オリジナル。登山小説。と言っていいのかどうかっ
次の更新は月曜日になります。
えーっとそれと、なんだ、こっちに書くことが特にないっ
とにかくよろしくお願いします!
多忙と将来への不安にかまけ、この冬はどこの山も登り損ねたのだ。杏奈は部屋を引っ掻き回し、どうにかピッケルを見つけ出すと、錆が浮いていないかどうかさっと確かめた。それに刃が磨り減っていないか。石突は鋭利さを保ち、自分を確保するために信頼できるかどうか。問題はなかった。
「えーっとなんだ、手袋の薄手と厚手とオーバー、靴下の薄手と厚手、ロングスパッツ、アイゼンとワカン、アウタージャケットにオーバーズボン、サングラスにゴーグル、目出帽ニット帽ネックウォーマーヘッドライトに換えの電池、コンパスとぉ地図はエアリアとニゴ万図、シュラフとシュラカバ断マットナイフホイッスル細引きスプーンフォーク、日焼け止めにリップクリーム、ライター……ビーコンゾンデペグ、下着――ハーネス――コッフェルに食器――無線、腕時計、ピッケルにスコップ――わかんなくなった最初からっ!」
ザックをひっくり返してやり直し。装備の確認はしてしすぎるということはない。部屋に敷いた新聞紙の上にひとつひとつ並べて手元の計画書とにらめっこ。
パーティー兼用の団体装備は省いてある。空ともう少し打ち合わせをしてから。残りひとりがどんなやつか知らないが、経験が乏しいそうだから、ほとんどの団装はこちらふたりで分けるらしい。別に文句はないけれど、大丈夫なの? きちんと槍まで登れる体力と技術は持ち合わせてるの? そういう思いがあるにはある。
「ほんとうはこんなことしてる場合じゃないのにっ!」
終業式が終わったのだから、ほんとうは三年生に向けて準備をしなければならないのだが。杏奈は成績が良いほうではない、三学期の成績表も保健体育以外はずたぼろもいいところだった。このまえ決死の思いで受けた模試が返ってきてばっちりE判定、志望校も試験教科も考え直せとおもっくそばっさり斬り捨てられた。ほんとうはもっと勉強していなければならないのだが。もっと高校生らしいことをしていなければならないのだが。
「もっと女子高生らしいことしてたいのになんでいまどきこんなことしてるの? 友だちみんな先約あって遊べないとか言うしっ、裾野さんなんか連絡さえつかなくなってるしっ、どうせみんなデートかなんかだよチクショウ! リア充消し飛べ! まるであたしが山狂いみたいじゃない!」
立て続けに悪態をつきながらも慣れた手つきで素早くパッキング。着替えやシュラフ等々濡れてはならないものをビニール袋を二重にして圧縮、百リットルのザックに片っ端から突っ込んでいく。テントでしか使わないような個装は下、行動中に出し入れするものは上、ピッケルや断熱マット、外付けできるものは外付け、天蓋もフル活用。ぱんぱんになってぎちぎちになるまでザックを酷使、みるみるうちに冬山のザックができあがる。
「頭からっぽの恋愛だってしたいのに男がいないー! 十七年間素敵な出会いなんか一度だってしたことない! 世界人口の半分が異性だなんて嘘ばっかりだー!」
そうして、いつでも山に行ける準備が完了する。
姫川陽子は市内の病院にパートとして勤めている看護師で、その病院は、主に療養病棟や回復期リハビリテーション施設の充実を売りにしており、空が入院した数日、その後通った数ヶ月のあいだに、ふたりは顔見知りとしてよく話すようになっていた。もちろん看護師と患者だから、なにもかも胸を割って話すということもなかったが、空の眼には陽子という女はいつもはきはきして明朗で、背筋をぴんと伸ばし、常に親愛の情を持って他人と接する優秀な看護師のように見えた。だから、陽子が自分の娘とまったくもってうまくいってないことなど、最初は想像もつかないことだった。
