闇黒片 ~Chaos lives in everything~
Stage6 天境線上
――邪神、堕天使、闇黒の巫女
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(千早さんのスペルカード!)
絣は夜空を見上げた。雨を模した豊潤な粒状弾が折り重なって降ってきた。そう、撃っているというより降らしているという感じの勢いで、青から白の寒色系の色に統一され、左右から交差するように広がっていた。肌寒い。当たり判定に冷気を伴い、月灯りさえ冴え冴えと煌き始める。
タタタ……と、軽快な音を立てて山の地肌に着弾する。弾き返って速度を失い、中空に少し留まって消える。上と下からの挟み込むような弾幕。絣はその合間を刻むように突撃する。
(これだけの援護射撃があるなら、真正面からいく!)
最短の距離を。“天使”は回避する様子さえ見せない。視線は絣を通り抜けて千早に向かい、笑みはまったく崩れない。雨の弾幕、凶符が届くのと同時に、絣の射程距離に入る。
「ぃやぁぁァあああ――ッッッ!!」
裂帛の気合。霊力と同調した毒が爪のかたちに形成され、薙いだ左腕をカタパルトに掃射される。焦げつくような金臭い匂い。布を引き裂いたような爆音。
近接戦。絣と“天使”のからだがほとんど激突しかねないほどニアミスする。が、その直後に絣は逆方向へ吹っ飛んでいる。天境線の蒼い力場が絣ごと弾幕を弾き、さらに広がる。不可視の運動エネルギーが地を抉る。同心円状にすべてが破裂する。
連鎖的な爆発。“天使”を中心に山がひび割れ、上方へ光を放つ。あたかも満月の灯りに反抗するかのように。
咄嗟に張った結界も簡単に粉砕される。地面に左腕を叩きつけて勢いを殺し、伏せ、頭の上を爆風が通り過ぎていくのに任せる。眼を薄く開け、砂埃のなかでいまだ千早の弾幕が継続しているのを見る。
(正面がダメなら、後ろはどうだろう?)
あの力場が、三百六十度均等に発揮される力とは限らない。砂埃と凶符に混じり、弾幕と汚れた空気を掻き分け、“天使”の元へ飛ぶ。この小さなからだと霊力は簡単に擬態できる。隠れて、ゆく。目立たないように、かつ大胆に。
光景が一変している。すごい、と絣は思った。“天使”と天境線の地形が同調し合い、地震のようにそこらが震えている。やかましい地鳴りがひっきりなしに聞こえ、ぼこり、ぼこり、と山から切り離された岩石が、亡霊のように浮かんでいる。
空に満月、山に地光。怖ろしく明るい。影が長く長く伸びる。
“天使”は最初の位置を動いてもいない。
向きすら変えていない。なんのつもりか知らないが、好都合だ。どうせ私なんか取るに足らない小娘だと思って相手にする気もないんだろう。ずっとそう思ってろ。なにもかもが手遅れになってから気づいて、たっぷりと後悔すればいい。くそ。
力場と弾幕のぶつかり合いで嵐のようになっている。千早の弾幕はこちらに向けられているわけではないから、グレイズは容易い。“天使”に意識を集中させ、呼吸を鎮める。
(鋭く――小さくていい、深く……)
霊力のつくる擬似的な毒。地底で花乃に教わった、よく統制されて神経に染み入る、鳥肌の立つようなそっと注ぐ悪意。花乃の『本性』を思い出してぶるりとからだが震え、慌てて首を振って集中を取り戻す。とにかくあんな感じの。
(一気に、思いっきり力の限り、私の歴史全部乗せる勢いで、重く、重く――!)
爪だ。ルーミアの闇を薙ぎ払ってみせたあの純粋なハクタクの、獣の爪。雪原で完膚なきまでに私を打ち負かしたあの強さを、今度は私のものにする! 剥き出しの怒りを! 私に与えられたもの全部を使え! 全部だ!
“天使”の背中が豊潤な四枚の翼の奥に見えた瞬間、絣は絶叫する。一振り、二振り、三振り、続けざまに撃つ。霊力の反動に腕が何度も震え、跳ね上がり、その反動を利用してさらに振るう。近い。弾幕に充分な密度を持たせられる、隙間が細い。
蒼い力場の壁に触れた瞬間、爪がひび割れてかき消える。ガラスの砕ける音がする。毒は届いていない。断続的に降り注ぐ凶符もその力場で阻まれ、どちらの援護もどちらの援護にもなっていない。
(でもどのみち近づかなきゃ……私の霊力じゃお話にならないっ!)
急降下して地に足をつけ、そのまま駆け抜ける。地面の内側から立ち昇る光の隙間を縫い、“天使”へ走る。
(直接叩き込んでみるってのはどう!?)
力場の圧力が直にからだを伝う。嵐の真っ只中に放り込まれたような抵抗に、全身がぎしぎしと軋む。防壁を前面に張り巡らせるだけでは敵わない。結界のかたちを変え、衣のように纏う。絣の霊力の色は黒。黒猫そのもののようになり、さらに走ろうとする。それでも足がまえに進まない。
二本足で歩けないなら――先へ向かえないなら――二本で足りないなら。答えはいつでもシンプルなところにある。右手を地面に叩きつけ、三本足で駆け出す。爪符を使う左腕だけを自由にして。右腕の袖が、風に激しくはためきながら土を擦る。髪が邪魔なほど波打つ。小袖が、袴が、反逆して悲鳴を上げるようにばたばたとぶれる。
(結界を押し割ってく練習だったら橙さまと何度もやってるんだ!)
