オリジナル。ようやっと登頂。
ひとまず、ご読了お疲れ様です。ありがとうございました。ENDマークはつきませんが!
これで一区切りです。今後は――……なにも考えてませぬ。
アイディアはそこそこあるので、マイペースでやっていこうと思います。いろいろと課題もできましたし。
いつもどおりに。
「杏奈が先頭で行きな」と空は言う。「あたしが後ろからフォローするよ」
「いいんですか?」
「あたしはもう何度もきてるしね。いちばんのお楽しみは譲っちゃう。天見?」
「行けます」
「よし!」
槍ヶ岳小屋から山頂まではたったの三十分。冬でもそれは変わらない。
ガスの残滓があたりに漂い、風景は幻想めいて切り取られている。北鎌尾根側、湯俣温泉方面は金色の雲海に沈み、南側、穂高の峰々のところどころが雲の上に顔を出している。絶好の瞬間!
「写真家だったら涎が出そうな風景だ。もちろん、あたしらにしても」空はにやりとする。「さあ、行こう。天見、ここからは梯子と鎖が連続する微妙なところだ。流紋岩は脆くて崩れやすくて、その奥の凝灰角礫岩はしょっちゅうひび割れている。この槍が刃毀れしないのは山頂付近の角閃石安山岩のおかげなんだ。凍りついているとはいえ、気をつけな。浮石を踏まないように」
「はい」
「良い子だ。杏奈! 頼むよ!」
「りょーかいっすよ!」
天見は槍を見上げる。その特徴的な穂先――名は体を現す。それがこれほど完璧に示されている例もない。
いよいよだ、と思う。山頂に至ったとき、私はなにを見ることになるのか。答えなんかなにもないのかもしれない。だったら、私はなにを思うことになるのか。
(期待はしばしば裏切られる。このルートから登って、この山を、槍ヶ岳の全部を感じられるとは思ってない。でもどうしても期待してる自分がいる)
強風の通り道を、耐風姿勢を取りながら潜り抜けると、岩場の根元には、ほとんど風がやってこない。気圧まで空気を読んでくれているようだ。
昨日までと違い、空ではなく杏奈の背中を見て登る。空の、落ち着いた、けれどどこか淫らにいざなうような動きと違い、活き活きとした、いかにも健康的な少女の動き。私はふたりからどういう風に見えているんだろうな、と思う。けれどそんな思考も意識のへりのものでしかない。後はもうただ登るだけだ。
槍ヶ岳。標高3180メートル。3000メートル級の一座であり、それは日本第五の高峰だ。北アルプスでは奥穂高岳、3190メートルに次いで高い。そしてその頂は下界の松本からでも時折顔を覗かせ、まさに穂先のように、上天に向かって屹立している。
天見は息を呑んでいた。
黒い青空に向けて背筋を伸ばすその様は、この距離でますます美しく感じられる。あれを登るのだ、と天見は気を引き締める。。心肺がアドレナリンの海に溺れ、指先が冷たさを越えて熱くさえ感じられる。入山して――四日目。空に話を切り出されてから幾日経っただろう? そして、ゆく。登るのだ。
(息が荒れる。――こんなにどきどきしてるのは生まれて初めてだ! 気圧のせい? でも、私のからだにまだこんな機能があるなんて思ってもみなかった……)
梯子に手をかけ、アイゼンの土踏まずを注意深く置く。錆びつき、冷え切った鉄が凄まじい冷気を放っているようだ。普通の山道を歩くより怖い感じがするのは、それが広大な山と不釣り合いな人工物であるからか。ぐらりと倒れたら、それで終わりだ。固定はしっかりしており、そんなことが起こるはずないと自分に言い聞かせてみても、本能の不安は意識にへばりついて拭われてくれない。
上から杏奈が略式の肩絡みで確保してくれているが、気休めだとわかる。こんなので滑落を止められるわけがない。それでも、バランスを保つ一本の柱にはなってくれる。ザイル・パーティ……
鎖場は自分のデイジーチェーンをぐるりと巻きつけ、ユマーリングの要領でゆく。鎖に頼り切らないように、しっかりと雪を踏み、剥き出しの岩に手をかけ、バランスを崩さないように一歩ずつ、一手ずつ。無風でありがたい。
