闇黒片 ~Chaos lives in everything~
Stage5 マヨヒガ
――愉しいことと気持ちの良いこと
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ここぁは手で目許を覆い、絞り出すような吐息をついた。ミケは彼女を見やった。苦しげに、というより、どこか切なそうな仕草だった。白い肌がすっかり赤らんでいた。
「大丈夫か?」
「だめかも」
「あんまり飲んでなくないか」
「ん――やっぱり弱いんだわ、あたし。でもあんたにつられてちょっとペース早かった」
「吐き気は?」
「眼のまえがぐらぐらするだけ。ね、ね。やっぱなか入ってもいい? ちょっと寝っ転がりたい」
ここぁは賽銭箱に手をついて立ち上がろうとした。膝が揺れて、危うくふらついた。ミケは反射的に手を差し伸べ、からだを支えるようにした。
「歩けるようには見えないんだが」
「抱っこー」
「ああもう仕方ないな。軽ッ。ちゃんと食わせてもらってるのかよ、タダ働きって食事も抜きとかじゃ――」
「衣食住はもらってるよー。煙草買えるくらいのお金は貸してもらえるし。あんたの背中は小さいのに落ち着くね。足腰が強いから?」
「ひとの背中で戻すとかやめてくれよな」
暗がりのなか、火皿に小さな明かりが灯った。ヂヂヂ……と、油の焼ける音がさやかに耳に届いた。ミケはここぁの背を柱に預けるように下ろした。が、彼女のからだはすぐに横たわってしまいそうだった。
ここぁは自分の隣を示して畳を手のひらで叩いた。ミケはそこに座った。
「寄りかからせて」
「……むー。いいんだけどさ、もう寝ちまうか? 紅魔館帰んなくて大丈夫か」
「明日遅番だし。あたしが朝帰りしたって――あぁ――……楽ぅ……」
ミケの肩に頬を乗せ、ここぁは長く息を吐いた。湿り気が皮膚を伝った。
すっかり力の抜けてしまった様子。
しめやかな暗がりがあたりを取り囲み、ミケは困ったように頬を掻く。
「無防備だなあ。オレだからいいけどさ、宴会であんまりそこまで酔うなよ? 襲われても知らんぞ」
「襲われたことあるの?」
「ねーよ」
「男交えて飲むわけじゃなし……でも、気をつけるよ。ありがと。あ、あんたのほうが襲う側?」
「ねーよ」
ミケはちょっとどぎまぎする。
ここぁの手がまた煙草に伸びる。ほとんど無意識なのだろう、火のついていないまま一度くわえ、そこでようやく不思議そうに手元を見る。気だるげに掲げられた腕が火皿へ伸び、上半身が億劫に追従する。
オレンジ色の灯りが彼女の顔を照らし、浮き上がらせる。
再び自分の肩に戻ってきた顔から煙草の香りを嗅ぎ取り、ミケは眼を細める。実を言えばその匂いは苦手もいいところなのだが、少し認識が改まるような感覚がある。ちょっとくらいだったらいいじゃないか、という風に。
ここぁは携帯灰皿に煙草の先を押しつけて、ほとんど眠り込むように眼を細めて呟く。「お酒飲んでこんな気分になるの初めてだよ。実を言うと苦手もいいとこだったんだけどさ。ちょっとくらいだったらいいもんだな、って」
「へえ」
「友だちと一緒になんてなかったからさ……。外じゃ肩身狭すぎたし。ほら、淫魔のコミュニティだから……あたしはそうじゃないのに……」
「そうか」
「あんたって女の子いけるほう?」
「な、なんだいきなり。そういう風に考えたことはないけど。いや……うん……知らん。わからん」
「あたしAセクだから余計ばかにされてたよ。一段下のつまらないくだらないやつだってみなされてた。でも、あほみたいだなって思ってたよ。外の世界の神様のイメージ知ってる? お偉い画家先生が描くのって大抵髭ぼうぼうに生やした白い肌のおっさん。それが結局至上のもの扱いなんだよ。他のものはみんな一段下、黄色い肌も黒い肌も、女子供も」
「エイセ――なんだって?」
「淫魔なんてその最たるものだよ。男は女に誘惑されて楽園から追放されました。それが人間の原罪。なんのこっちゃ。ここはいいね、神様が女ばっかりで……しかもひとりっきりじゃなくて山ほどいるときた……当主サマにいたっちゃ幼女だし……」
「ここぁ?」
「――ぁ、ごめ。意識飛んでた、なに言ってんだろあたし」
ここぁはふやけたように笑う。
だからそれでね。茫洋と続けられることばに、ミケは少し息を飲む。
「コミュニティじゃきつかったよ。紅魔館のメイドみたいにあくせく働かなくてもよかったけど、その分たいせつなものが失われるんだろうね。気持ちよく働かなくちゃ心が真っ黒になっちゃう。いじめられてた。同族じゃないからって、あたしはよってたかってストレス解消の捌け口にされてた」
「見るだけでいいなら私が相手してあげるけど」
