闇黒片 ~Chaos lives in everything~
Stage4 地底教会
――ラヴリーラヴリーベイビーズ
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「貴様らはまるで話にならん男だ」と女は言った。「長いこと長いこと長いこと放ったらかしにしといたくせに突然手紙なんぞ寄越しやがって」それがまるで汚らわしいものであるかのように、紙切れを摘まんだ指が振るわれた。「このヘタクソな文章を見て彼女がどれだけ動揺したかほんの少しでも想像がつくか、ええ、石ころみたいに軽い脳味噌しか詰まってないドーナツ頭で。まったく見苦しい、自称文士の駆け出し勘違い野郎みたいな文章を、よくもまあここまで恥ずかしげもなく書けたものだ。間違いなく恥辱で顔が真っ赤になるレヴェルだぞ、いまここで高々と朗読してやろうか? おい顔を上げるんじゃない、その馬面をこっちに向けるな、生きてることさえ心底辛くなってくる! 床に額を押しつけてどっかの神にでも祈ってるんだ! よおしそのままでいろよ、そのまま彼女のことに思いを馳せろ。彼女はな、ようやく――やっと――もう何百年も塞ぎこんでいて、心さえ闇の奥底に失っていたものを、ほんの少しずつでも取り戻し始めてきたんだ。水のなかで呼吸をするように、自分の罪と一から向き合って、それをどうにか飲み下しつつあったんだ。一歩ずつ……一歩ずつ!……ほんとうに牢獄のような日々だった……地上への封印が解き放たれたあのときを境に、やっとすべてが良い方向へ回り始めていたというのに、貴様らときたら! お陰で彼女がどこへ行ってしまったのかもわからん、一度隠れられてしまったら私の毒では見つけようがないんだぞ、ええ!? くそ、しかし久し振りに罵倒したものだから喉が痛い、まったく疲れてしまった。ちょうどいいな、おい貴様椅子になれ。……実にいい座り心地だな! 妖怪としてじゃなく椅子として生まれていたらきっとどこぞの女王のお気に入りにでもなれていただろうよ! そこだけは褒めてやろう、公僕」
「巫女殿が大人しそうな子で良かったと思ったらこれだよ!」馬頭は女の尻に押さえ込まれた姿勢のまま嘆いた。「どうせこんなことだろうと思ったよ、また僕のほうが貧乏くじを引く羽目になるんだろうって! それでもゴズの頼みだけは断れなかったんだ、昔からの友人だったから! 妹のほうもよく知った仲だったから! 兄妹が離れ離れになっていることくらい大きな悲劇もないだろうと思ったし! くそっ、それで気が済むんなら思う存分やってくれ、僕は君のような眼をした女性たちに百万回は打ちのめされてきた男なんだぜ!」
絣は眼のまえで繰り広げられる突然の応酬にただ唖然としていた。
「おまえが今代の巫女とやらか」
いまだ馬頭を椅子代わりにして、腕と脚を組み、傲然と見下す眼で女は言う。絣はいきなりですっかり気圧されてしまい、思わず地面に正座して頷く。
「はい……」
一見、なんの変哲もない人間のように見える女だった。角がないことから、鬼ではないとわかる。黒地の着物に、幻想郷式の巫女服のように袖を切り離して、浮き立つような細い肩の、地底の妖怪特有の白すぎるほど白い肌が剥き出しになっている。袖の部分には鮮やかな紫の刺繍が施してあり、桜や菊、百合や撫子、牡丹など、統一性のない花々の模様が描かれている。十五でも三十五でも通じるだろう、年齢の読みにくい、中性的な顔立ち。艶のある黒髪を右肩のまえあたりで束ねて、豊かな胸に自然なかたちで垂らしていた。
「まったく博麗も八雲も訳のわからん女どもだ。例によって例の如く私も先代にはこっぴどくやられた妖怪のひとりだぞ。やつが二十歳ぐらいのときだったか。あのときのことはいまでも鮮やかに思い出すことができる、十秒だぞ、たったの十秒! 眼のまえに現れたと思ったら口上を述べる間もなく『ああもう面倒だわね霊撃!』で終わりだ! 博麗に対しては恨み以外のどんな感情も持ち合わせていないぞ、なにを考えて私のところなんぞへやってきたんだ!?」
「それは奇遇だな、僕もやられたことがあるぞ」馬頭が地面に向けてどうにか言う。「彼女が地獄へやってきたときだったな、鬼たち相手にばっさばっさと大立ち回り、まったくあのときは素晴らしい見物だったよ。鬼でもないのに巻き添えをくらった僕はそのへんの毛玉みたいなものさ、それでも二秒はもったものだ。いやあ懐かしいなあ、あのときの霊夢殿は――」
女の素足の踵が馬頭の頭を踏みにじる。「誰が喋ってもいいと許可した竹輪頭!」
「すまない!」
絣は馬頭が哀れすぎ、なんとかして彼女の注意を逸らそうと声を張り上げた。「あっ、えと、私も先代さまには一度落とされました! 妹が修行つけられてたんですけど、顔が同じなもので、間違えられて! 一秒経たずに賽銭箱に頭から突っ込みました!」
「ようしわかった、ここにいるのは目糞鼻糞の集団というわけだなまったくろくでもない。で? こいつはともかくとして、巫女。貴様はこいつがここにきた意味を」踵をなおもぐりぐりと動かしながら――「――あの猫女がここにきた理由を、きちんと聞いているのか?」