(学校で習ったどんなことも役に立たない。学校でやったどんなことよりもスリルがある。自分の内側で血の巡りを感じられるほど神経が高鳴って、鋭敏になっている。耳に届いてくるのは自分のからだが動く音。衣擦れ。ハーネスのカラビナがかちゃかちゃいう音。筋肉が軋んで凍りつく音。呼吸。篠原さんの気配、空さんの気配。光の音、影の音――)
このだだっ広い世界にただ三人だけ。ぽつんと塵のように岩肌に張りつき、ちっちゃなちっちゃな虫けらのように登る。世界は美しいと下界で何百万回繰り返して謳おうが、この一瞬には届きすらしない。永遠の時間がある。それは現場の喜びとでもいうべき感覚だ。
ピッケルをダガーポジションで持ち、スピードよりもバランスを最優先して、杏奈の動きをじっと見つめながら登る。杏奈の動きには危うさとか、焦りとか、緊張感とかが微塵も感じられない。バランス感覚が抜群にいいんだ、とわかる。精神は落ち着き、冷静さを保って山頂へ向いている。それでいて情熱を損じることなく、動きの節々から滲み出ている。よく制御された心のきわ。あれを参考にすべきなんだな、とわかる。
(気持ちいいな)
突き抜けるような空に向けて登る。一直線に。
これが一般ルートときたものだからまったく底知れない。ふと思う。もしこれが――
ヴァリエーション・ルートだったら――?
これ以上の快楽がある? いまでさえ溺れそうなほどなのに、ここよりもさらに難しく、困難で、危険ですらあるルートを――例えばこの槍ヶ岳だったら、北鎌尾根などを――登るとしたら、どういう感覚を味わえるの? 山は私になにを差し出してくれる?
(可能性……)
山の楽しみとはなんだろう?
この四日間、私は間違いなく楽しんでいた。それは私の能力の際どい臨界点上に迫っていたからだ。そのうえで山に登るということ。それはつまり……?
(空さんの本職は雪山のヴァリエーション・ルートだ。空さんはなにを求めて登ってる? ピークを踏むだけなら、雪のない時期、一般の登山道から登ればいい。わざわざ困難なところを選んで登るってこと……)
アイゼンが氷を噛み砕く。爪が岩をかすり、心地のいい音を立ててからだを持ち上げる。下を見れば見事な高度感! 槍ヶ岳小屋の屋根がどんどん小さく、ミニチュアのセットのようになっていく。
(いまは……ついていくだけでいい。でもいつか、きっとそれじゃ駄目になる。それで満足できなくなる日が絶対にやってくる。私は私自身の脚で、腕で、登らなくちゃならない。そのとき私はどういう道を選ぶ? どんなルートで登る?)
山頂が近い。
二百年まえ、播隆上人が己の信念を捧げて開山した峰がすぐそこにある。魂の霊がいまもそこにあるような匂いさえする。
それは錯覚であり、天見自身の心象から漏れ出る幻影にすぎない。しかしだからこそ価値のある幻想でもある。その感覚は天見だけのものだ。ネットワークの共有を拒むパーソナルな感動。誰の手にも冒されることのない天見だけのリアリティ。
そして、私は――
「――え? あれ?」
杏奈が不意に戸惑ったような声を上げる。天見ははっと我に返り、彼女の見ている風景を見つめる。そして、唖然とする。「あ……」
杏奈はなおも喚く。「ちょ、ちょい待ち! 待った! 待って待って! ああーっ!」
空が上天を見上げる。そうして呑気な声を出す。「……あー。やっぱ持たなかったかー」
槍ヶ岳山頂。
鋭角の三角形の頂点、その狭い頂に、小さな祠が安置されている。三角点は雪に埋もれているが、その代わりに登頂の証明となる。三人はそのまえに立ち、それぞれの想いで佇んでいる。
槍ヶ岳、3180メートル登頂。三人はやり遂げたのだ。誰ひとり欠けることなく、怪我や凍傷もなく。が、しかし、
「……な、なにも見えん」
山頂はふたたびガスに埋もれ尽くしていた。
三百六十度のパノラマであるはずが、数メートル先も見通せないのだ。眩い光が滲み、辛うじて数歩先が映るだけで、それ以外にはなにもない。穂高も、常念も、大天井も、燕も、鷲羽も、水晶も、黒部五郎も、笠ヶ岳も、なにも見えやしないのだ。完全に雲のなかに入ってしまっていた。