絣は振り返った。相変わらず作務衣にエプロン姿の淫魔が腕を組んで不機嫌そうに見下ろしていた。
「え、いいんですか?」
「いつまでも居座ってばんばんやられるとうざい。満足したら帰んなさい、それでいい?」
「とても助かります、けど」
「橙じゃないし弾幕は素人だから期待しないで。ほんとうに見るだけだから」
眉間に皺を寄せ、淫魔はあたりを見渡した。山奥の、妖怪の気配さえない場所である。適当にやりあって、追い返すだけなら、余計な注目を引くとも思えなかった。
絣を慮ってのことではない、もちろん。拙い技で頭上をぶんぶん飛び回られるのが鬱陶しいだけだ。流麗さの欠片もない、見ていてイライラするような軌道。耳にやかましい爆音。かといってむりやり押し退ければ橙になんと言われるかもわからない。
それに……こいつの拙さはどことなくあの娘を思い出させる。まるで反比例するかのように家事の一切を轟然とこなしてしまうところも。胸の奥がきりきりするのだ。
絣はぺこりと頭を下げた。「ありがとうございます! えーっと」
淫魔は溜息をついた。「……ディー」
「え?」
「Diamante=DearDeparted。そう呼ばれてた」
絣は胸のまえで両手を合わせた。「ディーさん。よろしくお願いします!」
ディーは言ってしまってから後悔する。なんだってこんな小娘に本名を教えなきゃならないのか。これもすべて自分を荷物持ちだなどとほざいた橙のせいだ。イライラばかりが募っていく。
一度縁側に降りる。ローファーを履き直し、エプロンを外して肩にかける。そこでディーは絣のほうを向く。
「オプションはありでいいんでしょ」
「え? あ、はい、別に構いませんけど」
もとより、ディーにはまともに相手してやるつもりなどさらさらない。「少し待ってなさい」
夜空を見上げる。小望月は見る分にはほとんど満月だが、感じる分には決して満月ではない。満月にはなりえない。どれだけ近づいても、結局のところ半端ものの夜でしかない。魔の者にとってはもどかしい時間。明日を待ち望むだけの無為な夜。
(……日が悪い)
そのうえ、自分自身、完璧とは言い難い体調にある。もうずいぶんと魂を喰らっていない。あの娘を創り出したときは、あらゆる要素が完全に交わりあい、前準備も充分、最高のシチュエーションだったのだが。
恐らく、満足いく結果にはならないだろうとやるまえからわかる。
どうでもいい。
息を静める。大きな深呼吸を三度して、小刻みな呼吸に戻す。肺に送り込んだ空気が落ち着くのを待ち、眼を閉じる。自分の世界に入り込む。耳に届く雑音を思考の外に追いやり、雑念をシャットダウンする。時がくるのを待つ。
両腕は自然なかたちで垂らし、地に足をついていることさえ忘れる。頭の上から糸が伸びていくのを想像する。糸の先は上天にあり、それに引っ張られているかのように、背筋が真っ直ぐに伸びる。両手は握るともなく握り、赤子がこの世に生まれ出てくるときのような、肉と骨が取りたいかたちを取らせる。
「ディーさん?」
絣の声は聞こえない。
すべては闇黒の淵に潜る。血の巡りさえ感じ取れるほどの静寂に身を委ねる。心臓の鼓動に耳を澄ますのだ。内なる神との対話。ことばを介さない原始的な交信。トランス。
イメージするだけでいい。それが力になる。
魔力開放。
血肉燃焼。
魔方陣展開。
海色の風がディーを中心に渦巻く。絣は侵し難いなにかを感じ、思わず後退りしている。蛍のような冷たい発光が周囲を淡く浮かび上がらせる。ブロンドに近い赤毛が緩く逆立つ。
作務衣の背を切り破り、蝙蝠の翼が露になる。月の光を吸収するかのように目一杯骨を広げ、細かく振動しながらその色を変えていく。黒から白へ。
セルフエナジードレイン。
エナジーシフト。
排出。
リミットカット。
右脳が痛み始める。全身を八つ裂きにされるような苦痛が神経を冒す。百の腕を半径百メートルの範囲にありったけ広げ、そのすべての血管が幻痛に支配される。
痛みをこらえきれない。ディーのからだはくの字に折れ、焼死体のように腕が曲がる。食い縛った歯がぎりぎりと鳴る。喉の奥から呻きが漏れる。
魔方陣が歯車のように回転し始める。
右脳加熱。
百万カロリーの排熱。
細胞分裂。
加速。
なにかを求めるかのように両腕を差し出す。遺伝子の螺旋模様のように白い光が連なる。いっとき、その場が真昼よりも明るくなる。絣は腕で目許を覆いながらも、なにが起こっているのか必死で見極めようとする。
絣はいっとき、召喚かと思う。一度ここぁの魔法を目にしている。魔方陣から白い光が漏れ、そのなかから姿を現したものと戦っている。が、すぐに違うとわかる。皮膚感覚に訴えかける力の質がまるで違う!
