オリジナルss。登山、微百合、日常のぐだぐだ。
しばらく過去編入りまーす。これまで以上にぐだる!
マイペースでいきまっす。
家に帰ってきたとき、空の姿はさながら放浪者のようだった。藪漕ぎのかすり傷だらけで紅い腕の皮膚、服の裾には細かな枝葉をくっつかせ、体力が底を尽きて眠たげに眼を細めていた。子供の拙い足取りで家路についていた。
その年で十歳になる櫛灘空は、黒々とした髪を肩まで伸ばし、クラスメイトのなかではいちばん背が低く、小柄で、その身に持て余すほど膨大なエネルギーを体内に宿していた。そして、その年頃の子供ならではのことではあるが、世界に対してちょっとした秘密を隠し持っていた。親に内緒で山に登っていたのだ。山に程近い街で暮らし、里山には困らなかった。父親の櫛灘文太が山にゆくたび、彼女もまた、里山を駆け巡って素敵な時間を過ごしていた。内緒にしていたのは、それが取り上げられることを怖がっていたからだ。クラスメイトがゲームに夢中になり、しまいには親に頭ごなしに禁止されてしまうように。
その日も、空は山に一日中篭もり、夕暮れ時になって帰還したところだった。夏の茜色が世界を焼いていた。雲ひとつない快晴で、陽光はいつも以上に盛んだった。なにもかも燃やし尽くしてしまうかと思われるような強い陽射しだ。
しかし、東の空はもう夜になっていた。一番星がなによりも先に輝き始めていた。そうして、アパートの階段に自分よりも年上の少女が座っているのを見つけたとき、空は呆れたように溜息をついていた。
(あいつだ)と空は思った。また性懲りもなくやってきたんだろう。
少女は高校の制服姿だった。日曜だというのに。黒を基調としたセーラー服に、穢れのない純白のスカーフ。黒のタイツを穿いており、それがその細い脚をなおさら細く見せていた。自然な色合いの栗色の髪をサイド・テールのかたちで結い、座り込んで頬杖を突いていた。空を認めると、緩慢な動作で立ち上がった。そうしてどこか淫らに笑う。
空が近くまで行くと、なおさらその笑みが深まり、言う。
「ねえ。あんたのお父さん、私がもらっちゃってもいい?」
あたしが片親なのを知ってて言うんだ、と空は思った。しかしおおむね、興味のない話でもあった。「さあ。いいんじゃないの?」
少女の笑みが収まり、無表情が空を見下ろした。
「勝手にしなよ。親父はあたしのじゃないし。まあ、頑張りなよ。愛莉がなに言ってんのか、あたしにはよくわかんないんだけどさ」
少女は鼻を鳴らして言う。「ふん。つまんないガキ」
空も鼻を鳴らした。「そいつは悪かったね」
少女が階段を登っていく。空も少女の後に続いた。櫛灘親子が借りているのは二階の端部屋で、鍵は空が持っている。少女は空を待っていたのだった。
「応援しといてやるよ。あたしになにかしてあげられることはあるかい?」
「黙って見てろ」
「それでいいの? 了解。で、今日も泊まってくのかい」
「そのつもり」
空は部屋の鍵を開けた。
何度あの部屋で父の帰りを待ったことだろう。
物心つくより先に、櫛灘文太という男が山に取り憑かれていることを知っていた。風雪に削られ、旋盤で削ぎ落としたように紅くなった鼻先から頬のまわり。大柄な体格に合わせるような重い足取りに、凍傷によって小指のなくなった右足。繊細に動く太い指先に、まるでパン屋かなにかのようなふっくらした手のひら。乾いたしゃがれ声。大きいというのが控えめな物言いになるほど大きな背中。
空にとって、山男という一般的なイメージは彼によって形成されたものだった。部屋で耳を澄まし、彼が階段を登ってくる足音を聞くと、山の匂いが周囲に漂うような感じがした。窓の外はすっかり暗くなっており、夜に月が染み出していた。父の登ってきた山の姿を想像するのが好きだった。いつかはあたしもそこを登ってやろうと思って。
「ただいま。ん。なんだ火野もきてたのか」
「どぉも、先生」
