――と、あんな。オリジナル。山岳小説風。
次回の更新は木曜日になります。小刻みにっ
……逆にこっちに書くことがもうありませ(ry
闇の静寂。
腕時計のアラームが突如として重なって鳴り響き、空と杏奈はほとんど同時に素早く身を起こす。ヘッドライトの光が二条、テントの内壁を曖昧に照らす。天見は寝惚け眼でふたりを見つめ、一瞬、ここがどこでふたりが誰だかわからない。が、ようやく現実に追いつくと、慌てて起き上がる。
そのときにはもう杏奈は水を沸かし始め、空はシュラフを片付け始めている。
「代わるよ、杏奈。シュラフ片付けな」
「りょーかいっす」
「天見? 起きてる?」
天見は寒さに苦労しながらシュラフから這い出る。「はい」
空と杏奈の動きには朝特有の鈍さというものがない。天見は感嘆して思う。このひとたちほんとに眠ってたの?
いっときも止まることなく、餅の乗っかった即席ラーメンの朝飯ができあがる。簡単に素早くつくれるわりには腹持ちがいいメニュー。すぐにコーヒーも出てくる。例によって例の如く、砂糖をたっぷりとぶちこんだ甘ったるい、黒々とした液体。
空は天見に言う。「水分はたくさんとっておきな。トイレが近くなるけど、凍傷になるよりマシだ」
「はい」
「寒いね」入り口のジッパーを開き、外を覗いて――「いいね。暗くてわかりづらいけど、雲はなさそうだ。ガスってもいない。天気図でも、しばらく好天が続きそうだった」
杏奈はにこりとする。「うひー、ついてるついてる」
冷え切ったからだに、ラーメンの熱い温度が痛い。しかし、からだの芯から温まるような感覚はない。喉元過ぎれば温かみは薄れてしまう。
黙々とパッキングしなおし、ザックに荷物を詰めていく。天見にはまだ勝手がわからないが、ザックの容量には余裕がある。強引に押し込めば多少はかたちがよくなる。ごそごそする音がテントの内部で重なる。
「天見。慌てなくていいからね」
「そそ。のんびりやればいいよー。とか言われると余計に焦るよねー」
呑気なふたりの声。なのに動きはやたらと素早く、無駄な動作が徹底的に削ぎ落とされている。山女ども、と内心で呪いながら、ヤッケとオーバーズボンを着込む。ニット帽とネックウォーマーも。二重の靴下に、三重の手袋。登山靴を履くのも鈍く、その上からロングスパッツ(ゲートル)。
準備だけで疲れてしまいそうだ。
テントから這い出る。まだ暗い、けれど星の瞬きは薄れ、夜明けまえの藍色の闇が世界を覆っている。自分たち以外にも、ヘッドライトの光の筋が夜を裂いている。早々に準備を終えて出発しているパーティもいる。
「時間的には余裕があるよ。肩の小屋まで行かないからさ」と空。「それに、トレースもはっきりついてる。それはそれで楽しみが薄れちまうけどね。天見にはいい具合だ」
杏奈がうんうんと頷いている。ラッセルの楽しみ? 天見にはその感覚がよくわからない。
テントを片付け、念入りに準備運動をして、縮こまった筋肉をほぐし、アイゼンを装着する。ピッケルも。アンザイレンはせず――ザイルは結ばず――順番は昨日と同じ。空、天見、杏奈。
「さあ、出発。危ないところはないだろうけど、稜線上は風が強いかもね。中崎尾根は広々としているけれど、尾根は尾根だ。
天見? 昨晩はよく寝れた?」
「はい」
「そりゃよかった。慣れてないと、夜中に何度も目覚めちゃうものだけどね……」
実際、何度も目覚めてきちんと眠った感覚はなかった。それでも、言ってたまるかと思う。限界はまだ遠いと自分でわかっている。
(からだの調子はいいくらいだ。昨日くらいのペースだったら、いくらでもついていける。幕営するのは二千五百メートルくらい……今日はあんまり、距離は稼がない)
それでも気を抜けないとわかってはいる。
槍平夏季小屋の横から伸びているトレースを追い、方角は西、対岸へ。夏道で言えば、奥丸山――2439メートルのピークへ延びている尾根道だ。
地図上の等高線はひどく狭い。それはつまり、かなりの急登ということだ。樹林帯が続いており、展望はよくない。そして、ところどころ幅が細い。少しバランスを崩せば転げ落ちてしまいそうな箇所もある。
雪の感触を足裏全体でたしかめながら、空の後を追う。
トレースはバケツ状になっているが、キックステップを踏まなければずるずると雪ごと滑ってしまいそうだ。しっかりとピッケルのシャフトを刺していく。朝方ということもあってかなり冷え込んでおり、雪の状態自体は悪くない。ずぶずぶの腐ったものではないし、不安定な新雪でもない。好条件、なのだろうか? 天見には判別がつかない。
(傾斜がきついな。ふくらはぎが痛くなりそう。クライミングの壁ほどじゃないのが逆に……脚だけに負担がかかって、全身に荷重を逃せない。どうやったらうまく登れる?)
