オリジナル・一応登山ss()・微百合。
連日更新とかないと思うじゃん?
あ、いや特に意味はないです……
2012年はまだ終了してないぜ!
連日更新とかないと思うじゃん?
あ、いや特に意味はないです……
2012年はまだ終了してないぜ!
茜が櫛灘空という女を初めて目撃したのは、中学一年という極めて美しく限りなく不安定な時期、梅雨前線の気配が次第に遠退いていくのを肌で感じられる季節だった。緑の匂いが濃く、地表から煙るように立ち昇っているのが、濡れた太陽の下で触れられるほどはっきりと気配を持っていた。
授業をふけるにはいい日だった。とはいえ気分が優れないのも事実ではあって、保健室から真っ直ぐ帰らず、ぼんやりとなにかに誘われるように校舎を出てしまった。誰もいない校庭から目を逸らして花壇の奥を横切り、蔦が密集して生えているプールの裏の狭い隙間に、なにか胸の際どい鼓動を覚えながら腰を下ろした。罪悪感と背徳感特有の深い甘み。
茜という女は真面目な生徒だった。だから殊更に昂揚を覚えた。
ひどく遠いところで予鈴が鳴り、そうした距離で聞くことがひどく新鮮だった。壁に頭を預け、聴覚まで沈んでいくかのような感覚に身を任せた。声が聞こえたのはそのときで、それさえも最初は夢か幻聴かと思えた。「サボリ?」
一瞬なんの反応も返せず、視線をゆっくりと滑らすようにして動かした。人影が逆光を背負って黒い。そこでようやく茜は弾かれるようにして壁から離れた。
「え、と」
初めて見る女はふっと微笑んで首を振った。「ああ、気にしないで。先生じゃないよ……あたしもここよく使うから……一年?」
「――あ、はい」
「ふぅん。あんまり感心しないけどね……」
掠れたような低いしゃがれ声だった。緩やかに染み込むような。ちょっとごめんよ、と告げて、隣のスペースに身を滑り込ませてくる。蔦が地面をも這って、ふたり分かぎりぎりで座れる程度の土台だった。
(三年生……?)
タイもリボンもないブラウスに学年を見分ける部位はなかったが、その女は大人びているように見えた。つい数ヶ月前まで小学生だった自分よりもずっと。が、恐る恐る横目で見て、眼を瞠った。容姿が異様だった。
包帯、というより汚らしい襤褸切れを下半身に巻きつけていた。ミイラのように。ところどころ黒ずんでいて、よくよく見れば制服にも染みがあった。半袖から覗く腕には、ところどころ絆創膏が貼ってあって、見えるところには掠ったような傷が残っていた。
そして、額にも包帯。頬にも絆創膏。傷は新しく、つい今しがた負ったような生々しさがあった。そして、アニメか漫画のコスプレかと思った。おかしいひとかと。
「そんな眼で見ないでくれる?」と女は言った。「変なところで落ちただけだ、確保してなくて……。油断した、くそっ。三時間目までには帰ってきて、遅刻扱いしてもらうつもりだったのに、結局昼になっちまった」
「――け、怪我。保健室いかないと」
「もう血は止まってるからいいんだよ。あれこれ訊かれるのがやだ。もう電車のなかで散々……」
痛みに顔をしかめて、コンビニのビニール袋から菓子パンを取り出し、がつがつと食い始める。貪るという言い方のほうが相応しかった。瞬く間に一個食べ終えて、二個目の袋を開ける。指先の動きがぎこちない。
茜は、弁当箱は教室に置いてきていた。取りに戻るのも気まずい。無計画にこんなところにきてしまった代償だった。ぼんやりと女の食う様を見ていると、少し惨めになる。朝は食欲がなくて抜いた。
「食べる?」
答える間もなくぽいと放られ、女は三個目を口に運ぶ。勢いがまったく収まっていない。真っ黒な、腰の辺りまで豊潤に伸びる髪と、小柄な肉体がつくる外見の雰囲気に反して、犬かなにかのようだ。茜は躊躇いがちにパンに口をつけた。
「午後からでも遅刻扱いしてくれたっけ。欠席になっちゃう? まあいいか別に、義務教育だし、いまさら成績気にしたってしゃあない」
「理由があれば、大丈夫じゃないですか。そ、それよりもあの、ほんとうに怪我……むしろ病院じゃ」
「病院ったって見るだけで何千円もするだろ。親父にバラされたくないし」
バラす。なにを? 茜は女をしげしげと見やる。日焼けしているようで、どこか日本人離れした白い肌に、不機嫌そうに細められた眼。バレー部かなにかのように幾重にもテーピングを巻いた指先。手首。ひび割れ、黒い瘡蓋の張った唇。
