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2025/02/08 08:52 |
そらとあまみ 27
オリジナル。登山小説。だと主張。


次回の更新は月曜日になります。次と、その次で一段落します。
のんびりと。……してる場合でもないんですけどねっ!

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 夜が寒く、まどろみの境界をさまよう。
 眠りきれず、目覚めきれない、もどかしい時間が長く、あるいは短く続く。断片的な夢。身を捩り、シュラフのなかで何度も寝返りを打つ。隣で眠っている杏奈と何度かぶつかり、そのたびにごそごそとからだを遠ざける。
 腕時計のELライトを何度も点灯させて、時間を確認する。四時の起床まで遅々として進まない。が、気づくと五分まえになっており、そこまでくると、目覚めることのほうが億劫になる。もやもやと心が淵と淵を行き来する。

 しかし、歯を食い縛る。
 ピピピ……と軽い電子音が鳴ると同時に起き上がる。ほとんど同時に身を起こした空と杏奈を横目でちらりと見て、天見は鼻息荒くシュラフを片付け始める。昨日みたいに、遅れをとってなるものか。かじかみ、ろくに動かない指を叱咤してコンプレッション・バッグにシュラフを力ずくで突っ込む。さらにその上からビニール袋でパッキング。

 「櫛灘さん天気どうです?」
 「んー」空は外に顔を突き出して、「少しガスがかってら。晴れると思うけど……槍はどうだろ。まあ行くだけ行ってみよ」

 今日の朝飯は明太子パスタ。朝は手軽な麺類が便利だ。そして紅茶はやっぱりとことん甘い。
 食器はすべてロールペーパーで拭く。水は貴重だから、皿洗いには使わない。雑菌の繁殖? そんなことをいちいち気にしていられるか。
 一息つく間もなく、テント内を片付け始める。けれど今日は昨日と違い、頂上アタックに不要なものはデポしていくから、そのぶんだけ早い。重量の関係で天見はアタックザックを持ってきていないので、八十リットルのザックはすかすかだ。ハーネスやザイルは装備していくから、それだけさらに軽くなる。

 出発からアンザイレンしていく。ふたりは手馴れた様子でハーネスにザイルを通し、袈裟懸けにザイルを巻く。空が先頭で杏奈がしんがりだ。ふたりに挟まれるかたちになる天見は、ザイルの真ん中をエイトノットにして安全環付きカラビナに通すだけだから、煩雑な操作は必要ない。
 ただ、安全環はロックしないでおく。夏や壁と違い、凍りついて解除できなくなる可能性がある。

 「ふたりとも準備は?」
 「いつでもオッケーでーす」
 「私も」
 空は頷く。「優秀なパーティで助かるね。じゃ、行こう。明るくなる頃には岩稜の取り付きかな……」




 突き抜けるような青空が広がっている。しかし、目指す槍ヶ岳の上部はガスに覆われ、穂先が隠れてしまっている。
 無二の風景を友に、黙々と歩く。小さな登り下りを繰り返しながら進む。幅の広い稜線。枯れた樹木の頭がところどころに出ているのも、次第になくなる。振り向けば中崎尾根の全容が谷間に挟まれるようにして広がり、半分は東からの光に、稜線のうねりを境に、もう半分は影に埋もれている。くっきりとした区切りが清々しい。

 (広いな――)

 そんなことを何度も思っている。
 途轍もなく広大な風景のなか、トレースが残っているにもかかわらず、見えるところにいる登山者は自分たち三人だけだ。右隣の飛騨沢を詰めるコースもあるのだろうが、この時期は雪崩が怖い。上から見下ろす限り、トレースもないようだった。

 この世界に私たち三人だけ……
 そんな感覚に取り憑かれ、天見は少しぞっとする。背筋が怖気だったのは、恐怖からか、それともある種の快感からか。満たされた独占欲にも似た心地がある。
 いつもはやかましいくらいの空も杏奈も、こうして歩いているうちは黙りこくっている。ふたりはなにを思っているのだろう? どちらも私よりも遥かに深く山と接してきた女だ、たぶん。そうしたところにいる人間は、この世界になにを見ているのだろう? なにが見えているのだろう?