絣は困惑する。
「え……?」
「まあいい。貴様の仕事ではないようだしな」顎をしゃくって家を示す。「入れ。頼まれたからには、用事が済むまで泊めてやる。もともとふたりで暮らしていた家だが、この大間抜けどものせいでいまはひとりだ」
「あ、はい」
どうにか態勢を整え、絣は正座しながらも、深く頭を下げる。
「しばらく、お世話になります。絣といいます、よろしくお願いします」
「花乃だ」
ぶっきらぼうに言うと、花乃はようやく馬頭から腰を上げる。
「いろいろと言いたいことはあるが、もういい。まあ短いあいだだろうが、ゆっくりしていけ。旧都へ行くには少し時間がかかるが、ここなら酔っ払いどもがくることもなくて、寝るときも静かだしな。地底を見て回るにはのんびりできるだろうよ」
(もー――……いー――……よ――……)
不意に懐かしい声を聞いた気がして、牛頭は顔を上げた。水底に潜っていたかのようになにも届いていなかった耳に、雑踏の、砂を擦るような無数の足音が飛び込んできた。
「むぅ……」
喉を震わせて唸りながら、立ち上がる。旧都の市には露店が延々と連なっていて、その一角、軽くなにか食うつもりで立ち寄った長椅子に腰かけたまま、うたたねしていたらしい。ほくほくと湯気を昇らせるうどんはまだ熱く、ほんの二三分の夢だったらしい。
箸を無雑作に突き立てて、からっと揚げたかき揚げを頬張った。歯の奥でサクリと軽くほぐれ、強い腰のある麺と交互に食べると、止まらなくなる。美味かった。気分は沈んでいても腹は正直だ。
ほとんど一息に平らげたが、つゆは少しずつ飲むことにした。そうして、行き交う雑多な鬼たちの姿を眺めながら、旧都の雰囲気のなかで何度も息をついた。
地底へ多くの同胞が降りる頃に、現地獄へと早々に下った牛頭は、旧都は初めてだった。現地獄の鬼たちよりも、みなの表情はずっと柔らかく、活気があった。怨霊を相手にするのは変わらないのに……牛頭はどうしても、四天王の有無を思ってしまう。
箸を置いて、眼を伏せた。
(……一、)
おもむろに数をかぞえる。
(二……三……四)
丸太のように太い腕の筋肉が、油で黒く汚れた食卓の上でかすかに震えた。
世界が遠く離れ、いっとき、牛頭の精神はここでないどこかへと落ち込んでいく。耳が再び水底へ沈み、なにも聞こえなくなる。別次元の集中力が、裏側へと導く。見えるものを見なくなり、見えないものを見る、もう一対の眼が薄く開かれる。
(十……)
最後まで数えて、小さく囁く。
「もういいかい――」
しばらく待つ。……どれだけ待っても、答えはなかった。
額に手を押し当て、意識を引っ張り出した。また、音が戻ってくる。ここにもいない。どこへ行ったんだ、とここにいない者へ訴える。そのとき、肩に細い手が置かれる。
「ごめん。待たせたかな」
橙が言うと、牛頭は首を振る。
「いや、こっちこそすまねえ。あんたがいてくれると助かるよ、俺だけじゃきっと出てきてくれねえだろうから」
勘定! と一声上げ、牛頭は立ち上がる。
花乃に促され、絣は囲炉裏のまえに座った。向き合うかたちで花乃、右手に馬頭も座った。
しゅんしゅんと、火にかけられた鉄瓶が湯気を噴いている。花乃が蓋をずらすと、その勢いも弱まり、すぐに、きれいな来客用の湯呑みに茶が注がれた。
花乃の湯呑みは一目で使い古してあるのがわかる、深みのある色合いだったが、誰も座っていない左手にも、同じように使い込んだ湯飲みが置かれた。絣はあれっと思い、家の主を見つめたが、花乃はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「あの……旦那さんのですか?」
絣はおずおずと聞いた。
「私はこれまで三度結婚したが、三人とも一年ともたなかった。ずうっと昔の話だ、何百年もまえのな」誰もいない席を顎でしゃくって、「これはいまの連れのものだが、結婚はしていないし、するつもりもない。女だからな。『己の身と気配を隠す程度の能力』持ちで、いまもここにいるかもしれないと考えて出しただけだ」
馬頭はしばらくその湯呑みをじっと見つめていたが、やがておもむろに花乃のほうを向いて、膝を揃えた。花乃からなんだという視線を受け取ると、深々と頭を下げ、重い声で言う。
「まずはお礼を言いたい。ありがとう」頭を上げずに、「君がずっと世話をしてくれていたことは、星熊様から伺っている。見捨てられても文句の言えない立場だったのに……。ここにはいないが牛頭の分まで、心から感謝する」
「やめろ」花乃はじろりと馬頭を睨む。「そんなことを言われる筋合いはない。彼女を助けたのは土蜘蛛と橋姫のやつで、私は後始末を買って出ただけのことだ。闇の奥底に心を囚われて、正気でいられなくなったやつを、ひとりきりにさせるわけにはいかなかったから」
「君たちが地底へ降りることになった直接の要因だった。それがどういうことかはわかっているつもりだ。僕も当事者のひとりだったんだから」
