね」
蛾が麦の穂の上をひらひらと飛んでいる。道に添えつけられた街灯の間隔は広く、足元を照らすには光が弱すぎ、それでも蛾は惹きつけられるようにして光へ向かう。空はその様をぼんやりと見つめ、見上げ、満ちた月を背景にして飛ぶ揺らめきを綺麗だと思う。
蛾は当て所なく飛んでいるわけではなかった。確かに光を目指していた。それでどんな目に遭うかなど関係のないことのように振る舞っている。火に当てられ、燃え尽きるのだろう。鱗粉ごと焼き尽くされ、翅をもぎ取られても、それでも飛ぼうとするのだろう。そんなことも思う。
「あんたはあたしがなにか訊くと、すぐにあたしには関係のないことだって言うよな。忘れてるかもしれないから言っておくけど、あたしは親父の娘なんだぜ。あんたが付き纏ってる親父の……。ねえ、少しは秘密を明け渡してくれてもいいとは考えてくれないの?」
「先生に山登ってること秘密してるあんたが言うセリフ? ふん。あんたは私のなに?」
「なに? なんだろ。友だちかなんか?」
「友だち」愛莉は嘲るように鼻を鳴らす。「友だち?」率直ないらだちを篭めて足元の地面を蹴り飛ばす。「ふざけてんの? ああ、ふざけてるんだろうね。あんたなんか、私にとっちゃ先生のおまけみたいなもんだ。それもろくに役に立ちやしない、鬱陶しいだけの、百害あって一利なしの――」
「なあ。もしかしてさ、愛莉ってあたしに嫉妬してるわけ?」
際どいような風が吹き抜け、麦の穂を浅く揺らした。空は前髪を押さえつけ、愛莉の顔、硬く歪められた唇を見つめた。空の髪は長い。活発な腕白娘に似つかわしくなく、腰のあたりまで伸ばし放題に伸びている。その先端がぱらぱらと乱れた。
「そう睨むなよ」と空は言う。「あんたがあたしを、まるで親父の恋人みたいに見てることを知ってる。親父をもらうっつってたよな? それって要するに、あたしから親父を奪うっていう宣戦布告なんだろ? なんなんだよ、ったく。親父はあたしのもんじゃないっての。あんたが親父を欲しいってんなら、あたしは協力してやるっつってんのに、頼ってくれもしない。『あんたは私のなに』? あたしはあんたの敵じゃないってのに、あんたはあたしをどうしても敵として見做したいんだね」
空はけらけらと笑った。それは嘲笑ではなく、けれど、どこか乾いていた。少しばかり憂いも篭もっていた。
愛莉はありったけの憎しみを篭めて呟いた。「あんたは私の敵だ」
「ああ、そう。そういう風に思うのは勝手だよな、あたしのほうはちょっとショックだけど。なんかもう何度も言ってる気がするけどさ、あたしあんたのこと別に嫌いじゃないんだぜ。きちんと知ってるかい、そのこと?」
「……」
「その証拠に、こういうこともできる」
空はガラスの綱を渡るように素早く、愛莉のそばに近づいた。愛莉が後退する隙を与えない速度で。ほとんど意識の隙間を縫うような歩みで、愛莉は反応できなかった。ときどき、空はクライミングでそういうムーヴをする。あたかも世界に自分の実体がないように動く。
背丈に差があるから、空の頭は愛莉の胸あたりまでしかなかった。
不意打ちのように、空は愛莉の背中に腕を回して抱き締めた。
「……ッ、っ――」
予想していなかった行為に、愛莉は一瞬息を詰まらせ、すぐに振り払おうとした。が、空の腕の力は愛莉よりも遥かに強く、そこらの男よりもなお強く、容易にそうすることはできなかった。
その力に反してひどく小さな感触に圧倒もされ、なおさらできなかった。
愛莉は硬直し、蜘蛛の巣にがんじがらめにされたような感覚さえ憶え、どうすることもできずに空の頭を見下ろした。
風が何度も吹きつける。
風、風、風――
人間のからだの、直に触れる感触は、時として怖ろしく強大な実感を伴って感覚を圧倒してくる。ひどく原初的で、単純で、厳しいような感触だ。空の肉体は内に秘めた膨大なエネルギーにもかかわらず、少女というよりは子供のように小さかった。その短い秒の合間、愛莉はひどく翻弄された。
愛莉はどうにか喘ぐように言う。「なんでだよ……」
「なんでっていうか、別におかしなことじゃないだろ。もうかれこれ二年も付き合ってるんだ、他人じゃあるまいし。あはは。姉妹かっての」
空は抱きついたのと同じように軽やかに離れた。愛莉は半ばつんのめるようにして態勢を崩し、口許に手の甲を押し当てて空を睨んだ。
