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2025/02/07 22:52 |
(東方)
 闇黒片 ~Chaos lives in everything~
 
 
 
 Stage5 マヨヒガ
 
 
 
 ――愉しいことと気持ちの良いこと



 2/4
 

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 絣が千早について覚えていることはそうない。会話はなかったのだ。わかっているのは弾幕のかたちと、墜落したこちらを一瞥した冷たい眼の色だけだった。
 
 「守矢神社で風祝の見習い、補佐――というより、真似事をしています。母様……早苗様があと千年は現役でいると仰ってますので」
 「はあ」
 
 東風谷早苗は知っている。人里にいたとき、布教活動中に何度か会っているし、霊夢がまだ博麗神社にいたとき、一緒に飲んでいる姿を見たことがある。人間ということだったが、絣の眼にはどう見ても二十歳を越えていないようにしか映らなかった。霊夢とはほとんど母娘のようにしか見えなかった。
 疑問に思って橙に聞いてみてもドリアン・グレイの肖像がどうたかこうだかだの、よく理解できない説明で誤魔化されるばかりだった。
 目のまえの千早にしても、あの日、数年前と変わらぬ容姿だった。彼女は見るからに妖怪であるからそうなのだろうが、だったらどうして早苗が母なのか。人間と妖怪なのに。
 守矢神社のことはよくわからない。人間の信仰よりも妖怪の信仰のほうが強いようだし……
 
 出された茶を挟んで、ふたりは向かい合って正座している。千早は糸目のまま首を巡らせ、全盛期よりいくらかさびれてしまった博麗神社の様子を見て取る。「紡さんは出て行ってしまったと聞きましたが」
 「……はい」硬い声音で絣は答える。「外の、世界に。いまどこでどうしているかはわかりません」
 「噂を聞き及んだとき、こちらの三柱様がた、少し懐しそうでした。羨ましかったのかもしれません。外の世界では存在できず、ここへ渡ってきたので……。神の身ですら、近頃はそう自由でいられないようで」
 「えと、はあ、そうなんですか」
 「今日こちらへ伺ったのは」
 
 千早はことばを切り、湯呑みに手を伸ばす。
 袖のなかから赤黒い鋭利な爪が覗き、絣ははっとするような思いで、少し息を呑む。
 別に不思議なことではない、と思う。神職に就く人間のほうが珍しいご時勢だ。少しまえまでは博麗神社も妖怪の溜まり場だったし、人里に近い命蓮寺の尼など妖怪しかいない。住職も人間を越えて妖怪そのものだ。自分のような者のほうが少数派なのだと思う。
 どきっとしたのは、その爪が以前、自分たちと敵対したからだ。
 
 「妖怪退治の依頼です」
 「え」
 「協力を仰ぎにきたのです」
 
 絣は眼を細める。言っていることはわかる、紅魔湖でも地底でも経験したことだから。が、いくつかの疑問符が浮かび、それが絣を慎重にする。
 仮にも商売敵である自分のところに、この女はなにを持ち込んできたのか。
 絣の表情を見て取り、千早はくすりと微笑む。
 
 「訝しく思われるのも当然かと存じます。まずは話を聞いていただけますでしょうか」
 絣は肘のあたりを揉みながら促す。「どうぞ」 
 「妖怪の山の奥地。六つの尾根筋が一点に連なるところ……われわれが天境線と呼ぶ領域があります。天界と地続きとなっているわけではないのですが、まあ便宜的に。わかりやすく言ってしまえば、パワースポットですね。山塊に宿る霊的な流れが集中しています」
 
 つぅ……と、畳の目を千早の指先が這う。なだらかな稜線のようなカーブを描いて。
 絣はその指先、というより爪の先を見つめる。猫のもののように、弧を描いて鋭利に尖っているのがわかる。先日の、獣の爪よりもっとあからさまな感じがする。記憶にあるものよりも鋭いように思える。それはそこに篭められたものの大きさを、絣自身が察知できるようになっているからなのか。数年前はただ必死で追いすがっていた。
 
 「天狗や、他の妖怪、神々も近寄りません。暗黙の了解でその場を独占しないように決まっているからでもありますが、それ以前に、そこに集う力の質が意思ある者の手に負えるようなものでないこともあるからです。昔、八坂様がなにかに利用できないかと視察しに向かったことがあるのですが、見るより先に早々に諦めてしまわれた。山だけでなく、その遥か下から湧き上がり隆起する岩山帯すべての力が内包され、年々成長さえしている。大陸のプレートそのもののように、生きているのです」
 「生きて……?」
 「活火山のようなものだと考えてください。妖怪の山は死んだ土くれの丘じゃない。意思の有無はともかくとして、活き活きと脈づいた、珪素基系の生物のようなもの。天境線はその心臓部なのです」
 
 絣は眼を細める。人里のなかでも山に程近い場所で生まれ育った絣には、そのことを理解しきれなくとも、なんとなく納得することはできる。そこらの道具にさえ神が宿る世界だ。山それ自体が無機物の生命体めいたものだったとして、それがどう不思議なのか。
 
 「われわれはそこに近づきもしない。それを得ようなどとは考えない。生物ですからね。心を操ろうとする者は心を容易く砕かれる。そっと見守っていくのがいちばんだと、誰もが本能よりも深い部分で理解している」千早の細目がわずかに傾き、絣を捉える。「ここまではわかっていただけましたか?」
 絣は頷く。「はい」
 千早は懐から一枚の写真を取り出す。「これを見てください」
 
 畳の上に置かれたそれを、絣はそっと手に取ってみる。一見、天狗かと思う。黒ずんだ景色のなか、翼らしき部位を背に負い、剥き出しの岩でかたちづくられた稜線上、こちらに右側を向けてうずくまっている人影。鴉天狗? が、それにしては翼の色がおかしい。闇のなかで霞んではいるが、灰色、いやむしろ白に近い……
 
