オリジナル登山微百合日常ぐだぐだss。
あまりテンポよろしくないなと自覚するもののいろいろ試してみるしかない現状。
むむむ。さてどうするか。
「部長の佐田氷月です。ポジションはどこでも。まあ、よろしく」
天見はひとまずホッとした。根岸渓が見るからに体育会系の暑苦しい女のようだったから、これで部長まで面倒くさそうだったらそのまま適当に辞めてしまうつもりだったのだが、氷月はどこかぼんやりとした、柔らかい印象の女だった。紡は異様なほど体格がいいが、氷月も細身ながら彼女に迫るほどには背が高く、それでいながら紡とは違った空気がある。隠れて煙草でも吸っていそうな、気だるい、大人びた雰囲気だった。
その日の練習は大したことはしなかった。自己紹介と、基礎練習程度で、すぐに解散になった。天見は家に帰りたくないから逆に困る。紡は同居人に晩飯をつくるのだと言って帰ってしまった。渓も、家の手伝いがあるらしい。
着替えて体育館から離れかけてもまだ照明が点いている。特になにも考えずなかを覗いてみると、部長がまだ自主練習をしている。ボール籠を近くに置いて、延々とシュートを打ち続けている。他の部活ももう終わっており、氷月ひとりが、ゴールと向き合っていた。もう外は暗い。
熱心なもんだと思った。視線に気づいて、氷月がこちらに振り向く。「姫川さん、だよね? 帰らないの?」
「見てていいですか?」
「面白いもんじゃないけど。別にいいよ」
シュートが放物線を描く。素人の天見にも、綺麗なフォームだとわかる。クライミング・ジムで何度も同じ課題をやっているクライマーと同じなめらかさがあった。迷いがない。年単位で打ち込んでいる者特有の動きだ。
壁にもたれてぼんやりと彼女を見つめ、時間を潰す。弱小と聞いていたし部員はふたりで実際そうだった。それでも手は抜かないのだろう。紡に引き摺られるようにして仮入部した自分が恨めしい。溜息をついて、こんなところにいる自分を場違いに思う。
「地毛?」
不意に問われて、天見は顔を上げる。一瞬、なんのことを聞かれたのかわからなくなる。「なわけないでしょう」
「あはは。だよねえ」
天見は鼻を鳴らす。
「昔さ、天パの友だちがいて、生まれつきなのに教師に怒られたって嘆いてたからさ。そうなんじゃないかって確認しただけ。で、なんで染めてんの?」
「なんとなく」
「ふぅん。ウチの学校、そんなに校則緩いほうじゃないよ?」
「どうでもいいです」
氷月は乾いた声で笑った。そうしてシュートを打つ。ゴールリングに触れもせず、ネットを割った。
色目で見られていないと感じた。氷月の物言いには、それ以上踏み込んでくる気配がなかった。登校拒否のさなか、注意し、矯正してやろうという眼で散々見られてきたせいで、いまや天見はそうした相手の意図にひどく敏感になっていた。それで、警戒レベルを一段階下げる。
「渓はあんなんだから、ふたりも部員が入ってくれて張り切ってるけど、ほどほどでいいからね。試合の助っ人なんてどうにでもなるんだから。あんた、鵠沼さんの付き合いできてくれたんだろ?」
天見は正直に頷いた。「はい」
「最初っから全開だとあとで息切れするもんだ。頑張ってくれたらそりゃ、あたしも嬉しいけどさ。自分のペースでな……」
入部早々そんな風に言われるとはさすがに予測しておらず、肩の力が抜ける。新しい環境でさすがに天見もいくらか緊張していた。少しまえと色の違う前髪を弄りつつ細く溜息。
「部長」
「うん?」
「私小学校で不登校やってたんで、中学でもよくそうなると思います。部活きたりこなかったりしますけど気にしないでください」
若干、試すような物言いだった。どう返す?と言外に問いかけていた。氷月は眉を上げ、しげしげと天見を見やる。が、すぐにシュートの体勢に入って、「おー、了解」
ボールはなんのブレもなくリングに吸い込まれる。
