オリジナル・登山・微百合・日常・ぐだぐだss。
夏はやっぱり北アルプスかなと高速バス予約しようと思ったらすでにどこも満席だったでござるの巻。
免許なし勢は悲劇なのか……そもそもマイカー買う金も(ry
冬は特にバスさえ動いてないのが多いからなー。タクシーは単独だと割り勘もできず。ぐぎぎ。
入山までが遠いぜ。
陽が暮れてかけていた。幕のような陽光が、埋もれるような肉厚の西の空を、うつくしく刻んでいた。ブナや楓の樹林に白い霞が漂っている。
杏奈はたったいま下りてきた山道を振り返って、「会えませんでしたね」
「擦れ違っちまったかな。寄り道したか、花摘みでもしてたか。登り返してもいいけど、あたし今夜から夜勤なんだよね。あんたも明日は学校だ」
「あたしは別に大丈夫ですけど」
「勉強しなきゃ、だろ? 受験生」
「集中できない日々が続いとります……」
なだらかな道で、事故を起こしたとは考え辛かった。天見は弱くはない。体力的に問題があるとは思えないし、だとしたら、空の言ったとおりなのだろう。
時折吹く風の匂いに、終わる冬の残り香を嗅ぐ。残雪が水に融ける空気だ。今日に限れば天候の急変はないだろうが、天見の山行はまだ続く。全夜ビヴァークで、心配する心もあった。
――話してくれればよかったのに、と杏奈は思った。こうした山行を計画していることを、黙っていたということに、少し淋しさを感じる。まだ完全には信用されてないんだろう。打ち明ければ、止められると思われたのかもしれないし、その必要もないと判断されたのかもしれない。不貞腐れて、鼻から息を吐く。
「まあ」空が言う。「明後日はあたし夜勤だけだから、そのときにまた探してみるよ。余計なお世話かもしれんけどね……」
「文句つけといてください。なんで話してくんなかったんだよー、って」
「覚えてたらな」
「姫ちゃん、わざとあたしたちに心配かけようとしてるんですかね。や、そんなことするような子じゃないか」
「どうだかね。知り合ってから日が浅すぎてなんとも言えない。天見についてなんでもわかってるなんて、あたしもあんたも言えるもんじゃないだろ? 母親の陽子さんだって持て余してるんだから」
「まあ……」
空は微笑んだ。「でも、きちんと知ってることもあるだろ? 天見は充分強い子だ」
下山口では、先回りしていた芦田が待っていた。カローラの窓を全開にして煙草を吹かしていた。宮ヶ瀬湖の南東、土山峠で、舗装された道路だが、景観は深山といった風なところだった。姫川宅を出立して、連絡をかけたところ、彼はすぐに駆けつけてきたのだった。
「会えたかよ?」
「うんにゃ」
「まあそんなこったろうと思った。邪魔せずにすんでよかったな」
しかし、芦田の声音にもどこか心配するような調子はあった。
親に黙って山に行くなどということは、三人とも少なからずやってきたことだった。幼少時から単独で入山することも珍しくはなかった。とはいえ、天見は彼女らと違い、律儀にも計画書を提出している。手放しに咎められるものでもなかった。
“こちら側”に立つのは初めてだ、と感じている。後ろめたさに、居心地が悪い。エンジンが唸りを上げ、県道を厚木に向けて下る。――収穫のなかった山行ほど疲労する事柄もない。三人の口数は少なかった。
「あんたがきてくれて助かったよ。厚木まで行って、バス待つのだるいしね」
「知らねえ相手じゃないからな。姫川さんな。てめえだけだったらガン無視してた」
「はいはい」
芦田はブレーキを踏みながら鼻を鳴らす。「反抗的なガキだ。でも、それくらいが健全かもしれねえ。ただ従順なだけの首輪付きよりも……」
「そうかい?」