 「三日前の天境線です」と千早。「撮ったのは文々。新聞の射命丸さんです。記事にするまえにこちらへリークしてくれました。彼女の言によると、見たことのない妖怪であったそうです。射命丸さんがそう言うからには、恐らくは幻想入りしてきた者かと思われます」
 絣は言いようのない感覚を憶える。「……あの、それでこの場所にいるってことは――」
 「天境線の力に気づかないわけがありません。ある程度力のある者ならば避けて通るでしょう。力なき者であってもなにかしらの恐怖を感じて近づきもしないところです。赤子さえ、そこに近づけば身を捩って狂ったように泣き出すとされている場所です。故意か事故か。この者は今現在も立ち去らずにここへ居座っています」
 
 絣は写真を食い入るように見つめる。が、遠すぎ、暗すぎ、それ以上はどんな情報を見て取ることもできない。辛うじて判るシルエットは女のようではある、が。
 
 「仮に……」あくまで最悪の場合ですが、と前置きして、「ここの力をある程度吸収しているとしたら、元が並みの妖怪であっても、一時的にであれ大妖に匹敵するほどまで力が膨れ上がっている可能性もあります」
 絣は息を呑む。
 「そうであるとすれば、自意識の崩壊も考えられます。限界を越えて吸い尽くし、暴発するまで居座るかもしれません。あるいはそうではなく、頃合を見て立ち去るかもしれない。元からすでに話の通じない者であるかもしれない。可能性だけならいくらでも考えられますから」
 「それで――」
 「なんであれ危険であることには代わりない。天狗側にしてみれば、社会の構成員を易々と危険に曝すわけにはいかない、天狗だけでなく河童や妖精や、野の神々にしても。そういうわけで、守矢神社にお鉢が回ってきました。
 ですがあいにくと早苗様は別件の異変で異界へ離れてらっしゃる。戻ってくるのは最低でも一週間先です。手遅れになるかもしれない状態でさすがにそこまで待つわけにはいかない」
 「どうするつもりですか」
 「もちろん、なんとかします。八坂様はわたくしに任せてくださった。話が通じなければ退治します。なんらかの事故でそこから逃れられないのであれば救い出します。ですが最悪の事態を想定したとき、わたくしひとりでは恐らく荷が重過ぎる」
 
 写真を持つ絣の手に自分の手を置き、千早は首を軽く傾げてみせる。
 
 「守矢の風祝として、加勢をお願いしたい。博麗の巫女」
 絣はなにか運命の異様な導きを感じる。
 
 
 
 境内の石畳に滑り落ちる赤紫の羽根を見つめている。
 千早は賽銭箱に五円玉と五百円玉を放ると、絣のほうに向き直って頭を下げる。
 
 「では、明日の晩に」
 「え?」絣は驚いて眼を見開く。「ちょ、ちょっと待ってください。明日って満月ですよね? 妖怪がいちばん力を増す時間じゃないですか、どうして――」
 千早は歪に頬を歪め、そこで初めて糸眼をぱっちりと開いてみせる。「わたくしの力がいちばん増す時間でもありますから」
 
 琥珀色の瞳。……が、人間の眼球ではなかった。
 絣はぞっとしたように息を呑む。数年前、墜落した自分を見下ろしていたのと同じ冷たい色の眼がそこにあった。
 千早の眼は、猫の眼そのもののように縦長の瞳孔をしていた。
 
 
 
 絣は胸の上に軽く手を置く。
 どうしてだろう。異様に心臓が高鳴っている。ミケと初めて出会ったあの夜、ここぁに向けて槍を放ったあの午後、歴史を曝け出して獣と対峙したあの夕暮れ、教会の尖塔に巻きつく龍へ踏み込んだ先日――それらとはまた別の感覚がある。
 翼を広げ、鳥居を越えて飛びかける千早の服の裾を慌てて掴む。
 
 「待ってください」声が妙に掠れる。「どうして私なんですか? 私の――」千早が振り返り、糸目が絣を見下ろす。「噂を知らないわけありませんよね。妖怪の山には私なんかよりずっと頼りになるひとがいるんじゃないんですか。どうして」
 千早は軽く眉間に皺を寄せ、なぜそんなことを言われるのかわからないというような顔をする。「そのための巫女であると思うのですが。なにかおかしなところでもありますか?」
 「え、いや……だって、戦力にならないのに」
 「はあ。そうなのですか?」
 「え、ええ?」
 
 困惑顔がふたつ。いっとき、間抜けに見つめあう時間が過ぎる。だって、と絣は弱気に口のなかでことばを転がし、千早の裾から指を離す。刻印された紅と黒の花びらが行き場を失ったように揺らめく。
 
 「私と紡と勘違いしてませんか」絣はようやく言う。「あの日――千早さんと撃ち合ってたのは私じゃありません、出てった紡です。私はすぐに墜ちたじゃないですか。覚えてないかもしれませんけど」
 「覚えてますよ」
 絣はなにか悪意を篭めた嫌がらせであることまで想像する。「……。じゃあ、なんで」
 「……話が噛み合ってないようですね。わたくしが加勢して欲しいと思ったからこうしてきたのですけれど。最初から駄目だと思っていたらきませんよ」
 「私は『零無』で……っ」
 「噂を鵜呑みにしろと? 変なひとですね」
 
