登山で百合でオリジナルで日常でぐだぐだ。牛の歩みで。
それはそうと特定秘密保護法案。なんかもうなんつったらいいかわっかんねえ。
一応貼っておきます。リンク先他サイト。文芸ジャンキー・パラダイス
私自身は黙っていたいのに。KORNの曲より――『おれに政治の話をしないでくれ!』
何日か経ち――登校拒否者に向けられるありきたりな儀式を経て――ゴールデン・ウィークがやってきた。バスケ部は初日で練習試合を組んでいた。氷月との約束どおり、それまでの間、天見はなかなか真面目に練習に取り組んでいた。しかし初心者にできることは限られているものだ。
実際、天見のやったことといえば、眼の色を変えて鬼の如く張り切る氷月に渓、いつもの笑みに凄艶な色を滲ませて躍動する紡の後ろで、ボールを受け取るたびにひたすら地味にシュートモーションを繰り返すことだけだった。それしか練習していないのだから、仕方がない。リバウンドをほとんど取っていたのが紡だったので気が楽といえば楽だったが。
凄まじいゲーム・スピードに、まあよくついていったと思う。目まぐるしく移り変わる攻守、叩きつけるような鋭角のパスの応酬、眩暈がするほど複雑な駆け引きの連続。まったく息をつく暇もない。登山やクライミングで学んだことが一切の役に立たない場所。
それでもまだ紡はやり足りなさそうな顔をしていた。氷月はにやりと笑って言う。「ストバスいくか。これから」
「もちろん!」
渓もぶんと腕を振り上げて、「お供しますよー!」
「あたしと渓と鵠沼。姫川は?」
天見は渋い顔をした。「腕が上がんないんでパスします」
「私も」
「うん、ありがとな葛葉。じゃあふたりとも、休み明けに、学校で」
バスケ部の練習試合は午前中に終わり、昼過ぎの、はやくも夏の色が濃くなった空気が世界を取り囲んでいる。海沿いで、潮の匂いが漂うのもあいまって、つい先日、山で吹雪を経験したのが嘘のようだ。陽射しが強く、天見は眼を細めた。
山とは違う筋肉を使って疲労している。頭もぼやけているようだ。三人と別れ、葛葉とふたりきりになっても、まだ試合の残り香が脳髄の芯を燃やしている。練習試合でも皆が真剣だった。相手校の女子バスケ部が、強豪の域に属するチームだったこともあって、かなりぎりぎりの線まで体力を削りきっていた。
「お疲れ様、姫川さん」と葛葉は言う。
「水無先輩も……」
「うん。やっぱり本職の子は違うね。ついてくので精一杯だったよ、私」
「私もそうです」
「収穫はあった?」
「さあ。私はシュート打ってただけなんで。部長は機嫌良さそうでしたけど」
「氷月は単純にバスケが好きだから。もちろん、負けて悔しいのもあるんだろうけど。やっとスタート地点に立てた――って感覚があるんだろうね」
自分が二足の草鞋なうえに不良生徒であることに少し罪悪感がある。氷月に対して。
とはいえ、自分を曲げる気もいまさらなかった。新入部員が入ってくればベンチウォーマーに引っ込むつもりもあったし、あくまで紡のおまけで入ったのだという想いもあった。
「先輩は正式には入部しないんですか」
「生徒会だしね。ちょっと難しい。それにそこまで入れ込むつもりもいまのところないし、氷月に気を遣わせるのもなんだし。いまはからだが鈍らないように動いてるだけかな。なるべく、練習には出るようにするけど。
姫川さん、明日からもう山?」
天見は頷いた。「はい」
杏奈と約束を交わしていた。上高地から岳沢、穂高――空と最初に行った山域を、今度は杏奈とふたりでやる予定だった。最初のときはテントキーパーだったが、今回こそは山頂を踏むつもりだった。それに、岳沢からは奥穂南稜など、ヴァリエーション・ルートもある。
明日の晩に、新宿から夜行バスで上高地までゆく。それまでにはこの疲労も収まっているだろう。思うと、心の根から高揚が戻ってくるような感覚がする。もうパッキングなどは終えていた。
それを話すと、葛葉は少し羨ましそうな顔をした。「没頭できることがある。そういうのが、没頭できることのない人間から見ればどれだけ憧れることか」
「私も少しまえまではなんにもなかったです」
「ねえ、だったらとりあえず今日は暇になったんだ?」
「まあ」