集中を深め、肉体の声に向けて静かに耳を澄ます。
しかし、はっきりした最適解はもたらされない。こればかりは筋力? 柔軟性? 基本的なスペックが足りないのか。あるいは、慣れ。肉体と神経、脳髄にこの状況を適応させろ。でも、雪山という環境自体、私にとっては異世界そのものだ。
異境。じんわりと心が熱くなるような感慨がある。
(この感覚があるうちは慣れないだろうな……)
新鮮さは未知からくるものだ。そうしてその一方で、この未知という領域が消えないことを願っている天見の一部もある。
ふと、ヘッドライトの光が照度を弱めていることに気づく。足元を浮き上がらせるまんまるの照明が柔い。電池切れ? こんなにはやく!? 焦りかけ、はっとする。光が緩んでいるのではない。弱くなっているのは、夜の闇のほうだ。
ザックで不自由なからだを捻じり、振り返る。
東の空が白んでいる。穂高から槍までの稜線がくっきりと姿を現し、真後ろからの陽光に照らされ、幕のような影を伸ばしている。
夜明けだ……
「いい感じじゃない?」空はにやりとする。「ペースは充分だし、このピーカン照りだ。中崎尾根ならわりとどこでも幕営できる。ついでだ、少し後戻りして、奥丸山のてっぺんを踏んでおこうか?」
杏奈がそわそわと身を揺らす。「いいですね。いいですね。合流して往復三十分くらいですか? 全然余裕じゃないですか、ねー姫ちゃん、姫ちゃん?」
「どう、天見? あんたはどうしたい?」
そんなことを急に言われても困る。その三十分がどれほどのものなのか、天見にはまったく未知のものなのだから。初心者は判断してはならない。その原則に従えば、私はこのふたりに黙ってついていくしかないんだから。でも。けれど。
「……行けますか?」
空も杏奈も屈託なくにこにこしている。「そりゃあんた次第だ」
「じゃあ……行ってみたいです」
「決まりだね。中崎尾根と合流したらザックをデポしてピストンしよう。天見、テルモス出して」
黒く澄んだ青空。激運に恵まれたか、雲はない。
樹林帯がまばらになり、視界が開けてくる。ところどころで雪から飛び出ている枯れた樹木は景色を遮るものではなく、振り向けば、穂高から槍への広大な山容が近い。
急登も、中崎尾根と交わると一気に緩やかになる。
広い――
樹林帯や、谷間ばかり進んできたせいか、天上まで一息に突き上がることさえできそうな印象さえある。自分たちの姿が豆粒のようだ。天見は背筋を逸らし、そこで初めて息をしたかのように、胸を凍てついた空気でいっぱいにする。ヤッケの首元から染み入る冷たい風が心地良い。
(岳沢でも、稜線に上がることはなかったからな……)
天見にとってそうした景色は初めてのものだ。塔ノ岳のときとは、スケールも標高もまるで違う。優劣とかではなく、まるで別物の世界なのだ。
ザックを下ろすと、急にからだが軽くなった。飛べそうなほど。その落差に驚きながら、天見は空の後についてさらに登る。
奥丸山は標高2439メートル。新穂高温泉から中崎尾根の途上にあり、3000メートル級が林立する飛騨山脈、北アルプスにあって、特別際立った峰ではない。深田久弥百名山や、二百名山からも外されており、メジャーな数々の名峰のすぐそばにあることもあいまって、決して人気の高い山と言うことはできない。
