一話目はこちら
オリジナル。登山ss。ss? 登山小説。
ここでひとまず一区切り。
だが序章だ。
というかこれは完結するような話ではないな……
日常やひとつの山行をぽつぽつと書いて、その都度実験的な試みを加えられたらいいなと思う。
思うだけでできるとは限らないけんども。
「役割」の話。
物語の登場人物としてヒーローとヒロインがいるとビシッとストーリーになるけれど、私が書くとヒロインは暴れ始めるしヒーローもだが女だ。
書きたい役割で言えばむしろ「乙女」「獣」「淫魔」に当てはめるとうまく物語が回る。
淫魔が高笑いしながら引っ掻き回して、獣が叫びながらますますぐちゃぐちゃにして、そこに放り込まれた乙女が泣きながら必死こいて落としどころを探す。
あくまで「役割」なので実際の種族とは関係ありませんがな。むしろ絣が獣で獣が淫魔で淫魔が乙女だ。
ややこしいので別のことばに言い換えると「蝙蝠」「狼」「霧」あたりで、三点のパワーバランスが一致すると「姉」が生まれる(余計にわかり辛い
逆に言えば「姉」はどの役割もこなしてくれるのでマジ姉。
登場人物が多くなっても基本はこれだ。乙女度70%獣度30%でコイツ、とかそういう考え方。
基本でしかないし内面の話だから、さらにその上に「皮」が張るわけで、しかも物語が進むにつれて変遷したりするので、こういう考え方はあんまり役に立たない気がする。
むしろ書き上げた後でそういう視点から見直す用。
……うむなんだかよくわからん。小説は深いぜ(逃避
一区切りしたので闇黒片書くぜ!
そっちも次で一区切りなので、そうしたら少し充電期間に入る、かもしれんがよくわかりません。
夜伽に書きたいもの書き尽くした感あるようでやっぱりかなすわとか書いてないしのう……登山ものも書きたいし……
オリジナル。登山ss。ss? 登山小説。
ここでひとまず一区切り。
だが序章だ。
というかこれは完結するような話ではないな……
日常やひとつの山行をぽつぽつと書いて、その都度実験的な試みを加えられたらいいなと思う。
思うだけでできるとは限らないけんども。
「役割」の話。
物語の登場人物としてヒーローとヒロインがいるとビシッとストーリーになるけれど、私が書くとヒロインは暴れ始めるしヒーローもだが女だ。
書きたい役割で言えばむしろ「乙女」「獣」「淫魔」に当てはめるとうまく物語が回る。
淫魔が高笑いしながら引っ掻き回して、獣が叫びながらますますぐちゃぐちゃにして、そこに放り込まれた乙女が泣きながら必死こいて落としどころを探す。
あくまで「役割」なので実際の種族とは関係ありませんがな。むしろ絣が獣で獣が淫魔で淫魔が乙女だ。
ややこしいので別のことばに言い換えると「蝙蝠」「狼」「霧」あたりで、三点のパワーバランスが一致すると「姉」が生まれる(余計にわかり辛い
逆に言えば「姉」はどの役割もこなしてくれるのでマジ姉。
登場人物が多くなっても基本はこれだ。乙女度70%獣度30%でコイツ、とかそういう考え方。
基本でしかないし内面の話だから、さらにその上に「皮」が張るわけで、しかも物語が進むにつれて変遷したりするので、こういう考え方はあんまり役に立たない気がする。
むしろ書き上げた後でそういう視点から見直す用。
……うむなんだかよくわからん。小説は深いぜ(逃避
一区切りしたので闇黒片書くぜ!
そっちも次で一区切りなので、そうしたら少し充電期間に入る、かもしれんがよくわかりません。
夜伽に書きたいもの書き尽くした感あるようでやっぱりかなすわとか書いてないしのう……登山ものも書きたいし……
「あんたが先頭で行きなさい。自分のペースで大丈夫だから」
「はい」
「あたしがいるってことはもう忘れちゃってもいいよ。休憩は一時間ごとだけど、いい場所があったらそこで休も。時間はあるからゆっくりね」
空は他になにか言うことがないか思案する。歳若いパートナーを見つめ、そのぶっきらぼうな無表情に少し途方に暮れてしまう。ただでさえ、子供の扱いなどまったくわからないのに、天見ときたら気持ちを表情に出してくれさえしないのだ。
姫川陽子は――天見の母親は――看護師だからなのか、率直に素直に会話を押し進め、さばさばしたところのある、話しやすい相手だったのだが。もっともこちらは患者だったから、営業的な対応が多々にあったのだろうが……
「あんたは父親似?」
「は?」
空は苦笑する。「ン……いや、別になんでもいいね」
そう、なんでもいいことだ。
物心ついたときから、あるいは登り始めた幼いあの日から、何事も最初の一歩はどきどきしてくるような感覚がある。足の先が沸き立ち、血管の芯から粟立つような、奇妙な感覚だ。味わうように眼を閉じて、懐かしい記憶を、順繰りに思い出していく。瞼の裏で柔らかなシーンの静止画像が、そのときどきの感情を伴って、断片的ながらもカチカチと音を立てて入れ替わっていく。
別段大したことのない、ハイキング程度の山なのに。歩いてゆき、歩いて帰ってくるだけの、単調で面白みに乏しい山行であるはずなのに。
(あたしもいい加減懲りない女だね)
