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2025/02/07 22:12 |
(東方)
 
 闇黒片 ~Chaos lives in everything~
 
 
 
 Stage3 山間雪原
 
 
 ――その道の中途で……


 中篇


 

拍手



 朝になって、朝陽が柔らかく射し込み、少女の寝顔を優しく照らしても、少女は起きる気配はなかった。
 
 絣は蔵を引っ掻き回して、古い木刀を見つけた。軽く握ってみると、模造刀ながら重くなく軽くなく柄と刀身のバランスも良好で、腕が快い感覚に満たされた。ように思われた。絣には他の刀を握ったことはないから、比べることはできないのだが……
 先日、赤毛の悪魔とやりあった一件から、いろいろと考えることができている。耳に残っているのは桔梗のことば、『自分に合った武器が、いずれは見つかります』。網膜に焼きついているのは、触手相手に縦横無尽に立ち回った、サクラの剣舞。
 よくわからないが、とにかくやってみよう。そう思い、境内で軽く振るってみた。つんのめるように振り回されたが、もともと御幣を使った修行は橙とこなしている。ものになっているわけではないが、修行の要は繰り返すことだ。何度も振っていると、見覚えのある、大きな虎型の妖獣がやってきた。
 
 『よう、嬢ちゃん』ミケだった。『橙がいなくて、困ってるんじゃないかと思ってさ。オレでよければ、相手になるぜ?』
 願ったり叶ったりだった。弾幕の修行は組手主体であり、ひとりでやってもなかなか上達しないものだ。絣はぺこりと頭を下げた。「よろしくお願いします」
 『よっしゃ。実はオレもさ、相手して欲しかったんだ。なにせ』そこでどろんと白い煙に包まれ、絣が眼を白黒させているあいだに、人化していた。「このからだ慣れてないからな」
 
 白髪に褐色の肌の、いかにも活発そうな、小柄な(といっても絣より頭ひとつぶん大きな)少女。絣は腰を抜かしてしまった。
 
 「女のひとだったんですか!?」
 「言ってなかったっけ?」
 「オレ、オレって――」
 「オレがオレでなにか悪いかよ。まあいいや、へへっ、じゃあ早速いくぜ!」
 
 ぱしっ、と手のひらに打ちつけられた拳が鳴った。
 軽やかに散った弾幕とともに、ふたりのからだが飛んだ。――のは最初だけで、すぐに地上から低空戦へと移行した。絣は空を飛ぶ程度の能力が未熟すぎ、ミケは地を蹴って何度も跳躍する術のほうが得意だったからである。それでふたりのフィールドが噛み合った。
 ミケは素早かった。境内の石畳が弾かれるたび、そのからだは鋭角に曲がり、跳ねた。金色の獅子のようだ、と絣は見惚れてしまった。見惚れてるあいだに飛んできた弾丸に額を撃たれ、仰け反った拍子にごつんと後頭部を地面にぶつけてしまった。
 
 「よし、一機! こんなもんかよ、嬢ちゃん!」
 「ま、まだまだっ」
 
 木刀を両手で握り、ミケの動きを見極めようと低速で移動した。弾幕をグレイズしつつ、必死でその鋭い動きを追う。わかる。ミケは素早いが、素早いだけで、正直すぎる。先日のサクラのような、妖精特有の、こちらを惑わせるようなものではない。
 集中するんだ、と自分に言い聞かせる。弾幕はレースではない、速い遅いは直接の優劣にならない。弾の出所をわからなくすることのほうが大事。慌てなければ、こちらの実力の届く範囲ならかわし続けられる。
 
 じりじりと近づく。
 近づく。
 近づいて――
 
 「『夢想封印・劣』!」
 
 射程内――
 が、ミケは一度そのスペルカードを眼にしている。地を蹴り、効果範囲の外へ逃れる。目標を見失った弾幕が弾ける。
 かわした先に絣が待ち受けている。
 
 「おっ」
 「いやぁぁぁぁぁあああああっッ!!」
 
 気合一閃、放たれた弾丸がミケに向かう。ミケが自分のからだに慣れていれば、あるいは本来の虎姿なら咄嗟に防壁を張ることもできただろうが、残念ながらそこまで熟練していない。胸のあたりで弾丸が弾け、ミケは仰け反る。
 
 「一機!」
 「こりゃいいや、丁度いい練習になるじゃないか。嬢ちゃん、オレが慣れるまで付き合ってもらうぜ、途中でギヴ・アップするなよ!?」
 
 
 
 獣はやや離れたところからふたりの弾幕を見つめていた。
 子供ふたり。……片方は未熟すぎ、片方はまったく慣れぬ別人のからだでやっているようなもの。ぬるいにもほどがある弾幕だが、それでも少なくとも、ふたりとも真剣であることがわかる。
 そうしたやりとりを見つめていると、幻想郷だなと思うのだ。この地特有の、この地ならではのスポーツ。血で血を洗う銃撃戦を遊びへと昇華した、息詰まる、スリリングな……
 