奥丸山が他の山々よりも群を抜いているのは、山頂からの絶景にある。新穂高から小池新道に登る際、穂高側を常に遮るように延びている中崎尾根だけあって、そちらからの光景を独占しているのだ。『飛ぶ鳥も通わぬ』滝谷から大キレットを一望できるだけでなく、かすかに見える槍の穂先、西に眼を向ければ百名山の笠ヶ岳から続く抜戸岳に弓折岳、南の彼方には乗鞍高原、乗鞍岳まで――
そしてなにより、この時期、すべては雪に埋め尽くされている。
(――大きい)
掛け値なしの広遠をまえにし、天見は自分の心が震えるのを感じた。
目的地ではない。杏奈のことばを借りれば、それは序の口だ。こんなところで感受性を使い果たしていては最後まで持たない。だが、山頂だった。
天見はひとつの山頂を踏み締めていた。
「このまま最後まで晴れてるといいね」と空。
杏奈は鼻で笑った。「いやー、そんなうまくいくとは思えないですけどねっ。どうせどっかで落とし穴ありますよ、期待が最後まで裏切られなかった試しなんてあたし一度もないです」
「アハハ! まあ期待するだけならタダだよ」
ラジオを耳に押しつけ、空の手が天気図の上で素早く動く。天気と気圧、風向きを記入し、等圧線を刻んでいく。
テントを張ったのは昼すぎで、早すぎるくらいだった。稜線で遠くまでは行けないが、外で陽射しを堪能する時間まであったくらいだ。風がひっきりなしにテントの壁を叩いているが、吹き飛ばされるほどのものではなく、稜線そのものが適度な防風壁になってくれるだろう。
「明日には登っちゃいたいね。とにかく行ってさえしまえば、ここに戻ってきてもいいし、山荘の冬季小屋のなかでツェルトなりなんなり張ってもいい」
「装備全部持ってきます?」
「アタックザックでいいと思うね。テントキーパーいないけど、一晩くらいならどうってことないでしょ。たっぷり雪壁つくってやったし」
「吹き溜まりにならないか心配ですけどねー」
「そしたら掘り起こせばいいさ」
晩飯は牛丼、飲料はレモネード。乾いた風に痛んだ喉に染み入るようだ。レトルトとはいえ、疲労した肉体に肉もありがたい。
天見は黙々と口を動かした。疲れているせいか、唾液の出が悪く、いつもよりゆっくりしか食べられない。腹は減っているのだが、うまく摂取できない、そんな感覚がある。体力が尽きているということはないと思うのだが、高度のせいかもしれない。不慣れな環境。
「そういえば姫ちゃんさ」
「はい?」
「『天見』って変わった名前だよねえ。あんまり聞いたことないな」
退屈凌ぎなのだろう、尋ねたというよりは、ぼんやりと口にした感じだった。杏奈の眼はこちらを向いているものの、熱心さはない。
天見は眉をひそめながら、「別に……大した意味があるわけじゃないらしいですけど。父方の曾祖母の名前だったらしいです。で、その曾祖母が言うには、曾祖母のまた曾祖母が、天見って名前だったらしくて……」
「ああ、脈々と受け継がれてるみたいな感じなんだ?」
「考えるのが面倒だったんじゃないですか」
「んん?」
放り投げるようなことばに杏奈は首を傾げる。
姫川親子の確執を知っている空は微妙な思いに縛られて小さく溜息をひとつ。が、親子の問題は親子のものであって、空のものではない。心を逸らすようにくすりと微笑んで、
