オリジナル。登山と日常と微百合。ここで一区切りします。次回更新は未定。
生きる意味を放棄した女の生きている意味は。
「あんたを見てると日本で狼が絶滅しちまった理由がなんとなくわかる気がするよ」
「なんですかそれ」
「あんたみたいな子はもう絶滅危惧種なんだろうなって話」
空は天見を見つめて微笑んだ。
「髪染めたんだ? びっくりしたよ、だいぶ大人っぽくなった感じだ。背も伸びた?」
「少し……。空さんも髪黒くなりましたね」
「ストレスが解消されたからさ。昔伸びたところまではすぐに伸びるもんなんだっけ。身長よりも長くしてた頃もあったんだけど」
午後になり、気温も緩んできたようだった。神奈川だから、もともとこの時期は暖かいくらいで、昨日がおかしかったのだ。ゴールデンウィークともなればもう夏の気配が色濃い。
空は天見の頭に手のひらを置いた。目線はもうほとんど変わらないくらいの身長差だった。天見の背が高いというよりは、空が小柄すぎた。
「ものすごく久し振りって感じがする。一ヶ月くらいになる?」
「北海道行ってたって聞きましたけど」
「ああ、うん! 槍から帰ってきてすぐにね。カムエク――カムイエウクチカウシって山に登ってた。日高山脈の。で、帰ってくるついでに、岩手の遠野に寄ってた」
「遠野物語の?」
「そうそう。親父の実家があるんだ。叔母さんとこに泊めさせてもらって、のんびりしすぎちまって。結局、北上山地もひととおりやっちまったし。初めてだったけど、いいとこだったよ」
稜線の風は強い。吹きつけるというよりは、押し潰すように渡る。ふたりは並んで、同じ方角を見ている。下界は遠く、山の緑と雪の白しか視界にない。
空は自嘲気味に言う。「そう、初めてだったんだ。親父の生家だって知ってはいたのに、この歳になるまで向き合いもしなかった。あたしの親父は実家とほとんど絶縁状態だった。どうにもその原因があたしにあったらしくてね……」
「え?」
「詳しい事情は知らんけど。あたしは母親のことを知らない。実家のひとたちも知らない。ある日突然あかんぼだったあたしを親父が連れてきて、おれの娘だ、って話になったらしい。で、大喧嘩。情けないことに、そういう事情を知ったのも、つい五年まえのことでさ」
「五年まえ――」
「うん。それを知ったのが、山をやめた直接のきっかけ。親父のことについてさえ、知ろうとしなかった自分に嫌気が差して。もちろんそれだけじゃないけどさ」
悪いことは重なるもんだ、と空は笑う。「とどめだったってことね。ちょうど自分の人間性ってやつに嫌気が差してた頃。さっき言った、初登ルートのごちゃごちゃもあった。何度も何度も正義の味方お得意の必殺パンチ喰らっちまって、立ち上がるのも厭になってた。それで“更生”して、真人間に戻ろうとあくせくしてたら」白髪に触れて――「こんなんなっちまった。あたしはあたしを失ってた」
幸福が倫理の外側にある人間はどうすればいいんだろう、と空は呟く。極論だけど、自分を殺すか世界を殺すかの二択になるよ。どっかに妥協点があればいいんだろうけど。
「なにも持たず、なにも護らず、なにも扶養せず、なにも産み出さない。なにも遺さない、誰かの利益や幸福に繋がるものはなにも。意味があるかっつったら、ないよ。それがあたしだ」けどね、と空は曇天を見上げる。「意味なんかないから生きてる。そういう自分もいる。仮にこの人生になにか意味があったとしたら、あたしがこうしてることになんの価値もなくなってしまうと思うんだ。だって、そうだろ? “意味”のために登ってるとしたら、それはもう、登るために登ってるわけじゃなくなってしまうんだから」
空は立ち上がり、稜線に身を乗り出し、眼下に広がる全世界に向けて腕を伸ばす。抱き締めるように。
「この空間が愛おしい。この瞬間が。その想いに、なんの見返りもいらない。この感情があたしを幸福にしてくれなくてもいい。あたしを打ちのめして、ずたずたにして、氷の奥底で押し潰してくれていい」
