オリジナル。山岳小説でありたい。
次回の更新は月曜日になります。一区切りつくまで、あと……四回?くらい。
次はなに書くかなー。また充電期間入るかもしれません、更新頻度減ったらあーそういうことかとお察しくだせえ!
白出沢出合を越えると、一気に山の空気が増す。
霞むような山の陽射し。蒼い上空に、眼に見える速度で流れゆく白い雲。着込んだオーバージャケット……ヤッケの衣擦れ。背負ったザックの重み。
ワカンを装着した登山靴の下で、雪がずしりと踏み固められる感触。その音。
(またこれたんだ……)と天見は思う。
一度目は年末、岳沢までの短い道のりだった。そのときは雪上訓練と、テントキーパーだけで、前穂高山の頂には登らなかった。危険だという単純明快かつ反論のしようもない理由で。
二度目は丹沢の塔ノ岳。けれどほんの三時間程度の短いハイキングのようなもので、登ったというよりは、歩いたという心地しかなかった。それに、山そのものより心模様のほうがうるさくて、没頭できていなかった。
そして、今回――
なにもかもうまくいって三日。少なくとも三日、テントで夜を越し、撤退さえしなければ、槍ヶ岳の頂上まで登るのだという。本格的な山行。
先頭をゆく空の背中を見つめ、一歩ずつ刻みながら思う。(やっと登れるんだって感じがする。やっと)
槍平小屋は標高1990メートル。新穂高温泉はおよそ1000メートル地点だから、一気に1000メートルもの高度を稼ぐことになる。しかし、右俣林道は体感的にも地図的にも平坦で、谷間にあるから、展望もそれほどよくはない。本格的な山道になるのは二時間ほど歩いたところの、白出沢出合からだ。
既に、山道に入っている。
(ザックは重いけれど、団装のほとんどは空さんと篠原さんが背負ってくれてる。トレーニングはしていたし、毎朝走ってるから、体力だって充分あるはずだ。肩が痛いのは覚悟していたことだ……)
自分を十二歳の少女だとは考えない。十二歳の平均的なパワーを考慮しない。一時間以上連続して走れるし、三十キロ近いザックだって背負える。その気になれば人間を殴れだってする。前と後ろのふたりには体力も経験でも劣るが、それは私が初心者だからだ。
同い年の鵠沼紡はもう大人に混じってストリートバスケなんぞに興じている。体格も体力も大人顔負けのものだ。恋人だっているみたいだし。それはつまり、私が未熟なだけだということ。なにも言い訳にはならないし、言い訳にするつもりだってない。
だから――
(胸がどきどきしてる。周りはもう山の匂いでいっぱいだ。怖いって気持ちもあるし、心配だってしてる。でも、それ以上に期待もしてる。私がこの山行で、どこまでやれるんだろうって)
空は私にどれくらい期待しているんだろう? 足手まといにならない程度に? とりあえず適当に歩ける程度に? 最後まで登りきれる程度に? パーティのひとりとして?
自分が足手まといである――という実感はひどく辛いものだ。邪魔で場違いな女に成り下がっている心地はからだの芯からみしみし軋む。
いつまでもお客さんでいるんじゃない。そのために重ねてきたトレーニングも、年月の蓄積がまるで足りていない。
心境のざわめきとは一切の関係がないところで、
(――雪がきれいだ)
陽射しに反射し、星を撒いたようにきらきらと輝いている。三月だが、降り積もったばかりなのか、トレースからはずれたところは真っ白なヴァージン・スノーだ。人間のものではありえない、細い足跡が時折、林道を横切って山中へ消えていく。
左手に、右俣谷――蒲田川の凍りついた流れ。
故郷の神奈川は、丹沢を除けば、滅多に雪が降ることなんかないから、これだけでもう自分の世界からかけ離れている感じがする。ふかふかの足元を、ワカンが踏み固めていく音と感触も、天見の知り得る世界とは遠くにある。ずしり、ずしりと、刻む一歩が重い。
杏奈はちらりと腕時計を見て言う。「櫛灘さーん! そろそろ一時間ー!」
「あいよー」
斜面にザックを置いて、その上に座って休憩。
天見のテルモスを三人で回す。まだコーヒーなどつくっていないから、ただの水だ。行動食のチョコレートはかちかちになっていて、噛み砕く歯が痛い。高速道路のサービスエリアで買った菓子パンも食べる。
「姫ちゃんどーお? 結構なペース出てる感じだけど、早くない?」と杏奈。
「平気です。むしろ遅いくらい」
「ふーん……」杏奈は眼を眇めるようにして天見を見つめ、考える。(なんか子供っぽくない子だなー。大人しいっていうより、心のなかで溜め込んでる感じ)
