登山ss。そろそろ登れよおらっ!
一回につき十キロバイト前後。次回更新は木曜日です。と自分に発破をかけてみる。
登っていない山域を書こうとすると完全に資料頼みなのが怖いというか鬱陶しいというか、感覚で書けないのがツライ。でもたとえば野球漫画やサッカー漫画なんかで、作者自身がそのスポーツの経験をしてるってどのくらいなんだろう。漫画家ってほんとうに漫画表現に特化していて、二束の草鞋でなれるような印象はないのだけれど。
バトル漫画だとなおさら。作者が特殊能力持ってるわけでもないのに、それで長く書けるって心底すごいと思う。荒木先生はスタンド使いとか波紋使いとか吸血鬼とか究極生物だとかだとしてもうっかり信じてしまいそうなレベルですが
私は最近登れてません。悲しい。先立つものがねえんだよ先立つものがァ!
櫛灘空という女に関して、杏奈が覚えていることは少ない。ああそういう女のひともいたっけ、くらいの認識しかない。父親の――篠原武士の知り合いで、母親――美奈子とも多少の面識があり、半年に一度程度の割合で家に訪ねてきていた。しかし、父のザイルパートナーだったとは知らなかった。そもそもその時期、父は膝を悪くして山から距離を置いていた。
しかし、まだ不信感はある。ほんとうに父の不倫相手じゃないって、断言できる? ザイルパートナーなんて、ことによっちゃ夫婦より深い仲でさえある。「割勘でいいです?」
空は肩を落とした。「あたしが奢るよ、さすがに。チョコレートパフェなんかどう? ここの喫茶店、美味しいって聞くよ。大したもんだって。そりゃすごいもんだ、とも」
「コーヒーで」
「カロリーとか気にしちゃう?」
「そりゃ、まあ。人並みには」
「そのくらいの年頃だったら新陳代謝のほうが早いと思うけどね。あ、すみません。ここコーヒーふたつで」
杏奈はじっくりと空を観察した。白髪の目立つ――というより、ほとんど白が地毛のような印象のある女だった。小柄で、細身の、メリハリの乏しい子供のような体格。三十路と聞いたが、十八でも三十五でも通用するような、年齢の読みにくい顔。うっすらと微笑の張りつく薄い唇。端整で涼やかな目許。美人……というには若干キツめで、魅力的……というにはどこかズレている。世に言う美女とはかけ離れていることはたしかだ。
「まあ、あたしのことなんか覚えてなくても仕方ないね。でもあたしはよく覚えてる。あんときあんたは、親父殿のでっかい背中に隠れて、ちょこちょこビビリながらこっちを窺ってた。可愛い子だと思ったよ」しげしげと杏奈を見つめて、「しばらく見ないうちにもっと可愛くなったみたいだ。もう立派な女性だね……」
そんな風なことばで易々と懐柔される杏奈でもなかった。「どうも。で、なんでしたっけ?」
「なんだっけ? そうそう。あたしもこういうのは苦手なんだけどさあ、親父殿に頼まれちまって。可愛いひとり娘が受験戦争をまえにしてどうにかなっちゃいそうだから、そうなるまえにガス抜きしてやってくれって。で、実際のところどうなの?」
「最悪です」
「へええ。ふうん? 最悪、ね。あたしは大学受験なんて経験ないからよくわからないけど、そういうことばはほんとうに人生の危機ってときに使うもんだ。大変そうだね。あたしになにかできることは?」
「特にありません」
「はい」
余計なことばっかりして! 杏奈は心のなかで父親を罵った。ガス抜きもなにも、いまはそんなことに気をやっているときじゃないのに。
杏奈の苛立ちを見透かすように、空は頬杖をついて顔を傾け、覗き込むように杏奈を見つめる。かすかな微笑を唇に浮かべたまま、この時間そのものを楽しんででもいるように。杏奈も杏奈で空をじっと観察し続けている。不信感を隠そうともせず、むっつりと唇を尖らせて。けれどそういう顔をするには、杏奈の顔の線は柔らかすぎ、母親に似て優しすぎ、向いていないにも程があった。天見と違って笑っているのが素の顔なんだろうな、と空は思う。
「高校生ってそろそろ春休みかい?」
「――そうですけど」