「そういう『杏奈』はアンナプルナのアンナだろ?」
杏奈はひくりと頬をひくつかせる。「……ご名答」
天見は空に眼を向ける。「アンナプルナ?」
「篠原のやつがただ一座だけ登頂した8000メートル峰だ。ヒマラヤの……。あたしも子供の頃にゃ、モーリス・エルゾーグの『処女峰アンナプルナ』を読んで、憧れたもんだ。娘にそんな名前を贈るなんて篠原らしいけどね。いい名前だと思うよ。サンスクリット語で『豊穣の女神』」
杏奈は鼻を鳴らす。「ただの山バカですよぅ。たまたまアンナプルナだったからよかったものの、ブロード・ピークとかガッシャーブルムとかシシャパンマとかダウラギリとか登ってたらどうしてたんだって話ですよ。ブロ子だのガシャ子だのそんな名前になってたんですかねっ」
「いいんじゃない? 仮にエベレストだったら、チョモランマで『大地の母神』だ。そういやあいつプモ・リにも登りたがってたな。『娘の山』……」
「普通の名前でよかったんですよあたしは。花子とか桜子とかそんな感じの」
天見は少し杏奈を羨ましく思う。名前なんかで一喜一憂するなどくだらないことだが。
「空さんは?」
「ん、あたし?」
反射的に訊いて、天見は後悔する。空の父親はもう亡くなっている。
空は気にした様子もなく、しかしちょっと恥ずかしげに頭の後ろを掻いて、「あたしはまあ、山とは関係ないんだけど。ガキの頃、なんとなく親父に訊いてみたらさ……」
少し口を噤んで、柔い苦笑を浮かべて続ける。「『世界でいちばん美しいものの名を贈ろうと思った』、だってさ。シンプルでわかりやすくて、好きっちゃ好きだけど、あたしにはちょっと大それたもんだったね。いまさら改名しようとも思わないんだけど……」
空の目許が少し紅く染まる。
テントの狭い空間に、どこかしんみりした空気が流れ、三人はそれぞれ口を噤む。絞られたガスの火だけが礼儀正しく動き、緩やかな温度を保っている。
天見はなんとなく、下界で暇に飽かせて読んだ石川啄木の短歌を思い出している――“この四五年空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?”。
私は空を見ることができている、と思う。でも、見ることはできても捉えることができている? 山の情景はあまりにも広遠すぎて実感がない。異世界を垣間見たように、覗き込んだだけだ。ただ……
次回の更新は木曜日になります。小刻みにっ
……逆にこっちに書くことがもうありませ(ry
闇の静寂。
腕時計のアラームが突如として重なって鳴り響き、空と杏奈はほとんど同時に素早く身を起こす。ヘッドライトの光が二条、テントの内壁を曖昧に照らす。天見は寝惚け眼でふたりを見つめ、一瞬、ここがどこでふたりが誰だかわからない。が、ようやく現実に追いつくと、慌てて起き上がる。
そのときにはもう杏奈は水を沸かし始め、空はシュラフを片付け始めている。
「代わるよ、杏奈。シュラフ片付けな」
「りょーかいっす」
「天見? 起きてる?」
天見は寒さに苦労しながらシュラフから這い出る。「はい」
空と杏奈の動きには朝特有の鈍さというものがない。天見は感嘆して思う。このひとたちほんとに眠ってたの?