陽子は姫川天見の母親だった。天見は二十七歳のときに産んだ娘で、彼女自身はそろそろ四十路に届こうとしていたが、そうとは思えないほど若々しい顔と肌の艶をしていた。見ようによっては空と同い年と言っても通じるほどだった。もっとも、空のほうがひどく年齢の読みにくい顔をしているということもあるにはあるのだが。
陽子はダイニングを横切り、テーブルのまえに座る空の対面までくると、グラスを差し出して言う。「お酒は?」
「なんでもいけるほうです。いろいろと試してみたけど、どれも同じように飲める」
「いまは日本酒しかないの。旦那の好みでね。おつまみも適当に出しておくから、お好きにどうぞ」
「お構いなく」
空は礼を言って一口啜り、味わうように飲んだ。ほんとうはアルコールの味の違いなどよくわからないのだが。とりあえずビールよりは美味いように思えた。
自宅だからなのか、ただ単にそういう気分だからなのか、陽子はいつもと違って疲れ果てているように見えた。看護師としての疲労が一気に湧いて出てきたように。なかなか本題に入ろうとせず、虚ろな眼をあらぬほうへ向けていた。空は彼女が話し出すまでじっと待った。
ややあって、ようやく陽子は言った。「娘のこと。迷惑かけてるね、ごめんなさい」
「迷惑? まさか。あたしは楽しいですよ」
「遠慮も謙遜もいいから。あの子は私も旦那も持て余してる。少しまえまではそうじゃなかったのに、あの」そこで陽子の顔が苦痛に歪んだ。「――事件があってから、私にはあの子のことがわからなくなってしまった。他人に……暴力を……振るうなんて。そんな風に育てた覚えなんかないのに」
そのことについて、空は天見から詳しく事情を聞いたことはなかった。無闇に掘り出そうとは思わなかった、自分のことについて必要以上に天見に打ち明けたことがないように。
「でも、理由なく暴力に頼る子じゃないように見えますけどね。一緒に何度か登りましたけど、そこまで排他的じゃないし、内面に深く潜るようなところがあるにしろ、攻撃的ってわけじゃないですよ。悪い子じゃない。まあ、それだけは言えると思います」
「暴力を振るった時点で良いも悪いもない。それに……一発だけじゃなく、何度も……馬乗りになって、って聞いた。そんなのはまともなことじゃない。少なくとも、女の子がするようなことじゃない」
「よほど腹に据えかねることがあったんでしょうよ」
「だとしても――」
「そのことについて、陽子さんは天見からきちんと話を聞きました?」
「話を聞くとか聞かないとか、そういう次元の話じゃない。あの子はクラスメイトを殴りつけた。それだけでもうたくさん」
娘のしたことそのものがよほど腹に据えかねることなのだろう、陽子にとっては。空は彼女を見つめてそう思った。娘の不登校について、心底恥じ入っていることは明白だった。ようやく小学校を卒業して、だからなんなのか。なにひとつ解決されていない以上、中学でも同じことが繰り返される。
(天見がまた厄介な事件を起こすのが怖いんだろうな)
そうして、そのことについて糾弾を受けるのが怖ろしいのだろう。けれど、と空は思う。それは天見自身のことを慮って? それとも自分たちに向けられる非難について?