天見に振り返り、不意に、ひどく淫らな笑みを浮かべて、
「愛はいつでも捨て身なんだよ。たぶんね。あたしにとっちゃ」
単独登攀者がパートナーとするもの。
天見はなんとなく理解したような気がした。それはなにも難しい答えではなかった。愛情という単純な単語の意味に篭められたものが恐ろしく膨大な質量を持つものだったとしても。
私もこういう風になれるだろうか? 答えはやはり存在しなかった。やってみなければわからない、とは結局のところ、一度全人生を消費しなければ証明できない問いかけだった。一度きりの問題。おまけに、答え合わせをしてくれる教師はどこにもいないときている。
これが私にとっての“授業”であり、“テスト”なんだろう。全思考回路を以ってしてでも通用しない問題を、全人生で以って立ち向かう。つまりは、そういうことなんだろう。それが正しいか間違っているかなどは関係なく。
「昨日、天気悪かったろ。大丈夫だった?」
「楽しかったです」
「アハハ! だと思った。良かったよ、平気そうで」
空はザックを背負う。
「じゃあな、天見。久し振りに話せて嬉しかったよ。山中湖まで抜けるんだろ? 気をつけてな」
「空さん、私を連れ戻しにきたんじゃないんですか」
「あたしに山屋の山を咎める権利はないよ。もちろん、あんたが無謀なだけの考えなしだったら、引き摺ってでも下ろしてただろうけどね。あんたはあたしなんかよりもずっと頭の良い子だ」
「登校拒否やってるただの不良です」
「バスケ部に入ったんだろ?」
天見はふっと表情を緩めた。「学校には行きます。不登校をやるために。そうやって、批難とか批判とか、思う存分浴びたほうが、生きた勉強になると思うから」
「全部吸収しようってわけだ。貪欲な子だね。ゴールデンウィークはどこ行こうとか考えてる?」
「篠原さんと」
「杏奈と? そっか。……あたしも、どこかやってみようかな。篠原や芦田も、誘えるだけ誘ってみて……」
天見は檜洞丸へ、空は蛭ヶ岳へ抜ける。空は天見に右手を差し出す。
天見は空の手を見る。まるで対等の関係にあるかのようにそうされたことに不思議な感慨を覚える。このひとは私よりもずっと大人なのに、他の大人のように、私を子ども扱いして侮るということをしない。当然のように、私をひとりの人間として扱う。
空の手を握る。そうしてぺこりと頭を下げる。空は天見の手を握っていないほうの手で、胸のまえで奇妙な印を組んでみせた。
「あんたに雪と氷の導きがあらんことを」
「なんですかそれ」
「昔どっかで教えてもらったんだよ。シェルパか、ジプシーか、忘れちまったけど、ちっちゃな女の子に。正当な歴史のある伝統ってやつ」
「……。空さんにも」
「ありがと」
そうして別れる。それぞれの道をゆく。それがあたりまえのことであるかのように。
逢えて嬉しかった。素直に……そう思った。
天見は山行を続けた。当初の予定通り、檜洞丸から大室山に向かい、加入堂山を経て、畦ヶ丸の批難小屋で夜を明かした。もう、吹雪はなかった。気温もぐっと安定し、夜はひどく穏やかだった。
朝に菰釣山をピストンして、畦ヶ丸に後戻りし、丹沢湖に下った。湖畔をぐるりと一回りして、ゆっくりと呼吸を深める。肺を休め、登山靴を脱いで昼寝をし、大野山の開けた山頂から、さらに西の、不老山へ。静岡県側だ。そして三国山を目指す。
そこまでくると、さすがに脚が痛くなってきた。ふくらはぎも、太腿も、ぱんぱんだ。さらにペースを落として、一歩ずつ、痛みと付き合うようにして歩く。登って、下る。
名も知らぬ鳥の鳴き声に励まされ、緩んだ思考はもうなにも考えない。小難しいことは抜け落ち、生も死ももはやなく、ただ眼前にあるものだけを映して穏やかに流れる。放浪者の幸福。微笑さえ、浮かべていた。正しいことをしているという実感などなくても、間違った行いに足を踏み入れているという感覚があっても、心の根から静謐を享受できる穏やかさがあった。痛みがあれど急坂も苦痛ではない。