 (足の裏で雪が重い。アイゼンにへばりついて、団子になってるんだ。ピッケルの柄で叩いておかないと、歩くことすらままならない。私の知ってる下界とはなにもかも……違う)

 風の音が凄い。
 上空でごうごうと唸っているのを、肌で感じる。けれど不思議とここまで吹いてこない。左右の稜線が壁になっているのだろうか? 雲の流れが驚くほど速く、雪面に落ちる影が次々と移り変わっていく。白く巨大な陽光に眼が焼かれる。
 サングラスをかけると世界の色が変わる。セピア色に近い。見上げると、さっきから槍の穂先のガスが途切れていない。あそこに到達したとき、私はなにを見ることになる? なにも見えないかもしれない。こちらはこんなにも晴れているのに、あそこだけ白い。

 (なかなか近づけない。近づいてる気がしない。でも、稜線が細くなってきた……)

 ところどころ雪庇が発達している。トレースはそこを避けるように刻まれているが、時折、どきりとするほど接近しており、先頭の空が新しい道筋をつけていく。
 稜線上だからか、樹林帯ほど雪は積もっていない。膝までのラッセル。二番目の天見にはそれほど負担はかからないが、踏み固められたトレースよりも格段に歩き辛くなる。が、それもささいなことだ。しっかりとピッケルを刺しながら登る。

 (からだの節々が痛いのは無理な体勢で寝ていたせい? 今日が入山して三日目だから? 大して無理な行動はしていなかったけれど。自分の脆さを思い知らされるみたいで、悔しいな。この登山靴に履き慣れてないとは思わないけど、かかとの皮膚が削れているみたいに、ひりひりと痛む。
 これは申告するべき? それほどツライとは思えない、でも……いや……もう少しきつくなったら言う。これくらいなら問題ないって判断する。まだなんの支障もなく動けてるんだから。そう線引きしておこう)

 一時間経って、休憩に入る。ザックを下ろし、天見はふうと息をつく。

 「見た感じ――」空は行く先を見上げて、「そろそろジャンクションピークだね。千丈沢乗越……中崎尾根はここが核心部だって言われてる。右側のルンゼのほうが易しいけど、雪崩が怖い。詰めるだけ詰めて、そうしたら岩稜を登りたいね」
 「コンティニュアスですか?」と杏奈。
 「うんにゃ、スタカットしてこうか。時間に追われてるわけでもないし、それが確実だ。面倒くさがらずに行こ。天見は大丈夫? 調子悪いとかない?」
 「平気です」
 「よし」

 レーションのチョコレートをがりがりと噛み砕く。その甘さだけでエネルギーが回復するようだ。
 そして、ゆく。ザイルを解いて結びなおし、空が自由に登れるだけの長さを確保する。ビレイヤーは杏奈だ。天見はセルフビレイをして、空が引き上げる態勢を取るまで待機する。

 「肩がらみでいいよ」と空は言う。「どうせ墜ちない」
 「フラグじゃないですよね?」空と初めて登る杏奈は懐疑的だ。
 「ふらぐ? 旗がどうしたの? まあ、万が一があったらザイル切っちゃっていいよ。ちゃんとプロテクションは取ってくからさ。スノーバーちょうだい」

 スノーバーは長さ六十センチほどの、アルミ製の平板で、上から見ると<のかたちになっており、雪に埋めて支点に使う。空は杏奈から数本受け取り、ザックに外付けする。残りはその場で支点をつくり、ピッケルとともに、フォローのふたりを確保する。

 「天見もいるから、はやめにいっちゃう。ザイルどんどん出してね、さすがに後ろから引っ張られるのだけはごめんだ」
 杏奈は頷く。「ビレイおっけい」
 「登るよ」

 杏奈の左肩を回り、右腋から空へ伸びるザイルがするりと滑る。杏奈はその動きに従ってザイルを繰り出す。雪のついた岩肌。空が一歩目を踏む――
 そう見えた瞬間、空のからだはもう数歩先へ踏み出している。