だからストレス解消のために登ったところでいいことなんかなんにもないんだ!と杏奈は思った。それはもうこれまで百回は思ってきたことで、凝りもせずまたそう思っているのだった。そして結局のところ、自分にはこれしかないのがなによりの大問題なのであった。
集中の深い淵に沈んでいれば容易だったはずの課題で、数手も進まずに落ちた。無様な結果で、なによりもバランスが崩れきっていた。右足で立ちこむはずのスタンスに、左足でスメアリングをかけてしまっていたし、三点支持はずたずた、クライミングシューズがまるで別人のもののようにさえ思える。マットに仰向けで横たわりながら、小さな倉庫を改造したクライミング・ジムの天井を見上げ、両手で顔を覆った。狼のような唸りで喉を震わせ、手をのけると、天見の呆れたような顔がこちらを見下ろしていた。
「なにやってんですか、篠原さん」
杏奈は苦々しく笑った。「なにやってんだろう、姫ちゃん」
天見の手を取って立ち上がり、ベンチに戻った。天見は到着したばかりで、まだ制服姿だった。といっても白を基調としたセーラー服に、ジャージを羽織り、スカートの下にもジャージという、異性の視点から見れば幻滅以上に幻滅ものの格好だったが。ああ、中学生になったんだ、と杏奈はいまさらながらに思った。
そして、ますます悩みが深まるような気がして疲れ果ててしまった。天見が中学に上がったように、自分も大学に上がる準備をしなければならないのに。いまだ明確な志望校の目途もつかないなか、あたしが気を取られてるのは色恋沙汰ときたもんだ。それも――
「姫ちゃんちょっと聞いてよ――あたし女の子に告白されたんだよ……!」
天見の反応は政治の話題を振られた野良犬のようだった。「なんか課題変わってます? ホールド張り替えしたのかな」
「え? さあ。言われてみれば違うねえ」
「あの五級なら結構いけそうな感じがする。着替えてきます」
「あ、はい」
春先で、気温はまだ低い。外は指先がかじかむほどだ。が、ジムのなかは空調が効いており、クライマーの熱気もあって暖かい。戻ってきた天見は半袖だった。早速、登り始める。
通い始めた頃は七級を登るのさえままならなかった天見だが、素人ほど成長は早い。もともと、同年代に比べて身体能力もバランスも悪くなかった。ムーヴ次第だが、五級くらいならどうにか登れるようになっている。壁はそこからだ。
ウォーミング・アップに軽い課題を数度登って、杏奈の元に戻ってくる。登れそうだと感じた五級を観察する眼はいつもの天見以上に厳しい。が、眼の色がフッと緩んで、杏奈を見つめた。「なんでしたっけ?」
「……あー。うん。――。女の子に告白されました」
「なにを?」
「だからほら、それはあれだよ……愛を」
「はあ」天見の反応はやはり鈍い。「そういえば、空さんと連絡つかないんですけど。なにか聞いてます?」
なんだか自分がばかばかしくなってきて杏奈は肩を落とした。「三日まえに電話したら北海道だった。いまはどこかなあ。充電切れてるの、気づいてないんじゃない?」
「北海道?」
「山だよ、山」
「北海道――」
想像もつかない答えが返ってきて、天見は思わずくすりと微笑む。少しまえまで槍ヶ岳にいたというのに、慌しいことだ。ある意味、空らしいかもしれない。
杏奈はぼんやりと言う。「あたしたちもどっか行こうかー」
「どこかって?」
「ゴールデンウィークにさ。ちょっと遠出して、フリーでもアルパインでも。瑞牆山とか小川山――も近場になるのかな。まあ、北アルプスでも谷川岳でもいいよ。残雪がまだすごいだろうけど」
「いいですね」
一ヶ月後は近い。モチベーションの助けになり、天見は胸が沸き立つのを感じた。そうと決まればまずはトレーニングだ、立ち上がって、目的の課題に向かう。これくらいのグレードはこなしておかないと。