要はそれと似たようなものだ。いや、結界構成の理論が必要ない分ずっと楽だ。力と、気合。力押し。力ずく。結界は博麗の、そして八雲の専売特許だ。どちらの形式でも根幹的に変わらないのは、精神的な部分で負けていては話にならないということだ。相手がなんだろうと喧嘩はまず気合だ。
そこで初めて“天使”がこちらを向いた。
が、近い。既に至近距離、腕を伸ばせば届く位置にいる。
絣は再び宣言した。「爪符『カラードォ――」
“天使”の唇がたおやかに動いた。「邪魔ですよ。場違いで、目障りです」
左腕を首の後ろまで大きく振りかぶったところで、全身に抵抗が叩きつけられた。絣は肺から一気に空気が抜け出ていくのを感じた。遅れて激痛が神経を引き千切った。
「――ッ!」
天境線のものではない、“天使”自身の霊力だった。なんの予備動作もなく無雑作な発動、反応が間に合うはずもなく衝撃が見えなかった。強烈だった。天境線のものよりずっと強い? 得体の知れないこの女の実力を肌で感じ、絣は恐怖と後悔に打ち震えた。
が、絣は動いていた。そんな感覚はもう慣れっこだった。
(グレイズ……!)
掠る激しい音がする。『カリッカカカカカカッ』。左足を軸に逆回転し、衝撃をいなし、後方へ逃した。強烈さだけでいえばつい昨日の、ディーの焼熱のほうがずっと熱かった。プラクティスモードとはいえ、真下から立ち昇る炎の柱に呑み込まれて、それでも回避しきった経験があった。バレエダンサーのように一回転し、再び右足を地面に食い込ませる。そのときにはもう爪が毒を交えていた。
「ネイル』!」
“天使”の眉がぴくりと動いたのを見た。一瞬だけ笑みが崩れかけた。
絣が腕を振り切るより先に二段目の衝撃が放たれていた。今度はかわしきれず、全身をもろに霊力の塊が打った。絣は弾かれ、その場から遠ざかってしまった。
追撃が次々と襲い掛かる。
弾丸のかたちも為していない。霊力の強大さに飽かせた攻撃だった。スペルカードルールに応じるつもりなどまるでないのは明白だった。なにも表現していない、ただ打ちのめすためだけの暴力でしかなかった。
が、だからこそ離れさえすれば回避するのは容易だ。それでもあえてルールを遵守するのが巫女だと、紅魔湖畔で橙から教わったのだ。
(サクラさんみたいに――!)
絣は跳ぶことに集中し、妖精のような笑みを浮かべ、その攻撃の食指を嘲笑うかのように避ける。放たれる霊力そのものに爪を向け、ベクトルの真正面ではなく、真横から斬り刻んで隙間を押し広げる。充分なところまで離れると、極度の集中が途切れ、小石に踵をぶつけてつまづきかけた。
「絣さん――」
大きく泳いだからだを千早に受け止められ、絣はばつが悪そうに頬を染めた。「すみませんっ、ありがとうございます!」
千早はためらいがちに言う。「絣さん、彼女は」
「めちゃくちゃ強いですねっ!」千早のことばを寸断して絣は言っていた。「ただでさえ強そうなのに天境線の力を吸収してもうとんでもないことになってます! 近づくのだけで精一杯! まったくもう厄介このうえないですね!」
「――はあ、あの」
「でも私やっぱ突っ込むしかできないんで!」絣はぎらぎらと眼を輝かせていた。「千早さん遠近どっちもできますよね、確か! 昔、紡と戦ったとき見てました――紡は霊力を抑えるの嫌いで遠距離ばっかでしたけど――だからとにかくっ、私がオプションやるんで攻略お願いします! 囮にでも盾にでも使ってやってください!」
ぎゅっと左拳を握り締め、絣は再び敵機に意識を戻した。
「いくぞ! 集中っ!!」
絣は鉄砲玉のように突っ込んでいく。千早は結局なにも言えない。
紡は懐かしそうに眼を細めた。「ああなっちゃうとお姉ちゃんはアレだなあ。もうなんにも聞こえてないよ」
千早は顔をしかめた。「はあ」
「まあ、見てなよ。そのうちもっとひどくなる」
千早にはそのことばが絣を指しているのか絣B’を指しているのか判別できなかった。どちらでもいいのだろう。絣B´はかっと頬を染め、口のなかでもごもごとなにか言った。「わっ、私だってそんなしょっちゅう……あんな風になるわけじゃ……」
現実世界の映像が、千早の視点で、夢の世界の壁に映し出されている。黒い背景と合わさって、映画館かプラネタリウムのような風情を醸し出している。四人の状況は観客というにはピリピリしすぎているとはいえ。
しかし、ここで撃ち合ってもどうにもならない。千早はいつでもこの世界を遮断でき、“天使”はいつでも離脱できる。
同系統の能力。だから、説得力がある。そしてなにより、皮膚の裏側を流れる血脈の拍動が訴えかけている。“母”。全身が重く痛むような感覚がある。
「どうして……いまさら――」
赤子のときのことははっきりと覚えている。その能力ゆえに、物心つくのは誰よりも早かった。命蓮寺のまえに捨てられ、暗い夜空を見上げていたのが最初の記憶だった。誰から生まれたのかもわからず、身動きも取れず、ただ置き去りにされていたことだけをはっきりと覚えていた。