「少なくとも、ひとりで生きてこうとする気概があるだろうが。小難しい理屈並べ立てて親元でおんぶ抱っこに暮らしてこうとするお嬢サマよかずっといい。ちょっとばかり頭弱くて、チョロくて都合のいい女の子のほうが、好まれるような世の中だけどな」
「まあ股ぐら頼みの愛玩女にはなれないだろうね」
「櫛灘と同じでな。てめえは山にばっかり淫らな顔見せて、人間の男なんか相手にもしねえ」
「そう?……天見も槍のてっぺんでやっと笑ってくれたな。たしかにそういうもんかもね」
会話になった会話は、それくらいのものだった。
駅で別れ際、空は杏奈に言った。「あんたはあんたのことをやりな。あんまり天見のことは気にせずさ。悩み事、たっぷりと溜まっちまってるだろ?」
杏奈は唇をへの字に曲げた。「……一応、年頃の乙女なんで」
「十代なんか十年間しかないんだ。せいぜい大切にしなよ」
空はそう言って片眼を瞑ってみせる。そういう仕草が妙に様になっているのは、様にさせようとしていないせいなんだろうと、杏奈はぼんやりと思う。ありのままの女。
天見はのんびりと歩いた。先は短くない。進むというよりは、進むことを抑えて、できる限り体力を温存できるように、普段以上に遅く歩みを進めた。はやく終わっては、来た甲斐がない。必要なのはやり遂げることではなく、自分の心を、山のなかに留めておくことだった。
それが目的だった。自分の位置を確定しておくこと。下界から山に行くのではなく、下界から山に戻る、そうした精神状態に自分を持っていくことが理想だった。そのための山行であり、極論を言えば、頂に至らなくてもよかった。心をシフトチェンジしておきたかったのだ。
高取山、仏果山、経ヶ岳と踏んで、片室山までやってきた。宮ヶ瀬湖を背負いながら、さらに進んで、いまいち道のわかりにくい物見峠を越える。三峰山までくると、階段や鎖場が多くて少し気が滅入る。そこで今日の行動をやめにした。
丹沢は基本幕営禁止の山だ。沢沿いなどにはキャンプ場が豊富にありもするが、山中には、山小屋であってもテント場はほとんどない。天見もそれは承知だった。ツェルトで、全夜をビヴァークで通すつもりだった。できる限り痕跡は残さない。あたりまえのことだが、出したゴミはすべて持ち帰る。登山道を少し離れて、見咎められる可能性の薄いと思われる、木陰の下にザックを下ろした。肩を回してじっくりとストレッチをする。
(いちばん怖いのは熊だ。一応、熊除けの鈴は持ってきたけど、こんなのが役に立つかどうか。もう少し対処法を調べてくればよかったな)
さすがに真冬ではないから、陽が沈むまでに時間がある。
コッフェルで無洗米を炊いて、レトルトの牛丼をぶっかけて食べる。砂糖をたっぷりとぶちこんだコーヒーを啜ると、一日の疲労がすっと抜け出ていくような心地がした。
かなり冷え込む。防寒着を着込んでシュラフに包まり、ぼんやりと仰向けに横たわって枝葉越しの夕空を見上げる。世界の色が徐々に移り変わっていくのを見つめている。
静かだ。微風が揺らす枝葉の擦れる音以外に、耳になにも届いてこない。自分の呼吸さえ遠い。瞑想めいた時間。
(……ひとりでいることには慣れてるつもりだった。小学校じゃ鵠沼さん以外最後にはほとんど話さなかったし、家でもほとんど会話はない。でも、これはなんだか違うな。もっと深いところで――)
より無防備な位置でひとりになっているという心地がする。
護るもののない、より剥き出しで、より純粋なかたちの場所にいる。ここではなにが起きてもなにひとつ文句も言えず、下手な抵抗も許されない。いまのいままでが瓶詰めにされていたようだ。透明な防壁がいつも周りに張り巡らされていた。
心細い一方で悦んでさえいる。不安を越えたところにある昂揚。
夜が訪れる。
