オリジナル。登山、微百合、日常、ぐだぐだ。もう杏奈はなにやってもギャグにしかなんねーなー(棒
モンハン。とうとう世紀末と噂のフロンティアに手を出す。テンプレ的な、本家シリーズからきました。Pシリーズはソロでクリアしました^^→ほげええええええええええ
なにこれ超マゾい(涎 報酬ブーストで進行速度二倍でこれっすかw 黎明期からのF勢心底尊敬するわ。ガンナーのフォスタは帰れ。ヘビィはコロリン移動が基本だろうがいちいち納銃してんじゃねえ筋トレかッ……ライトや弓はとにかく、撃てよ臆病者! ってピクシーが言ってた。
一方でMHP2G時代からちょっと憧れてたエスピナスと戦えて結構嬉しかったり。ようやく会えたな!
トリアカ神楽とガンナー汎用つくったので強化せんと。気がつくと終わってたギルドコイン救済クエ、再配信はよ。こっからはFXより古龍素材温存してオディバ足あたり狙うのがいいっぽい? 剛種は装備整うまで元気のみなもとでゴリ押しが安定か。
しっかしSR遠いなー。やっとHR170かー。
とりあえずギルド貢献ポイント溜めるために、だれかラスタ貸してください(切実
杏奈が桐生邸にやってきたのは、大学受験に際して、有用な参考書があるかもしれないというシズのことばに従ってのことだった。シズの兄は大学生で、いまは東京でひとり暮らしをしており、ほとんど帰ってくることはないが、部屋はそのままで夥しい数の書物が本棚に並んであった。読書家なのだろう、杏奈が軽く引いてしまうほど本棚はびっしりと埋まり、ダンボール数箱ぶんに渡って部屋の隅に確保してあった。
純文学だけでなく、小林秀雄をはじめとする批評家や、ユング、ニーチェ、マルクス、変わったところではハードカバーの児童文学なども並んでいた。雑食といった感じだ。漫画もあった。百巻以上続いている独特な絵柄の少年漫画の隣に、谷口ジロー/夢枕獏の『神々の山嶺』を見つけてほっこりする。しかし、目的はそれではない。シズが引っ張り出してきたダンボール箱に、参考書がまとめて積み上げてあった。
杏奈は思わず呟いた。「うぇぇ、眩暈がする」
シズはくすりとする。「兄もこれ全部をやったとは思えませんが。購入しても、読まずにそのまま積んでおくことも、多かったひとなので……」
「けど受験生だしなあ。見てよこれ、紙がもうくしゃくしゃだ。なんべん開いたんだろ。ノートも残ってるよ、過去問の回答……何度も解きまくってる。問題自体を暗記したような勢いだ」
「それが結局、いちばん効率のいいやりかただったのでしょうか」
「だろうね。学力ってなんだっけ」
ひととおりぱらぱらとページをめくって、受験に向けてこれを全部トレースするのだと思うと、はやくもうんざりした。杏奈に兄弟はいないし、先輩で仲の良い者もいなかったから、経験者に話を聞くということもできない。
予備校に通うことも考えてはいるが、講義中に眠ってしまうんじゃないかと思う。高校の授業だってしばしば寝落ちしてしまうのだ。
学校なんか行かず自分でやったほうがずっと効率がいい――とは、天見の言い分だ。彼女は素の学力が高いからそんなことを言えるに違いない。杏奈はといえば、幼少時からの登山のせいか、根っからの脳筋で勉強にはちっとも自信がない。中学からエスカレーター方式のいまの学校に受かったのだって、たぶん八割方運だ。
「お兄さん頭良かった?」
「はい。妹の私がこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、優秀な方でした。昔はよく勉強を教えていただきました。私は高校からの編入組なのですが、比較的すんなり入学できたのも、兄のおかげです」
「くっそあたしも兄貴か姉貴欲しかった。とびきり頭いいやつ。桐生さん羨ましいなあ」
「弟か妹が欲しかった時期もありましたが……」
「うんそっちも欲しい。でもあの親父もう枯れてるっぽいんだよなあ!」
文字の羅列を見つめていると頭が痛くなり、杏奈は唇をむずむずさせて立ち上がる。
窓辺に、夕暮れの強い陽射しが、炎の色に染まって鋭角に射し込んでいる。濃い影をつくって手元が暗い。純和風の家だから、畳に落ちる光まで、ひどく様になっているようだった。
「げぇ、もうこんな時間……桐生さん、ちょっとおトイレ貸して」
「縁側を伝って、向こう側です。すぐにわかると思いますよ」
部屋から遠ざかると、杏奈は膝に手をついて盛大に息をつく。まったく、呼吸までままならない空気だ。
古い屋敷にはぴんとした空気が張り詰めている。時間の流れだけが熟成させる、からからになった書物のような、饐えた匂いとでもいうようなもの。幼い頃母の田舎で感じた懐かしさをそのまま深めたような感覚だ。しかし、いまはノスタルジーどころではない。
「うぉおお……全面包囲されてる気分。くるんじゃなかった? でも、断るのも変な流れだったしなあ!」
思い返すとものの見事に誘い込まれたような気がしてならない。
ぶるぶるとかぶりを振って背筋を伸ばす。いまはとにかく耐えるときだ。暫定彼女に呑まれてはならん。あたしはノンケあたしはノンケと呟き、トイレを探してきょろきょろ。そのとき、庭のほうから声がする。
「誰?」
「ぅえ?」
弾かれたように振り向く。西日の強い茜色のなか、引き摺るような影を伴って人影が立っている。
二十くらいの、道着姿の女だった。影そのもののような黒い髪をポニーテールに束ねて、額に一筋赤紫色のメッシュを入れている。汗だくで、白い手拭いを下げ、木刀を肩に担いで怪訝な表情。やや小柄――自分より頭半分くらい下――で、涼しげな目許に日本人形のように整った顔立ち。道着の衿を下から押し上げる胸元がひどく肉感的だった。
母親にしては若すぎる。家政婦……なわけがない。シズには兄がひとりだけで、姉がいるとは聞いていないし、そもそもシズとはあまり似ていない。杏奈は少しうろたえた。