 ふっと息をつき、いっとき、思い出に身を任せる。人里の歴史を隠し、あの物騒極まりない少女たちとやりあった夜。満月の晩、人間から獣と化し、あの人間には指一本触れさせないぞと高く飛んだ――
 それは自分自身の歴史であり、けれどもはや、自分のものではない。ノスタルジックで切実な哀しみに襲われ、獣はわずかに眼を伏せる。それは慧音の歴史だ。慧音のものだ。あたしは慧音じゃない。どれだけそうした感情がリアルだったとしても。
 
 
 
 ミケはにやりと微笑む。「勝ち越したぜ」
 絣は膝に手をつき、肩で息をしてからだを折り曲げている。頬から顎の線を伝い、幾筋もの汗が滴り落ちる。「――ぁ、ありが、と――ござまし、たっ……」
 
 砂埃に顔を汚しながらも、余裕ありげなミケに比べて、絣はもう満身創痍といった様子だった。相手が橙であれば、いつもの光景だ。崩れ落ちる体勢を支えきれず、石畳に膝をついてしまう。
 そんな彼女にミケは手を差し伸べる。絣が揺れながらその手を掴むと、一息に引っ張り上げる。ダンスのパートナーに誘うように。
 
 「なんか考えながらやってたのか?」とミケ。
 絣は頷く。「ぃ、いろいろ……ああしたいこうしたいって弾幕はあるんです、けど……うまくイメージできないし、かたちにもできなくて」
 「過渡期はキツいよな、お互いな。ところで木刀はどうしたんだ?」
 絣はいつの間にか手ぶらになっていた。「あ」
 「ありゃやめとけ。嬢ちゃんには合わねーな」
 
 弾幕のなかで、意識が武器から逸れていた。茫然と両手を持ち上げ、手のひらを覗き込む。かわし、霊力を編むのに精一杯になってしまうと、そうなるようだ。橙との修行においても、しばしば御幣も針も札も忘れてしまっていた。
 ミケを見ると、その手には爪。抜き身の刃がきっかり五つ。橙もそうだが、化け猫なのだから当然だ。彼女らに、武器など必要ないのだろう。縦横無尽に野を駆ける、そのしなやかな肢体があれば。
 
 あの獣の爪はひび割れ、砕けかけていた。角はほとんど根元から折れているようだった。それでもそれが健在であれば、きっと大した武器なのだろう。だったら、私は? 人間の、このちっぽけな少女の爪では……
 ふと昨晩、猫に纏わりつかれていた獣の姿が思い浮かんだ。ミケにしても、この神社周辺の猫であることには代わりない。猫の気持ちはわからないが、ミケとは意思疎通できる。
 
 絣はなんとか息を整えると、「あの、ミケ……変なこと訊きますけど、獣さんってどう思います?」
 「好きだぜ?」
 
 なんでもないように言われ、絣は息を呑んでしまう。
 
 「あんなに怖いのに。牙を隠そうともしないで」
 「オレは獣で、あっちは聖獣様。敬うのは当然だろ? まあ、それだけじゃないけどさ」
 「どうして?」
 「んー」白い炎のような髪をがりがりと掻いて、「けだものに明白な説明を求められても困るぜ。人間じゃないんだから、気持ちをことばにするのは苦手なんだ。なんとなくだよ、なんとなく」
 「橙さまは命を救われたって言ってました。いったいなにがあったんですか?」
 「橙はオレたちとはものが違うっていうか、いろいろ経験してるからなあ。死にそうになったことだって、それこそたくさんあるんだろ」
 
 真っ先に思い浮かんだのはなぜか、ルーミアだった。率直な好意を隠そうともしないのに、傍から見ると、ふたりのあいだにはなにか微妙な距離があるように思えた。闇……闇そのもの。拙い感知能力にしばしば引っ掛かる剣呑すぎるほど剣呑な気配。おかしな話。橙のほうは幻想郷の管理者である八雲の一族であるのに。
 
 「嬢ちゃんはあいつが苦手なのか? 不思議だなー」
 
 ミケのほうに逆にそう言われてしまい、絣は困惑する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 自分の家であるかのように神社に出入りする獣に、絣はなにも言うことができない。それとなく後を尾けても、少女の部屋以外にはどこにも行かず、特になにを荒らしているわけでもない。少女を食べるような気配があればすぐに飛び込む準備はしているが、獣はなにを考えているのか、絣が慌てて襖を開けても素知らぬ振りをしている。それで余計に不気味に思う。
 橙は、なかなか神社にこれないでいる。普段から結界の維持や特に危険な妖怪の監視など、仕事は尽きることがないし、冬眠から覚めた紫が、まだ覚醒半ばである。そのうえで少女の里親を探しているとなれば、絣に向ける時間も減ってしまう。それでも折を見ては寄ってくれるだけありがたいのだ。
 