「短いけど、鬱陶しいばかりの宿題もなくて、ちょっとした旅に出るにはいい時期だね。それに、山の上はまだ冬だ。雪に鎖されたままの世界が現役で残ってる。厳冬期よりは寒気が緩んで、陽射しは柔らかくなり、ときどき、かすかな春の匂いが下界から立ち昇ってくる。それでも夜はきんきんに凍りつく。思い出したように渦巻く吹雪の最後の吐息。星と嵐、岩・雪・氷。ノイズ混じりのラジオは春を祝うお手紙ばっかり読み上げるのに、あたしたちの周りにだけ冬が佇んでいて、なにもかもがちぐはぐだ。そう……春山。別れの儀式」
杏奈はぐっと息を呑む。
夢見るような空の声。潤んだ眼。詩人気取りかこのヤロウ。杏奈にしても、その時期の山を登ったのは一度や二度ではない。山はそれこそ年端もゆかぬ頃から登っていた。父親の影響と、杏奈自身の渇望から。去年も、ひとりで行った。もちろん単独行となれば大したところは登れなかったが、それでも、自分でテントと食糧と装備を担ぎ、大菩薩嶺や雲取山、八ヶ岳は天狗岳などを――
「槍をやってみない?」
「槍!?」
「そう。槍ヶ岳」
北アルプス。標高3180メートル。あの特徴的な鋭鋒を知らない登山者がいるだろうか?
杏奈は夏のシーズンに登ったことはある。が、冬はない。憧れのようなものを抱かないでいられるだろうか?
「……北鎌尾根、から?」
「あー。そこは今年はパスで。あたしはあんたの実力も知らないし。それにもうひとり連れてきたい子がいるから、やさしめのとこから登ろう。槍平から中崎尾根」
「なんだ……」
「そうがっかりしないでおくれよ。あんた次第だけど、北鎌は来年やろ? 厳冬期、年末年始にでもさ」
杏奈は唇をへの字にする。(受験だっつの)
「体力がいる」と天見は口に出して思った。「絶対に体力がいる。なにをどんなに続けても倒れないくらいの体力が。それに、足腰……脚力も。腕力も。指の力。握力。疲労しにくい筋肉に、柔軟性も。ザックを背負うための肩と背中。身長も欲しい。手足のリーチが欲しい。ボルダーやってて、腹筋も痛くなったってことは、そこもいるってことだ。
結局なにもかも足りてないってこと」
天見はぶつくさ言いながら走っている。陽光は霞み、上空は藍色の早朝。住宅街を抜けて農道をゆき、幅の広い河川敷に出る、いつものランニング・コース。距離はわからない。きっかり四十分走って、同じ道を引き返す。往復で八十分。既に行程を八割方終えている。息は小刻みに荒れて、胸が苦しい。乳酸だかなんだか、脚だけでなく腕に疲労物質が溜まっているのがわかる。ジャージの下、冬でも汗をかいており、風に冷えて寒い。指先はかじかんでいる。
「必要なものが多すぎる。必要とされているものが。そもそも歳が足りてない。アルバイトができなきゃ、自分で稼げなきゃ、いつまでも親の金で登ってるわけにはいかない。中学すっ飛ばして高校生になりたいくらい。
それでもって、いらないものまで多すぎる。学校とか。生理とか。体重もいらない。他人の目線。まだ懲りずに文句つけてくるお父さんとお母さんのことば。そう、ことばがいらない。なにも考えずに登れたらいいのに。こういう思考だって、くだらないことだ。なんで必要なものがこれっぽっちも足りなくて、余計なものばっかり溢れてるの?」
イライラしかけて、このイライラさえいらないことだと思う。自分がもどかしい。
一歩ずつでいい、と空なら言うだろう。丹沢の塔ノ岳を登ったときのように、もっとゆっくり歩きなさいと。まだ自分のペースもわかってないんだろうけど、ゆっくりだ。一歩ずつ。結局すぐにバテる。ゆっくり歩くよりずっと遅くなる。いいことなんかなんにもない。
だけど、と天見は思う。私は走りたいのに。ひとっ飛びして、空のいるところまで進んでしまいたいのに。無理なことだと、わかってはいるけれど。それでも、いつまでも空のセカンドで、引き上げられていたくない。
家が見えて、ふと気づく。「……今日は卒業式か」
いったいなにから卒業するというのか。天見はわからなくなって、むすっとして鼻息を吐く。
家のなかに、両親の姿は見えない。ふたりとも仕事に行ったのだろう。父親は銀行員で母親は看護師、忙しいにも程がある時期、天見も最初から期待していない。というかきてほしくない。リビングの机の上に、正装が置いてあった。黒のブレザーとチェックのスカート、ブラウスにリボンタイ。
天見は頬をひくつかせる。着ろ、と?