「なんてこったい! こんなオチってあり!?」と杏奈は頭を抱えて喚く。
空は苦笑して、「いけると思ったんだけどね。そんなに甘くなかったか。まあ、中崎尾根じゃずっと晴れてたし、できすぎだとは感じてたよ。あんたの言ったとおり、落とし穴があったわけだ」
「なにかの間違いでパッと晴れたりしません!?」
「どうだろ。山の神様は気まぐれすぎて、あたしにゃなんの保障もできないよ。あたしに言えるのはそんなにいい天気図じゃなかったってことくらいだね。勘を頼りにすると、晴れないって感じはする。
そうそう。山の神様ときたらだいたい女だって話知ってる? 女人禁制の山とかさ。同じ女が登ると、途端に機嫌悪くしちゃうんだって。これもそのせいかもね」
「好きで女に生まれたわけじゃねえよチクショウ!」
しかし杏奈の声はうるさい。天見は片耳を塞ぎ、顔をしかめていた。
気の抜けたような時間が流れ、杏奈は座り込んでしまう。天見もあたりを見渡し、やはりどうしても展望が皆無だということを悟ると、杏奈の隣に屈み込んだ。
「――、……」
山頂か、と思う。
そう、山頂だ。
肩肘を張っていた力がスッと抜け落ち、唇を虚ろに開き、緩むような吐息をする。なんだかずうっと緊張していた気がする。いつからだろう? 空に槍ヶ岳へ行かないかと告げられたときから? クライミング・ジムを登っていたときから? フリークライミングを教えられ、広沢寺の弁天岩に連れて行ってもらったあのときから? 丹沢の塔ノ岳、大倉尾根を歩いていたときから? 岳沢でテントキーパーをやっていたときから?
クラスメイトを殴りに立ち上がったあのとき。いじめが蔓延していたクラスに嫌気が差し、拳の握り方をネットで検索したあのとき。
いや、そもそもこの世に生まれ出た瞬間から。心を得、生に向けて歩み始めたそのときから。
考えてもわかりっこない。ただ、なにはともあれ登ってきたのだと思う。周りを見渡せばなにも見えやしない。
私はこの頂になにを期待していたの? 登りさえすればなにもかもが良くなると? すべてのもやもやに叩きつける絶対的な答えが転がっているとでも思っていた?
あるのはガスに覆われた白い視界だけ。
でも、山頂だ。それは紛れもなく、空を貫く槍の穂先、飛騨山脈、北アルプス――いや、日本でも屈指の頂のひとつ。雪山。常人には赦されぬ世界のへり。
別に……大したことをやったわけじゃない。
でも、私はここに立っている。登りきった。弱音だけは、一度たりとも吐かなかった。
「……あはは」
山頂の風が強く吹き抜けた。世界から心に向けて。
「はは……」
絶景など結局は付属物にすぎない。確かにそれは万人にとって価値のあるものだろう。全人類の美意識に訴えかけ、問答無用の感動を呼び起こし、誰にとっても素晴らしい、無二の贈り物なのだろう。山を登らぬ者さえ、山を忌避する者さえ感激させる、正義の如き絶対の価値なのだろう。いま天見が見つめている、視界ゼロの白い景色など、誰も望まぬ石ころのようなものなのだろう。
しかし、天見が見ていたのは別のものだった。それは絶無の価値とでもいうべきものであり、天見以外にはなんの感傷も呼び起こさないものだ。ただ天見だけの世界だった。ザイルパーティのふたりにさえ見ることのできないものを見、それを喰らい、それを自分のものとしていた。
「ふふっ――」
それは始まりの一歩だ。
真の卒業式だった。その瞬間、天見は未来に向けて最初の渇望を胸に湧き上がらせていた。それが自分でもわかった。その意味では、天見はもはや子供ではなくなっていたのだった。
そうして、笑う。
「あははははは!!」
杏奈がびくりとして天見を見た。空は眉根を寄せ、しかしすぐに悟り、穏やかな苦笑を浮かべて天見を見た。
「はははははははははははは!!」
天見は腹を抱え、目尻に涙を浮かべ、全身をくの字に折り曲げて屈託なく笑った。
大爆笑した。
「あーはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
杏奈が戸惑ったように腕をうろうろさせた。「ひ――姫ちゃん!?」
「笑わせといてやんなよ」と空は言い、ヤッケの胸ポケットから煙草を取り出した。「そういうときもあるさ。登れたら、誰だって嬉しいもんな。杏奈も経験あるだろ?」
天見は笑い続けた。
「アハハ――!!」
おかしくて仕方がなかった。それに、嬉しくて。
天見は心の底から笑っていた。それは彼女の声が枯れ果てるまで続いた。心の風が凪ぎ、喜びの波が収まるまで。しかし、その感情がほんとうの意味で消えることは二度となかった。それは終生、姫川天見という一匹の黒い獣を山へといざない続ける光の旗になる。永遠を誓う心の契約に。
天見は涙を拭い、いつものぶすっとした無表情を浮かべて言った。「失礼しました」
杏奈は引き攣った顔のまま、「お、おう」
「どうもお見苦しいところを……」
すっかりいつもの天見に戻っていた。別段恥ずかしいことなどなにもないという顔で、リーダーである空を見つめた。判断を仰ぐ眼だった。
「うん」空はこくりと頷いた。「しばらく待ってはみたけど、これは晴れないね。下山しようか。今日中に中崎尾根のテントに戻って、明日には下界に帰っていよう。こうなった以上、天候急変が怖いしね……」
「はい」
そして、ありったけの祝福を篭めて言う。「登頂おめでとう、天見。展望はないけど、とにかく槍だ。あんたはあたしたちについてきた。それは誇ってもいいことだと思うよ」
「ありがとうございます。でも、次はほんとうのザイルパーティとしてきたいです」
空は微笑んだ。「あんたの成長を期待するよ。さあ、行くとしよう! 山の事故の七割は下山のときに起こってるんだから、ふたりとも気を抜かないように。もちろん、わかってるだろうけどね」
もちろん、ふたりともわかっていた。頂上は折り返し地点にすぎない。往々にして登るより下りるほうが難しく、より危険で際どい道だ。しかしそれでも下りなければならないのは、そうしてまた別の山を登るためだ。より困難で、より価値のある山を。それがずっと続くのだ。生き続けている限りは。
下山のとき!
ひとまず、ご読了お疲れ様です。ありがとうございました。ENDマークはつきませんが!
これで一区切りです。今後は――……なにも考えてませぬ。
アイディアはそこそこあるので、マイペースでやっていこうと思います。いろいろと課題もできましたし。
いつもどおりに。
「杏奈が先頭で行きな」と空は言う。「あたしが後ろからフォローするよ」
「いいんですか?」
「あたしはもう何度もきてるしね。いちばんのお楽しみは譲っちゃう。天見?」
「行けます」
「よし!」
槍ヶ岳小屋から山頂まではたったの三十分。冬でもそれは変わらない。
ガスの残滓があたりに漂い、風景は幻想めいて切り取られている。北鎌尾根側、湯俣温泉方面は金色の雲海に沈み、南側、穂高の峰々のところどころが雲の上に顔を出している。絶好の瞬間!
「写真家だったら涎が出そうな風景だ。もちろん、あたしらにしても」空はにやりとする。「さあ、行こう。天見、ここからは梯子と鎖が連続する微妙なところだ。流紋岩は脆くて崩れやすくて、その奥の凝灰角礫岩はしょっちゅうひび割れている。この槍が刃毀れしないのは山頂付近の角閃石安山岩のおかげなんだ。凍りついているとはいえ、気をつけな。浮石を踏まないように」
「はい」
「良い子だ。杏奈! 頼むよ!」
「りょーかいっすよ!」
天見は槍を見上げる。その特徴的な穂先――名は体を現す。それがこれほど完璧に示されている例もない。
いよいよだ、と思う。山頂に至ったとき、私はなにを見ることになるのか。答えなんかなにもないのかもしれない。だったら、私はなにを思うことになるのか。
(期待はしばしば裏切られる。このルートから登って、この山を、槍ヶ岳の全部を感じられるとは思ってない。でもどうしても期待してる自分がいる)