 「あいつはなにもしないよ」と、橙は獣について言う。「これまでもずっとそうだった。ふたりきりで、あんたが安心できない気持ちもわかるけどね。傷が癒えたらまた消えてしまうよ」
 
 獣を見ていると、なにか心の深部が揺さぶられるような感覚がするのだ。
 絣はまた、少女の里親についても訊く。そう簡単なことでないことくらい、想像はつく。
 
 橙は軽く微笑んで、「それは大丈夫そうだよ。子供が欲しくても、いろんな事情でつくれないひとたちを何人かあたってみてる。ただあの子が起きてからだね、どんな性格の子なのかも、いまのままだとわからないしさ……」
 
 永琳がまた、往診にきてくれる。彼女の纏う空気は慧音のそれと似ていて、絣はほっとするのだ。その奥に得体の知れないものがあるにしろ、少なくとも少女を診る永琳の眼には、獣のような、こちらをざわめかせる力はない。
 永琳に言われて、桶に水を汲んでいく。両手が塞がって、襖を開けることができない。声を上げかけ、そこで部屋のなかから声が染み出してくるのに気づく。
 
 「あなた、いつまでそんな生き方を続けていくの?」
 
 獣がなかにいる。絣ははっと硬直してしまう。
 
 「あたしが死ぬまでか、あたしのなかが死ぬまでか。あたしにはわかるんだよ、永琳。日に日に、この胸の憎悪が量を増していくことが。勢いは強まったり、弱まったり、熱くなったり、冷たくなったりするが、総量だけは増え続けていくんだ。自分で冷静かどうか自分でもわからんが、少なくともそういう眼で自分を見ることはできてると思うよ」
 「あなたがそういうかたちで生き延びていることは誰も知らないでしょう。私自身ついこのまえやっと知ったんだから。慧音も、姫様も、妹紅も、阿求も。あなたはいったいなんのために――」
 「さあな。だが、人間はまだいる。腐るほどいる。そいつを見ろ。そいつのことなどどうでもいいが、そいつをそんな目に合わせたやつらを見ると自分の一部が燃え立つような感覚がするんだ。あたしの一部は憎悪に怒り狂い、あたしの一部はそれをひどく冷静に薬室へと装填する」
 「感情が抑えきれない?」
 「それは違う」獣の声はあくまで深く、理知的な感じさえする。「感情が大きすぎる、だが、それと反するものも大きいんだ。そしてそのふたつがどちらも、あたしにやれと命じている。そうだな、狂信者というのはこんな感じなんだろうな。愚かしいことだってわかるよ。でも、どうしても見過ごせない。
 あたしは殺すよ、永琳。全員殺す。おまえとこうしているいまでさえあたしはあたしを急かしているんだ。傷を癒さなければとわかっているが、のうのうと安らかな眠りを貪っているクソどもがいる限りあたしは止まれない」
 
 永琳を見送ったあと、絣は点滴に打たれる少女の細すぎる腕を見つめる。骨と皮しかない。ちっぽけな自分よりもさらに小さい。
 
 
 
 自室の掃除をしていると、妹と一緒に紅魔館の図書館に忍び込み、そこで『借りた』ままにしてある一冊の本を見つけた。開いてしまうと夢中になって、それで一日が終わってしまうのがわかっているので、そっと埃を払って本棚にしまう。内容は完全に覚えているのだ。
 異国の、ひとりの兵士の物語だ。彼は戦地へ赴き、優秀な相棒とともに、数々の伝説的な武勲を残す。彼は英雄視され、崇められるほどになるが、自分のことをただの一兵士だと、本当の英雄は自分をサポートし続けてくれる相棒だと理解していて、ただ期待を裏切ったと言わせないために、自らの仕事を果たすために、銃弾をばら撒き続ける。その日々は唐突に終わり、彼は敵の銃弾を胸に受けて骨を砕かれ、眼のまえで相棒を殺され、負傷者として祖国へ送還される。戦争は誰ひとり勝利者のいないかたちで終焉を迎える。
 シリーズもので、絣の借りているのは一冊だが、図書館には何冊も続編があった。兵士は血の宿命か、神の悪戯か、戦争のあともまるで探偵のようにいくつものおぞましい企みに巻き込まれる。そのたびに彼は銃を手に取り、悪に向けて弾丸を放ち、国家的危機から世界を、家族を救い続ける。血沸き肉踊る、よくあるヒーローの活劇譚。が、そのたびに彼は傷だらけになり、また、自分のことをただの人殺しにすぎないことを誰よりもよく知っている。哀しみは増え続ける。
 
 絣がなによりもよく覚えているのは、そんな彼に誰かが告げたことばだった。『あんたはこの社会に必要な男だ。決して表に出ることはなくても、本当に敬意を払われるべき兵士だ』。主人公はただ首を振っただけだった。
 