 絣はぐっと息を呑む。自信のなさを指摘されたような気がして。
 
 「……わかりました。変なこと言ってすみません」絣はどうにか言う。
 千早は微笑し、一礼して背を向ける。広げた翼に羽根が散る。強い陽射しが降り注ぐなか、その翼は木漏れ日のように柔らかく光を透過し、煙のような影をつくる。羽ばたきが風を捉え、重い音が響くと、千早は一跳びにもう鳥居の上にいる。
 絣はじっと千早が立ち去る様を見つめていた。初めて出会ったとき、撃ち落されて地べたにいたときと同じように。あのときと違うのは、いまの絣には紡がいない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 紅魔館の図書館に、静かな風が吹き込んでいた。
 開け放たれたカーテンが小さく揺れている。掃除のための換気に、埃っぽく、湿っぽい空気が散らされていく。小悪魔は本を抱えて本棚の合間を歩きながら、不意に顔に射しかかった光に眼を細める。そこで初めて掃除中だということに気がつくのだ。けれど、肝心のメイドがどこにいるのか……
 机に本を置く。大量の資料に埋もれるようになっている、自らのグリモワールを引っ張り出す。はかどらない研究に、けれど、結局やれることはひとつしかない。不器用な文章で、白紙を一文字ずつ埋めていく。一文字ずつ、一文字ずつ、近道もなく、道標もなく、一文字ずつ、一文字ずつ。
 
 そこで目の端にひらめくスカートのフリルを捉える。そちらを向くと、モップの柄を肩に置いて抱きかかえるようにしているメイドがひとり。けれど時間が止まったように、身動きひとつしない。
 眉を寄せて近づく。回り込むと、そのメイドがモップを抱えているのではなく、モップに寄りかかっているにすぎないことがわかる。本を開いて、ぼんやりと目を落としているのだ。小悪魔は顔をしかめた。
 
 「ここぁ」
 「ひぇっ」
 
 ここぁは短い赤毛を揺らしてぴょんと跳ね上がる。ばさりと本が落ち、小悪魔はますます不機嫌になる。
 
 「さぼってるんじゃありませんよ。掃除の途中に……カーテンを開けっぱなしのままで。本が傷むでしょう、さっさと終わらせなさい」
 「やーどもども、すいませんねーっと」
 
 ここぁは慌てて本を拾い、背表紙を持って本棚にぐぐっと押し込む。本当にそこにあった本なのかすらわからない。
 小悪魔は威嚇のように鼻を鳴らし、自分の席へ戻る。この新参者はあまり好きではない、と思うのだ。もともと自分の中傷を知らぬところで引き起こしていた張本人である。そのうえで、小さい私、ということでここぁなどと名を与えられ……
 
 「ルビィ」ここぁは唐突に言う。
 「はい?」
 「いや、あたしの本名。この髪の色から。センパイさ、あたしの名前あんまり好きじゃないでしょ? お嬢様からここぁっつわれたときに微妙な顔してたし。だからもしよろしければそっちの名前でお呼びくださいなーってことで」
 「別にそういうんじゃありませんよ、ここぁ」
 「そーお?」
 
 カーテンが閉められ、その一角に薄暗い図書館が戻ってくる。ここぁはそのままぱたぱたと走り回り、次々とカーテンを引いていく。そのたびに光が薄く遮断される。
 小悪魔はペンを置き、ここぁの小さな羽を見つめる。淫魔だろうとされていた犯人は、結局ただの使い魔だった。それも妖精未満程度の魔力しか持たない、召喚と転送魔法だけが取り柄の。恐らくは主のほうが淫魔ということなのだろう。
 同族……というにはあまりにも繋がりが希薄すぎた。小悪魔はもともと群れるタイプの悪魔ではなかった。ひとりで生まれ、ひとりで生き、ひとりで苦悩し、ひとりで彷徨し、ひとりで紅魔館まで辿り着いた。他の悪魔のことなど知らない。淫魔という種族にはそういうところがある。人間の精気を喰らうからこそ、人間に程近く、人間とほとんど変わらぬほど変化してしまった者さえいる。からだを重ねて、喰らうはずだった人間をほんとうに愛してしまうことも……
 
 「淫魔って力つけると本を読みたくなるものなのかねえ」
 またもや唐突な声。呟きにしては大きく、小悪魔は自分に向けられたことばだと気づく。「なんですって?」
 「あたしの――なんだ、主? カーチャン?サマもやたらと読みまくってたからさ。魔道書ばっかりだったけど。怪しげな研究ばっかしてたな、ホントの魔女みたいに。どんなもんだったかとかあたしにはよくわかんないけど」
 「……他人のことは知りません」
 「そーゆーのってあいつだけだと思ってたんだ。でもホラ、センパイもそうでしょ? なに読んでるか知らんけど。あんたで二人目、本読み淫魔。同族って百何人か知ってるけど、あいつとあんただけ。全っ然違うタイプなんだけど、不思議だね」
 
 小悪魔は鼻の頭に親指を置き、痛んでくる脳を押さえる。この女と話してるとどうも疲れる。「無駄なこと言ってないで仕事に戻りなさい。あんまりさぼりすぎてると咲夜様におしおきされますよ」
 「よく言うぜ自分は隠れて主人と乳繰り合ってるくせに」
 「日符『ネガ・ロイヤルフレ――!」
 「あたし今日早番なんでこれで上がりでーっす。オツカレサマーっす!」
 やる気のない敬礼が小悪魔に向けられ、ここぁはそれで出て行ってしまう。
 小悪魔は深く溜息をついて椅子に深く腰かける。
 
 「博麗神社にでも遊びにいこっと。着替えんのめんどくさ、メイド服のまんまでいーや」
 
 
 
 鳥居を見上げ、絣は腕を組む。
 「明日、か……」
 
 満月の晩。魔の者が最も力を増す時間。左手を持ち上げ、その先端に施された花びらの紋様を見る。これももともとは、妖怪の術式だ。自分が使えば心許ないが、それでも満月なら、その力をきちんと発揮してくれることだろう。
 さとりの想起した妹と撃ち合って、わかったこともあるのだ。爪符を主軸として弾幕を考えたとき、浮き彫りになった問題点がある。やっておいて、ほんとうによかったと思う。さとりに改めて感謝する。
 爪符は、フィニッシャーにはならない。
 妹のラストワードと比較するまでもない。素早く放て、擬似毒によって硬直を強いることはできても、それで勝つことができないのだ。威力そのものが微々たるものであり、残機を削ることができない。かといって別の符に繋げるにしても――
 