山中湖が見えてくると、興奮した。いつも遠目にしか見たことのない富士山が次第に大きくなってきた。整いすぎるほど整った、完璧なかたちの山だ。
三国山を越えて、明神山に至ると、寂しさが湧き出てきた。この素晴らしい時間ももう終わってしまう。永遠さえ、過ぎてしまえば一瞬の光芒だった。
東へ振り返り、辿ってきた道程を顧みる。
(――。――……)
もう感慨をことばにもできない。
富士山が近かった。山肌のひとつひとつの皺さえはっきりと判別できるほど。これほど美しい山が、日本の最高峰であることに、いまさらながら不思議に思う。周りは日本アルプスのような三千メートル級の山脈ではないのに、そこだけ不意に四千に迫るほど突き上がっている、弧峰。自然の為せる不自然な業。
丹沢山塊を抜けて、息をついた。もうずっと曇天で涼しい。それでも西の空は雲が晴れて、夕暮れに赤らんでいる。湖畔の公園、ベンチに座って、眼を閉じた。下山したんだな、と思う。
心のなかで言う。――またきます。ありがとうございました。
「姫川さん?」
不意に呼びかけられ、天見は驚いて振り返った。「――水無先輩」
葛葉は天見を認めるとほっとしたように微笑んだ。近づいて言う。「隣、いいかな」
「……私いま臭いですよ。もう何日もシャワー浴びてない」
「平気。万年花粉症で匂いわかんなくなってるから」
葛葉は天見の隣に座り、ハンドバッグを太腿の上に置く。
「今日あたり下山かなって思ってきてみたんだけど、擦れ違いにならなくてよかった。学校終わってすぐこっちきたんだ」
「部活は?」
「私助っ人だし。氷月が行ってこいってさ」
天見はさりげなく動いて葛葉との距離を離す。「心配かけましたか」
「どうだろう。私たちには想像もつかないことだからさ」
正直なところ悪い気がしないでもなかった。彼女たちに関しては。
しかし、あらかじめ告げていたことではある。天見は頷いて言う。「怪我はないです。試合には出れる」
「それは氷月に言ってやって。でも、よかったよ。一昨日さ、こっち土砂降りだったんだけど、山の上はどうだった?」
「吹雪でした」
「そう……。大丈夫だった? って、見ればわかるか」
「楽しかったです」
「ええー。そういうもん?」
「そういうもんです」
葛葉はまったく理解しがたいという顔をする。
葛葉は立ち上がって伸びをした。背筋を伸ばすと、女らしい体格の、見事なプロポーションが明らかになるようで、天見は単純に感嘆の息をついた。久し振りにそういう肉体を目の当たりにしたような感覚があった。
「無事でよかった」葛葉はそっと言った。「氷月に連絡するね。姫川さんと会えたよって。根岸さんと鵠沼さん、たぶん一緒に練習してるだろうから」
「はい」
葛葉は携帯を耳に押しつけた。「登校拒否した甲斐はあった?」
「そこそこ収穫ありましたよ」
「いい経験だったみたいだね。顔がそう言ってる」
「……」
天見は口許に手のひらを押し当てた。自分がどういう表情をしているのか、自分ではわからなかった。
電話越しに氷月と話す葛葉の声を聞きながら、天見は眼を閉じた。
いい経験……だったんだろう。他人に言われてもなんの感慨も湧かないが自覚するとじんわりと充実感が滲み出してくる。
いまにも横たわってしまいそうなほど疲れていた。けれどそれ以上に、この山行で考え抜いたあらゆる思考が反芻されて、頭のなかを熱くした。心をシフトする、という当初の目的が果たせたかどうかはわからない。自分で、いまと昔の自分を比べることはできない。客観的な目線で自分を見つめるのは至難の業だ。
鼓膜の裏側にまだ稜線の風が渦巻いている。吹雪の、ごうごうと鳴り響く遠い歌。ホワイト・アウトした視界のなかで辿ったトレースの感触。それらは槍ヶ岳では味わえなかったことだ。悪天の贈るプレゼントだった。