――『魔法、主に創造と焼熱を扱う程度の能力』。
ディーはどうにか言う。「……我が――っッ、呼びかけ、に――応、じ、よ――!」
極度の疲労に、ディーは喘いで片膝をついた。
「……っ、一晩中ヤってるより疲れる……ッ」
ポイントは、力の差よりも、意思の有無にあるのだ。触手やナニやら、ただ本能にのみ従って動く低脳な存在なら、生み出してもここまで疲れない。反面、あの娘のような、最下級クラスの魔力しか持たないものであっても、思考力があるというだけで創造の難度は極端に跳ね上がる。
まして、弾幕戦をやろうというのだから……
ある程度の思考力を持たなければ、ついていけやしないことは、紅魔湖畔で証明済みだ。触手の先端はグレイズされるばかりで、ほとんど一方的に攻撃されてしまう。重量と再生能力に特化したゆえに、散々斬り刻まれたうえで大爆発させられた。あの娘自身でやったほうがまだマシだっただろうとさえ思える結果だった。
「――ゼロから、創り出したんだ。すごい……!」
驚嘆の声を上げる絣に、が、ディーは顔をしかめた。
「ふん、こんなの、いくらできたって……」
実戦じゃまるで役に立ちやしない能力だ。膨大な隙と硬直を曝すことになりながらも、魔力の消費は甚大、おまけにそれが通用するかどうかは実際にやってみないとわからないときたものだ。というか大体足手まとい、自分でやったほうが遥かにはやい。契約さえ交わしていればノータイムノーリスクでひょいひょい呼び出せる『召喚』のほうが、どれだけ実際的か。あの娘の能力が判明したときには、自分が産んだものにかかわらず、嫉妬してしまったものだ。
ディーは立ち上がり、自分の作品を眺めた。顔をしかめた。
「……。青肌になっちゃったか」
ぺたんと地べたに膝を折って座り込み、犬のように鼻をくんくんさせてあたりを見回す少女。絣よりは年上そうには見えるが、自分やあの娘よりも幼い。自分の似姿ではあるが、やはり不完全だった。
色素を忘れてきたような、銀がかった白髪。骨と皮しかないような薄いからだに、絶壁の胸板。羽根も尻尾もなく、肌の色さえ普通なら人間と変わりない。が、その肌の色ときたら、まるで鉱物のように不自然な青だった。
ディーは溜息をついて、「状況はわかる?」
少女はそこで初めてディーを見、座り込んだままちょこんと首を傾げた。「うー?」
「……ことばはわかる?」
こくこくと二度頷く。
「話せる?」
首を傾げる。
「もう一度訊くわ。状況わかってる?」
なにが嬉しいのかにっこり笑って頷いた。「あーっ!」
「……まあ上々でしょ」
少女は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。なんともまあ、子供のようにあどけない仕草。悪魔の域にすら達しなかったのかもしれない。
絣を見ると、こちらに背を向けて眼を両手で覆う姿勢。礼儀のつもりなのか。自分の作務衣を脱いで、素っ裸の少女に放った。少女がぎこちなく袖を通しているあいだに、自分は下着の上から直接エプロンを着た。ケツがすーすーするが、着替えを取りに行くのも面倒くさい。
あの娘はやはり最高傑作だったのだ、と思い返す。産まれた時点ですでにことばを扱うことができ、なんともむかつくことにいきなり皮肉を飛ばしてきたものだ。あんたも暇人だねえ。それまで意思のない淫獣ばかりを産んできたディーは、面食らってしまった。ゼロから産んだのではなく、どこぞから召喚してしまったのではないかと疑ったほどだ。
なんともむかつく娘ではあったが、なんだかんだで気に入ってはいた。貴重だった、そんな風に思考できる存在は。愛着だって湧くものだ。焼熱の爆弾仕込んだって、実際に使うつもりなんかこれっぽっちもなかった。だってそうして巫女を殺したら人質の価値もなくなるし、家事をするやつだっていなくなるし、勿体ないし……
「あの、こんばんは! 初めまして、絣といいます!」
律儀にも手をぎゅっと握って自己紹介する巫女に、少女も腕をぶんぶん振って応えた。が、その笑顔が困惑顔に変わり、ディーのほうを向いて自分を指差し首をちょこん。簡単なボディーランゲージ、私の名前は?