ぎりぎりと歯を噛むような視線。空は顎を上げて応じた。もうそんな彼女の眼には慣れっこで、いまさら気圧されるつもりもなかった。
けれど、ややあって、愛莉がおもむろに話し始めたことにはさすがの空も少し驚いた。
「嫌いな先公を破滅させてやったんだよ」
「――」
「そいつは偉大な教師だった。みんなに好かれて、みんながこうだと思う理想の先生面をしていて、みんなにいい顔をしてみせる公明正大な聖人君子だった。間違ったことなんかなにひとつしてなくて、みんなが正しいと思う道を歩んで、正しいことだけをして生きてきたような善人だった。自分が正しいことを信じてまるで疑っちゃいなかった。罪を憎んで人を憎まずなんてことをモットーにしていた。だから、私が化けの皮を剥がして、ほんとうの人間ってのがどういうものか教えてやったんだよ。
私が言ってる意味、わかる?」
愛莉の顔に嘲笑が浮かんだ。それは手のひらで死にかけた虫けらを嘲る遊女の笑みだった。
「そいつとセックスするのは簡単だった。ちょっとばかりいい顔見せてやって、慕ってる風な態度を演じてやって、股を開いてやれば簡単に応じやがった。ほんとうの私なんかこれっぽっちも見ちゃいなかった。それで容易くおしゃかになった。結局、人間なんかそんなもんだ。
私はあんたらにも同じことをしようとしてる。気に食わないんだよ、仲のいい家族面しやがって……善人面しやがって……人間面しやがって。悪魔なんかいないような顔しやがって。いまはいい顔してる奴らもすぐにそうじゃなくなる。だから、私が――」
空は肩を落としてみせた。「そうかい」
首を巡らせ、山を見つめた。最初のショックが遠くへ過ぎ去ると、夜はやはり、どこまでも穏やかな闇を宿して静かだった。空は少し微笑み、だからなんだろう、と思った。
細い吐息を漏らして言う。「親父もそういう風にしたいの?」
ばかばかしいことだという風に、愛莉は嘲笑を引っ込めて鼻を鳴らした。しかし、空はその眼の奥に逡巡を見つけた。それも錯覚かもしれないが。
虚しさに突き飛ばされ、愛莉は拳を握り締めた。いつでもどこかで破滅を望む悪しき一部が首をもたげ、ことばを喪い、なにも返答できなかった。なにもかもわかっているような態度を崩しもしないこの親娘が憎くてたまらなかった。なまじふたりを知りすぎたせいで余計にそう思った。けれど、なぜそんなにふたりが憎いのか、愛莉にはわかった試しがないのだった。
風が想いを飛ばしていく。
不意に、夜を引き裂く強い光がふたりのあいだに割って入った。空は眼を細めて、眩い視界に手をかざした。振り向くと、4WDのヘッドライトが揺れながら近づいてきていた。
空は後退し、車に道を譲った。が、車はそこで泊まった。窓から腕が伸び、ドアをばんばんと不躾に叩いた。こちらに注意を向けさせるための動きだった。
「よおおおおお。へい、へい! 嬢ちゃんらこんな人気のないとこでなにしてんだい!? 暇してんならこれからどっか遊び行こーぜぇ!?」
愛莉は一層の憎悪を篭めて声の主に強い眼を向けた。空は腰に手を当てて溜息をつき、ヘッドライトの光芒から逸れてそちらに近づいていった。
車のタイヤを爪先で一蹴りした。ちょっと間が悪いぜ、と心のなかで言う。いや、逆に良かったのか。
呆れて言う。「なにしてんですか、美奈子さん」
美奈子は腕を引っ込め、窓から身を乗り出して笑顔を見せた。「うひひ」
「免許取ったんですね。おめでとうございます。で、旦那や子供はどうしたんですか?」
「神奈川に置いてけぼり。たまにゃーいーじゃんよー! あたしだって、若い子と遊びたくなるときくらいあるさー!」
久し振りに現れた美奈子はそのままの美奈子だった。結婚して、苗字を篠原と変えて、子供まで産んだはずなのに、記憶にある美奈子とちっとも変わっていなかった。
美奈子はさらに身を乗り出し、愛莉のほうに向けてぶんぶんと腕を振った。愛莉はなおも眼を強くして闖入者を睨んでいた。が、美奈子はその程度のことで気後れする女でもなかった。
「愛ちゃんも、おひさー! うわぁ、なんだかすっごく久し振りに顔見たって気がする! 元気してた!? 元気してた!?」
「その呼び方やめろ」
「ええー? いいじゃんかわいーよー。さっきさ、空ちゃんち寄ったら、文太さんだけぽつんと待ちぼうけくらってて、その辺にいると思うから探してきてくれって言われちゃってさー。すぐ会えてよかったよ! 送ってくよ、乗って乗って!」
