オリジナル。登山モノ。色恋と無縁な色気のない女たちのお話。
次回更新は木曜日になります。そしてひと段落。
記事の整理せんとォと思いつつもだらけて後回し、後回し……
「ううん、ガスってるね」と空は言った。「下が晴れてるってのに悔しいね。西から雲が近づいてきてるし。今日と明日いっぱい粘って、晴れた隙にアタックかな」
「食糧もちます?」
「それは大丈夫だと思うけど、天候がな。この山域でこれだけの晴天が続くとは思えない。天気図も悪くなってきたし、明後日には下山しないと」
槍の肩。槍ヶ岳山荘冬季小屋。雪に埋もれていた入り口を開き、なかにツェルトを張って、三人は外にいる。天見はぼんやりと周りを見渡す。すぐそばにあるはずの槍の穂先は完全に白いガスに隠れ、なのに、こちら側は青空さえ見えている。どきりとするような視界。世界が雲海に埋もれ、その上に立っているのだ! けれど、だというのに、頂上が透き通っていないというだけで溜息が漏れてしまう。
岩稜を越えてジャンクションピークを登り、西鎌尾根の夏道は強い風に吹き飛ばされて雪が少なく、いっそ快適なくらいだった。しかしそのあいだ、ずっと槍の頂は姿を見せなかった。下界の松本からさえ見えるほど高く、特徴的なあの尖った頂が、近づいてから見えなくなる。このもどかしい矛盾。
天見は鼻を鳴らす。「せっかく早めに登ってきたのに……」
「まあ仕方ないさ」と空。「どんな超人的なアルピニストでも、天候を操ることまではできない。ちょっとばかし隙をついて、ご機嫌を伺って、お邪魔するだけだ。天見と杏奈はなかで休んでていいよ、あたしがこっち見てるから」
「そんなのごめんですよ。なか真っ暗なのに、なにを好き好んで引き篭もってなきゃなんないんですか」と杏奈は当然のように言う。
「天見は?」
「私もここにいます」
冷たく強烈な風が吹きつけ、周囲の温度を一気に奪い去っていく。一般的に、風速が一メートル加速すれば体感温度が一度下がるという。さらに標高にして千メートル上がるごとに、気圧から、下界と比べて摂氏七度ずつ低下していく。いまの風速は十五メートル近くあり、長くはまえを向いていられないほどなのだ。季節は春とはいえ、冬も同然だった。
「今日は無理かな」
空が呟くと、小屋の周りにまでガスが降り始める。
夕暮れが近づくと、ガスは徐々にその色を変え始め、燃えるような黄金色に染まる。視界はもうほとんどない。ガスの流れる速度ははやいのに、ちっとも薄まってくれる気配がない。天見は少し不貞腐れながら、しかし実のところ、初めて味わうガスの胎内に茫然としている。
視界全部を支配するこの色……。柔らかな炎のなかに包まれているようだ。青空の下で思い知らされる突き抜けるような感動ではなく、からだの底から静かに震えるような、不思議な感慨がある。
「姫ちゃん寒くない? 防寒具出しなよ」
「平気です」
「まあいいけど。我慢強いのは美徳じゃないよー?」
しかし、杏奈は天見よりずっと薄着なのだ。ヤッケのジッパーを開け放って、フリースの胸元から剥き出しの細い首筋を曝け出している。
待つだけの時間。今日という日のタイム・リミットも近い。天見は眼を閉じ、いっとき、世界のすべてを吸収するかのように心を開く。自分を遠ざけ、深い淵へ沈み込むように。そうして、辿ってきた道筋を反芻する。入山して三日目。そう長い時間とは思えない、けれどひどく濃密だったようにも感じる。初めてだらけだったのだ。なのにまだ終わっていない。この贅沢で素晴らしい時間といったら!
(――初心者のお楽しみだな。こういう感覚は……)
経験を積めばまた違う悦びを探すのだろう。このふたりのように。漠然とそう思う。
退き際、なのだろう。燃え盛るようなガスの色も次第に色褪せ始め、暗がりが忍び寄ってきたのを感じる。影が濃くなり、視界に闇の色が滲み出す。風もより冷たく、強くなってきた。
「姫ちゃん四月から中学生って言ってたっけ?」
出し抜けに訊かれ、天見ははっと我に返る。「――。はい」
「市立?」
「はい」
「受験もなしか。いいね。高校三年ってなったらいよいよ回りがうるさくなる時期だよね、大学受験で……いまから億劫だよ。登ってるあいだは忘れられてたのに、こうしてると――」
杏奈は溜息をつく。ぶすりと表情を曇らせて、天見を見るともなく見つめている。
「あたしさー、中高一貫のとこ通ってるんだけど、中学のとき受験して、もう勉強のやり方も忘れかけてる。ちょっと失敗だったかもしんない。高校からエスカレーター式に大学行けるとこのほうがよかったかも。いまさら言ってもしゃーないけど」
「はあ」
「高校どこ行きたいかとか決めてる?」
「……いまから考えるのは早すぎだと思ってるんで」
「なんとなくでも考えてたほうがいいかもね。大学でなにしたいかとか。『やりたいことを見つけるために』方式だと、結局めいっぱい遊んじゃうんじゃないかな。って言ってもあたしも全然わかんないんだけど」
不意に現実に引き戻された心地がする。いや、現実ではなく、どうでもいい余計な世界に。
鵠沼紡はバスケに夢中になっていて、それを続けるのだという。高校でもバスケ部に入るのだろう。そのあとは? 彼女のことだから、プロリーグでも目指すのかもしれない。渡米を本気で考えていても、彼女なら不思議じゃないと感じさせる、妙な力があった。そうしたリアリティが紡の周りの空気にはあった。少なくとも紡は将来を視野に入れている。だったら、私は?