 (霊符はもっと威力が低いし……槍符は自爆になっちゃうし)
 
 千早にいまさらできませんと言うことはできないし、言う気もない。あの女なら大抵のことは自分でなんとかしそうな気もする、なんといっても幾度も異変を経験しているのだし。けれど、最悪の事態? 一時的にしろ大妖クラス?
 自分にできることなどそうない。分はわきまえているつもりだ。けれどそれは、やらなくてもいいということじゃない。やれることをやる。最善を尽くす。
 
 (黒符じゃないとダメだ)
 
 地底でも練習は続けていた。イメージだけなら完成している。まだ使い物にはならない、このままでは。少なくとも、最低限撃てるくらいには仕上げておきたい。
 もう一度実戦形式の訓練がしたい。爪符からの連携を試しておかなければ。明日までに完璧になるなんて思いもしないが、それでも練習には確かな意味がある。
 最善の練習相手。そんなの考えるまでもなくたったひとりしかいないじゃないか!
 
 (橙さまに見てもらいたい!)
 
 橙ならこの符をもっといい方向へ導いてくれ、問題点を指摘してくれ、思う存分振るわせてくれるに違いない。弾幕とその他諸々すべてに関して、橙に向ける絣の信頼は絶対の領域に達している。ルーミアのこと以外。早速境内を突っ切って縁側に向かう。
 橙は大抵、そのあたりからスキマを使って出てくる。きょろきょろと探すと、あった。ほのかに黒ずんだ赤、血のような色の空間の断裂。そっと近づいて囁いてみる。
 
 「こ、こんにちはー」
 
 ぎゅん、と変てこな音を立ててスキマが割れる。なかから夥しい数の眼が覗き、絣は驚いて仰け反る。けれど何度か橙に引っ張られて立ち入ってる場所だ、驚きはあれどいまさら恐怖はない。
 絣はスキマに足を踏み入れた。
 
 
 
 「やめた」淫魔は雑巾を放り捨てた。「アホらし……こんなことしてなんになるってのよ。明日にはまた埃だらけになってるのに」
 
 マヨヒガ。主はいない。淫魔は縁側までくると、腕を投げ出すようにして座り込み、濃淡明暗折り重なった緑の風景を眺めた。庭はない。取っ払われた塀から、境界もなく山に繋がっている。
 強い陽射しが、樹木、草叢、藪の緑をきらきらと輝かせていた。長い年月に曝されたエメラルドのように。濃厚な草の香りが漂ってきて、淫魔は思わず眼を閉じて深呼吸していた。光に、瞼の裏も白かった。
 
 「平和ねえ……」肩の力をすっと抜いて溜息ひとつ。「くっそ」
 
 橙のいないマヨヒガは居心地が良かった。そう、橙さえいなければ。あとルーミアさえこなければ。ついでにそのへんの家事を片っ端から片付けておいてくれるあのチェーンスモーカーの娘さえいれば。いまどこでなにしてるんだか。紅魔館に連れ去られてから、連絡も取れやしない。
 いつもの作務衣に、ピンクのフリル付きエプロンの格好だった。いや、それが『いつもの』みたいなことになっているのがひどく苦しかった。ドレスもボンテージともおさらばしてしまい、誰がどう見たって淫魔に見えやしない。セックスだってしてない。これはかなりまずい。フー・アム・アイにウェア・アム・アイ。私の心はボロボロだ!
 
 「橙をどうにかしなきゃ、どうしようもないのよ……」
 
 いっそなにかの間違いでルーミアに喰われてくれないか。性的な意味でなく。
 いくつか作戦を考えてみて、片っ端から却下。だって成功する気がしないのだ。唯一可能性のありそうなのがあの弟子、弱っちい巫女を人質に取ったり篭絡したり、いっそもうなんかこう××××で○○○○で(ピー)なことにしてしまうとかだが、実際爆弾仕込みのあの娘を使って人質にして、どうなった? なにを話す間もなく一撃で吹っ飛ばされて終わってしまった。おかしいだろ。口上くらい述べさせて。言論の自由をよこせよ。
 やつが境界を突破する能力めいたものを持っている限り、なにしたって無駄な気がする。勝てない。逃げられる気がしない。
 
 もうだめだぁ。おしまいだぁ。しょぼくれた顔になってがっくり頭をうなだれると、ガタン! となにかが落ちたような音がして、びくりと五センチほど跳ね上がる。慌てて立ち上がって音源へ向かう。
 橙もルーミアもイヤ。びくびくしながら足音を忍ばせ、柱の影に隠れたりして、はっと我に還ってチックショウ! この私がなんてザマよ! こうなりゃヤケクソとばかりに精神状態が一回転して逆に足音高くだんだんと響かせて胸をグッと反らせて堂々と向かう。
 
 堂々としていてよかったと思う。
 次元移動の衝撃で頭がぐるぐる、絣は盛大にすっこけて顔面から床に激突した。すんすん鼻を鳴らし、どうにかして立ち直ると、淫魔と思いっきり目が合ったのだった。
 
 
 
 「おお? ここぁじゃないか。最近よく会うな!」
 「おーっす、ミケ。絣いる?」
 「いや、地底からは帰ってきたみたいなんだけど、なんかまたどっか行ったみたいだ」
 「あれ、残念。なんか縁ないなー」
 