強風の通り道を、耐風姿勢を取りながら潜り抜けると、岩場の根元には、ほとんど風がやってこない。気圧まで空気を読んでくれているようだ。
昨日までと違い、空ではなく杏奈の背中を見て登る。空の、落ち着いた、けれどどこか淫らにいざなうような動きと違い、活き活きとした、いかにも健康的な少女の動き。私はふたりからどういう風に見えているんだろうな、と思う。けれどそんな思考も意識のへりのものでしかない。後はもうただ登るだけだ。
槍ヶ岳。標高3180メートル。3000メートル級の一座であり、それは日本第五の高峰だ。北アルプスでは奥穂高岳、3190メートルに次いで高い。そしてその頂は下界の松本からでも時折顔を覗かせ、まさに穂先のように、上天に向かって屹立している。
天見は息を呑んでいた。
黒い青空に向けて背筋を伸ばすその様は、この距離でますます美しく感じられる。あれを登るのだ、と天見は気を引き締める。。心肺がアドレナリンの海に溺れ、指先が冷たさを越えて熱くさえ感じられる。入山して――四日目。空に話を切り出されてから幾日経っただろう? そして、ゆく。登るのだ。
(息が荒れる。――こんなにどきどきしてるのは生まれて初めてだ! 気圧のせい? でも、私のからだにまだこんな機能があるなんて思ってもみなかった……)
梯子に手をかけ、アイゼンの土踏まずを注意深く置く。錆びつき、冷え切った鉄が凄まじい冷気を放っているようだ。普通の山道を歩くより怖い感じがするのは、それが広大な山と不釣り合いな人工物であるからか。ぐらりと倒れたら、それで終わりだ。固定はしっかりしており、そんなことが起こるはずないと自分に言い聞かせてみても、本能の不安は意識にへばりついて拭われてくれない。
上から杏奈が略式の肩絡みで確保してくれているが、気休めだとわかる。こんなので滑落を止められるわけがない。それでも、バランスを保つ一本の柱にはなってくれる。ザイル・パーティ……
鎖場は自分のデイジーチェーンをぐるりと巻きつけ、ユマーリングの要領でゆく。鎖に頼り切らないように、しっかりと雪を踏み、剥き出しの岩に手をかけ、バランスを崩さないように一歩ずつ、一手ずつ。無風でありがたい。
(学校で習ったどんなことも役に立たない。学校でやったどんなことよりもスリルがある。自分の内側で血の巡りを感じられるほど神経が高鳴って、鋭敏になっている。耳に届いてくるのは自分のからだが動く音。衣擦れ。ハーネスのカラビナがかちゃかちゃいう音。筋肉が軋んで凍りつく音。呼吸。篠原さんの気配、空さんの気配。光の音、影の音――)
このだだっ広い世界にただ三人だけ。ぽつんと塵のように岩肌に張りつき、ちっちゃなちっちゃな虫けらのように登る。世界は美しいと下界で何百万回繰り返して謳おうが、この一瞬には届きすらしない。永遠の時間がある。それは現場の喜びとでもいうべき感覚だ。
ピッケルをダガーポジションで持ち、スピードよりもバランスを最優先して、杏奈の動きをじっと見つめながら登る。杏奈の動きには危うさとか、焦りとか、緊張感とかが微塵も感じられない。バランス感覚が抜群にいいんだ、とわかる。精神は落ち着き、冷静さを保って山頂へ向いている。それでいて情熱を損じることなく、動きの節々から滲み出ている。よく制御された心のきわ。あれを参考にすべきなんだな、とわかる。
(気持ちいいな)
突き抜けるような空に向けて登る。一直線に。
これが一般ルートときたものだからまったく底知れない。ふと思う。もしこれが――
ヴァリエーション・ルートだったら――?
これ以上の快楽がある? いまでさえ溺れそうなほどなのに、ここよりもさらに難しく、困難で、危険ですらあるルートを――例えばこの槍ヶ岳だったら、北鎌尾根などを――登るとしたら、どういう感覚を味わえるの? 山は私になにを差し出してくれる?
(可能性……)
山の楽しみとはなんだろう?
この四日間、私は間違いなく楽しんでいた。それは私の能力の際どい臨界点上に迫っていたからだ。そのうえで山に登るということ。それはつまり……?