 「女の子の読む本じゃないなー」
 「うわあっ!?」
 
 ルーミアだった。先程絣がしまいこんだ本をわざわざ引っ張り出し、箪笥に腰かけてぱらぱらとページをめくっていた。絣が驚いて腰を抜かしかけ、慌てて柱に手をつくと、ルーミアはけらけら笑って本を放り捨てた。
 
 「だめー!」
 
 慌ててヘッドスライディングし、本を空中キャッチ。あくまで借り物である、パチュリーのロイヤルフレアを喰らえば絣では塵も残らない。棚に顔面をぶつけ、その衝撃で落ちてきたあらゆる雑貨の雨に殴打されたが、本をかばって涙目でこらえた。
 
 「イェー! ナイスキャッチ、ファインプレイ! 巫女業以外だとなかなか有能だなー、ルーミアさんも度肝を抜かれましたとさ。で、橙は?」
 「留守ですっ、ばかー! 橙さまはお忙しい方なんですよ!」
 「ファック」
 「じっ、神社ではFワード禁止!」
 「橙をf○ckしたい」
 「えっいまどうやって発音――だめっ、だめですっなに言ってるんですかやめてくださいっ!」
 
 本当に橙に会いにきただけなのだろう、ルーミアは不貞腐れてしまったように頬杖を突き、絣から興味を失ってしまう。絣はまったく面白くない……そっちからちょっかいをかけてきたのに、驚かすだけ驚かしておいて、一方的に飽きてしまうなんて。神社の、しかも自室という、パーソナル・スペースのいちばん奥にまでずかずか入り込んできて。
 しかもいまは、そういうやつがもうひとりいた。絣の絶叫を聞きつけ、獣が音もなく廊下を伝ってやってくる。なんのためらいもなく襖をばすりと開け放ち、
 
 「なんだ、どうしたっ――む?」
 紅金色の双眸が、同じ色をした髪と眼を捉える。敷居の上に立つ裸足の爪がわずかに揺れる。
 ルーミアはおざなりに手を振ってみせる。「ハイ、チビ。おひさー」
 「ルーミア?……いや、おまえか? 性懲りもなくまた封印を――!」
 
 どうしてみんな自分の部屋みたいに私の部屋に、と嘆きかけ、絣ははっとする。翠銀色の髪が逆立ち、真っ白に染まる獣の顔。思わず怖気づいてしまうほどはっきりした敵意が、その表情に浮かんでいる。喉が詰まったように緊張し、咄嗟に声を上げられなくなってしまう。
 
 ルーミアはただひたすらに面倒くさそうな顔をしている。「しばらく見ないうちに、あんたも変わっちゃったなー。ますます慧音センセそっくりだよ、どうなってるのそれ?」
 「おまえと交わすことばはない。霊夢がいないのならここであたしがケリをつけてやる」
 「中身は相変わらずだこと。はっ。ちっぽけなチビになにができるっての?」
 
 なんの前触れもなく闇が光を押し退けて広がる。なにひとつ見渡すことのできない絶対の黒が視界を染め、絣はひっと息を呑む。が、その声はさらに大きな声に 掻き消される。恐竜のような咆哮が獣の喉から発せられ、音圧に風が渦を巻いて吹き荒ぶ。
 砕けた爪が闇を薙ぎ、五つの亀裂が爪の痕のまま光を覗く。そのひとつからルーミアの驚いたような顔が見えている。
 
 「上等だ」重みを倍増しした声が二重になって響く。「失った力は取り戻せなかったが、新たな歴史を構築することはできた。本当のチビでしかなかったあの頃とは違うぞ!」
 獣が走り出す寸前、絣は我に還る。「だっ、だめーっ!」
 
 絣はルーミアに向けて振られかけた腕を掻い潜り、獣の胴に抱きつく。全体重を篭めた突進に、不意を衝かれ、獣は絣ごともんどりうって倒れかける。
 どうにかして踏ん張り、絣の頭を掴んで離そうとする、が、そのあまりにも他愛ない小さな感覚が逆に獣を動揺させる。その首がいとも容易く折れてしまいそうに思えて。
 
 仕方なく獣は力を弱め、「どうして止める!」
 「私の部屋を滅茶苦茶にする気ですかっ――じゃなくて! ルーミアは橙さまのっ、なんかアレでアレなひとなんですッ、本気でやりあうのはやめてください!」
 「アレとはなんだ!」
 「だっだから――その、えー、あーうー!」
 