 ここぁは賽銭箱に座り、膝を組んでぼんやりと空を見上げ、煙草をくゆらせた。風のない昼過ぎ。紫煙はレンズのように薄く広まる雲を目指して揺らいでいった。
 タダ働きの身に喜捨するような銭はない。賽銭箱は椅子にしかならず、一応悪魔の末席だから罰当たりも怖れない。適当に鈴の緒を引いておいた。がらがらと、重い音が頭上で響いた。
 
 「仕事はどうしたんだよ?」とミケ。
 「今日は早番でもう上がりー。明日は遅番だからゆっくりしてこうと思ってたんだけどな……」
 「じゃあ絣が帰ってくるまで一杯やっとこうぜ。まだ陽も沈んでないけど」
 「お酒あんまり強くないんだよね。それでもいいなら付き合うよ。それより煙草カートンで吸っときたい。喫煙室さえあれば紅魔館最高に居心地いいんだけど」
 
 とぽとぽと、安物の焼酎が注がれた。博麗神社の備品である、許可はない。お神酒かもしれない。銚子を置き、ミケは賽銭箱に背をもたれて杯を手渡した。ここぁは煙草をくわえたまま受け取った。
 
 「乾杯。えーと、友情に」
 ミケはにやにやしながら応じた。「おうおう」
 「あと故郷に」
 「どこだ?」
 「カリフォルニア」
 「冗談だろ」
 「まあそのへんってことにしといてよ。あんたはここ?」
 「生まれも育ちも博麗神社の裏だぜ」
 「狛犬みたいだね」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 あらゆる厭な思いが湧き上がり、淫魔は腰に手をついて絣を見下ろし、ほとんど睨むような眼つきをした。「なによ」
 絣はきょろきょろとあたりを見回した。マヨヒガであることは間違いなさそうだった、橙が以前、ただの荷物持ちだと称した女がそこにいたから。なんだかんだで、立ち入るのは初めてだ。少し緊張するような思いで、ぱっと立ち上がって頭を下げた。「こんにちは!」
 
 思えばそもそもこのちっぽけな巫女に関わってからおかしくなってきたのだ。正確にはこいつの師にだが。あのなんかおかしな槍が大爆発してから。なんだかもうとにかくこいつのせいだ。淫魔はそう決めつけてしまった。
 ぷいと顔を背けてすたすたと立ち去る。挨拶も返さぬままに、放っておく。
 絣はちょっと出鼻をくじかれたように怯み、けれども別に嫌われる覚えはないので後に続く。
 山の陽射しが、柔らかくあたりを包んでいる。絣は眼を細め、縁側から見える緑の情景を見やった。博麗神社ともまた違う、むせかえるような、自然の、野生の香りだ。橙はこういうところに住んでいるのかと、腑に落ちるような思いだ。柱の影にすっと入り込むと、そこで淫魔が振り返った。
 
 「ねえ、ちょっと、ついてこないでくれる?」
 「あ、はい。すみません。あの、橙さまはいらっしゃいますか?」
 「ルーミアとどっか行った」
 「えっ」
 「デートだそうよ。知るか。朝帰りにでもなるんじゃないの」
 「ええー……」
 
 トンと固いもので胸を衝かれたような心地がして、絣はむーっと唸って俯き、両手でスカートのへりを掴むようにした。じわじわと、胸の内側がいやな感じがする。よりにもよっていちばんいて欲しかったときに。ルーミアが。
 嫉妬だと自分でわかっているので、ますますいやな感じだ。そういう謂れはないと、ちゃんとわかってる。橙はルーミアとアレな関係。ぐぬぬ。
 どうしてもひとつの考えが湧き上がってくるのを止められない。橙をとられた。ルーミアにとられた。橙をルーミアにとられた。うー。むー。うー。にゃー。自分でも思いがけず強いショックを受けてしまったようで、絣は少し目許を赤くして頭をぐるぐるさせる。というかショックを受けたこと自体がショックだ。
 
 「ちょ、ちょっと泣くんじゃないわよ」淫魔は反射的に声をかけてしまい、かけてから悪魔がなに言ってんだ私と自分を罵る。「もう、違う、違う。勝手に泣き喚いてろ、ガキ」
 「泣いてないですよっ」
 
 フーッ、フーッ、と猫の威嚇のような声を歯の隙間から吐き出し、絣は自らの心を押し潰す。理屈はわかっているんだって。橙だってきっと嬉しいに違いない、そんな様子はおくびにも出さないが、封印されていたということは、ずっとルーミアに会えなかったのだ。久し振りに会えて、ほんとうはもっとずっと一緒にいたいはずなのだ。なんかこうあんなこととかこんなこととかよくわからないけれどとにかくアレだアレ、そうに決まってる。恋人、結婚、夫婦、そんな単語が脳内を巡り巡る。同棲、妊娠、出産、子供、え、やだなにそれうええええええええ
 
 「ふんぬーっ!!」
 
 そこの柱に思いっきり頭突きをかました。みしみしとしなる屋敷。全身全霊を以って放たれる渾身の一撃は人里の寺子屋に通った者たち共通の秘伝奥義だ。特に絣はそのなかでも被頭突き回数は妹に次いで多く、歴代の序列において第三位である、らしい。というか完全に妹のとばっちりである。顔が同じだから間違えられまくった。
 よし、落ち着いた。
 淫魔は唖然として絣の額から噴き上がる煙を見ていた。
 
 
 
 淫魔はさっさとこいつを帰らせようと思った。下手に手を出して橙の逆鱗に触れるのは避けたい。いまはとにかく機を窺うべきであって攻めるのは後回しだ。
 「わかった? 橙はいないの。なにしにきたんだか知らないけど――」
 「弾幕を見ていただこうと思って」
 「あっそ。残念だったわねもう帰んなさい。私は忙しいの。あんたの相手をしてる暇はない」
 「あっ、なにかお手伝いできることありますか!? 橙さまにはとてもとてもお世話になってるので少しでも恩返ししたいです!」
 「だから帰れと――」
 「お掃除中だったんですね! 助太刀いたしますっ!」
 