「親父ー。もう飯できてるー」
「ああ……先に食ってりゃよかったのに。ありがとう、空。おれもう腹減って死にそうだ」
火野愛莉は高校一年生、文太のクラスの生徒だった。十五歳。中学からの上がり立て。しかし、空の眼には、彼女に中学生っぽいところを見ることができなかった。高校生と言われてもまだ疑問に思っている。もっと年上の女が制服のコスプレでもしているかのように思えた。
だいたい教師の家に遊びにくる生徒という時点で異様だった。櫛灘文太はもう四十歳、教育実習生でもないのだから年齢が近いわけではないし、この家にやってきた生徒というのは、空の十年の人生で彼女ただひとりきりだ。
文太がシャワーを浴びているあいだ、愛莉はソファーに深く腰を下ろしてつまらなそうにテレビを見ていた。野球中継で、0対0の拮抗した投手戦だった。ソファーはふたりがけだったが、愛莉ひとりで占領していた。空は彼女に言う。
「もっと詰めてよ。狭いんだからさ」
「テレビなんて見るもんじゃないよ」
「そういう問題? 別にテレビを見ようとは思わないよ。でも、野球選手は見たい」
「なにそれ」
「アスリートってなんか好きなんだ。野球は別にどうでもいいけど。なんでもないようにプレイしてるけど、どんだけ極めれば、ああいうことできるんだろうって考えるとさ」
「意味わかんない」
「あたしだってスポーツくらいやるもの。あんたはしないの?」
「汗かくの嫌い」
そんな顔してるよな、と空は思う。
しかし、詰める気配もないので、空はむすっとして愛莉を見据える。彼女があえてそうした態度を取る理由がわからない。どうもあたしを嫌ってるみたいだと感じはするものの、別に愛莉に対して不快なことをした記憶はない。空は別段愛莉のことを嫌ってはいなかった。
仕方なく、子供特有の無邪気さで――そんなもの空にはなかったが、そう装って――愛莉の膝に座った。愛莉はますます厭そうに唇を歪めた。
「どけよ」
「いいだろ別に……減るもんじゃないし」
「イヤだって言ってんの」
「座るところねーもん。あたしだって隣がいいけど。あんたは下と横とどっちがいい?」
「……」
愛莉は黙って空の頬をつねった。あたしのほうが握力あるな、と空は思い、好きなようにさせる。空は愛莉をつねる代わりにハンドグリップを握ってトレーニングを始めた。
空はその歳でクライミングということばを知っていた。興味も持っていた。しかし、それを実践する手段がなかった。
近場の里山、その頂上にある古い城址。本丸はもはや跡形もなかったが、石垣は残っていた。十メートルほどのかなり大きなものだ。蔦が這い、九割方崩されてはいたが、その狭い部分だけはまだしっかりとしていた。
空はそこに手のひらを寄せ、いっとき、石の感覚を味わう。そうしておもむろに登り始める。
首の根が痛くなるほど歯を食い縛り、少女にあるまじき醜悪な表情を浮かべ、全身の筋肉を拍動させる。神経の命令に従い、前腕の筋肉、筋原繊維を取り巻く管状組織にて、筋小胞体の孔が開いて百万イオンのカルシウムが秒速で解き放たれ、細胞内のATPがADPとPiに分解、筋原繊維内のミオシンとアクチン両フィラメントがスライドし、筋収縮が起こり、空の肉体に秘められたパワーに許される限りのエネルギーを発生させる。
重力を屈服させ、捻じ伏せ、空のからだが妖精かなにかのように上へ向かう。
靴はスニーカーだ。摩擦力など皆無に等しく、頼りになるのは腕の力しかない。方眼紙に一マスずつ道を書き込むゲーマーのように、一手ずつ確実に進んでいく。物静かに。空の内面は燃え始めていたとはいえ。
クライミングの真似事……
木登りには子供の関心を惹きつける原初的な面白味がある。それを石の壁で行うのだ。墜ちればどうなる? そんなことに、空の関心はない。ただ登るという行為そのものに熱中する。それだけがこの世界で確かなものであるかのように。