着て、鏡を覗き込んだ。
餓えた野良犬にフリフリのドレスをむりやり着せたかのようだった。
ほとんど脊髄反射的に呟く。「クソが」
登校中はコートを羽織ってごまかせた。が、どうやっても足がスースーして、居心地が悪い。どうしてこの世にスカートなんてあるんだろう? 女子の制服はみんなスカートってどういうこと?
そもそもだいたい登校拒否してるのに卒業式だけ出るのは卑怯だと思う。しかし、出ないと出ないでまたぐだぐだと文句をつけられると思うと面倒で溜まらないのだ。正直なところ、学校に感謝の念がないと言えば嘘になる。感謝は、まあ、していた。攻撃的な感情を育んでくれたことに対して。欺瞞に向けて、自分の心の内を爆発させることを教えてくれたことに。教えてくれたというよりは勝手に覚えたようなものだが。
学校がなければ、不登校を選ぶということも覚えなかった。
「ひーめーちゃん!」
いきなり真後ろから大声で呼ばれてつんのめった。そういう風に自分を呼ぶ女は少ない。「……おはよう」
「おっすおっす! よかったあ、姫ちゃんもさすがに今日は登校するんだ! 安心したよう、いなけりゃいないで姫ちゃんちまで突っ走ろうと思ってたところだからさ」
紡はコートなど羽織らず、まるで社会人のような開襟シャツ、スカートではなくパンツスーツという格好だった。元が小学生離れした背丈に妙に大人びた顔立ちで、足がすらりとして長いから、それが実に様になっている。大学の卒業式と言ったら信じてしまいそうだ。この格差!
「……」
自分を顧みると溜息しか出てこない。ふいと顔を背けて歩き出す。そんな天見に、ぴょんと飛び跳ねるように隣にきて、紡はおもむろに言う。「姫ちゃん春休みどうするー? なんか予定でもあるの?」
「別に。でも、したいと思ってることはある」
「あ、やっぱ山? 泊りがけで?」
「よく……わからない。決めてない。どのみちひとりじゃどこへも行けないから」
クライミング・ジムという手もあるにはあるが、あそこは放課後でも通えるし、折角の休みとなると勿体ない気もする。狭いのだ。れっきとしたボルダー、クライミングとはいえ、やはりやるなら本物の山を登りたいという思いはある。
今晩にでも空に連絡を取ってみようと思う。まずはそれからだ。「鵠沼さんは?」
「あたしはやっぱバスケかなあ。あとデート」
「……付き合ってるとかいうひとと?」
「そそ」
紡は綻ぶようににへらと笑う。早熟な容姿のなかでその表情だけが幼い。
卒業式は結局、どうがんばってもなんの感慨も湧いてこなかった。学年ごとに言わされるだけの祝福、感謝のことば、誰ともわからぬ者の祝電、卒業証書、校歌、そのどれも心に迫ってくることはなかった。生徒と保護者で賑わう校庭を足早に抜け、天見はさっさと帰ってしまった。
一区切りにすらならない。そんな思いばかりが胸に渦巻いていた。
「卒業おめでとう、天見」
家に帰ると玄関のまえに空がいて、天見は面食らって呆然とする。一瞬、幻かなにかだと思いかけさえする。しかし、現実の女だ。
「仕事は……?」
「いや、今日はおやすみ。夜勤があるけどさ。で、祝うついでにちょっとお誘いしようと思って、こっちまできたわけ。待ちぼうけになんなくてよかったよ、友だちと遊びに行くかもしれないと――ほら、このまえあたしんちに中学の制服見せにきたとき一緒だった明るい子――」
「鵠沼さんは私なんかよりもっと大切なひとと過ごしてます。たぶん」投げやりに言って、「誘い?」