 「……は?」

 杏奈がぽかんと口を開ける。
 と思ったときには、たるんでいたザイルが伸びきりかけている。

 「――えっ、ちょっ!?」

 杏奈は慌てて腕を上下させ、手袋の上でザイルを滑らす。ザイルがほとんど落ちるような速度で引っ張られていく。空の姿がみるみるうちに遠ざかっていく。しかし、落ちているのではない。登っている。岩稜にアイゼンを置き、不安定なはずの足場でほとんど霞むようなスピードで動く。一歩を踏み出したと見えた瞬間には五歩は先へ進んでいる。
 迅い!? 杏奈は静止する間もなくザイルを繰り出し続ける。五十メートルのザイルが気づいたときには、

 「っ! 櫛灘さんザイル半分!」
 空の呑気な声が遠くに聞こえる。「はいよー」

 そこでようやくザイルの流れが緩み、空がスノーバーを埋めているのが見える。
 はやいというよりは時間そのものを小刻みにスキップしているような速度。空の動きそのものはむしろ優雅なほどなめらかに緩い。が、ところどころ意識のへりから逸れる。そのあいだだけ認識の外側にはずれ、現実に戻ってきたときには、数歩先へ飛んでいるようなムーヴ。杏奈は眼を瞠る。あれはなに!?
 空が動き出す。やはりまったく滞りのないなめらかさで、ザイルを出すほうが遅い。杏奈はまったく信じられないような思いに圧倒されかける。

 「――ザイルあと十!――あと五っ!」

 続けざまにコールする。ザイルの流れが止まる。空が支点をつくり始めた。それはわかる、でも、いまのは? 杏奈はいま見たものが現実として信じられない。あんな登り方ってあるわけ!?

 「ちょっと、ねえっ、姫ちゃん!?」隣で同じように空を見上げている天見を小突いて、「なにあれ――いまのって! 櫛灘さんっていつもあんな登り方するわけ?」
 天見も天見で唖然としている。「――私も、空さんとザイル繋いだのって一回しか――広沢寺で、ロッククライミングのときに。あのときは私に手本を見せるように登ってたから、ほんとうに登るの見るのっていまのが初めて……」

 天見はようやく、そのとき芦田が言っていたことを理解する。『技術書がことばにできない全部をあいつの選択が体現してる。これは大袈裟にじゃなく、控えめに言ってることだ』。『知ってるヤツのあいだじゃ都市伝説みたいに言われてた。魔女だの雪女だの山姥だの』。

 (魔女)

 芦田が言っていたのはこういうことだったのか? たしかにあのとき、空のムーヴはどこか現実離れしているようで、天見には理解しきれなかった。自分が初心者だからそう感じたと思っていたのだ。クライミング・ジムで見た杏奈のような動きではなく、一見してわかりにくいのは私の感じ方のせいだと。けれど芦田の言が、大袈裟な比喩ではなく、いまの動きを指して言っていたというのなら、もしそうならほんとうに――

 「ビレイオーケー! ふたりとも登れ!」

 空からのコール。ふたりは顔を見合わせ、天見は息をつき、杏奈は肩を落とす。
 「行こっか」と杏奈。
 いま見たものに説明がつけられない。天見は頷くしかない。「はい」
 支点を回収してコールを返す。

 「登ります!」




 ピッケルをダガーポジションで持ち、剥き出しの岩肌に注意深くアイゼンを置く。鋼の爪ががりがりと黒い岩を削る。
 (雪を歩くんだ、雪の上を)
 クライミングというほどの傾斜ではない。しかし歩行というには斜度が強い。真の核心部はルンゼから巻き、避けている。一歩ずつ刻むように進めば危険というほど危険ではない。

 「姫ちゃん、平気?」
 「はい」
 「後ろからフォローしてたげるからね。櫛灘さんみたく行こうと思わないように。あんなのあたしだって無理だよ」

 天見は頷く。先ほどの空を目の当たりにして、まだ意識がざわめいているようだ。次元の違うものを見てしまった、そういう感覚に近い。あれが五年ものブランクがある人間の登攀?
 実際にこうして辿ってみればわかる。足元は岩混じりの雪に不安定、空のトレースをはずれればハイマツが顔を覗かせ、ずぶりとからだが沈む。空は完璧なルートファインディングをやってのけたのだ、と驚いてしまう。いや、眼に見ることができた登り方よりも、こちらのほうが驚嘆すべきことじゃないか?