登り切り、石垣の上に腰かける。樹木の上から上空を見渡すことができ、空は背を逸らして顎を上げた。この光景が好きだった。
分厚い雲が昼を覆っていた。途切れ途切れに、陽光が槍のように射し込み、揺らめくようなカーテンの色をつくりだしていた。光色の閃き。遥か彼方の山脈、八ヶ岳の稜線上に、スポットライトを当てたような円状の明るさがある。子供の感受性には眩すぎる世界だった。
空はここの早朝の光景も好きだった。夕暮れの光景も好きだった。太陽が過ぎ去り、身を休め、夜の輝くような闇に席を譲った後の光景も好きだった。雲ひとつないときも、玻璃のような雨が降っているときも好きだった。世界のほうで自分を拒絶する日がくるかもしれないなどとは考えもせず、ただ前途に続く遥かな道を想っては途方に暮れるようにわくわくしていた。そういう少女だった。空という女は。
「なにしてんの?」
声をかけられ、見下ろすと、石垣の下に愛莉がいた。いつも見下してくる彼女が足元にいることにおかしくなり、空はくすりと笑った。「別になにもしちゃいないよ。ただこうしてるだけ」
「ちょっと眼を離した隙に――どうやってそこ行ったのさ。回り道でもあんの?」
「いや、直接攀じ登った」
「はあ?」
空は石垣を伝い、端のほうまで歩いた。細い道筋をあえて楽しむように、綱渡りでもするかのように腕を両側に広げながら。そこからは急角度の滑り台のようになっており、登るのは困難だが降りるのは容易だった。落ち葉を下敷きに、空は一気に滑り降りた。
「上、いい眺めだよ。知ってた? あんたも登ってきたら」
「冗談。ったく。先生に、暇だったら空を見ててやってくれって言われなきゃ、あんたなんかその辺に放っておいたのに」
「じゃあそうしなよ。別にあたしはひとりでいいよ」
「どこ行っちゃうか想像もつかないようなガキを? ふん……」
愛莉の手が空の頭を掴み、がしがしと掻き乱した。空はしばらくなすがままになっていた。
石垣に背を預け、愛莉はぼんやりと眼を泳がせた。彼女はまたセーラー服姿だった。いつもそうなのだ。スカートのポケットから煙草を取り出し、一本取り出して口に咥える。空は首を傾げてその様子を眺めた。
「未成年の喫煙って法律で禁止されてるって習ったけど。いつ改正されたの?」
「あんたはどこまでもどこまでもどこまでも正しい。けど、法律なんかはくそくらえだ。憲法だって気まぐれな政治屋の気まぐれな商売で簡単に変えられそうになる国で、そんなこといちいち気にしてられるかっての。吸いたいから吸うんだよ」
「ふぅん。あたしにも一本もらえる?」
「死にたいならあげる」
「じゃあいいや」
紫煙が愛莉の顔の周りを漂う。空はますます彼女の制服姿をコスチューム・プレイのように感じた。軽く眼を伏せる彼女の睫毛は淫靡なほどに長く、その一本一本が細い影を落としていた。
椿の花が地面に散っており、仄かな香りが浮き上がっていた。死骸の花畑のように。ヤなもんだ、と空は思った。花としてのかたちを保ったままぽとりと墜ちる椿の花は、登山家が人間のかたちのまま墜ちていく様を思い起こさせた。花のうつくしさと花のイメージはまったく一致していなかった。空はしゃがみこみ、その一輪を手に取ってしげしげと眺めた。
しかし、その花を嫌いになれない自分もいた。あたしたちがどんなイメージを授けたって、花は花だ。それ以外のなんでもない。空はそのことを知っていた。ただ自然というぼんやりした世界に向けて色々と思い至ることがあるだけだった。これほどうつくしいもの、これほど捉え難いもの、これほど膨大なものをどうして一括りにできる? 花を弄っていると、愛莉に言われる。「なに?」
「え、別に……」
「花を愛でる心がありますよってわけ? ガキのくせに」
「そういうんじゃないって」直接的な嫌味にむしろ笑ってしまって、「あたしだって、そんなにお淑やかなお嬢様じゃないよ。単なる手慰み。花の似合わない女だって、ちゃんとわかってるから」