「え、あ、あのあたし桐生さ――シズさんのお友だちでー、その、お招きいただきまして――」
女は眼を眇めるようにした。「……ふぅん?」
すたすたと近づいてきて、縁側の下で木刀の切っ先を地面につき、そこに寄りかかるようにしてからだを傾け、こちらを見上げてくる。見定めするような眼に、杏奈はぐっと仰け反りかける。
じろじろとする眼つきは居心地が悪い。しかし、あたしにゃ後ろめたいことはない、はずだ。告白されたが返事はまだ保留状態にある。杏奈は自分の立ち位置を確認して胸の内側だけで深呼吸。あたしはノンケあたしはノンケ。
「シズの友だち? 珍しいわね、あの子、そんなに社交的だったんだ」
「はあ」
「子供のときから引っ込み思案で、友だち家に誘うなんてありえなかったわ。成長したってことかしら? でも、へえ」
うおお、あからさまな女ことば使うひと初めて見たぜ、とびっくりする。やっぱ古い家は違うなあ。でもなんだってこんな風に“鑑定”される眼つきされにゃいかんのだ。杏奈は少し憤然とする。
「あの、ちとおトイレ借りたいんすけど、どっちですかね?」
「身長のわりに体格いいわね。運動部?」
「……えー、あー趣味でちょいと」
「その制服、シズと同じ学校なんでしょ? あの女子高、お嬢様ばっかり通ってるってイメージあったけど、いまは違うのかしら。名前は? 何年生?」
「……。三年の篠原杏奈っす」
「あら先輩なんだ? ふぅん」
ますます居心地が悪くなり、杏奈は唇をむずむずさせる。別に危急的に尿意を催しているわけではないが、ここは逃げの一手を打ちたい。
「行っていいっすか?」
「待ちなさいよ。どうせシズから逃げてきたんでしょ? あの子あんまりお話得意なほうじゃないし」
図星なぶんちょっとイラッとくる。「いや、マジでトイレなんですけど」
「見れば見るほど立派なからだつきしてるわね。特に腕。ちょっと触ってみてもいいかしら」
「は? いや、別にいいですけど――」
「じゃ失礼」
差し出した腕をスルーされてブレザーの胸をいきなり鷲掴みにされる。
「!!!??」
女は眉根を寄せて頷く。「ふむふむ。なかなかあるわね。でも、固い」
「なんでこっち!?」
「腕を触るとは言ってない」
「いや明らかに腕の流れだったろいま!?」
「うるさいわね少し黙ってなさいよ。ううん、やっぱり大胸筋で盛ってるのか。なのにびっくりするほど細いってことは――ボクサーかなにか?」
「にゃんじゃあ!!」
他人に胸を触られるなどまったく初めてのことである、女子高のあからさまな女友だちにもそれだけは拒絶してきた。杏奈は素早く後退して無理やり女の手から離れた。そして両手を胸元に寄せて――守るというより拳法の構えのように――犬のように唸って威嚇する。
「がるるるるるるる」
「つまんない反応。恥じらいで固まっちゃうとかのほうがからかい甲斐があるのに」
そこまで大人しい杏奈ではない。「なんすかいきなりッ、女同士だからってセクハラは犯罪ですよ! だいたい誰だてめえ! 桐生さんにはお兄さんしかいないって聞いたぞ!」
「女子力ゼロ勢か……」
さっきから図星なのが激しく痛い。「ンだとォ!?」
「よっ」
伸びてきた腕に手首を掴まれ、思わず身構えたときには、杏奈のからだはおかしな風に一回転して床に背中から墜落していた。肺から一気に呼吸が抜け出して痛みが遅れてやってくる。
しまったこれはジュードー!? 杏奈には平均より遥かに上の身体能力があるが護身術の心得はない。クライマーの筋力とバランス感覚を以ってしても、その道をゆく者に抵抗するのは至難の業である。たちまちマウントポジションを取られ、女のわらじがひょいひょいと地面に放られる。やばっ、どうする!? 目潰ししとくか!! でもさすがにそこまでやっていい状況!?
ブレザーの内側にするりと指先が入り込み、脇腹を不躾になぞられる。「うひっ」
「ふむふむ。見た目よりだいぶ重かった。どれだけ筋肉ついてるのあなた?」
「気にしてることをー――!!」
「あ、気にするくらいの自覚はあるんだ? でもこのスタイルはなかなか羨ましいわねえ。有酸素運動と無酸素運動を見境なく、かなり無茶なところまでやり続けて、しかも食事制限までしてるって感じの……うーん、アスリートって感じもしないし。ほんとうになんのスポーツしてるの?」
女の下で激しくじたばた動く、けれどまるで文鎮のようにびくともしない。腹から腰にかけてぺたぺた触れられ、杏奈は率直な不快感に歯軋り。あまりに理不尽な扱いに怒りが湧いてくる、あたしがいったいなにをした。
「どけーッ!」
「っと」
拳をぶんと振り回して、女の身が浮いた瞬間に素早く這い出る。立ち上がりざま、いつも父親にやるように、深く腰を落として渾身の力を篭めたローキックを放った。
「おるァ!!」
「はい」
「ひゃっ!?」軸足を払われて盛大にすっこける。後頭部から床に激突し、頭を抱えて打ち上げられた魚のようにもがく。「うぐおおおおおお」
「格闘技でもないのか。ランナーにしては上半身もすごいし。あらでもいい太腿」
制服のスカートの下にするりと手が這う。「ぎゃー! ぎゃーっ!!」
「やっぱりいいわね女子高生。あーあ。私も女子高行きたかったなー」
そのとき、別の方角から声がする。「なにをなさっているのですか、椿希姉さん」
「ん?」
廊下の奥からシズがやってくる。眉根を寄せて、厳しい顔で女を見つめ、転がっていた木刀を拾い上げる。女は杏奈からすっと離れて両手を上げた。
「ああ、シズ。お帰りなさい。道場で素振りしててね、戻ってきたら見慣れない子がいたものだから。あなたのお友だちですって?」
「大事な先輩なのですが」
「やだ、怖い顔しないでよ。ちょっと戯れただけじゃない? 別に変なことはしてないわ」
「……先輩?」