「……大学とかまだ遠すぎてわかりません」結局、天見はそのように言う。「でも、いつまでも親の脛かじってたくないって気持ちはあります。高卒で働きたいかもしれない。就職厳しいってわかりますけど」
「忠告をひとつ。女子高はやめときなよー。異性がいないからってやりたい放題でさ、もう混沌としてるのなんのって。止め処がないんだよね。あたしもー心が折れそうだよ、男の子との出会いもないし!」
「はあ……」
空がくすりとする。「あたし共学の県立高通ったけど、こっちだって出会いなんかなかったよ。まあ山ばっか行ってて出席日数ギリギリだったせいかもしれないけど」
「こっちよりマシでしょうよ!」杏奈は腕をぶんぶんと振るう。「そのせいかどうか知りませんけど、風紀乱れまくってますよあそこ! 休み時間のたんびに誰彼が誰彼と寝たとか嫉妬剥き出しのエグイ話行き交いますしッ、腐女子勢が誰に憚ることなく大声で猥談やらかしてますしッ」
「婦女子の猥談なんか普通じゃないの?」
「ヤ、違うんですよ連中は……! それだけじゃなくて風紀委員が率先して放課後の教室でイチャついてるしっ、女同士で! 信じられます!? あたしまでこのまえ後輩のラヴレターが下駄箱に突っ込んでありましたよ、ああもう鳥肌が立つッ!」
「ううん……?」
まったく耐え難いという風に杏奈は腕を掻く仕草をする。空は反応に困って頭の後ろをがりがり。
「なんだ、恋文までいただいてるなら恵まれてるじゃないか。贅沢な子だね。出会いがないとか言ってないでお付き合いしてみたらどうよ。お試しと思って」
「なにをおっしゃってらっしゃるかっ」論外だとでもいう風に小屋の壁に手のひらをバン。「女の子ですよ!? 女の子! こっちにゃそんなケこれっぽっちもありません! だいたいおかしいじゃないですかそういうの、なんのために人間が女と男に別れてると思ってッ」
「あたしは恋愛自体そんな身を入れてやったことないから知らんけど、同性愛者って人口の五パーセントだか十パーセントだかはいるんだろ? いや、知らんけど……」
「気持ちわるくなったりしません!? そういうの考えるだけで!」
空は考えてみる。海外でクライミング・トリップをやっていた頃、何人か、そういう男たちとザイルを繋ぐ機会があった。よくテレビに露出しているようないわゆるオネェキャラでもなく、どいつもこいつもとびきりタフで、手強い壁を登りきるだけのパワーとしなやかさを持ち合わせ、自分なんかと違いパートナーに対して細やかな気遣いを示すことができ、社交的でユーモアがあり、豪放ながらも繊細な心を抱え、クラシックな登山家と同じように詩人めいた豊かな感受性があり、まあ要するにごく普通の男、ごく普通のクライマーだった。女である自分にも、偏見を脇に置いて、対等なザイルパートナーとして付き合ってくれたものだ。
単純に尊敬できる類の男たちだった。同時にそれぞれがそれぞれなにかしらの傷を抱えてもいた。往々にして、そうした傷ゆえの細やかさでもあったのだ。しばしば偏見の対象、正義の味方の敵側に回されてきた経験からの、諦観めいた心構え。それゆえに、正義を振りかざして安易な穂先を他者に向けることだけはするものかという、厳しい自戒と物静かな思慮深さがあった。
そして、中学から高校時代にかけて数少ない貴重な友のひとりであった鵠沼茜。先日の、別れ際のカミングアウト。年下の女の子と付き合ってる――
結論。「気持ちわるくなったりとかはしないなあ」
杏奈は唇をへの字に曲げる。「あーそうですかっ。とにかくあたしがそういうのゴメンなんですっ、ただでさえ他のことで頭いっぱいなのにそこらじゅうで堂々とイチャイチャ――ねえ姫ちゃん!?」
「はあ?」
どうして私に同意を求めるのか。天見は眉間に皺を寄せる。
しかし、天見の答えはもう出ている。紡をかばうつもりなどこれっぽっちもまったくないが、
「ボルダーで初段ひょいひょい登る女のほうがよっぽど少数派だと思う」
「えっ」
天見はもう一度言う。「学校の帰りに制服でクライミングジムに寄って軽く初段登れる女のほうがよっぽどおかしいと思います。そういうひとって全人類のうちで何パーセントくらいいるんですか? 0,01パーセントくらいですか?」
思いがけず笑いのツボに直撃したのか、空がらしくもなくブッと噴き出した。