空はヤッケの胸元を緩めて微笑む。「この子歩くの相当早いよ。このまえの丹沢でもそうだった。塔ノ岳までのバカ尾根、大人みたいなスピードで突っ切っちまうんだから。自分のペースがわかってるのかどうか知らんけど」
「へえ。櫛灘さんラッセルどうです? あたし先頭代わってもいいですけど」
「そんなでもないよ。でも、疲れたらそうさせてもらおうかな。今日……少し時間がずれこむかもしれないけど、五時過ぎくらいまでがんばって、槍平まで行っちゃおうか。明日以降が楽だ」
「あたしは大丈夫ですけどぉ」
「私も平気です」
「よし」空は頷く。「じゃあ、そうしようか。出発!」
雪をかぶった樹林帯だが、ところどころ開けていて、閉塞感はない。陽が傾いていくにつれ、陽射しの温かみのなかに、冷ややかな空気が入り混じる。
それでも動いている限りは熱いくらいだ。天見はザックを背負いなおし、背中とのあいだに篭もる空気を逃がすようにした。ウェストベルトをきつく締めて、腰で重量を負うようにする。
滝谷避難小屋を過ぎる。
地図上では、右手側は槍から穂高への険峻な尾根で、鎖場や切れ落ちた稜線が連続する屈指の登山道だ。
穂高滝谷……
『飛ぶ鳥も通わぬ』『岩の墓場』などとさえ呼ばれている、穂高を代表する有名な岩場だ。大戦以前――千九百二十五年の初登以来、多くのクラシック・ルートを抱え、おおむねなだらかな日本の山容としては異様なほど、荒涼とした雰囲気に満ちている。三千メートル級の圧倒的な高度感と、豊富なクラック、近年になって崩落の進み始めた、生きている岩、絶壁……
天見は知識としては知ってはいた。登山の技術書などでは、困難で古い岩場として、必ずといっていいほどその名を見かけることができた。ここがあの滝谷かと、感慨とともにそちらを見上げる。
(でもここからじゃ、よくわからないな……雄滝か、雌滝だっけ? それがちょっと見えるくらいで、上部の凄まじさを感じることができない)
いつか自分にも登れるときがくるだろうか? いまは槍ヶ岳だ。
谷間を吹き抜ける風に、雪煙が薄く舞い飛んでいる。樹林帯を抜け、緩い斜面をトラバース気味に進むと、煙のなかに立ち入ってゆくような感覚だ。耳元で、風が静かに渦巻いている。慌ててニット帽を深くかぶりなおした。
ピッケルの石突を雪に突き刺しながら、空の後をひたすらついていく。滝谷避難小屋を過ぎたということは、槍平までもう少しのはずだ。
ザックの重みは……気になるほどではない。
登山靴の窮屈に、足が痛くなっているような感じもしなくもないが、気にするほどのものではない。
調子は悪くない。(でも、私がどんなに調子がよくても、もともと限界はある。今日はなんとかついていけそうだ。問題は明日。なにもかもうまくいけば、明日で槍を登れる。でも、千丈沢乗越の手前くらいだろうな。あんまり早すぎて終わるのも、いやだし)
陽光に茜が入り混じる。
日暮れが近い。槍平まではすぐそこだ。
夕焼けということは、明日も晴れるだろう。しかし、下界の常識が山でも通用するのか、天見にはまだよくわからない。天気図を取れればはっきりするのだろうが、放送は四時からで、もう遅い。次は十時。いや、ラジオの放送で天気予報くらいやるだろう。正確に判断するには、どのみち天気図は取らなければならないが。
何事もなく歩いているあいだは、空はもちろん、なにかと賑やかな杏奈でさえ、口数が少ない。静かで、思ったよりずっと雰囲気がいい。最初は三人でどうなるかと思ったが。
(夕暮れのなかにいると無性に懐かしい気分になるのはどうしてだろう。懐かしい? 私はまだ十二年しか生きてないのに、なににそう感じることがあるんだろう)
夕闇が世界の半分を覆い尽くし、残り半分は夕陽に焼かれている。雪の白が全部、炎の色だ。黒々とした影に、眩すぎる光。目指す方角の山脈は黒に埋まり、紫色の天空に、早々と太陽が沈んでいく。足元はもう暗い。
(まるで故郷に帰ってきたような感じがする。異国のはずが。デジャヴとか、そういうんじゃない……知らないはずの光景を、大昔に見知った光景みたいに思っている)
からだじゅうの軋む筋肉を動かして、どうにか胸いっぱいに息を吸い込むと、厳かとさえ表現できる空気に肺が満ちる。天見はその感覚を静かに受け取り、なおも歩くだけの気力を得る。昨晩、眠れなかったのが嘘のように奇妙な力が溢れ出てくる。
(まだ山に入って数時間程度しか経ってないのに。……ここでこれなら、楽しみだな。上のほうが!)