無邪気に壁に向かう天見を見つめて、杏奈は鼻から息を吐いた。この子もいよいよ山バカの道に入り始めてるな、と先行きを不安に感じて胸がぞわぞわ。天見の登る後ろ姿は、あのバカ親父の後ろ姿となぜかそっくりだった。
実家――と呼ぶのが正しいのかどうかわからない。空はその一晩だけ、櫛灘/佐藤家に滞在する。ひっそりと身を隠すようにして。雪菜の客、という体裁だったが、あまりいい風に見られていないことは、擦れ違うひそひそ話からもう明白だった。親父も災難だったな、と思う。あたしみたいなのを背負い込んだばかりに。
それでも、この家の立地はそう嫌いではない自分がいることに、空は気づいていた。古びた屋敷。誰もが夢見る田舎暮らしの、ある種の理想形がここにあった。遠野の田園地帯に囲まれて、車の通りはなく穏やかな静寂が満ち、見晴らしは良く、早池峰を盟主とする北上山地が一望できた。民俗学の舞台だ。ほんとうに、妖怪の一匹でも出てきておかしくないような空気があった。
縁側に座り込み、裸足を投げ出して、煙草を咥えた。薄い雲が陽光に透けている。ふと振り返ると、暗紅色の着物姿、小さな老婆とばちりと眼が合い、軽く頭を下げて会釈した。親類なのだろうか。しかし、老婆は素早く眼を背け、そそくさと立ち去っていく。空は肩を落とした。
(でも、あんまりショックじゃないな。……あたしも図太くなったもんだ)
少しまえまでは他人の視線にひどく敏感で、いちいち傷ついてもいたものだけれど。
結局のところ、それで山から遠ざかったようなものだったのだ。
三十路になって、一皮剥けてくれたんだろう。こうした心の位置に到達するのに、あの時間が必要だったというのなら、なんとか割り切ることができる。せめてそう感じていたかった。紫煙をくゆらせて、ぼんやりとしている。
軽い足音を背中に聞いて振り返る。従妹が緊張した面持ちでこちらを見ている。「水緒。……だったよね。こっちきなよ」
「……。……」
煙草を携帯灰皿に押しつけて手招き。雪菜の娘は、七歳だという。単純に可愛いもんだと思う。天見とは六歳差――成長期は怖いな、とここにいない少女のことを考えてひとり微笑む。水緒はおずおずと空の隣に座る。
「いいところだね、ここは――あんたの家は。おばちゃん狭っ苦しいアパート住まいだから羨ましいよ」
どう反応していいのか迷っているようだった。比較対象を知らないのだろう。突然現れた、従姉なる女への戸惑いもあるのだろう。海外の山で雪崩に巻き込まれて亡くなった伯父の存在自体、知りもしなかったのかもしれない。
「あたしね、神奈川に住んでるんだよ。東京の隣。都会ってほど都会じゃないし、田舎ってほど田舎でもないけど、山も海もあって、まあ、まあ、いいところだ。あんたは県外のどこかへ行ったことはある?」
「んーん」
「そう。いつでも歓迎してあげるから、一度おいで。このあたりは観光地みたいだけど、そういうとこに住んでる子ってどうなんだろうね? 他を観光して楽しい気分になったりするのかね。遠野は好き?」
「……」
「いや、ごめんよ。よくわからないよな。あたしは故郷の茅野が好きだったけど、それは八ヶ岳があったからだしね……」
水のように緩い時間が流れる。のんびりとしたもので、このまま眼を瞑れば眠ってしまいそうだ。父が決別した実家で、こんな気分に浸る日がくるとは思わなかった。
父親を裏切っている……とは思わない。櫛灘文太はどのみち、その程度のことを気にするような男ではなかった。そう信じている。それに、自分の人生は自分のものだ。誰に所有されたいとも思わない、それがたとえ死んだ父であっても。
いつの間にか傍にきていた雪菜が言った。「隣いいかしら?」
空は振り返った。「ええ」
「ごめんなさいね。みんなピリピリしていて。何十年もまえのことをまだ引き摺っているのだから、滑稽なんだけど、それを誰も認めようとしないの。兄のことを赦してしまえば負けだと思っている。変に自尊心ばかり高くて、心が閉鎖されているのに、正しいのは間違いなく自分たちだと思い込んでいる。結局ね、謝罪のことばが聞きたいのよ。自分たちが正しいって保証ばかり欲しがってる」