托卵……それがほんとうなら……もしそうなら。
「私は迎えにきた」機械的な声音で“天使”は言う。「あなたを」穏やかな笑みは崩れない。手のひらを上に向けて腕を差し伸べ、優しげにさえ見える仕草で。
千早は奥歯を噛んで息を殺し、もう一度静かに問う。「どうしていまさら」
「あなたは充分に成長しました」
「――待っていたというのですか? わたくしがこうなるまで?」
“天使”は頷く。
ずきずきと痛み始めるこめかみを押さえ、千早は首を振る。絣と紡の視線がこちらに向けられているのがわかる。が、彼女たちに視線を返せない。困惑ばかりが深まる。「そんな身勝手な――いまのいままで放っておいて?」
「身勝手? そう感じるのはあなたの価値観に起因するものです。私は種の掟に従っているだけ」
「なにを言って……」もう一度首を振って、「この天境線に居座っているのも? いえ、ここは遥か昔から誰のものでもなかった。誰の所有も許されない力の塊でしかなかった。それを」
「奪い、拾い、得るのが生の本質。盗まれ、捨て、失うのが死の結果。勿体ない。誰のものでもなければ私のものにして構わぬでしょう?」
「――つまりそれがあなたの、価値観? 『自分のものにする』ということが?」
“天使”は夢の世界を見渡して言う。「『心を喰らい、自らの糧とする』。私はその先。心だけでは足りない、繋がるものすべてを自分のものにする」
紡は品定めするかのように“天使”を眺めている。「ふぅん。そういう妖怪ってことだねえ。ヴァルキリーってあれだっけ? 死んだ人間連れ去って神様の兵隊にしちゃうんだっけ」
「ふざけないでくださいよ!」絣は憤然として叫ぶ。「いきなり帰ってきて私はあなたの親だから持っていくなんて、そんなん許されるわけないじゃないですか! 勝手すぎて全然納得いきませんよ!」
「へいへい良い子ちゃんの一般人代表はこう言ってるぜぇー? つまるとこあたしらの価値観はそーゆーのに真っ向から正対してるってワケだけど、ちーちゃんどうするー? ってかまああたしらあんまり親孝行なほうじゃないからアテにならんかもだけど」
「紡は親不孝すぎるんだよ! いきなりいなくなってどれだけ橙さまに迷惑かけたかわかってるの!?」
「お姉ちゃん完全に忘れてるだろうけど橙さんあたしらの親でもなんでもないよ?」
ぎゃーぎゃー喚く外野のせいでいまいち考えがまとまらない。が、当然千早にしてもそんな物言いに納得いくわけがない。
ずっと教えられてきたのは、神として人間の信仰を得ること。妖怪として人間を驚かすこと。あるいは、異変の最中に対峙したあらゆる人妖たち。だからこその無数の価値観に……価値観の衝突……衝突を解決するただひとつの手段は。
「わたくしは……この件を解決せよと命じられてここにきたのです」自分を遠ざけ、千早はどうにか言う。「話し合いに応じぬのなら、やることはひとつだけです」
“天使”は頬に手のひらを添えて哀しげに言う。「残念です」
千早は夜空に右腕を掲げた。「凶符……さあ」
降り注ぐ雨を模した弾幕の合間に、糸状のレーザーが走り始めた。徐々に、雨脚を増していく。レーザーは粒状と違い地面で跳ね返らなかった。跳ね返って留まる弾幕を縫い、地面を削り始めた。
天境線の力場との正面衝突になる。触れたところから均衡して破裂し、次々と爆音が渦巻く。なにせ弾丸が夜空から間断なく降りてくるのだ。絣の援護ではなく、そこからが本番だった。射撃の合間を縫って“天使”に近づくのが困難になり、絣は慌てて後退した。三秒前まで飛んでいたところが相反するふたつの霊力の濁流によって薙ぎ払われた。
(千早さん――本気だ!)
最初に会ったとき、私はこれで墜とされたんだ。近づけもせず。当時の紡のラストワードと撃ち合いになり、打ち勝った。それがいま自分の側にあることが絣にはひどく不思議に思えた。
(手が出せない。どこへいく?)
地面には留まっていられない、そこは最も密度が濃い箇所で、上から落ちてくるレーザーと下から昇って静止する弾丸に挟まれる。だったら上空!
千早が上、“天使”が下からの砲撃戦。が、絣の見る限り不利なのは千早のように思えた。無色透明の衝撃そのものが陽炎めいて立ち昇り、千早のすぐそばを何度も通過していくのに反し、凶符は“天使”に届いてすらいない。天境線の力場がすべて弾き返している。“天使”は回避する素振りさえ見せない。
際どいところを陽炎がかすめ、千早のからだが独楽のように一回転した。千切れた裾の一部がひらりと舞い、次の瞬間粉々になる。赤紫の翼から剥がれ落ちていく羽根も。グレイズできなかったら――そう考えるだけでぞっとする威力だ。
どうする? 絣は唇を噛む。
援護に回るにしても千早と私の弾幕はかけ離れすぎている。力の形式そのものが違うから重ね合わせることができない。
“天使”と天境線の力は増していくばかりだ。まるで底が見えない。凍るような冷たい風が真下から吹き上がってくる。絣の飛行能力では真っ直ぐ進むことさえままならない。いよいよ強烈になってきた!