 埒が開かず、獣は絣の歴史を読む。ここ最近のルーミアに関する部分だけ。
 獣は顔を思いっきり歪ませ、天を仰いで目許を手のひらで覆う。
 
 「なんだそれは――っ! どうしてどいつもこいつも――っ自分より厄介な問題抱えた女とばかり寝たがるんだ!?」
 
 獣が嘆いているあいだに、闇がすっかり晴れている。ルーミアはもう面倒くささを越えて無気力になりかけている。
 
 「……私なにやってんのかなー。橙もいないのに……あっほらし」
 言うや否やルーミアは箪笥の影に熔けるように消えてしまう。
 
 
 
 絣に抱きつかれたまま、獣は眼を細める。ルーミアの気配が完全に消えたことを悟ると、率直な苛立ちから絣の胸を押し、からだを離す。
 
 「それに、ルーミアは」
 絣はなおも言う。
 「私の仕事ですっ。……再封印しなおすのは私の役目です! 先代さまの式でもそれだけは譲れません!」
 
 絣は懐に手をやり、その内側からリボンのように見える呪符を取り出し、獣に向けて突き出してみせる。ルーミアがあげると言ったあの日からずっと肌身離さず持っていた。獣はそのリボンを、といよりそれをぎゅっと掴んでいる絣の指を見、ますます険しい表情をする。
 
 「……あたしはもう霊夢の式じゃない」やんわりと訂正して、「どうでもいいがな。……くそ……おまえ、あれがどういったものだかちゃんと理解してるのか?」
 絣は俯く。「正直なとこ、全然わかりません。次元が違いすぎて、なんにも感じ取れません」
 「橙のやつ」忌々しげに呟く。「……なにがどうなってそうなったんだかさっぱりわからん。おまえ、師からなにも聞いてないのか? 橙はな、あいつのせいで死にかけたんだぞ。いや、はっきり言おう、殺されかけたんだ」
 
 そんなことばを聞いても、大したショックでないのが、不思議といえば不思議だった。博麗の勘かどうかはわからないが、なんとなく察していたのかもしれない。橙とルーミアの距離感。獣に命を救われたという、橙のことば。
 
 ぷいと顔を背け、頬を膨らませて言う。「どうせそんなとこだろうと思ってましたっ」
 獣もなんだか疲れ切ってしまい、手のひらに顔を押しつけ、盛大に溜息をつく。「……まったくばかばかしくなってきた。これ以上知りたいなら本人に訊くんだな、橙が昔話をしてもいいと感じてるときを狙って」
 「知りたくもありません。どうぞ好き勝手にって感じです」
 「ふん……」
 
 
 
 踵を返し、獣は絣に背を向け、少女の眠っている部屋まで戻る。
 目覚める兆候もなく、点滴だけが静かに動いている。生き延びるための道筋を、蜘蛛の糸のように少女の腕へと送り込んでいる。障子から柔らかに射し込む茜色の光条が痩せこけた頬を刻んでいる。絣の絶叫がはっきりと聞こえたように、先程の騒ぎも聞こえてきたに違いない。それでもまだ起きることなく眠り続けている。
 獣は自分の腕を見つめる。……折れた骨は繋がりつつある。そうして全快へと向かう自分のからだを感じるたび、ほっとしたり、頼もしく思ったりするのだ。闇へ容易く爪を立てられるほどに。
 
 「あたしはそろそろ、また旅立たなければ」少女に言うともなく言う。「おまえが目覚めるより先だろうな、きっと」
 
 そうしてそっと耳元に口を寄せ、何事か囁き、部屋から出ていく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 獣の持つなにかが絣の胸をざわめかせる。不安にさせ、むかつかせる。
 ルーミアに覚えるような恐怖ではない。もっとなにか、深奥に働きかけ、得体の知れないものだ。薄い胸越しに自分の心臓を掴み、呑み込むように呼吸をしても、それがなにかわからない。わからないこと自体に、ひどく不安定にさせられる。
 
 だからといってこんな唐突な別れでいいわけがないと思う。
 「行っちまった」
 蔵の裏で、ミケが寂しそうに言う。
 「怪我はもう治ったんだと。せめてあの女の子が起きるまでいてくれよって止めたんだけどなあ。興味ないってさ」ミケはまるで親と別れたような顔をしている。「まえにきたのが、五年もまえだ。次に会えるのはいつなんだろうなあ。また大怪我してくるんじゃないかって思うよ」
 
 勝手すぎるにもほどがあるでしょう。いきなりやってきて眠り姫を置いて用事を終えたらはいサヨナラ。橙さまに挨拶はしたの? するわけないだろ、きてないんだから。つまり橙さまにみんな押しつけて雲隠れと。雲は橙のおふくろさんのほうだ。
 
 「ミケ、お留守番おねがい」
 「おおっ、追いかけるのか?」
 「なんか、なんかむかつく。いきなりいなくなった紡と同じ匂いがする」
 「いいけどさ、腹減ったらあの子ちょっとかじっていいか?」
 「自爆『ネガ・――」
 「冗談だ。いい子にしてるぜ」
 