たぶん、ウマが合うとでもいうのだろう。ここと私は。早くも好きになり始めている自分がいる。
槍平小屋は定員八十名、樹林帯のなかに立つ静かな印象の山小屋で、冬季は雪に埋もれ、他の山小屋と同じように営業していないが、冬季小屋が無料で開放されている。テントサイトは広く、夏場であれば、五十張りほどのスペースがある。
槍までは、上高地から至るよりも六キロ近く短い、最短のコースだが、稜線上の小屋に比べれば混雑しない。しかし、この時期にもすでに何張りか点々としており、空たちは冬季小屋からやや離れたところにテントを設営する。
穂高方面の夕焼けが抜群に素晴らしい。しかしそんな景色を見れたのは最初だけで、雪を踏み固めて整地しているうちに、夜が訪れる。ヘッドライトの円い灯りがひょこひょこと動く。
「お疲れ。……思ったよりずっと早かったね。さあ、寒くなってきた。ふたりとも個装整理やっといて。あたしは雪を集めてくるよ」
「晩飯どうしますー? もうつくっちゃってていいですか?」
「うん、お願い」
ガスヘッドに火が灯る。よく制御された大人しい火に、テントの内部がにわかに暖かくなる。
テントは3・4人用のもので、天見も空もそれほどの体格ではないから、窮屈さはない。杏奈にしろ、平均身長からそうはずれた体格ではないし、テント生活にはそれなりに慣れている。早速、コッフェルで米を炊く。
水の容量は多すぎても少なすぎても悲惨だが、そこは感覚だ。杏奈が鼻歌混じりに分量を推し量ったのを見て、このひとはほんとうに慣れっこなんだ、と天見は羨む。
帰ってきた空が天見を見つめてにやりとする。「天見はペミカン初めてだっけ」
「はい」
杏奈が顔をしかめる。「あたしだって初めてですよ。うえぇ、カロリーめちゃくちゃ高そう」
「そのぶん動いてるからいいんだよ。まあ、からだには間違いなく悪いだろうけどね。あたしが気合れてつくってきたんだから、残さず食べておくれな」
「気合ったって肉と野菜ぶちこんで凍らせただけじゃないっすか……」
ペミカンとは動物性の脂肪に具材を混ぜて固めた携帯保存食のことで、起源はカナダ・インディアンのものとされる。かつて極地探検家のあいだで高カロリー食として使用され、日本においても、大学山岳部などで冬季の山行に携行されたりもした。
本来は細かく刻んだ干し肉にドライフルーツなどで調理するが、空がつくったのは簡易版で、豚肉に人参、ジャガイモ、玉葱を加えて加熱し、塩胡椒で味を付け、おそろしく大量のラードを投入して冷凍してある。具は大きめで、実際に鍋で熱する際に、カレールーを溶かして完成する。
いい匂いがテントに充満してきた。ベンチレーターに腕を突っ込んで、外気を呼び込む。
ふたつのガスヘッドがぼうぼうと燃え、暖かいというよりは熱いくらいだ。
食器に、米と、ペミカンのカレーがよそられ、天見は受け取る。つくりたてで、湯気が立ち昇っているのは、いかにも美味しそうだ。具はかたちが崩れ、見た目はよくないが。
一口食べてぼそり、「美味しい……」
杏奈は微妙な顔をした。「味の濃さに騙されてるって。姫ちゃん」
「文句あるなら杏奈のぶんまであたしが食うよ?」
「いやいやいや、そんなつもりはありませんて! 食べなきゃ明日動けませんもん!」
「あはは。まああたしだってペミカンなんて十年近く食ってなかったけどさ。最近はレトルトが便利だよねえ。このガス缶だって、昔は着火まで十分もかかるようなラジウスだった。灯油まで持ち込んでさ……」
味が濃くていいくらいだ、と天見は思う。コッフェルで炊いた米は、誰がつくってもなかなか美味くはならないものだ。
雪を熔かして水にして、明日のぶんまでコーヒーをつくる。たっぷりの砂糖と練乳を加えた、甘ったるい代物だ。登山にはとにもかくにもエネルギーがいるものだ。杏奈は甘くするまえにコーヒーをカップに注ぎ、細々と飲み始める。カロリーがどうとかより単純に無糖のほうが好きらしい。
「明日は四時起き六時出発で。なにか質問は?」
「はいはいはーい。行けたら槍まで行っちゃいます? 今日の感じわりとトレースしっかりしてたから、楽そうっちゃ楽ですけど」
「んー。千丈沢乗越の手前でいいと思うね。順調だったら昼前には終わるかもしれないけど、明後日に備えて、体力温存しておきたいし。どのみち予備日はたっぷり確保してあるしね……」