とはいえ、空はカウンセラーではない。「親は子のやることに文句をつけたがる。本を読んでたら運動しろとか。テレビゲームやってたら外で遊べとか。外で遊んでたら勉強しろとか。勉強してたら読書をしろとか。そういうのってみーんなしょうもないことです。そうは思いません?」
「でも、それらと暴力とは違う。暴力は紛れもなく犯罪。どんな理由があったとしても赦されないこと。今回はたまたま和解したからいいようなものの、次もそうだとは限らない。天見がそんな子だったなんて……」
ガンジーでさえ臆病と暴力だったら暴力を取るって言ってるんだぜ、と空は思った。「まあ、そんな心配するようなことじゃないと思いますね。あたしは……」
そこで空は話題を変え、陽子に春休みの計画について離した。槍ヶ岳。自分と天見、それにもうひとりの経験者でのパーティ。親御の許可を取るのは重要なことだ。
なにもかもうまくいって三泊四日、よくて四泊五日、ことによったら一週間以上は余裕でかかってしまうことも話した。危険性についても。計画書を長野県警に提出し、無線を携行し、即撤退の選択肢を常に考慮し、完全装備で挑むとしても、危険は危険だ。山と対峙したとき、自分がどれほど塵のように脆弱な人間でしかないか、空は知りすぎるほど知っていた。山を倒せる人間は存在しない。ただその懐でひっそりと、対話にならぬ対話を試みるだけのことだ。
「天見は」と陽子は言った。「雄大な自然に触れて、少しは人間らしさを取り戻せたかしら?」
「山に教育効果はないです」空はぴしゃりと答えた。「あたしに言えるのは、天見は最初からずっと人間ってことですよ。これ以上ないってくらい」
あたしほど“人間らしさ”なんてのが似合わない女もそうはいないんだけどな、と空は思う。そういうのは別の人間の仕事だ。
姫川邸二階、天見の部屋。天見のパッキングを見つめながら、空は壁に背を預けて座り、ぼんやりと思考を巡らせている。彼女くらいの年頃のとき、あたしはどうだったか。山を覚えたのは七歳のとき、ちょっとした冒険心で農道を駆け抜け、山裾を走り、勢いだけで坂道を駆け上ったときのことだった。日曜で、父親は自分の山に行っていたのだ。退屈で時間を持て余し、燻っていた。それほど深い考えがあったわけではない。ただ……行ってみたかった。未知をこの眼で確かめたかった。そして天見くらいのときには、たったひとりでどこへでも行ける気になってしまっていた。
「パッキングのやりかたは覚えてる?」
「はい」
「だったら、いいよ。必要なものは絶対に忘れず、不必要なものは絶対に持っていかない。気をつけるのはそれくらいだ。それがいちばん難しいんだけどさ」
天見は眉をひそめた。「……そういう風に生きることができたら」
「うん?」
「テントとかはどうするんですか?」
「ああ、それはあたしが持ってく。あともうひとりにちょこっと持ってもらってさ。それと、ワカンは外付けでいいよ。他の装備はもっと思いっきり押し込んでみな、ザックのほうが合わせてくれるから」
あたしがなんの気兼ねもなく登れていたのは親父が山屋だったおかげかもしれないと思う。もし親父が普通の人間だったら。櫛灘文太は私立高校の教師でもあったから、そういう風に育てられていたかもしれない。きちんとした女の子として。山屋としてではなく、年頃の、お淑やかなお嬢さんにでもなっていたかもしれない。いまとなってはまったく想像もつかないが。
可能性を弄ぶ。もし山屋でなかったら、山から離れていた二十五歳から三十歳までの年月、あんなにも苦しむことはなかったかもしれない。“女らしい”恋愛でもして、結婚でもしていたかもしれない。ずたぼろに傷つき、疲れ果て、髪の毛が真っ白になるまで思い悩むこともなかったかもしれない。でも、山に連なるあらゆる喜びを知ることもなかった。あたしが知ってるあらゆる喜び、快楽、気持ちいいことに愉しいことは、すべて山が与えてくれたものだった。
全部、ただの可能性だ。
「ねえ、天見」
「はい?」
「たとえばいまさ、山なんて浪費するばっかりでくだらない、つまらなくて被虐的なことだよって言われたら、山から離れてすっぱりやめることができるかい?」
天見は夜を徘徊する獣のような眼を空に向けた。「私はまだ山のことをなにも知らない」
「そう。そうだね」
それは空にしても同じことを感じていた。これだけ登り続け、下り続け、歩き続け、進み続けても、あたしはまだあそこのことをなにもわかっていないと感じさせられ続けていた。一年に二百日は山に篭もっていた時期もあったし、何週間も風呂に入らず雪壁と向き合い続けていた時期もあった。生理が重いときでさえ登った。すっ転んでアイゼンで顔を傷つけ、ばたばたと血を零しながら登ったこともあった。山のあらゆる表情のなかで登ってきた。それでもあたしはまだ、山のことを百万分の一も知らないと思い知らされる瞬間があった。