杏奈はほとんど悲鳴混じりに叫ぶ。「胸触られたー! 太腿撫でられたーっ!!」
そのことばを耳にした瞬間にシズの輪郭が霞のようにぶれる。両手で正眼に構えられた木刀が鋭角な弧を描き、切っ先が空気を裂いて女の鼻先を掠める。杏奈にはほとんど目視できぬほどのスピードだった。しかし、女の足が半歩後ろに下がっていた。かわした、ということらしい。
女はくすりと微笑む。「いやだわ、ちょっとスキンシップ取ったくらいで。シズ? 私にそんなことしていいと思ってるの?」
「客人の身の安全が最優先と判断します」
「あらそう残念」
その刹那、ふたりの動きが杏奈の認識の外側に飛ぶ。恐るべきはその踏み込みの速さ。なんの躊躇もなく横薙ぎに払われた木刀が、女の両手に挟まれ、気がつくと杏奈の頭上で至近距離の対峙。ぎしりと四つの腕が軋む。
「シズ? 本気でやって、私に敵うと考えてるのかしら」
「やらねばならぬならやるだけです」
シズの声はあくまで固い。女は不敵に笑う。「いつ以来かしら――あなたが最後に本家にきたのは、もう二年もまえの話? 少しはマシになってる?」
「兄には三本中二本は取れるようになりました」
「なっさけないわねえ、あの子。まあもともと武闘派じゃなかったから仕方ないか。お爺様の血はあなたのほうが濃いのかしら――」
殺気が膨れ上がる――と、杏奈は感じた。殺気を感じた経験などないがたぶんこれがそれだ。ひっと息を呑んでふたりの足元から脱出し、ヤバイヤバイと四つん這いでその場から離れる。とんでもねえ家だ! ほんとうに現代日本かよここ!?
そのとき、縁側からまた別の声がかかる。「椿希様。お嬢様」
はっと杏奈が振り向くと、先ほどの作務衣姿の家政婦が両手を腹のあたりに添えて立っている。
「奥様がお帰りになられました。用事が早く済んだので、一緒にお食事を取りたいとのことです。もう準備はできておりますので、どうぞ」
対峙するふたりが静かに距離を取る。女はにこりと家政婦に顔を向ける。「わかったわ、弘枝さん。でも、シャワーを浴びてからでいいかしら。いま汗だくなのよ私」
「お伝えしておきます」
「背中流してくれる?」
「お望みでしたら」
「ええ」女はシズに背を向け、手をひらひらと振ってみせる。「そういうことだから。じゃあシズ、続きはまた後で。篠原さんもお食事一緒にどう?」
「え? うぇえ?」
シズは固い声で言う。「椿希姉さん」
「はいはい。わかってるわよ」
女と家政婦が去ると、ようやく空気が和らぐ。杏奈は床に座り込んだまま天井を見上げ、ぜえと息をつく。なんだってんだ。
「大丈夫ですか、先輩」
シズに手を引かれて杏奈は立ち上がった。「いまの誰!?」
「ツバキ姉さん……字は花の椿に、希望の希で、希は黙字です。私の従姉にあたる方です。静岡の本家から、少し……事情がありまして、こちらに滞在されているんです」
「ああ従姉さんっすかっ。え、本家?」
「はい、桐生の。こちらは分家なので……」
杏奈は頭がくらくらしてくる。本家だの分家だの、つくづくどこの国のお話だ。
当初の目的を済ませて、縁側に腰かけて庭を見つめた。茜色の陽射しがねじれた松の枝葉を貫き地面に弾痕をつくっていた。無性に、山に戻りたくなる。旧知の見知っている世界に浸りたくなる。はあ、とひとつ溜息。
「先輩、姉が失礼しました」
シズがそう言って頭を下げたのは元の部屋で、杏奈はなんとなく正座してその謝罪を受けた。しかし実際、それほど怒っているわけではなかった。「いや、いいんだけどさ。ちょっとびっくりしただけだし」
「そう仰ってくださると助かります。姉はなんというか、おおらかというか……そういうところがあって。でも、昔はあそこまであからさまじゃなかったのですが。二ヶ月まえに本家からこちらにやってきて、そのまえにお会いしたのがもう二年以上まえで、お話しするのも久し振りで――」
杏奈とシズが会話しているとき、椿希は浴室にいて、シャワーを浴びていた。壁に手をつき、解いた髪が背中を流れ、ひっきりなしに雫を零していた。電気は点けていなかった。照明は窓から射し込む夕陽だけで、闇の色のほうがあたりに濃かった。ほとんど沈むような暗がりだった。
「でも従姉かー。従姉もいーなー。ウチさ、親戚少なくて、富山の田舎に母方の祖母ちゃんがひとりいるだけなんだよね。お母さんもお父さんも一人っ子だし。そのなんつうの? 本家? にはどれくらい親戚いるの?」
「数え切れないほどには。父は次男で、長男の方と、姉がふたりに弟と妹がひとりずつ。みなさんそれぞれの家族がいて、伴侶の親戚方も含めると、私には少し把握しきれません。でも、分家はこちらひとつだけですね。みなさんが本家の周りにそれぞれの家を持っていまして」
「そ、それってすごい数じゃね? はー。大家族ってわけだ」
作務衣に襷をかけた弘枝が入ってくると、灯りは点けないで、と椿希は言った。弘枝にしてもそれはわかっていた。弘枝は立ち止まり、近づいていいと許しがあるまで入り口で待機し、闇を見るともなく見ていた。ボディーランゲージで許しがくると、足音を忍ばせるようにして近づいた。椿希は壁を見続けていた。
「お父さんが家を出てる感じ?」
「はい。というよりは、もともと分家の屋敷だけがこちらにあって、隠居した祖父について、私の両親がこちらに移ってきた、ということになるのでしょうか。疎遠というほど疎遠ではないですが、父も母も、あまり本家には寄りつかないですね。居心地がよくないとは仰ってますが、子の私にはあまり事情が掴めてません。叔父叔母方ともあまり仲が良くないような――」
「あ、あ、言いづらかったら別にいいから」
「いえそういうわけではありません。でも、椿希姉さんには幼い頃からよくしていただいてました。本家を継いだ、叔父のひとり娘で、いずれは婿を取って跡取りを探さねばならぬらしいのですが、どうしてこの時期にこちらにきたのか……」