「美奈子さんもう運転慣れてるんですか?」
「こんなん楽勝よ! 神奈川から高速乗ってスイスイーってこれたし! 山だって行けるよ! 箱根の峠で修行してるもんね!」
促され、空は後部座席に乗り込んだ。美奈子は続けて愛莉に言う。
「ほら、愛ちゃんも!」
愛莉はそっぽを向き、そのまま歩き始める。
「意地っ張りだなあ。愛ちゃんいつもあんな感じ?」
空は苦笑する。「まあ」
「ヘイヘーイ! 夜道のひとり歩きは危ないぜー! 雪崩を避けるために真夜中出発するのは常套手段だけどな! そうそう、空ちゃん来週暇? あたしそろそろリハビリがてら八ヶ岳登りたいんだけど。赤岳とか阿弥陀とか。車出すよー?」
「いいですね、行きましょう」
「そう言ってくれると思った! そうだ、愛ちゃんも行かねー!? 初心者でもいまの時期だったら登れるよ!」
車を徐行させ、愛莉と並走させながら、美奈子は彼女に言う。愛莉は信じられないような顔をして美奈子を見つめる。
「荷物全部あたしが担いであげるからさ! 一泊二日で、行者小屋あたりにテント張って。学校で集団登山ってやった? あんなのじゃなくてさ、もっと自由に、自分のペースで行けるよ?」
「……本気で言ってんのあんた」
「あたしはいつでも本気だよー! 知らんかったかい?」
「……」
「迷うくらいならいっぺんやってみようよ! 自分に向いてるかどうかなんて、そっから考えればいーさー。案外どっぷりはまっちゃうかもよ?」
「そんなことあるわけない……」
「文太さんとお近づきになるチャンスかもしれないぜー?」
そりゃ地雷だよ、と空は内心はらはらしながら思う。
案の定、愛莉はますます眼をきつくして美奈子を睨んだ。しかしそれでも、美奈子はけらけらと笑ってまるで気にしていない様子だった。
愛莉が行く気になったのはさすがに空には予想外だった。
彼女と共有した思い出のなかで、敵意を交わさず触れ合った数少ない経験のひとつだったように思う。
美奈子の車で美濃戸まで行き、そこから行者小屋を目指す短い行程のなかで、愛莉はすぐに疲れ果ててバテてしまった。荷物は美奈子と空が持ち、空身だったにもかかわらず。
夏の香りが波のように漂うなか、愛莉は彼女らしくもなく汗だくになり、後ろにつく空に言ったのだった。
「ほんとっ……こんなの、頭のおかしな人間のやる趣味だっ……、いまどれくらい歩いてるの!? テント張るところまでどれくらい!?」
空は笑って言った。「まだ半分もきてないよ」
その愕然とした愛莉の顔をよく覚えている。
テントを張るときも足手まといだったし、テントのなかでも足手まといだった。てきぱきと動く美奈子と空に比べて、愛莉はひどくスローにしか動けず、陽が沈むまえにさっさとシュラフに入ってしまったのだった。夕暮れ綺麗だよー!と美奈子が外で叫んでも、まるで出ようともせず、眼を閉じてうんうん唸っていた。そんな彼女の様子がおかしくて、空はずっと愛莉を見ていた。
「高山病、大丈夫かい? そんなに高いとこじゃないけど、発症する奴はいるもんだからさ」
「気持ち悪い」
「しっかり水飲みなよ。塩分もな。でも、吐き気はないだろ?」
いつもと違って愛莉は大人しく、しおらしかった。疲れ果てて憎まれ口を聞くこともできなかったのだろう。
そういう調子で、山頂まで行ったのだ。八ヶ岳の最高峰、名実共に主峰である、赤岳まで。三千メートルには満たない。2899メートル。しかしその素晴らしさは、決してそれ以上の山に劣るものではなかった。
突き抜けるような夏の空は、そのさらに向こう側の色を透かせて黒ずんでいた。赤岳頂上山荘のある北峰から、横岳の長い稜線、三角点のある南峰から、キレットの向こう側の権現岳。姉妹のように隣り合う阿弥陀岳。蓼科山と、その彼方に望む北アルプスの遥かな山並。そして、あの美しい富士山。
すべてを楽しめるシチュエーションだった。出産後のリハビリとしてはなかなかの展望で、美奈子は満足げに微笑んでいた。空にしても笑っていた。愛莉はといえば、すっかり疲労困憊して、顔を青くして俯いていただけだったが。
「見てみなよ」と空は愛莉に言った。「いかにも、これが山だって風景じゃないか。そうやってへばってると損するよ」
「うるさい」
「はいはい。でも、よくついてこれたよな。途中でギブアップしないか心配だったけど」