風の音が遠い。より深く沈んでいくような心地に、腹の底から震えが走るような感覚。夢と現の境をさまよう。身を切るような剥き出しの寒さに眠りきることもできず、ツェルトとシュラフを頭の上までかぶって眼を閉じる。
夜は長い。死ぬほど長い。
様々なことを思う。そのほとんどは、自ら振るった暴力を境に心がシフトしたあの日からの感情だ。なにかが決定的に変わった瞬間から、空と出会い、山を知ったあの日のことまで。上高地から岳沢に至り、そこから空が真冬の穂高を登ってくるのを待っていた、テントキーパーの日。あのときは登らなかった。そしてこの丹沢の、塔ノ岳を大倉尾根から登り、山頂までの短い時間のあいだ、心が吹き荒ぶように暴走した鮮烈な体験。広沢寺での初めてのクライミング。杏奈と出会い、空と三人で登った初めての本格的な山、槍ヶ岳。中学に入学してから。バスケ部。葛葉の言っていたこと。逃げることから逃げてた。努力を遮断することに努力してなかった。やめることをやめていた。正義の奴隷がこぞって咎めたがる価値観のきわ。
(もう随分、空さんと話してないな)
不意にそんなことも思う。
彼女はいまの私にどんなことを言うだろう。
咎めるだろうか? 単独で入山したことに対して。一応、計画書は置いてきたのだが、母親はどうも眼を通していないような気もする。一方で、空は私のやることに文句をつけないような気もする。
不毛だと思う。空がいないところで空について考えることが。
夜空が暗い。雲が出てきているのだろうか?
天候は持つだろうか? 天気予報はあまり良くなかった。天気図の見方は、まだよくわかっていない。
吹雪くかもしれない? まさか。四月の神奈川で?
いや、丹沢山塊は低くとも山だ。しかし……
もし……
もし吹雪いてきたらどうする? エスケープ・ルートから速攻で下山する?
逃げることから逃げるのは山では致命的な失敗になりうる。
槍でも、悪天は経験していない。
どんなものなのだろう? 立ち上がり、進むことすらままならなくなるほど、激烈なものなのだろうか? 程度によるだろうが、判断は如何に下す? ここには私しかいない。私の道を決めるのが私以外に誰もいない。
私は――
大山からヤビツ峠を経て二ノ塔、三ノ塔、新大日から塔ノ岳を目指す。
低山にしては急坂や鎖場などがあり、稜線上であることから、景観も良ければ風も強い。丹沢表尾根コース。まだ冬の香りが色濃く漂い、植物は淋しい。
雪が絶妙な具合に残っている。ところどころで黒く汚れた雪を踏んで歩く。軽アイゼンを使うほどではないが、それが余計に判断を曇らせる。ずぶずぶで、キックステップもまともに効かない。
「良くないな……」
ぼやく。
曇り空が灰色というよりは銀色に近い。透ける陽光が雲全体を細かく刻み、羽根のようなルクスを地上へ投げかけてきている。しかし、風が冷たい。いまにも凍りつきそうなほどの冷気で、かすかに水滴が舞っている。
雨というほどの雨ではない。霧が小さく固まっているかのようだ。
雪になるかもしれない――と、はっとするような思いが頭を抜ける。危機感というよりはかすかな期待めいたものがある。ここで体験できるものならしておいたほうがいいんじゃないか? 三千メートル級の山で初めてを味わうより――
この天気のうえに平日であるせいか、人影はない。そして、寒い。冬に逆戻りしたかのようだ。静寂と銀色の空と併せて、一抹の寂しさようなものを感じる。あくまで“ような”であり、寂しさそのものではない。心がきぃんと遠退くような、不思議な感覚だ。
正しいことをしている……という実感はない。その逆の想いならある。
やりたいことをやっている。それだけなのだが、そうではないような想いもある。