 なにを言う間もない。廊下の木板を伝い、絣の姿はすぐに見えなくなってしまう。
 淫魔はぐっと怒りを堪え、ふいと踵を返して絣の行ったほうとは反対側に向かう。顔を合わせたくない、かちんときて焼き尽くしてしまいそうだ。親指の爪を噛みながら、髪をまとめていた三角巾を解き、エプロンのポケットに突っ込む。
 橙の書斎へゆく。
 やつが留守のチャンスを逃すわけにはいかない。とにかくなにか突破口を――例えばあのワケわかんない能力の秘密とか――探るのだ。弱点。猫は水に弱いと相場が決まっているがやつはどうも平気のようだ。マタタビとかは? 好んでがんがん酒飲みまくってるやつをまた酔わせてどうするんだ。
 
 襖を開く。相変わらず本棚でびっしりと埋まり、空間まで捻じ曲がっている。勉強熱心なのだろう。それでも獣か。
 ささっと本棚を探る。なにか重要そうなもの。勘に任せて開いてみると、グリモワールだ。これは当たりか! が、ささっと斜め読みしてそっと戻してしまった。絶望ばかりが押し寄せてくる……誰の弾幕よマジふざけんな……。ファンタズムか。ファンタズムなのか。
 他の本はといえば、別になんでもない、貴重ではあるが普遍的な知識の書ばかりだ。確かに垂涎ものではあるが、橙の秘密にはとても繋がりそうもない。
 
 (しかしくそ、羨ましいわね、なんだってこんな有用な書物ばっかり)
 
 幻想郷の歴史を記した、外の世界ではまずお目にかかれないだろう本もある。これはこれで読むべきものだ、なんといっても自分はまだこの世界のことをなにもわかっていないのだから。著者は? 漢字はいまいち読めないが、上白なんとか音。なんとか田阿なんとか。共著。辞書よこせ。あらこれかしら。著者八雲紫。この名前さっきも見なかった?
 そこでいきなり背後の襖が開く。白い巨大な塊がぬっと敷居をまたぐ。
 
 「よいしょーっ」
 「ひいっ布団のお化け!?」
 「私です絣です。お天気いいんでお布団干そうと思って! ここのも回収していきますね」
 「こんな時間から!?」
 「まだ陽が沈むには充分ありますよ!」
 なんと器用な娘か。両手が完全に塞がっているのにいったいなにをどうやったのかさらに橙の分を持ち上げてよろよろと出ていく。本人の五倍くらい大きな荷物背負ってどうして動けるのか、淫魔にはまったく理解できない。
 
 不意に懐かしい感覚が訪れ、淫魔は眼を細める。
 ルビィ――あのチェーンスモーカーの娘――自分が創り出したとも思えないあの下等な女も、家事になるとやたらと張り切っていたっけ。こっちは研究中だというのに構わずそこらじゅう掃除しまくって、気がつくと研究室が真っ白になっていた。資料は整然とまとめられ、器具はすっかり片付けられ、逆に不便なくらい。一日三食おやつつきの食事。外出もしてないのに毎日の風呂。まるでメイドのように……
 
 『ごめん――』
 「っ……!」
 不快な記憶が蘇り、淫魔は顔をしかめて額を覆った。
 開いていた本を閉じて棚に突っ込む。巫女をとにかくなんとかしないと、集中できそうにない。せっかく橙の神出鬼没を怖れずマヨヒガを探るチャンスだというのに、台無しだ。後で告げ口されても困る。スキマに突っ込めば、あとはスキマのほうで送ってくれるだろう――
 
 廊下に出て驚愕した。
 「もうすでに雑巾がけまで終わってる……だと……!?」
 
 別れて十分経ってるかといったところなのに。ここの間取りだってわかってないはずなのに? 布団を持ってったのは雑巾がけの後? 自分でずっと掃除していたからわかる、このマヨヒガの広さはそんな生易しいものじゃないはず――
 縁側から、庭。遅すぎるとばかりにシーツの眩しい白がずらりと並ぶ! 振り返って屋根を見上げると、瓦のように敷かれた布団たちが日光を浴びてぱんぱんに膨らんでいる!
 
 「な――なんなの、このスピード――」
 
 はっとして浴室に向かう。まさか。まさか。そのまさかだった。絣はすでにいない、が、なぜか洋風の浴室はタイルの一枚一枚に至るまでぴかぴかに光を反射し眼が眩むほどだ。さすがに湯は張っていないが、いつでもどうぞとばかりに釜に薪が完璧なフォーメーションで組んである。風通しはよく、焚きつけに火種を放れば一瞬で燃え上がるだろう、そんなイメージまで浮かぶ代物だ。
 巫女はどこに!? 姿さえ見えない。淫魔が通るところで手がかけられていない場所が存在しない。先回りして掃除しているのではないかと思えるほど隙がない!
 寝室。いきなり見知らぬ女が寝ていてびびる。
 
 「誰!?」
 「ん、ふぁ――あら、橙じゃないの?……ごめんなさい、お邪魔してるわ、もう少し寝かせておいて……ほんとうに……うぅ、私の唯一の平穏の地――」
 「紫様なにしてんですか帰りますよ橙に迷惑かけちゃだめです」
 「いやああああああけだものおおおおおおお――……」
 
 淫魔は唖然とする。「なんだったんだ……」
 
 
 