「あんたのそういうところが……」
「気に食わないんなら、それでいいよ。悪かったね。あんた好みの女の子にはどう逆立ちしてもなれそうにないや」
空は愛莉に椿を放った。愛莉は手のひらでそれを弾いた。
しかし、空はしゃがみこんで地面に腕を這わせ、椿をいっぱいに掻き集めてまた放った。さすがに弾ききれず、愛莉は眼を眇めて空を睨んだ。空は構わずにまた放った。
「ちょっと、やめてよ」
軽い悪戯心から、空は愛莉の周りを歩いて椿を放り続けた。愛莉が諦めたように肩をすくめると、その隙を突いて、手に取った一輪を彼女のサイド・テールに添えつけた。振るわれた腕をひょいとかわして後退りし、にやりと笑って彼女を見つめた。
「よかったね。花、あんたには似合うよ」
「……」
「あたしが似合わなくてもいいんだ。他の誰かが似合えば、それであたしは満足」
愛莉は睨む眼を強くして、その場に座り込んだ。空を相手にしているとひどく疲れてしまう自分に気がついていた。それ以上にどこかその感覚を求めている自分にも気がついていた。だから、厭になるのだ。
文太は国語の教師だった。愛莉はぼんやりと彼の授業を思い出し、ぽつりと詠った。「あしひきの 八峯の椿 つらつらに 見とも飽かめや 植ゑてける君」
「え、なにそれ」
眼を白黒させる空を鼻で嘲笑い、さらに詠った。「我が門の 片山椿 まこと汝 我が手触れなな 地に落ちもかも」
その歌の意味がわからず、なんと言っているのかもわからず、空は困ったように首を傾げた。
椿は嫌いだと愛莉は思った。散り落ちてさえそのうつくしさを保ち続ける花。遥か過去の人間は斬首を想像したらしいが、愛莉の想像してしまったのは永遠だった。決して手に届くことのない時間の妙を、その憎たらしい花に見つけて、心底苦々しく思うのだった。
しばらく過去編入りまーす。これまで以上にぐだる!
マイペースでいきまっす。
家に帰ってきたとき、空の姿はさながら放浪者のようだった。藪漕ぎのかすり傷だらけで紅い腕の皮膚、服の裾には細かな枝葉をくっつかせ、体力が底を尽きて眠たげに眼を細めていた。子供の拙い足取りで家路についていた。
その年で十歳になる櫛灘空は、黒々とした髪を肩まで伸ばし、クラスメイトのなかではいちばん背が低く、小柄で、その身に持て余すほど膨大なエネルギーを体内に宿していた。そして、その年頃の子供ならではのことではあるが、世界に対してちょっとした秘密を隠し持っていた。親に内緒で山に登っていたのだ。山に程近い街で暮らし、里山には困らなかった。父親の櫛灘文太が山にゆくたび、彼女もまた、里山を駆け巡って素敵な時間を過ごしていた。内緒にしていたのは、それが取り上げられることを怖がっていたからだ。クラスメイトがゲームに夢中になり、しまいには親に頭ごなしに禁止されてしまうように。
その日も、空は山に一日中篭もり、夕暮れ時になって帰還したところだった。夏の茜色が世界を焼いていた。雲ひとつない快晴で、陽光はいつも以上に盛んだった。なにもかも燃やし尽くしてしまうかと思われるような強い陽射しだ。
しかし、東の空はもう夜になっていた。一番星がなによりも先に輝き始めていた。そうして、アパートの階段に自分よりも年上の少女が座っているのを見つけたとき、空は呆れたように溜息をついていた。
(あいつだ)と空は思った。また性懲りもなくやってきたんだろう。
少女は高校の制服姿だった。日曜だというのに。黒を基調としたセーラー服に、穢れのない純白のスカーフ。黒のタイツを穿いており、それがその細い脚をなおさら細く見せていた。自然な色合いの栗色の髪をサイド・テールのかたちで結い、座り込んで頬杖を突いていた。空を認めると、緩慢な動作で立ち上がった。そうしてどこか淫らに笑う。
空が近くまで行くと、なおさらその笑みが深まり、言う。
「ねえ。あんたのお父さん、私がもらっちゃってもいい?」