完璧かつ完膚なきまでに論破された杏奈は目線を泳がせ、腕を胸元に寄せておろおろ、なにかしら反論しなければと思うのだがその糸口はまったく見つかる気配もない。それもそのはず、そもそもいままさに立っているところからして少しばかりトチ狂っているのだ。しかも女三人で。マイノリティは果たしてどちらなのか。
「あたしのほうがオカシイぜ、って胸張って言えるようになりたいね」
と、空は感じ入ったように言った。
天気図。すぐには悪くならないだろうが、冬の残り香、西高東低の気圧が発達してきており、長居は好ましくなかった。明後日以降にはより悪化するだろう。
ガスが晴れるとしたら明日。朝一で準備し、様子を見てアタックする。山頂までは往復で一時間、梯子と鎖が続くとはいえ、難しすぎるというほどのものではない。確保はスタカットではなく、コンティニュアスで充分だろう。
三千メートルだからか、テントでなくツェルトを張っているからか、昨日や一昨日よりもずっと寒かった。シュラフに包まっていても全身が震える。防寒着を着込み、からだを小さく丸めても、同じだった。ほとんど眠れずに過ごす。
夢と現の境で、天見はぼんやりと考え続けた。
(将来……)
山の広遠な風景そのもののように、手応えがなく、自分の立ち位置と接していない、幻影の陽炎のように感じた。おぼろげに思えば思うほど不安になる。感じるもののすべてが手のひらを離れ、遥か遠くへ掻き消えていくようだ。
(山――)
いま夢中になっているものといえばこれだろう。しかし、いつまで続けていられる?
空でさえ、山で食べているわけではない。これを職業とするなら、ガイドかなにかか。山小屋。登山用品店。客商売? この私が? 登ることだけに専念するならスポンサーがいる。それもそれで人間付き合いだ。バスケのように、プロリーグがあるわけでもない。
趣味とするならあまりに負担が激しい。装備も、交通費も、食糧も、リスクも。こんなに金のかかることはそうはない。わざわざ危険を味わうのに浪費しているようなものだ。本場のヨーロッパでは、かつて登山は貴族の趣味だったとも聞く。庶民の手に届くものではなく。
迷ってばかりで答えが出そうにない。
仮にいま“将来”を決めたとして、だからなんだというのか。
(眠れないから、思考を弄んでいるだけだ)
くだらないことだ。
朝。
なにも見えやしない。ガスは余計に濃くなっており、すぐ近くにいる空と杏奈の姿さえ霞んでしまっている。天見はザックに腰を下ろし、槍の穂先があるはずのほうを見るともなく見つめた。この強い風がすべて打ち払ってくれたらいいのに。雪が降っているようなこともなく、あたりはむしろ明るく、山の機嫌がいいのか悪いのかいまいちわからない。
「待つか」と空はぼそりと呟く。「少し道を見てくるよ。崩れてないかどうか。まあ、大丈夫だと思うけどね」
退屈凌ぎなのだろう、空はあくびさえしている。
杏奈とふたりきりにされ、天見は気が抜けたように息をつく。杏奈は昨日からずっと落ち込み気味だ。結局、性癖の違いなどささいなことで、それを言うなら好き好んで山なんぞやってるほうが変だ。そう指摘されて胸がもやもや。いや、少なからず自覚していたからこそなおさらそう感じている。
そう、普通人から見ればどっちもどっちなのだ。少しまえの登山ブームだの山ガールとかなんとかのことばの氾濫などで近づいて見えただけで、その本質はなにも変わっちゃいない。山は一億年まえからずっと山でしかないのだから。仮に仏典なり聖書なりコーランなりで山が忌み事として禁じられていたら、いまの自分たちのほうがずっと気持ち悪がられていた。たまたま信仰の対象だっただけだ。それに、山と登山者とは結局のところ、別の存在でもある。……
「感覚なんてなんにも当てになんねーなぁ……」
杏奈はひとりごちる。
「はい?」
「おねーさんは疲れちまったよぅ。溜息ばっかり出てくるもんなあ。こうして遥々雪の槍にまでやってきたけど、別の誰かにとっちゃこういうのもどうでもいいことだろうしねー。受験だって、みんながやってることだからやるってだけのことだし。楽しくもないのになあ」
「はあ」