いっときも止まることなく、餅の乗っかった即席ラーメンの朝飯ができあがる。簡単に素早くつくれるわりには腹持ちがいいメニュー。すぐにコーヒーも出てくる。例によって例の如く、砂糖をたっぷりとぶちこんだ甘ったるい、黒々とした液体。
空は天見に言う。「水分はたくさんとっておきな。トイレが近くなるけど、凍傷になるよりマシだ」
「はい」
「寒いね」入り口のジッパーを開き、外を覗いて――「いいね。暗くてわかりづらいけど、雲はなさそうだ。ガスってもいない。天気図でも、しばらく好天が続きそうだった」
杏奈はにこりとする。「うひー、ついてるついてる」
冷え切ったからだに、ラーメンの熱い温度が痛い。しかし、からだの芯から温まるような感覚はない。喉元過ぎれば温かみは薄れてしまう。
黙々とパッキングしなおし、ザックに荷物を詰めていく。天見にはまだ勝手がわからないが、ザックの容量には余裕がある。強引に押し込めば多少はかたちがよくなる。ごそごそする音がテントの内部で重なる。
「天見。慌てなくていいからね」
「そそ。のんびりやればいいよー。とか言われると余計に焦るよねー」
呑気なふたりの声。なのに動きはやたらと素早く、無駄な動作が徹底的に削ぎ落とされている。山女ども、と内心で呪いながら、ヤッケとオーバーズボンを着込む。ニット帽とネックウォーマーも。二重の靴下に、三重の手袋。登山靴を履くのも鈍く、その上からロングスパッツ(ゲートル)。
準備だけで疲れてしまいそうだ。
テントから這い出る。まだ暗い、けれど星の瞬きは薄れ、夜明けまえの藍色の闇が世界を覆っている。自分たち以外にも、ヘッドライトの光の筋が夜を裂いている。早々に準備を終えて出発しているパーティもいる。
「時間的には余裕があるよ。肩の小屋まで行かないからさ」と空。「それに、トレースもはっきりついてる。それはそれで楽しみが薄れちまうけどね。天見にはいい具合だ」
杏奈がうんうんと頷いている。ラッセルの楽しみ? 天見にはその感覚がよくわからない。
テントを片付け、念入りに準備運動をして、縮こまった筋肉をほぐし、アイゼンを装着する。ピッケルも。アンザイレンはせず――ザイルは結ばず――順番は昨日と同じ。空、天見、杏奈。
「さあ、出発。危ないところはないだろうけど、稜線上は風が強いかもね。中崎尾根は広々としているけれど、尾根は尾根だ。
天見? 昨晩はよく寝れた?」
「はい」
「そりゃよかった。慣れてないと、夜中に何度も目覚めちゃうものだけどね……」
実際、何度も目覚めてきちんと眠った感覚はなかった。それでも、言ってたまるかと思う。限界はまだ遠いと自分でわかっている。
(からだの調子はいいくらいだ。昨日くらいのペースだったら、いくらでもついていける。幕営するのは二千五百メートルくらい……今日はあんまり、距離は稼がない)
それでも気を抜けないとわかってはいる。
槍平夏季小屋の横から伸びているトレースを追い、方角は西、対岸へ。夏道で言えば、奥丸山――2439メートルのピークへ延びている尾根道だ。
地図上の等高線はひどく狭い。それはつまり、かなりの急登ということだ。樹林帯が続いており、展望はよくない。そして、ところどころ幅が細い。少しバランスを崩せば転げ落ちてしまいそうな箇所もある。
雪の感触を足裏全体でたしかめながら、空の後を追う。
トレースはバケツ状になっているが、キックステップを踏まなければずるずると雪ごと滑ってしまいそうだ。しっかりとピッケルのシャフトを刺していく。朝方ということもあってかなり冷え込んでおり、雪の状態自体は悪くない。ずぶずぶの腐ったものではないし、不安定な新雪でもない。好条件、なのだろうか? 天見には判別がつかない。
(傾斜がきついな。ふくらはぎが痛くなりそう。クライミングの壁ほどじゃないのが逆に……脚だけに負担がかかって、全身に荷重を逃せない。どうやったらうまく登れる?)