杏奈は首を傾げた。「櫛灘さん仕事平気なんですか?」
「昼間は派遣でスポットの現場、夜はバーテンのバイトやってるんだ。一週間くらい穴が空いても大丈夫なとこでさ。だから、あたしのことは心配しないでいいよ。
天見は? 指が痺れてたりとか、頭や胸が痛むとか、そういうのはない?」
天見は頷いた。「いまのところは」
「なにか異常があったらすぐに言いなね。異常がなくても、疑問でも雑談でもなんでもいいよ」
「……トイレ」
空はくすりと笑った。「小屋のは埋まってるから、離れたところの陰にね。雪解け時期になると、小屋のひとが処理に困るんだってさ。スコップ持っていきな」
「あ、あたしも行く!」
天見と杏奈は立ち上がった。
ヤッケを羽織り、手袋をはめて、ダウンのテントシューズを履いてテントのなかを横切る。天見の位置は入り口からいちばん離れたところだから、外気が吹き込まずに暖かいが、出るのは面倒だ。身を縮めた空の脇をくぐるように、外へ顔を出す。続いて杏奈も出てくる。
「ううーっ、寒、寒ッ」
杏奈がぼやく声を聞き、天見もぶるりと身を震わす。冬が戻ってきたかのようだ。
が、なんとなく顔を上げてみて、絶句する。
「――……」
星空……
夜天がすべて、天の川そのもののように、星灯りに満ち満ちている。星座とか、そういう次元ではない。波間を照らす月灯りのように、輝きが海となっている。
そう。年末に岳沢でテント泊したときも、たしかにこのような夜だった。しかし、忘れていたのだ。下界の夜空を眺めすぎて、記憶が上書きされていた。このときになってようやく思い出したことに、はっとするような思いがあった。
いっとき、尿意さえ忘れかけた。率直で単純な感動がじわりと胸を満たす。天見のそんな様子を見て、杏奈はにやりとした。
「姫ちゃんこーゆーの慣れてない?」
弾かれたように振り向いて、「……はい、まあ」
「こんなのは序の口だぜぇ? いちいち感激してたら心が持たないよ。最後までやりきったとき、肝心なときに感受性が残ってなかったら損でしょ」杏奈はふっと表情を緩めた。「あたしも久し振りだけどさ。あーあ! ほんとは下界で苦手な微分積分の復習でもしてなきゃならなかったんだけどな!」
ヘッドライトが足元を照らす。けれど闇が明るすぎて、それも必要ないくらいなのだ。
杏奈についていき、天見はふと尋ねる。「篠原さんって山はいつからやってるんですか」
「姫ちゃんくらいのときには一通りやってたよー。ハイキングにトレッキング、ロッククライミングにアイスクライミング、沢登りにトレイルランニングまで! お父さんが山以外のお楽しみなんにも知らないようなつっまんない男でさ、ちっちゃなあたしはそういうのにいちいち連れてかされてたってワケ。おかげで学校じゃ友だちとなんにも話題合わなくてさ……漫画もゲームもアニメも周回遅れ。
ほんと厭で嫌でイヤで仕方なかったけど、ちょうどあたしが中学受験したくらいの頃かな、いやもうちょっとまえか、お父さん膝悪くしちゃって。そうなった途端に山が恋しくなるんだから現金だよね。やらされてるうちはキライだったのに、自分でやり始めると急に楽しくなるんだ」
天見は少し嫉妬する。私なんか、まだ山を知って三ヶ月程度なのに。それにお父さんもお母さんも山とはなんの関係もなくて、いまは嫌な顔しかされていない。他人の芝生は青く見えるものだとわかっているけれど、自分が恵まれてないように感じて、そう感じること自体、なんだか胸がモヤモヤする。
「私はまだなんにも知らない……」
杏奈は明るく笑った。「知らなくてもいいんだよ、こんなの! 人生の役に立つわけでもあるまいし。山に登る時間とか労力とかお金とか、世界平和のためにでも使ったらいいのに。そうでなくても友だちと遊んだりとかさ、美味しいもの食べたりとかさ、恋愛とかさ、やることいっぱいあるってのにさ」
「……だったらどうして篠原さんはここにいるんですか」
「ほんとだよ! どうしてだよっ! あたしをこんなにしたやつ出てこいよッ!」
杏奈は急に激昂したように地団駄を踏む。
この女はよくわからない。天見は顔をしょぼくれさせて溜息をついた。
次回の更新は月曜日になります。一区切りつくまで、あと……四回?くらい。
次はなに書くかなー。また充電期間入るかもしれません、更新頻度減ったらあーそういうことかとお察しくだせえ!