あたしが片親なのを知ってて言うんだ、と空は思った。しかしおおむね、興味のない話でもあった。「さあ。いいんじゃないの?」
少女の笑みが収まり、無表情が空を見下ろした。
「勝手にしなよ。親父はあたしのじゃないし。まあ、頑張りなよ。愛莉がなに言ってんのか、あたしにはよくわかんないんだけどさ」
少女は鼻を鳴らして言う。「ふん。つまんないガキ」
空も鼻を鳴らした。「そいつは悪かったね」
少女が階段を登っていく。空も少女の後に続いた。櫛灘親子が借りているのは二階の端部屋で、鍵は空が持っている。少女は空を待っていたのだった。
「応援しといてやるよ。あたしになにかしてあげられることはあるかい?」
「黙って見てろ」
「それでいいの? 了解。で、今日も泊まってくのかい」
「そのつもり」
空は部屋の鍵を開けた。
何度あの部屋で父の帰りを待ったことだろう。
物心つくより先に、櫛灘文太という男が山に取り憑かれていることを知っていた。風雪に削られ、旋盤で削ぎ落としたように紅くなった鼻先から頬のまわり。大柄な体格に合わせるような重い足取りに、凍傷によって小指のなくなった右足。繊細に動く太い指先に、まるでパン屋かなにかのようなふっくらした手のひら。乾いたしゃがれ声。大きいというのが控えめな物言いになるほど大きな背中。
空にとって、山男という一般的なイメージは彼によって形成されたものだった。部屋で耳を澄まし、彼が階段を登ってくる足音を聞くと、山の匂いが周囲に漂うような感じがした。窓の外はすっかり暗くなっており、夜に月が染み出していた。父の登ってきた山の姿を想像するのが好きだった。いつかはあたしもそこを登ってやろうと思って。
「ただいま。ん。なんだ火野もきてたのか」
「どぉも、先生」
「親父ー。もう飯できてるー」
「ああ……先に食ってりゃよかったのに。ありがとう、空。おれもう腹減って死にそうだ」
火野愛莉は高校一年生、文太のクラスの生徒だった。十五歳。中学からの上がり立て。しかし、空の眼には、彼女に中学生っぽいところを見ることができなかった。高校生と言われてもまだ疑問に思っている。もっと年上の女が制服のコスプレでもしているかのように思えた。
だいたい教師の家に遊びにくる生徒という時点で異様だった。櫛灘文太はもう四十歳、教育実習生でもないのだから年齢が近いわけではないし、この家にやってきた生徒というのは、空の十年の人生で彼女ただひとりきりだ。
文太がシャワーを浴びているあいだ、愛莉はソファーに深く腰を下ろしてつまらなそうにテレビを見ていた。野球中継で、0対0の拮抗した投手戦だった。ソファーはふたりがけだったが、愛莉ひとりで占領していた。空は彼女に言う。
「もっと詰めてよ。狭いんだからさ」
「テレビなんて見るもんじゃないよ」
「そういう問題? 別にテレビを見ようとは思わないよ。でも、野球選手は見たい」
「なにそれ」
「アスリートってなんか好きなんだ。野球は別にどうでもいいけど。なんでもないようにプレイしてるけど、どんだけ極めれば、ああいうことできるんだろうって考えるとさ」
「意味わかんない」
「あたしだってスポーツくらいやるもの。あんたはしないの?」
「汗かくの嫌い」
そんな顔してるよな、と空は思う。
しかし、詰める気配もないので、空はむすっとして愛莉を見据える。彼女があえてそうした態度を取る理由がわからない。どうもあたしを嫌ってるみたいだと感じはするものの、別に愛莉に対して不快なことをした記憶はない。空は別段愛莉のことを嫌ってはいなかった。
仕方なく、子供特有の無邪気さで――そんなもの空にはなかったが、そう装って――愛莉の膝に座った。愛莉はますます厭そうに唇を歪めた。
「どけよ」
「いいだろ別に……減るもんじゃないし」
「イヤだって言ってんの」
「座るところねーもん。あたしだって隣がいいけど。あんたは下と横とどっちがいい?」
「……」