「貴様らが切り捨てたも同然なのによくも口が廻る」
馬頭はじっと花乃のことばを受けている。
「……是非曲直庁が一枚岩でなかったことくらい理解してるさ」しばらくして花乃は言う。「所詮は目糞鼻糞だ。私には彼女を恨むつもりなんかこれっぽっちもない、どうせいつかは地上から出て行かねばならぬ身分だったんだから……。人間がいくら食われたって、私の知ったことじゃなかったんだからな。
だが、貴様らは別だ」
ことばに毒が入り混じるのが、絣にもわかった。
「放っておいたんだから、放っておけばいいものを。彼女の兄とやらがどんな男なのか知らんが、突然こんな手紙を寄越しやがって。いまさら、『会いたい』だと? 罪悪感に土足で踏み込んで、掘り返すような真似をして! 可哀想に、彼女は稲妻を目の当たりにした童みたいにぶるぶる震えて、固まってしまったんだ。ただでさえ自分のしたことを思い返さない日はなかったのに」
「だが、ようやくだったんだ」馬頭は言い返すのではなく、嘆願するように言う。「地底はずっと封印されて、幻想郷からでは行き来すらままならなかった。例の異変で解放されてから、何度彼女の行方を探ってきたことか。居場所がわかっても、踏み込むことはできなかった。君の言うとおり放っておくのが最良の選択だと思えてならなかったからだ」
馬頭はそこで頭を上げ、花乃を見つめて言う。
「牛頭にとっても身を引き千切るような想いだった。それだけはわかってくれ」
花乃は突き刺すような視線で応じた。
針山地獄の只中のような時間が訪れ、絣はわずかに身を捩る。
やがて花乃は絣に向かって言う。
「巫女。貴様はどう思う?」
「え……」
「博麗には神がかった勘があるんだろうが。なんとなくでいいから察しろ。間違っているのは私か? この馬面野郎か?」
絣には彼女らのあいだでなにがあったのかうまく理解できない。それでも自分には想像もつかない世界があるのだろうというのはわかる。『ガキが知らなくていい世界があるんだよ』と、獣の突き放すようなことばが耳の奥で木霊する。
それでも、離れ離れになった兄妹がいるというくだりだけはわかる。わかりすぎるほどわかる。
「あの……私にも、いなくなってしまった妹がいるんですけれど」お姉ちゃん、とどこまでも明るい思い出の幻影が囁く。「もう二度と逢えないかもしれないですけれど、できるものなら、もう一度逢いたいです。そういう想いは本物です。逢ってどうするかはわからないけど……でも……」
「私にも兄と姉と弟がひとりずついたが、そんな風に思ったことはない。親と同じで、昔からなにより目障りな邪魔者でしかなかったし、たぶん向こうのほうでもそう思っていただろう」少し沈黙を挟んで、「……そういう兄妹がいるってのはわかった。想像もつかんがな」
花乃はもう一度馬頭を睨んで言う。
「私は、彼女は兄になんぞ会わんほうがいいと思う。いまになって自分の肺を突き破るような真似をすることもないだろうが。兄なんぞいなくても生きてこられたんだから……。だが、そういうのも私のつまらん頭で考えたクソつまらんクソ理屈でしかないわけだ。彼女が会いたくなったら姿を現すだろうし、会いたくなかったら出てこんだろう。私はもう知らん。これ以上干渉はしない」
「僕がここにきたのは、彼女がここに帰ってきたら知らせてくれと牛頭に頼まれたからだが」と馬頭。「構わないだろうか。連絡役として、ここに滞在していても?」
「星熊様に頼まれてしまったことだ、断るわけにもいくまい。そのほうが都合がいいなら勝手にしろ。だが、それなりの代価は払ってもらうからな」
妖怪の賢者にまで頼ろうとしたのだから、本気なのだろうと、橙は牛頭の背中を眺めながら思う。牛頭はいま、人気のない四つ辻の脇に佇んでいる、朽ちかけた地蔵をじっと見下ろしている。
「四季様に説教喰らっちまって」と、独り言のように呟く。「眼のまえに延びてる道を、いつまで見えない振りをしてるんだ……って。ケツを思いっきり蹴っ飛ばされた感じだった」
太い指が、地蔵の頭に乗っかっている、擦り切れた布地をそっと剥ぐ。懐から真新しい、赤い頭巾を取り出すと、注意深く置いて、紐を結んだ。
片膝を突いて、右拳の面も地面に置く。眼を閉じ、懺悔するように俯くと、一から始めて十までカウントするあいだに、精神が分厚く丸まり、宇宙をその手に掴むかのように指先が震えた。
聞くところによると、『隠れたものに呼びかける程度の能力』だそうだった。なんとひどく限定された力だろうと、橙は眼を細める。隠れ鬼の鬼役。実際に戦うとなれば、鬼という種族の膂力は一国を相手取ることもできるのだろうが……
「呼ばれた気がして」
「すまねえ、嬢ちゃん。ひと違いだった」
「はいはい」
こいしは橙ににこりと笑いかけた。
「やっ。お久し振りー」
「こんにちは」
「なにしてるの?」
「ひと探し。だいたいこの辺かなって思ったんだけど」
「ふぅん」
ト、トッ、と軽やかに足音がしたのを、橙の耳は聞くことができない。こいしの姿はひどくおぼろげにしか見えず、気づくと銀色の軌跡を残して背後に回りこまれている。