葛葉は唇を綻ばせた。「いまからどこか遊びに行かない? ちょっとばかり息抜きってことで。私この休み全然予定立てられなかったから、まるまる暇なんだ。どうかな」
天見は眉根を寄せて葛葉を見つめた。
高台からすぐに海が見える位置だった。
国道を横切って、わずかな住宅街を抜ける。家々の壁にエンジン音も遮られてすぐに静かになる。
代わりに、波の音が足元を伝う。風は柔く、砂を削るような、弱々しい響きが耳に届く。寄せては返す波の手のひらが白く海岸を浚っていた。陽光に反射し、海面はきらきらと星を撒いたように光る。
「誰もいないね」と葛葉は言った。
波が穏やかなせいだろうか。時期や場所もあるのだろうが、見渡す限り、サーファーの姿さえなかった。大型連休初日でこれは、寂しいように思われた。吹きつけるというよりは漂うような風に眼を細める。水平線は色褪せて空と見分けがつかない。
砂浜を踏むと靴に砂が入り込むので脱いだ。素足になる。
足の指を撫ぜる感触に、何年振りだろう――と、天見は感慨めいて思った。不登校を起こして“反転”してから、家族と遊びに出たことなどただの一度もない。いや、それ以前からずっとなかったように思う。
最後に海を間近で見たのは小学三年の頃だっただろうか。その時分はまだ両親と普通の関係で、天見自身も、まだ愛想良く普通に明るかった。はっきりした物心がついていなかったとも言える。
丹沢から相模湾を見ることはできる。天気がよければ江ノ島までも。空と塔ノ岳を登ったときにはごく自然に見ることができた。ついこのあいだはずっと曇天ではっきり見えなかった。
砂浜沿いをゆく葛葉について歩く。
葛葉も靴を脱いで、指に引っ掛けている。彼女の素足はずいぶんとかたちがいい。新体操をやっていたからだろうか。見目の美しさが加点になるのか天見には知る由もないが。
「のんびり海を見るのも久し振りだな」と葛葉は言う。「神奈川に住んでても実際、あんまり機会ないよね。勿体ない気もするけど」
「誰かに誘われたりとかは……?」
「あんまり一緒に遊ぶ友だちつくれなくて。ちょっとまえまでは休む暇があったら新体操の練習だし、氷月はあんなんだからバスケ以外ちっとも関心ないし。いい仲の男子と海でデート、ってちょっと憧れてたけど、どうにも無理っぽい」
葛葉はおどけて、少し嬉しそうだった。
午後の陽光が強く、ふたりの姿はほとんど焦げつくような影になっていた。波が、時を刻んで、緩やかに行き来を繰り返し繰り返す。葛葉はふと思い出したように、
「山の上にはまだ雪が残ってたんだよね」
「はい」
「丹沢でそうなら、穂高ってとこはまだ全然雪山なんだろうね。不思議な感じがするよ。こうしてると夏の匂いがすぐそこにきてるって感じがするのに、大して離れてもないところで、やっと過ぎ去ってくれた冬をまだ味わおうとしてる。まだ」
天見は天見なりの固い微笑を浮かべた。
「私寒いのは苦手だな。冷え性だから。毎年冬がくるたびに憂鬱な気分になって、なんとなく塞ぎ込むような気分になって、冷たい雪混じりの雲を見上げてはやく春よこいって願ってる。でもいつまでも冬でいてほしいひともいるんだろうね……花なんか咲かなければいいって考えてるひとが」
天見は空のことを思って微笑を深めた。
空の季節があるとすればそれは間違いなく冬だ。それも初冬や早春ではなく、真冬、厳冬期、そのうえでなお、とびきりの冬を求めて山を目指す。冬以上の冬。寒く、冷たく、痛く、苦しく、命すら掻き消える無機物の世界。そして天見自身、それを恋しく想い始めている自分に気がついていた。山頂の体験にはそれほどの力がある。それまでの価値観を丸ごとひっくり返して打ち壊す。新しく生まれなおした自分はやがてさらに上を求める。物理的な上。精神的な上。
もう一度あれを味わいたい。ただそれだけのことだ。貪欲な子、と空に評された。そうなんだろうと思う。けれど天見に言わせれば空のほうがよほど貪欲だ。彼女はその過程が人生そのものに成り果てている。
「たしかにずっと冬だったらって思ってる私もいます。でもそれは夏の山をまだ体験してないせいかもしれない。私、山をやり始めてまだ五ヶ月くらいしか経ってません」
今度は葛葉が微笑んだ。「そっか」