白出沢出合を越えると、一気に山の空気が増す。
霞むような山の陽射し。蒼い上空に、眼に見える速度で流れゆく白い雲。着込んだオーバージャケット……ヤッケの衣擦れ。背負ったザックの重み。
ワカンを装着した登山靴の下で、雪がずしりと踏み固められる感触。その音。
(またこれたんだ……)と天見は思う。
一度目は年末、岳沢までの短い道のりだった。そのときは雪上訓練と、テントキーパーだけで、前穂高山の頂には登らなかった。危険だという単純明快かつ反論のしようもない理由で。
二度目は丹沢の塔ノ岳。けれどほんの三時間程度の短いハイキングのようなもので、登ったというよりは、歩いたという心地しかなかった。それに、山そのものより心模様のほうがうるさくて、没頭できていなかった。
そして、今回――
なにもかもうまくいって三日。少なくとも三日、テントで夜を越し、撤退さえしなければ、槍ヶ岳の頂上まで登るのだという。本格的な山行。
先頭をゆく空の背中を見つめ、一歩ずつ刻みながら思う。(やっと登れるんだって感じがする。やっと)
槍平小屋は標高1990メートル。新穂高温泉はおよそ1000メートル地点だから、一気に1000メートルもの高度を稼ぐことになる。しかし、右俣林道は体感的にも地図的にも平坦で、谷間にあるから、展望もそれほどよくはない。本格的な山道になるのは二時間ほど歩いたところの、白出沢出合からだ。
既に、山道に入っている。
(ザックは重いけれど、団装のほとんどは空さんと篠原さんが背負ってくれてる。トレーニングはしていたし、毎朝走ってるから、体力だって充分あるはずだ。肩が痛いのは覚悟していたことだ……)
自分を十二歳の少女だとは考えない。十二歳の平均的なパワーを考慮しない。一時間以上連続して走れるし、三十キロ近いザックだって背負える。その気になれば人間を殴れだってする。前と後ろのふたりには体力も経験でも劣るが、それは私が初心者だからだ。
同い年の鵠沼紡はもう大人に混じってストリートバスケなんぞに興じている。体格も体力も大人顔負けのものだ。恋人だっているみたいだし。それはつまり、私が未熟なだけだということ。なにも言い訳にはならないし、言い訳にするつもりだってない。
だから――
(胸がどきどきしてる。周りはもう山の匂いでいっぱいだ。怖いって気持ちもあるし、心配だってしてる。でも、それ以上に期待もしてる。私がこの山行で、どこまでやれるんだろうって)
空は私にどれくらい期待しているんだろう? 足手まといにならない程度に? とりあえず適当に歩ける程度に? 最後まで登りきれる程度に? パーティのひとりとして?
自分が足手まといである――という実感はひどく辛いものだ。邪魔で場違いな女に成り下がっている心地はからだの芯からみしみし軋む。
いつまでもお客さんでいるんじゃない。そのために重ねてきたトレーニングも、年月の蓄積がまるで足りていない。
心境のざわめきとは一切の関係がないところで、
(――雪がきれいだ)
陽射しに反射し、星を撒いたようにきらきらと輝いている。三月だが、降り積もったばかりなのか、トレースからはずれたところは真っ白なヴァージン・スノーだ。人間のものではありえない、細い足跡が時折、林道を横切って山中へ消えていく。
左手に、右俣谷――蒲田川の凍りついた流れ。
故郷の神奈川は、丹沢を除けば、滅多に雪が降ることなんかないから、これだけでもう自分の世界からかけ離れている感じがする。ふかふかの足元を、ワカンが踏み固めていく音と感触も、天見の知り得る世界とは遠くにある。ずしり、ずしりと、刻む一歩が重い。
杏奈はちらりと腕時計を見て言う。「櫛灘さーん! そろそろ一時間ー!」
「あいよー」
斜面にザックを置いて、その上に座って休憩。
天見のテルモスを三人で回す。まだコーヒーなどつくっていないから、ただの水だ。行動食のチョコレートはかちかちになっていて、噛み砕く歯が痛い。高速道路のサービスエリアで買った菓子パンも食べる。
「姫ちゃんどーお? 結構なペース出てる感じだけど、早くない?」と杏奈。
「平気です。むしろ遅いくらい」
「ふーん……」杏奈は眼を眇めるようにして天見を見つめ、考える。(なんか子供っぽくない子だなー。大人しいっていうより、心のなかで溜め込んでる感じ)