「私の能力とは違うよ」
こいしのことばは宙ぶらりんになっている。心を読まれたかな、と橙は訝る。
「読めないよ。もう少しで開けそうな気はするんだけど」
「読んでるでしょ?」
「これは心の眼。第三の眼とは違うモノ」
「……。で、あんたはここでなにしてるの」
「さっきまでこのへんにいたかもしれないけど、逃げられてるよ」
質問を完全に無視されていた。けれど橙は耳をひくつかせて首を傾げる。
「あなたは昔と比べてものすごく成長したね。でも、それで置き去りにしてしまったものもたくさんある。いまのあなたがどれだけ気配を隠そうとしても、漏れ出る光は闇に眩しすぎて、警戒させるよ」振り返ってもこいしはいない。振り返った時点での背後で、背中合わせのかたちで立たれている。「鬼って種族も同じ。逃げられれば、追いつけない。追いつくには待ち伏せするしかないけれど、逃げる者はそういう気配に敏感で、くるくるくるくる、進路はあちこち。逢えるのは、遭おうとしない者のほう。弱い者。小さな者」
「ぅうん……?」
「あなたが引き寄せるのは別の闇。で、私は」
こいしはことばを区切り、橙にはわからないほうを向く。にこにこといつもの笑みを浮かべたまま、不意に右眼の下に人差し指を当て、舌を出してみせる。
こいしの気配が消えた瞬間さえ、橙にはわからない。
牛頭が眼を開き、頭を上げた。
「星熊の大将……」
「牛頭? 牛頭か! なんと、こんなところで――こうして会うのは久し振りだな、元気にしてたか!」
牛頭はまた頭を下げてしまい、手のひらで目許を覆ってしまいさえする。
勇儀は少し驚いたように、牛頭と同じように片膝を突いて視線を合わせた。
「すまねえ、大将……感動しちまって。連絡くれたの、嬉しかったです。お陰であいつに会う決心もついたんで」
「ああ……! 妹には会えたか? 花乃には、言ってあったはずだが」
「隠れちまった。いま、探してるところです」
「そうか……」
勇儀の手が牛頭の肩に置かれ、ますます打ちのめされたかのように、牛頭は震えてしまう。
そこで勇儀は橙に気づき、立ち上がると、驚いたように口許を手のひらで覆った。
「八雲の娘か……! これは驚いた、このまえ会ったのはほんの数ヶ月まえなのに、また見違えたものだ」
橙は両袖を合わせて頭を下げる。勇儀には会うたびにそんなことを言われている気がする。
「牛頭を助けてくれているのか。ありがとう、もう賢者よりもよほど頼りになるな。牛頭にもおまえさんにも、いろいろと積もる話もあるな。今夜の宿は決まっているのか?」
「地霊殿です」
「む、む」ほんの少し眉をひそめて、「……よし、わかった。今晩にでも訊ねさせてもらうよ、酒でも持って」
これは潰されるな、と橙は内心覚悟を決める。そこでふと思い出して、
「さっきまでこいしがここにいましたけど。もしかして彼女に用が?」
勇儀は困ったようにがりがりと頭を掻く。「……いや、まあ。とにかく。さとりにもよろしく言っておいてくれ、私はこれで行くよ」
それで勇儀はそそくさと行ってしまう。擦れ違う瞬間、橙の四つの耳はぼそりと呟かれたことばを拾う――『鬼ごっこの鬼役みたいだなまったく……』
橙はこいしのことばの意味をじっと考える。逢えるのは遭おうとしない者……弱い者……小さな者……
「家事はできるか?」と花乃。
「一通りはできます! お世話になってるあいだはなんでもします!」ここぞとばかりに絣は声を張り上げる。
「僕のほうは察してくれ」馬頭は肩を落とす。「掃除洗濯ならともかく、料理はてんでだめだ。ここのところはずっと中有の道の弁当屋頼みだよ」
「うむ、よし。だったら」馬頭を顎でしゃくって、「料理は貴様がしろ」
「えっ」
「そして貴様は」絣を見下ろして、「なにもするな。私の家に関すること一切を禁止する」
「えっ?」
話の流れに真っ向から逆らう花乃の物言いに、ふたりは唖然とする。花乃は当然のことだとでも言う風にふいと目線を背けて知らん顔。
「ちょっと待ってくれ! 僕は料理ができないとはっきり言ったつもりだったのにどうしてそうなるんだ? 他のことだったらいくらでもするが料理だけはほんとうに無理なんだ、勘弁してくれ!」
馬頭の反論に絣もウンウンと頷き、「私お料理だったらいくらでもできますよ! お口に合わないかもしれませんけどそのときは全力で直します! なにもするなってどういうことですか!?」
「私の家を男に掃除させるなど考えただけでうんざりする。空き巣のほうがまだマシだ。洗濯だと? いかにも下心のありそうな言い分じゃないか、ふざけるな唐変木。貴様のつくったものを口に入れたくもないが、貴様にできることなんぞ百歩譲ってそれくらいしかないんだよ。食えないものをつくったらその金魚みたいな口に全部突っ込んで捨てるだけだから安心しろ。そして巫女、貴様は癪だがあの猫女によろしくと頼まれているんだ、ずっと働き詰めだから休ませてやってくれとな。まったく見事な交渉術にまんまと乗せられてしまった。家事なんてしてる暇があったらさっさと旧都へ観光にでも行ってこい」