浮かれて、いっとき、天見のことを忘れかけた。
慌てて現在時制に戻り、じっとこちらを見つめたままの天見と向き合う。あたしが楽しんでどうするんだ。そうではなく、今日は彼女のための山行なのだ。今日のあたしに課題があるとすれば、天見のことを忘れてはならないという一点に尽きる。
アスファルトの道の先、稜線の周辺だけが辛うじて白い景色を指差して、「じゃ、行こ」
「はい」
天見は顎を上げるようにして前を見やった。……登るのはあの日以来だ。
冬休み。いや、登校拒否の身にしてみれば休みも平日も変わりなかったのだが、とにかく、クリスマス・イヴの夜。
その頃、姫川家の空気は最悪以下の最悪まで落ち込んでいて、息をするのも憚られるような、際どい感情の糸が親子三人のあいだに張り詰めていた。
真面目な、月並みな少女でしかなかった天見が「裏返って」から、真面目な、月並みな家族としての肖像が崩れ去った。残っていたのは、娘の考えていることがなにひとつ理解できない母親と、理解できない母親を無言で責める父親、笑う努力を完全に放棄した娘だけだった。
一皮剥けば大概こんなものだと、天見はひどく白けたような眼で周りを見るようになった。
現代社会に対する鬱屈とした感情、などという大したものではない。ただばかばかしくなっただけだ。
なにに責任を押しつけるつもりもなかった。どうせ私が悪いのだろうと思っていた。
私が悪いのならそれでいいよ。正しくなろうとも思わない。放っておいて。
クラスメイトを殴りつけたときの感情が、澱となって胸の奥底に沈殿していた。いや、感情というよりは、単なる衝動に近かった。怒りとか哀しみとか、そういうものではなく、ただ機械のように、動くままに動いたという感覚だった。
無色透明の……
誰かと話す機会がめっきり減って、代わりに、自分の最奥を見つめることが多くなった。部屋の隅に座り込んで薄く眼を閉じ、あのときの行いをじっくり思い返し、考え続ける。できるだけ客観の位置から見直そうと努める。
さぞかし突飛で、乱暴に見えただろうな、と思う。誰もまさか、私があんなことをするなんて思いもしなかったに違いない。
私がどういう人間なのか。
丁度いい機会だから、それを知っておこうと思った。知ることができるかどうかは別として。
何度も自分を思い返して、再認識する、その「作業」に没頭した。
学校以外に思うこともなく、随分とまあ薄っぺらい女だと、呆れもした。私の世界はこれしかないのか。それで結局、私は私の世界を自分から壊して――
「天見。はやいはやい」
いきなり後ろから両肩を掴まれて、驚いて現在時制に戻ってきた。
ザックが重くて、振り返るのも億劫だったけれど、空の顔が苦笑混じりに私を見下ろしていて、我に還った。
「もっとゆっくり歩きなさい。まだ自分のペースもわかってないんだろうけど、いいかい、ゆっくりだ。一歩ずつ」
「……はあ」
「はやく歩きたくなるのはわかるけど、そうすると汗をかくだろ。で、汗をかくとそこから冷えて、ものすごく寒くなるんだ。人間のからだはそれを温めようとしてたくさんのエネルギーを使う。それで結局すぐにバテる。ゆっくりと歩くよりずっと遅くなる。いいことなんかなんにもない」
噛んで含むように、空は当たりまえの理屈を口にする。
私は咄嗟に言い返そうとしている自分に気づいた。全然はやく歩いているつもりなんかない。いつもと同じように、普通の感覚で歩いているだけだと。でもそれを口にするまえに、そうなのかもしれないと思い直して、なんとか頷いた。「はい」
「後ろにあたしがいるってのも忘れな。遅く進んで、あたしに悪いかもしれないとか、そういうのは絶対に思っちゃいけない。周りの風景をじっくり見渡して、楽しむくらいのつもりでなきゃ。ビスターリ、ビスターリ、ってね」
「ビス……?」
「ネパールのことばで『ゆっくりと』って意味。まえにシェルパが教えてくれたんだ」
せっかちなお客さんをなだめるために、何度も口にするんだってさ。と、空は穏やかに眼を細めて言う。
肩を離されて、私はまた歩き始める。
車道を逸れて、簡単に舗装された山道に入る。樹木の色に取り込まれて、匂いが濃い。使われているのかわからない、陶芸工房の脇を通る。ややあって、舗装が途切れる。踏み固められた土の道になる。
ゆっくりと……
自分のからだにそう命令するのは辛かった。普通に歩くほうが楽なんじゃないかと、疑わしく思う。
からだの感覚をなぞる。背中で、ザックがうるさく自己主張している。空のザックだから、微妙にサイズが合ってない。チェストベルトをしていると、余計に肩に食い込んでくるようで、外した。代わりにウェストベルトを思いっ切り締めた。肩じゃなく、そこで支えられるように。
景色を楽しめといっても、景観もない。森のなかだ。
光が白い。
枝葉の隙間を潜り抜けて、霞むように、影の地面に落ちている。霜柱がびっしりと生えて、踏み抜くと、登山靴の厚い靴底の下でばきばきと音を立てる。
階段を登るように、登っていく。でも全部で何段くらいあるのだろう。三時間? 千メートル? いまいち……見当がつかない。