空はヤッケの胸元を緩めて微笑む。「この子歩くの相当早いよ。このまえの丹沢でもそうだった。塔ノ岳までのバカ尾根、大人みたいなスピードで突っ切っちまうんだから。自分のペースがわかってるのかどうか知らんけど」
「へえ。櫛灘さんラッセルどうです? あたし先頭代わってもいいですけど」
「そんなでもないよ。でも、疲れたらそうさせてもらおうかな。今日……少し時間がずれこむかもしれないけど、五時過ぎくらいまでがんばって、槍平まで行っちゃおうか。明日以降が楽だ」
「あたしは大丈夫ですけどぉ」
「私も平気です」
「よし」空は頷く。「じゃあ、そうしようか。出発!」
雪をかぶった樹林帯だが、ところどころ開けていて、閉塞感はない。陽が傾いていくにつれ、陽射しの温かみのなかに、冷ややかな空気が入り混じる。
それでも動いている限りは熱いくらいだ。天見はザックを背負いなおし、背中とのあいだに篭もる空気を逃がすようにした。ウェストベルトをきつく締めて、腰で重量を負うようにする。
滝谷避難小屋を過ぎる。
地図上では、右手側は槍から穂高への険峻な尾根で、鎖場や切れ落ちた稜線が連続する屈指の登山道だ。
穂高滝谷……
『飛ぶ鳥も通わぬ』『岩の墓場』などとさえ呼ばれている、穂高を代表する有名な岩場だ。大戦以前――千九百二十五年の初登以来、多くのクラシック・ルートを抱え、おおむねなだらかな日本の山容としては異様なほど、荒涼とした雰囲気に満ちている。三千メートル級の圧倒的な高度感と、豊富なクラック、近年になって崩落の進み始めた、生きている岩、絶壁……
天見は知識としては知ってはいた。登山の技術書などでは、困難で古い岩場として、必ずといっていいほどその名を見かけることができた。ここがあの滝谷かと、感慨とともにそちらを見上げる。
(でもここからじゃ、よくわからないな……雄滝か、雌滝だっけ? それがちょっと見えるくらいで、上部の凄まじさを感じることができない)
いつか自分にも登れるときがくるだろうか? いまは槍ヶ岳だ。
谷間を吹き抜ける風に、雪煙が薄く舞い飛んでいる。樹林帯を抜け、緩い斜面をトラバース気味に進むと、煙のなかに立ち入ってゆくような感覚だ。耳元で、風が静かに渦巻いている。慌ててニット帽を深くかぶりなおした。
ピッケルの石突を雪に突き刺しながら、空の後をひたすらついていく。滝谷避難小屋を過ぎたということは、槍平までもう少しのはずだ。
ザックの重みは……気になるほどではない。
登山靴の窮屈に、足が痛くなっているような感じもしなくもないが、気にするほどのものではない。
調子は悪くない。(でも、私がどんなに調子がよくても、もともと限界はある。今日はなんとかついていけそうだ。問題は明日。なにもかもうまくいけば、明日で槍を登れる。でも、千丈沢乗越の手前くらいだろうな。あんまり早すぎて終わるのも、いやだし)
陽光に茜が入り混じる。
日暮れが近い。槍平まではすぐそこだ。
夕焼けということは、明日も晴れるだろう。しかし、下界の常識が山でも通用するのか、天見にはまだよくわからない。天気図を取れればはっきりするのだろうが、放送は四時からで、もう遅い。次は十時。いや、ラジオの放送で天気予報くらいやるだろう。正確に判断するには、どのみち天気図は取らなければならないが。
何事もなく歩いているあいだは、空はもちろん、なにかと賑やかな杏奈でさえ、口数が少ない。静かで、思ったよりずっと雰囲気がいい。最初は三人でどうなるかと思ったが。
(夕暮れのなかにいると無性に懐かしい気分になるのはどうしてだろう。懐かしい? 私はまだ十二年しか生きてないのに、なににそう感じることがあるんだろう)
夕闇が世界の半分を覆い尽くし、残り半分は夕陽に焼かれている。雪の白が全部、炎の色だ。黒々とした影に、眩すぎる光。目指す方角の山脈は黒に埋まり、紫色の天空に、早々と太陽が沈んでいく。足元はもう暗い。
(まるで故郷に帰ってきたような感じがする。異国のはずが。デジャヴとか、そういうんじゃない……知らないはずの光景を、大昔に見知った光景みたいに思っている)
からだじゅうの軋む筋肉を動かして、どうにか胸いっぱいに息を吸い込むと、厳かとさえ表現できる空気に肺が満ちる。天見はその感覚を静かに受け取り、なおも歩くだけの気力を得る。昨晩、眠れなかったのが嘘のように奇妙な力が溢れ出てくる。
(まだ山に入って数時間程度しか経ってないのに。……ここでこれなら、楽しみだな。上のほうが!)