「あと百年くらい寿命があればって思うよ。人間の一生は短すぎて、この世のすべての山を味わうには足りなさすぎる」
天見は空から眼を離してパッキングに意識を戻した。「五年も燻ってる場合じゃなかったんじゃないですか」
「でも、帰ってきただろ? その時間があたしには必要だったんだよ」
天見はいまが訊く機会かもしれないと思った。どうして空が山から離れていたのか、その理由について。
が……訊かずにいるほうがいいかもしれないとも思った。余計な干渉は遠ざけて、ただ登るためだけに登るパーティでいるほうがいいかもしれない。重要なことはなに? 自分にそう問いかければ、答えは明白だった。過去を探ることではなく、登ることだ。ただ進むことだ。
「また登らなくなるってことだけはやめてください。私が登れなくなるんで」
空はふっと噴き出した。「ああ、うん。わかった。精一杯気をつけるよ、今度こそ」
出発の日が近づくと杏奈は眼に見えてそわそわしだした。心此処にあらずを完全に体現して、家ではほとんどぼうっとして危なっかしいくらいだった。風呂から上がってきて、すたすたと廊下を歩き、そのまま壁に激突したことさえあった。
篠原にとっては、懐かしい光景だった。そういえば小学生の頃、おれの娘は山が近づくとよくああした調子になっていたっけ。情緒不安定になり、いつも無意識でやってることが拙くなり、上機嫌と不機嫌のあいだを凄まじい速度で往復するのだ。やっといつもの調子が戻ってきたな、と篠原は思った。受験期だろうがなんだろうが、杏奈はやはりこうでないと。
杏奈がリビングの敷居で思いっきり蹴躓いたところで、篠原は声をかけた。「なあ、杏奈。空とは――」
「ぼさっと見てんじゃねーよクソ親父っ!」
大失態を目の当たりにされて赤面涙目の杏奈が叫んだかと思うと、向こう脛に重いローキックをかまされ、篠原は呻いてしゃがみこんだ。痛みを堪えてどうにか顔を上げると、もう杏奈の姿はない。階段がどたどた言って、二階がにわかにうるさくなった。
そうして、やっと出発の日がやってくる。
杏奈は朝飯をかっこんで百リットル三十キロのザックを担ぎ、まるで尻をひっぱたかれているような速度で玄関に向かい、登山靴を手提げに突っ込んでスニーカーを履いた。行ってきます! と一声叫んで、扉を開ける。そこでようやく篠原が杏奈に追いついた。
「気をつけてな、杏奈。空によろしく。リーダーはあいつなんだから、きちんと指示を聞いて、安全第一でな。失礼のないようになんて言わんが」
「わかってる!」
「下山したら連絡いれろよ、予備日使うときも、電波が入るならできるだけ――」
「わかってる!」
「迎えが必要なら行くからな。とにかく、無事に帰ってきてくれよ。なんたって槍だからな。ああ、槍かあ。羨ましいなあ、おれも有給が取れたら――」
「お父さんうるさい! 行くからね! 行くからね!?」
「おまえはもう少し落ち着きってものを――」
やかましい音を立てて玄関が閉まる。篠原は溜息をついた。
待ち合わせ場所は電車で数駅行ったところの改札口。空の知り合いが車で松本まで送ってくれるという話だった。そこからバスで新穂高温泉まで向かう。もうひとりのメンバーとは、そこで初顔合わせだった。
ザックを背負っていると改札を通るのさえ一苦労だ。横幅が狭すぎて引っ掛かる。ICカードを叩きつけ、気合と根性ですり抜ける。空はもう待ち合わせ場所についていて、ザックを下ろし、柱に背を預けている。おびただしい数の雑踏が行き交うなか、その姿は否が応でも目立つ。
杏奈は軽く深呼吸して心臓を鎮め、できるだけなんでもない声音になるように言う。「おはようございます」
空はにこりと愛想よく笑った。「うん、おはよう。ちょうどいまあんたの親父殿から連絡がきたところだよ、そろそろ到着するだろうって。あいつもいい加減子煩悩だけど、いい父親で羨ましいね」
「鬱陶しいだけです」きょろきょろとあたりを見渡して――「もうひとりの子は? まだきてないんですか」
「いや、トイレ――きたきた。天見!」
「……天見?」
杏奈は弾かれたように振り返る。
クライミング・ジムでよく見た例の女の子が頬をひくつかせて突っ立っている。
杏奈は思わず指を突き出し、大声を出してしまっていた。「姫ちゃん!? ええーっ!?」
天見は無愛想に頭を下げた。「……どうも」
次の更新は月曜日になります。
えーっとそれと、なんだ、こっちに書くことが特にないっ
とにかくよろしくお願いします!
