オリジナル。登山、微百合、日常のぐだぐだ。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と述べたところでいつもどおりの平常運転なわけですが!
まあぼちぼち継続していこうと思います。マイペースで。
ソロ・クライミングのザイルワークは、一度空身で登ってザイルを張り、下降しつつ荷物を背負ってもう一度登り返すZ式登攀だ。煩雑極まりないザイル操作と手間と時間のかかる代物で、チンネ左稜線は細いナイフエッジが続いて流れも悪い。空は思いきってザイルを片付けた。フリーソロのほうがはやいと判断する。
グレードは平均してⅢ級相当で、フリーのグレードにあてはめれば5.4程度のムーヴだが、プロテクションの悪さや装備の重量から体感的には数段上にあたる。さらに今回はクライミングシューズではなく、足裏感覚のない登山靴で、それだけでもかなりの難しさになる。単純な気候の差もある。五月の剱岳はほとんど冬だ。しかし、空は手袋を外した。指先が一気に痛いほど冷えるが触感は確かになる。
フリーソロ――
確保なし。落ちればそれで死ぬ。もちろん凄まじいほどの恐怖はある。しかしそれを越える術を持ち合わせてもいた。
何度となくやってきたことだ。
快適なフェイス、凹角、草付きやバンドからのルンゼを登り、肉体はなんの妨げもなく動く。
花崗岩は硬く、乾いていて、登山靴のフリクションが良く利いてくれる。影になっているところはところどころ湿っているが、そうした箇所こそはクライミングシューズよりも登山靴のほうが有利になる。
チンネのスカイライン……左稜線を辿り、抜群の高度感を感じながら、ハイマツを潜り抜け、ピナクルを頼りにさらに登ると、T5と名づけられたちょっとしたテラスに到着する。そこで一息入れる。
太陽が下界よりも3000メートルぶん近い。恵みのように、暖かい。空はその優しさを存分に享受し、一度ザイルを出す。
核心部の“鼻”。小ハングのⅤ級、フリー換算で5.7。
鼻とはよく名づけたものだと思う。まさに巨人の鼻のようなかたちで、その左側を攀じ登る。大胆なムーヴで、一気にからだを持ち上げると、純粋で混じり気のない喜びが、胸の底を突き上げるように湧き出てきた。
そう、なにも問題はない。
ブランクを考えればもう少し手こずってもいいくらいだ。なのに、からだはまるで待ち侘びていたかのように綺麗に動く。
右手に見える尖塔形の“小窓ノ王”の高さを越えれば、終了点が近い。ここからは斜度の緩いリッジ・クライミングになる。下方に三ノ窓の雪渓を見ながら、またフリーソロでゆく。ああ、と思う。終わってしまうことの哀しみと、終わってしまうことの達成感が入り混じって揺れ昇る。
「……ありがとう」
誰にともなく呟く。山そのものに向けて。人間にとって膨大な時間が流れても、そこにそのままの姿で存在してくれることに対して。
終了点、チンネの頭は、ひとひとり辛うじて立てるほどの岩の足場で、空はそこに真っ直ぐに立ち、世界を見下ろし、上天を見上げ、震えるような息を吐く。
そして、拳を握り締める。骨の軋む音がするほど強く。挑むような不敵な笑みを唇に浮かべて、ただひとりきりで世界に存在する。
いっとき、すべてが彼女のものとなる。登り切ったクライマーだけが手にすることのできる感覚を胸に、空は再び空に還る。もはや、なにも失ってはいなかった。失ったものをすべて取り戻していた。やっと。ようやく。
高速バスのなかで、天見は無様なほどぐっすりと眠った。サービスエリアで止まったことに気づかなかったくらいだ。新宿に近づき、杏奈に揺り起こされるまで、夢さえ見ないほど深く眠ってしまっていた。さすがに、疲れていたのだろう。
「篠原さん、ありがとうございました。お疲れ様です」
「いえいえこちらこそー。姫ちゃんよくがんばったよ! 今回の山行は大成功だね!」
そう言われれば悪い気はしなかった。なんにせよやりきってやったのだ。