孤独の裡になければ見えないものがある。それを、味わい尽くせたかどうかはわからない。まだ深淵があるのかもしれない。いや、あるのだろう。空の眼に見たものをまだ、私は得尽くしていない。
この遊びはまだ終わらない。きっと、そうなんだろう。一生かけても遊び尽くせないものなんだろう。山は……世界中にあるのだから。
「姫川さん」
携帯を差し出され、天見はおずおずと受け取った。耳に当てた瞬間、懐かしい声が鼓膜を抜けた。
『やっほぅ! おひさー! 姫ちゃんそこいるーっ!?』
天見は思わず通話を切っていた。
葛葉に呆れられながら再び通話が繋がると、氷月の気だるそうな声だった。『姫川? ああ、すまん。鵠沼がよこせよこせってうるさいから。で、なんだ。元気か?』
「はい」
『うん、よし。お疲れさん。明日、朝から練習やるから、余裕あったらきてくれよ。休んでも文句は言わないけどさ。練習試合近いし、一分でも時間惜しいしな』
「行けます」
『おう』氷月の声は嬉しそうだった。『頼むぜ』
携帯を返すと、興味津々といった葛葉の眼に見つめられた。丹沢のほうに視線を移して、富士山を見やり、また天見を見つめる。天見は唇を結んで見返した。
「登山って面白そうだね」
「……。まあ。なんでそう思います?」
「だって」葛葉はくすくすと笑った。「いつも怖いくらいにぶすっとしてる姫川さんが、すごく穏やかな顔してるもの。姫川さんがそうなっちゃうくらいの魅力はあるスポーツだってことだよね」
天見はなんとなく気恥ずかしくなり、手の甲で顔を隠すようにして、そっぽを向いた。自分の表情なんかやっぱり自分じゃわからないのだ。
夕暮れが静かに夜へと移り変わり、世界が静寂のなかに沈む。街の灯がオレンジ色に照らす道を、ふたりはバス停目指して歩いていく。下山のときだった。旅人は帰路につき、次の旅に向けて時間を埋める。四月の下旬。もう夏の匂いが、色濃い夜だった。
生きる意味を放棄した女の生きている意味は。
「あんたを見てると日本で狼が絶滅しちまった理由がなんとなくわかる気がするよ」
「なんですかそれ」
「あんたみたいな子はもう絶滅危惧種なんだろうなって話」
空は天見を見つめて微笑んだ。
「髪染めたんだ? びっくりしたよ、だいぶ大人っぽくなった感じだ。背も伸びた?」
「少し……。空さんも髪黒くなりましたね」
「ストレスが解消されたからさ。昔伸びたところまではすぐに伸びるもんなんだっけ。身長よりも長くしてた頃もあったんだけど」
午後になり、気温も緩んできたようだった。神奈川だから、もともとこの時期は暖かいくらいで、昨日がおかしかったのだ。ゴールデンウィークともなればもう夏の気配が色濃い。
空は天見の頭に手のひらを置いた。目線はもうほとんど変わらないくらいの身長差だった。天見の背が高いというよりは、空が小柄すぎた。
「ものすごく久し振りって感じがする。一ヶ月くらいになる?」
「北海道行ってたって聞きましたけど」
「ああ、うん! 槍から帰ってきてすぐにね。カムエク――カムイエウクチカウシって山に登ってた。日高山脈の。で、帰ってくるついでに、岩手の遠野に寄ってた」
「遠野物語の?」
「そうそう。親父の実家があるんだ。叔母さんとこに泊めさせてもらって、のんびりしすぎちまって。結局、北上山地もひととおりやっちまったし。初めてだったけど、いいとこだったよ」
稜線の風は強い。吹きつけるというよりは、押し潰すように渡る。ふたりは並んで、同じ方角を見ている。下界は遠く、山の緑と雪の白しか視界にない。
空は自嘲気味に言う。「そう、初めてだったんだ。親父の生家だって知ってはいたのに、この歳になるまで向き合いもしなかった。あたしの親父は実家とほとんど絶縁状態だった。どうにもその原因があたしにあったらしくてね……」
「え?」
「詳しい事情は知らんけど。あたしは母親のことを知らない。実家のひとたちも知らない。ある日突然あかんぼだったあたしを親父が連れてきて、おれの娘だ、って話になったらしい。で、大喧嘩。情けないことに、そういう事情を知ったのも、つい五年まえのことでさ」