(塔ノ岳から北へ……丹沢山、丹沢主脈……深いところはまだ、こっちから見る限り雪が残ってる。まだこのあたりからは、下界が見えるけれど、見えないところまで入るとどうなってるだろう? ピッケルを持ってきたほうが良かった? 行ってみるまでわからないか……)
自らのたしかな意志で不登校をし、ここへきている。
ふと自由について考える。
誰かが言っていた、自由が許されるのは誰かの迷惑にならない限りだと。その境界を越えると自由は我儘になる。罪悪に。
そうしたガイドラインに従えば、いまの私はどの角度から見てもアウトだ。不登校という確信犯の反社会的行為。申し開きも言い訳もない。罪人特有の孤独感があるにはある。自然に息が細くなるような、からだの内側がひゅっと縮むような、逃れ得ぬ揺らぎ。
自由……フリークライミング、自由登攀についても考える。
それはなにをしても許されるクライミングの形態ではない。ザイルによる確保のみをルールとし、自らの四肢だけを頼りに登る。アブミの使用や、埋め込みボルトの連打、プロテクションを掴むことなどはできない。そうなるとそれは人工登攀という名に変わる。
人工登攀によって開拓されたルートをフリー化することはひとつの指標になる。パーフェクト・オール・フリー。それはより束縛されたルールのなか、限界まで研ぎ澄まされた肉体と、最高に洗練されたムーヴの模索によってのみ為される。最適解だけが許可され、他は淘汰される。“なにをしてもいい自由”とは対極にある価値観。
自らのみを由とする。つまりは、そういうことだ。『他』はない。
ザイル・パートナーと繋がれてはいても、究極的には孤独の裡にある。逆に孤独の裡にあるからこそ、ザイル・パーティが他のなによりも尊重される。チームワークは敬われるべき光芒の価値観ではなく、最適化されたロジックにおける唯一の手段、先へ進むための数少ない道程の道具だ。
では、ソロ・クライミングにおいては?
何事も単独では存在できない。正義も。悪も。
ソロ・クライマーは――もう少し条件を押し下げて――単独登山者なにを以って世界に存在する? いまの私は?
(風が強い。塔ノ岳までの表尾根は、道が細くなって、鎖や梯子がかけられているところが多い。気を引き締めていかないと。ここには私しかいないんだから、全部の責任は私にある。こんなところで浮石を踏むとは思えないけど、足を踏み外すわけにはいかない。あたりまえだ。神奈川県って立地で、標高が低いからって、油断したらだめだ。
もし下手なかたちで墜ちたりしたら――)
死ぬ。
ソロイストがパートナーとするのは死そのものだろうか。
ザイルの先に絶対平等の死を繋いで生存する。よりシビアなかたちで山と向き合う。パーティというささやかな防壁さえ拒絶して、それは、誰かと一緒に登るのとは次元の違う行いになる。高いとか低いとかではなく、心理的技術的な面において、三人が二人になるのと、二人が独りになるとでは、なにかが決定的に違う。
いまならわかる。気がする。その片鱗のほんの一部を味わっている。
櫛灘空の本業は厳冬期のヴァリエーション・ルートで、ソロ志向のクライマーだという。それが示すところの意味。
塔ノ岳を越える。
尊仏山荘の裏に回り、丹沢山方面に足を踏み入れる。下界が山の向こうに消える。
そのとき、ひときわ強い風とともに、頬に恐ろしく冷たいものが触れた。
天見は輝く曇天を見上げる。「――きた」
雪だった。
それはみるみるうちに勢力を増していく。考える空隙もなく、あっという間に、まるで嘘のような真冬同然の降雪が真横から吹きつける天候に移り変わる。
ホワイト・アウトする。
すべてが白くなり、なにも見えなくなる。天見の小さな姿は吹雪のなかに掻き消える。
夏はやっぱり北アルプスかなと高速バス予約しようと思ったらすでにどこも満席だったでござるの巻。