ディーは面倒くさそうに頭をがりがり。なんでもいいのよ、そんなのは。少し考え、少女の肌の青を見ながら言った。「……サフィ」
少女はふやけたように笑って、絣に向き直った。「さふぃ」
「よろしくお願いします!」
能力もわからないのだから、とんだギャンブルだ。ディーは樹木の上に出ると宙に腰かけて膝を組み、後衛に待機する態勢を取った。前衛がサフィだ。というかまともにやるつもりもない。できるなら全部任せてしまいたかった。
強い月灯りに照らされ、粒子状の、きらきらした光が降り注いでいるようだ。絶好の飛行日和。遠い山の稜線まで、その輪郭がはっきり見えるほど明るい。幼いふたりの娘のからだが、帯のように影を落としているのを、眼を細めて見つめた。飛びながらも間合いを取って、霊力と魔力が満ちた。
こうして感じる限り、サフィは魔力自体はそこそこある。撃つだけなら問題ないだろう。
絣はサフィと、遠間に位置するディーを見、納得したように頷く。「なるほどこれはつまり――オプションを掻い潜って本体を撃て、ということですね! ここぁさんのときと同じ……! 今回はサクラさんに頼らずに、私自身でやらなきゃならない……!」
ぐっと拳を握り締めて、張り切る様子である。
つくづく、(こいつ――てかこの郷のやつらやっぱりどこかおかしい)と思う。
鞘から抜き放つように、絣の左腕が鋭く振られる。
「爪符『カラードネイル』!」
指先に施されていた紅と黒の花びらが広がる。左腕全体を侵食し、肩を越え、頬にまで至る。月夜のなかで浮かび上がるように静かに輝き、霊力を書き換え擬似毒を形成する。一切の笑みの消えた表情、その黒い瞳までどこか燃えているようだ。
振り抜かれた爪が五つの弾道を形成する。サフィへ真っ直ぐに向かう。
半身になって回避するサフィへさらに追撃。夜を光が穿つ。ディーはさらに後退し、流れ弾の及ばぬ場所まで退避する。しゃん、しゃん、と音が鳴るたびに弾幕が奔り、視界が埋もれる。サフィの姿を捉えておくことさえ容易ではない。
直撃すれば毒が一瞬の硬直をもたらす。その状態で続けざまの弾丸を回避するのは至難の業だろう。が、サフィは器用にグレイズし続ける。生まれ出たばかりの自分のからだを確かめるように。反撃する様子もなく、木の葉のように宙を舞い、時折手を握ったり開いたりして神妙な顔をする。
反撃しない、ということがディーをいらいらさせる。
(さっさとやりなさいよ)
はずれかしら、と思う。とにかくなにかしらの攻撃もしない……しようとするだけの頭もないのか。親指の爪を噛む。すると、そこでようやくサフィの周囲に陣が展開する。
ぱらぱらと、ささやかな霊弾が緩やかに広まる。速度も遅く追尾もしない、しかも爪に容易く切り裂かれるほど弱々しい。当然、敵機には届かない。絣のほうが戸惑った表情を見せるほど。
絣にしてみれば自分より弱い弾幕を相手にすることなどまずない。自分より弱い者が存在するということ自体、絣の思考にはありえないことだ。これは誘いか擬態かと、ますます気を引き締める。注意深く爪を走らせ、踏み込む機を窺う。
サフィの弾幕が第二波を展開しかけた瞬間、絣は飛び込んだ。
弾幕に混じってその姿は見づらい。まして絣の小さなからだは簡単に光に紛れる。
近距離――
サフィの頭上。この距離なら密度を保ったまま撃ちこめる!
腹の底から気合を放ち、爪を薙ぐ。
サフィが絣を見たのは放たれた後だったが、慌てた様子もなかった。最初から知っていたような顔をしていた。
軽やかに身を捩り、弾幕のスキマを縫うように飛ぶ。逃げるのではなく絣へさらに近づくように。大袈裟な動きもなく、最小限に、ひどくなめらかに――
かわせないと見るやいなや右掌でぽんと弾丸をはたき、相殺。食い込まなければ毒もない。気づけば近距離以上に近い至近距離に踏み込んでいた。絣の左手首が掴まれる。ほとんど額同士が触れてしまうほど近寄っている。絣は思わず仰け反る。
「うー?」
が、サフィは霊弾を撃つ様子もなく、しげしげと絣の左腕を眺めている。花びらにも、炎のへりにも見える紋様を。
絣は考える間もなく右手を掲げている。
「霊符『夢想封印・劣』!」
霊弾が一気に広まり、集束――
そのときにはもうサフィは離れている。誰もいなくなった空間をスペルカードが叩く。もとより初見殺し以外にはとても使い物にならない符だが、ここまで思い切りよく離れられたのも初めてだ。そもそも自分のようなものを射程距離に捉えておいて、またわざわざ離れるなど――そんな万全な対策を取ろうとする者など――
身のこなしのキレは私なんか全然及ばない! やっぱり油断なんかできないと、絣は集中を深める。先代さまと違って私はいつだって全力でやらなきゃならないんだ!