もちろん、不満な点もあるにはある。初級者だから仕方がないが、登攀中のすべてのトップを杏奈がやり遂げたことだ。私の成功、というよりは、杏奈の成功という感じがする。はやくリードの技術を学びたいなと思うのは、そうしなければ真に登ったとはいえないとわかっているからだ。
(リードか。一年はやらせてもらえないって言うけど)
一年? 命に直結するから理解はできるが、なんとも気の遠い話だ。
葛葉に電車のなかでメールした。下山報告。一応、バスケ部の面々にも。ゴールデンウイークはまだもう少しだけ残っているから、練習には参加できる。全身の筋肉はずたずたに痛いが、これもトレーニングと思えば苦ではない。
帰宅しても両親はいない。もともと仕事の忙しいふたりだしそのほうが気が楽だった。シャワーを浴びて部屋に戻り、ベッドに身を投げ出す。バスのなかで死ぬほど寝たはずが、また眠気がきて、早々に眼を瞑った。
大型連休が終わり、天見は肉体を休める目的で学校に行き、授業に出た。それは爆睡するという意味でだ。
一日中机に突っ伏して沈黙する天見が教師にそれほど強く注意されなかったのは、髪を染めている時点で半ば諦められていることに加え、すぐ後ろの席の紡までからだを逸らすようにしていびきをかいていたせいでもある。紡はなにかと目立つほうだから教師の視線は自然にそちらへ向く。
「夜更かししてたんですよー」紡は悪びれもせずに言うのだ。「なんでかって? 別にそんな深い理由があったわけじゃないっすけど。見ます?」
と、紡は後ろ髪をかきあげてみせる。はっきりとした歯噛み痕が、ほの赤く残っていた。絶句する教師にけらけらと笑って、
「こーゆーわけで。あ、嘘ついたほうがよかったですかー?」
そのインパクトが強すぎて天見はほとんどスルーされてしまった。
昼休みはあれやこれや質問責めに遭う紡を置いてふらふらと校内をさまよい歩いた。立ち入り禁止になっている屋上に出て――鍵は壊れていた――柵にもたれて上空を見上げた。山の空よりもまったく色褪せて、白に近い薄い青だった。眼を閉じればまだ眠れそうだった。バスケ部の練習がなんだかんだできつくて疲れが抜けないのだ。
奥穂高岳南稜を思い返す。
私がリードしていたら……と、仮定を夢想する。
きっとセカンドの何倍も素晴らしい体験になったに違いないのだ。ほんとうの意味で命を差し出し、剥き出しの場所で、その対価を得る。経験も実力も年月もまるで足りないのがもどかしい。
「あ、こんなところにいる」
声がして、振り向くと葛葉が屋上の扉を開けていた。
「生徒会で、ここ見回りしてるわけだけど。立ち入り禁止だからさ」
「鍵が壊れてるほうが悪いです」
葛葉は笑った。「ま、ね。私も躍起になって注意しようとは思わないよ」
風が気持ちのいい天気だった。陽射しは強くもなく弱くもなく、からだの芯から温めてくれるような光が降り注いでいた。丹沢山塊の大山の頂上まで見通せる。校舎のざわめきは遠く、それで余計に静寂が際立っていた。このひとと話すときはなんだかいつも空気が穏やかになる感じがするな、と天見は思う。氷月に連れられて最初に顔を合わせたあの夜にしろ、丹沢から下山してきたあの山中湖にしろ、海岸沿いにしろ。
「どうだった? 山。穂高だっけ」
天見は反射的に言っていた。「最高でした」
「わお」
「……」言ってから、天見は頭を掻いて、「3000メートルより上の頂でガスってなかったのは初めてだったから……。それに、ただ歩いただけじゃなくて、登攀だった。なんていうか、充実感はあります」
真っ直ぐな感想を口にすれば、それらがしっかりとした形を持って、胸の底に居場所をつくるようだ。
天見は基本的に自分が好きではなかった。あらゆることに関して。登校拒否の現状にしろ、暴力への衝動にしろ、このひねくれた性質にしろ。それでも、登っている最中の自分に関してはそれほど嫌いではなかった。無様なほど必死で、豊潤な山に対してちっぽけで薄っぺらな自分を自覚しているあいだは、どこまでも直線的で率直な自分が現れているように感じていた。