入江弘枝は今年で二十四歳、桐生の家に代々仕えてきた庭師の娘だった。とはいえ彼女自身はそれほど忠誠心のようなものがあるわけでなく、安定した就職口だからここにいるようなものだった。家政婦を演じていても、内心では、大時代的なこの家や、忠犬のような父親をシニカルな目線で見ていた。要するに現実的な女だった。とはいえそんな弘枝にしても、椿希の背中を見るとなにか憤懣たるような想いを感じずにはいられなかった。
椿希の背中に手拭いを這わせ、できるだけなにも感じないように心を静めようとしていても、見たくもないものは視界に飛び込んできた。それは最近になってようやく収まってきてはいたが、椿希がここにやってきた当初はひどく目立ち、ろくに背中も流せないほどだった。かなり大きな傷痕だった。右肩から袈裟懸けにすっと伸びる赤い線。
「椿希姉さんは――そう、なんていうか、難しい方で」
「難しい?」
「自我が強すぎる、と父は仰ってましたが……私には、ちょっと説明できるほどには……」
「ううん? そっかー。……自我?……なんかちょっと、思い出さずにはいられないな」
同じ頃、天見はまだ葛葉と一緒に海にいた。陽が海岸線に沈む様を、浜辺を歩きながら眺めていた。葛葉は話題の豊富な女だった。それでいて、天見が黙っていたいときには黙っていられる女のようでもあった。幼馴染の氷月についていくつか武勇伝めいたエピソードが語られ、そうすると、天見も思わずくすりとせずにはいられなかった。しかし笑うのもなんだか癪なので唇をへの字に曲げていた。ふたりは足元から長く影を伸ばし、静かで平和な時間を共有していた。
「先輩、お食事どうします?」
「え? あー。どうすっかな。いや、予定はないんだけどなんていうか悪いっていうか気が咎めるっていうか」
「弘枝さんが、なにか準備してくださってると思います。黙っていてもなにかと察してくれる方なので。でも、先輩には迷惑でしょうか……?」
「いやんなことないけど! ちょうどお母さんもお父さんも家留守にしてるし、帰っても仕方ないってのはあるけど。でもほら、私なんかが一緒に食べるとか、いや、マナーもなってないようなやつだし、その……うっ、そんな眼しないで――わかった、わかったよう――はあ。ご一緒させていただきます……」
「ありがとうございます、先輩。母にも伝えてきますね」
その留守にしている篠原夫妻は、いま、残雪期の北アルプス、剱岳八ツ峰の主稜に取り付いていた。既に登攀の九割方が終了していた。八ツ峰ノ頭を踏み、池ノ谷乗越を越え、北方稜線を伝っていままさに剱岳の山頂に到着する頃だった。天気が非常によく、北アルプスの鮮明な山並みも、富山県側の光景も、薄い空気をすり抜けてはっきりと見えていた。それぞれのパートナーと組み、美奈子のパーティが先行していた。女性陣をフォローする意味合いだったが、はっきり言って、篠原武士よりも美奈子のほうが早かった。限定的な状況において、美奈子は夫以上のパフォーマンスを持つ山屋だった。
美奈子のザイル・パートナーは空だった。空は解き放たれたように登っていた。ビレイヤーの美奈子の認識からずれるほど素早く動き、しかし、セカンドを常に気遣いもできていた。山頂を踏むと、空は振り返って美奈子を待った。もはやビレイも必要ないピッチだった。美奈子も間もなく上り終えた。
空は笑って美奈子と拳を突き合わせた。美奈子は空よりも嬉しそうな顔をしていた。三十八歳という年齢よりも二十は若いような顔立ちで、むしろ空よりも若くさえ見えた。娘の杏奈とは似ても似つかない美貌で、はしゃいだ様子で空を抱き締める様子は、ほとんど少女めいていた。
美奈子は両頬に手を当てて笑った。「んふ。んふふ。あはは! とっても嬉しい、また空ちゃんと一緒に登れる日がくるなんて。ああ懐かしい! ねえねえ、どうだった? あたしどうだった?」
「昔よりずっとうまくなってますよ。びっくりしました」
「でしょお!? 空ちゃんが登らなくなっても、武さんが膝ぶっ壊しても、ずーっと続けてきたもん! 登山ブームに乗っかってるだけのそこらのクライマーには負けないもんね! 武さんまだかな? 芦田ちゃんの足引っ張ってなければいいけど!」
「はは。先にテント戻ってます?」
「そうしよーかなー! あんまり遅ければねー!」
その篠原・芦田組にしても決して遅いわけではなく、かなり素早いほうだったが、そもそもまえをゆく女性陣ふたりの次元が違いすぎた。芦田は篠原をビレイしながら、雪に向かって何度も愚痴を吐き、この世のなによりも大切な身重の妻を置いてきた罪悪感に打ち震えていた。なんでおれはこんなところにいるんだ!? 二度とザイルを使った登山はしないって決めてるってのに! またこんなクソみたいなことをやっちまってる、これも全部あのクソ空野郎のせいだ! しかし、恩師の篠原に一緒にこいと言われれば、断ることができないのも芦田なのであった。おまけに、空さんを手伝ってあげてくださいねと妻に言われてしまえば、もう完全に逃げ場が塞がれてしまう状況だった。
「ビレイOK!」
篠原のコールが聞こえ、芦田は苛立ち紛れに岩を蹴飛ばした。「クラァァーイムッ!!」
モンハン。とうとう世紀末と噂のフロンティアに手を出す。テンプレ的な、本家シリーズからきました。Pシリーズはソロでクリアしました^^→ほげええええええええええ
なにこれ超マゾい(涎 報酬ブーストで進行速度二倍でこれっすかw 黎明期からのF勢心底尊敬するわ。ガンナーのフォスタは帰れ。ヘビィはコロリン移動が基本だろうがいちいち納銃してんじゃねえ筋トレかッ……ライトや弓はとにかく、撃てよ臆病者! ってピクシーが言ってた。
一方でMHP2G時代からちょっと憧れてたエスピナスと戦えて結構嬉しかったり。ようやく会えたな!