「親父はもういないんですけどね。あたしが頭下げて収まるなら、いくらでも下げますよ」
「それでも変えられないでしょうね。凝り固まってるのに自分で気づけないの」
隣と言ったが、雪菜は水緒を挟んで座った。無垢な子供を境にした距離がいちばん控えめで、しっくりくる位置だった。雪菜にしても、罪悪感があるのだろう。兄と別れてから兄が亡くなるまで空と会うことができなかったのだから。
「空さん。ご結婚は?」
「いえ」答えてから、空はくすりとした。「予定も見込みもないです。現状……」
「いきなりこんなことを言うのは不躾かもしれないけれど、私は相手を都合できる立場にいる。あなたの年齢に合わせて、それなりに社会的な身分を得ている殿方を探して、見合いの席を設けることができる。もちろん、あなたにその気があるならの話だけれど」
空は眉を上げた。雪菜は眼を細め、息を沈めるようにして顎を引いた。
「こんなことが罪滅ぼしになるとは思わないけれど。……遠野へ帰ってきてとは言わない。ここから上京して、東京に住んでいる知り合いも何人かいる。彼らに連絡を取れば、恐らくは乗り気で答えてくれるでしょう」
空は笑った。「大問題が残ってますよ。あたしみたいにふらふらしてる三十路女を気に入るような男が、この世界に何人残ってるかって話です」
「自分を過小評価してない? 身内の贔屓目を遠ざけてみても、はっきり言って、あなたは器量好しよ」いくらか空気が和らぎ、雪菜も微笑した。「たしかに、アイドル顔とは逆立ちしても言えないわ。でも、そうした一般的な価値観とは離れたところで、あなたには魅力がある。なにか異様なところで引きつけられてしまいそうな、危うさみたいなものが」
「そういう風に言われるのって生まれて初めてですね」
空は口許に指を添え、小さく俯いた。
「まあ、考えたこともないわけじゃないです」しかし、声音に迷いはなかった。「子持ちの知り合いが何人かいます。結婚してるひともいれば、未婚のまま、女手ひとりで子供を育ててるひともいる。でも、まあ」からだを逸らして、「あたしにはとてもとても。恐怖みたいなのもあります。家族ができたところで、親父みたいに、中途で倒れることになるんじゃないかって。そういう感覚はずっと持ってきた……」
それは常に常に感じてきた想いだった。それこそ、大人になるよりもずっとまえから。山をやっているから――そう、単純に言えたものではないが、純然たる死の匂いはずっと嗅ぎ続けてきた。
「あたしには母親がいない。そういうコンプレックスもあります。お手本がなくて、どうしようもない失敗をやらかすんじゃないかって。あらゆる状況が整って、なにもかも完璧にこなして、なにひとつ失敗しなくったって、子育てはどうしようもない終わりを迎えることがある。親と子って関係がおぞましいものに成り下がる可能性がある」
あるいは、姫川天見と姫川陽子のように。どちらも、どうしようもない人間ではなかった。むしろあたしよりもずっと人間的な人間だ、とあのふたりについては確信していた。それでもいま、親子関係はどうしようもなく冷え込んでいる。
「難しいところですけどね。……少なくともいま、そういう欲求は湧いてこないです。婚期を逃す、みたいなのは他人の価値観ですし、女性手帳みたいなのをもらって、政治屋から産めよ増やせよって圧力かけられるのも、くだらないことだと思います。あたしは――」
ふっと笑う。結局、結論はいつもひとつのところに行き着くのだ。
「ただ登っていたいです。それだけのために生きてる。なんのしがらみもなく、自由に……」
雪菜は微笑のまま頷いた。「あなたはたしかに兄さんの子ね」
