文章の研究がてらに。ぽつりぽつりと。
オリジナル・非百合。
1シーンにひとつのモチーフぶちこんで、情報を小出しして、ストーリー繋いで……
短くばっさり。
読み易く書ければ文句はないのだろうけれど、ワンセンテンスで次の段落を連続させるとなんか寂しい。しかし以前悪い意味で美文と言われたこともあるので気をつけなければ。縦書きだとどういう感じに見えるんだろう?
設定を書くんじゃなくて、設定を抽出したシーンを描くとか、むにゃむにゃ……
オリジナル・非百合。
1シーンにひとつのモチーフぶちこんで、情報を小出しして、ストーリー繋いで……
短くばっさり。
読み易く書ければ文句はないのだろうけれど、ワンセンテンスで次の段落を連続させるとなんか寂しい。しかし以前悪い意味で美文と言われたこともあるので気をつけなければ。縦書きだとどういう感じに見えるんだろう?
設定を書くんじゃなくて、設定を抽出したシーンを描くとか、むにゃむにゃ……
全体的な印象よりも、一部のパーツによって他人を認識する癖があって、天見が空について覚えているのは、だいたい口許のあたりだった。
女のものとしては低く、太い声をしていたのだ。ぽつりぽつりと、ことばを落とすようにして話す、独特の抑揚。素朴で聞き取りやすかった。それでいてテントの外に出ると、不思議とよく通って、雪原のなかで殊更大きくはっきりと響いた。
学校の教師や、両親のものとは質が違った。腹の底まで浸透してくる不思議な声質だった。
それで、その声を放つ唇の動きが、妙に心に残っていた。口周りの皮膚自体に重みがあるかのように。新宿へ帰る長距離バスに揺られているあいだ、なにかそのことばかり考えていたように思う。ずしりとした疲労から、ほとんどうたたねしていたのだけれど……
二週間ほどして、天見はまだ借りているギアがあることに気づいた。
四本爪の軽アイゼンで、ヤッケの胸ポケットにしまったまま、持ち帰ってきてしまったのだった。ギアのほとんどはザックに詰め込んでいて、それを空の自宅にそのまま置いてきたから、それで全部返したと思い込んでしまっていた。
ヤッケとオーヴァーズボンだけは、新宿の登山用具店で買った天見自身のものだった。
『あげてもいいけど』と、電話越しに空は言った。
「そういうわけにはいかないです」
『わかった。じゃあ明日の夜に。七時くらいには帰ってると思うけど、いなかったら勝手に入ってなさい。鍵はポストの封筒に突っ込んどくよ』
「そんな物騒な」
『盗まれて困るもの特にないし』
耳の奥から風の廻る音がしていた。たったいま、山にいるのだろうかと思う。
快速電車で六駅下り、十五分ほど歩いた。
夜の闇に黒々と塗り篭められた、丹沢山塊が眼のまえに見える。自転車で軽く走っていけそうだった。ほんとうは長野か富山がよかったんだけど仕事がないんだと、最初に彼女の部屋に行ったとき冗談めかして言われていた。
もう都会の香りがしない。中途半端な田舎のようだった。
絵に描いたような安アパート。二階建てで、下に三部屋、上に三部屋。空が暮らしているのは二階のいちばん奥だ。灯りが点いていないしポストに鍵があった。もう七時を回っていたが、帰ってきていなかった。
一応ノックする。……返事はない。鍵を開けて、入る。
手探りで電気を点けた。白い壁紙に光源が反射する。
「やっぱり……」
以前一度見たときと変わっていなかった。整理していないのではなく、それが彼女にとっての普通なのだろう。
六畳間の半分を、山の道具が占めていた。その大部分は、天見には名称もわからない。なんのための道具なのかよくわからない。けれど山のためのものだろうということは、わかる。でなければなんなのか。
片側に、小さなテレビと並んで、小さなノートパソコンが畳に直に置いてあった。こんがらがったコードが滅茶苦茶になっていて、汚い。そのすぐ傍に一枚の写真が淋しげに飾ってあった。
いまの空よりもいくらか若い――髪が真っ黒で、腰のあたりまで豊潤に伸びている――自分撮りの、穏やかな表情をしたものだった。やはり山で撮ったのだろう、背景は黒いほど澄んだ青空で、遠い稜線が、真っ白に雪化粧していた。
引き寄せられるように、なんとなくその写真を手にとって、しげしげと眺めた。
ピントがずれているが、輪郭ははっきりしている。ぱっと見、ぐっと引きつけられるのは、一般的な基準から美人と言えるだろう顔つきではなく、その唇の、風雪に削られてぼろぼろになった有様だった。