最初のときも見当なんかつかなかった。へとへとになって、思い出そうとしても思い出せない。からだが想起を拒絶しているようだ。
最初のとき……
そう、それどころじゃなかった。荒み果てていた心と対話していたばかりで、からだと相談するどころじゃなかった。
母さんが言い放ったことばばかりが耳に残っていた。『自然に触れれば多少はマシな人間になるでしょ』……
それはつまり、おまえなんかまともな人間じゃないんだと思いっきり罵倒されたのと同じことだった。たぶん、そうなんだろう。他人を突然殴りつける女は普通じゃない。
私はその理由を誰にも話さなかった。話したって言い訳にしかならないと思っていた。
自分で考えるよりもずっと、母さんのことばが腹に食い込んでいることに気づいたのは、母さんが実際に、櫛灘空という女を連れてきたときだった。
看護師の母さんが、仕事場のことを話すのは珍しいことじゃなかった。母さんはたくさんの人間に興味がある人間で、ひとつひとつの出会いを驚くほど大切にする、別れが生にしろ死にしろ同じように受け入れて自分のものにする、そういうひとだったから。でもほんとうに患者を家に連れてくるのは初めてで、よほど空のことを気に入っているのだと、その仕草の節々から感じられた。
母さんと比べてもだいぶ小柄で、若々しい顔に反して白髪の多い、見るからに奇妙な女だった。
肌が異様に白く感じられた。日焼けしていないというのではなく、どこか日本人離れした色で、一瞬、外人かとさえ思えた。
顔を合わせて、困ったような空気になった。母さんが無理に逢わせたというだけの、なんとも手の出しがたい、触れれば墜ちるような空気だった。私はなにも表に出さなかったし、空は苦笑しただけだった。
母さんがほんとうに私のことを扱いかねているのだと感じた。
なんで自分で解決しようとせずに、こんな初対面の女に任せてしまうのか。
自然? 自然に触れてまともになるのは最初からまともな人間だけだ。山に行けば、改心して、なにもかもうまくいくとほんとうに思っているのか。現実がそんなに簡単なら、山はいまごろ世界中の人間でごったがえして、息をする場所もなくなってしまうほどだろうに。
実際、なにも変わっちゃいない。
歩いて、歩いて、歩いて……
そうしていると、なにか異様に心が膨れ上がって、自分に溺れそうになる感覚がある。抑え難いものが噴き出して、翻弄され、ただ歩くだけの行為さえままならなくなる。斜面を登る。疲労が積もり積もって、考えていることが現実なのか、夢なのか、混在してわからなくなってくる。
山の風が肌に冷たい。
分厚いヤッケの生地を透過して突き刺さる。剥き出しにしている頬が痛い。鼻先が熱いように痛い。
「天見。こら。またはやくなってる」
言われてやっと帰ってくる。
はっとして、立ち止まる。まただ。また思考が溢れ出して止まらなくなる。
いまに集中してないことの証拠だ。歩いているという単調な行為が頭をぼんやりさせる。
眼のまえが分岐路だった。右と左。どちらもすぐに合流すると、看板に書いてある。振り返って空を見ると、肩を上げてみせる。
「好きなほうに行きなよ。どっちでも同じさ」
同じ。
同じと言われても、それを判断する材料が私にはない。
簡単な選択肢に迷う。どちらへ行きたいのかなんて言われても、どちらでも構わないし、どちらにも行きたくない。
知らない。迷っているのもばかばかしい。
右だ。理由はない。
ひとりぶん擦れ違うのがやっとのくらいの道を、折れ曲がりながら登っていく。
土の地面が柔らかく靴底を受け止める。枯れ葉をばちばちと踏んでいく。
いまどれくらい歩いたのだろうと思って腕時計を見ると、一時間経っていない。
休憩もまだ先。雪もまだ見えない。
神奈川県はほとんど雪が降らない。むしろ暖かいところだ。
海が近い。東京都は隣。
生まれてずっとこの県に住んでいるけれど、雪が積もるなんてほとんど見たことがない。母さんの実家が青森で、冬休みに里帰りしては雪の上を歩いていたけれど、それだけだ。今年は私は母さんについていかなかった。代わりに空についていった。
私が住んでいるのは、丹沢山塊の見えない場所だ。だから稜線に近いところは雪がついているなんて聞いても、あまり興味もない。
そうなのかと思うくらいだ。
正直、このあたりのことはわからない。故郷といっても、他人の里みたいで、知識もない。
このあたりには親戚もいなくて。母さんはこっちに上京して、同じように京都のほうから上京してきた父さんと一緒になった。
だから私も愛着に乏しい。
そういうことをなんとなく思う。単調に歩き続けて、なんとなく思い返している。
海の底から、記憶の水泡がぽつぽつ昇ってきて、それを全身で感じているようだ。
樹木に埋まった景色を見渡しても、どこか夢のなかにいるようで、現実味がない。現実を私のものにすることができていない感覚がある。
いつか聞いた音楽が頭のなかに流れている。
なんの音楽だったろう。それさえもよくわからない。
このままではなんとなくいけない感じがする――
山に登っていないような気がする。失礼なんじゃないかと思う。
なにに?