「春休み暇だろ? 卒業祝いじゃないけど、連れてってあげようと思ってさ。今度は穂高のときみたいにテントキーパーじゃなくて、ちゃんと頂上まで」
天見は首を傾げてみせる。突如として膨れ上がった内心のざわめき、高揚をひた隠しにして。空はにやりと笑みを浮かべ、そっと打ち明けるように言う。
「槍」
「槍――」
「そう、槍ヶ岳だ。わかる?」
胸がどきどきし始める。心臓が急に元気になる。「――はい」
天見は眼を閉じ、いっとき、荒れ狂う波濤を見つめるような心地に浸る。こんなに……なるとは思いもしなかった。ただ行く。それだけのことで、ここまで心が昂ることになろうとは。槍ヶ岳。3180メートル。
「どう? 天見」
天見は率直に言っている。「嬉しいです」
「よかった。断られたらどうしようって思ってたからさ」空は照れ臭そうに頭の後ろを掻く。「正直、あんたの経験値を考えたら、槍はいくらなんでも早すぎると思う。これは状況によっちゃ即撤退まで選択肢に入れた山行だ。それでもやろうって思ったのは……まあ、あんたを見てたらね。やってもいいんじゃないかって感じたわけ」
「ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。で、実を言うとさ、もうひとり連れてきたい子がいるの。いいかな?」
天見は眼を細める。「連れてきたい子?」
「あんたより年上だよ。この春で高校三年生。知り合い――ザイルパートナーだったやつの娘でさ、その子も小学生くらいからもう山をやり続けてる。どう?」
「別に構いませんけど。私は……」
「そっか。ありがとね、天見」
空は頷き、ふとあらぬほうを見上げて眼を眇める。あたかもその方角に槍の穂先を見つけたかのように。
天見もつられてそちらを見上げている。昼の上空は白く霞んでいて色が薄く、はやく山の空へ帰りたいと思う。あの黒いほど澄んだ青空に。
一回につき十キロバイト前後。次回更新は木曜日です。と自分に発破をかけてみる。
登っていない山域を書こうとすると完全に資料頼みなのが怖いというか鬱陶しいというか、感覚で書けないのがツライ。でもたとえば野球漫画やサッカー漫画なんかで、作者自身がそのスポーツの経験をしてるってどのくらいなんだろう。漫画家ってほんとうに漫画表現に特化していて、二束の草鞋でなれるような印象はないのだけれど。
バトル漫画だとなおさら。作者が特殊能力持ってるわけでもないのに、それで長く書けるって心底すごいと思う。
櫛灘空という女に関して、杏奈が覚えていることは少ない。ああそういう女のひともいたっけ、くらいの認識しかない。父親の――篠原武士の知り合いで、母親――美奈子とも多少の面識があり、半年に一度程度の割合で家に訪ねてきていた。しかし、父のザイルパートナーだったとは知らなかった。そもそもその時期、父は膝を悪くして山から距離を置いていた。
しかし、まだ不信感はある。ほんとうに父の不倫相手じゃないって、断言できる? ザイルパートナーなんて、ことによっちゃ夫婦より深い仲でさえある。「割勘でいいです?」
空は肩を落とした。「あたしが奢るよ、さすがに。チョコレートパフェなんかどう? ここの喫茶店、美味しいって聞くよ。大したもんだって。そりゃすごいもんだ、とも」
「コーヒーで」
「カロリーとか気にしちゃう?」
「そりゃ、まあ。人並みには」
「そのくらいの年頃だったら新陳代謝のほうが早いと思うけどね。あ、すみません。ここコーヒーふたつで」