(空さんの本職は雪山のヴァリエーション・ルートだ。空さんはなにを求めて登ってる? ピークを踏むだけなら、雪のない時期、一般の登山道から登ればいい。わざわざ困難なところを選んで登るってこと……)
アイゼンが氷を噛み砕く。爪が岩をかすり、心地のいい音を立ててからだを持ち上げる。下を見れば見事な高度感! 槍ヶ岳小屋の屋根がどんどん小さく、ミニチュアのセットのようになっていく。
(いまは……ついていくだけでいい。でもいつか、きっとそれじゃ駄目になる。それで満足できなくなる日が絶対にやってくる。私は私自身の脚で、腕で、登らなくちゃならない。そのとき私はどういう道を選ぶ? どんなルートで登る?)
山頂が近い。
二百年まえ、播隆上人が己の信念を捧げて開山した峰がすぐそこにある。魂の霊がいまもそこにあるような匂いさえする。
それは錯覚であり、天見自身の心象から漏れ出る幻影にすぎない。しかしだからこそ価値のある幻想でもある。その感覚は天見だけのものだ。ネットワークの共有を拒むパーソナルな感動。誰の手にも冒されることのない天見だけのリアリティ。
そして、私は――
「――え? あれ?」
杏奈が不意に戸惑ったような声を上げる。天見ははっと我に返り、彼女の見ている風景を見つめる。そして、唖然とする。「あ……」
杏奈はなおも喚く。「ちょ、ちょい待ち! 待った! 待って待って! ああーっ!」
空が上天を見上げる。そうして呑気な声を出す。「……あー。やっぱ持たなかったかー」
槍ヶ岳山頂。
鋭角の三角形の頂点、その狭い頂に、小さな祠が安置されている。三角点は雪に埋もれているが、その代わりに登頂の証明となる。三人はそのまえに立ち、それぞれの想いで佇んでいる。
槍ヶ岳、3180メートル登頂。三人はやり遂げたのだ。誰ひとり欠けることなく、怪我や凍傷もなく。が、しかし、
「……な、なにも見えん」
山頂はふたたびガスに埋もれ尽くしていた。
三百六十度のパノラマであるはずが、数メートル先も見通せないのだ。眩い光が滲み、辛うじて数歩先が映るだけで、それ以外にはなにもない。穂高も、常念も、大天井も、燕も、鷲羽も、水晶も、黒部五郎も、笠ヶ岳も、なにも見えやしないのだ。完全に雲のなかに入ってしまっていた。
「なんてこったい! こんなオチってあり!?」と杏奈は頭を抱えて喚く。
空は苦笑して、「いけると思ったんだけどね。そんなに甘くなかったか。まあ、中崎尾根じゃずっと晴れてたし、できすぎだとは感じてたよ。あんたの言ったとおり、落とし穴があったわけだ」
「なにかの間違いでパッと晴れたりしません!?」
「どうだろ。山の神様は気まぐれすぎて、あたしにゃなんの保障もできないよ。あたしに言えるのはそんなにいい天気図じゃなかったってことくらいだね。勘を頼りにすると、晴れないって感じはする。
そうそう。山の神様ときたらだいたい女だって話知ってる? 女人禁制の山とかさ。同じ女が登ると、途端に機嫌悪くしちゃうんだって。これもそのせいかもね」
「好きで女に生まれたわけじゃねえよチクショウ!」
しかし杏奈の声はうるさい。天見は片耳を塞ぎ、顔をしかめていた。
気の抜けたような時間が流れ、杏奈は座り込んでしまう。天見もあたりを見渡し、やはりどうしても展望が皆無だということを悟ると、杏奈の隣に屈み込んだ。
「――、……」
山頂か、と思う。
そう、山頂だ。
肩肘を張っていた力がスッと抜け落ち、唇を虚ろに開き、緩むような吐息をする。なんだかずうっと緊張していた気がする。いつからだろう? 空に槍ヶ岳へ行かないかと告げられたときから? クライミング・ジムを登っていたときから? フリークライミングを教えられ、広沢寺の弁天岩に連れて行ってもらったあのときから? 丹沢の塔ノ岳、大倉尾根を歩いていたときから? 岳沢でテントキーパーをやっていたときから?
クラスメイトを殴りに立ち上がったあのとき。いじめが蔓延していたクラスに嫌気が差し、拳の握り方をネットで検索したあのとき。
いや、そもそもこの世に生まれ出た瞬間から。心を得、生に向けて歩み始めたそのときから。
考えてもわかりっこない。ただ、なにはともあれ登ってきたのだと思う。周りを見渡せばなにも見えやしない。
私はこの頂になにを期待していたの? 登りさえすればなにもかもが良くなると? すべてのもやもやに叩きつける絶対的な答えが転がっているとでも思っていた?