いまに……
そういうこともぼんやりと思うばかりで、実体がない。もう疲れてきたのかなと思う。ザックが重い。重いだけでなく大きくて、邪魔だ。振り返ることさえままならないのだ。こんなに、なにが入ってるのかと思う。だってほんの三時間の登り、帰ってくる時間まで含めても、ほんの六時間くらいの――いや、下るんだったらもっとはやい、せいぜい五時間とちょっとくらい……
「ねえ、天見」
不意に声をかけられて、またはやく歩きすぎていたのかとはっとする。でも、空の声音は先程と違っていた。
「登ってるときに自分と話すのは楽しいよな」
「え?」
「でも、そういうのは山に登ってなくてもできることだ。わかるかい?」
立ち止まって振り向く。
こちらを真っ直ぐに見る空の視線と、ばちりと合って、思わず眼を背けていた。咎められている心地になって気まずくなる。
「立ち止まらずに聞いてなよ。聞き流してもいい。山の楽しみ方なんてひとそれぞれだけどさ」
空は相変わらず微笑んでいる。私はまた歩き出す。
「あんたはものすごく内省的な子なんだろうね。それこそあたしなんかよりもずっと思慮深くて、よおく考えて物事に答えを出す。あんたが学校でなにしたかって、あんたのママに聞いたよ」
恥じ入るような気持ちと、頭がかっとなるような感覚が一緒にきた。
「それであんたがなにを思ってるか、あたしにゃ想像もつかないけど。後悔? 罪悪感? あいにくとあたしはそういう繊細な感情からは程遠いがさつな女で、あんたの気持ちがわかるなんて口が裂けても言えない」
笑いながら首を振ったような間。
「でもまあ、そう、いまは山に登ろうって時間だ。それでもって、これは学校の行事じゃない。協調性を学ぶための遠足じゃないし、清く健やかにみたいなスローガンの勉強でもない。ただのお楽しみだ」
開けた場所にきた。山道がいくらか広く、平坦になって、腰かけられそうなベンチが安置されている。空に合図されて、私はザックを下ろした。
背中が一気に軽くなる。普段以上に楽になる。
「山って、風俗――」言いかけて空は指先を軽く唇に添え、口を閉じた。また苦笑して、「……ゲーセンみたいなもんだよ。お金払って、楽しみにくるんだ。でも例えば、シューティングが好きなのに格ゲーやってりゃ、面白くないのは当たりまえで。要はなにに面白味を見出すかだよね」
私が息を荒げてベンチに座ると、空はザックを漁って、テルモスを取り出す。
なかに入っているのは、冬休みのときと同じなら、溢れるくらい砂糖と練乳をぶちこんだ不味くて熱いコーヒーだ。案の定思った通りで、はいと差し出されたテルモスの蓋に、泥のような色の液体が渦を巻いている。
匂いだけはいい。
「なにが言いたいか? あたしにはあんたがあんまり楽しそうにしているようには見えない。山屋のなかには楽しくなくてもいいっていう連中もいるよ。でも、そういうやつらも少なくとも、下界と同じような表情をしちゃいない」
私はなにも言えないでいる。
「うまく言えないけど。そう、探しなさいってことだ。探して、発見しなさい。あたしは頭の悪い女だけど、これだけははっきりと言えるよ。ここは下界じゃない」
下界にないものが必要なんだよと、私に言い聞かせるようにではなく、自分に言い聞かせるように囁く。
「次の一時間は私がザックを持つよ。さあ、そろそろ行こうか。それともまだ休みたい?」
私ははっきりと言う。「いいえ」
「あんたはなんか、機械かなにかみたいだね」
私は咎められたような気がして振り返る。けれど空はやっぱり笑っている。「あんまり嫌いじゃないよ、そういう子も」
下界じゃない。
下界じゃないから、どうするのか。
深呼吸をひとつ……ふたつ……みっつして、歩き出す。
軽い。
ザックは空が持っているから、私は空身になった。身につけているもの以外にはなにもない。
少し寒くなって、耳まですっぽりと覆うニット帽と、首周りを守るネックウォーマーをした。顔のあたりがむしろ熱い。さっきのコーヒーが、からだのなかから全身をぽかぽかと温める。
背中の迷惑な厄介者がなくなっただけで、随分と気が楽になる。斜面を走ることさえできそうな気がして、でも、ゆっくりと、と楔を打たれている。
杉並木を過ぎると、見晴茶屋という名の山小屋に出る。その名の通り、小屋のまえがぱっと開けていて、秦野の街並みが見通せる。朝は雲ひとつなかったのに、いつの間にか灰色の曇り空になっていて、稲妻のような雲の断層から、高い青が覗いている。
海までは――……見えない。霞んでいる。
光の色が薄い。帯状に降りてくるようだ。
いい景色、なんだろう。
いい景色なんだと思う。
でもどこか遠い世界の絵画のようで、現実味がなかった。いやそういうよりは、私のほうがいまこのときを受け入れきれてないような、朧な心地がする。
感動があるかといえば、まるでない。機械、そう、ほんとうに機械みたいだ。よくわからない。
感動しなきゃいけないんだろうか。
何年かまえ、地域の催しかなにかで、近所の子たちとアニメ映画を見に行かされたことがある。上映が終わったあと、映画館のロビーでみんなが口々に感想を交わすなか、私だけが特になにも感じていないようだった。引率の大人にどうだったと問われても、私にはなにも答えられなくて、そのひとの、ひどく白けたような顔だけをよく覚えている。
ああ感動しなきゃいけなかったんだなと思った。それが正解で、正しくて、健全で文句のない答えだったんだなと。大人は子供にそういう反応を期待していたんだな、と。
でも特になにも思わなかったのになにか感じ入ったような振りをするのは、嘘なんじゃないか。嘘は悪いことだと散々怒鳴られたこともあるのに。