「好きなアーティストがいたのね。ロックバンド。ちっちゃい頃聴いて、そりゃもう人生に深刻な影響及ぼしちゃうくらい大好きだった音楽の。もう耳にタコができるほど聞いてさ、それが価値観の基準になったくらいだったけど、インターネットの通販サイトでさ、レビュー見て……ショックだったなあ。『もう終わったバンド』とか、『昔と比べて劣化した』とか、好き放題書かれまくってて。きちんと聞けばものすごくいい曲だってあるんだよッ! おまえらほんとうに楽曲聴いてるのかッ! ってモニターのまえで思わず叫んじゃったけど。
そういうのも結局、他人の感覚だよねえ……あたしはいまでも大好きなんだから。いまでも新譜心待ちにしてるんだから」
ガスは晴れない。茫洋とした時間が続く。
「姫ちゃんは歌どんなの聴く? 最近はアイドルグループが大流行してるよね」
「歌自体嫌いです。学校の授業で心底うんざりさせられたんで」
「ちょ――ええーっ!? もったいないよそれ! 学校の音楽だけが全部じゃないって!」
「知ってますけどもう厭になってます。ちょっとしたイントロ聴くだけでも鳥肌立って、そこらじゅう手当たり次第に壊したくなる。有名なクラシックだって、テストで点取るための手段にしか見えなくなってしまった。いかにも楽しそうに、明るく歌ってる声とか聴いちゃうと、もう――」
「いやいやいや、ならグランジとかヘヴィメタとかいいんじゃない? 声枯らすくらい絶叫してるヤツ。や、でも他人に薦められて聴いても耳に合うってほうが珍しいか……もったいないなあ……」
少し恨めしげに思う。私は学校のせいで音楽が嫌いになったんだ、と。国語で文学が嫌いになり、算数で数字が嫌いになり、社会で政治が嫌いになり、理科で科学が嫌いになった。どうせ誰も責任なんか取っちゃくれないんだろうけど。甘えるなって身も蓋もないことばでばっさり裁断されるのだろうけど。
「学校で山やってたらやっぱり山が嫌いになってたと思う」
「ええ?」
「登れたら○、登れなかったら×って……そうされてたら、こんなとこきっとこなかった」
杏奈はぷっと噴き出す。「だったらあたしなんか×だらけだ。それなりに登ってきたけど、それと同じくらい敗退してきたんだから。夏休みに南アルプス縦走しに行って、一週間ずっと雨に降られ続けてびっしょびしょ、もうやだ帰る! で北岳から途中下山してきたこともあったよ。あのときはさすがに心折れかけたなあ、視界なんかもうずうっとゼロで」
「私登校拒否してるんです」
「――。……。え、なに?」
「不登校」
杏奈がそのことばに追いつくまでタイム・ラグが発生する。それは杏奈の人生とはあまりに関わり合いのない事象だ。「……お、おう?」
「クラスメイトいきなりぶん殴って。たこ殴りにして。そいつはクラスに蔓延してたいじめの主犯だった。最後になるまで止めようとしなかった私も共犯みたいなものでしたけど。で、それがある日突然厭になって、キレた。
事情なんかクラスのみんな以外には知らないし、先生だって役立たずの木偶の棒だったから、当然私が悪者です。いじめられてた子は親の仕事の都合で転校していった。私はあのクラスにいるのが心底ばかばかしくなっちゃったんですね。というか、学校って場所自体に」
何気なく接していた相手は自分が考えていたよりもずっとヘヴィだった。唐突な感じで打ち明けられ、杏奈はしばし呆然とする。想像などできただろうか? クライミング・ジムで一所懸命に課題に打ち込む、華奢な背中の少女。この四日間弱音のひとつも吐かずに黙々と登り続けてきた真面目で幼い山屋。他の誰でもなく、あたしがその背についていたのだ。ザイルを繋いで。
「中学もあんまり行かないつもりです。勉強はひとりでやったほうがずっと捗るし。休めばそのぶん山に行けるし」
「――しょ、正直反応に困る。びっくりしたよ、全然そんな想像できなかったからさ。うん、たまげた」
「どうも。学校行けと思います? 私から奪うばっかりで、なんにも差し出してくれないってわかりきってるのに」
杏奈は深く溜息をつく。「あたしの感覚なんか当てにならないって思い知ったばっかだからなあ。あたしはこれでもそこそこ学校楽しいけど」
「楽しくない女もいるんです。山が楽しくない人間がいるのと同じように」
学校は義務だと頭ごなしに叱りつけるのは簡単だろう。それがためになることだと深く考えず正義の旗を振るのは容易で正しいことだろう。けれど、と杏奈は思う。それがなんだっていうんだろう? なんだかもうひたすら考えても正しい答えなんか出やしないと感じる。仮に正しかったとしても、そこになんの価値がある?