自然の懐に抱かれているのが人間の本来の姿だと語られれば、それを実感として信じてしまうだろう。あんなにも厳しく、愛おしい空間を。大昔の人間が山に神を見、信仰の対象とした訳を、天見は思い起こすことができた。修験者が修行の場として山を選んだ理由。彼らが見たものは私と同じだったんだろう。山はもう何千年もまえからずっと山でしかないのだから。
「姫川さんはどういう経緯で山に登り始めたの?」
「経緯――」
「家族が登山趣味とか?」
「いえ……家族はこれっぽっちも。なんていうか、不登校を起こして、その社会復帰みたいな……『自然に触れれば多少はマシな人間になるだろう』みたいな感じで、放られたんです。母が看護師なんですけど、仲良くなった患者に山屋がいて、相談したらしいんですね。で、そのひとに連れられて登り始めて――」
天見は櫛灘空のことを話す。あの奇妙で独特な女。
話してみて、自分が彼女のことを師であるかのように思っていることに気づいた。ほんとうの意味での教師として。そう、空という女がまったく教師らしくない人間であっても、天見にとってはどんな先生よりも先生らしかった。なんであれ、彼女に山を教わったのだから。
ある意味で、母親は母親が望んだことを正しくやったのだと言える。天見は自然に触れた。その虚飾のない美しさを目の当たりにしたし、その轟然たる猛威の片鱗を感じ取りもした。それでマシな人間になったとはとても言えるものではないが。
「色々と、そのひとのおかげだと思ってます」
葛葉は興味深そうに眼を細めた。「ふーん」天見の話からその女を想像して、天見がそこまで言うほどなら、どんなひとなのだろう。「櫛灘さん、か。私が会ったことないタイプのひとっぽいね。登山家って、テレビに出てるひと以外には知らないけど、一度話してみたいな」
「機会があれば紹介します」
仮に葛葉が山をやりたいと願うなら、空は喜んで彼女と接するだろうと思った。自分にそうしてくれたように。空は根っからの単独登攀者であって、他の者とは一線を画すことはあっても、少なくとも偏屈ではなかった。むしろ葛葉のような女となら、私と以上にうまく接するんじゃないかとも思う。
夜。天見は居心地の悪い家を出、静まり返った住宅地を歩きながら、現状について色々と考えていた。
(夏、か。その時期の山に向けて、できるだけ装備を整えておかないと。いままで雨具はヤッケで代用できたけどこれからはそうもいかないし、服もいる。成長期だから、サイズが合わなくなるかもしれない。登山靴も。シュラフだって、冬用のダウンしか持ってないんだ)
そのためには金がいる。明白なことだ。しかし、いまの天見には金を稼ぐ手段がなかった。これまでのように両親にたかるには心が痛む。
コンビニのフリーペーパー、アルバイトの欄をざっと見渡す。しかしまったく当然のことながら、最低限の条件として高校生以上。紡は歳を偽って働いていたことがあるというが、それは彼女の大人びた容姿と際立った能力だから可能なことだ。自分に紡と同じことができるとはとても思えない。
「くそっ」
中学生なんか小学生となんにも変わらないじゃないか。こっちはもう子供だって産める肉体なのに。
以前、あの椿希とかいう女と出会った公園に辿り着き、ベンチに腰を下ろす。眉間に皺を寄せて考えを巡らせ、ひたすらフリーペーパーを読み込む。
どうしたものか。空や杏奈に借りる手もあるが、それは根本的な解決策にはなっていない。お年玉などでこつこつ溜めていた金はこのまえの山行で底を尽きた。そう、ちょっとした山行にだって金がいるのだ。天見の年齢では交通費を捻出することすら難しい。
解決策なんか見つかりっこない。諦めるのが最善の策だとわかってはいるが、どうしても諦めきれず、唸る。すると、そこで声がする。
「なんとなくまた逢えるんじゃないかとは思っていたけれど」
天見は振り返った。椿希本人が公園の入り口に立っていた。「……どうも」
「こんばんは。いえ、正直言うとね、わりと頻繁にきてはいたのよ。今日で四度目くらいかしら。私も暇人ね」
「私に会うために?」
「さあ。どうかしら」
天見は怪訝な眼で椿希を見つめた。夜の闇に紛れ、その表情は観察し辛かった。