多忙と将来への不安にかまけ、この冬はどこの山も登り損ねたのだ。杏奈は部屋を引っ掻き回し、どうにかピッケルを見つけ出すと、錆が浮いていないかどうかさっと確かめた。それに刃が磨り減っていないか。石突は鋭利さを保ち、自分を確保するために信頼できるかどうか。問題はなかった。
「えーっとなんだ、手袋の薄手と厚手とオーバー、靴下の薄手と厚手、ロングスパッツ、アイゼンとワカン、アウタージャケットにオーバーズボン、サングラスにゴーグル、目出帽ニット帽ネックウォーマーヘッドライトに換えの電池、コンパスとぉ地図はエアリアとニゴ万図、シュラフとシュラカバ断マットナイフホイッスル細引きスプーンフォーク、日焼け止めにリップクリーム、ライター……ビーコンゾンデペグ、下着――ハーネス――コッフェルに食器――無線、腕時計、ピッケルにスコップ――わかんなくなった最初からっ!」
ザックをひっくり返してやり直し。装備の確認はしてしすぎるということはない。部屋に敷いた新聞紙の上にひとつひとつ並べて手元の計画書とにらめっこ。
パーティー兼用の団体装備は省いてある。空ともう少し打ち合わせをしてから。残りひとりがどんなやつか知らないが、経験が乏しいそうだから、ほとんどの団装はこちらふたりで分けるらしい。別に文句はないけれど、大丈夫なの? きちんと槍まで登れる体力と技術は持ち合わせてるの? そういう思いがあるにはある。
「ほんとうはこんなことしてる場合じゃないのにっ!」
終業式が終わったのだから、ほんとうは三年生に向けて準備をしなければならないのだが。杏奈は成績が良いほうではない、三学期の成績表も保健体育以外はずたぼろもいいところだった。このまえ決死の思いで受けた模試が返ってきてばっちりE判定、志望校も試験教科も考え直せとおもっくそばっさり斬り捨てられた。ほんとうはもっと勉強していなければならないのだが。もっと高校生らしいことをしていなければならないのだが。
「もっと女子高生らしいことしてたいのになんでいまどきこんなことしてるの? 友だちみんな先約あって遊べないとか言うしっ、裾野さんなんか連絡さえつかなくなってるしっ、どうせみんなデートかなんかだよチクショウ! リア充消し飛べ! まるであたしが山狂いみたいじゃない!」
立て続けに悪態をつきながらも慣れた手つきで素早くパッキング。着替えやシュラフ等々濡れてはならないものをビニール袋を二重にして圧縮、百リットルのザックに片っ端から突っ込んでいく。テントでしか使わないような個装は下、行動中に出し入れするものは上、ピッケルや断熱マット、外付けできるものは外付け、天蓋もフル活用。ぱんぱんになってぎちぎちになるまでザックを酷使、みるみるうちに冬山のザックができあがる。
「頭からっぽの恋愛だってしたいのに男がいないー! 十七年間素敵な出会いなんか一度だってしたことない! 世界人口の半分が異性だなんて嘘ばっかりだー!」
そうして、いつでも山に行ける準備が完了する。
姫川陽子は市内の病院にパートとして勤めている看護師で、その病院は、主に療養病棟や回復期リハビリテーション施設の充実を売りにしており、空が入院した数日、その後通った数ヶ月のあいだに、ふたりは顔見知りとしてよく話すようになっていた。もちろん看護師と患者だから、なにもかも胸を割って話すということもなかったが、空の眼には陽子という女はいつもはきはきして明朗で、背筋をぴんと伸ばし、常に親愛の情を持って他人と接する優秀な看護師のように見えた。だから、陽子が自分の娘とまったくもってうまくいってないことなど、最初は想像もつかないことだった。