もう凝ったものをつくる時間もなかったから、その日の晩飯は、握り飯になった。漬けてあった大根や人参を薄く切ったものを添えて、ひとつの盆にこんもりと載せられた。一個ずつ味がまばらで、いちいち塩辛かったり、逆に塩気がなかったりした。
親指についた米粒をぺろりと舐めて、花乃は忌々しそうに顔をしかめた。
「明日から少しはまともなものをつくれよ」
「くっ……旧都へ買い出しにいくくらいはさせてくれよ」
「午前中いっぱいは仕事だから、昼から、買い出しついでに観光案内してやろう」
そういうことになると、他に決めることもない。火皿の灯りを吹き消し、早々に床についた。来客者用の布団はひとつで、馬頭が使った。絣は同居人の布団を使ったが、鬼の体格に合わせたもので、とてつもなく大きすぎるように思われた。囲炉裏を挟んで、三角形に、それぞれ大きく離れて横になった。
すうすうと寝息が聞こえてきたが、絣は起きていた。慣れぬ環境で眠れるかどうか心配だった、ここしばらくは神社でさえなかなか眠れない有様だったから。案の定、どうしても思考が走ってしまい、眼を閉じていても瞼の裏側を視線で突き刺しているようなのだ。
(……むー)
花乃。……また妙にインパクトのある女だと思う。ルーミアと出会ってから、なんだかそんな女とばかり知り合っている。彼女の口調からはどうしてもあの獣が思い出されてならない。剥き出しにされているのは敵意ではなく、毒だったが……
逆に、先に獣とことばを交わしていなければ、完全に圧倒されていたかもしれないとも思う。とりあえずはそれほどショックを受けていない。ひとまずは。
(感謝、するべきなのかもしれないけど)
闇をじっと見つめていると、そのへりが五つの爪痕に引き裂かれる光景が浮かんでくる。咆哮とともに腕を薙いだ獣の姿がまざまざと思い起こされる。絣はそのたびにぱちりと眼を開きながら、眠気がそれに打ち勝つときをじっと待っている。
朝は目玉焼きが出てきた。なんだかもう塩コショウの味しかしなかった。
「だめだ。レパートリーはもう完全に尽きた」馬頭は頭を抱えた。「花乃さん、せめて料理本を貸してくれ。それを見ながらじゃないと買い出しだってできる気がしない」
花乃の仕事は、毒専門の薬売りだった。『毒を操る程度の能力』――どこぞの人形のように、鈴蘭に特化したものではなく、広く浅くある程度応用の利くものだ。害虫退治のホウ酸団子や、除草剤を、旧都の市場で売っているのだった。料亭や庭師などに、お得意の客もいるらしい。
「昼過ぎに待ち合わせをしよう」と花乃は絣に言う。「旧都の中心から少し離れたところに、古い教会が建っている。小さいから遠くからじゃわかりづらいが、ぽっかり開けた裏通りにぽつんとあるから、歩いていればわかるだろう」
「教会、ですか?」
旧都のイメージとかけ離れた単語に、絣は首を傾げて困惑顔。花乃は構わずに地図を取り出して場所を示す。
「ここだ。まあよほど方向音痴じゃない限り迷わんだろう。昼まではそのへんで適当に時間を潰していろ。じゃ、行くか――」言いかけてふと思い直し、「おい、貴様。なにか身を守るものは持っているのか?」
「え?」
「星熊様のお陰で治安は悪くないが、所詮は鬼の住処、怨霊跋扈する障気の地だ。巫女といっても――貴様……」
改めて見ると若いというよりむしろ幼い小さな巫女、伝わってくる霊力の片鱗は噂どおりの零無。花乃はうーむと唸り、こんなちっちゃな少女が鬼の巣窟へ飛び込んでいくという事実に動揺する。そうだそういえば、あの猫女がこんな私を頼ってきたのも、旧都の宿では心配だということで、せめて夜だけはということだったはず。
「あ、それなら大丈夫です! 危ない目に遭ったら街ごと吹き飛ばします」
絣はぐっと右手を握り締めてきっぱり断言。一度は獣に破砕された槍もすっかり元気に元通りだ、悪魔の契約はいまだ胸のなかに息づいている。使いこなせているわけではないが威力は本物、自爆くらいにしか使えなくても頼もしい。
が、それも花乃の知るところではない。眼に映るのはあくまでただの少女であり、弱々しい巫女である。
「なにを言っているのかよくわからんが、だめだ。不安すぎる。あまりにも不安すぎる」
決めつけると顎に手をやり思案顔。やがて部屋の片隅で棚の引き出しを片っ端から開け放ち、持ち出してきたのはふたつの小皿に注がれた、どろりとした紅と黒の染料。それに筆。
「利き手はどっちだ?」
「え、右ですけど」
「じゃあ左手を出せ」
言われるがままに差し出すと、手に取られて値踏みするような眼で見つめられ、すぐに花乃の手が筆を取る。毛先が紅を拭うとそのまま絣の爪先へ。
「えっ? えっ?」
「じっとしてろ」
なにをしているのかと馬頭もくる。「どうしたんだい?」
「うるさい黙れ」
さらさらと、絣の左手の爪に紅い紋様が描かれる。火のような、水の流れのような、小さな細い指先に揺らめく濃い色。絣はネイル・アートかと思う、が、筆は爪どころかすぐに指の肌にまで伝ってくる。