「知りたいことがたくさんある。たくさんありすぎてどれから手をつけていいのかわからないくらい。一生かけても足りないんじゃないかって思います」
葛葉は濡れた砂を味わうように踏み締めた。
のんびりと時間が過ぎゆくのに任せ、葛葉は防波堤のへりに腰を下ろした。素足をぶらぶらさせてひっきりなしにかたちを変える人生のような波の動きに見入った。天見は彼女のすぐ隣にしゃがみこんだ。そうすることが許されるような空気があった。
「海を見てるの好きだな」と葛葉は言った。「いつまでも飽きがこない。焚き火と同じで、同じかたちになることが二度とないからだろうね。同じ風が吹かないのとか、同じ雨が降らないのとかと一緒で」
「そうですね」
「だからこそもどかしいって気もするんだけど。この景色を永遠に自分のものにすることができないように感じて。うまくいえないけど、そういう。勿体ないっていうのかな。そんな気分になったことってない?」
「――。……どうでしょう」
よくわからないと天見は思った。うまくことばにできないのは天見も同じだった。
そういう感受性を、率直に口に出せるところを、天見は単純に好ましく思った。共感できる感覚を口にしたのではないことは葛葉の声音からわかった。同意や肯定を求めていなかった。ただ目に見えるものを言っただけだった。子供のように。
葛葉と話していると気が抜けそうになる自分もいる。迂闊にも無防備になってしまう自分の一部があった。それは氷月に連れられて初めて葛葉と顔を合わせたとき、自らの行いについて控えめに物言われたときから付き纏っている感覚だった。
話していて安心する。
そういう感覚に近い。
丹沢から帰ってきた夜、親のセックスを壁越しに聞いて家を飛び出したときには考えられなかったものだ。
空や杏奈ともまた違う感覚だった。立っている世界が異なりながらも確かなものがある。あのふたりよりは、歳が近いせいかもしれない。それでいて大人びた雰囲気がある。同年代の紡は根が激しすぎて暑苦しい。
凪いだ海の穏やかな音。会話にさえ静謐がある。
「水着持ってくればよかったな。まあ練習試合でそういうのもダメだろうけど」
天見は煙草でも持ってくればよかったと思った。このあいだの晩、あの見知らぬ女にもらったときとは違う気分からそう思った。たぶん、心から一服吸うときがあるとすれば、こういう時間なのだろう。厭なことから逃避するわけではなく、ただ吸う。別に格好つけて吸いたいわけではないがなんとなく空が吸う気持ちがわかったような気がした。
杏奈の通っている女子高は、いまはそれほどではないが、ひと昔まえまではそれなりに有名ないわゆるお嬢様学校で、良家の子女が集う一種のステータスを保持していた。杏奈がその事実をすっかり忘れているのは、自分が良家の子女などではないからであって、とはいえ、ふとなにかの拍子に思い出すとやはり愕然とくるものがある。
――マジかよ。
シズに誘われて、彼女の家までやってきた杏奈が見たものは、住宅地からだいぶ離れて、丹沢の麓の田園地帯を延々と抜けて、ぽっかりと土地の開けたところにでんと広がる敷地の、時代劇にでも出てきそうな古い屋敷だった。かなり、愕然とする。門から玄関までの距離がすでに篠原家の何倍もの広さがあり、松だかなんだかが両側に並び立ち、庭の端が見えない。白砂の敷き詰められた池の脇にボルダーでもできそうな巨岩が添えられている。恐る恐る足を踏み入れると、一見して葉桜とわかる巨木が、捻じれた幹の下で図太い根の指を広げていた。
「……えーっと。住んでるの? ここに?」
呆然と呟くと、まえをゆくシズが振り向いて首を傾げた。「そうですけれど」
「ご、御立派なお家ですことで……」
「古いだけですよ?」
一階建てのようだが問題はそこではない。とにかくだだっ広く、端から端までが見渡せない。突き出た庇が縁側に影を落とし、開け放たれた障子の続くさまはまるで神社だ。
たしかに、古いのだろう。戦前どころか江戸時代から建っていると言われても信じられそうな佇まいだ。杏奈はすっかり浮き足立ってしまい、膝が震えてあらぬほうへ向かいかけた。ここは、何処だ。ていうかなんだ。京都の寺かなにか?