傷だらけの異様な格好に、異様な迫力があった。鷲掴みにして吸い寄せられるような感覚がある。美人――というのは違う。可愛いとか美しいとかそういう範疇を越えている。初めて見る女。
「あんた名前は?」
「……あ、鵠沼茜」
「あたしは空ね、櫛灘空。三年の。ここにきたこと黙っておいてよ、あたしも喋らないから。時間潰す場所を先生に眼ぇつけられると困るんだよ。でも、一年のこの時期からサボリってのはお勧めしないけどね……中学生は真面目に勉強しなきゃ」
空が立ち上がって、反射的に茜も立ち上がった。五時間目からは、さすがに出るつもりだった。ここにきたのもほんの魔が差した程度の気紛れでしかなかったのだから。
きついほど晴れた日だった。雨の残り香が徐々に消えていくのを肌で感じられるような。放課後、なんとなくまたその場に立ち寄ってみた。櫛灘空はおらず、傾いていく陽射しの影で暗く沈み始めていた。世界の空隙のように。
二度目に会ったのは二学期で、窓際の席に変わってからだった。授業を流し聞きながら、頬杖を突いて眩い外を眺めていると、不意に校庭の端に、制服の影が入り込んだ。はっとして、思わず身を乗り出して眼を眇めると、例の場所へ続くあたりで消えた。櫛灘空だと思った。
昼休みになって、今度は弁当を持って行った。果たして彼女はいた。軽く手を掲げられて、厭そうな表情には見えなかったが、茜は立ち止まってしまった。
空は訝しげな顔をした。「なに……くるの? こないの?」
「――ぁ、たまたま……」
「そうでなけりゃなんなの。ああ、今日は飯持ってきたんだ? ええと、鵠沼?」
「みんなは茜って呼びます、『くげ』って少し発音しにくいから……」
どうしてきてしまったんだろうと思う。なんとなく、心が急いたようだった。残暑はきつく、涼しげな風はまだなかったが、そこは日陰になって風通しもよく、冷房のない教室よりずっと居心地がいい。それが救いだった。
隣に腰を下ろし、弁当を箸でつつきながら、横目で空を盗み見た。初対面のときの、夥しい数の包帯も絆創膏もなかったが、腕や脚にはやはり枝で擦ったような傷痕が目立って、指先のテーピングもそのままだった。なにをしてそうなったのか訊きたくて、機会を窺っていると、逆に訊かれた。
「もうサボってはないんだ?」
一瞬ことばに詰まって、「……魔が差しただけです、あのときは」
「だろうね。あたしはしょっちゅうここにきてたのに、見かけないから。でも、涼しいだろ? 一年のときに見つけて、そっからずっとお気に入りの場所。この学校じゃ唯一の」
「放課後にはたまに、寄ったんですけど」
「あたしはとっとと帰ってるから。長居したってすることないし」
「あの、怪我……」
「怪我? なんの? ああ、あのときのか。もうとっくに治ってるけど、親父にバレちまった。大目玉喰らって、今度からは一緒に登れって。忙しくて滅多に帰ってこないくせにさ」
不機嫌そうな、けれどどこか嬉しそうな顔でそんなことを言う。改めてその顔を見つめて、悪ぶったところはなかった。捻くれたところも。茜は少しほっとする。初対面がひどく異様な感じだったけれど、でも……
「登る……?」
「ああ、うん。山やってんのね、あたし」
「山」
「やってるったって大したことしてないけど。夏休みは剱に行ったよ、八ツ峰楽しかった。チンネも。あー、んなこと言ってもわからんか。とにかくそういうの」
「富士山?」
「えーと、ああうんそう思っといて。でも集団登山とか行ったでしょ? 小学校で」
行ったは行ったが、長い行列をつくってどこかもわからない山道を延々と歩いていた記憶しかない。山小屋で、隣と腕が触れてしまうほど狭く布団を敷いてぎゅうぎゅう詰めにされたこととか。学校のよくあるつまらない行事のひとつ。
「写真見る?」
携帯の液晶が光った。狭い画面のなかで、青空の青と灰色の岩峰がいっぱいに広がった。身を寄せられ、頬が触れ合いそうになる距離で、茜はその色を見つめた。
スライドショーは昼休みが終わるまで漫然と続いた。時間が切り取られたように、写真のなかからひどく場違いな香りがしてくるようだった。夏の雪渓が白く、焦げ茶色のトレースを引き摺って煌いた。画面が次々と移り変わり、暗い星空や、一面の岩壁、なんと反応していいのかわからない感覚が落ちる。
毎週月曜の昼休みに、引きつけられるように、ふらふらとその場所に通った。休みを挟むたびに写真は増えていた。茜には同じように見えたが、違うのかもしれない。山の名前を言われてもわからなかった。