免許なし勢は悲劇なのか……そもそもマイカー買う金も(ry
冬は特にバスさえ動いてないのが多いからなー。タクシーは単独だと割り勘もできず。ぐぎぎ。
入山までが遠いぜ。
陽が暮れてかけていた。幕のような陽光が、埋もれるような肉厚の西の空を、うつくしく刻んでいた。ブナや楓の樹林に白い霞が漂っている。
杏奈はたったいま下りてきた山道を振り返って、「会えませんでしたね」
「擦れ違っちまったかな。寄り道したか、花摘みでもしてたか。登り返してもいいけど、あたし今夜から夜勤なんだよね。あんたも明日は学校だ」
「あたしは別に大丈夫ですけど」
「勉強しなきゃ、だろ? 受験生」
「集中できない日々が続いとります……」
なだらかな道で、事故を起こしたとは考え辛かった。天見は弱くはない。体力的に問題があるとは思えないし、だとしたら、空の言ったとおりなのだろう。
時折吹く風の匂いに、終わる冬の残り香を嗅ぐ。残雪が水に融ける空気だ。今日に限れば天候の急変はないだろうが、天見の山行はまだ続く。全夜ビヴァークで、心配する心もあった。
――話してくれればよかったのに、と杏奈は思った。こうした山行を計画していることを、黙っていたということに、少し淋しさを感じる。まだ完全には信用されてないんだろう。打ち明ければ、止められると思われたのかもしれないし、その必要もないと判断されたのかもしれない。不貞腐れて、鼻から息を吐く。
「まあ」空が言う。「明後日はあたし夜勤だけだから、そのときにまた探してみるよ。余計なお世話かもしれんけどね……」
「文句つけといてください。なんで話してくんなかったんだよー、って」
「覚えてたらな」
「姫ちゃん、わざとあたしたちに心配かけようとしてるんですかね。や、そんなことするような子じゃないか」
「どうだかね。知り合ってから日が浅すぎてなんとも言えない。天見についてなんでもわかってるなんて、あたしもあんたも言えるもんじゃないだろ? 母親の陽子さんだって持て余してるんだから」
「まあ……」
空は微笑んだ。「でも、きちんと知ってることもあるだろ? 天見は充分強い子だ」
下山口では、先回りしていた芦田が待っていた。カローラの窓を全開にして煙草を吹かしていた。宮ヶ瀬湖の南東、土山峠で、舗装された道路だが、景観は深山といった風なところだった。姫川宅を出立して、連絡をかけたところ、彼はすぐに駆けつけてきたのだった。
「会えたかよ?」
「うんにゃ」
「まあそんなこったろうと思った。邪魔せずにすんでよかったな」
しかし、芦田の声音にもどこか心配するような調子はあった。
親に黙って山に行くなどということは、三人とも少なからずやってきたことだった。幼少時から単独で入山することも珍しくはなかった。とはいえ、天見は彼女らと違い、律儀にも計画書を提出している。手放しに咎められるものでもなかった。
“こちら側”に立つのは初めてだ、と感じている。後ろめたさに、居心地が悪い。エンジンが唸りを上げ、県道を厚木に向けて下る。――収穫のなかった山行ほど疲労する事柄もない。三人の口数は少なかった。
「あんたがきてくれて助かったよ。厚木まで行って、バス待つのだるいしね」
「知らねえ相手じゃないからな。姫川さんな。てめえだけだったらガン無視してた」
「はいはい」
芦田はブレーキを踏みながら鼻を鳴らす。「反抗的なガキだ。でも、それくらいが健全かもしれねえ。ただ従順なだけの首輪付きよりも……」
「そうかい?」
「少なくとも、ひとりで生きてこうとする気概があるだろうが。小難しい理屈並べ立てて親元でおんぶ抱っこに暮らしてこうとするお嬢サマよかずっといい。ちょっとばかり頭弱くて、チョロくて都合のいい女の子のほうが、好まれるような世の中だけどな」