愛莉はもう空を睨む力さえ残っていないようだった。「癪だった……そういうのが。あんたたちがなんでもないようにしてるのに、私だけそういう……けど、もう二度とやんない。やってたまるか……」
「そう言うなよー!」美奈子は肘で愛莉の肩を小突いた。「あたしは楽しかったぜ? また一緒に登ろうよ! 山歩きなんか、何度もやってりゃすぐに慣れるもんさー!」
空はまた愛莉が例の憎まれ口を叩くと思った。けれど予想に反して、愛莉の顔からふっと力が抜け、その奥の、見たこともない表情がかすかに染み出るのを見た。
「……気が向いたらな」
それは愛莉なりの譲歩だったのだろう。
空は美奈子と顔を見合わせ、笑った。たぶん、笑うときだろうと思った。愛莉がそういう風なことばを紡ぐのを初めて聞いたからだった。
空の登山が秘密の道でなくなったのは、彼女が中学三年に上がった直後のことだった。入学式のぎりぎりまでやっていたソロ・クライミングで下手を打ち、滑落して大怪我をして家に帰った。文太はなんとも言えない顔をして、この無茶苦茶なひとり娘になんと言えばいいのか迷っている様子だったが、彼の後ろで、高校を卒業してもまだやってくる愛莉は、ふんと鼻を鳴らしたのだった。
唇の動きだけで愛莉は言った。(ばーか)
空は肩を竦めて唇を尖らせた。(あたしもそう思うわ)
なんにせよ、それから空は父親とザイルを繋いで登るようになった。彼と四十六歳で死に別れる二年後まで。
天見「(何言ってんだこの人……)」
短いあいだに色々あったと思う。
山裾を美奈子とともに歩いているところを文太に見つけられ、自分が登っていることを隠し通すことには苦労した。美奈子に必死でアイ・コンタクトを送り、ただ単に父親と同じクライマーである女が珍しかったから時折話すようになったのだと、誤魔化してもらった。そのときはそれで済んだが、文太のほうが美奈子と気が合い、ときどき一緒に登るようになってしまった。文太のザイル・パートナーであった篠原武士と美奈子が出会ったのもそういう過程で、空にはなにがどうなってそうなったのかまったくわからなかったが、ふたりは二年後に結婚して早々と娘を産んでしまったのだった。
文太の与り知らぬところで、空のクライミング技術は格段に向上していた。美奈子の教えを余すところなく吸収し、父親の所蔵している技術書から知識を深め、成長期特有の光り輝くような日進月歩、中学に入学する頃にはすでにいっぱしのソロ・クライマーになっていた。まさに天賦の才としか言いようがなかった。才能以上に煮え滾るような情熱があり、若さゆえの猛進が赴くままにあらゆる山に登った。山小屋への歩荷バイトで資金を貯め、文太の道具をちょろまかし、長野県という立地も多いに貢献した。
「あんたいつまで先生に山登ってること内緒にしてるの」
ある日、帰宅したところ、アパートの階段に所在なさげに座っていた愛莉に問われ、空は困ったように頬を掻いた。
愛莉は高校三年生になっており、空の眼には、日ごとにその容姿に毒々しい美しさを増していくように思われた。五歳年上のこの女が次第に大人のからだつきになっていくのを目の当たりにしていたのだった。もう黒のセーラー服は淫靡極まりないコスチュームになりかけていた。特徴的なサイド・テールも、その印象を和らげるのには役立たずになっていた。
「どうしようか」と空は言った。「いまさらなんて顔して打ち明ければいいかわからない。内緒にしすぎて、秘密でいるのが当たりまえになっちまった」
「子供が背伸びなんかするから……」
「そうしないと登れなかったんだ。仕方ないだろ? でも、いつかは打ち明けないとって思うよ」
「いつかっていつよ」
「わかんね。そのときがくればわかる気がする」
「そのときってなに?」
「どうせ、いつまでも隠していられることでもないしさ」
空は愛莉の横にザックを下ろし、そこに腰かけた。
冬の夕空が燃え盛るように色づいていた。風がひどく冷たく、雪の香りを運んで震える。視界は白かった。愛莉はコートを羽織りなおし、背筋を曲げて身を丸めた。
「ところで、いいの?」と空。
「なにが」
「親父をもらうんじゃなかったっけ? 美奈子さんに先、越されてるけど。いつあんたはあたしの母ちゃんになるの?」
「うるさい」
「あたしの眼には、二年まえからこれっぽっちも進歩がないように見えるよ。しつこいくらいよく来るのにさ……それともあたしが知らないだけで、もう一発やっちゃったりしてんの?」
愛莉は空を睨んだ。空は邪気のない微笑で応じた。