あまりテンポよろしくないなと自覚するもののいろいろ試してみるしかない現状。
むむむ。さてどうするか。
「部長の佐田氷月です。ポジションはどこでも。まあ、よろしく」
天見はひとまずホッとした。根岸渓が見るからに体育会系の暑苦しい女のようだったから、これで部長まで面倒くさそうだったらそのまま適当に辞めてしまうつもりだったのだが、氷月はどこかぼんやりとした、柔らかい印象の女だった。紡は異様なほど体格がいいが、氷月も細身ながら彼女に迫るほどには背が高く、それでいながら紡とは違った空気がある。隠れて煙草でも吸っていそうな、気だるい、大人びた雰囲気だった。
その日の練習は大したことはしなかった。自己紹介と、基礎練習程度で、すぐに解散になった。天見は家に帰りたくないから逆に困る。紡は同居人に晩飯をつくるのだと言って帰ってしまった。渓も、家の手伝いがあるらしい。
着替えて体育館から離れかけてもまだ照明が点いている。特になにも考えずなかを覗いてみると、部長がまだ自主練習をしている。ボール籠を近くに置いて、延々とシュートを打ち続けている。他の部活ももう終わっており、氷月ひとりが、ゴールと向き合っていた。もう外は暗い。
熱心なもんだと思った。視線に気づいて、氷月がこちらに振り向く。「姫川さん、だよね? 帰らないの?」
「見てていいですか?」
「面白いもんじゃないけど。別にいいよ」
シュートが放物線を描く。素人の天見にも、綺麗なフォームだとわかる。クライミング・ジムで何度も同じ課題をやっているクライマーと同じなめらかさがあった。迷いがない。年単位で打ち込んでいる者特有の動きだ。
壁にもたれてぼんやりと彼女を見つめ、時間を潰す。弱小と聞いていたし部員はふたりで実際そうだった。それでも手は抜かないのだろう。紡に引き摺られるようにして仮入部した自分が恨めしい。溜息をついて、こんなところにいる自分を場違いに思う。
「地毛?」
不意に問われて、天見は顔を上げる。一瞬、なんのことを聞かれたのかわからなくなる。「なわけないでしょう」
「あはは。だよねえ」
天見は鼻を鳴らす。
「昔さ、天パの友だちがいて、生まれつきなのに教師に怒られたって嘆いてたからさ。そうなんじゃないかって確認しただけ。で、なんで染めてんの?」
「なんとなく」
「ふぅん。ウチの学校、そんなに校則緩いほうじゃないよ?」
「どうでもいいです」
氷月は乾いた声で笑った。そうしてシュートを打つ。ゴールリングに触れもせず、ネットを割った。
色目で見られていないと感じた。氷月の物言いには、それ以上踏み込んでくる気配がなかった。登校拒否のさなか、注意し、矯正してやろうという眼で散々見られてきたせいで、いまや天見はそうした相手の意図にひどく敏感になっていた。それで、警戒レベルを一段階下げる。
「渓はあんなんだから、ふたりも部員が入ってくれて張り切ってるけど、ほどほどでいいからね。試合の助っ人なんてどうにでもなるんだから。あんた、鵠沼さんの付き合いできてくれたんだろ?」
天見は正直に頷いた。「はい」
「最初っから全開だとあとで息切れするもんだ。頑張ってくれたらそりゃ、あたしも嬉しいけどさ。自分のペースでな……」
入部早々そんな風に言われるとはさすがに予測しておらず、肩の力が抜ける。新しい環境でさすがに天見もいくらか緊張していた。少しまえと色の違う前髪を弄りつつ細く溜息。
「部長」
「うん?」
「私小学校で不登校やってたんで、中学でもよくそうなると思います。部活きたりこなかったりしますけど気にしないでください」
若干、試すような物言いだった。どう返す?と言外に問いかけていた。氷月は眉を上げ、しげしげと天見を見やる。が、すぐにシュートの体勢に入って、「おー、了解」
ボールはなんのブレもなくリングに吸い込まれる。