「まあ股ぐら頼みの愛玩女にはなれないだろうね」
「櫛灘と同じでな。てめえは山にばっかり淫らな顔見せて、人間の男なんか相手にもしねえ」
「そう?……天見も槍のてっぺんでやっと笑ってくれたな。たしかにそういうもんかもね」
会話になった会話は、それくらいのものだった。
駅で別れ際、空は杏奈に言った。「あんたはあんたのことをやりな。あんまり天見のことは気にせずさ。悩み事、たっぷりと溜まっちまってるだろ?」
杏奈は唇をへの字に曲げた。「……一応、年頃の乙女なんで」
「十代なんか十年間しかないんだ。せいぜい大切にしなよ」
空はそう言って片眼を瞑ってみせる。そういう仕草が妙に様になっているのは、様にさせようとしていないせいなんだろうと、杏奈はぼんやりと思う。ありのままの女。
天見はのんびりと歩いた。先は短くない。進むというよりは、進むことを抑えて、できる限り体力を温存できるように、普段以上に遅く歩みを進めた。はやく終わっては、来た甲斐がない。必要なのはやり遂げることではなく、自分の心を、山のなかに留めておくことだった。
それが目的だった。自分の位置を確定しておくこと。下界から山に行くのではなく、下界から山に戻る、そうした精神状態に自分を持っていくことが理想だった。そのための山行であり、極論を言えば、頂に至らなくてもよかった。心をシフトチェンジしておきたかったのだ。
高取山、仏果山、経ヶ岳と踏んで、片室山までやってきた。宮ヶ瀬湖を背負いながら、さらに進んで、いまいち道のわかりにくい物見峠を越える。三峰山までくると、階段や鎖場が多くて少し気が滅入る。そこで今日の行動をやめにした。
丹沢は基本幕営禁止の山だ。沢沿いなどにはキャンプ場が豊富にありもするが、山中には、山小屋であってもテント場はほとんどない。天見もそれは承知だった。ツェルトで、全夜をビヴァークで通すつもりだった。できる限り痕跡は残さない。あたりまえのことだが、出したゴミはすべて持ち帰る。登山道を少し離れて、見咎められる可能性の薄いと思われる、木陰の下にザックを下ろした。肩を回してじっくりとストレッチをする。
(いちばん怖いのは熊だ。一応、熊除けの鈴は持ってきたけど、こんなのが役に立つかどうか。もう少し対処法を調べてくればよかったな)
さすがに真冬ではないから、陽が沈むまでに時間がある。
コッフェルで無洗米を炊いて、レトルトの牛丼をぶっかけて食べる。砂糖をたっぷりとぶちこんだコーヒーを啜ると、一日の疲労がすっと抜け出ていくような心地がした。
かなり冷え込む。防寒着を着込んでシュラフに包まり、ぼんやりと仰向けに横たわって枝葉越しの夕空を見上げる。世界の色が徐々に移り変わっていくのを見つめている。
静かだ。微風が揺らす枝葉の擦れる音以外に、耳になにも届いてこない。自分の呼吸さえ遠い。瞑想めいた時間。
(……ひとりでいることには慣れてるつもりだった。小学校じゃ鵠沼さん以外最後にはほとんど話さなかったし、家でもほとんど会話はない。でも、これはなんだか違うな。もっと深いところで――)
より無防備な位置でひとりになっているという心地がする。
護るもののない、より剥き出しで、より純粋なかたちの場所にいる。ここではなにが起きてもなにひとつ文句も言えず、下手な抵抗も許されない。いまのいままでが瓶詰めにされていたようだ。透明な防壁がいつも周りに張り巡らされていた。
心細い一方で悦んでさえいる。不安を越えたところにある昂揚。
夜が訪れる。
風の音が遠い。より深く沈んでいくような心地に、腹の底から震えが走るような感覚。夢と現の境をさまよう。身を切るような剥き出しの寒さに眠りきることもできず、ツェルトとシュラフを頭の上までかぶって眼を閉じる。