ああまたくだらないことを考えてる。自分とばかり話してる。
振り返って空を見ると、ん? と首をちょこんと傾げて微笑む。
「なんでもありません」
私より空のほうがずっと女の子みたいだと思う。
先へ進もう。
階段が多くなってくる。丸太や木板でよく整備された、きれいな道だ。階段でないところも、きっちり踏み固められていて、よほど多くのひとが登るんだろう。小石がごろごろしているけれど、登山靴の分厚い靴底はなんの問題もないように登れる。
変な浮石を踏まなければ転びもしない。バランスも崩れない。
けれど、ただの斜面を登るより階段を登るほうがきつい。
当たりまえだ。私の歩幅じゃないんだから。
一歩では遠すぎ、二歩では近すぎる。一段につき一歩半。中途半端で、リズムを取り辛い。
斜度も増してきた。
当然だけれど、空は真後ろにぴたりとついてきている。
足を踏み外し、転びかけたところを背中から支えられた。
「気をつけな。ゆっくりでいいからさ」
よくもまあ咄嗟にそんなことができると思う。単調な作業のなかで、いきなり予想外のことが起きたら、反応することだって難しそうなものなのに。
ありがとうございますと言って離れる。腕をぽんぽんとはたかれて、それはなんの意味があるのか。慰めとか励ましとか、いやもっと軽い、ただの挨拶みたいな。このひとは妙にスキンシップが多い。それによく笑う。
鵠沼紡とどちらがよく笑うだろう。
どちらも見れば笑っている。というより、笑っていないところを見た覚えがいまいちない。それが普段の表情みたいな顔をしている。笑っていなければ、苦笑している。あるいは微笑している。
へらへらしやがって――
みたいなことを試しに考えてみても、本心でそう思っていないから、虚ろな気分だ。羨ましいとも思わないし、そうなろうとも思わない。ただそういう表情をしている女はなにを考えているんだろうと思う。
私は笑いたくない。
そう、笑いたくないんだということにいま気づいた。
笑っていなければ心配される。なにか辛いことでもあったのと詮索され、なにもなければ、なにが不満なんだと怒鳴られる。私を取り巻いているのはそういう環境だ。
それがひどく鬱陶しい。
なにもないんだ。なにもないから笑いたくないんだ。私にとって笑うのはすごく疲れることだから、自然にしてればこういう顔になるんだ。
ただ、笑いたくない。このままの私でいたい。
みんなが笑う。
なにかの証明みたいに、笑うのが無条件にいいことのように。笑うというのが最上のことのように。そういう価値観。そういう価値観の社会。
それはつまり、笑わないやつは何事につけても一段劣るということで。テストのように、○か×かをつけるとしたら間違いなく×で。正義か悪かだったら悪で。
私は、
「天見はやい」
立ち止まる。
またいつの間にか足取りをはやめていた。苛立ちをぶつけるように歩いていた。
息が荒れている。肩で息をして、拳まで握り締めている。いまにも誰かを殴りつけそうなほど力を篭めて、額に汗をかいていた。
ニット帽を外す。
風が吹きつけて、一気に冷える。熱を放っていた思考も白く醒める。
「ねえ、天見」
「はい」
「んー……」
なにか咎められると思って待つ。どうしてもだめだ。自分とばかり話して、空の言うペースを見失ってると、自分でわかる。
私はこういうことに向いてないのかもしれない。いや、もともと山に登ること自体、私が望んだことじゃないんだから。そう考えていると、不意に空が私の頭をぽんとはたいて、ひどく気軽に言う。
「まあいいや。あんたの歩きたいペースで歩いてみなよ」
「え?」
「ごめんね。ひょっとしたらそのほうがあんたには合ってるかもしれない。あたしにはよくわからないけどさ」
いきなりそんなことを言われて、動揺する。「空さん?」
空はやっぱり笑っているのだ。ひどく楽しげに――私自体がひどく楽しい玩具みたいに――私を見て、道の先を見る。
「あんたに気を遣ってるつもりだったけど、あんたにしてみれば口煩いおばさんだったね。いいよ、好きに登ってみな」
「だっていいことなんかないって」
「ないよ。でもまあ、そういうのもどうでもいいことだ。あんたがバテて、疲れ果てて、ぐちゃぐちゃになっても、困るのはあんただもんね。首輪つけるような真似して悪かったよ」
さあ行こう。と空は私の背中をとんと押す。
「……」
私はよくわからないまま、けれどなにかまた軽くなったように、歩き始める。
肉体の内側の奥底のさらに裏側にあるなにか。
なにかの器官。
もうひとつの心臓。あるいはもうひとつの脳。
たぶんそんな感じのものだ。体温ではない熱を少しずつ垂らすように放つ、捉えがたい、得体の知れない感覚をもたらすもの。
実際にあるわけではないと思う。でも、確かにある。存在を感じる。
それが、その拍動が、頂点に達するまでそう長くはかからなかった。先程からずっと、ゆっくりと、ということばの楔を断ち切って、いまにも走り出したそうにしていたから。そうして実際に断ち切って、もう私には止められなかった。
いや、止めたくもなかったのかもしれない。その背中を押し込んで、突き落としたかっただけなのかもしれない。
自分と話しても、わからない。自分が答えてくれない。
地面を蹴飛ばした……
膝が軋る感覚がひどくリアルだった。足の底から脳天まで一気に突き抜けて、呼吸を荒らした。眼を閉じて感覚を追うと、視界が渦を巻くように収縮して、赤くさえなった。
歩く。いや、登る。