杏奈はじっくりと空を観察した。白髪の目立つ――というより、ほとんど白が地毛のような印象のある女だった。小柄で、細身の、メリハリの乏しい子供のような体格。三十路と聞いたが、十八でも三十五でも通用するような、年齢の読みにくい顔。うっすらと微笑の張りつく薄い唇。端整で涼やかな目許。美人……というには若干キツめで、魅力的……というにはどこかズレている。世に言う美女とはかけ離れていることはたしかだ。
「まあ、あたしのことなんか覚えてなくても仕方ないね。でもあたしはよく覚えてる。あんときあんたは、親父殿のでっかい背中に隠れて、ちょこちょこビビリながらこっちを窺ってた。可愛い子だと思ったよ」しげしげと杏奈を見つめて、「しばらく見ないうちにもっと可愛くなったみたいだ。もう立派な女性だね……」
そんな風なことばで易々と懐柔される杏奈でもなかった。「どうも。で、なんでしたっけ?」
「なんだっけ? そうそう。あたしもこういうのは苦手なんだけどさあ、親父殿に頼まれちまって。可愛いひとり娘が受験戦争をまえにしてどうにかなっちゃいそうだから、そうなるまえにガス抜きしてやってくれって。で、実際のところどうなの?」
「最悪です」
「へええ。ふうん? 最悪、ね。あたしは大学受験なんて経験ないからよくわからないけど、そういうことばはほんとうに人生の危機ってときに使うもんだ。大変そうだね。あたしになにかできることは?」
「特にありません」
「はい」
余計なことばっかりして! 杏奈は心のなかで父親を罵った。ガス抜きもなにも、いまはそんなことに気をやっているときじゃないのに。
杏奈の苛立ちを見透かすように、空は頬杖をついて顔を傾け、覗き込むように杏奈を見つめる。かすかな微笑を唇に浮かべたまま、この時間そのものを楽しんででもいるように。杏奈も杏奈で空をじっと観察し続けている。不信感を隠そうともせず、むっつりと唇を尖らせて。けれどそういう顔をするには、杏奈の顔の線は柔らかすぎ、母親に似て優しすぎ、向いていないにも程があった。天見と違って笑っているのが素の顔なんだろうな、と空は思う。
「高校生ってそろそろ春休みかい?」
「――そうですけど」
「短いけど、鬱陶しいばかりの宿題もなくて、ちょっとした旅に出るにはいい時期だね。それに、山の上はまだ冬だ。雪に鎖されたままの世界が現役で残ってる。厳冬期よりは寒気が緩んで、陽射しは柔らかくなり、ときどき、かすかな春の匂いが下界から立ち昇ってくる。それでも夜はきんきんに凍りつく。思い出したように渦巻く吹雪の最後の吐息。星と嵐、岩・雪・氷。ノイズ混じりのラジオは春を祝うお手紙ばっかり読み上げるのに、あたしたちの周りにだけ冬が佇んでいて、なにもかもがちぐはぐだ。そう……春山。別れの儀式」
杏奈はぐっと息を呑む。
夢見るような空の声。潤んだ眼。詩人気取りかこのヤロウ。杏奈にしても、その時期の山を登ったのは一度や二度ではない。山はそれこそ年端もゆかぬ頃から登っていた。父親の影響と、杏奈自身の渇望から。去年も、ひとりで行った。もちろん単独行となれば大したところは登れなかったが、それでも、自分でテントと食糧と装備を担ぎ、大菩薩嶺や雲取山、八ヶ岳は天狗岳などを――
「槍をやってみない?」
「槍!?」
「そう。槍ヶ岳」
北アルプス。標高3180メートル。あの特徴的な鋭鋒を知らない登山者がいるだろうか?
杏奈は夏のシーズンに登ったことはある。が、冬はない。憧れのようなものを抱かないでいられるだろうか?