天見はふと顔を上げる。「――あれ……?」
つられて杏奈も顔を上げる。「おお?」
風が不意に柔らかくなる。母なる者の抱擁のように。ふたりの髪を揺らす指先が光を撓めてたゆたい、その静かな眩さに眼を細める。小屋の周りで雪煙が舞い上がり、薄片がひらめくように陽光がきらきらと反射する。
真っ白で巨大な陽光が群青色を背景に顔を覗かせる。
槍の黒い穂先が露になる。待ち望んだものがいままさに眼前にそびえたつ。
ガスが素早く、速やかに、礼儀をわきまえた兵士の一隊のように遠ざかっていく。
天見はごくりと喉を鳴らして立ち上がっている。「見えた――!」
空が雪の上を駆けてやってくる。その顔はほとんど少女のように晴れ渡っている。「天見! 杏奈! ふたりとも準備! 行くぞ! やっと槍の穂先が機嫌を直してくれた!」
次回更新は木曜日になります。そしてひと段落。
記事の整理せんとォと思いつつもだらけて後回し、後回し……
「ううん、ガスってるね」と空は言った。「下が晴れてるってのに悔しいね。西から雲が近づいてきてるし。今日と明日いっぱい粘って、晴れた隙にアタックかな」
「食糧もちます?」
「それは大丈夫だと思うけど、天候がな。この山域でこれだけの晴天が続くとは思えない。天気図も悪くなってきたし、明後日には下山しないと」
槍の肩。槍ヶ岳山荘冬季小屋。雪に埋もれていた入り口を開き、なかにツェルトを張って、三人は外にいる。天見はぼんやりと周りを見渡す。すぐそばにあるはずの槍の穂先は完全に白いガスに隠れ、なのに、こちら側は青空さえ見えている。どきりとするような視界。世界が雲海に埋もれ、その上に立っているのだ! けれど、だというのに、頂上が透き通っていないというだけで溜息が漏れてしまう。
岩稜を越えてジャンクションピークを登り、西鎌尾根の夏道は強い風に吹き飛ばされて雪が少なく、いっそ快適なくらいだった。しかしそのあいだ、ずっと槍の頂は姿を見せなかった。下界の松本からさえ見えるほど高く、特徴的なあの尖った頂が、近づいてから見えなくなる。このもどかしい矛盾。
天見は鼻を鳴らす。「せっかく早めに登ってきたのに……」
「まあ仕方ないさ」と空。「どんな超人的なアルピニストでも、天候を操ることまではできない。ちょっとばかし隙をついて、ご機嫌を伺って、お邪魔するだけだ。天見と杏奈はなかで休んでていいよ、あたしがこっち見てるから」
「そんなのごめんですよ。なか真っ暗なのに、なにを好き好んで引き篭もってなきゃなんないんですか」と杏奈は当然のように言う。
「天見は?」
「私もここにいます」
冷たく強烈な風が吹きつけ、周囲の温度を一気に奪い去っていく。一般的に、風速が一メートル加速すれば体感温度が一度下がるという。さらに標高にして千メートル上がるごとに、気圧から、下界と比べて摂氏七度ずつ低下していく。いまの風速は十五メートル近くあり、長くはまえを向いていられないほどなのだ。季節は春とはいえ、冬も同然だった。
「今日は無理かな」
空が呟くと、小屋の周りにまでガスが降り始める。
夕暮れが近づくと、ガスは徐々にその色を変え始め、燃えるような黄金色に染まる。視界はもうほとんどない。ガスの流れる速度ははやいのに、ちっとも薄まってくれる気配がない。天見は少し不貞腐れながら、しかし実のところ、初めて味わうガスの胎内に茫然としている。
視界全部を支配するこの色……。柔らかな炎のなかに包まれているようだ。青空の下で思い知らされる突き抜けるような感動ではなく、からだの底から静かに震えるような、不思議な感慨がある。
「姫ちゃん寒くない? 防寒具出しなよ」
「平気です」
「まあいいけど。我慢強いのは美徳じゃないよー?」
しかし、杏奈は天見よりずっと薄着なのだ。ヤッケのジッパーを開け放って、フリースの胸元から剥き出しの細い首筋を曝け出している。
待つだけの時間。今日という日のタイム・リミットも近い。天見は眼を閉じ、いっとき、世界のすべてを吸収するかのように心を開く。自分を遠ざけ、深い淵へ沈み込むように。そうして、辿ってきた道筋を反芻する。入山して三日目。そう長い時間とは思えない、けれどひどく濃密だったようにも感じる。初めてだらけだったのだ。なのにまだ終わっていない。この贅沢で素晴らしい時間といったら!
(――初心者のお楽しみだな。こういう感覚は……)
経験を積めばまた違う悦びを探すのだろう。このふたりのように。漠然とそう思う。
退き際、なのだろう。燃え盛るようなガスの色も次第に色褪せ始め、暗がりが忍び寄ってきたのを感じる。影が濃くなり、視界に闇の色が滲み出す。風もより冷たく、強くなってきた。
「姫ちゃん四月から中学生って言ってたっけ?」
出し抜けに訊かれ、天見ははっと我に返る。「――。はい」
「市立?」
「はい」
「受験もなしか。いいね。高校三年ってなったらいよいよ回りがうるさくなる時期だよね、大学受験で……いまから億劫だよ。登ってるあいだは忘れられてたのに、こうしてると――」
杏奈は溜息をつく。ぶすりと表情を曇らせて、天見を見るともなく見つめている。
「あたしさー、中高一貫のとこ通ってるんだけど、中学のとき受験して、もう勉強のやり方も忘れかけてる。ちょっと失敗だったかもしんない。高校からエスカレーター式に大学行けるとこのほうがよかったかも。いまさら言ってもしゃーないけど」
「はあ」
「高校どこ行きたいかとか決めてる?」
「……いまから考えるのは早すぎだと思ってるんで」
「なんとなくでも考えてたほうがいいかもね。大学でなにしたいかとか。『やりたいことを見つけるために』方式だと、結局めいっぱい遊んじゃうんじゃないかな。って言ってもあたしも全然わかんないんだけど」
不意に現実に引き戻された心地がする。いや、現実ではなく、どうでもいい余計な世界に。
鵠沼紡はバスケに夢中になっていて、それを続けるのだという。高校でもバスケ部に入るのだろう。そのあとは? 彼女のことだから、プロリーグでも目指すのかもしれない。渡米を本気で考えていても、彼女なら不思議じゃないと感じさせる、妙な力があった。そうしたリアリティが紡の周りの空気にはあった。少なくとも紡は将来を視野に入れている。だったら、私は?