サフィの弾幕を切り裂きながらも、一瞬たりとも気を緩めない。どんな仕掛けがあるかわかったものではない。
「うえええええ」
「ほら、水だ。すすげ」
「ありぁと……うっ」
「ほんと弱いんだな」
「甘くていくらでもいけそーな気がした……ごめん、きもいね私」
「なに言ってんだ。オレなんかもう百っぺんぐらいはやっちまってる」
ミケはうずくまるここぁの背をさすっている。
波が収まると、ここぁは壁に縋るようにして立ち上がる。首のリボンを解き、ブラウスを胸元まで開け放つ。ブラの黒いへりが覗く。
「夜風にあたりたい」
「おう」
ふらつくここぁに肩を貸し、ミケはほとんど抱えるようにして歩く。
外に出ると、視界が眩む。黒い空にかかわらず、思わず眼を細めている。それほどに明るい月が浮かび、世界が白く霞むようだ。ほのかに、甘い香りが漂っている。夜に咲く花の匂い。神秘的な夜。
鳥居の下でここぁを降ろす。神社に向かって右の脚に寄りかからせ、自分は左の脚に背をもたれる。吹き抜ける風はぬるい。遠くに、人里の灯りが星のように見える。
「あんたはやさしいね」とここぁ。
「いや……普通だろ。周りがのんべえばっかなんだから」
「自分でね、吐くまで飲んだの初めてなんだ。むりやり何杯も何杯も喉の奥に突っ込まれてばっかだったから。吐きそうになるとみんなのまえに引っ張り出されて、笑われながら……。あいつんとこ帰るまえに何度も顔洗って、歯磨かなきゃだめだった、匂いで気づかれるとヤだから。匂い取れなくて、朝まで帰れないときもあったよ。あいつになにしてたのって訊かれたら、そのへんの男引っ掛けてヤってたって嘘ついて――」
「言っちまえば、よかったんじゃないのか」
「バラしたらそれでなにされるかわかんなかったから。怖かったよ、だって百何人もいたし。同じコミュニティったってほんとうの味方なんていなかった。味方ヅラしたくそったればっかり。あいつは序列第四位で……あんまり寄りつかなくて名前貸してただけだったけどさ……上の三人が率先してあたしを――」
ここぁの声に黒いものが滲む。
深部にまで手の先を沈めるアルコールが、秘められたものを曝け出す。
「わざわざ服に隠れて見えないところ殴ってきたりとかさ。着替えるたんびに痛くなるくらい、青痣ひどかった。弾幕の生傷と違ってすごくイヤな気分なんだ、そういうの。いまでもときどき、膝が急に動かなくなったりとかする。骨が肉の内側に当たってる感じがする」
「ああ……」
「あいつら――」
「ここぁ」遮るように鋭く言う。「きついんだったら、言うことなんかないんだぜ。後悔するかもしれないのはおまえなんだ」
「あのくそったれどもそれでオナってやがった」
ここぁの顔が立てた膝に埋まる。が、その表情が見えなくなる寸前、ミケには見えてしまっている。
「あたしが泣いてるの見てオナってやがった」
ミケは鳥居から背を離し、ここぁのまえに座り込む。ただじっと彼女を見つめている。
絣が弾幕を織り、サフィがかわす――そういう構図になっていた。
奇妙な違和感を覚え、絣は慎重になる。どうしてサフィは貧弱な通常弾幕ばかりで決め球を撃たない?
こうして感じる限り彼我の魔力差は三倍近く――
「あー?」
「ぅわっ、わっ!」
するすると爪のあいだを縫い寄られ、またもや至近距離に移行する。絣は反射的に右手を掲げ、『夢想封印』。
サフィは一度にっこり笑いかけ、驚くべき冷静さですべての弾丸をグレイズする。スペルカードがタイム・アウトしてもまだそこにいる。夥しい数のグレイズに「どう?」とでも言うかのように両腕を広げ、零れんばかりの笑顔を向ける。
絣は驚嘆の顔を向け、弾幕を撒き散らしながら後退する。
ディーはますます苛立つ気分だ。ふたりよりやや離れたところに浮いたまま、腰かけ膝を組む姿勢、蝙蝠の羽根は小刻みに上下する。親指の爪を噛みながらその弾幕戦を眺めている。
なにを楽しんでいるのかと、叱責したい思いがある。こっちはこんなにもイライラしているのに。つくづく、自分の産んだものなのに自分の思い通りにならない。意思があるというだけで勝手に好き放題動き回ろうとする。
(はやく終わらせなさいよ、どっちも。夜が明けるまでやってるつもり?)
あの爪の符――まだ不慣れなものなのだろう、ところどころぎこちなさが染み出している。というより、どのようにかたちづくったらいいのか模索している感じだ。
サフィにしても、まるで本気でやっている風には見えない。誘うためだけのような弾幕を放っているだけで、当てようという気も見られない。ルールをわかっているのか。ただのバカでしかないのか。
ディーは退屈だ。自分でやる気がないので余計に暇を持て余す。
(自分でやるなんて……もうしばらくやってないわね)
橙には一方的に踏みにじられただけでなにもできなかったわけで、それ以前に紅魔湖畔で人間を襲っていたときはとても戦いとは言えなかったし、最後にそんな経験をしたのとなると――
(コミュニティ吹っ飛ばしたときか)
愉快な思い出とは言えず、あーと唸って頭をがりがり。神隠しにあったのはちょうどその直後だ。寄る辺を失い、忘れ去られ、滅びていく妖魔でしかなかったものが。
幻想郷にきたこと自体は、幸福だった。橙にさえ会わなければッ。
あの娘にとっては? 紅魔館で、以前のように――いや――さすがに二度も同じ轍を踏むほど頭の悪い女でなし――
(っ、違う、だから――どうして心配するような思考になってるのよ、純種の悪魔たるこの私が――!)