「……北鎌尾根、から?」
「あー。そこは今年はパスで。あたしはあんたの実力も知らないし。それにもうひとり連れてきたい子がいるから、やさしめのとこから登ろう。槍平から中崎尾根」
「なんだ……」
「そうがっかりしないでおくれよ。あんた次第だけど、北鎌は来年やろ? 厳冬期、年末年始にでもさ」
杏奈は唇をへの字にする。(受験だっつの)
「体力がいる」と天見は口に出して思った。「絶対に体力がいる。なにをどんなに続けても倒れないくらいの体力が。それに、足腰……脚力も。腕力も。指の力。握力。疲労しにくい筋肉に、柔軟性も。ザックを背負うための肩と背中。身長も欲しい。手足のリーチが欲しい。ボルダーやってて、腹筋も痛くなったってことは、そこもいるってことだ。
結局なにもかも足りてないってこと」
天見はぶつくさ言いながら走っている。陽光は霞み、上空は藍色の早朝。住宅街を抜けて農道をゆき、幅の広い河川敷に出る、いつものランニング・コース。距離はわからない。きっかり四十分走って、同じ道を引き返す。往復で八十分。既に行程を八割方終えている。息は小刻みに荒れて、胸が苦しい。乳酸だかなんだか、脚だけでなく腕に疲労物質が溜まっているのがわかる。ジャージの下、冬でも汗をかいており、風に冷えて寒い。指先はかじかんでいる。
「必要なものが多すぎる。必要とされているものが。そもそも歳が足りてない。アルバイトができなきゃ、自分で稼げなきゃ、いつまでも親の金で登ってるわけにはいかない。中学すっ飛ばして高校生になりたいくらい。
それでもって、いらないものまで多すぎる。学校とか。生理とか。体重もいらない。他人の目線。まだ懲りずに文句つけてくるお父さんとお母さんのことば。そう、ことばがいらない。なにも考えずに登れたらいいのに。こういう思考だって、くだらないことだ。なんで必要なものがこれっぽっちも足りなくて、余計なものばっかり溢れてるの?」
イライラしかけて、このイライラさえいらないことだと思う。自分がもどかしい。
一歩ずつでいい、と空なら言うだろう。丹沢の塔ノ岳を登ったときのように、もっとゆっくり歩きなさいと。まだ自分のペースもわかってないんだろうけど、ゆっくりだ。一歩ずつ。結局すぐにバテる。ゆっくり歩くよりずっと遅くなる。いいことなんかなんにもない。
だけど、と天見は思う。私は走りたいのに。ひとっ飛びして、空のいるところまで進んでしまいたいのに。無理なことだと、わかってはいるけれど。それでも、いつまでも空のセカンドで、引き上げられていたくない。
家が見えて、ふと気づく。「……今日は卒業式か」
いったいなにから卒業するというのか。天見はわからなくなって、むすっとして鼻息を吐く。
家のなかに、両親の姿は見えない。ふたりとも仕事に行ったのだろう。父親は銀行員で母親は看護師、忙しいにも程がある時期、天見も最初から期待していない。というかきてほしくない。リビングの机の上に、正装が置いてあった。黒のブレザーとチェックのスカート、ブラウスにリボンタイ。
天見は頬をひくつかせる。着ろ、と?
着て、鏡を覗き込んだ。
餓えた野良犬にフリフリのドレスをむりやり着せたかのようだった。
ほとんど脊髄反射的に呟く。「クソが」
登校中はコートを羽織ってごまかせた。が、どうやっても足がスースーして、居心地が悪い。どうしてこの世にスカートなんてあるんだろう? 女子の制服はみんなスカートってどういうこと?
そもそもだいたい登校拒否してるのに卒業式だけ出るのは卑怯だと思う。しかし、出ないと出ないでまたぐだぐだと文句をつけられると思うと面倒で溜まらないのだ。正直なところ、学校に感謝の念がないと言えば嘘になる。感謝は、まあ、していた。攻撃的な感情を育んでくれたことに対して。欺瞞に向けて、自分の心の内を爆発させることを教えてくれたことに。教えてくれたというよりは勝手に覚えたようなものだが。
学校がなければ、不登校を選ぶということも覚えなかった。
「ひーめーちゃん!」
いきなり真後ろから大声で呼ばれてつんのめった。そういう風に自分を呼ぶ女は少ない。「……おはよう」
「おっすおっす! よかったあ、姫ちゃんもさすがに今日は登校するんだ! 安心したよう、いなけりゃいないで姫ちゃんちまで突っ走ろうと思ってたところだからさ」
紡はコートなど羽織らず、まるで社会人のような開襟シャツ、スカートではなくパンツスーツという格好だった。元が小学生離れした背丈に妙に大人びた顔立ちで、足がすらりとして長いから、それが実に様になっている。大学の卒業式と言ったら信じてしまいそうだ。この格差!