「篠原先輩、こちらです。そちらは道場ですので」
「あっごめ――道場ォ!?」
「曽祖父が北辰一刀流の師範代でしたので……いまはほとんど、使っておりませんが」
道場って普通、家にあるものだったっけ? 杏奈はカルチャーショックに眩暈がした。
がちがちに緊張しながら玄関の敷居を跨ぐともうほとんど旅館みたいなものだった。古びてはいるが細部にまで清掃が行き届き、下駄箱の横にはどでかい壷に生けられたよくわからん花の枝。一階建てのぶん天井は高い。日当たりがよく、輝くような白い光のなか、廊下もやはり終わりが見えない。なんだここは。ほんとうにあたしの知ってる日本?
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ひいっ!?」
「ただいま帰りました、弘枝さん。父か母は在宅でしょうか」
「急なお仕事が入りましたので夜は遅くなられるそうでございます。先にお休みになられているように、と」
「わかりました」
「では……」
作務衣姿の若い女が丁寧に頭を下げて廊下に下がっていく。メイド? 家政婦? お嬢様なんて実際に呼ぶの初めて聞いたわ、まるでゲームか小説みたいな世界だ。緊張しすぎて冷や汗がだらだら、ごくりと息を呑んでシズの後をついていく。
とうぶん、杏奈の緊張は終わらなさそうだった。
それはそうと特定秘密保護法案。なんかもうなんつったらいいかわっかんねえ。
一応貼っておきます。リンク先他サイト。文芸ジャンキー・パラダイス
私自身は黙っていたいのに。KORNの曲より――『おれに政治の話をしないでくれ!』
何日か経ち――登校拒否者に向けられるありきたりな儀式を経て――ゴールデン・ウィークがやってきた。バスケ部は初日で練習試合を組んでいた。氷月との約束どおり、それまでの間、天見はなかなか真面目に練習に取り組んでいた。しかし初心者にできることは限られているものだ。
実際、天見のやったことといえば、眼の色を変えて鬼の如く張り切る氷月に渓、いつもの笑みに凄艶な色を滲ませて躍動する紡の後ろで、ボールを受け取るたびにひたすら地味にシュートモーションを繰り返すことだけだった。それしか練習していないのだから、仕方がない。リバウンドをほとんど取っていたのが紡だったので気が楽といえば楽だったが。
凄まじいゲーム・スピードに、まあよくついていったと思う。目まぐるしく移り変わる攻守、叩きつけるような鋭角のパスの応酬、眩暈がするほど複雑な駆け引きの連続。まったく息をつく暇もない。登山やクライミングで学んだことが一切の役に立たない場所。
それでもまだ紡はやり足りなさそうな顔をしていた。氷月はにやりと笑って言う。「ストバスいくか。これから」
「もちろん!」
渓もぶんと腕を振り上げて、「お供しますよー!」
「あたしと渓と鵠沼。姫川は?」
天見は渋い顔をした。「腕が上がんないんでパスします」
「私も」
「うん、ありがとな葛葉。じゃあふたりとも、休み明けに、学校で」
バスケ部の練習試合は午前中に終わり、昼過ぎの、はやくも夏の色が濃くなった空気が世界を取り囲んでいる。海沿いで、潮の匂いが漂うのもあいまって、つい先日、山で吹雪を経験したのが嘘のようだ。陽射しが強く、天見は眼を細めた。
山とは違う筋肉を使って疲労している。頭もぼやけているようだ。三人と別れ、葛葉とふたりきりになっても、まだ試合の残り香が脳髄の芯を燃やしている。練習試合でも皆が真剣だった。相手校の女子バスケ部が、強豪の域に属するチームだったこともあって、かなりぎりぎりの線まで体力を削りきっていた。
「お疲れ様、姫川さん」と葛葉は言う。
「水無先輩も……」
「うん。やっぱり本職の子は違うね。ついてくので精一杯だったよ、私」
「私もそうです」
「収穫はあった?」
「さあ。私はシュート打ってただけなんで。部長は機嫌良さそうでしたけど」