集中を深め、肉体の声に向けて静かに耳を澄ます。
しかし、はっきりした最適解はもたらされない。こればかりは筋力? 柔軟性? 基本的なスペックが足りないのか。あるいは、慣れ。肉体と神経、脳髄にこの状況を適応させろ。でも、雪山という環境自体、私にとっては異世界そのものだ。
異境。じんわりと心が熱くなるような感慨がある。
(この感覚があるうちは慣れないだろうな……)
新鮮さは未知からくるものだ。そうしてその一方で、この未知という領域が消えないことを願っている天見の一部もある。
ふと、ヘッドライトの光が照度を弱めていることに気づく。足元を浮き上がらせるまんまるの照明が柔い。電池切れ? こんなにはやく!? 焦りかけ、はっとする。光が緩んでいるのではない。弱くなっているのは、夜の闇のほうだ。
ザックで不自由なからだを捻じり、振り返る。
東の空が白んでいる。穂高から槍までの稜線がくっきりと姿を現し、真後ろからの陽光に照らされ、幕のような影を伸ばしている。
夜明けだ……
「いい感じじゃない?」空はにやりとする。「ペースは充分だし、このピーカン照りだ。中崎尾根ならわりとどこでも幕営できる。ついでだ、少し後戻りして、奥丸山のてっぺんを踏んでおこうか?」
杏奈がそわそわと身を揺らす。「いいですね。いいですね。合流して往復三十分くらいですか? 全然余裕じゃないですか、ねー姫ちゃん、姫ちゃん?」
「どう、天見? あんたはどうしたい?」
そんなことを急に言われても困る。その三十分がどれほどのものなのか、天見にはまったく未知のものなのだから。初心者は判断してはならない。その原則に従えば、私はこのふたりに黙ってついていくしかないんだから。でも。けれど。
「……行けますか?」
空も杏奈も屈託なくにこにこしている。「そりゃあんた次第だ」
「じゃあ……行ってみたいです」
「決まりだね。中崎尾根と合流したらザックをデポしてピストンしよう。天見、テルモス出して」
黒く澄んだ青空。激運に恵まれたか、雲はない。
樹林帯がまばらになり、視界が開けてくる。ところどころで雪から飛び出ている枯れた樹木は景色を遮るものではなく、振り向けば、穂高から槍への広大な山容が近い。
急登も、中崎尾根と交わると一気に緩やかになる。
広い――
樹林帯や、谷間ばかり進んできたせいか、天上まで一息に突き上がることさえできそうな印象さえある。自分たちの姿が豆粒のようだ。天見は背筋を逸らし、そこで初めて息をしたかのように、胸を凍てついた空気でいっぱいにする。ヤッケの首元から染み入る冷たい風が心地良い。
(岳沢でも、稜線に上がることはなかったからな……)
天見にとってそうした景色は初めてのものだ。塔ノ岳のときとは、スケールも標高もまるで違う。優劣とかではなく、まるで別物の世界なのだ。
ザックを下ろすと、急にからだが軽くなった。飛べそうなほど。その落差に驚きながら、天見は空の後についてさらに登る。
奥丸山は標高2439メートル。新穂高温泉から中崎尾根の途上にあり、3000メートル級が林立する飛騨山脈、北アルプスにあって、特別際立った峰ではない。深田久弥百名山や、二百名山からも外されており、メジャーな数々の名峰のすぐそばにあることもあいまって、決して人気の高い山と言うことはできない。
奥丸山が他の山々よりも群を抜いているのは、山頂からの絶景にある。新穂高から小池新道に登る際、穂高側を常に遮るように延びている中崎尾根だけあって、そちらからの光景を独占しているのだ。『飛ぶ鳥も通わぬ』滝谷から大キレットを一望できるだけでなく、かすかに見える槍の穂先、西に眼を向ければ百名山の笠ヶ岳から続く抜戸岳に弓折岳、南の彼方には乗鞍高原、乗鞍岳まで――
そしてなにより、この時期、すべては雪に埋め尽くされている。
(――大きい)
掛け値なしの広遠をまえにし、天見は自分の心が震えるのを感じた。
目的地ではない。杏奈のことばを借りれば、それは序の口だ。こんなところで感受性を使い果たしていては最後まで持たない。だが、山頂だった。
天見はひとつの山頂を踏み締めていた。
「このまま最後まで晴れてるといいね」と空。
杏奈は鼻で笑った。「いやー、そんなうまくいくとは思えないですけどねっ。どうせどっかで落とし穴ありますよ、期待が最後まで裏切られなかった試しなんてあたし一度もないです」
「アハハ! まあ期待するだけならタダだよ」
ラジオを耳に押しつけ、空の手が天気図の上で素早く動く。天気と気圧、風向きを記入し、等圧線を刻んでいく。