 飛ぶのは苦手だが、高く高くを意識すれば空気の抵抗も減って、それなりにスピードも出る。そのぶん疲れてしまうが、ぎりぎり踏ん張って、生家まで一ッ飛びした。その頃には太陽も中天を渡り、黒ずんだ雲の隙間から、スポットライトのような光を段々畑のところどころに注いでいた。
 親に挨拶するつもりはなかった。井戸水から勝手に汲み上げ、桶一杯になみなみと、一息に煽った。絣はスタミナがなければ燃費も悪い。
 
 そこからは低空で山の奥へ向かった。変に目立って、山の妖怪に見つかれば勝ち目はない。グングニルは撃てばこちらが吹っ飛ぶ、グレイズされたらそれで終わりだ。目覚めの床と呼ばれている、ごつごつした岩がきのこのように突き出た川辺を伝う。残雪の、冷たい白がぽつぽつ見え始めると、二十メートル級三段の滝、断魚の瀑。
 風が冷え始める。山の無表情な気の流れだ。その勢いから、河童すらも居つくのを避けるという、絶妖渓流に至ると、本格的に寒くなってきた。ノースリーブのツーピースではきつい、染み出た汗に冷気が痛い。まだ緑のない樹木群に、ざっくりと濃い影が乗っかっている。太陽が傾いてきた。
 
 「追いつける?……追いつけない?」
 
 このあたりにはきたこともない。怖かった、妹の残り香を嗅いでしまいそうで。霊的な感知能力などなくても、魂の片割れが残した軌跡は肌で感じる。打ちのめされそうになりながらも、絣はそれを頼りに先へ進む。結界の綻びへ。
 ざくざくと枯れた枝を突っ切る。肌が傷ついていく、が、それもすぐに終わる。いきなり視界が開け、すっかり曇ってしまった光のない光景にかかわらず、絣は眼を眩ませている。白。純白よりも白く漂白された山間の深雪の白。冬が残っていた。
 
 見えた。
 
 山の獣の足跡さえない雪原に、自らの足跡をつけて歩いていた。無機質な白に、翠銀色が鮮やかに映えていた。怪我が治った? 本当に? 遠目から見てもわかる、尻尾は中途で千切れて箒のように広がり、角は根元から砕け、爪はひび割れていた。雪の上でさえ裸足の五爪だけが怖いくらい鋭利だった。
 「――っ」
 まただ、また――胸が痛い。
 自分の表皮が破砕され、その奥を剥き出しにされているような――
 
 妹が幻想郷を出て行くときに使った道だ。そのせいなのか。妹の残滓がここに残っているのか。
 ほとんど墜落するように、獣のすぐ後ろに着地した。四足で雪に手をつき、指先がじんじんとかじかんだ。
 「ぁ――」
 声をかけようとした、瞬間に眼を見開いた。
 
 「……おまえか」
 
 銃口の黒い瞳が額に突きつけられていた。振り向き様の獣の腕が真っ直ぐに伸ばされ、サタデー・ナイト・スペシャルのリヴォルヴァーを握っていた。かつて異国の大統領の暗殺未遂に使われた代物で、フレームの大きさに比べてシリンダーが小さく、ひどく不恰好な印象を受ける。獣の指は、歪なかたちに膨らんだトリガー・ガードの外側にあり、当てにならない照星を挟んで、ふたりの目線が接触していた。
 絣はごくりと喉を鳴らしていた。が、ほとんど反射的に身構えており、仮に弾丸が放たれていれば、グレイズしていただろう。実弾だろうが、霊弾だろうが……
 
 
 
 絣は立ち上がった。が、その眼は初めて見る拳銃に向けられていた。獣は唇を歪め、肘を曲げて銃口を天に逃した。
 
 「それなりに歴史ある銃だ。繁華街に出回るような安物の、二流品だがな……」絣の眼を行く先を笑いながら、「相棒はスミス&ウェッスンやルガーを薦めたが、あたしはこれを選んだ。どうせ爪と霊力が尽きたときの万が一にしか使わないから。だが、握っていると落ち着くんだ。それがどんな銃であれ、あらゆる人間がそれを手にし、穢れた想いを持って撃った歴史が刻まれている。これのまえの持ち主は」銃が手のひらを滑り、歴史を隠され、絣の視界から消える。「母親を護るためにこれを撃った。標的は狂人だったが、政治屋の息子だった。裁判に負け、無期の懲役を喰らった。獄中で病気に冒されて死に、世話する者のいなくなった母親も別の病気で死んだ。刻まれているのは怒りだ」
 絣は声を出せないでいる。
 「銃は誰にでも平等だ。霊力などなくても誰にでも撃てる。仮に眠ったままのあの娘に渡っていたら、自分を商品扱いするものすべてを蜂の巣にして自らの誇りを護っただろう。偉ぶったことばを並べるばかりでなんの救いも寄越さない宗教よりも確かな神だ」
 