トリアカ神楽とガンナー汎用つくったので強化せんと。気がつくと終わってたギルドコイン救済クエ、再配信はよ。こっからはFXより古龍素材温存してオディバ足あたり狙うのがいいっぽい? 剛種は装備整うまで元気のみなもとでゴリ押しが安定か。
しっかしSR遠いなー。やっとHR170かー。
とりあえずギルド貢献ポイント溜めるために、だれかラスタ貸してください(切実
杏奈が桐生邸にやってきたのは、大学受験に際して、有用な参考書があるかもしれないというシズのことばに従ってのことだった。シズの兄は大学生で、いまは東京でひとり暮らしをしており、ほとんど帰ってくることはないが、部屋はそのままで夥しい数の書物が本棚に並んであった。読書家なのだろう、杏奈が軽く引いてしまうほど本棚はびっしりと埋まり、ダンボール数箱ぶんに渡って部屋の隅に確保してあった。
純文学だけでなく、小林秀雄をはじめとする批評家や、ユング、ニーチェ、マルクス、変わったところではハードカバーの児童文学なども並んでいた。雑食といった感じだ。漫画もあった。百巻以上続いている独特な絵柄の少年漫画の隣に、谷口ジロー/夢枕獏の『神々の山嶺』を見つけてほっこりする。しかし、目的はそれではない。シズが引っ張り出してきたダンボール箱に、参考書がまとめて積み上げてあった。
杏奈は思わず呟いた。「うぇぇ、眩暈がする」
シズはくすりとする。「兄もこれ全部をやったとは思えませんが。購入しても、読まずにそのまま積んでおくことも、多かったひとなので……」
「けど受験生だしなあ。見てよこれ、紙がもうくしゃくしゃだ。なんべん開いたんだろ。ノートも残ってるよ、過去問の回答……何度も解きまくってる。問題自体を暗記したような勢いだ」
「それが結局、いちばん効率のいいやりかただったのでしょうか」
「だろうね。学力ってなんだっけ」
ひととおりぱらぱらとページをめくって、受験に向けてこれを全部トレースするのだと思うと、はやくもうんざりした。杏奈に兄弟はいないし、先輩で仲の良い者もいなかったから、経験者に話を聞くということもできない。
予備校に通うことも考えてはいるが、講義中に眠ってしまうんじゃないかと思う。高校の授業だってしばしば寝落ちしてしまうのだ。
学校なんか行かず自分でやったほうがずっと効率がいい――とは、天見の言い分だ。彼女は素の学力が高いからそんなことを言えるに違いない。杏奈はといえば、幼少時からの登山のせいか、根っからの脳筋で勉強にはちっとも自信がない。中学からエスカレーター方式のいまの学校に受かったのだって、たぶん八割方運だ。
「お兄さん頭良かった?」
「はい。妹の私がこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、優秀な方でした。昔はよく勉強を教えていただきました。私は高校からの編入組なのですが、比較的すんなり入学できたのも、兄のおかげです」
「くっそあたしも兄貴か姉貴欲しかった。とびきり頭いいやつ。桐生さん羨ましいなあ」
「弟か妹が欲しかった時期もありましたが……」
「うんそっちも欲しい。でもあの親父もう枯れてるっぽいんだよなあ!」
文字の羅列を見つめていると頭が痛くなり、杏奈は唇をむずむずさせて立ち上がる。
窓辺に、夕暮れの強い陽射しが、炎の色に染まって鋭角に射し込んでいる。濃い影をつくって手元が暗い。純和風の家だから、畳に落ちる光まで、ひどく様になっているようだった。
「げぇ、もうこんな時間……桐生さん、ちょっとおトイレ貸して」
「縁側を伝って、向こう側です。すぐにわかると思いますよ」
部屋から遠ざかると、杏奈は膝に手をついて盛大に息をつく。まったく、呼吸までままならない空気だ。
古い屋敷にはぴんとした空気が張り詰めている。時間の流れだけが熟成させる、からからになった書物のような、饐えた匂いとでもいうようなもの。幼い頃母の田舎で感じた懐かしさをそのまま深めたような感覚だ。しかし、いまはノスタルジーどころではない。
「うぉおお……全面包囲されてる気分。くるんじゃなかった? でも、断るのも変な流れだったしなあ!」
思い返すとものの見事に誘い込まれたような気がしてならない。
ぶるぶるとかぶりを振って背筋を伸ばす。いまはとにかく耐えるときだ。暫定彼女に呑まれてはならん。あたしはノンケあたしはノンケと呟き、トイレを探してきょろきょろ。そのとき、庭のほうから声がする。
「誰?」
「ぅえ?」
弾かれたように振り向く。西日の強い茜色のなか、引き摺るような影を伴って人影が立っている。
二十くらいの、道着姿の女だった。影そのもののような黒い髪をポニーテールに束ねて、額に一筋赤紫色のメッシュを入れている。汗だくで、白い手拭いを下げ、木刀を肩に担いで怪訝な表情。やや小柄――自分より頭半分くらい下――で、涼しげな目許に日本人形のように整った顔立ち。道着の衿を下から押し上げる胸元がひどく肉感的だった。
母親にしては若すぎる。家政婦……なわけがない。シズには兄がひとりだけで、姉がいるとは聞いていないし、そもそもシズとはあまり似ていない。杏奈は少しうろたえた。
「え、あ、あのあたし桐生さ――シズさんのお友だちでー、その、お招きいただきまして――」
女は眼を眇めるようにした。「……ふぅん?」
すたすたと近づいてきて、縁側の下で木刀の切っ先を地面につき、そこに寄りかかるようにしてからだを傾け、こちらを見上げてくる。見定めするような眼に、杏奈はぐっと仰け反りかける。