「……大学とかまだ遠すぎてわかりません」結局、天見はそのように言う。「でも、いつまでも親の脛かじってたくないって気持ちはあります。高卒で働きたいかもしれない。就職厳しいってわかりますけど」
「忠告をひとつ。女子高はやめときなよー。異性がいないからってやりたい放題でさ、もう混沌としてるのなんのって。止め処がないんだよね。あたしもー心が折れそうだよ、男の子との出会いもないし!」
「はあ……」
空がくすりとする。「あたし共学の県立高通ったけど、こっちだって出会いなんかなかったよ。まあ山ばっか行ってて出席日数ギリギリだったせいかもしれないけど」
「こっちよりマシでしょうよ!」杏奈は腕をぶんぶんと振るう。「そのせいかどうか知りませんけど、風紀乱れまくってますよあそこ! 休み時間のたんびに誰彼が誰彼と寝たとか嫉妬剥き出しのエグイ話行き交いますしッ、腐女子勢が誰に憚ることなく大声で猥談やらかしてますしッ」
「婦女子の猥談なんか普通じゃないの?」
「ヤ、違うんですよ連中は……! それだけじゃなくて風紀委員が率先して放課後の教室でイチャついてるしっ、女同士で! 信じられます!? あたしまでこのまえ後輩のラヴレターが下駄箱に突っ込んでありましたよ、ああもう鳥肌が立つッ!」
「ううん……?」
まったく耐え難いという風に杏奈は腕を掻く仕草をする。空は反応に困って頭の後ろをがりがり。
「なんだ、恋文までいただいてるなら恵まれてるじゃないか。贅沢な子だね。出会いがないとか言ってないでお付き合いしてみたらどうよ。お試しと思って」
「なにをおっしゃってらっしゃるかっ」論外だとでもいう風に小屋の壁に手のひらをバン。「女の子ですよ!? 女の子! こっちにゃそんなケこれっぽっちもありません! だいたいおかしいじゃないですかそういうの、なんのために人間が女と男に別れてると思ってッ」
「あたしは恋愛自体そんな身を入れてやったことないから知らんけど、同性愛者って人口の五パーセントだか十パーセントだかはいるんだろ? いや、知らんけど……」
「気持ちわるくなったりしません!? そういうの考えるだけで!」
空は考えてみる。海外でクライミング・トリップをやっていた頃、何人か、そういう男たちとザイルを繋ぐ機会があった。よくテレビに露出しているようないわゆるオネェキャラでもなく、どいつもこいつもとびきりタフで、手強い壁を登りきるだけのパワーとしなやかさを持ち合わせ、自分なんかと違いパートナーに対して細やかな気遣いを示すことができ、社交的でユーモアがあり、豪放ながらも繊細な心を抱え、クラシックな登山家と同じように詩人めいた豊かな感受性があり、まあ要するにごく普通の男、ごく普通のクライマーだった。女である自分にも、偏見を脇に置いて、対等なザイルパートナーとして付き合ってくれたものだ。
単純に尊敬できる類の男たちだった。同時にそれぞれがそれぞれなにかしらの傷を抱えてもいた。往々にして、そうした傷ゆえの細やかさでもあったのだ。しばしば偏見の対象、正義の味方の敵側に回されてきた経験からの、諦観めいた心構え。それゆえに、正義を振りかざして安易な穂先を他者に向けることだけはするものかという、厳しい自戒と物静かな思慮深さがあった。
そして、中学から高校時代にかけて数少ない貴重な友のひとりであった鵠沼茜。先日の、別れ際のカミングアウト。年下の女の子と付き合ってる――
結論。「気持ちわるくなったりとかはしないなあ」
杏奈は唇をへの字に曲げる。「あーそうですかっ。とにかくあたしがそういうのゴメンなんですっ、ただでさえ他のことで頭いっぱいなのにそこらじゅうで堂々とイチャイチャ――ねえ姫ちゃん!?」
「はあ?」
どうして私に同意を求めるのか。天見は眉間に皺を寄せる。
しかし、天見の答えはもう出ている。紡をかばうつもりなどこれっぽっちもまったくないが、
「ボルダーで初段ひょいひょい登る女のほうがよっぽど少数派だと思う」
「えっ」
天見はもう一度言う。「学校の帰りに制服でクライミングジムに寄って軽く初段登れる女のほうがよっぽどおかしいと思います。そういうひとって全人類のうちで何パーセントくらいいるんですか? 0,01パーセントくらいですか?」
思いがけず笑いのツボに直撃したのか、空がらしくもなくブッと噴き出した。
完璧かつ完膚なきまでに論破された杏奈は目線を泳がせ、腕を胸元に寄せておろおろ、なにかしら反論しなければと思うのだがその糸口はまったく見つかる気配もない。それもそのはず、そもそもいままさに立っているところからして少しばかりトチ狂っているのだ。しかも女三人で。マイノリティは果たしてどちらなのか。