互いの姿さえ弾幕の奥にしばしば隠れる。そのとき、下からの風が不意に止んだ。
「――千早さん! 上っ!」
絣が声を上げるより早く、千早の翼を“天使”の腕が掴んでいた。六つの翼が絡まり合い、錐揉み回転しながら墜落していく。ますます強くなる弾幕を、ほとんど纏うようにしながら。
千早は背中の強い痛みに顔をしかめる。「――っ、なんとも激しい抱擁ですねっ……!」
「手荒く歓迎されたものだから」
千早はどうにかして飛ぼうとする。が、引き千切るような腕の強さに翼の指骨が軋む。“天使”と違って二枚しかない翼では飛ぶことができない。
胴体から地面に墜落し、意識が飛びかける。咄嗟に張った防壁もひび割れる。からだごと地面に食い込み、肺からごっそり酸素が抜け出る。「かはっ」視界が赤くなる。遅れて全身を痛みが駆け巡る。
「このまま翼をもぎ取って連れて帰ります。多少の痛みは我慢しなさいね」
千早は吐き気を覚える。「そこまでするほど想われていたなんて知りませんでしたね……っ」
「私のものだもの。当然でしょう?」
「寺の門の下に放るみたいに捨てておいて!」
“天使”の表情には穏やか極まりない笑みしかない。「育てることに興味がなかったの。ああ、そうですね。あなたはそのような世界で育ったのでしたね。だったら、父親のことを知りたいですか? 大人しく私の元へ戻ってくるのなら――」
その瞬間、さらに別物の魔力が全世界を穿つ。すべてを見下し圧倒する位置から気配の片鱗だけが轟然と満ちる。“天使”が弾かれたように夜空を見上げる。
遥か上空。その視線の先にいるのは取るに足らないちっぽけな小娘ひとりだ。が、その小娘はいま満月を背負い、両腕を真っ直ぐに伸ばして紅い魔力を纏っている。
「槍符『ネガ・グングニル』!」
「――!」
“天使”の腕が伸びる。いっとき、“天使”の霊力も天境線の力場もすべてが絣に矛先を向ける。槍を放つよりまえに。絣は衝撃の陽炎がつくる渦のなかに飲み込まれる。
吹き飛ばされながらもすれすれのところでグレイズを繰り返し、絣はほくそ笑む。
(やっぱり――!)
完全に狙い通りだった。ざまあみろ、と思う。“天使”の意識をこちらに向けてやった。邪魔? 場違いで、目障り? 見下しやがって! そんな私に慌てふためいて攻撃するあいつの顔といったら!
(私なんかにはこの槍を撃てっこないのに、早合点して! 思ったとおりだ、レミリアさんを無視できるやつなんかいない! 穂先をちらつかせただけでこれだけ注意を引きつけられるなら、私が囮になれる! 私が囮になれれば――)
腕の力が緩んだ隙を衝き、千早は宣言する。「驚符『裏メシア』」
赤紫の翼が逆風を巻き起こす。そこから直接弾幕が展開され、“天使”を弾き飛ばす。
千早の姿が消える。鳥の脚に叩かれた地面がわずかに砂埃を立て、そう見えた瞬間には“天使”の真後ろから上方から蹴りを喰らわせていた。“天使”がつんのめる。さらに暴風が吹き荒れ、遠くから吹き飛んできたような弾幕が何度も爆裂する。
“天使”が唸る。千早は叫ぶ。「さあ、おどろけ!」
さらに千早が消える。“天使”の背から重みがなくなる、そう認識したときには先程とは逆の体勢になって地面に叩きつけられている。千早の鳥脚が“天使”の翼の付け根を鷲掴みにし、ほとんど投げるように落としていた。次いで、風。弾幕の放射、破裂。
千早は苦笑した。「――脚が足りませんね」
“天使”の翼は二対四枚。二枚の翼を封じても、もう二枚残っていた。純白の羽根が舞い、千早のからだが吹き飛ぶ。天境線の力場が再び衝撃を放つ。
ふたりの女が同じ高度で向き合う。“天使”の笑みがそこでようやく薄まる。
「少しは驚いてくれました?」
千早の姿。腕がなくなっていた。巨大な翼が翠色の霊力を放って腕を巻き込み、袖を引き千切り、伝説上のハルピュイアそのもののかたちで現れていた。天境線の生むものではない、自らの風を纏って。深い雨の匂いさえする。
その顔。もう糸目ではなかった。猫の瞳孔を存分に見開いて、悪戯っぽい表情を浮かべ、ちょこんと舌を出していた。より妖怪の側に近い気配だった。
「いつもだったら雨傘を持ってきてたんですがね。今夜は置き忘れてしまいました。ところで、父親? 正直なところまったく興味ありませんね、母親が何人もいたらもうそれだけでお腹いっぱいです」
が、その姿に驚いていたのは“天使”ではなく、絣のほうだった。どうにか攻撃を回避し尽くし、かなり離れたところから、唖然として顎を落としていた。
天井が爆発した。霊夢と橙のあいだにある卓袱台にレミリアが降ってきた。
「霊夢が帰ってきてると聞いて火星のオリンポス山トレッキング・ツアーから走って帰ってきたわ! こんなにも月が紅いから懐かしい夜になりそうね!」
霊夢は立ち上がり、障子をノックして礼儀正しく入ってきた咲夜と両手を合わせた。「いやだわ咲夜ったら久し振り! レディ・スカーレットって呼んだほうがいいかしら? 相変わらず気持ち悪いくらい若いわね、ほんとに時間進んでる? 噛まれてない?」
「ええ霊夢、あなたも元気そうでなによりだわ! はい、お土産。火星のお酒」
「『マルス』? いかにも暑苦しそうな名前の酒。そうそうあんたの生まれ故郷にもちゃんと寄ってきたわよ、欲しかったお菓子ってこれでよかったかしら?」