テントを張ったのは昼すぎで、早すぎるくらいだった。稜線で遠くまでは行けないが、外で陽射しを堪能する時間まであったくらいだ。風がひっきりなしにテントの壁を叩いているが、吹き飛ばされるほどのものではなく、稜線そのものが適度な防風壁になってくれるだろう。
「明日には登っちゃいたいね。とにかく行ってさえしまえば、ここに戻ってきてもいいし、山荘の冬季小屋のなかでツェルトなりなんなり張ってもいい」
「装備全部持ってきます?」
「アタックザックでいいと思うね。テントキーパーいないけど、一晩くらいならどうってことないでしょ。たっぷり雪壁つくってやったし」
「吹き溜まりにならないか心配ですけどねー」
「そしたら掘り起こせばいいさ」
晩飯は牛丼、飲料はレモネード。乾いた風に痛んだ喉に染み入るようだ。レトルトとはいえ、疲労した肉体に肉もありがたい。
天見は黙々と口を動かした。疲れているせいか、唾液の出が悪く、いつもよりゆっくりしか食べられない。腹は減っているのだが、うまく摂取できない、そんな感覚がある。体力が尽きているということはないと思うのだが、高度のせいかもしれない。不慣れな環境。
「そういえば姫ちゃんさ」
「はい?」
「『天見』って変わった名前だよねえ。あんまり聞いたことないな」
退屈凌ぎなのだろう、尋ねたというよりは、ぼんやりと口にした感じだった。杏奈の眼はこちらを向いているものの、熱心さはない。
天見は眉をひそめながら、「別に……大した意味があるわけじゃないらしいですけど。父方の曾祖母の名前だったらしいです。で、その曾祖母が言うには、曾祖母のまた曾祖母が、天見って名前だったらしくて……」
「ああ、脈々と受け継がれてるみたいな感じなんだ?」
「考えるのが面倒だったんじゃないですか」
「んん?」
放り投げるようなことばに杏奈は首を傾げる。
姫川親子の確執を知っている空は微妙な思いに縛られて小さく溜息をひとつ。が、親子の問題は親子のものであって、空のものではない。心を逸らすようにくすりと微笑んで、
「そういう『杏奈』はアンナプルナのアンナだろ?」
杏奈はひくりと頬をひくつかせる。「……ご名答」
天見は空に眼を向ける。「アンナプルナ?」
「篠原のやつがただ一座だけ登頂した8000メートル峰だ。ヒマラヤの……。あたしも子供の頃にゃ、モーリス・エルゾーグの『処女峰アンナプルナ』を読んで、憧れたもんだ。娘にそんな名前を贈るなんて篠原らしいけどね。いい名前だと思うよ。サンスクリット語で『豊穣の女神』」
杏奈は鼻を鳴らす。「ただの山バカですよぅ。たまたまアンナプルナだったからよかったものの、ブロード・ピークとかガッシャーブルムとかシシャパンマとかダウラギリとか登ってたらどうしてたんだって話ですよ。ブロ子だのガシャ子だのそんな名前になってたんですかねっ」
「いいんじゃない? 仮にエベレストだったら、チョモランマで『大地の母神』だ。そういやあいつプモ・リにも登りたがってたな。『娘の山』……」
「普通の名前でよかったんですよあたしは。花子とか桜子とかそんな感じの」
天見は少し杏奈を羨ましく思う。名前なんかで一喜一憂するなどくだらないことだが。
「空さんは?」
「ん、あたし?」
反射的に訊いて、天見は後悔する。空の父親はもう亡くなっている。
空は気にした様子もなく、しかしちょっと恥ずかしげに頭の後ろを掻いて、「あたしはまあ、山とは関係ないんだけど。ガキの頃、なんとなく親父に訊いてみたらさ……」
少し口を噤んで、柔い苦笑を浮かべて続ける。「『世界でいちばん美しいものの名を贈ろうと思った』、だってさ。シンプルでわかりやすくて、好きっちゃ好きだけど、あたしにはちょっと大それたもんだったね。いまさら改名しようとも思わないんだけど……」
空の目許が少し紅く染まる。
テントの狭い空間に、どこかしんみりした空気が流れ、三人はそれぞれ口を噤む。絞られたガスの火だけが礼儀正しく動き、緩やかな温度を保っている。
天見はなんとなく、下界で暇に飽かせて読んだ石川啄木の短歌を思い出している――“この四五年空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?”。
私は空を見ることができている、と思う。でも、見ることはできても捉えることができている? 山の情景はあまりにも広遠すぎて実感がない。異世界を垣間見たように、覗き込んだだけだ。ただ……
PR
謎の魅力である。