櫛灘文太は四十二歳。まだ独身で、空には結婚する気もないように思えた。暇さえあれば山ばかり行っている。今日も留守にしており、だからこそ空が登れる時間が確保できているところがある。そのせいで、愛莉はむしろ空とばかり話しているように感じられて、もどかしいというよりイラつく。
愛莉は空が嫌いだった。文太のひとり娘であることも、子供に似つかわしくない落ち着いた佇まいも、父親に内緒で山なんぞ登っている生意気さも、飾るところのない自然な容姿も、自分に対する率直な好意も、眼も。空の存在そのものが愛莉をイラつかせ、むかつかせた。近頃は機嫌を悪くするためだけにここにきているような感じがした。
「あんた今年で卒業だろ。どうすんの?」
「……」
「大学行くん? 上京するんだったら……美奈子さん、いま神奈川だってね? 篠原の奴が神奈川だからさ……あの辺、山ってあったっけ。横浜とか湘南とか、海のイメージしかないや」
「山より海のほうがいい」
「そうかい? あたしは海って見たことないけど、どうなんだろ。北アルプス全山縦走して、日本海まで突っ切ってみようかな。親父に内緒で、そんな長い期間留守にするのは、厳しいけど」
空はぼんやりして夕空を見上げた。紫色の火。その先にあるはずの山脈を想い、胸の奥底から震えが昇ってくるような感覚がした。
同じ長野県とはいえ北アルプスまではそれなりに遠い。電車で松本まで行って、乗り継いで新島々。上高地まではさらにそこからバスを使う。山は深い。とても日帰りというわけにはいかないし、交通費も厳しい。そこまですればさすがに文太も気づくだろう。
文太はまだ帰ってくる気配がなかった。空は愛莉に言う。「待ちぼうけも退屈だね。その辺歩かない?」
「鍵は?」
「ウチでひとりで待つつもり?」
愛莉は溜息をついて立ちあがった。
月が水底の火のように蒼白かった。粉のような輝きが下界まで舞い降りてきていた。
その光が農道を照らしていた。穏やかな風に、麦の穂が波のように揺れている。緩やかな温度。遠い八ヶ岳の山脈の黒々とした影が、眠りを貪る巨獣のように静かだった。その背ビレのような稜線を見ながら歩いた。
かなり長い時間一緒にいるにもかかわらず、空は愛莉のことをほとんど知らなかった。愛莉のほうで自分のことを語らなかったこともあるが、空自身が彼女のことにあまり興味を示さなかったからでもある。社交儀礼のように、空は訊いた。
「あんた中学でなにしでかしたんだい?」
まえをゆく愛莉が肩越しに振り返って空を睨んだ。空は肩を上げて悪意のないことを示した。
「先生に聞いたんじゃないの」
「いや、あたしはなんにも聞いちゃいないよ。親父は、生徒についてあれこれ言うような男じゃないしね。でも、あんたのほうで何度か親父に言ってたろ。それっぽくほのめかすような感じで……」
「あんたには関係のないことだ」
「そうだね」
蛾が麦の穂の上をひらひらと飛んでいる。道に添えつけられた街灯の間隔は広く、足元を照らすには光が弱すぎ、それでも蛾は惹きつけられるようにして光へ向かう。空はその様をぼんやりと見つめ、見上げ、満ちた月を背景にして飛ぶ揺らめきを綺麗だと思う。
蛾は当て所なく飛んでいるわけではなかった。確かに光を目指していた。それでどんな目に遭うかなど関係のないことのように振る舞っている。火に当てられ、燃え尽きるのだろう。鱗粉ごと焼き尽くされ、翅をもぎ取られても、それでも飛ぼうとするのだろう。そんなことも思う。
「あんたはあたしがなにか訊くと、すぐにあたしには関係のないことだって言うよな。忘れてるかもしれないから言っておくけど、あたしは親父の娘なんだぜ。あんたが付き纏ってる親父の……。ねえ、少しは秘密を明け渡してくれてもいいとは考えてくれないの?」
「先生に山登ってること秘密してるあんたが言うセリフ? ふん。あんたは私のなに?」
「なに? なんだろ。友だちかなんか?」
「友だち」愛莉は嘲るように鼻を鳴らす。「友だち?」率直ないらだちを篭めて足元の地面を蹴り飛ばす。「ふざけてんの? ああ、ふざけてるんだろうね。あんたなんか、私にとっちゃ先生のおまけみたいなもんだ。それもろくに役に立ちやしない、鬱陶しいだけの、百害あって一利なしの――」
「なあ。もしかしてさ、愛莉ってあたしに嫉妬してるわけ?」