「五年まえ――」
「うん。それを知ったのが、山をやめた直接のきっかけ。親父のことについてさえ、知ろうとしなかった自分に嫌気が差して。もちろんそれだけじゃないけどさ」
悪いことは重なるもんだ、と空は笑う。「とどめだったってことね。ちょうど自分の人間性ってやつに嫌気が差してた頃。さっき言った、初登ルートのごちゃごちゃもあった。何度も何度も正義の味方お得意の必殺パンチ喰らっちまって、立ち上がるのも厭になってた。それで“更生”して、真人間に戻ろうとあくせくしてたら」白髪に触れて――「こんなんなっちまった。あたしはあたしを失ってた」
幸福が倫理の外側にある人間はどうすればいいんだろう、と空は呟く。極論だけど、自分を殺すか世界を殺すかの二択になるよ。どっかに妥協点があればいいんだろうけど。
「なにも持たず、なにも護らず、なにも扶養せず、なにも産み出さない。なにも遺さない、誰かの利益や幸福に繋がるものはなにも。意味があるかっつったら、ないよ。それがあたしだ」けどね、と空は曇天を見上げる。「意味なんかないから生きてる。そういう自分もいる。仮にこの人生になにか意味があったとしたら、あたしがこうしてることになんの価値もなくなってしまうと思うんだ。だって、そうだろ? “意味”のために登ってるとしたら、それはもう、登るために登ってるわけじゃなくなってしまうんだから」
空は立ち上がり、稜線に身を乗り出し、眼下に広がる全世界に向けて腕を伸ばす。抱き締めるように。
「この空間が愛おしい。この瞬間が。その想いに、なんの見返りもいらない。この感情があたしを幸福にしてくれなくてもいい。あたしを打ちのめして、ずたずたにして、氷の奥底で押し潰してくれていい」
天見に振り返り、不意に、ひどく淫らな笑みを浮かべて、
「愛はいつでも捨て身なんだよ。たぶんね。あたしにとっちゃ」
単独登攀者がパートナーとするもの。
天見はなんとなく理解したような気がした。それはなにも難しい答えではなかった。愛情という単純な単語の意味に篭められたものが恐ろしく膨大な質量を持つものだったとしても。
私もこういう風になれるだろうか? 答えはやはり存在しなかった。やってみなければわからない、とは結局のところ、一度全人生を消費しなければ証明できない問いかけだった。一度きりの問題。おまけに、答え合わせをしてくれる教師はどこにもいないときている。
これが私にとっての“授業”であり、“テスト”なんだろう。全思考回路を以ってしてでも通用しない問題を、全人生で以って立ち向かう。つまりは、そういうことなんだろう。それが正しいか間違っているかなどは関係なく。
「昨日、天気悪かったろ。大丈夫だった?」
「楽しかったです」
「アハハ! だと思った。良かったよ、平気そうで」
空はザックを背負う。
「じゃあな、天見。久し振りに話せて嬉しかったよ。山中湖まで抜けるんだろ? 気をつけてな」
「空さん、私を連れ戻しにきたんじゃないんですか」
「あたしに山屋の山を咎める権利はないよ。もちろん、あんたが無謀なだけの考えなしだったら、引き摺ってでも下ろしてただろうけどね。あんたはあたしなんかよりもずっと頭の良い子だ」
「登校拒否やってるただの不良です」
「バスケ部に入ったんだろ?」
天見はふっと表情を緩めた。「学校には行きます。不登校をやるために。そうやって、批難とか批判とか、思う存分浴びたほうが、生きた勉強になると思うから」
「全部吸収しようってわけだ。貪欲な子だね。ゴールデンウィークはどこ行こうとか考えてる?」
「篠原さんと」
「杏奈と? そっか。……あたしも、どこかやってみようかな。篠原や芦田も、誘えるだけ誘ってみて……」
天見は檜洞丸へ、空は蛭ヶ岳へ抜ける。空は天見に右手を差し出す。