愛莉は黙って空の頬をつねった。あたしのほうが握力あるな、と空は思い、好きなようにさせる。空は愛莉をつねる代わりにハンドグリップを握ってトレーニングを始めた。
空はその歳でクライミングということばを知っていた。興味も持っていた。しかし、それを実践する手段がなかった。
近場の里山、その頂上にある古い城址。本丸はもはや跡形もなかったが、石垣は残っていた。十メートルほどのかなり大きなものだ。蔦が這い、九割方崩されてはいたが、その狭い部分だけはまだしっかりとしていた。
空はそこに手のひらを寄せ、いっとき、石の感覚を味わう。そうしておもむろに登り始める。
首の根が痛くなるほど歯を食い縛り、少女にあるまじき醜悪な表情を浮かべ、全身の筋肉を拍動させる。神経の命令に従い、前腕の筋肉、筋原繊維を取り巻く管状組織にて、筋小胞体の孔が開いて百万イオンのカルシウムが秒速で解き放たれ、細胞内のATPがADPとPiに分解、筋原繊維内のミオシンとアクチン両フィラメントがスライドし、筋収縮が起こり、空の肉体に秘められたパワーに許される限りのエネルギーを発生させる。
重力を屈服させ、捻じ伏せ、空のからだが妖精かなにかのように上へ向かう。
靴はスニーカーだ。摩擦力など皆無に等しく、頼りになるのは腕の力しかない。方眼紙に一マスずつ道を書き込むゲーマーのように、一手ずつ確実に進んでいく。物静かに。空の内面は燃え始めていたとはいえ。
クライミングの真似事……
木登りには子供の関心を惹きつける原初的な面白味がある。それを石の壁で行うのだ。墜ちればどうなる? そんなことに、空の関心はない。ただ登るという行為そのものに熱中する。それだけがこの世界で確かなものであるかのように。
登り切り、石垣の上に腰かける。樹木の上から上空を見渡すことができ、空は背を逸らして顎を上げた。この光景が好きだった。
分厚い雲が昼を覆っていた。途切れ途切れに、陽光が槍のように射し込み、揺らめくようなカーテンの色をつくりだしていた。光色の閃き。遥か彼方の山脈、八ヶ岳の稜線上に、スポットライトを当てたような円状の明るさがある。子供の感受性には眩すぎる世界だった。
空はここの早朝の光景も好きだった。夕暮れの光景も好きだった。太陽が過ぎ去り、身を休め、夜の輝くような闇に席を譲った後の光景も好きだった。雲ひとつないときも、玻璃のような雨が降っているときも好きだった。世界のほうで自分を拒絶する日がくるかもしれないなどとは考えもせず、ただ前途に続く遥かな道を想っては途方に暮れるようにわくわくしていた。そういう少女だった。空という女は。
「なにしてんの?」
声をかけられ、見下ろすと、石垣の下に愛莉がいた。いつも見下してくる彼女が足元にいることにおかしくなり、空はくすりと笑った。「別になにもしちゃいないよ。ただこうしてるだけ」
「ちょっと眼を離した隙に――どうやってそこ行ったのさ。回り道でもあんの?」
「いや、直接攀じ登った」
「はあ?」
空は石垣を伝い、端のほうまで歩いた。細い道筋をあえて楽しむように、綱渡りでもするかのように腕を両側に広げながら。そこからは急角度の滑り台のようになっており、登るのは困難だが降りるのは容易だった。落ち葉を下敷きに、空は一気に滑り降りた。
「上、いい眺めだよ。知ってた? あんたも登ってきたら」
「冗談。ったく。先生に、暇だったら空を見ててやってくれって言われなきゃ、あんたなんかその辺に放っておいたのに」
「じゃあそうしなよ。別にあたしはひとりでいいよ」
「どこ行っちゃうか想像もつかないようなガキを? ふん……」
愛莉の手が空の頭を掴み、がしがしと掻き乱した。空はしばらくなすがままになっていた。
石垣に背を預け、愛莉はぼんやりと眼を泳がせた。彼女はまたセーラー服姿だった。いつもそうなのだ。スカートのポケットから煙草を取り出し、一本取り出して口に咥える。空は首を傾げてその様子を眺めた。