 獣は絣を見る。その眼に篭められたなにかが絣を揺さぶる。
 
 「なんの用だ? あたしはもう行くぞ」
 「行くぞ、って――」
 「退治していくか?」ふと思い立ったように獣は問う。「あたしはもう霊夢の式じゃない。人間に仇なす一匹の妖怪だ。巫女なら、巫女の役目とやらがあるだろう。……ルーミアの再封印は、おまえの仕事なんだろう? あたしごときに手こずっている場合ではないな? ええ?」
 
 世界が暗い。いまにも雪が落ちてきそうな、重い曇天が雪原を覆い尽くしている。絣の見上げる獣はかすかに白む空を背負い、挑発するように微笑んでいる。
 どうしてそんな風に思うのかわからない。闇の底へいざなわれているような感覚がする。自分の内面のさらに奥へ……奥深くへ……なにか得体の知れない能力でも働いているのか。むりやり、緊張することを強要されているような。
 
 「霊夢より以前の巫女をひとり知っているが」と獣は言う。「ちょうどおまえと同じくらいの歳の頃だったな。ほんの小さなガキで、たしかに霊夢とは比較にならなかったが、それでも大いなる才覚を感じさせたものだ。博麗の血とやらをな……。思わず鳥肌が立ってしまうほどのものだった。なのに、おまえときたら」
 真っ直ぐな嘲りがある。絣を見下ろし、獣はすべてを見通す眼をする。
 「零無、か。なかなか秀逸なネーミングだ」
 
 絣は細い息を吐く。軋るような胸の痛みに、唇がわななく。
 
 獣は不意に気がついたように辺りを見渡す。
 「ああ、そうか。この道はおまえの妹も使った道なんだな」
 刻まれた歴史を余すところなく辿り、その向こう側さえも覗く。
 「あたしは結界には疎いから、この綻びを安定させるのに一晩かかる。だがなるほど、妹は一瞬で終えたようだ。なんのためらいもなく幻想郷を飛び出して……なにものにも縛られぬ、本物の博麗か。おまえは縛られてばかりだな」
 
 片割れの残した魂の軌跡を伝われ、絣は己の肉の内側をさすられたような不快感を覚える。
 
 「どうした、なにか言え。まったくなにしにきたんだ、おまえは。あたしを見送りにきたのか? 連れ戻しにきたのか?」
 「――っ、ッ……あの子、は。まだ、目覚めてません、あなたが連れてきたのに――」
 「あたしはあれの保護者でもなんでもないぞ。腹が減ったときに備えていたのに、おまえたちに盗られてしまったわけだ。あたしにはあれを助ける義理もなにもない、それに目覚めたければ勝手に目覚めるだろう。準備はもう整ってるんだ」
 「無責任すぎます! あなたは、あなたは――!」
 「なあ、おい。あたしはこの眼に見えるすべての人間を憎んでいるんだぜ」
 
 つまるところ、おまえも変わらないんだよ。獣の爪がゆっくりと掲げられ、銃口そのもののように絣に向く。
 いっとき、その場の温度が零以下に落下していく。絣は思わず後退りし、息を呑んでいる。憎悪の先端を初めて向けられたのがわかる。この身に。誰に向いていた矛先が、自分に。
 
 「やるか? そうだな。せっかく帰ってきたんだ」
 
 獣はふと思い立ったように呟き、悪意の表情を浮かべる。
 絣は自分の視線がその爪に集中していくのを茫然と感じている。
 
 「長い旅をして、自覚したことがひとつある。あたしはどうやら根に持つタイプのようだ、それもとことん。憎悪を捨てて、赦しを持てと説教されたこともあるよ、そうしなければ幸せにはなれないとかなんとかかんとか。あたしはな、そんなのはまったくいらないんだよ。根に持たなければどこに持つんだ? 歴史は不変なのに」
 
 どうして、などと問う必要はなかった。
 「そうだろう、ええ? 『零無』。闇黒は常にわれわれのものだ」
 
 ようやく絣ははっきりとわかった。なにをされているのか理解した。
 いままさに自分自身の歴史が喰われているのだ。音を立てて噛み砕かれているのだ。この獣に。
 
 
 
 「やめて……」
 「わざわざ喰われにくるとは殊勝なものだ。外界へ戻るまえに食い溜めておくのも悪くない。
 ここにはまだおまえの妹の歴史が残っているな。そしておまえもいるとなれば、歴史を辿るのは実に容易い。表裏一体の光と闇のようだ。妹がどれだけ望まれた女だったかもわかる。そんな女に、おまえがどう感じていたかもわかる」
 「やめて」
 「もとはひとつの魂だったものがふたつに別れて生まれ出てきた。片方に優良なすべてを与え、もう一方に醜悪なすべてを投棄して。なんとまあ、完全な人間をつくる完璧な術式だろう! それが自然のもたらす神がかった悪戯なのか、『恣意的な』ものなのかどうかは知らんが。多少は疑っているだろう? 博麗の巫女というシステムに組み込まれた――そう、そういうことができるやつもいなくは――」獣はそこでふっと緩む。「冗談だ。完璧にも程がある、やるとしたらもっと巧妙にやるだろうからなあ?」
 