際どいような風が吹き抜け、麦の穂を浅く揺らした。空は前髪を押さえつけ、愛莉の顔、硬く歪められた唇を見つめた。空の髪は長い。活発な腕白娘に似つかわしくなく、腰のあたりまで伸ばし放題に伸びている。その先端がぱらぱらと乱れた。
「そう睨むなよ」と空は言う。「あんたがあたしを、まるで親父の恋人みたいに見てることを知ってる。親父をもらうっつってたよな? それって要するに、あたしから親父を奪うっていう宣戦布告なんだろ? なんなんだよ、ったく。親父はあたしのもんじゃないっての。あんたが親父を欲しいってんなら、あたしは協力してやるっつってんのに、頼ってくれもしない。『あんたは私のなに』? あたしはあんたの敵じゃないってのに、あんたはあたしをどうしても敵として見做したいんだね」
空はけらけらと笑った。それは嘲笑ではなく、けれど、どこか乾いていた。少しばかり憂いも篭もっていた。
愛莉はありったけの憎しみを篭めて呟いた。「あんたは私の敵だ」
「ああ、そう。そういう風に思うのは勝手だよな、あたしのほうはちょっとショックだけど。なんかもう何度も言ってる気がするけどさ、あたしあんたのこと別に嫌いじゃないんだぜ。きちんと知ってるかい、そのこと?」
「……」
「その証拠に、こういうこともできる」
空はガラスの綱を渡るように素早く、愛莉のそばに近づいた。愛莉が後退する隙を与えない速度で。ほとんど意識の隙間を縫うような歩みで、愛莉は反応できなかった。ときどき、空はクライミングでそういうムーヴをする。あたかも世界に自分の実体がないように動く。
背丈に差があるから、空の頭は愛莉の胸あたりまでしかなかった。
不意打ちのように、空は愛莉の背中に腕を回して抱き締めた。
「……ッ、っ――」
予想していなかった行為に、愛莉は一瞬息を詰まらせ、すぐに振り払おうとした。が、空の腕の力は愛莉よりも遥かに強く、そこらの男よりもなお強く、容易にそうすることはできなかった。
その力に反してひどく小さな感触に圧倒もされ、なおさらできなかった。
愛莉は硬直し、蜘蛛の巣にがんじがらめにされたような感覚さえ憶え、どうすることもできずに空の頭を見下ろした。
風が何度も吹きつける。
風、風、風――
人間のからだの、直に触れる感触は、時として怖ろしく強大な実感を伴って感覚を圧倒してくる。ひどく原初的で、単純で、厳しいような感触だ。空の肉体は内に秘めた膨大なエネルギーにもかかわらず、少女というよりは子供のように小さかった。その短い秒の合間、愛莉はひどく翻弄された。
愛莉はどうにか喘ぐように言う。「なんでだよ……」
「なんでっていうか、別におかしなことじゃないだろ。もうかれこれ二年も付き合ってるんだ、他人じゃあるまいし。あはは。姉妹かっての」
空は抱きついたのと同じように軽やかに離れた。愛莉は半ばつんのめるようにして態勢を崩し、口許に手の甲を押し当てて空を睨んだ。
ぎりぎりと歯を噛むような視線。空は顎を上げて応じた。もうそんな彼女の眼には慣れっこで、いまさら気圧されるつもりもなかった。
けれど、ややあって、愛莉がおもむろに話し始めたことにはさすがの空も少し驚いた。
「嫌いな先公を破滅させてやったんだよ」
「――」
「そいつは偉大な教師だった。みんなに好かれて、みんながこうだと思う理想の先生面をしていて、みんなにいい顔をしてみせる公明正大な聖人君子だった。間違ったことなんかなにひとつしてなくて、みんなが正しいと思う道を歩んで、正しいことだけをして生きてきたような善人だった。自分が正しいことを信じてまるで疑っちゃいなかった。罪を憎んで人を憎まずなんてことをモットーにしていた。だから、私が化けの皮を剥がして、ほんとうの人間ってのがどういうものか教えてやったんだよ。
私が言ってる意味、わかる?」
愛莉の顔に嘲笑が浮かんだ。それは手のひらで死にかけた虫けらを嘲る遊女の笑みだった。
「そいつとセックスするのは簡単だった。ちょっとばかりいい顔見せてやって、慕ってる風な態度を演じてやって、股を開いてやれば簡単に応じやがった。ほんとうの私なんかこれっぽっちも見ちゃいなかった。それで容易くおしゃかになった。結局、人間なんかそんなもんだ。
私はあんたらにも同じことをしようとしてる。気に食わないんだよ、仲のいい家族面しやがって……善人面しやがって……人間面しやがって。悪魔なんかいないような顔しやがって。いまはいい顔してる奴らもすぐにそうじゃなくなる。だから、私が――」