「未成年の喫煙って法律で禁止されてるって習ったけど。いつ改正されたの?」
「あんたはどこまでもどこまでもどこまでも正しい。けど、法律なんかはくそくらえだ。憲法だって気まぐれな政治屋の気まぐれな商売で簡単に変えられそうになる国で、そんなこといちいち気にしてられるかっての。吸いたいから吸うんだよ」
「ふぅん。あたしにも一本もらえる?」
「死にたいならあげる」
「じゃあいいや」
紫煙が愛莉の顔の周りを漂う。空はますます彼女の制服姿をコスチューム・プレイのように感じた。軽く眼を伏せる彼女の睫毛は淫靡なほどに長く、その一本一本が細い影を落としていた。
椿の花が地面に散っており、仄かな香りが浮き上がっていた。死骸の花畑のように。ヤなもんだ、と空は思った。花としてのかたちを保ったままぽとりと墜ちる椿の花は、登山家が人間のかたちのまま墜ちていく様を思い起こさせた。花のうつくしさと花のイメージはまったく一致していなかった。空はしゃがみこみ、その一輪を手に取ってしげしげと眺めた。
しかし、その花を嫌いになれない自分もいた。あたしたちがどんなイメージを授けたって、花は花だ。それ以外のなんでもない。空はそのことを知っていた。ただ自然というぼんやりした世界に向けて色々と思い至ることがあるだけだった。これほどうつくしいもの、これほど捉え難いもの、これほど膨大なものをどうして一括りにできる? 花を弄っていると、愛莉に言われる。「なに?」
「え、別に……」
「花を愛でる心がありますよってわけ? ガキのくせに」
「そういうんじゃないって」直接的な嫌味にむしろ笑ってしまって、「あたしだって、そんなにお淑やかなお嬢様じゃないよ。単なる手慰み。花の似合わない女だって、ちゃんとわかってるから」
「あんたのそういうところが……」
「気に食わないんなら、それでいいよ。悪かったね。あんた好みの女の子にはどう逆立ちしてもなれそうにないや」
空は愛莉に椿を放った。愛莉は手のひらでそれを弾いた。
しかし、空はしゃがみこんで地面に腕を這わせ、椿をいっぱいに掻き集めてまた放った。さすがに弾ききれず、愛莉は眼を眇めて空を睨んだ。空は構わずにまた放った。
「ちょっと、やめてよ」
軽い悪戯心から、空は愛莉の周りを歩いて椿を放り続けた。愛莉が諦めたように肩をすくめると、その隙を突いて、手に取った一輪を彼女のサイド・テールに添えつけた。振るわれた腕をひょいとかわして後退りし、にやりと笑って彼女を見つめた。
「よかったね。花、あんたには似合うよ」
「……」
「あたしが似合わなくてもいいんだ。他の誰かが似合えば、それであたしは満足」
愛莉は睨む眼を強くして、その場に座り込んだ。空を相手にしているとひどく疲れてしまう自分に気がついていた。それ以上にどこかその感覚を求めている自分にも気がついていた。だから、厭になるのだ。
文太は国語の教師だった。愛莉はぼんやりと彼の授業を思い出し、ぽつりと詠った。「あしひきの 八峯の椿 つらつらに 見とも飽かめや 植ゑてける君」
「え、なにそれ」
眼を白黒させる空を鼻で嘲笑い、さらに詠った。「我が門の 片山椿 まこと汝 我が手触れなな 地に落ちもかも」
その歌の意味がわからず、なんと言っているのかもわからず、空は困ったように首を傾げた。
椿は嫌いだと愛莉は思った。散り落ちてさえそのうつくしさを保ち続ける花。遥か過去の人間は斬首を想像したらしいが、愛莉の想像してしまったのは永遠だった。決して手に届くことのない時間の妙を、その憎たらしい花に見つけて、心底苦々しく思うのだった。
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コメント
無題
こんな子供は嫌だと思うと同時にぜひ欲しいとも思いますね。
posted by 無題 at 2014/02/02 11:47 [ コメントを修正する ]