次第に夏の暑さが大人しくなり始め、学校の紅葉が色づくよりも先に、茜は紅と黄の鮮やかな波打ち際を眼にしていた。空の手のひらのなかで。山の春は下界より遥かに遅く、秋は早い。そして、十一月には初雪を見た。
「あたしの十二月だ」と空は言った。「待ちすぎて頭が融けるかと思った。空気が澄んで、風が高くなる。山小屋は閉じて、ぼろぼろの浮石はみんな固まって、鎖された壁が凍りつく。今年の冬は寒いんだってね。いい兆候だよ、雪が緊まってくれる」
茜としてはそんなことよりも、三年生全体が慌しくなってきていることのほうが心配だった。山にかまけて、空が彼ら彼女らに乗り遅れているのではないかと。体育会系の部活ですら夏休みを過ぎれば受験モードに入るのに、彼女ときたら毎週山に行っていた。それも泊りがけで。金曜の放課後に出て、日曜の真夜中に帰ってくる。月曜は遅刻して出てくる。
「先輩、どこの高校行くんですか」
「ええ?」空は顔を渋くして頭を掻いた。そんなこと訊かないでよ、と言外にほのめかして。「……一応、A高校だけど。この辺じゃ山岳部あるのそこだけだっていうから。でも、やっぱり部員少ないらしいから別にどこでも」
「そこって結構偏差値キツいとこじゃないですか。こんなとこでサボってて大丈夫なんですか」
「だって受験ったって結局教科書丸暗記するだけじゃない、つまんなくて……バリエーションも天候急変もないし、それより山行きたい……」
そんなやり取りを毎週交わす。
それが楽しみで学校に行っている節があった。茜自身、山には登らないのに。筋金入りのインドア派で、友人と遊びに出ることさえ少ない。時間を潰す手段はいくらでもあった、ネットに小説、漫画、雑誌、テレビにゲーム。その他諸々。適度に机に向かって、教科書を開いていれば親に文句も言われない。一人っ子で、煩わしい兄弟姉妹もいない。
空の話に感化されるようなことはなかったが、時折窓の外に眼をやって遠い稜線を見やり、そういう世界があるのかと思う。空の写真は毎週変わる。ときどき、傷痕が増えているのも見つける。
「宝剣に行った。千畳敷までロープウェイで行けるから、もっと楽だと思ったんだけど、あそこ雪崩れそうで怖いね。カールのなかはあんまり風なかったのに、稜線に出たら一気にぶわって。でも岩稜で楽しかった。親父ばっかトップやってたのはむかついた」
「はあ」
「天気よくて最高だったけどさ……。親父にも言われちまった、そろそろ受験に集中しろって。だってこれから楽しくなるのに、冬休み入ったらいよいよ厳冬期でさあ……人生で百回も迎えられないんだぜ、この時期。なんで受験なんかで潰さなきゃならないの?」
「――高校受験は一回きりですよ」
「やだぁ……」
しかし、よくも受かったものだと思う。
三学期が過ぎるにつれて、茜がその場所に寄る機会は増えた。空は山のことしか話さない、清々しいほどに。スカートの下とブレザーの上にジャージを着込んで、さらにその上からマムートのヤッケを羽織って、「下界のほうが寒い」などとのたまう。
学校という環境のなかで空の存在が異質だった。彼女の姿だけがエアポケットに沈んでいるかのように浮き立っていた。都会に迷い込んできた熊のようにさえ見えた。
「あんたも懲りずによくくるね」
「なんとなく……ここ、居心地いいじゃないですか」
「うん」
とはいえ、空が卒業したら自分はここに寄り付かなくなるだろうという確信めいたものはあった。彼女の話は茜にはファンタジーめいて、現実を忘れさせてくれた。嫌なことも。両親やクラスメイトとうまくいかず、人混みのなかで締めつけられるような苦しみを覚えても、彼女の隣は不思議とそうはならなかった。山の空気がそのまま降りてきているかのように、息苦しさがまったくなかった。
空が卒業して、二年生に上がってから、そういう感覚はますます強くなった。空の隣に懐かしさを覚え、教室が蒸し暑いように感じられた。学校という場そのものが。
話についていけない。役割を演じることができない。こんなのは思春期によくある病気だと自分で認識しようとしても、際限なく醒めていく自分の一部を止めることができなかった。学校……勉強にも、行事にも、恋愛の真似事にさえ、演技かなにかのような虚しさを覚えた。はっきりとつまらなかった。私はなんのためにここにいる?