きつい斜度の階段を上がって、小石だらけの山道を進むと、ぬっと頭を出すように、山小屋が見えた。私がちゃんと地図を覚えているなら、駒止茶屋とかいう名前で、塔ノ岳まであと半分くらいのはずだった。
これまで、ほんとうに登りしかない。延々と、単調で、ところどころ平坦になりはするけれど、普通の尾根のように下ったりする場所がない。
その単純さが、思考まで単純にする。退屈な授業を受けているときのように、眠気さえもたらす。
(暑い……)
真冬なのにそんなことを思っている。
ヤッケの内側に体温が篭もって、外気は切り裂くような冷たさで、その温度差が、鬱陶しいように暑い。
真っ平な道を進んだ。と思うと、またなだらかな登りに入る。景観はない。ときどき後ろに、秦野の街並がかろうじて見えるくらいだ。
気がつくと、睨むようにまえを見ている。
いや、完全に睨んでいる。鏡はないけれど自分でどんな顔をしているかはっきりとわかる。さぞかし可愛げのない、暗い無表情の、ひどい顔なんだろう。
疲労が全身を鉛のようにして、自然に顎が上がる。歯を食い縛るようにして顎を引く。こんなのはなんでもないことだと自分に言い放つ。だって私はザックさえ持っていない。
疲れているというのは肉体の話で、私の心はまだ疲れていない。
感覚から感覚を遮断するようにして、無理にからだを動かす。歩く。
そうだ、歩いていればそれでいい。簡単なことだ。簡単で、楽だ。なにも考えなくていい。
他のスポーツだったら、相手がいて味方がいて、競い合って協力し合って、そういう面倒くさいことが続くのだろうけど、ここには私しかいない。
空はいる。けれど彼女は最初に、自分のことは忘れていいとはっきりと言った。
それを信じる。私だけがいる。私だけがいて、歩いている。
足取りがはやくなる。
疲れて、足が重くなると、余計になにか悔しくなるような思いが湧き出てきて、はやくなる。
悔しい。そう、これくらいで体力の器がひび割れ始めているのがむかつく。だから意地になってはやくする。動け。さあ、歩け。それだけでいいんだから甘えるな。そんなことを断片的に考えている。
視界の端に白いものが映った。陽光にきらきらと反射して、宝石のように輝いている。そちらのほうを見る。
(雪だ)
思わず立ち止まってあたりを見渡す。登山道の其処此処に雪がつきはじめている。
降っているわけじゃない。上空は相変わらずの曇り空で、青空が少し。
……随分とたくさん歩いた気がするけれど、休憩していないから、ザックを下ろしてからまだ一時間も経っていないはずだ。
長い。
学校の授業は四十五分。それにほんの十五分足しただけなのに、ひどく長く感じる。
辛い。
息が苦しい。
苦しくなればなるほどはやくなる。
なにかに逆らうようにして登り続ける。
上からひとが降りてくる。擦れ違い様、こんにちはと言おうとして、その声が私の声じゃないような音で響いてびっくりした。
こんなに疲れているのは初めてかもしれない。いや、疲れているというより、思考がうるさい。
考えていることが多すぎる。
邪魔だ。
登ればいいだけなのに考えすぎて頭がうるさい。
(全部どうでもいいことばっかりだ……)
だってそうなのだ。山を登っているのに、どうして家族のこととか、学校のこととか、自分のこととかを考えているんだろう。
クラスメイトを殴りつけた感触を拳に思い出している。クラスメイトの、先生の、両親の、不気味なものを見る眼で見られたときの、自分の感情の逆立ちを思い出している。
歩くのにそんな思考が必要?
余計に疲れるばかりなのに。
私がものすごくバカだ。自分でわざわざ傷口を掘り返して、自滅しようとしてる。歩くだけで精一杯なところにわざわざ余計な荷物を背負おうとしてる。ザックは空が持ってるのに。
私は、
「天見ー。休憩ー」
はっとして立ち止まる。
また山荘が隣にある。まったく気づいていなかった。
花立山荘。地図でいえば塔ノ岳まであと一息のところ。コースタイムはあと一時間もない。
いつの間にか足元にびっしりと雪が敷き詰められていて、登山靴の足首まで埋まる。
山荘横のベンチに何人か登山客がいて、そのいちばん端のところに座る。
「いいペースだったね」と空はコーヒーを注ぎながら言う。「いつもならここから富士山がばーっと見えるんだけどさ、ガスってるね、残念。ここからはアイゼンつけてこっか。……天見、平気? バテてないかい?」
「平気です」
「ふうん」
空はからだごと頭を傾けて、私を真下から覗き込むようにする。私は思わず仰け反る。
額の汗を腕でごしごしと拭く。大丈夫だと眼で言うように、正面から見据え返す。空は唇に軽く指を添えて、値踏みするように私を見ている。
奇妙な眼だ。そういう仕草さえどこか楽しんでいるように見える。愉悦の時間を送っているかのように。
なんて言えばいいのか……
切れるくらい薄く細めた目許がなにか……妙に……そう、艶っぽいというのだろうか。弄ばれている気がする。
「平気です」と私はもう一度言う。
「意地っ張り」
「そんなんじゃ――」
「ザック持てる? 最後まであたしが担いでってやろうか?」
「持ちます」
余計なことだ。
機械のようなら、機械でいい。大丈夫とか大丈夫じゃないとか、持てるとか持てないとか、そういうのは考えなくていい。どのみち、私は自分がどこまでやれるかわからない。この疲れの指標が、限界にどれだけ近づいたか、判断できるほど自分を使ったことはない。
だめそうならだめだって言えばいい。私はまだ大丈夫だと思う。
からだが熱い。飲み込んだコーヒーよりずっと熱い。
軽アイゼンを登山靴に装着して、ザックを背負う。全身が一気に重くなる。
こんなに重かったっけ?