山だから、化粧もしていないのだろう。それで、グロスもつけていない。萎んで薄い唇。
赤というより、白に近い色合いをしていた。
中心から左寄りに、さっと一筋刃物で傷つけたように、縦に真っ二つに割れて、どす黒い瘡蓋が張っていた。見ていて自分の唇がちりちりするような、痛々しい傷。山の乾いた風がそうしたのだろう。水気をすっかり失って、かなり異様な感じがした。テレビでよく見るようなタレントや女優、アイドルなどとは、比べようもない。母親や、クラスメイトなどとも……
「二十二か三のときだったかな」
突然空の声がして、天見は弾かれたように振り返った。
部屋の主が、のそりと敷居を跨いだところだった。上から下まで色気もない黒に、羽織ったヤッケの赤が暗い。このまえ穂高に登ったときと同じ、百リットルのザックが、重々しく膨らんでいる。そっと下ろしたが、階下の部屋に響くのではないかと思うほど、床が軋むようだった。
「海外の山だよ。ネパールの――言ってもあんたにはわからないか。六千メートルくらい。技術的にはそんなでもなかったけど、ひとりだったから結構楽しかったよ。規則だからガイドはいたけど」
「楽しい……?」
「天候読み違えて、めっちゃくちゃに荒れて、壁のど真ん中で三日くらいビヴァークしたんだ。三日で収まってほんとよかった」
空は昔の恋人のことを話すような顔をした。楽しげに眼が細められた。
「あたしもすっかりはしゃいでたんだね。冷静な眼で見ればきちんとわかるはずだったのにさ。おかげで死ぬところだった、莫迦な話だよ」
天見はハンドバッグから軽アイゼンのケースを取り出した。「空さん、これ……」
「はい、ありがと。でも、持っててもいいんだよ。あたしは使うときは十二本爪使うし、この時期の丹沢だったら、あんたにはこれがいちばんだしさ」
「行かないんで」
「行こうよ」空は寂しげに微笑んだ。「上のほうはそれなりに積もってるけど、あんたよりちっちゃな子でもわりといるよ。みんな登るもんだから、トレースしっかりしてるし、キックステップだけでも充分なくらい。初心者には最高なんだ。天気がよければ海も見える」
ケースを乗せた手のひらに、上から手のひらが重ねられた。受け取られずに、そのまま虚ろな秒が過ぎた。
空の手も、指先も、写真の唇と同じように、水気を失ってぼろぼろに乾いていた。傷ついた黒い瘡蓋が一筋、ひび割れるように走っていた。なにか魔力のようなものを帯びて、吸い込まれるような心地がした。
「……テントの周りでうろつくだけなんてつまらないです」
空は微笑を苦く染めた。「丹沢は幕営禁止なの。日帰りだよ」
「あの……」
困ったように眼を泳がせる天見を見て、空は撤退した。ごめんよと両手を上げて、後退りする。
「無理にやる必要もないね」
天見は横目でさっきの写真を見た。そこに答えが映っているかのように。
蛍光灯の光に反射して、数年前の空は霞んでいた。天見は今現在の空を見上げた。写真と同じように、その唇に、黒いひび割れが走っている。瘡蓋から、ピンク色の肉まで覗いている。生々しい痛みが、空気を伝って伝播してくるように感じた。
天見は咄嗟に言ってしまっていた。「上まで行けるなら……」
言ってから少し後悔した。なにを言ってるんだろう、私は。空の唇が、その傷口が、嬉しげに綻んだのを見てますますそう思った。
他に、特になにもすることもないからだと、言い訳のように思った。
家に篭もっていると母親の視線が煩わしいし。どうせ卒業まで学校に行く気もなかった。
アパートの外から、空の部屋を見上げた。窓越しに彼女のシルエットがうっすらと映っていて、シャツを脱いだところで思い出したようにカーテンが閉められ、なにも見えなくなった。なんとなくついた溜息は白く凍った。
厚い手袋をした両手を持ち上げて、口許を覆う。一瞬だけ口周りが温かくなり、すぐに冷える。どうして下界のほうが山の上より寒く感じるのだろうと思う。気温だけで言えば、ここより十度以上は寒かったはずなのに。
山と空。奇妙な場所と奇妙な女。
風雪に削り込まれたような唇ばかりが印象に残っていた。自分の唇もそうなってしまうのかと。
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