夜は長い。死ぬほど長い。
様々なことを思う。そのほとんどは、自ら振るった暴力を境に心がシフトしたあの日からの感情だ。なにかが決定的に変わった瞬間から、空と出会い、山を知ったあの日のことまで。上高地から岳沢に至り、そこから空が真冬の穂高を登ってくるのを待っていた、テントキーパーの日。あのときは登らなかった。そしてこの丹沢の、塔ノ岳を大倉尾根から登り、山頂までの短い時間のあいだ、心が吹き荒ぶように暴走した鮮烈な体験。広沢寺での初めてのクライミング。杏奈と出会い、空と三人で登った初めての本格的な山、槍ヶ岳。中学に入学してから。バスケ部。葛葉の言っていたこと。逃げることから逃げてた。努力を遮断することに努力してなかった。やめることをやめていた。正義の奴隷がこぞって咎めたがる価値観のきわ。
(もう随分、空さんと話してないな)
不意にそんなことも思う。
彼女はいまの私にどんなことを言うだろう。
咎めるだろうか? 単独で入山したことに対して。一応、計画書は置いてきたのだが、母親はどうも眼を通していないような気もする。一方で、空は私のやることに文句をつけないような気もする。
不毛だと思う。空がいないところで空について考えることが。
夜空が暗い。雲が出てきているのだろうか?
天候は持つだろうか? 天気予報はあまり良くなかった。天気図の見方は、まだよくわかっていない。
吹雪くかもしれない? まさか。四月の神奈川で?
いや、丹沢山塊は低くとも山だ。しかし……
もし……
もし吹雪いてきたらどうする? エスケープ・ルートから速攻で下山する?
逃げることから逃げるのは山では致命的な失敗になりうる。
槍でも、悪天は経験していない。
どんなものなのだろう? 立ち上がり、進むことすらままならなくなるほど、激烈なものなのだろうか? 程度によるだろうが、判断は如何に下す? ここには私しかいない。私の道を決めるのが私以外に誰もいない。
私は――
大山からヤビツ峠を経て二ノ塔、三ノ塔、新大日から塔ノ岳を目指す。
低山にしては急坂や鎖場などがあり、稜線上であることから、景観も良ければ風も強い。丹沢表尾根コース。まだ冬の香りが色濃く漂い、植物は淋しい。
雪が絶妙な具合に残っている。ところどころで黒く汚れた雪を踏んで歩く。軽アイゼンを使うほどではないが、それが余計に判断を曇らせる。ずぶずぶで、キックステップもまともに効かない。
「良くないな……」
ぼやく。
曇り空が灰色というよりは銀色に近い。透ける陽光が雲全体を細かく刻み、羽根のようなルクスを地上へ投げかけてきている。しかし、風が冷たい。いまにも凍りつきそうなほどの冷気で、かすかに水滴が舞っている。
雨というほどの雨ではない。霧が小さく固まっているかのようだ。
雪になるかもしれない――と、はっとするような思いが頭を抜ける。危機感というよりはかすかな期待めいたものがある。ここで体験できるものならしておいたほうがいいんじゃないか? 三千メートル級の山で初めてを味わうより――
この天気のうえに平日であるせいか、人影はない。そして、寒い。冬に逆戻りしたかのようだ。静寂と銀色の空と併せて、一抹の寂しさようなものを感じる。あくまで“ような”であり、寂しさそのものではない。心がきぃんと遠退くような、不思議な感覚だ。
正しいことをしている……という実感はない。その逆の想いならある。
やりたいことをやっている。それだけなのだが、そうではないような想いもある。
(塔ノ岳から北へ……丹沢山、丹沢主脈……深いところはまだ、こっちから見る限り雪が残ってる。まだこのあたりからは、下界が見えるけれど、見えないところまで入るとどうなってるだろう? ピッケルを持ってきたほうが良かった? 行ってみるまでわからないか……)