じろじろとする眼つきは居心地が悪い。しかし、あたしにゃ後ろめたいことはない、はずだ。告白されたが返事はまだ保留状態にある。杏奈は自分の立ち位置を確認して胸の内側だけで深呼吸。あたしはノンケあたしはノンケ。
「シズの友だち? 珍しいわね、あの子、そんなに社交的だったんだ」
「はあ」
「子供のときから引っ込み思案で、友だち家に誘うなんてありえなかったわ。成長したってことかしら? でも、へえ」
うおお、あからさまな女ことば使うひと初めて見たぜ、とびっくりする。やっぱ古い家は違うなあ。でもなんだってこんな風に“鑑定”される眼つきされにゃいかんのだ。杏奈は少し憤然とする。
「あの、ちとおトイレ借りたいんすけど、どっちですかね?」
「身長のわりに体格いいわね。運動部?」
「……えー、あー趣味でちょいと」
「その制服、シズと同じ学校なんでしょ? あの女子高、お嬢様ばっかり通ってるってイメージあったけど、いまは違うのかしら。名前は? 何年生?」
「……。三年の篠原杏奈っす」
「あら先輩なんだ? ふぅん」
ますます居心地が悪くなり、杏奈は唇をむずむずさせる。別に危急的に尿意を催しているわけではないが、ここは逃げの一手を打ちたい。
「行っていいっすか?」
「待ちなさいよ。どうせシズから逃げてきたんでしょ? あの子あんまりお話得意なほうじゃないし」
図星なぶんちょっとイラッとくる。「いや、マジでトイレなんですけど」
「見れば見るほど立派なからだつきしてるわね。特に腕。ちょっと触ってみてもいいかしら」
「は? いや、別にいいですけど――」
「じゃ失礼」
差し出した腕をスルーされてブレザーの胸をいきなり鷲掴みにされる。
「!!!??」
女は眉根を寄せて頷く。「ふむふむ。なかなかあるわね。でも、固い」
「なんでこっち!?」
「腕を触るとは言ってない」
「いや明らかに腕の流れだったろいま!?」
「うるさいわね少し黙ってなさいよ。ううん、やっぱり大胸筋で盛ってるのか。なのにびっくりするほど細いってことは――ボクサーかなにか?」
「にゃんじゃあ!!」
他人に胸を触られるなどまったく初めてのことである、女子高のあからさまな女友だちにもそれだけは拒絶してきた。杏奈は素早く後退して無理やり女の手から離れた。そして両手を胸元に寄せて――守るというより拳法の構えのように――犬のように唸って威嚇する。
「がるるるるるるる」
「つまんない反応。恥じらいで固まっちゃうとかのほうがからかい甲斐があるのに」
そこまで大人しい杏奈ではない。「なんすかいきなりッ、女同士だからってセクハラは犯罪ですよ! だいたい誰だてめえ! 桐生さんにはお兄さんしかいないって聞いたぞ!」
「女子力ゼロ勢か……」
さっきから図星なのが激しく痛い。「ンだとォ!?」
「よっ」
伸びてきた腕に手首を掴まれ、思わず身構えたときには、杏奈のからだはおかしな風に一回転して床に背中から墜落していた。肺から一気に呼吸が抜け出して痛みが遅れてやってくる。
しまったこれはジュードー!? 杏奈には平均より遥かに上の身体能力があるが護身術の心得はない。クライマーの筋力とバランス感覚を以ってしても、その道をゆく者に抵抗するのは至難の業である。たちまちマウントポジションを取られ、女のわらじがひょいひょいと地面に放られる。やばっ、どうする!? 目潰ししとくか!! でもさすがにそこまでやっていい状況!?
ブレザーの内側にするりと指先が入り込み、脇腹を不躾になぞられる。「うひっ」
「ふむふむ。見た目よりだいぶ重かった。どれだけ筋肉ついてるのあなた?」
「気にしてることをー――!!」
「あ、気にするくらいの自覚はあるんだ? でもこのスタイルはなかなか羨ましいわねえ。有酸素運動と無酸素運動を見境なく、かなり無茶なところまでやり続けて、しかも食事制限までしてるって感じの……うーん、アスリートって感じもしないし。ほんとうになんのスポーツしてるの?」
女の下で激しくじたばた動く、けれどまるで文鎮のようにびくともしない。腹から腰にかけてぺたぺた触れられ、杏奈は率直な不快感に歯軋り。あまりに理不尽な扱いに怒りが湧いてくる、あたしがいったいなにをした。
「どけーッ!」
「っと」
拳をぶんと振り回して、女の身が浮いた瞬間に素早く這い出る。立ち上がりざま、いつも父親にやるように、深く腰を落として渾身の力を篭めたローキックを放った。
「おるァ!!」
「はい」
「ひゃっ!?」軸足を払われて盛大にすっこける。後頭部から床に激突し、頭を抱えて打ち上げられた魚のようにもがく。「うぐおおおおおお」
「格闘技でもないのか。ランナーにしては上半身もすごいし。あらでもいい太腿」
制服のスカートの下にするりと手が這う。「ぎゃー! ぎゃーっ!!」
「やっぱりいいわね女子高生。あーあ。私も女子高行きたかったなー」
そのとき、別の方角から声がする。「なにをなさっているのですか、椿希姉さん」
「ん?」
廊下の奥からシズがやってくる。眉根を寄せて、厳しい顔で女を見つめ、転がっていた木刀を拾い上げる。女は杏奈からすっと離れて両手を上げた。
「ああ、シズ。お帰りなさい。道場で素振りしててね、戻ってきたら見慣れない子がいたものだから。あなたのお友だちですって?」
「大事な先輩なのですが」
「やだ、怖い顔しないでよ。ちょっと戯れただけじゃない? 別に変なことはしてないわ」
「……先輩?」
杏奈はほとんど悲鳴混じりに叫ぶ。「胸触られたー! 太腿撫でられたーっ!!」