「なっ、なにしてるんですか!?」
花乃はまったく自分の世界に入り込んだかのようにそのことばを無視し、紅の小皿に筆を置くと、もうひとつ筆を取って黒いほうにとぷり。紅と同じように絣の爪に化粧を施していく。
慌てて手を引こうとしてもすでに手遅れ、手首を強く締めつける花乃の腕は揺るがない。瞬きすらせず絣の指先を見つめ、いっときたりとも止まらずに描き続ける。時間にすればほんの一分だったが、終わったときには花乃の額はほのかに汗ばんでいる。それほど集中していたようだった。
絣はすっかり驚いてしまい、改めて自分の指先を見ると、親指から小指まで五指すべて、第一関節から第二関節の半ばあたりまでびっしりと紅と黒の波打つような紋様が刻まれている。見ようによっては散りゆく花びらのようにも見えるが、絣もそこでようやく、それがなにか呪術的な力の篭められた魔方陣のようなものだと気づく。
「これは――」
「狸の葉っぱだ」ふうと息をついた花乃が言う。「霊力の流れを組み替えて、触れた者のからだに深く染み込んで同調させ、冒す働きをする。擬似的な毒だ。威力は術者の霊力に比例するから、貴様が使ってもまあ軽く一瞬麻痺させる程度のものだろう。護身用の、スタンガンみたいなものだが、これは奪われる心配がない。使うときはこう、そっと指差すように触れるだけで充分だ。左手で物を食うなよ」
「……」
絣はじいっと変わり果てた自分の左手を見つめる。
なるほどこれなら確かにいざというとき役に立つだろうし、槍と違って自爆する心配もなさそうだ。なにより自分の癖、弾幕に集中しすぎると得物の存在をすっかり忘れてしまうという欠点をカヴァーできる。が、しかし――
「……禍々しい」
「当たりまえだろう、私の――妖怪の術なんだから。おい、なんだその眼は。なにか文句でもあるか」
巫女らしさマイナス20といったところか。
絣はがっくりと膝を突き、深く肩を落としたのだった。
「理緒はまだ眠ってる?」
「にゃ。……ね、ねえお空、もうちょっといられない? あたい心配でたまらないんだけど、ホラ、お空しかお母さんって見てないもんだからさ……」
「あんまり長くセンター留守にしてたら神奈子様に叱られちゃうからさ。大丈夫だよ、そんなに遠く離れてるわけでもないし。だめそうだったら、お燐が連れてくればいいよ」
「あたい絶対きらわれてるよぅ……」
「そんなことないって」
ずきんずきんと二日酔いに痛む頭を抱えて厠に立った橙は、エントランスに響く会話を聞く。心配そうに薄れていく燐の声に、楽観的に慰める空の声。回廊の手すりに手をかけて見下ろすと、耳も尻尾も垂れてすっかりしょげた様子の燐が空のマントの裾を摘まんでいる。
理緒?……燐は首を傾げて聞き慣れぬ名前を口のなかで転がす。地霊殿の新しいペットだろうか。昨晩勇儀や牛頭、その他底なしの面々に付き合わされているあいだ、それらしき人影は見なかったように思うけれど。
「さとり様にだって懐いてくれないんだもの。あたいなんか……」
「恥ずかしがってるだけだよ。私だって、いつまでもそばにいてあげられるわけじゃないし。私もお燐も、いまの理緒くらいのときには地獄で独り立ちしてたでしょ?」
「きっと、火車とか地獄烏とかと違うんだよ。仙人のお姉さんにもっと詳しく聞いとくべきだったなあ。お空がいなくなったらあたいあの子とどう接したらいいかわかんない」
「もうっ。お燐は心配性だなあ、ちょっとこっちきなさい」
「へ?」
いきなりぐぁあんと昨日の酒の残り香が喉の奥からこみ上げてきて、橙はウッと口を押さえて青い顔をしながらその場を後にする。厠へ一直線。まったく今日も牛頭の妹の気配を追ってあちらこちらを回らなきゃならないのに、朝っぱらから幸先が悪い。二度寝したいなあと思うのだが、鬼はいつでも朝が早い。そうして迎え酒を呷って、そのアルコールで一日を乗り切ってしまうのだ。
橙がいなくなったあと、物陰から再び出てきた空は満足げににこにこ、顔色はつやつや。遅れて出てきた燐は首の根まで真っ赤にしてふらふら、眼はぐるぐる。
「安心した?」
「ひゃい」
「じゃ、私行くからね。理緒と一緒に遊びにきてよ?」
「ぅにゃぁ……」
すっかり大人しくなってしまった燐に手を振って、空は地霊殿から出て行った。
人里では市が立つたびにわくわくするような胸の高鳴りを感じたものだが、地底でも、それは変わらなかった。
油売りの横に構えた花乃や、食材を見に行った馬頭と別れ、絣はひとりで歩いていた。通りは図体のでかい鬼だらけで、彼らのほとんど足元をすり抜けるように小走りに歩いてきょろきょろする。地上と違って地底の地面はしっとりと湿っていて、砂埃はほとんど立たない。妖怪の気配が幾重にも折り重なって皮膚感覚を衝き、圧倒されるようだ。
馬をほとんど見かけないことが不思議だった。地底に馬はいないのか、それともそもそも必要でないのか。