天見は空の手を見る。まるで対等の関係にあるかのようにそうされたことに不思議な感慨を覚える。このひとは私よりもずっと大人なのに、他の大人のように、私を子ども扱いして侮るということをしない。当然のように、私をひとりの人間として扱う。
空の手を握る。そうしてぺこりと頭を下げる。空は天見の手を握っていないほうの手で、胸のまえで奇妙な印を組んでみせた。
「あんたに雪と氷の導きがあらんことを」
「なんですかそれ」
「昔どっかで教えてもらったんだよ。シェルパか、ジプシーか、忘れちまったけど、ちっちゃな女の子に。正当な歴史のある伝統ってやつ」
「……。空さんにも」
「ありがと」
そうして別れる。それぞれの道をゆく。それがあたりまえのことであるかのように。
逢えて嬉しかった。素直に……そう思った。
天見は山行を続けた。当初の予定通り、檜洞丸から大室山に向かい、加入堂山を経て、畦ヶ丸の批難小屋で夜を明かした。もう、吹雪はなかった。気温もぐっと安定し、夜はひどく穏やかだった。
朝に菰釣山をピストンして、畦ヶ丸に後戻りし、丹沢湖に下った。湖畔をぐるりと一回りして、ゆっくりと呼吸を深める。肺を休め、登山靴を脱いで昼寝をし、大野山の開けた山頂から、さらに西の、不老山へ。静岡県側だ。そして三国山を目指す。
そこまでくると、さすがに脚が痛くなってきた。ふくらはぎも、太腿も、ぱんぱんだ。さらにペースを落として、一歩ずつ、痛みと付き合うようにして歩く。登って、下る。
名も知らぬ鳥の鳴き声に励まされ、緩んだ思考はもうなにも考えない。小難しいことは抜け落ち、生も死ももはやなく、ただ眼前にあるものだけを映して穏やかに流れる。放浪者の幸福。微笑さえ、浮かべていた。正しいことをしているという実感などなくても、間違った行いに足を踏み入れているという感覚があっても、心の根から静謐を享受できる穏やかさがあった。痛みがあれど急坂も苦痛ではない。
山中湖が見えてくると、興奮した。いつも遠目にしか見たことのない富士山が次第に大きくなってきた。整いすぎるほど整った、完璧なかたちの山だ。
三国山を越えて、明神山に至ると、寂しさが湧き出てきた。この素晴らしい時間ももう終わってしまう。永遠さえ、過ぎてしまえば一瞬の光芒だった。
東へ振り返り、辿ってきた道程を顧みる。
(――。――……)
もう感慨をことばにもできない。
富士山が近かった。山肌のひとつひとつの皺さえはっきりと判別できるほど。これほど美しい山が、日本の最高峰であることに、いまさらながら不思議に思う。周りは日本アルプスのような三千メートル級の山脈ではないのに、そこだけ不意に四千に迫るほど突き上がっている、弧峰。自然の為せる不自然な業。
丹沢山塊を抜けて、息をついた。もうずっと曇天で涼しい。それでも西の空は雲が晴れて、夕暮れに赤らんでいる。湖畔の公園、ベンチに座って、眼を閉じた。下山したんだな、と思う。
心のなかで言う。――またきます。ありがとうございました。
「姫川さん?」
不意に呼びかけられ、天見は驚いて振り返った。「――水無先輩」
葛葉は天見を認めるとほっとしたように微笑んだ。近づいて言う。「隣、いいかな」
「……私いま臭いですよ。もう何日もシャワー浴びてない」
「平気。万年花粉症で匂いわかんなくなってるから」
葛葉は天見の隣に座り、ハンドバッグを太腿の上に置く。
「今日あたり下山かなって思ってきてみたんだけど、擦れ違いにならなくてよかった。学校終わってすぐこっちきたんだ」
「部活は?」
「私助っ人だし。氷月が行ってこいってさ」
天見はさりげなく動いて葛葉との距離を離す。「心配かけましたか」
「どうだろう。私たちには想像もつかないことだからさ」
正直なところ悪い気がしないでもなかった。彼女たちに関しては。
しかし、あらかじめ告げていたことではある。天見は頷いて言う。「怪我はないです。試合には出れる」
「それは氷月に言ってやって。でも、よかったよ。一昨日さ、こっち土砂降りだったんだけど、山の上はどうだった?」