しかし、他人のことには基本的に興味がない。フリーペーパーに視線を戻した。とはいえ意味のないことだとわかっているから、焦点がぶれて自分を覗き込むような感じになった。働きたい、と思う。金を稼いでさっさと独り立ちしたい。中学三年間なんか一秒くらいでどこか行ってしまえばいいのに。
「隣、いい?」
「どうぞ」
「ありがと。あら、少し日焼けしてる? 目許が黒いわ」
「散歩してるんで」
「なにかスポーツでもやってるのかしら」
山と言えば珍しがってあれこれ訊かれることになるのだろう。だから、天見は言った。「バスケ部なんで」
「バスケ部? それって屋内スポーツじゃない?」
「弱小で体育館なかなか使えないんで外走ってます」
「あらそう。大変ね。たしか中学一年って言ってたわね」
「はい」
天見のことばには一点の愛想もなかった。ぶっきらぼうに突き放し、遠ざける声音だった。椿希はますます天見のことを珍しく思った。いまどきこういう女は流行らない。
正直なところ、どうしてこう何度もここに通っているのか、椿希自身にもいまいちよくわかっていなかった。いや、そもそもこのあたりに知り合いが少ないから、当然のことではあるのかもしれない。静岡から出て神奈川にやってきて、心細い気持ちは少なからずあった。天見は知り合いというには細すぎる相手だったが。
「煙草吸う?」
天見は眼を眇めるようにして椿希を見た。「……やめときます。今日はそんな気分じゃないんで」
「賢明ね。まえはそんな気分だったの?」
「家で両親がヤってるのを聴いてむかついてたんです」
正直というよりは直接的過ぎる言い方だった。椿希は眼を瞠った。
「でも、吸いたいんならお構いなくどうぞ。受動喫煙に過剰に反応するような正義漢でもないから」
「……じゃあ、吸わせてもらうわね」とはいえ、椿希は天見とは逆のほうを向いて紫煙を吐いた。軽いショックが遠ざかると、椿希はむしろ、笑いが込み上げてくるように感じた。「あなた面白い子ね」
「そんな風に言われたのは初めてですね」
「じゃあ、普段はどう言われてるの?」
天見は染めた前髪を弄って言う。「わかるような格好してるつもりですけど」
「不良……?」
「そう見るひともいます」
椿希はじっと天見を観察した。このまえ初めて会ったときから、この少女になにか奇妙なものを感じてはいた。
その違和感の正体に、すぐに気がつく。この少女は年上の私に対してまるで臆すところがない。堂々としている、というよりは、どこまでも自然な佇まいだった。強い目線に、強い仕草。怖れ知らずの野良犬。そんな印象を受ける子だった。
学校教育でこういう少女が育つものだろうか? ひたすら教師を敬え、教師に逆らうな、教師に服従しろ、と空気レベルで強要される現場で? 不良か、と思って少しわくわくする。椿希の通っていた学校ではそんな生徒はひとりもいなかった。そういう学校を選んで通わされたということもある。
手離すのが惜しい出会いであるように感じた。もともとこの歳の少女と話すようになること自体、椿希の年齢ではもうひどく得難い。勿体ないわね、と思う。なんとかしてまたこういう機会を得られないものかしら。
しかし、約束を取り付けられるような少女でもないように思った。むしろ自分が現れたことで、この子は二度とここに立ち寄らなくなるんじゃ?
軽く頬を膨らませて思案。煙草の火を携帯灰皿に押しつける。すると、そこで天見の手にしているフリーペーパーを見つけた。
「アルバイト……?」
天見は眉をひそめてそれを閉じた。「無理ですけどね。金は欲しいけど、この歳じゃ働けない。親の脛にかじりつくしかできないのがむかつく」
「働きたいんだ?」
「危急的速やかにくらいには」
椿希は顎に指を添えて少し考えた。にやり、と唇を曲げる。
「私なら、働き口、紹介できるけど?」
「は?」
天見はまた椿希を見る。椿希は悪巧みを思いついた少年のような表情をしている。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と述べたところでいつもどおりの平常運転なわけですが!