鬼の子がきゃんきゃん騒ぎながらまとわりついている一角で、桜餅を買って頬張った。ほどよく塩漬けされた桜の葉に、甘い餡の、粒の触感がたまらない。地上となにが違うのかな――と注意して味わってみたが、美味いのでなんでもよくなった。
「よーぅ、そこいく人間のお嬢ちゃん」
不意に声をかけられ、すわ不届き者かと、反射的に身構えた。
「そう警戒するなって。なんか買ってかねえか。人間は珍しいから、まけといてやるよ」
不貞腐れたように座り込む、若い鬼が、手のひらの上で林檎を弄んでいた。
見ると、ずらりと並べられた籠のなかに、林檎だけでなく花梨や梨、杏、梅や李、胡桃、アケビなど、たくさんの果物が山をつくっている。濃厚な、息詰まるような香りが立ち昇り、市の雑多な匂いと入り混じってほとんどカオスだ。
「地獄のお天道様じゃない、八咫烏の太陽で育った、本物の果物だぜ」
「八咫烏の……?」
「地上の食い物にも負けねえよ。へっへ。まったく地霊殿の女神さまさまってやつだぜ」
鬼が林檎をかじると、じゅっと果汁が弾けるように飛び散り、一目見てわかる、たっぷり蜜の詰まった果肉が白く映えた。絣はごくっと唾を飲んだ。桜餅の後に林檎は、味が百八十度変わるから、ぐっと惹きつけられてしまう。
「……お、おいくらですか」
「そうさねえ……」
値段を聞くと、絣の眼が光った。「むっ。高い。ヤですよ、地上の倍の相場じゃないですか。昔ならともかく、いまでそれはないです、ぼったくりです」
「丹念に育てた、高級品だぜ。当たりまえじゃねえか。地上のことなんておれぁ知ったこっちゃねえや」
「騙そうったってそうはいかないですっ。お買い物はずっと私の役目なんですから、これでも物を見る眼はありますよ! 払えるのはせいぜいこれくらいで限度です」
「なにィ……四分の一じゃねえか、冗談キツイや。ませたガキやね。だめだだめだ、不味い林檎でいいならあっち行きな」
「そうですか。残念です」
「ちっ。待てや待てや。しかたねえな、これでどうだ」
「ダメですね。これで」
「これで」
「これ」
「てめえ、玄人かよ。一銭でも多く値切ろうって魂胆だな。くそっ、これで限界だ、これ以上下がったらおれが食えなくなっちまう。こっちは女房子供もいるんだぜ、生活かかってんだ」
「三個買いますから、一個おまけしてもらえません?」
「四個分の値段で五個だ。ちくしょう、持ってけ」
「籠がないので、そんなに持てません」
「サーヴィスしろってか。鬼め。おれぁ泣くぜ」
ただで奪った麻袋いっぱいに林檎を詰め、絣はほくほく顔でその場をあとにした。
人里のなかでも山のほうに近い場所で育った絣にとっては、旧都は地図の上では広くとも、空が見えない――重く黒い雲に覆われ、そのところどころから岩の天井が垣間見えているという光景は、なんとも苦しい閉塞感のなかにあるように思われた。このくらいの障気なら耐えられる、けれどもそれ以外のものが、こうしていっときの滞在ならともかく、ずっとここに住むというのは……
しかし、人々の表情は決して暗いものではなかった。少なくとも絣にはそう見えた。住めば都とでもいうのだろうか。
ふと、眼のまえを黒い猫が横切った。反射的にそちらのほうを向いた。凶兆とされる黒猫も、絣にとっては、吉兆だ。橙は、地霊殿には私よりずっと強い猫がいるよと言っていたが、いまのも火車の妖怪だろうか。
猫を追って歩いてみると、長屋の立ち並ぶ通りに出た。市が立っているせいか、こちらのほうはずっと人影が少ない。擦れ違う鬼から、不思議そうな眼で見られるのを感じた。人間というだけで珍しいのに、こんなちっぽけな少女だから、当然だろう。そう思ったが、その目線はむしろ麻袋を掴む左手のほうにいっていた。
(……むー)
花乃の施したタトゥーがなんともあれすぎるのだった。
隠したいが、手袋をすれば余計に目立つ。ましてノースリーブのツーピースという服装では。袖だけでもまたしようかな、と思ったりもする。
さらに猫を追うと、猫しか使えないような、破れた柵から通る細道に至った。障気のなかでも育つ妖しげな蔦をかきわけ、藪を漕いでいくと、不意に視界が開けた。
(あ)
小さな――それでも周りの長屋よりは大きな、西洋風の尖塔の上に、ルーミア……でなく、十字架が立っている。
慌てて地図を見る。間違いない。花乃の言っていた、教会だった。
(ほんとにあるんだなあ)
教会そのものよりも、庭のほうが広い。控え目に一本だけ植えられている樹に、おんぼろのブランコがかかっており、ふらふらと気まぐれに揺れている。絣がきたのは教会の裏側からだったが、表側に回ると、入り口まで延びる石畳の両脇に、赤と白の、チューリップの花壇がある。そこから本堂を向くと、想像していたよりもなんだか丸く、屋根は円を描き、ずんぐりしていてどこか可愛い。
立派なものではなかったが、小奇麗で、親しみやそうな印象の建物だった。
静かだったが、人影が花壇のまえでしゃがみこんでいる。腕をまくって、雑草をせっせと引っこ抜き、籠に放っている。
庭師ではなく、黒白の、シスター姿の女性だ。