「サルミアッキ! 愛してるわ私の霊夢!」
レミリアはひび割れた卓袱台を両手でばんばんと叩いた。「私を無視しないでよ霊夢ーっ!」
ひとしきり抱き締められた後、霊夢はようやくレミリアを見た。「いや、まあ、あんたが元気なのなんてわかるまえからわかってたし」
「どういうことよ!」
「それはそうと絣と契約してくれたんですって? ありがとね、レミリア。あの子まだ未熟もいいとこだからとっても助かるわ」
「え? あっ、い、いやだわ霊夢ったら私は姉たるものとして当然のノブレス・オブリージュを!」
両手を頬に当て身悶えするレミリアは放っておき、霊夢は橙に眼で問いかける。(で、実際のとこどうなのよ)
橙は肩を竦めてみせる。(あんなの一生かかっても使いこなせないと思う)
それでも現状、絣の最大火力であることには違いない。むしろ精神的な支柱としての役割が大きいだろうと、橙は思う。
霊夢の話し相手を取られるかたちで、橙は縁側に出た。満月が素晴らしいほど大きく、美しかった。紅くはないが。いい夜だ。引力に吸われて血が切なく脈動し、発情期の昂りと倦怠期の落ち着きが波のように訪れる。そして、霊夢がいる。
「可愛い弟子の心配はしなくていいの?」
暗がりから問いかけられ、橙は首を振った。「心配しすぎて、最近じゃもう耳の後ろが禿げ上がるくらい。でも、慣れたよ。藍様もこんな気持ちだったのかと思うと溜息しか出ない」
ルーミアは鼻を鳴らした。「霊夢から直にあの娘は博麗じゃないって言われてどんな気分だった?」
「私がショック受けても仕方ないでしょ。正直に言うと、思ってたより全然普通だった。なんでかな……たぶんもうわかりきってたことだからだろうね。それは絣自身もわかってることだ」
「だったら、あの娘はなに? どうしてあの位置にいる? ただ妹の代わりってだけで犠牲になってるの?」
「犠牲?……そうかもね。歴代の博麗はどこか、博麗ってことで自分の一部を犠牲にし続けてきた。人生の大部分を役割に捧げてきた。そういう見方もできるかもね」
「八雲には罪悪感がある。そういう犠牲を強いてきたことの」
「私は八雲じゃないよ、ルーミア」
橙はルーミアの隣に腰を下ろした。背中から障子越しに、三人の女が姦しく話している声が聞こえてきた。が、橙はどこかしんみりした様子で両手を合わせた。
「ただの飼い猫だった頃、私は黒って呼ばれてた。黒猫だから。何代かまえの博麗に」あんたには話したっけね、と橙は微笑んだ。「八雲の姓をもらえないのって、そのせいってこともあるかもしれない。紫様は私が博麗橙になりたがってると思ってるのかもしれない。私と一緒にいた巫女は空を飛ぶ程度の能力と一緒に動物を従える程度の能力も持っていて、巫女でなければ調教師にでもなっていたかもしれないって子だった。霊夢が紫様に懐いてるのと同じように、藍様に懐いてた。
私はその子がお婆ちゃんになるくらいで寿命を迎えると思っていたけれど、思いがけず長く生き過ぎちゃって、化け猫になっていた。その子が死んでも私は死ねなかった。それで途方に暮れてたところを、藍様に式として拾われた……」
「ええ、覚えているわ」
「霊夢はその子にびっくりするほどよく似てる。ほとんど生き写しみたいなものだ。で、絣にはこれっぽちも似てない。私はずっと博麗の傍にいたから、博麗の匂いだったらすぐにわかる。紡にはその匂いを感じたけれど、絣には感じない。
絣は――」
そのとき、霊夢が障子を開いた。「絣は『弾幕女』よ。それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもなんでもないわ」
橙は振り返った。「霊夢?」
「私は巫女としてはずいぶん甘えながら生きてきたと思うわ。紫とか……魔理沙とか……華仙とか、そういうのに。わりと致命的なくらい無防備になったりしてさ。でも割と問題もなかった。私でなくても大丈夫だったんじゃないかって思えるくらい」
昔を思い出したか、霊夢はくすくすと笑った。そのような仕草には少女の愛嬌がまだ残っていた。
柱に寄りかかり、霊夢の声音にはどこか預言めいた神秘性があった。「仮にこの郷が『博麗』を失ったくらいで壊れる程度の世界なら、あるいは、博麗の犠牲無しには成立しない世界なら、橙。いま私が破壊するわ。だってそれは私の愛した幻想郷じゃないから。だって私はこの郷を愛しているから。ちょっと病んでる感じで」
橙はそのことばの意味を考え、耳をぺたりと伏せた。ルーミアは眼をきらきらさせて立ち上がった。「もしそうなったら、霊夢。このルーミアさんが手伝ってあげるわ。跡形もなく消滅させて、橙を私だけのものにするの」
橙は顔をしょぼくれさせた。ルーミアはさらに言った。「でもあの小娘は敵だわ」
「え、あらそう?」霊夢は不思議そうな顔をした。「なんとなくあんたと絣は相性がいいと思ってたけど。属性的に」
「ひとの心は属性じゃないわ、霊夢」
橙は少し噴き出した。
「話は聞かせてもらったわ!」レミリアが事態をさらに複雑化すべく障子をすぱーんと開け放った。「もしそうなったら紅魔館は全面的に霊夢の味方よ! 幻想郷を侵攻して征服して爆砕するのねっ、なんて素敵で面白そうな提案かしら!!」