まあぼちぼち継続していこうと思います。マイペースで。
ソロ・クライミングのザイルワークは、一度空身で登ってザイルを張り、下降しつつ荷物を背負ってもう一度登り返すZ式登攀だ。煩雑極まりないザイル操作と手間と時間のかかる代物で、チンネ左稜線は細いナイフエッジが続いて流れも悪い。空は思いきってザイルを片付けた。フリーソロのほうがはやいと判断する。
グレードは平均してⅢ級相当で、フリーのグレードにあてはめれば5.4程度のムーヴだが、プロテクションの悪さや装備の重量から体感的には数段上にあたる。さらに今回はクライミングシューズではなく、足裏感覚のない登山靴で、それだけでもかなりの難しさになる。単純な気候の差もある。五月の剱岳はほとんど冬だ。しかし、空は手袋を外した。指先が一気に痛いほど冷えるが触感は確かになる。
フリーソロ――
確保なし。落ちればそれで死ぬ。もちろん凄まじいほどの恐怖はある。しかしそれを越える術を持ち合わせてもいた。
何度となくやってきたことだ。
快適なフェイス、凹角、草付きやバンドからのルンゼを登り、肉体はなんの妨げもなく動く。
花崗岩は硬く、乾いていて、登山靴のフリクションが良く利いてくれる。影になっているところはところどころ湿っているが、そうした箇所こそはクライミングシューズよりも登山靴のほうが有利になる。
チンネのスカイライン……左稜線を辿り、抜群の高度感を感じながら、ハイマツを潜り抜け、ピナクルを頼りにさらに登ると、T5と名づけられたちょっとしたテラスに到着する。そこで一息入れる。
太陽が下界よりも3000メートルぶん近い。恵みのように、暖かい。空はその優しさを存分に享受し、一度ザイルを出す。
核心部の“鼻”。小ハングのⅤ級、フリー換算で5.7。
鼻とはよく名づけたものだと思う。まさに巨人の鼻のようなかたちで、その左側を攀じ登る。大胆なムーヴで、一気にからだを持ち上げると、純粋で混じり気のない喜びが、胸の底を突き上げるように湧き出てきた。
そう、なにも問題はない。
ブランクを考えればもう少し手こずってもいいくらいだ。なのに、からだはまるで待ち侘びていたかのように綺麗に動く。
右手に見える尖塔形の“小窓ノ王”の高さを越えれば、終了点が近い。ここからは斜度の緩いリッジ・クライミングになる。下方に三ノ窓の雪渓を見ながら、またフリーソロでゆく。ああ、と思う。終わってしまうことの哀しみと、終わってしまうことの達成感が入り混じって揺れ昇る。
「……ありがとう」
誰にともなく呟く。山そのものに向けて。人間にとって膨大な時間が流れても、そこにそのままの姿で存在してくれることに対して。
終了点、チンネの頭は、ひとひとり辛うじて立てるほどの岩の足場で、空はそこに真っ直ぐに立ち、世界を見下ろし、上天を見上げ、震えるような息を吐く。
そして、拳を握り締める。骨の軋む音がするほど強く。挑むような不敵な笑みを唇に浮かべて、ただひとりきりで世界に存在する。
いっとき、すべてが彼女のものとなる。登り切ったクライマーだけが手にすることのできる感覚を胸に、空は再び空に還る。もはや、なにも失ってはいなかった。失ったものをすべて取り戻していた。やっと。ようやく。
高速バスのなかで、天見は無様なほどぐっすりと眠った。サービスエリアで止まったことに気づかなかったくらいだ。新宿に近づき、杏奈に揺り起こされるまで、夢さえ見ないほど深く眠ってしまっていた。さすがに、疲れていたのだろう。
「篠原さん、ありがとうございました。お疲れ様です」
「いえいえこちらこそー。姫ちゃんよくがんばったよ! 今回の山行は大成功だね!」
そう言われれば悪い気はしなかった。なんにせよやりきってやったのだ。
もちろん、不満な点もあるにはある。初級者だから仕方がないが、登攀中のすべてのトップを杏奈がやり遂げたことだ。私の成功、というよりは、杏奈の成功という感じがする。はやくリードの技術を学びたいなと思うのは、そうしなければ真に登ったとはいえないとわかっているからだ。