陽子は姫川天見の母親だった。天見は二十七歳のときに産んだ娘で、彼女自身はそろそろ四十路に届こうとしていたが、そうとは思えないほど若々しい顔と肌の艶をしていた。見ようによっては空と同い年と言っても通じるほどだった。もっとも、空のほうがひどく年齢の読みにくい顔をしているということもあるにはあるのだが。
陽子はダイニングを横切り、テーブルのまえに座る空の対面までくると、グラスを差し出して言う。「お酒は?」
「なんでもいけるほうです。いろいろと試してみたけど、どれも同じように飲める」
「いまは日本酒しかないの。旦那の好みでね。おつまみも適当に出しておくから、お好きにどうぞ」
「お構いなく」
空は礼を言って一口啜り、味わうように飲んだ。ほんとうはアルコールの味の違いなどよくわからないのだが。とりあえずビールよりは美味いように思えた。
自宅だからなのか、ただ単にそういう気分だからなのか、陽子はいつもと違って疲れ果てているように見えた。看護師としての疲労が一気に湧いて出てきたように。なかなか本題に入ろうとせず、虚ろな眼をあらぬほうへ向けていた。空は彼女が話し出すまでじっと待った。
ややあって、ようやく陽子は言った。「娘のこと。迷惑かけてるね、ごめんなさい」
「迷惑? まさか。あたしは楽しいですよ」
「遠慮も謙遜もいいから。あの子は私も旦那も持て余してる。少しまえまではそうじゃなかったのに、あの」そこで陽子の顔が苦痛に歪んだ。「――事件があってから、私にはあの子のことがわからなくなってしまった。他人に……暴力を……振るうなんて。そんな風に育てた覚えなんかないのに」
そのことについて、空は天見から詳しく事情を聞いたことはなかった。無闇に掘り出そうとは思わなかった、自分のことについて必要以上に天見に打ち明けたことがないように。
「でも、理由なく暴力に頼る子じゃないように見えますけどね。一緒に何度か登りましたけど、そこまで排他的じゃないし、内面に深く潜るようなところがあるにしろ、攻撃的ってわけじゃないですよ。悪い子じゃない。まあ、それだけは言えると思います」
「暴力を振るった時点で良いも悪いもない。それに……一発だけじゃなく、何度も……馬乗りになって、って聞いた。そんなのはまともなことじゃない。少なくとも、女の子がするようなことじゃない」
「よほど腹に据えかねることがあったんでしょうよ」
「だとしても――」
「そのことについて、陽子さんは天見からきちんと話を聞きました?」
「話を聞くとか聞かないとか、そういう次元の話じゃない。あの子はクラスメイトを殴りつけた。それだけでもうたくさん」
娘のしたことそのものがよほど腹に据えかねることなのだろう、陽子にとっては。空は彼女を見つめてそう思った。娘の不登校について、心底恥じ入っていることは明白だった。ようやく小学校を卒業して、だからなんなのか。なにひとつ解決されていない以上、中学でも同じことが繰り返される。
(天見がまた厄介な事件を起こすのが怖いんだろうな)
そうして、そのことについて糾弾を受けるのが怖ろしいのだろう。けれど、と空は思う。それは天見自身のことを慮って? それとも自分たちに向けられる非難について?