登り始めたときよりもずっと重く感じる。でも、こんなのは全然平気だ。あと何時間だって登れる。登ってやる。山頂まであと一息しかないのだから、余裕に決まってる。
「さ、行こ。あと少しだね」
重い。
足取りが小さくなる。なにも背負ってなかったときと比べて一歩が半分しかない。まえに進むのが辛い。きつい。からだじゅうの筋肉が軋んでいる痛みが苦しい。
そういうのも関係ない。登るだけなんだから登ればいい。動き続けてればいつか到着する。他のことはみんなゴミみたいなものだ。
雪にアイゼンの六本爪が食い込む。表層の氷に突き刺さる。でも雪が柔らかくてからだを支えるほどには至らない。ズ、と音を立てて沈み込む。
……悪くない感触だ。
登山靴は重くて固くて、撥水性もしっかりしていて、濡れるのが気にならない。もともとトレースがついているから歩くのも苦にならないけれど、まっさらな雪を踏んでいくのはさぞかし気持ちのいいことなんだろうと思う。
軽く踏んだ足が雪に滑って後戻りする。違う。空に教わったのはこういう歩き方じゃない。キックステップ。荷重が足にかかってきつい。でもまえに進める。これでいい。これで。
息が、
荒れて、
構わずに行く。機械のように行く。歩くだけのことに夢中になる。
私がなくなっていく。
余計なごちゃごちゃした思考が削げ落ちて、ただこれだけの単純な次元に堕ちる。細い尾根状を抜けて、金冷シの分岐に差し掛かる。左が鍋割山。右が、塔ノ岳、の、山頂。ご丁寧に、看板まで、あって、迷うことも、ない、から、曲がる。
氷の枝、樹木の枝についた霧氷が、エビの尻尾のように、尖って、きらきらして、光が珠のように反射、して、頬を、かすめるように、冷たいものが、
全身に汗をかいているのが、わかって、風が、風の色が違う。下界と違う。真横から吹き抜けていく風がそれは稜線の冷たさなんだろう。無様に大口を開けてぜえぜえと息を吐く私の舌に触れて冷たさが氷のように乾いた風が。無色透明の香りが。鼻の奥から突き抜けて。
こんなのはなんでもないことだ。遠足と大して代わりない距離をきっと、考えていることだけが肥大化してなにか意味のあることのように思っているだけ、駅から二十分程度バスに乗って三時間程度登っただけでなにかを達成したなんて思わない、きっと思っちゃいけない、疲れているだけ、それで勝手に大したことのように思っているだけ、いや、私はなにも思っていない、
もう最後の登りのはずなのに随分と長い、
まだ続く、まだ、
階段状の道が雪に埋まって上空が広い。青い。1491メートル。海抜。低山。低い。雪。重い。痛い。歩く。転びそうになって立ち止まらない。長い。私はきっと忍耐力がないんだと思う。
私は、
『私がどんなに屑な人間だとしてもこの山にとってはきっとなんにも関係がない』
……山は沈黙してくれている。
「お疲れさま」
え?
天見は戸惑ったように訊いた。「どこが……てっぺんですか?」
空はクッと顎を引くようにして笑った。「や、全部だよ。そのへん」
山頂はちょっとしたロータリーのように広かった。子供が走り回って遊べるくらいの面積があり、白一色の雪原になっていて、ど真ん中に大きな標がつくられていた。さらにその向こう側に尊仏山荘。雲が千切れたように退いて青空の色が押し広げられていた。
誰もいなかった。誰かがいた形跡が、夥しい数の足跡としてそこらじゅうにあったが、少なくともいまは空と天見のふたりだけだった。天見はザックを降ろすのも忘れてあたりを見渡した。終わり方としてはあまりにも呆気なく、唐突としていた。心の準備がまったくできていなかった。ぼんやりとして、息さえも細くなった。
「富士山が見えるよ。ほら……」
肩を抱かれて、西のほうにからだを向けられた。ところどころ雲に覆われていたが、確かにその容貌を見ることができた。天見はそれほど近く、大きくその山を見たのは初めてだった。
「南アルプスも……ううん、辛うじて、なんとか。わかる? あのへんここの倍は高いんだぜ」天見の頭をぽんとはたいて、「とりあえずザック降ろしなよ。風が強いね、でもがまん」
びゅうびゅうと耳元で風が唸りを上げている。
ザックの上に座る。肩から重みがすっと抜け落ちて、意識さえもふわりと浮かぶ。短く小さく息をし続けている。天見は静かに眼を閉じた。
登ったのか、と思う。
実感がない。声を上げて喜ぶべきなのだろうが、そういう器官も失っている。感動? 胸を見渡しても、そういう感覚はどこにもない。なんだかよくわからない。まだわかっていない。
眼を開いて丹沢のさらに奥を見やる。山はまだ続いている。すぐ近くに、丹沢山という名の、また別の峰が雪を冠している。地図上ではここから一時間ほどでいけてしまうはずだ。百名山のひとつのはずだ。今日はそこまで行かないのだが。
わからないのだが、そういうわからない心のままで、ああきっと凄いんだなと思っている。大きいな、とも。感情に乏しくともそういうのは理屈でわかる。途方もない気分はある。
それでいいやと思う。
「どうだった? 天見」
空に問われて、天見はことばを探す。感動しなければいけない? つまらない答えで、空を白けさせてはいけない? ふん、と思う。どうでもいい。このひとにそういう気遣いをしたくない。
「なんかすごくうるさかったです」
「え、ええ?」
「私が……」
ことばの示す意味がよくわからず、空は頬を掻く。そうしてまた笑う。
(まあこの子はこの子で楽しんだみたいだからいいか)
笑わない娘でもそういうことは感じでわかる。
「富士山目指してさ、稜線沿いにいくとさ、そのまま下りずに山中湖まで行けちゃうんだ。山中湖まで行っちゃえば富士山も目の前だろ。遠いように見えてけっこう近い……まあ一日じゃあね……でも西丹沢のほうは暗くてどんよりしてて、いかにも深山って感じが好きだな。北へ向かって、宮ヶ瀬湖でもいいね。もっと行くと奥多摩で……そのへんもいいとこだ……ボルダーの有名どころあったりするし、雲取山は二千メートルあるよ、東京都なのに。そこからまだ奥へいける。埼玉群馬山梨。日本は山国だから、もうそこらじゅうに登れるところが――」