だからストレス解消のために登ったところでいいことなんかなんにもないんだ!と杏奈は思った。それはもうこれまで百回は思ってきたことで、凝りもせずまたそう思っているのだった。そして結局のところ、自分にはこれしかないのがなによりの大問題なのであった。
集中の深い淵に沈んでいれば容易だったはずの課題で、数手も進まずに落ちた。無様な結果で、なによりもバランスが崩れきっていた。右足で立ちこむはずのスタンスに、左足でスメアリングをかけてしまっていたし、三点支持はずたずた、クライミングシューズがまるで別人のもののようにさえ思える。マットに仰向けで横たわりながら、小さな倉庫を改造したクライミング・ジムの天井を見上げ、両手で顔を覆った。狼のような唸りで喉を震わせ、手をのけると、天見の呆れたような顔がこちらを見下ろしていた。
「なにやってんですか、篠原さん」
杏奈は苦々しく笑った。「なにやってんだろう、姫ちゃん」
天見の手を取って立ち上がり、ベンチに戻った。天見は到着したばかりで、まだ制服姿だった。といっても白を基調としたセーラー服に、ジャージを羽織り、スカートの下にもジャージという、異性の視点から見れば幻滅以上に幻滅ものの格好だったが。ああ、中学生になったんだ、と杏奈はいまさらながらに思った。
そして、ますます悩みが深まるような気がして疲れ果ててしまった。天見が中学に上がったように、自分も大学に上がる準備をしなければならないのに。いまだ明確な志望校の目途もつかないなか、あたしが気を取られてるのは色恋沙汰ときたもんだ。それも――
「姫ちゃんちょっと聞いてよ――あたし女の子に告白されたんだよ……!」
天見の反応は政治の話題を振られた野良犬のようだった。「なんか課題変わってます? ホールド張り替えしたのかな」
「え? さあ。言われてみれば違うねえ」
「あの五級なら結構いけそうな感じがする。着替えてきます」
「あ、はい」
春先で、気温はまだ低い。外は指先がかじかむほどだ。が、ジムのなかは空調が効いており、クライマーの熱気もあって暖かい。戻ってきた天見は半袖だった。早速、登り始める。
通い始めた頃は七級を登るのさえままならなかった天見だが、素人ほど成長は早い。もともと、同年代に比べて身体能力もバランスも悪くなかった。ムーヴ次第だが、五級くらいならどうにか登れるようになっている。壁はそこからだ。
ウォーミング・アップに軽い課題を数度登って、杏奈の元に戻ってくる。登れそうだと感じた五級を観察する眼はいつもの天見以上に厳しい。が、眼の色がフッと緩んで、杏奈を見つめた。「なんでしたっけ?」
「……あー。うん。――。女の子に告白されました」
「なにを?」
「だからほら、それはあれだよ……愛を」
「はあ」天見の反応はやはり鈍い。「そういえば、空さんと連絡つかないんですけど。なにか聞いてます?」
なんだか自分がばかばかしくなってきて杏奈は肩を落とした。「三日まえに電話したら北海道だった。いまはどこかなあ。充電切れてるの、気づいてないんじゃない?」
「北海道?」
「山だよ、山」
「北海道――」
想像もつかない答えが返ってきて、天見は思わずくすりと微笑む。少しまえまで槍ヶ岳にいたというのに、慌しいことだ。ある意味、空らしいかもしれない。
杏奈はぼんやりと言う。「あたしたちもどっか行こうかー」
「どこかって?」
「ゴールデンウィークにさ。ちょっと遠出して、フリーでもアルパインでも。瑞牆山とか小川山――も近場になるのかな。まあ、北アルプスでも谷川岳でもいいよ。残雪がまだすごいだろうけど」
「いいですね」
一ヶ月後は近い。モチベーションの助けになり、天見は胸が沸き立つのを感じた。そうと決まればまずはトレーニングだ、立ち上がって、目的の課題に向かう。これくらいのグレードはこなしておかないと。
無邪気に壁に向かう天見を見つめて、杏奈は鼻から息を吐いた。この子もいよいよ山バカの道に入り始めてるな、と先行きを不安に感じて胸がぞわぞわ。天見の登る後ろ姿は、あのバカ親父の後ろ姿となぜかそっくりだった。