霊夢の真後ろの空間が突然ぱっくり開き、もう既にちょっと涙目の紫が顔を出した。「ねえあなたたちちょっとそういうのホントやめてくださる!? 幻想郷がここまで平和になるのに私がどれだけ粉骨砕身っ、文字通り何度となく粉骨砕身っ、どうして私がいないところでそんな物騒な話をするの!? いじめなの!?」
「やかましい! 紅魔館が世界制服を成し遂げた暁にはあんたも私の妹よ! このレミリア・スカーレットが全世界の姉として君臨する様を指をくわえて眺めてるがいいわッ!」
「この似非幼女が言わせておけばー――っ!」
「仲人の分際でいつまでも保護者面しやがってー――っ!」
取っ組み合いの喧嘩を始めるふたりのケツを蹴飛ばしてスキマに追い返し、霊夢は咲夜と飲むべく部屋に戻っていった。
疲れ果てた橙はがっくりと肩を落とし、霊夢のことばについて再び考え始めた。
“天使”は絣を忌々しげに睨んだ。絣B´は鼻からたっぷりと息を吐き、不遜な眼で応じた。
現実世界の映像がノイズ混じりに映し出されている。不可視の速度で消えては現れ、現れては消える妖怪モードの千早が空を駆け抜け、黒い防壁結界を纏って爪を剥く絣が火のように地を刻む。槍を見せつけられたいま、“天使”は絣を無視しきることができない。千早はそれを存分に利用し、絣とは逆方向から飛びかかろうと機を窺う。
紡は呑気に歓声を上げる。「ヒューッ、お姉ちゃんやるぅーっ! 連携ばっちりじゃん! 敵さんビビってるよーお!」
連携といっても千早が一方的に絣に合わせているだけだが。そのことをよくわかっている絣は不満げだ。「ほんとうはあそこに紡がいるはずだったんじゃない……私なんて飾りみたいなもんだよ! 他に誰もやらないからやってるけどねっ、千早さんと紡だったらもっと楽に勝ってる!」
「楽して弾幕やっても仕方ないじゃん? 遊びなんだから難易度上げてこうぜ!」
「無責任! 私がもう何遍死ぬ思いしたかわかってんの!? ちょっとはこうっ、なんかっ、ごめんなさいお姉ちゃんとかそういう謙虚なセリフはないの!?」
「だってお姉ちゃんだし」
「ウガーッ!!」
まったく反省の色が見られない妹に姉は奇声を上げて跳びかかった。紡は軽やかに回避し、夢の世界であるにもかかわらずそれが当然のことであるかのように弾幕が始まった。
不毛な姉妹喧嘩に手を出すつもりは千早にはさらさらない。弾け飛ぶ黒と白の弾丸は放っておき、現実世界の自分たちに眼を凝らす。こちらの千早は人間モードのままだ。それでも赤紫の翼は頻繁にひくつき、眉根は険しく寄せられていた。
夥しい数の爆発、衝撃の旋風を掻い潜り、巫女ふたりは積極的に接近戦を挑む。が、距離を維持できるのも秒に満たないほんの刹那のさなかだけだ。苦戦し、表情を苦くしながらも、千早は必死に思考を巡らせる。「――奪い、拾い、得るための魔物。そういう血がわたくしに流れているのですね」
“天使”は鷹揚に頷いてみせる。「ええ、そう、その通りです。私の娘」
「わたくしの母親リストにあなたの名は入っていない。でも、わからなくもありません。この郷でわたくしは限りなく多くのものを与えられた。そして、自分自身を得ようと必死だった。母様の実の娘ではないから……自分の根っこを持っていないと感じていたから。
なにひとつ持ち得ないという感覚ほど怖ろしいものはなかった。自分を見失うことほど。あの姉妹と撃ち合ったときでさえそういうことを感じた。弾幕に撃ち勝ったのはわたくしだったのに、妹のために泣く姉を見て……わたくしにはそれがないと見せつけられたように感じた。自分のことを空っぽの抜け殻、退治された後の残骸、なにも残っていない空虚な器だと感じていた」
光の弾幕を掻き分け、絣は紡に胴タックルをかました。かつて一緒にいたときと同じように。スペルブレイクし、紡の霊力が鮮やかに弾けて散った。「私にあんたの代わりなんて務まるわけないじゃない、バカ! アホ! 考えなし、ろくでなしの――」
「ええー? お姉ちゃんは巫女が天職だよどう考えても」
「私は博麗じゃない!」
「でも、弾幕好きっしょ?」
絣の顔がかっと染まった。
「愛してるでしょ?」
紡の肩に小さな拳がぶつけられた。
「弾幕ヤってるときのお姉ちゃんすげえ活き活きした顔してるもん。相手があたしでも橙さんでも、ちーちゃん相手にミスってすぐ落ちちゃったときも。ホラいまだって。あんなにヤッベー相手なのに。もう一生弾幕のなかにいたいとか思ってるでしょ?」
爪を立てられ、その毒が紡を痺れさせた。墜落して尻からバウンドした。
「巫女って弾幕で生計立てられるたったひとつの職種だよ。まあそういうのもスペルカードルールのお陰だけど。あたしも弾幕好きだけど、それはあくまでお姉ちゃんが相手だったからだよ。いまはバスケが好き。バスケだったらどこの誰とやっても楽しい。だから、巫女はお姉ちゃんがやればいい。お師匠さまだって納得してくれたよー?」
砲撃の応酬が加速する。もはや天境線の地形は原型を留めていない。世界が光で埋め尽くされるなか、赤紫の翼と黒い獣がひたすらグレイズを繰り返す。すでにもうかすり傷だらけだ。それでも直撃はない。そして、続く。怖ろしく強大な威力の爆発と衝撃へ突進し続ける。恐怖を傲然と踏み躙って。