「吹雪でした」
「そう……。大丈夫だった? って、見ればわかるか」
「楽しかったです」
「ええー。そういうもん?」
「そういうもんです」
葛葉はまったく理解しがたいという顔をする。
葛葉は立ち上がって伸びをした。背筋を伸ばすと、女らしい体格の、見事なプロポーションが明らかになるようで、天見は単純に感嘆の息をついた。久し振りにそういう肉体を目の当たりにしたような感覚があった。
「無事でよかった」葛葉はそっと言った。「氷月に連絡するね。姫川さんと会えたよって。根岸さんと鵠沼さん、たぶん一緒に練習してるだろうから」
「はい」
葛葉は携帯を耳に押しつけた。「登校拒否した甲斐はあった?」
「そこそこ収穫ありましたよ」
「いい経験だったみたいだね。顔がそう言ってる」
「……」
天見は口許に手のひらを押し当てた。自分がどういう表情をしているのか、自分ではわからなかった。
電話越しに氷月と話す葛葉の声を聞きながら、天見は眼を閉じた。
いい経験……だったんだろう。他人に言われてもなんの感慨も湧かないが自覚するとじんわりと充実感が滲み出してくる。
いまにも横たわってしまいそうなほど疲れていた。けれどそれ以上に、この山行で考え抜いたあらゆる思考が反芻されて、頭のなかを熱くした。心をシフトする、という当初の目的が果たせたかどうかはわからない。自分で、いまと昔の自分を比べることはできない。客観的な目線で自分を見つめるのは至難の業だ。
鼓膜の裏側にまだ稜線の風が渦巻いている。吹雪の、ごうごうと鳴り響く遠い歌。ホワイト・アウトした視界のなかで辿ったトレースの感触。それらは槍ヶ岳では味わえなかったことだ。悪天の贈るプレゼントだった。
孤独の裡になければ見えないものがある。それを、味わい尽くせたかどうかはわからない。まだ深淵があるのかもしれない。いや、あるのだろう。空の眼に見たものをまだ、私は得尽くしていない。
この遊びはまだ終わらない。きっと、そうなんだろう。一生かけても遊び尽くせないものなんだろう。山は……世界中にあるのだから。
「姫川さん」
携帯を差し出され、天見はおずおずと受け取った。耳に当てた瞬間、懐かしい声が鼓膜を抜けた。
『やっほぅ! おひさー! 姫ちゃんそこいるーっ!?』
天見は思わず通話を切っていた。
葛葉に呆れられながら再び通話が繋がると、氷月の気だるそうな声だった。『姫川? ああ、すまん。鵠沼がよこせよこせってうるさいから。で、なんだ。元気か?』
「はい」
『うん、よし。お疲れさん。明日、朝から練習やるから、余裕あったらきてくれよ。休んでも文句は言わないけどさ。練習試合近いし、一分でも時間惜しいしな』
「行けます」
『おう』氷月の声は嬉しそうだった。『頼むぜ』
携帯を返すと、興味津々といった葛葉の眼に見つめられた。丹沢のほうに視線を移して、富士山を見やり、また天見を見つめる。天見は唇を結んで見返した。
「登山って面白そうだね」
「……。まあ。なんでそう思います?」
「だって」葛葉はくすくすと笑った。「いつも怖いくらいにぶすっとしてる姫川さんが、すごく穏やかな顔してるもの。姫川さんがそうなっちゃうくらいの魅力はあるスポーツだってことだよね」
天見はなんとなく気恥ずかしくなり、手の甲で顔を隠すようにして、そっぽを向いた。自分の表情なんかやっぱり自分じゃわからないのだ。
夕暮れが静かに夜へと移り変わり、世界が静寂のなかに沈む。街の灯がオレンジ色に照らす道を、ふたりはバス停目指して歩いていく。下山のときだった。旅人は帰路につき、次の旅に向けて時間を埋める。四月の下旬。もう夏の匂いが、色濃い夜だった。
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いつまでも待っていますのできっと更新してください。
偉そうな言葉になりますが、お疲れ様でした。