実家――と呼ぶのが正しいのかどうかわからない。空はその一晩だけ、櫛灘/佐藤家に滞在する。ひっそりと身を隠すようにして。雪菜の客、という体裁だったが、あまりいい風に見られていないことは、擦れ違うひそひそ話からもう明白だった。親父も災難だったな、と思う。あたしみたいなのを背負い込んだばかりに。
それでも、この家の立地はそう嫌いではない自分がいることに、空は気づいていた。古びた屋敷。誰もが夢見る田舎暮らしの、ある種の理想形がここにあった。遠野の田園地帯に囲まれて、車の通りはなく穏やかな静寂が満ち、見晴らしは良く、早池峰を盟主とする北上山地が一望できた。民俗学の舞台だ。ほんとうに、妖怪の一匹でも出てきておかしくないような空気があった。
縁側に座り込み、裸足を投げ出して、煙草を咥えた。薄い雲が陽光に透けている。ふと振り返ると、暗紅色の着物姿、小さな老婆とばちりと眼が合い、軽く頭を下げて会釈した。親類なのだろうか。しかし、老婆は素早く眼を背け、そそくさと立ち去っていく。空は肩を落とした。
(でも、あんまりショックじゃないな。……あたしも図太くなったもんだ)
少しまえまでは他人の視線にひどく敏感で、いちいち傷ついてもいたものだけれど。
結局のところ、それで山から遠ざかったようなものだったのだ。
三十路になって、一皮剥けてくれたんだろう。こうした心の位置に到達するのに、あの時間が必要だったというのなら、なんとか割り切ることができる。せめてそう感じていたかった。紫煙をくゆらせて、ぼんやりとしている。
軽い足音を背中に聞いて振り返る。従妹が緊張した面持ちでこちらを見ている。「水緒。……だったよね。こっちきなよ」
「……。……」
煙草を携帯灰皿に押しつけて手招き。雪菜の娘は、七歳だという。単純に可愛いもんだと思う。天見とは六歳差――成長期は怖いな、とここにいない少女のことを考えてひとり微笑む。水緒はおずおずと空の隣に座る。
「いいところだね、ここは――あんたの家は。おばちゃん狭っ苦しいアパート住まいだから羨ましいよ」
どう反応していいのか迷っているようだった。比較対象を知らないのだろう。突然現れた、従姉なる女への戸惑いもあるのだろう。海外の山で雪崩に巻き込まれて亡くなった伯父の存在自体、知りもしなかったのかもしれない。
「あたしね、神奈川に住んでるんだよ。東京の隣。都会ってほど都会じゃないし、田舎ってほど田舎でもないけど、山も海もあって、まあ、まあ、いいところだ。あんたは県外のどこかへ行ったことはある?」
「んーん」
「そう。いつでも歓迎してあげるから、一度おいで。このあたりは観光地みたいだけど、そういうとこに住んでる子ってどうなんだろうね? 他を観光して楽しい気分になったりするのかね。遠野は好き?」
「……」
「いや、ごめんよ。よくわからないよな。あたしは故郷の茅野が好きだったけど、それは八ヶ岳があったからだしね……」
水のように緩い時間が流れる。のんびりとしたもので、このまま眼を瞑れば眠ってしまいそうだ。父が決別した実家で、こんな気分に浸る日がくるとは思わなかった。
父親を裏切っている……とは思わない。櫛灘文太はどのみち、その程度のことを気にするような男ではなかった。そう信じている。それに、自分の人生は自分のものだ。誰に所有されたいとも思わない、それがたとえ死んだ父であっても。
いつの間にか傍にきていた雪菜が言った。「隣いいかしら?」
空は振り返った。「ええ」
「ごめんなさいね。みんなピリピリしていて。何十年もまえのことをまだ引き摺っているのだから、滑稽なんだけど、それを誰も認めようとしないの。兄のことを赦してしまえば負けだと思っている。変に自尊心ばかり高くて、心が閉鎖されているのに、正しいのは間違いなく自分たちだと思い込んでいる。結局ね、謝罪のことばが聞きたいのよ。自分たちが正しいって保証ばかり欲しがってる」