空は肩を落としてみせた。「そうかい」
首を巡らせ、山を見つめた。最初のショックが遠くへ過ぎ去ると、夜はやはり、どこまでも穏やかな闇を宿して静かだった。空は少し微笑み、だからなんだろう、と思った。
細い吐息を漏らして言う。「親父もそういう風にしたいの?」
ばかばかしいことだという風に、愛莉は嘲笑を引っ込めて鼻を鳴らした。しかし、空はその眼の奥に逡巡を見つけた。それも錯覚かもしれないが。
虚しさに突き飛ばされ、愛莉は拳を握り締めた。いつでもどこかで破滅を望む悪しき一部が首をもたげ、ことばを喪い、なにも返答できなかった。なにもかもわかっているような態度を崩しもしないこの親娘が憎くてたまらなかった。なまじふたりを知りすぎたせいで余計にそう思った。けれど、なぜそんなにふたりが憎いのか、愛莉にはわかった試しがないのだった。
風が想いを飛ばしていく。
不意に、夜を引き裂く強い光がふたりのあいだに割って入った。空は眼を細めて、眩い視界に手をかざした。振り向くと、4WDのヘッドライトが揺れながら近づいてきていた。
空は後退し、車に道を譲った。が、車はそこで泊まった。窓から腕が伸び、ドアをばんばんと不躾に叩いた。こちらに注意を向けさせるための動きだった。
「よおおおおお。へい、へい! 嬢ちゃんらこんな人気のないとこでなにしてんだい!? 暇してんならこれからどっか遊び行こーぜぇ!?」
愛莉は一層の憎悪を篭めて声の主に強い眼を向けた。空は腰に手を当てて溜息をつき、ヘッドライトの光芒から逸れてそちらに近づいていった。
車のタイヤを爪先で一蹴りした。ちょっと間が悪いぜ、と心のなかで言う。いや、逆に良かったのか。
呆れて言う。「なにしてんですか、美奈子さん」
美奈子は腕を引っ込め、窓から身を乗り出して笑顔を見せた。「うひひ」
「免許取ったんですね。おめでとうございます。で、旦那や子供はどうしたんですか?」
「神奈川に置いてけぼり。たまにゃーいーじゃんよー! あたしだって、若い子と遊びたくなるときくらいあるさー!」
久し振りに現れた美奈子はそのままの美奈子だった。結婚して、苗字を篠原と変えて、子供まで産んだはずなのに、記憶にある美奈子とちっとも変わっていなかった。
美奈子はさらに身を乗り出し、愛莉のほうに向けてぶんぶんと腕を振った。愛莉はなおも眼を強くして闖入者を睨んでいた。が、美奈子はその程度のことで気後れする女でもなかった。
「愛ちゃんも、おひさー! うわぁ、なんだかすっごく久し振りに顔見たって気がする! 元気してた!? 元気してた!?」
「その呼び方やめろ」
「ええー? いいじゃんかわいーよー。さっきさ、空ちゃんち寄ったら、文太さんだけぽつんと待ちぼうけくらってて、その辺にいると思うから探してきてくれって言われちゃってさー。すぐ会えてよかったよ! 送ってくよ、乗って乗って!」
「美奈子さんもう運転慣れてるんですか?」
「こんなん楽勝よ! 神奈川から高速乗ってスイスイーってこれたし! 山だって行けるよ! 箱根の峠で修行してるもんね!」
促され、空は後部座席に乗り込んだ。美奈子は続けて愛莉に言う。
「ほら、愛ちゃんも!」
愛莉はそっぽを向き、そのまま歩き始める。
「意地っ張りだなあ。愛ちゃんいつもあんな感じ?」
空は苦笑する。「まあ」
「ヘイヘーイ! 夜道のひとり歩きは危ないぜー! 雪崩を避けるために真夜中出発するのは常套手段だけどな! そうそう、空ちゃん来週暇? あたしそろそろリハビリがてら八ヶ岳登りたいんだけど。赤岳とか阿弥陀とか。車出すよー?」
「いいですね、行きましょう」
「そう言ってくれると思った! そうだ、愛ちゃんも行かねー!? 初心者でもいまの時期だったら登れるよ!」
車を徐行させ、愛莉と並走させながら、美奈子は彼女に言う。愛莉は信じられないような顔をして美奈子を見つめる。
「荷物全部あたしが担いであげるからさ! 一泊二日で、行者小屋あたりにテント張って。学校で集団登山ってやった? あんなのじゃなくてさ、もっと自由に、自分のペースで行けるよ?」
「……本気で言ってんのあんた」
「あたしはいつでも本気だよー! 知らんかったかい?」
「……」
「迷うくらいならいっぺんやってみようよ! 自分に向いてるかどうかなんて、そっから考えればいーさー。案外どっぷりはまっちゃうかもよ?」
「そんなことあるわけない……」