千早は唇を舌で濡らす。「そうした感覚も間抜けなことだと気づくまで何年もかかった。なにを得たとしても……そんなものはいとも容易くなくなってしまうのに。そんなものに自分の根っこを預けるわけにはいかないのに。最初から得ていた。ほんとうは。最初からそこにあって、失うことなんて決してなかった」
ハルピュイアの姿を為した千早が“天使”の真上から飛びかかった。再び純白の翼を鳥の脚で鷲掴みにした。同時に、千早に気を取られた一瞬を正確に衝き、橙との修行で何度となく繰り返した踏み込みで、絣の爪が“天使”の足首を捉えていた。縺れ合い、墜ちていく。
千早は勝利を思って小さく呟く。「捉えた」
が、“天使”は残念そうに溜息をついただけだった。夢の世界を見渡し、頬に手のひらを当てて言う。「失ったらまた得ればいい。得続ければそんな虚しさもなくなります。そういう簡単なこともわからぬのですね、あなたは。
いいでしょう。私の得たものを少し見せてあげましょうか」
“天使”は親指と中指の腹を合わせ、貝のように弾いた。同時に現実世界の、千早と絣に掴まれた“天使”も指を鳴らした。
縺れ合い、“天使”を地面に叩きつけた。千早の脚が翼に、絣の爪が足首に食い込んでいた。が、“天使”の指が打ち鳴らされるのを見、千早は咄嗟に声を上げた。「離れて、絣さん――」
「え?」
さらに多くの腕が絣と千早を掴んだ。予想外のところから膂力を加えられ、絣は息を詰まらせて振り返った。誰? 援軍がいるわけがない! わざわざこんなときに天境線へ訪れる人妖などいるわけがない――
西洋風、それも中世を思わせる甲冑。鎧。腕は篭手に、脚は具足に、頭は兜に覆われ素肌が見えない。ツヴァイハンダーだかトゥー・ハンデッド・ソードだかそんな風な剣を携え、もう一方の手でこちらを掴んでいる。兵士風の。異国のファンタジア。そうした人影が突如として現れている。
しかもそれがぞろぞろと地面の下から生えてくる。たくさん。大勢。そう、草かなにかのように『生えて』いる。
千早は眼を見開いた。天使……ヴァルキリー……英霊を神の国へいざなう者。軍勢が現れる。
「私の迎えた戦士たち」と“天使”は言う。「あなたもこのうちの一人になるのですよ」
千早は背中が怖気立つのを感じた。「逃げて、絣さん!」
が、遅すぎる。
絣のからだが腕の波に飲まれる。あっという間に鉄と鋼の内側に引き込まれ、見えなくなる。悲鳴を上げる間さえない。
千早は“天使”の翼を離して離脱する。高く高く飛ぶ。キリキリと弓の弦が引き絞られる音がし、直後、風を切って矢が射かけられる。何本も。何百本も。何万本も。何百万本も。夜空が矢で埋まる。
結界がハリネズミになり、砕ける。貫通した矢に肩口を射抜かれ、小袖が赤黒く染まる。千早は錐揉み回転しながらさらに上へ昇る。射程外へ――
放たれるものが矢が大砲になる。砲弾が放物線を描いて発射される。
千早のすぐ真横で近接信管が、あるいはそれに相当するものに起爆し、黒い煙に飲み込まれる。次々と何発も爆発する。噴煙が月灯りさえ遮り、雲のように伸びる。地上は歪な暗闇に満ちる。
「奪い、盗み、得ること。迎え入れ、略奪し、利益を生むことが生の本質。これが私の能力。
ああ、思いがけず教育になっていますね。まあいいでしょう、翼をもぎ取ることに代わりはないのだから」
「絣は弾幕が好きだよ。霊夢が『弾幕女』だって言ったのもわかる。それはただ単にスペルカードルールの制定後に生まれた子だからだってだけじゃなくて」と橙は言った。「侮られ嘲られ、あの子の心は怒りと憎しみでいっぱいだ。でも、弾幕の場ではそれを表現することが求められる。ただ吐き出すんじゃなくて、昇華しなくちゃならない。最初からあるものを得るんじゃなくて、零と無の場所から自分を創るんだ。自分に残されたものを弾幕のかたちに熾して。
黒い感情を表に出しても受け入れられることが、嬉しくて仕方ないんだろうね。そういうのもやっぱり博麗から程遠いんだけどさ」
ルーミアは鼻で笑った。「その感情が同族の人間に向いてるっていうのは皮肉ね」
「獣ぅぅぅぅぅうううううう爪ぉぉぉぉぉおおおオオ――!!」
鎧に圧し掛かられているところから絣は唸り始める。
鎧の関節の隙間を狙い、そっと爪を刺し挿れる。毒を注ぎ込まれ、鎧の力が一瞬だけ途切れる。
「『マージナルビーストインサイド』――!!」
牙を剥き、鎧の首に喰らいつく。そのまま頭を捻じり、噛み千切る。
鎧の下にはなにもない。いるはずの人間がいない。空っぽだ。自らの意志も持たない人形でしかない。
爪の術式、花びらの紋様が崩れ、紅混じりの黒が左腕全体に広がる。肩口を越えてさらに侵食し、顔の半分さえ覆う。口許さえも。霊力が当たり判定としてかたちを為し、牙をつくる。ちょうどあの獣のような。
私は負けてもいいと思う。才能もなく、それを補うための年月さえまだこなしていない。十二歳の月並みな小娘でしかない。出会った妖怪たちのように、何百年も生きて、相応の経験をしてきたわけではない。だから、勝てなくてもいい。自分の実力以上の者と対峙して負けていい。サクラにも、獣にも、花乃にも、ディーにも。でも、それでも。
「こんな空っぽの鉄の塊なんかに負けてやるほど薄っぺらい女でもない!」