「……」
自分を顧みると溜息しか出てこない。ふいと顔を背けて歩き出す。そんな天見に、ぴょんと飛び跳ねるように隣にきて、紡はおもむろに言う。「姫ちゃん春休みどうするー? なんか予定でもあるの?」
「別に。でも、したいと思ってることはある」
「あ、やっぱ山? 泊りがけで?」
「よく……わからない。決めてない。どのみちひとりじゃどこへも行けないから」
クライミング・ジムという手もあるにはあるが、あそこは放課後でも通えるし、折角の休みとなると勿体ない気もする。狭いのだ。れっきとしたボルダー、クライミングとはいえ、やはりやるなら本物の山を登りたいという思いはある。
今晩にでも空に連絡を取ってみようと思う。まずはそれからだ。「鵠沼さんは?」
「あたしはやっぱバスケかなあ。あとデート」
「……付き合ってるとかいうひとと?」
「そそ」
紡は綻ぶようににへらと笑う。早熟な容姿のなかでその表情だけが幼い。
卒業式は結局、どうがんばってもなんの感慨も湧いてこなかった。学年ごとに言わされるだけの祝福、感謝のことば、誰ともわからぬ者の祝電、卒業証書、校歌、そのどれも心に迫ってくることはなかった。生徒と保護者で賑わう校庭を足早に抜け、天見はさっさと帰ってしまった。
一区切りにすらならない。そんな思いばかりが胸に渦巻いていた。
「卒業おめでとう、天見」
家に帰ると玄関のまえに空がいて、天見は面食らって呆然とする。一瞬、幻かなにかだと思いかけさえする。しかし、現実の女だ。
「仕事は……?」
「いや、今日はおやすみ。夜勤があるけどさ。で、祝うついでにちょっとお誘いしようと思って、こっちまできたわけ。待ちぼうけになんなくてよかったよ、友だちと遊びに行くかもしれないと――ほら、このまえあたしんちに中学の制服見せにきたとき一緒だった明るい子――」
「鵠沼さんは私なんかよりもっと大切なひとと過ごしてます。たぶん」投げやりに言って、「誘い?」
「春休み暇だろ? 卒業祝いじゃないけど、連れてってあげようと思ってさ。今度は穂高のときみたいにテントキーパーじゃなくて、ちゃんと頂上まで」
天見は首を傾げてみせる。突如として膨れ上がった内心のざわめき、高揚をひた隠しにして。空はにやりと笑みを浮かべ、そっと打ち明けるように言う。
「槍」
「槍――」
「そう、槍ヶ岳だ。わかる?」
胸がどきどきし始める。心臓が急に元気になる。「――はい」
天見は眼を閉じ、いっとき、荒れ狂う波濤を見つめるような心地に浸る。こんなに……なるとは思いもしなかった。ただ行く。それだけのことで、ここまで心が昂ることになろうとは。槍ヶ岳。3180メートル。
「どう? 天見」
天見は率直に言っている。「嬉しいです」
「よかった。断られたらどうしようって思ってたからさ」空は照れ臭そうに頭の後ろを掻く。「正直、あんたの経験値を考えたら、槍はいくらなんでも早すぎると思う。これは状況によっちゃ即撤退まで選択肢に入れた山行だ。それでもやろうって思ったのは……まあ、あんたを見てたらね。やってもいいんじゃないかって感じたわけ」
「ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。で、実を言うとさ、もうひとり連れてきたい子がいるの。いいかな?」
天見は眼を細める。「連れてきたい子?」
「あんたより年上だよ。この春で高校三年生。知り合い――ザイルパートナーだったやつの娘でさ、その子も小学生くらいからもう山をやり続けてる。どう?」
「別に構いませんけど。私は……」
「そっか。ありがとね、天見」
空は頷き、ふとあらぬほうを見上げて眼を眇める。あたかもその方角に槍の穂先を見つけたかのように。
天見もつられてそちらを見上げている。昼の上空は白く霞んでいて色が薄く、はやく山の空へ帰りたいと思う。あの黒いほど澄んだ青空に。
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