(リードか。一年はやらせてもらえないって言うけど)
一年? 命に直結するから理解はできるが、なんとも気の遠い話だ。
葛葉に電車のなかでメールした。下山報告。一応、バスケ部の面々にも。ゴールデンウイークはまだもう少しだけ残っているから、練習には参加できる。全身の筋肉はずたずたに痛いが、これもトレーニングと思えば苦ではない。
帰宅しても両親はいない。もともと仕事の忙しいふたりだしそのほうが気が楽だった。シャワーを浴びて部屋に戻り、ベッドに身を投げ出す。バスのなかで死ぬほど寝たはずが、また眠気がきて、早々に眼を瞑った。
大型連休が終わり、天見は肉体を休める目的で学校に行き、授業に出た。それは爆睡するという意味でだ。
一日中机に突っ伏して沈黙する天見が教師にそれほど強く注意されなかったのは、髪を染めている時点で半ば諦められていることに加え、すぐ後ろの席の紡までからだを逸らすようにしていびきをかいていたせいでもある。紡はなにかと目立つほうだから教師の視線は自然にそちらへ向く。
「夜更かししてたんですよー」紡は悪びれもせずに言うのだ。「なんでかって? 別にそんな深い理由があったわけじゃないっすけど。見ます?」
と、紡は後ろ髪をかきあげてみせる。はっきりとした歯噛み痕が、ほの赤く残っていた。絶句する教師にけらけらと笑って、
「こーゆーわけで。あ、嘘ついたほうがよかったですかー?」
そのインパクトが強すぎて天見はほとんどスルーされてしまった。
昼休みはあれやこれや質問責めに遭う紡を置いてふらふらと校内をさまよい歩いた。立ち入り禁止になっている屋上に出て――鍵は壊れていた――柵にもたれて上空を見上げた。山の空よりもまったく色褪せて、白に近い薄い青だった。眼を閉じればまだ眠れそうだった。バスケ部の練習がなんだかんだできつくて疲れが抜けないのだ。
奥穂高岳南稜を思い返す。
私がリードしていたら……と、仮定を夢想する。
きっとセカンドの何倍も素晴らしい体験になったに違いないのだ。ほんとうの意味で命を差し出し、剥き出しの場所で、その対価を得る。経験も実力も年月もまるで足りないのがもどかしい。
「あ、こんなところにいる」
声がして、振り向くと葛葉が屋上の扉を開けていた。
「生徒会で、ここ見回りしてるわけだけど。立ち入り禁止だからさ」
「鍵が壊れてるほうが悪いです」
葛葉は笑った。「ま、ね。私も躍起になって注意しようとは思わないよ」
風が気持ちのいい天気だった。陽射しは強くもなく弱くもなく、からだの芯から温めてくれるような光が降り注いでいた。丹沢山塊の大山の頂上まで見通せる。校舎のざわめきは遠く、それで余計に静寂が際立っていた。このひとと話すときはなんだかいつも空気が穏やかになる感じがするな、と天見は思う。氷月に連れられて最初に顔を合わせたあの夜にしろ、丹沢から下山してきたあの山中湖にしろ、海岸沿いにしろ。
「どうだった? 山。穂高だっけ」
天見は反射的に言っていた。「最高でした」
「わお」
「……」言ってから、天見は頭を掻いて、「3000メートルより上の頂でガスってなかったのは初めてだったから……。それに、ただ歩いただけじゃなくて、登攀だった。なんていうか、充実感はあります」
真っ直ぐな感想を口にすれば、それらがしっかりとした形を持って、胸の底に居場所をつくるようだ。
天見は基本的に自分が好きではなかった。あらゆることに関して。登校拒否の現状にしろ、暴力への衝動にしろ、このひねくれた性質にしろ。それでも、登っている最中の自分に関してはそれほど嫌いではなかった。無様なほど必死で、豊潤な山に対してちっぽけで薄っぺらな自分を自覚しているあいだは、どこまでも直線的で率直な自分が現れているように感じていた。
自然の懐に抱かれているのが人間の本来の姿だと語られれば、それを実感として信じてしまうだろう。あんなにも厳しく、愛おしい空間を。大昔の人間が山に神を見、信仰の対象とした訳を、天見は思い起こすことができた。修験者が修行の場として山を選んだ理由。彼らが見たものは私と同じだったんだろう。山はもう何千年もまえからずっと山でしかないのだから。