関節部へ爪、止まったところを首に牙。鎧を跳ね除け、絣は絶叫を上げて立ち上がる。反応はすぐにやってくる。真っ直ぐに突き出された剣の切っ先をグレイズして懐に飛び込み、爪から牙。停止した胴体を蹴飛ばして四つん這いになるほど深く伏せる。そうして、走る。
絣のからだはあまりにも小さく、鎧たちはあまりにも大きかった。そして密集しすぎていた。足元を縫うように走ってやれば剣も届かない。血色の爪はどこにでも食い込みさえすれば毒が注ぐ。動きが止まれば霊力の牙が首を捻じ切る。
あまりにも容易だった。というより、鎧の軍勢自体が弾幕としてあまりにもナンセンスだった。ひとつのStageにおいて戦力は数より質、それもただひとりあるいはふたりの手練れこそ重要なのはあらゆる異変で証明済みだ。すべて、あの偉大なる橙に教わったことだ。
向けられる弾を敵機を盾にして防ぎ、絣は暴れた。こんな空っぽを差し向けて安全地帯でのうのうとしているボスキャラへの怒りを剥き出しにし、吼え狂った。
“天使”はまだ無駄な抵抗を続ける絣を見て不快になった。それでも、手勢は多い。所詮は小娘、終わるのは時間の問題だと思った。
が、絣はひとりではなかった。むしろ絣はいま、オプションにすぎなかった。
「狂符『忌みじき腕の悪しき祈り』」
上空を覆っていた爆煙が一気に、刻んだように晴れる。満月を背負う位置に千早が浮かんでいる。翼の先端、鉤爪を胸前で合わせ、懺悔するかのように頭を傾けている。
絣は鎧を踏み、はっとして千早を見上げた。
千早の胸と翼のあいだから、一粒の光弾が落ちてくる。
小さくきらきらと瞬きながら、蛇のように尾を引いて、その頭をふたつに分ける。分かれたふたつの頭も、しばらくしてふたつずつ分かれる。さらにふたつずつ。ふたつ。ふたつ。鼠算式に穂先を増やし、気がつくと視界いっぱいに埋まっている。
絣は気づいた。(殲滅する気だ)
まさにそのための弾幕だった。ひゅるる……と鳥の鳴くような音を放って、鎧の軍勢、つまり絣が爆心地の位置に落ちてくる。絣は蒼褪めた。さあと顔の血が引いていくのを感じ、咄嗟にその場に背を向けて全力疾走した。
鎧の隙間を縫い、跳躍し、一歩でも遠くへ逃げようとした。行く手を阻む敵機には爪をぶちこみ、蹴飛ばしてさらに駆ける。首の後ろが危機感でちりちりと痛む!
そのとき、無数の蛇に分裂した千早の弾幕が、着弾した。そして大爆発した。
悲鳴を上げる以外になにができるだろうか? 絣にはできない。「わ、わっ……うわぁああーっっ!?」
地面がオレンジ色のマグマに熔けて、次々と膨れ上がった。泥の沼地に噴き上がる泡のように、炎が円状に揺らめいた。爆風が眩く白い光を伴い、颶風となって荒れ狂った。絣の小さなからだはたちまち木の葉のように吹っ飛ばされた。逃げ遅れた、いや、逃げようとする素振りすら見せなかった鎧の軍勢は一瞬で融解した。赤熱した液体となって、すぐに地面と溶け合ってなにも見えなくなった。
どうにか空中で態勢を立て直した絣は振り返った。なにもかもが滅茶苦茶だ。月灯りの蒼は跡形もなくなり、地面が真昼の太陽のように輝いている。どろどろと稜線を伝って流れ落ちていく溶岩。マグマ。おまけに、真夏のように暑い。
絣は叫んだ。「地獄かっ!」
その地獄を生み出した千早はゆっくりと降りてきた。とうとう笑みの消えた“天使”を遠目に見やり、逆に不敵な微笑を浮かべていた。が、どう見ても強がりだ。肩口に刺さった矢はそのままなのだから。それでも、ほとんど意地のように言い放っていた。
「わたくしにこのスペルまで使わせるとは、なかなかやってくれるじゃありませんか」
絣は千早のところまで飛んだ。その肩から生えた矢と、その矢が刺さっているあたりの赤黒い色を見ると、くらりとした。「千早さん大丈夫ですか!?」
「ええ、もちろん。当然、こんなのは慣れっこですわ。白玉楼の魂魄さんに腰から真っ二つにされそうになって、危うく逃げ延びたこともあります」
「うげ」
「絣さんもそのうち、もっともっとひどい目に遭えますよ。この状況が天国に思えるくらい」
「きっとその通りなんでしょうねチクショウ!」
“天使”がふわりと浮かび上がり、火口と化した天境線上を渡ってこちらに向かってきていた。
千早は呟くように言った。「そろそろ最終局面にしないとわたくしたちがもちませんね。一応訊いておきますが、なにか策はありますか?」
絣は自信満々に言う。「橙さまがよく先代さまと初めて会ったときのことを話してくれました。『当たって、砕けた』って! 憑きたてほやほやの式でリヴェンジして『まったくお話にならなかった』って!」
千早は重々しく頷いた。「母様も寸分違わずまったく同じことを仰っていました」
ふたりの巫女は――巫女の格好をしたハルピュイアと黒い獣めいた娘は――顔を見合わせて笑った。結局のところ、ふたりはそうした血族に連なる女たちだった。敗北など怖ろしくもなんともない。ほんとうに怖ろしいのは、魂が挑むことを忘れ、グレイズから遠く離れた安全地帯に落ち着いてしまうことだけだった。自機のやらねばならぬことはいつでもどこまでもシンプルだ。回避し、そして、撃墜する! それができるかどうかは……実際に墜ちてから考えればいい。
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