 淫魔はようやく絣を見つける。玄関から門に至るまでのあいだ、飛び石を竹箒で掃いていた。こちらを認めるとそこで振り返り、埃だらけになった顔でにっこり笑う。
 
 「お疲れ様ですっ!」
 「……。あー、うん。お疲れ……」
 「あ、そろそろお布団しまわないと! ここお願いしますねっ、あと適当にささっとやって終わりですから!」
 
 竹箒を淫魔に押しつけ、地を蹴って屋根に飛び上がる。淫魔は茫然とその様を見上げている。
 巫女でなくメイドのほうが向いてるんじゃないの、と溜息とともに思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「仕事は慣れたかい」
 「まね。楽しいよ。もともと家事ならずっと一緒にやってたからね……。上司はめちゃくちゃ怖いけど。聞いてくれる? このまえさー、隠れて煙草吸おうと思ってくわえたらさ、ナイフの刃先噛んでたのよいつの間にか。やべえってあのメイド長。悪魔より怖い人間とかなんなん?」
 「幻想郷の常識だぜ。昔はもっとやばかった、メイド長だけじゃなくて巫女ふたりに魔法使いにって」
 
 陽が沈みかけ、茜色の強い光が境内を輝かせている。この時期特有の、世界全体が霞むような、うつくしい空気だ。鳥居は夕焼けを背負い、巨人の足のように真っ黒な影を落としている。
 賽銭箱のまえにふたりはいる。ミケは次々と銚子を空にし、ここぁは煙草をすぱすぱ吸い続けている。風が静かで、穏やかな時間だ。
 
 「でも、気持ちのいい連中だよ。女ばっかなのに、陰湿ないじめとかないんだよね。気に食わないことあったらすぐに爆発させるんだもん。今日もさ、ここくるまえにちと挑発してみたけど、危うく図書館まるっと吹っ飛ぶとこだった」
 「なにしてんだ」
 「気に入りそうなやついるとついちょっかいだしちゃうの。ベースが淫魔だからさ」
 「……おまえってさー、橙のとこにいる女と瓜ふたつだよな。なんか関係あるのか?」
 「え、もしかしてあいつ橙サンのとこにいるわけ? うわー知らんかった。なんだ心配してたけど杞憂だったんだ。よかったよかった」
 
 ここぁははにかんだように微笑む。煙草を挟んだ指がすっと落ち、ゆるく紫煙を震わせる。
 母とも姉とも思ってるよ、とここぁは恥ずかしそうに言う。酒が少し入っているせいか、首の根までほのかに赤らんでいる。ま、向こうはただの厄介者としか思ってないだろうけどね。召喚と転送以外に取り得がないからさ。
 
 「カーチャンなのか?」
 「うんにゃ。あたしあいつの魔法で産まれたの。妊娠してー出産してーじゃなくて、そういう能力。不思議だよ、そういう風にして出てきたのに、こうして他の誰かと大して変わらない生き方してる。いや、あたしにわかんないだけで他人から見たら欠陥だらけかもしれないけどね」
 「普通の女にしか見えないぜ」
 「ほんとに? うれしいな」
 
 ここぁはくすくすと声を立てて笑う。
 賽銭箱に背を預け、軽く首を傾げ、こめかみのあたりをその空っぽの箱の壁に押しつけるようにしている。緩く眼を伏せ、酔いの軽い揺れに身を任すように。煙草の先で、ちりちりと、よく調教された火が赤熱している。
 そのようにしているここぁの顔は、ミケにさえ唐突にぞくっとくるほど儚く整っている。淫魔ベースというのがなんの障害もなく納得してしまうように思える。ミケはどちらかといえば、そういう感覚には疎いほうなのだが。
 
 沈黙を挟む。
 ここぁは時折、額に指を置いて少しばかり首を振り、苦しげな吐息をつく。酒に弱いというのは、ほんとうなのだろう。長い睫毛の下で、もう瞳の輪郭はぼやけている。吐息とともに、ほんのかすかに濡れた歯が白く覗く。
 煙草をくわえると、いっとき、それで生気を得たように視線がはっきりする。すぐ隣で賽銭箱に腰かけるミケを見上げ、思い出したように銚子を傾ける。
 
 「ごめんね。誰かと飲んだことあんまりないからさ、気が利かなくて」
 「気にすんな、どうせ野良猫だよ。勝手にやってるぜ」
 「暗くなっちゃうね」西の空へ眼を向けて、金色の光が徐々に消えていくのを見ながら――「どうする? 絣帰ってこないけど、神社のなか入っちゃう?」
 「外のほうがいいなあ、あったかいし」
 「あんたの眼の色は沈むまえのお日様みたいね」
 「へっ」唐突な言にミケはつんのめる。「い、いきなりなんだよ。ミケさん口説いたってなんにも出ないぜ」
 「思ったこと言っただけなんだけど」
 「こわいな、おい。こわいこわい」
 
 ミケは眼を背けて一息に杯を呷る。
 
 
 
 なんでこのひとここぁさんにそっくりなのかなー、と絣は淫魔を見ながら思う。
 食卓。絣が勢いに任せてつくった夕食を、無駄にしてしまうわけにはいかなかった。淫魔は内心忌々しく思いながら絣と向き合うかたちで座っている。正座など故郷の慣習になかったので、ちょこんと膝を立てて、体育座りの姿勢だ。窮屈そうに身を縮めながら箸を不器用に運ぶ。
 和食である。白いごはんと味噌汁は当然として、豚肉のしょうが焼きに、氷水にくぐらせてパリッとさせたレタスを添え、網で照り焼きにしたつやつやの鮭。薄く塩漬けしただけのシンプルなキュウリは優しく口内をリセットしてくれる。余っていた野菜を片っ端から千切りにして炒め、溶いた卵に閉じ込めてふっくらさせた千草焼きは、きれいに四角い一口大に切ってある。
 台所に残っていた食材をぱっと見ただけでどうしてここまでつくれるのよ、と淫魔は箸を噛みながら苛立つ気分だ。
 