おぞましい気分に襲われ、ディーは額を掌底で一打ちする。
幾度目の交錯か。
霊弾の渦のなか、不意にサフィが立ち尽くすように腕を垂れ下げた。
「っ!?」
絣はただならぬ気配を感じて後退し、一度弾幕を収める。集中力を深め、なにがきても対応できるように素早くあたりを見回す。
サフィは目を細め、表情から笑みを消してどこか虚ろに唇を結ぶ。なにかを探っているかのように眉間に皺を寄せ、ふと自らの両腕を見下ろす。軽く胸前に持ち上げた両手を覗き込む。
が、そうした仕草もほんの数秒の合間だ。再び輝くような笑みを浮かべ、絣を見つめて口を開く。
「そーふ」
「え」
魔力が満ちる。その属性を変える。
その青い両腕に紋様が広がる。白と白金の、花びらのような、抽象化された炎のへりのような――絣の左腕に施されたのと同じかたちのタトゥー。腕全体に広まり、肩を越え、頬に至り――
ディーは唖然とする。「それって」
――『魔法、主に弾幕を扱う程度の能力』。
十字架のように広げられた腕が、抱擁のように閉じる。それで爪が振られる。絣の、紅と黒の弾丸と対照的な、白と白金の爪状弾幕が、右手と左手で十爪!
「ぅ、わっ!」
片腕だけで絣の三倍の魔力、それが両腕。大きさと鋭さ、速度と毒までそのまま比例している。少なく見積もって六倍の弾幕が絣に向かう。
驚愕に顔を歪め、それでも絣はグレイズしている。防壁を張ろうものなら軽く打ち破られるのは火を見るより明らかだ。先ほどまでの、貧弱な通常弾幕ではない。スペルカードだ。
「見ただけで――!?」
喘ぐように息をしながら、オリジナルより遥かに威力を増した霊弾のスキマを縫う。月明かりより強い光が絣を照らし、喉元を際どく掠める。
だめだ、このままじゃ! 咄嗟に不利を見て取り、爪を掻い潜って接近を試みる。もはや弾幕同士が激突すれば一方的にやられるのは目に見えている。幸い、避けられないほどの密度ではない、が、一発も当たれない。毒を喰らえば硬直で続けざまの追撃をまともに喰らう。
が、サフィの姿がはっきり見える程度にまで近づいたとき、絣はさらに顔を引き攣らせる。
「ちょっ」
花びらが、青肌の両脚にまで広まっていた。
サフィはもう誕生日とクリスマスが一緒にやってきたような顔をしている。なんの躊躇いもなく猫のように宙返りし、足の爪を振るう。
脚の力は腕の三倍、らしい。ただでさえ絣の三倍の魔力がさらに三倍、それが両脚、当然両腕も一緒に。簡単な算数だ。3×2+3×3×2。
二十四倍の爪符!
ぎりぎりの箇所を霊弾が掠める。スカートのへりが切り裂かれる。絣は錐揉み回転しながらとにかくかわし、かわし、かわし、かわしきれない。胸を。左脇腹から右肩にかけてばっさりと一閃。さらしが露になり、毒が染み入る。
びり、と指先が痺れ始める。
あらぬ方向へ飛んでいく。衝撃が二段三段と全身を駆け抜け、眩暈がし、意識が霞む。
「えっ」
放物線を描いた先にディー。
まったく予想外の飛び方をした絣のからだに、呆けていた分、反応が遅れる。どんっ、とまともにぶつかり、縺れ合うように落ちていく。
樹木の枝葉にざざざざっと絡まり合い、視界がぐらぐら振動し、腰に強い衝撃がくる。
ディーは咄嗟に防壁を展開して着地していた。仰向けになり、胸にしなだれかかるようにして絣が横たわっていた。
「ちょっと大丈夫!?」
なにかあれば橙が怖い。絣の肩がひくひくと動く。
「し、しびっ、しびれっっ」
「……あー。大丈夫そうね」
ふわりと近くに降り立ったサフィに腕を振ってみせ、
「休憩!」
サフィはまたにっこり笑い――それしか意思疎通の方法を知らないのか――ぱっと軽やかに地面を踏んで飛び上がっていく。月を背負うところまでいくと、爪が幾筋も重なって閃いた。星の瞬きを散らしながら、白と白金の光がひたすら眼に鮮やかだ。
なにがそんなに楽しいのか。まるで新しいおもちゃを手に入れた子供だわと、ディーは呆れるような思いだった。
自分に折り重なるようにして倒れている絣のか細い息が、鎖骨のあたりに生温かい。
二十四倍の魔力に比例して、二十四倍の毒。硬直はとても一瞬で済むようなものではなかった。五分は経っているが、それでも絣は立ち上がれそうにない。
無理矢理どけるのも億劫で、ディーは仰向けのまま月夜を見上げていた。枝葉の合間から、柔らかい黄金色が零れ落ちてくる。
弾幕の交錯がないと、静かだ。
サフィはどこか見えない場所に行ってしまった。それでもまだスペルカードの爆音が、遠雷のように、ほんとうにささやかな音量で聞こえてくる。
胸の上に顔を埋めるようにして動かない絣の、頭を見下ろした。
(こんな無防備な小娘が……)