「あたしのほうがオカシイぜ、って胸張って言えるようになりたいね」
と、空は感じ入ったように言った。
天気図。すぐには悪くならないだろうが、冬の残り香、西高東低の気圧が発達してきており、長居は好ましくなかった。明後日以降にはより悪化するだろう。
ガスが晴れるとしたら明日。朝一で準備し、様子を見てアタックする。山頂までは往復で一時間、梯子と鎖が続くとはいえ、難しすぎるというほどのものではない。確保はスタカットではなく、コンティニュアスで充分だろう。
三千メートルだからか、テントでなくツェルトを張っているからか、昨日や一昨日よりもずっと寒かった。シュラフに包まっていても全身が震える。防寒着を着込み、からだを小さく丸めても、同じだった。ほとんど眠れずに過ごす。
夢と現の境で、天見はぼんやりと考え続けた。
(将来……)
山の広遠な風景そのもののように、手応えがなく、自分の立ち位置と接していない、幻影の陽炎のように感じた。おぼろげに思えば思うほど不安になる。感じるもののすべてが手のひらを離れ、遥か遠くへ掻き消えていくようだ。
(山――)
いま夢中になっているものといえばこれだろう。しかし、いつまで続けていられる?
空でさえ、山で食べているわけではない。これを職業とするなら、ガイドかなにかか。山小屋。登山用品店。客商売? この私が? 登ることだけに専念するならスポンサーがいる。それもそれで人間付き合いだ。バスケのように、プロリーグがあるわけでもない。
趣味とするならあまりに負担が激しい。装備も、交通費も、食糧も、リスクも。こんなに金のかかることはそうはない。わざわざ危険を味わうのに浪費しているようなものだ。本場のヨーロッパでは、かつて登山は貴族の趣味だったとも聞く。庶民の手に届くものではなく。
迷ってばかりで答えが出そうにない。
仮にいま“将来”を決めたとして、だからなんだというのか。
(眠れないから、思考を弄んでいるだけだ)
くだらないことだ。
朝。
なにも見えやしない。ガスは余計に濃くなっており、すぐ近くにいる空と杏奈の姿さえ霞んでしまっている。天見はザックに腰を下ろし、槍の穂先があるはずのほうを見るともなく見つめた。この強い風がすべて打ち払ってくれたらいいのに。雪が降っているようなこともなく、あたりはむしろ明るく、山の機嫌がいいのか悪いのかいまいちわからない。
「待つか」と空はぼそりと呟く。「少し道を見てくるよ。崩れてないかどうか。まあ、大丈夫だと思うけどね」
退屈凌ぎなのだろう、空はあくびさえしている。
杏奈とふたりきりにされ、天見は気が抜けたように息をつく。杏奈は昨日からずっと落ち込み気味だ。結局、性癖の違いなどささいなことで、それを言うなら好き好んで山なんぞやってるほうが変だ。そう指摘されて胸がもやもや。いや、少なからず自覚していたからこそなおさらそう感じている。
そう、普通人から見ればどっちもどっちなのだ。少しまえの登山ブームだの山ガールとかなんとかのことばの氾濫などで近づいて見えただけで、その本質はなにも変わっちゃいない。山は一億年まえからずっと山でしかないのだから。仮に仏典なり聖書なりコーランなりで山が忌み事として禁じられていたら、いまの自分たちのほうがずっと気持ち悪がられていた。たまたま信仰の対象だっただけだ。それに、山と登山者とは結局のところ、別の存在でもある。……
「感覚なんてなんにも当てになんねーなぁ……」
杏奈はひとりごちる。
「はい?」
「おねーさんは疲れちまったよぅ。溜息ばっかり出てくるもんなあ。こうして遥々雪の槍にまでやってきたけど、別の誰かにとっちゃこういうのもどうでもいいことだろうしねー。受験だって、みんながやってることだからやるってだけのことだし。楽しくもないのになあ」
「はあ」
「好きなアーティストがいたのね。ロックバンド。ちっちゃい頃聴いて、そりゃもう人生に深刻な影響及ぼしちゃうくらい大好きだった音楽の。もう耳にタコができるほど聞いてさ、それが価値観の基準になったくらいだったけど、インターネットの通販サイトでさ、レビュー見て……ショックだったなあ。『もう終わったバンド』とか、『昔と比べて劣化した』とか、好き放題書かれまくってて。きちんと聞けばものすごくいい曲だってあるんだよッ! おまえらほんとうに楽曲聴いてるのかッ! ってモニターのまえで思わず叫んじゃったけど。
そういうのも結局、他人の感覚だよねえ……あたしはいまでも大好きなんだから。いまでも新譜心待ちにしてるんだから」
ガスは晴れない。茫洋とした時間が続く。
「姫ちゃんは歌どんなの聴く? 最近はアイドルグループが大流行してるよね」
「歌自体嫌いです。学校の授業で心底うんざりさせられたんで」