 「あんたいつまでここにいんの? どうせ橙帰ってこないわよ。たぶん」
 「えーっと、どうしましょう。うーん、あ。お名前まだ聞いてませんでしたよね?」
 「うるさい。こんなとこに居座ってていいわけ? 神社に誰もいないんじゃないの、留守にしてるあいだに襲撃されてても知らないわよ」
 「そうだ。地底へ行ってるあいだ、お留守番しててくれたんですよね? ありがとうございます! ミケには会いました? ルーミアとか大丈夫でしたか?」
 「おもいだしたくない」
 「荷物持ちさん?」
 「なんですって? てめーこら私をなんだと思ってるの!? 失礼にも程があるじゃない!?」
 「だっだって橙さまが荷物持ちだって! ヤならお名前教えてくださいよ!」
 
 屈辱だわああまったく百年ものの恥辱だわと、淫魔はますます箸を強く噛みながらぎりぎりと歯軋りする。箸の先端がぽきっと折れた。この私がッ序列最上位としてコミュニティを創設し束ねていたこの私がッよりにもよってこんなちっぽけな小娘と同列の席でッこんな舐めた口をッ。橙さえいなければこんなやつ軽く一蹴してやれるのにッ。
 
 「実は」絣は椀と箸を置き、膝に手をついて軽く顔を伏せる。「明日の晩、大変そうなお仕事に出なきゃならなくなって。詳しい事情はまだよくわからないんですけど、もしかしたら大妖クラスと撃ち合うことになるかもしれない、って。緊張してるんです。あんまり眠れそうになくて、帰っても仕方ないんです。橙さまに弾幕を相手していただければ、解れるかなって思ってたんですけど」
 「知るか。けっ」
 「あ、おみおつけおかわりどうですか? ごはんもまだありますよ!」
 
 勝手によそわれたので一睨みしてかっこんだ。
 食べ終わると食器をがちゃがちゃさせて流し場へ。私がやっときますよ! と絣がない袖をめくったので風呂に入ってしまうことにした。もう湯は張ってあり、浴槽の蓋を持ち上げると待ち侘びたように湯気が噴き出てきた。
 まったくやってらんねーわ! と小さな浴室に声が反響した。
 そう長い時間浸かってたわけじゃないのに、もう洗い物は終わっていた。きれいに水気を拭われた食器がぴかぴかと蛍光灯の光を反射していた。ここの電気はどこから届いてきてるのだろう。疑問に思ってもきりがないので放っておく。
 絣の姿は見えなかった。
 諦めて帰ったかしら。ふんと鼻を鳴らして寝室へ。布団がきっちり敷いてあってびびる。なにか罠でも仕掛けられているんじゃないかと疑心暗鬼になって爪先で毛布をつんつん。なにもなし。
 
 毛布の上に身を投げ出した。
 まだ眠るつもりはないが、眼を閉じると、遠くから鈴のような虫の鳴き声。リーン、リーン、と、ノスタルジックな感覚を呼び覚ます静かな夜だった。もやもやした胸を抱えるように寝転がり、横向きになって暗がりを睨む。
 のんびりした時間がやってくる。
 
 (はあ)
 
 心のなかで溜息を打つ。
 思いがけず平穏を得てしまっているのが忌々しい。現実は憎い橙に使い魔扱いされ、ルーミアの襲撃に怯える日々のはずであるのに。世界を手にするという目的を阻まれ、望まぬ生活を送らされているはずなのに。
 ……このままでもいいか、なんて思いたくもない。
 結局、私はどうしたいのか。どうすればいいのか。そのイメージが。
 
 
 
 不意に暗い部屋がぱっと白み、淫魔は眼を細める。
 なに? と思う間もなく、また障子の向こう側に光が走る。
 上半身を起こし、もう一度くるまで待つ。三度目の発光とともに立ち上がる。障子を開く。
 
 「――ふん。熱心だこと。大した力もないくせに」
 
 柱にもたれ、腕を組んで夜を見上げる。
 満月直前の強い月に、星々のささやかな輝きは完全に喰われてしまっていた。藍色の闇空。雲ひとつない黒をバックに、小さな巫女が飛んでいる。赤い衣をはためかせながら、魔女の猫のように。左腕全体から肩を伝い頬に至るまで、花びらのような、抽象化した炎のような、紅と黒の紋様が暗く輝いている。そこだけが浮き上がるようになっており、眼に鮮やかな軌跡を残す。
 爪状の弾幕が何度も振るわれる。闇夜を薙ぎ払う。淫魔には、初めて見るスペルだ。あの日、紅魔湖畔で触手を撃滅した槍ではない。槍ほどの爆発力はないが、鋭く、地に足を踏み締めているような落ち着きを感じた。
 しゃん、しゃん、と、撃つたびに祭囃子のような音が響く。
 
 架空の相手を想像し、撃ち合っているのだろう。絣のからだは見えない弾幕をかわし、回り込み、踏み込み、向かっている。爪が何度も宙を穿つ。
 その表情は真剣そのものだ。家事に奔走していたときの笑顔ではない。笑みなどかけらもない。よくもまあ同じ人間がこんなにも違う表情をつくれるものだと思う。戦意に満ちた歪んだ顔。少女らしい可愛げなんてどこにもない、ひどく醜い、皺の寄った獣の顔。
 
 撃つたびに顔が歪むのだ。悔しく、憎らしいかのように。淫魔には、その心の内がはっきりと読めた。それは普遍的な心情だった。届かない理想と現実。打ちのめされながらも、また走り出す。そうするしか知らないから。近道なんか誰も教えてくれないから。
 (なんでそうやって自分から苦痛を求めるような真似をするのか)
 ぎりっと親指の爪を噛んで思う。そんな面倒なことなんかせず、愉しいことと気持ち良いことに身を浸していればいいものを……
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2012/06/30 21:02 | Comments(0) | 東方ss(長)

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