あまりにも近すぎる。こんな風に容易く近づけるなら、わざわざあの娘を使ったりしなくて良かったじゃないか、と思ったりもする。
(いや、橙にやられなきゃこうもならなかったのよね、確かに)
もしも、は無意味だ。こうなったからこうなっただけだ。
それでも、いまなら――いとも容易く仕留められるじゃないか、と思うのだ。そら、その長い髪の合間から覗いているうなじに、ちょっとばかり爪を立ててやればいい――
焼熱の爆弾を仕込むまでもない。神経を焼き切るだけで人間はすぐ死ぬ。
何度もやったことだ。堕ちるところまで堕ちきった魂しか残っていない人間の後始末。この快楽がいつまでも続くと楽観している間抜けに最後の絶望を。ああ、なんて無知で愚昧な子。おまえのような無価値な玩具をいつまでも所有しているとどうして思えるのか――
その小さな首に手を――
置く直前に不意に絣の肩がひくつく。
「――……」
無言のまま腕の筋が縮む。紅と黒の花びらがわずかに震える。
密着状態のまま、静かに臨戦態勢に入る小娘を見て、ディーは思う……こいつはいったいなにを基準にして信頼の位置を決めるのだろう、と。
私が何者かさえわかっていないだろうに……
ディーは何事もなかったかのように声を上げる。「あんたさ」
絣はもぞもぞと頭を動かしてディーを見上げる。
「どうして巫女なんてしてるわけ」
絣の指が土の上でわずかに動く。
「わかりきってるじゃない、まるで向いてないってこと。知ってるわよ、『零無』って。身の程知らずの娘って評価も。苦痛と批判しかないじゃない、なんでまだ続けてる? それさえわからないほど頭悪くもないでしょうに」
「他のひとがしないからです」
毒の裡にありながらもはっきりしたことばだった。ディーは眼を細める。
「私しかしないから、私がします。たぶん先代さまが偉大すぎて、比較されるのが怖いから、誰も名乗りをあげようとしないんでしょうね。私みたいな無知で無謀なばかくらいしか。
いろいろ理由付けしようと思えばいくらでもできると思います、責任とか、使命とか。ごちゃごちゃと考えましたし、いまもなにかそれらしい答えを探してる私もいます。それっぽいことばをくっつけて、並べて、哲学とか禅問答とか、そういう風に……。でも結局、最後にはそれしかないです。余計なもの全部取っ払うと、そういうわけになるんです」
ディーは鼻で笑う。「それだけ? 自分の意思はないわけ?」
「少しはあります」絣の声は淡々とさえしている。「先代さまの残したものを守りたいとか、妹が心置きなく自分の道をゆけるようにしておいてやりたいとか、橙さまの教えに沿いたいとか、好き放題言うやつら全員黙らせたいとか。でも実際やってるあいだそんなこと考えたりしてないです。いつでも必死で、とにかくできることを全力でやろうとしてる。それしかできないことをしてる。それで届かなかったら、届かないで、どうしようもないですけど」
爪が獣めいて動き、少しだけ土を掻く。
「細々とした目標がいくつかあります。リヴェンジしておきたいこと。差し当たっては明日の晩にやること。そのためにいまのことをしてる。たぶんそれが延々と続くんだと思います。
そういう……目標とか、理由とか、たくさんのことをひっくるめて、身の程知らずですけど巫女やってます。そういう大きなひとつの枠に、他の誰もしないから、っていうのがちょこんと乗っかってます。だったら、私がやるしかないじゃないですか。そういうのってだめですか」
「そういう理不尽さに思うところはないの? 相応しいやつがやらなくて、あんたがやらされてるっていう――」
「怒り狂ってます」とてもそうは思えない声音で言う。「その怒りでまえに進もうとしてます。他の感情じゃ弱すぎてとても頼りにできない」
絣の手のひらが土を叩く。顔が醜く歪み、腕が軋む。全身全霊を篭めて立ち上がる。
よろめく脚が地面を捉え、夜空を見上げる。お待たせしました! コンティニューです! と声を上げて、未熟な巫女が空を飛ぶ。
「……ガキのくせに」
ややあって、ディーも飛び立つ。
爪弾同士がぶつかり合うと一方的に斬り刻まれる。先ほどまでとは逆だ。威力、速度、密度、すべてにおいて明らかな差がある。
樹木の上を滑るように飛びながら、絣は幾筋もの光の合間を駆け抜ける。流れ弾が地をえぐり、風圧に髪が好き放題散り散りになる。
グレイズしつつも、引き裂かれた服の切れ端で髪を結った。集中しようとした。
(これじゃだめだ)
いや、だがわかっていたはずのことだ。
(まともにぶつかり合って勝てないなんて、私には当たりまえのことだ。どのみちこんなに撃ちまくってたら最後まで持たない。使い方が違う!)