たぶん、ウマが合うとでもいうのだろう。ここと私は。早くも好きになり始めている自分がいる。
槍平小屋は定員八十名、樹林帯のなかに立つ静かな印象の山小屋で、冬季は雪に埋もれ、他の山小屋と同じように営業していないが、冬季小屋が無料で開放されている。テントサイトは広く、夏場であれば、五十張りほどのスペースがある。
槍までは、上高地から至るよりも六キロ近く短い、最短のコースだが、稜線上の小屋に比べれば混雑しない。しかし、この時期にもすでに何張りか点々としており、空たちは冬季小屋からやや離れたところにテントを設営する。
穂高方面の夕焼けが抜群に素晴らしい。しかしそんな景色を見れたのは最初だけで、雪を踏み固めて整地しているうちに、夜が訪れる。ヘッドライトの円い灯りがひょこひょこと動く。
「お疲れ。……思ったよりずっと早かったね。さあ、寒くなってきた。ふたりとも個装整理やっといて。あたしは雪を集めてくるよ」
「晩飯どうしますー? もうつくっちゃってていいですか?」
「うん、お願い」
ガスヘッドに火が灯る。よく制御された大人しい火に、テントの内部がにわかに暖かくなる。
テントは3・4人用のもので、天見も空もそれほどの体格ではないから、窮屈さはない。杏奈にしろ、平均身長からそうはずれた体格ではないし、テント生活にはそれなりに慣れている。早速、コッフェルで米を炊く。
水の容量は多すぎても少なすぎても悲惨だが、そこは感覚だ。杏奈が鼻歌混じりに分量を推し量ったのを見て、このひとはほんとうに慣れっこなんだ、と天見は羨む。
帰ってきた空が天見を見つめてにやりとする。「天見はペミカン初めてだっけ」
「はい」
杏奈が顔をしかめる。「あたしだって初めてですよ。うえぇ、カロリーめちゃくちゃ高そう」
「そのぶん動いてるからいいんだよ。まあ、からだには間違いなく悪いだろうけどね。あたしが気合れてつくってきたんだから、残さず食べておくれな」
「気合ったって肉と野菜ぶちこんで凍らせただけじゃないっすか……」
ペミカンとは動物性の脂肪に具材を混ぜて固めた携帯保存食のことで、起源はカナダ・インディアンのものとされる。かつて極地探検家のあいだで高カロリー食として使用され、日本においても、大学山岳部などで冬季の山行に携行されたりもした。
本来は細かく刻んだ干し肉にドライフルーツなどで調理するが、空がつくったのは簡易版で、豚肉に人参、ジャガイモ、玉葱を加えて加熱し、塩胡椒で味を付け、おそろしく大量のラードを投入して冷凍してある。具は大きめで、実際に鍋で熱する際に、カレールーを溶かして完成する。
いい匂いがテントに充満してきた。ベンチレーターに腕を突っ込んで、外気を呼び込む。
ふたつのガスヘッドがぼうぼうと燃え、暖かいというよりは熱いくらいだ。
食器に、米と、ペミカンのカレーがよそられ、天見は受け取る。つくりたてで、湯気が立ち昇っているのは、いかにも美味しそうだ。具はかたちが崩れ、見た目はよくないが。
一口食べてぼそり、「美味しい……」
杏奈は微妙な顔をした。「味の濃さに騙されてるって。姫ちゃん」
「文句あるなら杏奈のぶんまであたしが食うよ?」
「いやいやいや、そんなつもりはありませんて! 食べなきゃ明日動けませんもん!」
「あはは。まああたしだってペミカンなんて十年近く食ってなかったけどさ。最近はレトルトが便利だよねえ。このガス缶だって、昔は着火まで十分もかかるようなラジウスだった。灯油まで持ち込んでさ……」
味が濃くていいくらいだ、と天見は思う。コッフェルで炊いた米は、誰がつくってもなかなか美味くはならないものだ。
雪を熔かして水にして、明日のぶんまでコーヒーをつくる。たっぷりの砂糖と練乳を加えた、甘ったるい代物だ。登山にはとにもかくにもエネルギーがいるものだ。杏奈は甘くするまえにコーヒーをカップに注ぎ、細々と飲み始める。カロリーがどうとかより単純に無糖のほうが好きらしい。
「明日は四時起き六時出発で。なにか質問は?」
「はいはいはーい。行けたら槍まで行っちゃいます? 今日の感じわりとトレースしっかりしてたから、楽そうっちゃ楽ですけど」
「んー。千丈沢乗越の手前でいいと思うね。順調だったら昼前には終わるかもしれないけど、明後日に備えて、体力温存しておきたいし。どのみち予備日はたっぷり確保してあるしね……」