「姫川さんはどういう経緯で山に登り始めたの?」
「経緯――」
「家族が登山趣味とか?」
「いえ……家族はこれっぽっちも。なんていうか、不登校を起こして、その社会復帰みたいな……『自然に触れれば多少はマシな人間になるだろう』みたいな感じで、放られたんです。母が看護師なんですけど、仲良くなった患者に山屋がいて、相談したらしいんですね。で、そのひとに連れられて登り始めて――」
天見は櫛灘空のことを話す。あの奇妙で独特な女。
話してみて、自分が彼女のことを師であるかのように思っていることに気づいた。ほんとうの意味での教師として。そう、空という女がまったく教師らしくない人間であっても、天見にとってはどんな先生よりも先生らしかった。なんであれ、彼女に山を教わったのだから。
ある意味で、母親は母親が望んだことを正しくやったのだと言える。天見は自然に触れた。その虚飾のない美しさを目の当たりにしたし、その轟然たる猛威の片鱗を感じ取りもした。それでマシな人間になったとはとても言えるものではないが。
「色々と、そのひとのおかげだと思ってます」
葛葉は興味深そうに眼を細めた。「ふーん」天見の話からその女を想像して、天見がそこまで言うほどなら、どんなひとなのだろう。「櫛灘さん、か。私が会ったことないタイプのひとっぽいね。登山家って、テレビに出てるひと以外には知らないけど、一度話してみたいな」
「機会があれば紹介します」
仮に葛葉が山をやりたいと願うなら、空は喜んで彼女と接するだろうと思った。自分にそうしてくれたように。空は根っからの単独登攀者であって、他の者とは一線を画すことはあっても、少なくとも偏屈ではなかった。むしろ葛葉のような女となら、私と以上にうまく接するんじゃないかとも思う。
夜。天見は居心地の悪い家を出、静まり返った住宅地を歩きながら、現状について色々と考えていた。
(夏、か。その時期の山に向けて、できるだけ装備を整えておかないと。いままで雨具はヤッケで代用できたけどこれからはそうもいかないし、服もいる。成長期だから、サイズが合わなくなるかもしれない。登山靴も。シュラフだって、冬用のダウンしか持ってないんだ)
そのためには金がいる。明白なことだ。しかし、いまの天見には金を稼ぐ手段がなかった。これまでのように両親にたかるには心が痛む。
コンビニのフリーペーパー、アルバイトの欄をざっと見渡す。しかしまったく当然のことながら、最低限の条件として高校生以上。紡は歳を偽って働いていたことがあるというが、それは彼女の大人びた容姿と際立った能力だから可能なことだ。自分に紡と同じことができるとはとても思えない。
「くそっ」
中学生なんか小学生となんにも変わらないじゃないか。こっちはもう子供だって産める肉体なのに。
以前、あの椿希とかいう女と出会った公園に辿り着き、ベンチに腰を下ろす。眉間に皺を寄せて考えを巡らせ、ひたすらフリーペーパーを読み込む。
どうしたものか。空や杏奈に借りる手もあるが、それは根本的な解決策にはなっていない。お年玉などでこつこつ溜めていた金はこのまえの山行で底を尽きた。そう、ちょっとした山行にだって金がいるのだ。天見の年齢では交通費を捻出することすら難しい。
解決策なんか見つかりっこない。諦めるのが最善の策だとわかってはいるが、どうしても諦めきれず、唸る。すると、そこで声がする。
「なんとなくまた逢えるんじゃないかとは思っていたけれど」
天見は振り返った。椿希本人が公園の入り口に立っていた。「……どうも」
「こんばんは。いえ、正直言うとね、わりと頻繁にきてはいたのよ。今日で四度目くらいかしら。私も暇人ね」
「私に会うために?」
「さあ。どうかしら」
天見は怪訝な眼で椿希を見つめた。夜の闇に紛れ、その表情は観察し辛かった。