天見はぱっと顔を上げた。ああ、そうだと思う。忘れていた。言い切れていなかったことをいま言わなければと。「私ひとりで帰れますよ」
「え?」
「帰れます」
空は不意を衝かれたように天見を見る。風に吹き荒び、少女の髪は千々に乱れている。
「登ってきたらいいんじゃないですか。どこへでも」
「……ううん?」
デジャブに襲われ、空は眼を細める。
原因はすぐに見つかる。最初のとき。そう、穂高から下りてきて帰路のバス停。天見はいまとまったく同じことを口にした、少し不安げな声音で。家から遠く離れた辺境の地。が、いまここは辺境というには下界に近すぎる。ここから秦野の街並みが見えるほど近い。
「もしかしてあんた、ずっと気にしてた?」
「そういうんじゃないです」
「自分がいなけりゃコイツどこでも行っちゃうだろと思って呆れてた?」
天見は変わらない無愛想でそっぽを向く。
空が山を愛していることは隣にいるだけでわかった。そういう感覚が空気を辿って伝わってきた。それがどういう根に起因するのかは想像もつかないにしろ。この女が、可能な限り山に居続けたいと思っていることもわかっていた。
山屋という人種を空しか知らないから、それが普通のことなのかどうかもわからない。ただ空にとって私は邪魔にしかなってないだろうと思う。行けばいいのに。最初のとき、一緒に山を降りてきたあとの彼女の表情は、降りることそのものを残念がっている顔だった。
「……いや、あのさ」空は苦笑する。「あたしにはあんたを無事に送る義務があるよ。あたしに気を遣う必要は、あんたにはないのよ」
空は当たりまえの理屈を口にする。この二人パーティのリーダーとしての責任。
「そうですか」
じゃあ下りましょう。天見はザックを担いでさっさと帰路を行き始める。
「ちょっと」
空は慌てて彼女を追う。
登りと同じ道を通って下山する。
登る以上に膝に負担がかかり、バランスを失い、転倒する可能性も増える。疲労から注意力は散漫になり、意識は低下し、怪我の怖れもある。実際、事故の件数でいえば登頂時より下山時のほうが遥かに多い。
とはいえ、下山だ。
一度の休憩を挟んで下りきる。車道に到着したときには太陽が中天を渡り、午後の強い黄金色を孕み始めている。天見の脚はがくがくになっているが、余力はある。
バス停までもう十分もない。天見はそこで振り返り、ザックを背負う空を見上げる。
「ありがとうございました」
そう言う天見はやはり無表情で、空はほとんど代わりのように微笑んでいる。「うん、お疲れ。よくがんばったよ」
「もう行っていいですよ」
「ん……」
空は頭を掻く。「いや……」
「そのザックがそんなに重かったのって、予備食とかツェルトとか――テントはさすがにないでしょうけど、ビヴァークできるだけの装備が入ってるからでしょう?」
「……よくわかったね」
「寝惚けてて余計なものまでパッキングしたって言ったじゃないですか。それくらいわかります」
実際、あった。切り詰めて三日は持つだけの食糧はあった。前日、芦田と登りに行ったときのレーションの残りまで突っ込んであり、充分すぎるくらいだった。
いやそうではなく、もともとそのつもりだったのかもしれない。無意識がそうしろと囁いたのかもしれない。丹沢は幕営禁止だが、『やむにやまれず』ビヴァークするのなら。通年営業の山小屋もある。そして、櫛灘空という女は結局、そういう女だった。若い頃は一年のうち二百日以上山に篭もっていたこともある。いま、空はそういう女であった頃の自分を取り戻していた。
「ザック置いてください。私のザック出しますから」
「あ、うん……」
茫洋とした表情になってしまった空を急かし、天見は自分のザックを担いだ。帰り道は明白だった。バスに揺られて駅に戻り、自宅に向かうだけだ。ひとりで充分だった。ひとり以下でも。
櫛灘空という人間がどういう人間か、天見にはなんとなく理解できていた。子供であった頃はきっと、いちばん近いのは、いまの鵠沼紡のような少女だったんじゃないかと思う。そういう人種。かつて少女だった女。
空は首を捻じって山を見上げた。そうして天見を見下ろした。
浮かべた笑みが緩やかに深まっていくのを、天見は無表情のまま眺めていた。観察していた。ひとりの人間のスイッチが静かに切り替わり、子守りのためのテンションから移り変わっていく。自分のための時間に。
「あたしってやつは……ほんとだめな女だね。あんたを気遣ってやろうってずっと心がけてたのに、気がつくとあんたのほうに気遣われてる」
無垢な笑みでもあり、ほとんど獰猛とさえ見える笑みだった。他者に好ましい印象を与えるものではなく、深く病んでしまったような、真逆の印象を放つ表情だった。悪魔めいて、いっそ淫らでさえあった。
ぞっとするようなものが背を抜け、天見は静かに一歩下がる。ああこれが本性なんだなと思う。空のほんとうの笑顔。
「富士山のほうに抜けてみようかな。そのまま飯買って上まで行っちゃうか。ありがと、天見」
言うや否や、空は天見の頬に手のひらを添え、もう一方の頬に唇を掠めた。外人のようなスキンシップに、天見は反射的に空の胸を押し返して後退りした。が、そのときにはもう空はザックを担ぎ上げて登山道へ向かっていた。
ああやっぱりずっと我慢してたんだなと思う。なんてはやい。あっという間に後姿が見えなくなる。その動きそのものが意識の外側にはみだして、認識から逸れるかと思うほどはやい。
「魔女……」
天見はなんとなく口にした。
空の残り香に、現実のものでない風を感じた。下界のそよ風ではなく、先ほど稜線で感じた、乾いて強い力の塊のような風だった。吹き荒んで心が飛ばされた。天見は軽く眼を伏せ、束の間の余韻を味わった。
山を登った後の。
それが姫川天見の最初の登頂だった。これから夥しい数の頂を踏む少女の、初めてだった。
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待ってるよぉ~