自らのたしかな意志で不登校をし、ここへきている。
ふと自由について考える。
誰かが言っていた、自由が許されるのは誰かの迷惑にならない限りだと。その境界を越えると自由は我儘になる。罪悪に。
そうしたガイドラインに従えば、いまの私はどの角度から見てもアウトだ。不登校という確信犯の反社会的行為。申し開きも言い訳もない。罪人特有の孤独感があるにはある。自然に息が細くなるような、からだの内側がひゅっと縮むような、逃れ得ぬ揺らぎ。
自由……フリークライミング、自由登攀についても考える。
それはなにをしても許されるクライミングの形態ではない。ザイルによる確保のみをルールとし、自らの四肢だけを頼りに登る。アブミの使用や、埋め込みボルトの連打、プロテクションを掴むことなどはできない。そうなるとそれは人工登攀という名に変わる。
人工登攀によって開拓されたルートをフリー化することはひとつの指標になる。パーフェクト・オール・フリー。それはより束縛されたルールのなか、限界まで研ぎ澄まされた肉体と、最高に洗練されたムーヴの模索によってのみ為される。最適解だけが許可され、他は淘汰される。“なにをしてもいい自由”とは対極にある価値観。
自らのみを由とする。つまりは、そういうことだ。『他』はない。
ザイル・パートナーと繋がれてはいても、究極的には孤独の裡にある。逆に孤独の裡にあるからこそ、ザイル・パーティが他のなによりも尊重される。チームワークは敬われるべき光芒の価値観ではなく、最適化されたロジックにおける唯一の手段、先へ進むための数少ない道程の道具だ。
では、ソロ・クライミングにおいては?
何事も単独では存在できない。正義も。悪も。
ソロ・クライマーは――もう少し条件を押し下げて――単独登山者なにを以って世界に存在する? いまの私は?
(風が強い。塔ノ岳までの表尾根は、道が細くなって、鎖や梯子がかけられているところが多い。気を引き締めていかないと。ここには私しかいないんだから、全部の責任は私にある。こんなところで浮石を踏むとは思えないけど、足を踏み外すわけにはいかない。あたりまえだ。神奈川県って立地で、標高が低いからって、油断したらだめだ。
もし下手なかたちで墜ちたりしたら――)
死ぬ。
ソロイストがパートナーとするのは死そのものだろうか。
ザイルの先に絶対平等の死を繋いで生存する。よりシビアなかたちで山と向き合う。パーティというささやかな防壁さえ拒絶して、それは、誰かと一緒に登るのとは次元の違う行いになる。高いとか低いとかではなく、心理的技術的な面において、三人が二人になるのと、二人が独りになるとでは、なにかが決定的に違う。
いまならわかる。気がする。その片鱗のほんの一部を味わっている。
櫛灘空の本業は厳冬期のヴァリエーション・ルートで、ソロ志向のクライマーだという。それが示すところの意味。
塔ノ岳を越える。
尊仏山荘の裏に回り、丹沢山方面に足を踏み入れる。下界が山の向こうに消える。
そのとき、ひときわ強い風とともに、頬に恐ろしく冷たいものが触れた。
天見は輝く曇天を見上げる。「――きた」
雪だった。
それはみるみるうちに勢力を増していく。考える空隙もなく、あっという間に、まるで嘘のような真冬同然の降雪が真横から吹きつける天候に移り変わる。
ホワイト・アウトする。
すべてが白くなり、なにも見えなくなる。天見の小さな姿は吹雪のなかに掻き消える。
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姫ちゃんはかなり山慣れしてきた感じ。
慣れ始めたところで痛い目見るのか、続きが気になります。