しかし、他人のことには基本的に興味がない。フリーペーパーに視線を戻した。とはいえ意味のないことだとわかっているから、焦点がぶれて自分を覗き込むような感じになった。働きたい、と思う。金を稼いでさっさと独り立ちしたい。中学三年間なんか一秒くらいでどこか行ってしまえばいいのに。
「隣、いい?」
「どうぞ」
「ありがと。あら、少し日焼けしてる? 目許が黒いわ」
「散歩してるんで」
「なにかスポーツでもやってるのかしら」
山と言えば珍しがってあれこれ訊かれることになるのだろう。だから、天見は言った。「バスケ部なんで」
「バスケ部? それって屋内スポーツじゃない?」
「弱小で体育館なかなか使えないんで外走ってます」
「あらそう。大変ね。たしか中学一年って言ってたわね」
「はい」
天見のことばには一点の愛想もなかった。ぶっきらぼうに突き放し、遠ざける声音だった。椿希はますます天見のことを珍しく思った。いまどきこういう女は流行らない。
正直なところ、どうしてこう何度もここに通っているのか、椿希自身にもいまいちよくわかっていなかった。いや、そもそもこのあたりに知り合いが少ないから、当然のことではあるのかもしれない。静岡から出て神奈川にやってきて、心細い気持ちは少なからずあった。天見は知り合いというには細すぎる相手だったが。
「煙草吸う?」
天見は眼を眇めるようにして椿希を見た。「……やめときます。今日はそんな気分じゃないんで」
「賢明ね。まえはそんな気分だったの?」
「家で両親がヤってるのを聴いてむかついてたんです」
正直というよりは直接的過ぎる言い方だった。椿希は眼を瞠った。
「でも、吸いたいんならお構いなくどうぞ。受動喫煙に過剰に反応するような正義漢でもないから」
「……じゃあ、吸わせてもらうわね」とはいえ、椿希は天見とは逆のほうを向いて紫煙を吐いた。軽いショックが遠ざかると、椿希はむしろ、笑いが込み上げてくるように感じた。「あなた面白い子ね」
「そんな風に言われたのは初めてですね」
「じゃあ、普段はどう言われてるの?」
天見は染めた前髪を弄って言う。「わかるような格好してるつもりですけど」
「不良……?」
「そう見るひともいます」
椿希はじっと天見を観察した。このまえ初めて会ったときから、この少女になにか奇妙なものを感じてはいた。
その違和感の正体に、すぐに気がつく。この少女は年上の私に対してまるで臆すところがない。堂々としている、というよりは、どこまでも自然な佇まいだった。強い目線に、強い仕草。怖れ知らずの野良犬。そんな印象を受ける子だった。
学校教育でこういう少女が育つものだろうか? ひたすら教師を敬え、教師に逆らうな、教師に服従しろ、と空気レベルで強要される現場で? 不良か、と思って少しわくわくする。椿希の通っていた学校ではそんな生徒はひとりもいなかった。そういう学校を選んで通わされたということもある。
手離すのが惜しい出会いであるように感じた。もともとこの歳の少女と話すようになること自体、椿希の年齢ではもうひどく得難い。勿体ないわね、と思う。なんとかしてまたこういう機会を得られないものかしら。
しかし、約束を取り付けられるような少女でもないように思った。むしろ自分が現れたことで、この子は二度とここに立ち寄らなくなるんじゃ?
軽く頬を膨らませて思案。煙草の火を携帯灰皿に押しつける。すると、そこで天見の手にしているフリーペーパーを見つけた。
「アルバイト……?」
天見は眉をひそめてそれを閉じた。「無理ですけどね。金は欲しいけど、この歳じゃ働けない。親の脛にかじりつくしかできないのがむかつく」
「働きたいんだ?」
「危急的速やかにくらいには」
椿希は顎に指を添えて少し考えた。にやり、と唇を曲げる。
「私なら、働き口、紹介できるけど?」
「は?」
天見はまた椿希を見る。椿希は悪巧みを思いついた少年のような表情をしている。
PR
しかし紡さん、淫魔っぷり半端ないなあ。
元巫女なのに。