とはいえ、空はカウンセラーではない。「親は子のやることに文句をつけたがる。本を読んでたら運動しろとか。テレビゲームやってたら外で遊べとか。外で遊んでたら勉強しろとか。勉強してたら読書をしろとか。そういうのってみーんなしょうもないことです。そうは思いません?」
「でも、それらと暴力とは違う。暴力は紛れもなく犯罪。どんな理由があったとしても赦されないこと。今回はたまたま和解したからいいようなものの、次もそうだとは限らない。天見がそんな子だったなんて……」
ガンジーでさえ臆病と暴力だったら暴力を取るって言ってるんだぜ、と空は思った。「まあ、そんな心配するようなことじゃないと思いますね。あたしは……」
そこで空は話題を変え、陽子に春休みの計画について離した。槍ヶ岳。自分と天見、それにもうひとりの経験者でのパーティ。親御の許可を取るのは重要なことだ。
なにもかもうまくいって三泊四日、よくて四泊五日、ことによったら一週間以上は余裕でかかってしまうことも話した。危険性についても。計画書を長野県警に提出し、無線を携行し、即撤退の選択肢を常に考慮し、完全装備で挑むとしても、危険は危険だ。山と対峙したとき、自分がどれほど塵のように脆弱な人間でしかないか、空は知りすぎるほど知っていた。山を倒せる人間は存在しない。ただその懐でひっそりと、対話にならぬ対話を試みるだけのことだ。
「天見は」と陽子は言った。「雄大な自然に触れて、少しは人間らしさを取り戻せたかしら?」
「山に教育効果はないです」空はぴしゃりと答えた。「あたしに言えるのは、天見は最初からずっと人間ってことですよ。これ以上ないってくらい」
あたしほど“人間らしさ”なんてのが似合わない女もそうはいないんだけどな、と空は思う。そういうのは別の人間の仕事だ。
姫川邸二階、天見の部屋。天見のパッキングを見つめながら、空は壁に背を預けて座り、ぼんやりと思考を巡らせている。彼女くらいの年頃のとき、あたしはどうだったか。山を覚えたのは七歳のとき、ちょっとした冒険心で農道を駆け抜け、山裾を走り、勢いだけで坂道を駆け上ったときのことだった。日曜で、父親は自分の山に行っていたのだ。退屈で時間を持て余し、燻っていた。それほど深い考えがあったわけではない。ただ……行ってみたかった。未知をこの眼で確かめたかった。そして天見くらいのときには、たったひとりでどこへでも行ける気になってしまっていた。
「パッキングのやりかたは覚えてる?」
「はい」
「だったら、いいよ。必要なものは絶対に忘れず、不必要なものは絶対に持っていかない。気をつけるのはそれくらいだ。それがいちばん難しいんだけどさ」
天見は眉をひそめた。「……そういう風に生きることができたら」
「うん?」
「テントとかはどうするんですか?」
「ああ、それはあたしが持ってく。あともうひとりにちょこっと持ってもらってさ。それと、ワカンは外付けでいいよ。他の装備はもっと思いっきり押し込んでみな、ザックのほうが合わせてくれるから」
あたしがなんの気兼ねもなく登れていたのは親父が山屋だったおかげかもしれないと思う。もし親父が普通の人間だったら。櫛灘文太は私立高校の教師でもあったから、そういう風に育てられていたかもしれない。きちんとした女の子として。山屋としてではなく、年頃の、お淑やかなお嬢さんにでもなっていたかもしれない。いまとなってはまったく想像もつかないが。
可能性を弄ぶ。もし山屋でなかったら、山から離れていた二十五歳から三十歳までの年月、あんなにも苦しむことはなかったかもしれない。“女らしい”恋愛でもして、結婚でもしていたかもしれない。ずたぼろに傷つき、疲れ果て、髪の毛が真っ白になるまで思い悩むこともなかったかもしれない。でも、山に連なるあらゆる喜びを知ることもなかった。あたしが知ってるあらゆる喜び、快楽、気持ちいいことに愉しいことは、すべて山が与えてくれたものだった。
全部、ただの可能性だ。
「ねえ、天見」
「はい?」
「たとえばいまさ、山なんて浪費するばっかりでくだらない、つまらなくて被虐的なことだよって言われたら、山から離れてすっぱりやめることができるかい?」
天見は夜を徘徊する獣のような眼を空に向けた。「私はまだ山のことをなにも知らない」
「そう。そうだね」
それは空にしても同じことを感じていた。これだけ登り続け、下り続け、歩き続け、進み続けても、あたしはまだあそこのことをなにもわかっていないと感じさせられ続けていた。一年に二百日は山に篭もっていた時期もあったし、何週間も風呂に入らず雪壁と向き合い続けていた時期もあった。生理が重いときでさえ登った。すっ転んでアイゼンで顔を傷つけ、ばたばたと血を零しながら登ったこともあった。山のあらゆる表情のなかで登ってきた。それでもあたしはまだ、山のことを百万分の一も知らないと思い知らされる瞬間があった。