 (にしたって、中間支点が少なすぎて怖いんだけど)

 スノーバーを真上から引き抜きながら思う。これで墜ちていたら――と、想像して溜息。空という女がどういうレベルで登っているのか。
 とにかく、いまは私のことだ。
 やってはならないのは急かされて自分の能力以上の速度で突っ切ろうと無理をすること。無理なことはなにをどうやったって無理なのだ。山ではその判断が生死に直結する。いまは時間的にも、ペース的にも、余裕を持った行程なのだから、限界に挑戦すべきときではない。ザイルの流れを正確になぞり、ピッケルを存分に活用し、自らのアイゼンを脚の内側に引っ掛けないよう、歩幅はハの字を意識する。そして、キックステップ。足裏と傾斜をフラットに。アイゼンの十二本爪を余すところなく使うように。

 (後ろで篠原さんが見ててくれてる。それは安心感がある。でも、頼りにするな。登ってるのは私自身なんだから)

 毎朝走り込んできたし、クライミング・ジムにも通ってきた。身体能力だったらそう悪いものじゃないはずだ。そのことに関しては少しばかり自信を持っていい。
 歩くばかりでは越えられないルート。でも、難易度的にはちょっとしたジャングルジム程度の登攀だ。この広大な環境と、からだを凍てつかせる寒さと、ごてごてとした重装備で大層に感じているだけ。それがわかっていても、アイゼンを滑らせてしまわないか不安になる。

 広沢寺のゲレンデで登ったときよりもずっと切羽詰った恐怖が胸に押し寄せる。この感覚!
 恐怖を踏み越えていくのだ。正確に状況を認識すれば、決して大したことをやっているわけじゃない。ボルダーのときのように、一手ずつ越えていけ。かといって遅すぎても駄目。確実性と、勢いと、スピード感がいる。あとは単純な勇気。無力な子供のように膝を震わせている場合じゃない。

 (空さんがなにも言わなかったってことは、私でも登れるルートだと判断してるってことだ。だったら、とにかくリーダーを信じて、行く。駄目だったら次から信じなければいい、それだけのことだ)

 ひたすら動き続け、小気味良く高度を稼ぐ。無茶じゃない。墜ちればもちろん危険なんだろうが、それはどこでも同じだ。確実に登る。安全に。

 (安全に。……でも、ほんとうに安全を突き詰めるべきだったら、そもそもこんなとこくるものじゃないよな……)
 その皮肉に内心でくすりとする。

 杏奈はついてきている? 何気なく後ろを振り返り、はっとする。
 たしかにそこに杏奈がいるのだが、その後ろ。ほとんど足元がないかのような高度感に、広遠な視界――辿ってきた中崎尾根が一望できる! 生きているかのようにぎざぎざの曲線を描くライン。天と地の境界線!
 恐怖を飛び超えて軽く笑ってしまう。頭がちょっとばかりおかしくなりそうなどでかさだ。そして、鮮烈な色合い。雪の白、岩の黒、空の蒼。色彩は乏しいくらいなのに、どんなハイビジョン、どんな高画質、どんなヴァーチャル・リアリティよりも遥かに鮮明に映る。初めて正しい意味で理解する、現実という名の美麗さ。

 (なんかもう……)

 振り切るようにまえを向き、空のいる場所を目指す。
 さっきから心臓がうるさい。呼吸も。こんなに高揚しているのは生まれて初めてかもしれない。
 もっと登りたいと思う。この時間が永遠に続けば……いや……次の山へも行きたい。その次の山へも、そのさらに先の山へも。そうして、私は……
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2013/05/09 19:20 | Comments(2) | SS

コメント

空さんは背中で語るタイプかしら。
格好良い。
結構文量あるはずなのに一瞬で読み終わってしまう。
posted by 無題 at 2013/05/11 23:57 [ コメントを修正する ]
>>無題様
一回の更新につきおよそ十キロバイトになっております。そんなに文量あるほうじゃないのでお気軽にどうぞ! 参考までに本ブログの「東方闇黒片」は全部で六百キロバイト――……自分で計算してみてドン引きしたなんだこの容量……
posted by 夜麻産 at 2013/05/13 19:11 [ コメントを修正する ]

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