「氷月は単純にバスケが好きだから。もちろん、負けて悔しいのもあるんだろうけど。やっとスタート地点に立てた――って感覚があるんだろうね」
自分が二足の草鞋なうえに不良生徒であることに少し罪悪感がある。氷月に対して。
とはいえ、自分を曲げる気もいまさらなかった。新入部員が入ってくればベンチウォーマーに引っ込むつもりもあったし、あくまで紡のおまけで入ったのだという想いもあった。
「先輩は正式には入部しないんですか」
「生徒会だしね。ちょっと難しい。それにそこまで入れ込むつもりもいまのところないし、氷月に気を遣わせるのもなんだし。いまはからだが鈍らないように動いてるだけかな。なるべく、練習には出るようにするけど。
姫川さん、明日からもう山?」
天見は頷いた。「はい」
杏奈と約束を交わしていた。上高地から岳沢、穂高――空と最初に行った山域を、今度は杏奈とふたりでやる予定だった。最初のときはテントキーパーだったが、今回こそは山頂を踏むつもりだった。それに、岳沢からは奥穂南稜など、ヴァリエーション・ルートもある。
明日の晩に、新宿から夜行バスで上高地までゆく。それまでにはこの疲労も収まっているだろう。思うと、心の根から高揚が戻ってくるような感覚がする。もうパッキングなどは終えていた。
それを話すと、葛葉は少し羨ましそうな顔をした。「没頭できることがある。そういうのが、没頭できることのない人間から見ればどれだけ憧れることか」
「私も少しまえまではなんにもなかったです」
「ねえ、だったらとりあえず今日は暇になったんだ?」
「まあ」
葛葉は唇を綻ばせた。「いまからどこか遊びに行かない? ちょっとばかり息抜きってことで。私この休み全然予定立てられなかったから、まるまる暇なんだ。どうかな」
天見は眉根を寄せて葛葉を見つめた。
高台からすぐに海が見える位置だった。
国道を横切って、わずかな住宅街を抜ける。家々の壁にエンジン音も遮られてすぐに静かになる。
代わりに、波の音が足元を伝う。風は柔く、砂を削るような、弱々しい響きが耳に届く。寄せては返す波の手のひらが白く海岸を浚っていた。陽光に反射し、海面はきらきらと星を撒いたように光る。
「誰もいないね」と葛葉は言った。
波が穏やかなせいだろうか。時期や場所もあるのだろうが、見渡す限り、サーファーの姿さえなかった。大型連休初日でこれは、寂しいように思われた。吹きつけるというよりは漂うような風に眼を細める。水平線は色褪せて空と見分けがつかない。
砂浜を踏むと靴に砂が入り込むので脱いだ。素足になる。
足の指を撫ぜる感触に、何年振りだろう――と、天見は感慨めいて思った。不登校を起こして“反転”してから、家族と遊びに出たことなどただの一度もない。いや、それ以前からずっとなかったように思う。
最後に海を間近で見たのは小学三年の頃だっただろうか。その時分はまだ両親と普通の関係で、天見自身も、まだ愛想良く普通に明るかった。はっきりした物心がついていなかったとも言える。
丹沢から相模湾を見ることはできる。天気がよければ江ノ島までも。空と塔ノ岳を登ったときにはごく自然に見ることができた。ついこのあいだはずっと曇天ではっきり見えなかった。
砂浜沿いをゆく葛葉について歩く。
葛葉も靴を脱いで、指に引っ掛けている。彼女の素足はずいぶんとかたちがいい。新体操をやっていたからだろうか。見目の美しさが加点になるのか天見には知る由もないが。
「のんびり海を見るのも久し振りだな」と葛葉は言う。「神奈川に住んでても実際、あんまり機会ないよね。勿体ない気もするけど」
「誰かに誘われたりとかは……?」
「あんまり一緒に遊ぶ友だちつくれなくて。ちょっとまえまでは休む暇があったら新体操の練習だし、氷月はあんなんだからバスケ以外ちっとも関心ないし。いい仲の男子と海でデート、ってちょっと憧れてたけど、どうにも無理っぽい」