それでもうまく適応したほうだとは思う。内心はどうあれ、模範的な生徒、模範的な中学生を演じた。何人かの男子生徒から告白を受け、そのなかのひとりを選んで付き合い、友人たちには普遍的なエピソードを提供して喜ばれる。受験の足音が聞こえる時期、適当な理由を並べて穏やかに別れ、結局、不純異性行為に踏み込まない領域を保って箔だけつけることに成功する。
進路を問うプリントにだけ、自分を少しだけ書き出す。迷い、苦しみ、胸に切なささえ覚えながら、一年生のときに耳にした高校の名を記す。空が進んだ高校。行きたいところは、と問われれば、そこしか思い浮かばなかった。
受験は楽だった。平均の偏差値より高くても、自分の偏差値よりは遥かに下だった。
それほど強く期待していたつもりではなかった。が、実際に再会して、胸の内側に吹いた風の香りは考えていたよりも強かった。ずっと強かった。
桜の花びらが舞い散る場所から、かなり離れていた。校舎の影になって薄暗く、修繕の手も行き届いていない。好き放題に藪が枝を伸ばし、地面は泥と化していた。しかし、なんとなくこちらのほうにいると思った。照明の当たる表舞台ではなく、誰にも見つけられない裏側に。
茜は自分でも判然としない衝動からそちらへ歩いた。湿った風が吹き、髪を揺らした。春。指先が冷たくなるほどの気温で、カーディガンの袖に指先を隠すようにして、ただ歩いた。そしてそこに空はいた。隠れるように座って。
「またサボってるんですか、先輩」
空は茜を見上げ、驚いたように眼を瞠った。その後で歪に苦笑した。
彼女を追いかけてこの高校を受けたわけじゃない、と茜は心のなかで思った。他に行きたい高校がなかったから。消去法で。そして、ここに空がいると考えたとき、気紛れな懐かしさから探してみたというだけ。どうせ授業なんてまともに出てないだろうと思ったから。
「あんたも随分と可愛くなったね。まえは小坊臭さが残ってたけど」
「で、いまは中坊臭さが残ってますか」
「うん」
そう言う空の容姿はほとんど変わっていなかった。不思議なほど、三年前の時点でもう大人びていた。それも年上を見る茜自身の錯覚かもしれないが。
しかし、髪は伸びていた。三年前には腰のところまであった髪は、いまでは膝のあたりまであった。風雪に削られたような、乾き切ったもので、先端はばらばらだった。美人……とはお世辞にも言えない。ただ異様な迫力が増していた。
「やっぱり登ってますか」
「山? うん」
様々な想いから彼女の横に身を滑り込ませる。そこは藪に囲まれ、中学のときより幾分か狭かった。「部活動紹介見ましたけど、先輩しか部員いませんよね。廃部寸前って。お父さんと登ってるんですか?」
「ああ、親父ね。死んじまった」
茜は弾かれたように顔を上げ、空の横顔を見つめた。頬に掠ったような傷痕が黒い瘡蓋を抱いていた。指先を見下ろすと、やはりテーピングが巻かれていた。
「中学卒業してすぐ、海外の山で。あたしを置いて、山岳会の仲間と行ったりなんかするから。いや、そのせいじゃないけどさ……雪崩に呑まれて死体も帰ってこない」
なんと言っていいのかわからず、茜は顔を背けた。
「しっかしあんたも、学校の成績良かったんだろ? もっと上の進学校でも行けばよかったじゃない、バカだねえ。やっぱりあれ? 友だちと一緒のところがいいってやつ」
空はけらけらと明るく笑った。が、茜は物思いに沈んでそれどころではなかった。もしかしたら自分が思い描いていたよりもずっと、この女は深く高いところにいるのではないかと思う。そう思ってはみても、どれだけ想像力を働かせても、空がどういう世界を見ているのか、わかるものではなかった。春の風だけが強く渦を巻いていた。心の外と内に。
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コメント
無題
ああ、未成年の女の恋人がいるって時点で気付いてもよかったのに!名字見てようやく気付いたよ。やあ、世間は広くて狭いねえ…
posted by NONAME at 2012/12/30 01:09 [ コメントを修正する ]