相手の符が場を満たしているあいだは回避に没頭する。勝てないのなら、撃たない。疼く左腕をなだめ、眼前をかすめる弾丸を見続ける。
撃つ機は二度。出鼻と術後の硬直、そこにだけ自らの符を撃ち込む。正面衝突を徹底的に避ける。
サフィが撃ち、絣がかわす――
スペルカードのスキマをどこまで冷静に狙えるかのシューティング。
不意に、どこかしっくりきている自分の一部を自覚した。
遥か以前、紡だけを相手にしていたときはずっとこうしていたんじゃないか?
さとりの想起を思い出す。『放射』にも『拡散』にも手出しせず、『集束』の段階でのみ踏み込む。紡のスペル全体に共通する特徴、故意に生み出された弾幕の弱点。紡相手でも一割の勝率を保っていられたのは、ひとえにその機のおかげだ。そして巫女となるまえの私は、自分の拙い弾幕で、いつもただそこだけを狙い続けていた……
博麗霊夢の、博麗の巫女の戦い方ではない。追尾する札による恒常的な火力の捻出とは違う。
これは――
ディーは『練習』に没頭するふたりを遠間で見つめている。
力の差はもはや歴然としている。同じ符でありながら二十四倍の格差がある。ただ魔力が違うというだけで。
だというのにどうして?
(なんでちゃんと『戦い』になってるのよ)
傍観する側にいるからわかる。一進一退の攻防が続く。なぜか。場を支配しているのは九割方サフィの爪なのにほぼ互角の戦闘。なぜか。
不利なのは当然、絣のほうだ。なのになぜかサフィが攻め切れていない。ところどころで手が途切れ、爪の隙間を縫う爪がサフィのからだすれすれを走る。弾幕そのものよりもふたりの回避が鮮やかだ。
苛立つ。
弱小の霊力しか持ち得ないような小娘など一方的に蹂躙してやればいいのに。
サフィがのんびりとしかやっていないように見えて気分が逆立つ。相手に気遣ってでもいるのか。余計な真似を! あの能力からしてむかつくのだ、この地の空気にもろに影響されているようで。
絣のことばを聞いてますます心がざわついている気分なのだ。現実もなにも知らないようなガキが、小賢しい、つまらないことばかりを考えて、巫女なんぞに納まっている。それで……
私はここでなにをしている? こんな辺境の郷にまでやってきてなにを?
(……ッ)
この無為な時間!
下唇を切れるほど噛んでいる。そうしたときには無意識にふたりを見下ろすほどの上空へ飛んでいた。
ときどきどうでもよくなるときがある。大切なものでひたひたに溜めた器を、ひっくり返して一気に空っぽにしてしまいたい衝動に憑かれるときが。
そういうときにはなにも抑止力にならない。橙に今度こそ滅せられるわよ、と自分に言い聞かせてみてもそんなのはただのことばにしかならない。ただむかつくのだ。絣のことばを借りれば怒り狂っている。ここにくるまえからここに至ってもうそんなことばかりだ。イラつきももう臨界点だ。
「……“蛇よ、蝮の裔よ、汝ら、いかでゲヘナの刑罰を避け得んや?”」
気がつくと呪文を口ずさんでいる。
「“もし汝の手、汝を躓かせば、これを切り去れ。不具にして命に入るは、両手ありてゲヘナの消えぬ火に往くよりも勝るなり”」
後方に六、足元に三、左右に九、前方に七の魔方陣。
「“淫熱排気”」
爪を避け続ける絣の足元、半径三十メートル大に広大な陣が展開する。絣が気づいたときにはもう遅い。術式は完成し効力の外に逃れるには広すぎる。
「“炎、炎。震えるもの、揺らぐもの。秘密の道をゆき/無情な嘲りにも慣れ果てた/なにも変えられぬ望みなきイメージ/われらが不幸。従順な者どもを燃やせ今こそ”」
焼熱。
真昼よりも白く輝く。夜を貫いて足元から太陽が昇る。絣の影が上方に伸び、茫然として見下ろす。
「え?」
樹木を火が舐める。
魔方陣全体が発火する。空を支える柱のように真っ白な火柱が立ち昇る。月を穿つように伸び、あっという間に絣の小さなからだを呑み込んでしまう。いっとき、鼓膜を破るほどの爆音が世界に満ちる。
サフィが慌てて退避する場所まで眩しく発熱する。熱風がそこらじゅうに渦巻き、枝葉を千切って舞い上がらせる。地獄絵図が具現化する。
火柱は、上空のディーをかすめるようにして上がった。その顔が白く染まるのだ。エプロンも髪もばたばたとはためき、けれどどこか不満な表情のまま、ディーは鼻で笑う。
「どんなに強がっても、これが現実よ。幻想の子供」
火がすべてを焼き尽くす。その手に掴まれればとても逃れ得ぬだろうと思い知らされるほどのものだった。それこそが熱の本質だ。
当たりまえだ、とディーは思う。
自分はこれで同族全部を焼き尽くしてきたのだから。序列もクソも関係ない、何事にも平等な悪魔の火によって。
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