葛葉はおどけて、少し嬉しそうだった。
午後の陽光が強く、ふたりの姿はほとんど焦げつくような影になっていた。波が、時を刻んで、緩やかに行き来を繰り返し繰り返す。葛葉はふと思い出したように、
「山の上にはまだ雪が残ってたんだよね」
「はい」
「丹沢でそうなら、穂高ってとこはまだ全然雪山なんだろうね。不思議な感じがするよ。こうしてると夏の匂いがすぐそこにきてるって感じがするのに、大して離れてもないところで、やっと過ぎ去ってくれた冬をまだ味わおうとしてる。まだ」
天見は天見なりの固い微笑を浮かべた。
「私寒いのは苦手だな。冷え性だから。毎年冬がくるたびに憂鬱な気分になって、なんとなく塞ぎ込むような気分になって、冷たい雪混じりの雲を見上げてはやく春よこいって願ってる。でもいつまでも冬でいてほしいひともいるんだろうね……花なんか咲かなければいいって考えてるひとが」
天見は空のことを思って微笑を深めた。
空の季節があるとすればそれは間違いなく冬だ。それも初冬や早春ではなく、真冬、厳冬期、そのうえでなお、とびきりの冬を求めて山を目指す。冬以上の冬。寒く、冷たく、痛く、苦しく、命すら掻き消える無機物の世界。そして天見自身、それを恋しく想い始めている自分に気がついていた。山頂の体験にはそれほどの力がある。それまでの価値観を丸ごとひっくり返して打ち壊す。新しく生まれなおした自分はやがてさらに上を求める。物理的な上。精神的な上。
もう一度あれを味わいたい。ただそれだけのことだ。貪欲な子、と空に評された。そうなんだろうと思う。けれど天見に言わせれば空のほうがよほど貪欲だ。彼女はその過程が人生そのものに成り果てている。
「たしかにずっと冬だったらって思ってる私もいます。でもそれは夏の山をまだ体験してないせいかもしれない。私、山をやり始めてまだ五ヶ月くらいしか経ってません」
今度は葛葉が微笑んだ。「そっか」
「知りたいことがたくさんある。たくさんありすぎてどれから手をつけていいのかわからないくらい。一生かけても足りないんじゃないかって思います」
葛葉は濡れた砂を味わうように踏み締めた。
のんびりと時間が過ぎゆくのに任せ、葛葉は防波堤のへりに腰を下ろした。素足をぶらぶらさせてひっきりなしにかたちを変える人生のような波の動きに見入った。天見は彼女のすぐ隣にしゃがみこんだ。そうすることが許されるような空気があった。
「海を見てるの好きだな」と葛葉は言った。「いつまでも飽きがこない。焚き火と同じで、同じかたちになることが二度とないからだろうね。同じ風が吹かないのとか、同じ雨が降らないのとかと一緒で」
「そうですね」
「だからこそもどかしいって気もするんだけど。この景色を永遠に自分のものにすることができないように感じて。うまくいえないけど、そういう。勿体ないっていうのかな。そんな気分になったことってない?」
「――。……どうでしょう」
よくわからないと天見は思った。うまくことばにできないのは天見も同じだった。
そういう感受性を、率直に口に出せるところを、天見は単純に好ましく思った。共感できる感覚を口にしたのではないことは葛葉の声音からわかった。同意や肯定を求めていなかった。ただ目に見えるものを言っただけだった。子供のように。
葛葉と話していると気が抜けそうになる自分もいる。迂闊にも無防備になってしまう自分の一部があった。それは氷月に連れられて初めて葛葉と顔を合わせたとき、自らの行いについて控えめに物言われたときから付き纏っている感覚だった。
話していて安心する。
そういう感覚に近い。
丹沢から帰ってきた夜、親のセックスを壁越しに聞いて家を飛び出したときには考えられなかったものだ。