そのことばを耳にした瞬間にシズの輪郭が霞のようにぶれる。両手で正眼に構えられた木刀が鋭角な弧を描き、切っ先が空気を裂いて女の鼻先を掠める。杏奈にはほとんど目視できぬほどのスピードだった。しかし、女の足が半歩後ろに下がっていた。かわした、ということらしい。
女はくすりと微笑む。「いやだわ、ちょっとスキンシップ取ったくらいで。シズ? 私にそんなことしていいと思ってるの?」
「客人の身の安全が最優先と判断します」
「あらそう残念」
その刹那、ふたりの動きが杏奈の認識の外側に飛ぶ。恐るべきはその踏み込みの速さ。なんの躊躇もなく横薙ぎに払われた木刀が、女の両手に挟まれ、気がつくと杏奈の頭上で至近距離の対峙。ぎしりと四つの腕が軋む。
「シズ? 本気でやって、私に敵うと考えてるのかしら」
「やらねばならぬならやるだけです」
シズの声はあくまで固い。女は不敵に笑う。「いつ以来かしら――あなたが最後に本家にきたのは、もう二年もまえの話? 少しはマシになってる?」
「兄には三本中二本は取れるようになりました」
「なっさけないわねえ、あの子。まあもともと武闘派じゃなかったから仕方ないか。お爺様の血はあなたのほうが濃いのかしら――」
殺気が膨れ上がる――と、杏奈は感じた。殺気を感じた経験などないがたぶんこれがそれだ。ひっと息を呑んでふたりの足元から脱出し、ヤバイヤバイと四つん這いでその場から離れる。とんでもねえ家だ! ほんとうに現代日本かよここ!?
そのとき、縁側からまた別の声がかかる。「椿希様。お嬢様」
はっと杏奈が振り向くと、先ほどの作務衣姿の家政婦が両手を腹のあたりに添えて立っている。
「奥様がお帰りになられました。用事が早く済んだので、一緒にお食事を取りたいとのことです。もう準備はできておりますので、どうぞ」
対峙するふたりが静かに距離を取る。女はにこりと家政婦に顔を向ける。「わかったわ、弘枝さん。でも、シャワーを浴びてからでいいかしら。いま汗だくなのよ私」
「お伝えしておきます」
「背中流してくれる?」
「お望みでしたら」
「ええ」女はシズに背を向け、手をひらひらと振ってみせる。「そういうことだから。じゃあシズ、続きはまた後で。篠原さんもお食事一緒にどう?」
「え? うぇえ?」
シズは固い声で言う。「椿希姉さん」
「はいはい。わかってるわよ」
女と家政婦が去ると、ようやく空気が和らぐ。杏奈は床に座り込んだまま天井を見上げ、ぜえと息をつく。なんだってんだ。
「大丈夫ですか、先輩」
シズに手を引かれて杏奈は立ち上がった。「いまの誰!?」
「ツバキ姉さん……字は花の椿に、希望の希で、希は黙字です。私の従姉にあたる方です。静岡の本家から、少し……事情がありまして、こちらに滞在されているんです」
「ああ従姉さんっすかっ。え、本家?」
「はい、桐生の。こちらは分家なので……」
杏奈は頭がくらくらしてくる。本家だの分家だの、つくづくどこの国のお話だ。
当初の目的を済ませて、縁側に腰かけて庭を見つめた。茜色の陽射しがねじれた松の枝葉を貫き地面に弾痕をつくっていた。無性に、山に戻りたくなる。旧知の見知っている世界に浸りたくなる。はあ、とひとつ溜息。
「先輩、姉が失礼しました」
シズがそう言って頭を下げたのは元の部屋で、杏奈はなんとなく正座してその謝罪を受けた。しかし実際、それほど怒っているわけではなかった。「いや、いいんだけどさ。ちょっとびっくりしただけだし」
「そう仰ってくださると助かります。姉はなんというか、おおらかというか……そういうところがあって。でも、昔はあそこまであからさまじゃなかったのですが。二ヶ月まえに本家からこちらにやってきて、そのまえにお会いしたのがもう二年以上まえで、お話しするのも久し振りで――」
杏奈とシズが会話しているとき、椿希は浴室にいて、シャワーを浴びていた。壁に手をつき、解いた髪が背中を流れ、ひっきりなしに雫を零していた。電気は点けていなかった。照明は窓から射し込む夕陽だけで、闇の色のほうがあたりに濃かった。ほとんど沈むような暗がりだった。
「でも従姉かー。従姉もいーなー。ウチさ、親戚少なくて、富山の田舎に母方の祖母ちゃんがひとりいるだけなんだよね。お母さんもお父さんも一人っ子だし。そのなんつうの? 本家? にはどれくらい親戚いるの?」
「数え切れないほどには。父は次男で、長男の方と、姉がふたりに弟と妹がひとりずつ。みなさんそれぞれの家族がいて、伴侶の親戚方も含めると、私には少し把握しきれません。でも、分家はこちらひとつだけですね。みなさんが本家の周りにそれぞれの家を持っていまして」
「そ、それってすごい数じゃね? はー。大家族ってわけだ」
作務衣に襷をかけた弘枝が入ってくると、灯りは点けないで、と椿希は言った。弘枝にしてもそれはわかっていた。弘枝は立ち止まり、近づいていいと許しがあるまで入り口で待機し、闇を見るともなく見ていた。ボディーランゲージで許しがくると、足音を忍ばせるようにして近づいた。椿希は壁を見続けていた。
「お父さんが家を出てる感じ?」
「はい。というよりは、もともと分家の屋敷だけがこちらにあって、隠居した祖父について、私の両親がこちらに移ってきた、ということになるのでしょうか。疎遠というほど疎遠ではないですが、父も母も、あまり本家には寄りつかないですね。居心地がよくないとは仰ってますが、子の私にはあまり事情が掴めてません。叔父叔母方ともあまり仲が良くないような――」
「あ、あ、言いづらかったら別にいいから」