杏奈は首を傾げた。「櫛灘さん仕事平気なんですか?」
「昼間は派遣でスポットの現場、夜はバーテンのバイトやってるんだ。一週間くらい穴が空いても大丈夫なとこでさ。だから、あたしのことは心配しないでいいよ。
天見は? 指が痺れてたりとか、頭や胸が痛むとか、そういうのはない?」
天見は頷いた。「いまのところは」
「なにか異常があったらすぐに言いなね。異常がなくても、疑問でも雑談でもなんでもいいよ」
「……トイレ」
空はくすりと笑った。「小屋のは埋まってるから、離れたところの陰にね。雪解け時期になると、小屋のひとが処理に困るんだってさ。スコップ持っていきな」
「あ、あたしも行く!」
天見と杏奈は立ち上がった。
ヤッケを羽織り、手袋をはめて、ダウンのテントシューズを履いてテントのなかを横切る。天見の位置は入り口からいちばん離れたところだから、外気が吹き込まずに暖かいが、出るのは面倒だ。身を縮めた空の脇をくぐるように、外へ顔を出す。続いて杏奈も出てくる。
「ううーっ、寒、寒ッ」
杏奈がぼやく声を聞き、天見もぶるりと身を震わす。冬が戻ってきたかのようだ。
が、なんとなく顔を上げてみて、絶句する。
「――……」
星空……
夜天がすべて、天の川そのもののように、星灯りに満ち満ちている。星座とか、そういう次元ではない。波間を照らす月灯りのように、輝きが海となっている。
そう。年末に岳沢でテント泊したときも、たしかにこのような夜だった。しかし、忘れていたのだ。下界の夜空を眺めすぎて、記憶が上書きされていた。このときになってようやく思い出したことに、はっとするような思いがあった。
いっとき、尿意さえ忘れかけた。率直で単純な感動がじわりと胸を満たす。天見のそんな様子を見て、杏奈はにやりとした。
「姫ちゃんこーゆーの慣れてない?」
弾かれたように振り向いて、「……はい、まあ」
「こんなのは序の口だぜぇ? いちいち感激してたら心が持たないよ。最後までやりきったとき、肝心なときに感受性が残ってなかったら損でしょ」杏奈はふっと表情を緩めた。「あたしも久し振りだけどさ。あーあ! ほんとは下界で苦手な微分積分の復習でもしてなきゃならなかったんだけどな!」
ヘッドライトが足元を照らす。けれど闇が明るすぎて、それも必要ないくらいなのだ。
杏奈についていき、天見はふと尋ねる。「篠原さんって山はいつからやってるんですか」
「姫ちゃんくらいのときには一通りやってたよー。ハイキングにトレッキング、ロッククライミングにアイスクライミング、沢登りにトレイルランニングまで! お父さんが山以外のお楽しみなんにも知らないようなつっまんない男でさ、ちっちゃなあたしはそういうのにいちいち連れてかされてたってワケ。おかげで学校じゃ友だちとなんにも話題合わなくてさ……漫画もゲームもアニメも周回遅れ。
ほんと厭で嫌でイヤで仕方なかったけど、ちょうどあたしが中学受験したくらいの頃かな、いやもうちょっとまえか、お父さん膝悪くしちゃって。そうなった途端に山が恋しくなるんだから現金だよね。やらされてるうちはキライだったのに、自分でやり始めると急に楽しくなるんだ」
天見は少し嫉妬する。私なんか、まだ山を知って三ヶ月程度なのに。それにお父さんもお母さんも山とはなんの関係もなくて、いまは嫌な顔しかされていない。他人の芝生は青く見えるものだとわかっているけれど、自分が恵まれてないように感じて、そう感じること自体、なんだか胸がモヤモヤする。
「私はまだなんにも知らない……」
杏奈は明るく笑った。「知らなくてもいいんだよ、こんなの! 人生の役に立つわけでもあるまいし。山に登る時間とか労力とかお金とか、世界平和のためにでも使ったらいいのに。そうでなくても友だちと遊んだりとかさ、美味しいもの食べたりとかさ、恋愛とかさ、やることいっぱいあるってのにさ」
「……だったらどうして篠原さんはここにいるんですか」
「ほんとだよ! どうしてだよっ! あたしをこんなにしたやつ出てこいよッ!」
杏奈は急に激昂したように地団駄を踏む。
この女はよくわからない。天見は顔をしょぼくれさせて溜息をついた。
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山のことなんも知らないのに。
満天の星空とか見てみたいですな。
週二ジムで末に本番……それはすごい。