「ちょ――ええーっ!? もったいないよそれ! 学校の音楽だけが全部じゃないって!」
「知ってますけどもう厭になってます。ちょっとしたイントロ聴くだけでも鳥肌立って、そこらじゅう手当たり次第に壊したくなる。有名なクラシックだって、テストで点取るための手段にしか見えなくなってしまった。いかにも楽しそうに、明るく歌ってる声とか聴いちゃうと、もう――」
「いやいやいや、ならグランジとかヘヴィメタとかいいんじゃない? 声枯らすくらい絶叫してるヤツ。や、でも他人に薦められて聴いても耳に合うってほうが珍しいか……もったいないなあ……」
少し恨めしげに思う。私は学校のせいで音楽が嫌いになったんだ、と。国語で文学が嫌いになり、算数で数字が嫌いになり、社会で政治が嫌いになり、理科で科学が嫌いになった。どうせ誰も責任なんか取っちゃくれないんだろうけど。甘えるなって身も蓋もないことばでばっさり裁断されるのだろうけど。
「学校で山やってたらやっぱり山が嫌いになってたと思う」
「ええ?」
「登れたら○、登れなかったら×って……そうされてたら、こんなとこきっとこなかった」
杏奈はぷっと噴き出す。「だったらあたしなんか×だらけだ。それなりに登ってきたけど、それと同じくらい敗退してきたんだから。夏休みに南アルプス縦走しに行って、一週間ずっと雨に降られ続けてびっしょびしょ、もうやだ帰る! で北岳から途中下山してきたこともあったよ。あのときはさすがに心折れかけたなあ、視界なんかもうずうっとゼロで」
「私登校拒否してるんです」
「――。……。え、なに?」
「不登校」
杏奈がそのことばに追いつくまでタイム・ラグが発生する。それは杏奈の人生とはあまりに関わり合いのない事象だ。「……お、おう?」
「クラスメイトいきなりぶん殴って。たこ殴りにして。そいつはクラスに蔓延してたいじめの主犯だった。最後になるまで止めようとしなかった私も共犯みたいなものでしたけど。で、それがある日突然厭になって、キレた。
事情なんかクラスのみんな以外には知らないし、先生だって役立たずの木偶の棒だったから、当然私が悪者です。いじめられてた子は親の仕事の都合で転校していった。私はあのクラスにいるのが心底ばかばかしくなっちゃったんですね。というか、学校って場所自体に」
何気なく接していた相手は自分が考えていたよりもずっとヘヴィだった。唐突な感じで打ち明けられ、杏奈はしばし呆然とする。想像などできただろうか? クライミング・ジムで一所懸命に課題に打ち込む、華奢な背中の少女。この四日間弱音のひとつも吐かずに黙々と登り続けてきた真面目で幼い山屋。他の誰でもなく、あたしがその背についていたのだ。ザイルを繋いで。
「中学もあんまり行かないつもりです。勉強はひとりでやったほうがずっと捗るし。休めばそのぶん山に行けるし」
「――しょ、正直反応に困る。びっくりしたよ、全然そんな想像できなかったからさ。うん、たまげた」
「どうも。学校行けと思います? 私から奪うばっかりで、なんにも差し出してくれないってわかりきってるのに」
杏奈は深く溜息をつく。「あたしの感覚なんか当てにならないって思い知ったばっかだからなあ。あたしはこれでもそこそこ学校楽しいけど」
「楽しくない女もいるんです。山が楽しくない人間がいるのと同じように」
学校は義務だと頭ごなしに叱りつけるのは簡単だろう。それがためになることだと深く考えず正義の旗を振るのは容易で正しいことだろう。けれど、と杏奈は思う。それがなんだっていうんだろう? なんだかもうひたすら考えても正しい答えなんか出やしないと感じる。仮に正しかったとしても、そこになんの価値がある?
天見はふと顔を上げる。「――あれ……?」
つられて杏奈も顔を上げる。「おお?」
風が不意に柔らかくなる。母なる者の抱擁のように。ふたりの髪を揺らす指先が光を撓めてたゆたい、その静かな眩さに眼を細める。小屋の周りで雪煙が舞い上がり、薄片がひらめくように陽光がきらきらと反射する。
真っ白で巨大な陽光が群青色を背景に顔を覗かせる。
槍の黒い穂先が露になる。待ち望んだものがいままさに眼前にそびえたつ。
ガスが素早く、速やかに、礼儀をわきまえた兵士の一隊のように遠ざかっていく。
天見はごくりと喉を鳴らして立ち上がっている。「見えた――!」
空が雪の上を駆けてやってくる。その顔はほとんど少女のように晴れ渡っている。「天見! 杏奈! ふたりとも準備! 行くぞ! やっと槍の穂先が機嫌を直してくれた!」
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姫ちゃんのような人がいたら話を聞いてみたいものです。