「文太さんとお近づきになるチャンスかもしれないぜー?」
そりゃ地雷だよ、と空は内心はらはらしながら思う。
案の定、愛莉はますます眼をきつくして美奈子を睨んだ。しかしそれでも、美奈子はけらけらと笑ってまるで気にしていない様子だった。
愛莉が行く気になったのはさすがに空には予想外だった。
彼女と共有した思い出のなかで、敵意を交わさず触れ合った数少ない経験のひとつだったように思う。
美奈子の車で美濃戸まで行き、そこから行者小屋を目指す短い行程のなかで、愛莉はすぐに疲れ果ててバテてしまった。荷物は美奈子と空が持ち、空身だったにもかかわらず。
夏の香りが波のように漂うなか、愛莉は彼女らしくもなく汗だくになり、後ろにつく空に言ったのだった。
「ほんとっ……こんなの、頭のおかしな人間のやる趣味だっ……、いまどれくらい歩いてるの!? テント張るところまでどれくらい!?」
空は笑って言った。「まだ半分もきてないよ」
その愕然とした愛莉の顔をよく覚えている。
テントを張るときも足手まといだったし、テントのなかでも足手まといだった。てきぱきと動く美奈子と空に比べて、愛莉はひどくスローにしか動けず、陽が沈むまえにさっさとシュラフに入ってしまったのだった。夕暮れ綺麗だよー!と美奈子が外で叫んでも、まるで出ようともせず、眼を閉じてうんうん唸っていた。そんな彼女の様子がおかしくて、空はずっと愛莉を見ていた。
「高山病、大丈夫かい? そんなに高いとこじゃないけど、発症する奴はいるもんだからさ」
「気持ち悪い」
「しっかり水飲みなよ。塩分もな。でも、吐き気はないだろ?」
いつもと違って愛莉は大人しく、しおらしかった。疲れ果てて憎まれ口を聞くこともできなかったのだろう。
そういう調子で、山頂まで行ったのだ。八ヶ岳の最高峰、名実共に主峰である、赤岳まで。三千メートルには満たない。2899メートル。しかしその素晴らしさは、決してそれ以上の山に劣るものではなかった。
突き抜けるような夏の空は、そのさらに向こう側の色を透かせて黒ずんでいた。赤岳頂上山荘のある北峰から、横岳の長い稜線、三角点のある南峰から、キレットの向こう側の権現岳。姉妹のように隣り合う阿弥陀岳。蓼科山と、その彼方に望む北アルプスの遥かな山並。そして、あの美しい富士山。
すべてを楽しめるシチュエーションだった。出産後のリハビリとしてはなかなかの展望で、美奈子は満足げに微笑んでいた。空にしても笑っていた。愛莉はといえば、すっかり疲労困憊して、顔を青くして俯いていただけだったが。
「見てみなよ」と空は愛莉に言った。「いかにも、これが山だって風景じゃないか。そうやってへばってると損するよ」
「うるさい」
「はいはい。でも、よくついてこれたよな。途中でギブアップしないか心配だったけど」
愛莉はもう空を睨む力さえ残っていないようだった。「癪だった……そういうのが。あんたたちがなんでもないようにしてるのに、私だけそういう……けど、もう二度とやんない。やってたまるか……」
「そう言うなよー!」美奈子は肘で愛莉の肩を小突いた。「あたしは楽しかったぜ? また一緒に登ろうよ! 山歩きなんか、何度もやってりゃすぐに慣れるもんさー!」
空はまた愛莉が例の憎まれ口を叩くと思った。けれど予想に反して、愛莉の顔からふっと力が抜け、その奥の、見たこともない表情がかすかに染み出るのを見た。
「……気が向いたらな」
それは愛莉なりの譲歩だったのだろう。
空は美奈子と顔を見合わせ、笑った。たぶん、笑うときだろうと思った。愛莉がそういう風なことばを紡ぐのを初めて聞いたからだった。
空の登山が秘密の道でなくなったのは、彼女が中学三年に上がった直後のことだった。入学式のぎりぎりまでやっていたソロ・クライミングで下手を打ち、滑落して大怪我をして家に帰った。文太はなんとも言えない顔をして、この無茶苦茶なひとり娘になんと言えばいいのか迷っている様子だったが、彼の後ろで、高校を卒業してもまだやってくる愛莉は、ふんと鼻を鳴らしたのだった。
唇の動きだけで愛莉は言った。(ばーか)
空は肩を竦めて唇を尖らせた。(あたしもそう思うわ)
なんにせよ、それから空は父親とザイルを繋いで登るようになった。彼と四十六歳で死に別れる二年後まで。
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