空や杏奈ともまた違う感覚だった。立っている世界が異なりながらも確かなものがある。あのふたりよりは、歳が近いせいかもしれない。それでいて大人びた雰囲気がある。同年代の紡は根が激しすぎて暑苦しい。
凪いだ海の穏やかな音。会話にさえ静謐がある。
「水着持ってくればよかったな。まあ練習試合でそういうのもダメだろうけど」
天見は煙草でも持ってくればよかったと思った。このあいだの晩、あの見知らぬ女にもらったときとは違う気分からそう思った。たぶん、心から一服吸うときがあるとすれば、こういう時間なのだろう。厭なことから逃避するわけではなく、ただ吸う。別に格好つけて吸いたいわけではないがなんとなく空が吸う気持ちがわかったような気がした。
杏奈の通っている女子高は、いまはそれほどではないが、ひと昔まえまではそれなりに有名ないわゆるお嬢様学校で、良家の子女が集う一種のステータスを保持していた。杏奈がその事実をすっかり忘れているのは、自分が良家の子女などではないからであって、とはいえ、ふとなにかの拍子に思い出すとやはり愕然とくるものがある。
――マジかよ。
シズに誘われて、彼女の家までやってきた杏奈が見たものは、住宅地からだいぶ離れて、丹沢の麓の田園地帯を延々と抜けて、ぽっかりと土地の開けたところにでんと広がる敷地の、時代劇にでも出てきそうな古い屋敷だった。かなり、愕然とする。門から玄関までの距離がすでに篠原家の何倍もの広さがあり、松だかなんだかが両側に並び立ち、庭の端が見えない。白砂の敷き詰められた池の脇にボルダーでもできそうな巨岩が添えられている。恐る恐る足を踏み入れると、一見して葉桜とわかる巨木が、捻じれた幹の下で図太い根の指を広げていた。
「……えーっと。住んでるの? ここに?」
呆然と呟くと、まえをゆくシズが振り向いて首を傾げた。「そうですけれど」
「ご、御立派なお家ですことで……」
「古いだけですよ?」
一階建てのようだが問題はそこではない。とにかくだだっ広く、端から端までが見渡せない。突き出た庇が縁側に影を落とし、開け放たれた障子の続くさまはまるで神社だ。
たしかに、古いのだろう。戦前どころか江戸時代から建っていると言われても信じられそうな佇まいだ。杏奈はすっかり浮き足立ってしまい、膝が震えてあらぬほうへ向かいかけた。ここは、何処だ。ていうかなんだ。京都の寺かなにか?
「篠原先輩、こちらです。そちらは道場ですので」
「あっごめ――道場ォ!?」
「曽祖父が北辰一刀流の師範代でしたので……いまはほとんど、使っておりませんが」
道場って普通、家にあるものだったっけ? 杏奈はカルチャーショックに眩暈がした。
がちがちに緊張しながら玄関の敷居を跨ぐともうほとんど旅館みたいなものだった。古びてはいるが細部にまで清掃が行き届き、下駄箱の横にはどでかい壷に生けられたよくわからん花の枝。一階建てのぶん天井は高い。日当たりがよく、輝くような白い光のなか、廊下もやはり終わりが見えない。なんだここは。ほんとうにあたしの知ってる日本?
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ひいっ!?」
「ただいま帰りました、弘枝さん。父か母は在宅でしょうか」
「急なお仕事が入りましたので夜は遅くなられるそうでございます。先にお休みになられているように、と」
「わかりました」
「では……」
作務衣姿の若い女が丁寧に頭を下げて廊下に下がっていく。メイド? 家政婦? お嬢様なんて実際に呼ぶの初めて聞いたわ、まるでゲームか小説みたいな世界だ。緊張しすぎて冷や汗がだらだら、ごくりと息を呑んでシズの後をついていく。
とうぶん、杏奈の緊張は終わらなさそうだった。
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まさかの葛葉さんだと!?許せるッッ!!