あるのはガスに覆われた白い視界だけ。
でも、山頂だ。それは紛れもなく、空を貫く槍の穂先、飛騨山脈、北アルプス――いや、日本でも屈指の頂のひとつ。雪山。常人には赦されぬ世界のへり。
別に……大したことをやったわけじゃない。
でも、私はここに立っている。登りきった。弱音だけは、一度たりとも吐かなかった。
「……あはは」
山頂の風が強く吹き抜けた。世界から心に向けて。
「はは……」
絶景など結局は付属物にすぎない。確かにそれは万人にとって価値のあるものだろう。全人類の美意識に訴えかけ、問答無用の感動を呼び起こし、誰にとっても素晴らしい、無二の贈り物なのだろう。山を登らぬ者さえ、山を忌避する者さえ感激させる、正義の如き絶対の価値なのだろう。いま天見が見つめている、視界ゼロの白い景色など、誰も望まぬ石ころのようなものなのだろう。
しかし、天見が見ていたのは別のものだった。それは絶無の価値とでもいうべきものであり、天見以外にはなんの感傷も呼び起こさないものだ。ただ天見だけの世界だった。ザイルパーティのふたりにさえ見ることのできないものを見、それを喰らい、それを自分のものとしていた。
「ふふっ――」
それは始まりの一歩だ。
真の卒業式だった。その瞬間、天見は未来に向けて最初の渇望を胸に湧き上がらせていた。それが自分でもわかった。その意味では、天見はもはや子供ではなくなっていたのだった。
そうして、笑う。
「あははははは!!」
杏奈がびくりとして天見を見た。空は眉根を寄せ、しかしすぐに悟り、穏やかな苦笑を浮かべて天見を見た。
「はははははははははははは!!」
天見は腹を抱え、目尻に涙を浮かべ、全身をくの字に折り曲げて屈託なく笑った。
大爆笑した。
「あーはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
杏奈が戸惑ったように腕をうろうろさせた。「ひ――姫ちゃん!?」
「笑わせといてやんなよ」と空は言い、ヤッケの胸ポケットから煙草を取り出した。「そういうときもあるさ。登れたら、誰だって嬉しいもんな。杏奈も経験あるだろ?」
天見は笑い続けた。
「アハハ――!!」
おかしくて仕方がなかった。それに、嬉しくて。
天見は心の底から笑っていた。それは彼女の声が枯れ果てるまで続いた。心の風が凪ぎ、喜びの波が収まるまで。しかし、その感情がほんとうの意味で消えることは二度となかった。それは終生、姫川天見という一匹の黒い獣を山へといざない続ける光の旗になる。永遠を誓う心の契約に。
天見は涙を拭い、いつものぶすっとした無表情を浮かべて言った。「失礼しました」
杏奈は引き攣った顔のまま、「お、おう」
「どうもお見苦しいところを……」
すっかりいつもの天見に戻っていた。別段恥ずかしいことなどなにもないという顔で、リーダーである空を見つめた。判断を仰ぐ眼だった。
「うん」空はこくりと頷いた。「しばらく待ってはみたけど、これは晴れないね。下山しようか。今日中に中崎尾根のテントに戻って、明日には下界に帰っていよう。こうなった以上、天候急変が怖いしね……」
「はい」
そして、ありったけの祝福を篭めて言う。「登頂おめでとう、天見。展望はないけど、とにかく槍だ。あんたはあたしたちについてきた。それは誇ってもいいことだと思うよ」
「ありがとうございます。でも、次はほんとうのザイルパーティとしてきたいです」
空は微笑んだ。「あんたの成長を期待するよ。さあ、行くとしよう! 山の事故の七割は下山のときに起こってるんだから、ふたりとも気を抜かないように。もちろん、わかってるだろうけどね」
もちろん、ふたりともわかっていた。頂上は折り返し地点にすぎない。往々にして登るより下りるほうが難しく、より危険で際どい道だ。しかしそれでも下りなければならないのは、そうしてまた別の山を登るためだ。より困難で、より価値のある山を。それがずっと続くのだ。生き続けている限りは。
下山のとき!
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夜麻産さんお疲れ様です。
続き待っています。