「あと百年くらい寿命があればって思うよ。人間の一生は短すぎて、この世のすべての山を味わうには足りなさすぎる」
天見は空から眼を離してパッキングに意識を戻した。「五年も燻ってる場合じゃなかったんじゃないですか」
「でも、帰ってきただろ? その時間があたしには必要だったんだよ」
天見はいまが訊く機会かもしれないと思った。どうして空が山から離れていたのか、その理由について。
が……訊かずにいるほうがいいかもしれないとも思った。余計な干渉は遠ざけて、ただ登るためだけに登るパーティでいるほうがいいかもしれない。重要なことはなに? 自分にそう問いかければ、答えは明白だった。過去を探ることではなく、登ることだ。ただ進むことだ。
「また登らなくなるってことだけはやめてください。私が登れなくなるんで」
空はふっと噴き出した。「ああ、うん。わかった。精一杯気をつけるよ、今度こそ」
出発の日が近づくと杏奈は眼に見えてそわそわしだした。心此処にあらずを完全に体現して、家ではほとんどぼうっとして危なっかしいくらいだった。風呂から上がってきて、すたすたと廊下を歩き、そのまま壁に激突したことさえあった。
篠原にとっては、懐かしい光景だった。そういえば小学生の頃、おれの娘は山が近づくとよくああした調子になっていたっけ。情緒不安定になり、いつも無意識でやってることが拙くなり、上機嫌と不機嫌のあいだを凄まじい速度で往復するのだ。やっといつもの調子が戻ってきたな、と篠原は思った。受験期だろうがなんだろうが、杏奈はやはりこうでないと。
杏奈がリビングの敷居で思いっきり蹴躓いたところで、篠原は声をかけた。「なあ、杏奈。空とは――」
「ぼさっと見てんじゃねーよクソ親父っ!」
大失態を目の当たりにされて赤面涙目の杏奈が叫んだかと思うと、向こう脛に重いローキックをかまされ、篠原は呻いてしゃがみこんだ。痛みを堪えてどうにか顔を上げると、もう杏奈の姿はない。階段がどたどた言って、二階がにわかにうるさくなった。
そうして、やっと出発の日がやってくる。
杏奈は朝飯をかっこんで百リットル三十キロのザックを担ぎ、まるで尻をひっぱたかれているような速度で玄関に向かい、登山靴を手提げに突っ込んでスニーカーを履いた。行ってきます! と一声叫んで、扉を開ける。そこでようやく篠原が杏奈に追いついた。
「気をつけてな、杏奈。空によろしく。リーダーはあいつなんだから、きちんと指示を聞いて、安全第一でな。失礼のないようになんて言わんが」
「わかってる!」
「下山したら連絡いれろよ、予備日使うときも、電波が入るならできるだけ――」
「わかってる!」
「迎えが必要なら行くからな。とにかく、無事に帰ってきてくれよ。なんたって槍だからな。ああ、槍かあ。羨ましいなあ、おれも有給が取れたら――」
「お父さんうるさい! 行くからね! 行くからね!?」
「おまえはもう少し落ち着きってものを――」
やかましい音を立てて玄関が閉まる。篠原は溜息をついた。
待ち合わせ場所は電車で数駅行ったところの改札口。空の知り合いが車で松本まで送ってくれるという話だった。そこからバスで新穂高温泉まで向かう。もうひとりのメンバーとは、そこで初顔合わせだった。
ザックを背負っていると改札を通るのさえ一苦労だ。横幅が狭すぎて引っ掛かる。ICカードを叩きつけ、気合と根性ですり抜ける。空はもう待ち合わせ場所についていて、ザックを下ろし、柱に背を預けている。おびただしい数の雑踏が行き交うなか、その姿は否が応でも目立つ。
杏奈は軽く深呼吸して心臓を鎮め、できるだけなんでもない声音になるように言う。「おはようございます」
空はにこりと愛想よく笑った。「うん、おはよう。ちょうどいまあんたの親父殿から連絡がきたところだよ、そろそろ到着するだろうって。あいつもいい加減子煩悩だけど、いい父親で羨ましいね」
「鬱陶しいだけです」きょろきょろとあたりを見渡して――「もうひとりの子は? まだきてないんですか」
「いや、トイレ――きたきた。天見!」
「……天見?」
杏奈は弾かれたように振り返る。
クライミング・ジムでよく見た例の女の子が頬をひくつかせて突っ立っている。
杏奈は思わず指を突き出し、大声を出してしまっていた。「姫ちゃん!? ええーっ!?」
天見は無愛想に頭を下げた。「……どうも」
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