「親父はもういないんですけどね。あたしが頭下げて収まるなら、いくらでも下げますよ」
「それでも変えられないでしょうね。凝り固まってるのに自分で気づけないの」
隣と言ったが、雪菜は水緒を挟んで座った。無垢な子供を境にした距離がいちばん控えめで、しっくりくる位置だった。雪菜にしても、罪悪感があるのだろう。兄と別れてから兄が亡くなるまで空と会うことができなかったのだから。
「空さん。ご結婚は?」
「いえ」答えてから、空はくすりとした。「予定も見込みもないです。現状……」
「いきなりこんなことを言うのは不躾かもしれないけれど、私は相手を都合できる立場にいる。あなたの年齢に合わせて、それなりに社会的な身分を得ている殿方を探して、見合いの席を設けることができる。もちろん、あなたにその気があるならの話だけれど」
空は眉を上げた。雪菜は眼を細め、息を沈めるようにして顎を引いた。
「こんなことが罪滅ぼしになるとは思わないけれど。……遠野へ帰ってきてとは言わない。ここから上京して、東京に住んでいる知り合いも何人かいる。彼らに連絡を取れば、恐らくは乗り気で答えてくれるでしょう」
空は笑った。「大問題が残ってますよ。あたしみたいにふらふらしてる三十路女を気に入るような男が、この世界に何人残ってるかって話です」
「自分を過小評価してない? 身内の贔屓目を遠ざけてみても、はっきり言って、あなたは器量好しよ」いくらか空気が和らぎ、雪菜も微笑した。「たしかに、アイドル顔とは逆立ちしても言えないわ。でも、そうした一般的な価値観とは離れたところで、あなたには魅力がある。なにか異様なところで引きつけられてしまいそうな、危うさみたいなものが」
「そういう風に言われるのって生まれて初めてですね」
空は口許に指を添え、小さく俯いた。
「まあ、考えたこともないわけじゃないです」しかし、声音に迷いはなかった。「子持ちの知り合いが何人かいます。結婚してるひともいれば、未婚のまま、女手ひとりで子供を育ててるひともいる。でも、まあ」からだを逸らして、「あたしにはとてもとても。恐怖みたいなのもあります。家族ができたところで、親父みたいに、中途で倒れることになるんじゃないかって。そういう感覚はずっと持ってきた……」
それは常に常に感じてきた想いだった。それこそ、大人になるよりもずっとまえから。山をやっているから――そう、単純に言えたものではないが、純然たる死の匂いはずっと嗅ぎ続けてきた。
「あたしには母親がいない。そういうコンプレックスもあります。お手本がなくて、どうしようもない失敗をやらかすんじゃないかって。あらゆる状況が整って、なにもかも完璧にこなして、なにひとつ失敗しなくったって、子育てはどうしようもない終わりを迎えることがある。親と子って関係がおぞましいものに成り下がる可能性がある」
あるいは、姫川天見と姫川陽子のように。どちらも、どうしようもない人間ではなかった。むしろあたしよりもずっと人間的な人間だ、とあのふたりについては確信していた。それでもいま、親子関係はどうしようもなく冷え込んでいる。
「難しいところですけどね。……少なくともいま、そういう欲求は湧いてこないです。婚期を逃す、みたいなのは他人の価値観ですし、女性手帳みたいなのをもらって、政治屋から産めよ増やせよって圧力かけられるのも、くだらないことだと思います。あたしは――」
ふっと笑う。結局、結論はいつもひとつのところに行き着くのだ。
「ただ登っていたいです。それだけのために生きてる。なんのしがらみもなく、自由に……」
雪菜は微笑のまま頷いた。「あなたはたしかに兄さんの子ね」
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