胸の上まですっぽり覆うような大きなベールで角の有無はわからなかったが、やはり鬼であるらしく、かなりの大柄だが、すらりとして細身に見える。修道服は巫女服と同じように、何度も繕った跡があり、ところどころ擦り切れている、着古した立派なものだった。
花乃は待ち合わせようと言ったが、ここで休んでいてもいいものだろうか。絣がためらっていると、シスターが立ち上がり、うーんと背伸びして腰をとんとん。そこで絣に気づいて振り向き、ふっと微笑んで頭を下げた。
「こんにちは」
緩やかに消え入るような、細い、煙のような声だった。
「あっ、はいっ、こんにちは!」
「――人間さんは久し振りですね。地上の方ですか?」
「はい」
「遠いところからようこそおいでくださいました。こちらになにか御用でも?」
絣は頷いた。
「用っていうか、あの、待ち合わせをしてて……。ここで少し待っていてもいいですか?」
「でしたら」シスターは本堂のほうを向いて、「なかへどうぞ。信仰以外に、なにもありませんが……」
「でもあの、私、神社の人間なんですけど」
シスターはくすくすと笑った。「大丈夫ですよ。異教徒を退ける教えはありませんし、八百万の一、ですから」
シスターの後ろについて、絣はおずおずと本堂に入った。
思っていたよりも、ずっと明るかった。高い天井のお陰で閉塞感はなく、灯りは控えめだったが、白い壁紙に反射して影ができないようになっていた。並べられた長椅子は、左右に二列、縦に五つ。マリア像は等身大よりもずっと小さく、道端の儚げに微笑む地蔵のようで、絣は肩の力が抜けてしまった。
ステンドグラスのようなものもなく、素朴だった。しっかりと掃除されてはいたが、古くなってしまったものは誤魔化せず、全体の雰囲気が優しかった。
長椅子の端に座り、絣は慌てて麻袋から林檎を取り出した。
「あの、ありがとうございます。これどうぞ!」
シスターは苦笑して、土に黒ずんだ手を拭ってから受け取った。「ありがとうございます」
長椅子にふたり並んで、しゃりしゃりと林檎をかじった。
他に礼拝する者はおらず、外以上に静かだった。神社の、閑散とした静寂ともまた違うように思われ、絣はここでも『別の世界』を感じた。神聖さ……というと大袈裟になってしまうが、不思議と笑い飛ばせない、背筋が伸びてしまうような空気だった。
「あの……珍しいですね、教会、って。地底にあるとは思いませんでした」
「ずうっと昔の――私がここにくるまえから建っていたもので、どうしてここにあるのかは誰も知らないそうです。神父さまもいなくて、私もこんな格好をしてますけども、ほとんどでたらめなんですよ。見様見真似で手を合わせているだけなんです」
「え、じゃあどうしてシスターさんなんですか?」
「亡くなったひとたちを弔うおしごとをしたかったんですけれど」困ったように頬を掻いた。「お寺さんも神社も、地底にはなかったんです。仏敵や、神敵の集まる場所ですので。もちろん、私にしても。異国の神さまは遠すぎて、味方も敵もありませんから。
だからといって、皆さんがここにくるわけでもありませんけど。ふふっ……たまに気まぐれでお祈りしてくれる方が、一ヶ月にふたりか三人くらい。いつもお掃除ばかりしてます」
絣は、それ以上聞かなかった。
シスター姿の鬼……そういうのもまた、答えのない矛盾なんだろうと思う。教師然とした獣のように。
ただ、訪れる者のいない信仰の場所というのには、シンパシーを感じた。鬼であり、相応の背丈をしているのにもかかわらず、なにか優しげな空気を纏うこの女にも、素直な好ましさを覚えた。
林檎を食べ終えると、シスターは立ち上がった。
「では、私はこれで。……好きなだけ使っていただいて大丈夫ですから、どうぞごゆっくり」
「あ、ありがとうございますっ。またきていいですか? 一週間くらい、地底におじゃましてるんで」
「はい。このとおり寂しいところですが、そう言っていただけると嬉しいです」
シスターは柔らかく微笑んだ。どこか、いまにも泣き出してしまいそうな、ひどく儚げな表情だった。
花乃がきたのはそのすぐ後だった。馬頭も一緒にきた。
「この間抜けめ。うつけめ。貴様の愚図っぷりにはもうどんな毒も合わん。相場の五倍で林檎なんぞ買わされて! 果物屋の倅は星熊様からさえぼったくる正真正銘筋金入りの悪党だぞ、最初から手に負える相手じゃなかったのに、貴様ときたら!」
「いや、でもすごく美味いんだ。中有の道じゃこんな美味しい果物は手に入らないんだ、つい……」
「この――うん? 絣! 貴様まで林檎を――!」
「大丈夫です限界まで値切ってやりました!」
「……。まあどうでもいい、それよりここで誰かと会わなかったか?」
「え? シスターさんはいましたけど」
「そうか……」
花乃は少し考える様子で、腕を組んで黙っていたが、すぐに気を取り直したように絣を見下ろした。
「行くぞ。……まあ、適当にぐるりと回るか。私も休暇みたいなものだから、のんびりするかな……」
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