「いえそういうわけではありません。でも、椿希姉さんには幼い頃からよくしていただいてました。本家を継いだ、叔父のひとり娘で、いずれは婿を取って跡取りを探さねばならぬらしいのですが、どうしてこの時期にこちらにきたのか……」
入江弘枝は今年で二十四歳、桐生の家に代々仕えてきた庭師の娘だった。とはいえ彼女自身はそれほど忠誠心のようなものがあるわけでなく、安定した就職口だからここにいるようなものだった。家政婦を演じていても、内心では、大時代的なこの家や、忠犬のような父親をシニカルな目線で見ていた。要するに現実的な女だった。とはいえそんな弘枝にしても、椿希の背中を見るとなにか憤懣たるような想いを感じずにはいられなかった。
椿希の背中に手拭いを這わせ、できるだけなにも感じないように心を静めようとしていても、見たくもないものは視界に飛び込んできた。それは最近になってようやく収まってきてはいたが、椿希がここにやってきた当初はひどく目立ち、ろくに背中も流せないほどだった。かなり大きな傷痕だった。右肩から袈裟懸けにすっと伸びる赤い線。
「椿希姉さんは――そう、なんていうか、難しい方で」
「難しい?」
「自我が強すぎる、と父は仰ってましたが……私には、ちょっと説明できるほどには……」
「ううん? そっかー。……自我?……なんかちょっと、思い出さずにはいられないな」
同じ頃、天見はまだ葛葉と一緒に海にいた。陽が海岸線に沈む様を、浜辺を歩きながら眺めていた。葛葉は話題の豊富な女だった。それでいて、天見が黙っていたいときには黙っていられる女のようでもあった。幼馴染の氷月についていくつか武勇伝めいたエピソードが語られ、そうすると、天見も思わずくすりとせずにはいられなかった。しかし笑うのもなんだか癪なので唇をへの字に曲げていた。ふたりは足元から長く影を伸ばし、静かで平和な時間を共有していた。
「先輩、お食事どうします?」
「え? あー。どうすっかな。いや、予定はないんだけどなんていうか悪いっていうか気が咎めるっていうか」
「弘枝さんが、なにか準備してくださってると思います。黙っていてもなにかと察してくれる方なので。でも、先輩には迷惑でしょうか……?」
「いやんなことないけど! ちょうどお母さんもお父さんも家留守にしてるし、帰っても仕方ないってのはあるけど。でもほら、私なんかが一緒に食べるとか、いや、マナーもなってないようなやつだし、その……うっ、そんな眼しないで――わかった、わかったよう――はあ。ご一緒させていただきます……」
「ありがとうございます、先輩。母にも伝えてきますね」
その留守にしている篠原夫妻は、いま、残雪期の北アルプス、剱岳八ツ峰の主稜に取り付いていた。既に登攀の九割方が終了していた。八ツ峰ノ頭を踏み、池ノ谷乗越を越え、北方稜線を伝っていままさに剱岳の山頂に到着する頃だった。天気が非常によく、北アルプスの鮮明な山並みも、富山県側の光景も、薄い空気をすり抜けてはっきりと見えていた。それぞれのパートナーと組み、美奈子のパーティが先行していた。女性陣をフォローする意味合いだったが、はっきり言って、篠原武士よりも美奈子のほうが早かった。限定的な状況において、美奈子は夫以上のパフォーマンスを持つ山屋だった。
美奈子のザイル・パートナーは空だった。空は解き放たれたように登っていた。ビレイヤーの美奈子の認識からずれるほど素早く動き、しかし、セカンドを常に気遣いもできていた。山頂を踏むと、空は振り返って美奈子を待った。もはやビレイも必要ないピッチだった。美奈子も間もなく上り終えた。
空は笑って美奈子と拳を突き合わせた。美奈子は空よりも嬉しそうな顔をしていた。三十八歳という年齢よりも二十は若いような顔立ちで、むしろ空よりも若くさえ見えた。娘の杏奈とは似ても似つかない美貌で、はしゃいだ様子で空を抱き締める様子は、ほとんど少女めいていた。
美奈子は両頬に手を当てて笑った。「んふ。んふふ。あはは! とっても嬉しい、また空ちゃんと一緒に登れる日がくるなんて。ああ懐かしい! ねえねえ、どうだった? あたしどうだった?」
「昔よりずっとうまくなってますよ。びっくりしました」
「でしょお!? 空ちゃんが登らなくなっても、武さんが膝ぶっ壊しても、ずーっと続けてきたもん! 登山ブームに乗っかってるだけのそこらのクライマーには負けないもんね! 武さんまだかな? 芦田ちゃんの足引っ張ってなければいいけど!」
「はは。先にテント戻ってます?」
「そうしよーかなー! あんまり遅ければねー!」
その篠原・芦田組にしても決して遅いわけではなく、かなり素早いほうだったが、そもそもまえをゆく女性陣ふたりの次元が違いすぎた。芦田は篠原をビレイしながら、雪に向かって何度も愚痴を吐き、この世のなによりも大切な身重の妻を置いてきた罪悪感に打ち震えていた。なんでおれはこんなところにいるんだ!? 二度とザイルを使った登山はしないって決めてるってのに! またこんなクソみたいなことをやっちまってる、これも全部あのクソ空野郎のせいだ! しかし、恩師の篠原に一緒にこいと言われれば、断ることができないのも芦田なのであった。おまけに、空さんを手伝ってあげてくださいねと妻に言われてしまえば、もう完全に逃げ場が塞がれてしまう状況だった。
「ビレイOK!」
篠原のコールが聞こえ、芦田は苛立ち紛れに岩を蹴飛ばした。「クラァァーイムッ!!」
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シズさん…すでに男より強いやん…