 そうであったのならまだ割り切れた。
 そうでないと、天然のものだと絣自身が確信してしまっていた。
 陽が沈み始め、山間の風が、秒刻みにその温度を押し下げていく。皮膚が切れるほど寒々と冷え込んでいく。
 
 「妹が憎いか、ええ? 望まれなかったおまえに巫女の鎖を押しつけて去っていった女が。そうして安全地帯から好き放題お偉い批評を下してくるオーディエンスどもが憎いか?」
 ――深く深く沈みこんでいく。
 獣の声ががんがんと鼓膜を震わす。
 「人間は腐るほどいるぞ。あたしにはおまえの浴びた腐りきった真実が視える。ああ、いいぞ、余すところなく喰える。そのどす黒い感情は正真正銘の本物だ。紛れもなくおまえそのものだ」
 ――隠さなければならないものが曝け出されていく。
 
 「夜の底でおまえは思い知ったはずだ。土壇場で曝け出された感情を自ら目の当たりにした。そうだ、つい最近のことのようだな。だが、そのずうっとまえから本当は知り尽くしていた。感じていた。そうして必死で見ない振りをしてきた、自覚してしまえば見捨てられそうで。自分の醜悪な部分を見つけられれば、もっともっと失望されそうで。卑怯者め。そうしておまえはおまえ自身を否定してきた。だが、否定されたおまえ自身はどこへいく? 誰が帳尻を合わせる? なによりも近しいおまえ自身にさえ見過ごされ、見捨てられたおまえの一部は誰が救う? 他でもないおまえが押し潰したおまえはおまえを憎んでいるぞ。解き放てぬまま底に沈んだ澱は。
 そんな自分にさえ怒りを感じてきた。どこまでいっても『零無』でしかない自分に。そうやって妹や他人に矛先を向けてしまう自分に。さあ、歴史が捻じ曲がってきたぞ。なんと薄っぺらな、言の葉だけで揺らいでしまう。上っ面で飾った外面を引き剥がしてなにが残る? そうしておまえは――どこへ行く? 魂の片割れを憎み続け、結局なにもしないで堕ちて終わるか? 憎しみだけが本物だ――憎しみだけが――」
 「やめろ!」
 
 眼を閉じ耳を塞ぎ叫びを上げて霊力を開放する。盲目のまま闇雲に確かなものに頼ろうとする。スカートが波を打ってはためき、紅色の魔力が渦を巻く。
 
 「私を曝け出すな!!」
 
 悪魔の契約――
 「槍符『ネガ・グングニル』!」
 
 縋るように伸ばされた腕の先に自分のものでない力が満ちる。穂先が獣に向き、雪が弾け飛んで飛沫を上げる。瞬間的に溶けた氷の粒がふたりのからだに水の弾丸をぶつける。遥かに劣化しながらもそれでも別格の気配。獣はゆったりと眼を細める。
 
 「ああ……素晴らしく重厚で、操り難く、類稀なる比類なき歴史だ。――レミリア・スカーレットの槍は、な」
 
 獣は誘うように手のひらを上に向け、静かに握り締める……
 絣の手のなかで槍が爆ぜる。
 すべてが掻き消える。
 そもそも初めからなにもなかったかのように、立ち尽くす絣だけが残る。絣は困惑し、自らの腕を覗き込む、槍を掴んでいたはずの手のひらを。そこにはなにもない。なにも残っていない。力の欠片も感じることができない。
 
 「――あ、え? そんな――」
 「『歴史を」獣は淑女のように前髪を払って言う――「破砕する程度の能力』」声はどこまでも静かで落ち着き払っている。「それはおまえの歴史じゃない。おまえの歴史はそれを借りたってだけの、薄っぺらで、浅はかなものだ。なににも根ざすもののない、軽ければ軽いほど容易く、あたしはなんの造作もなくなんの障害もなく破砕し尽くす」
 
 レミリア本人が使えば、結果は変わっていただろう。それはレミリア自身の歴史であるから。何百年ものあいだ彼女とともに歴史の道筋を創った、限りなく重く、分厚い、歴史そのものだから。だがそれは、絣のものではなかった。不相応な力でしかなかった。
 
 「終わりか?」獣は問う。「身に纏う上っ面を引き剥がされれば、頼るべきものはもうなにもない。薄い歴史に、期待できぬ未来。巫女の位置に居座っていればなんとでもなると思っているのか? さあ、武器はなにもないぞ。絶望と屈服が影のように忍び寄ってきたぞ。そうしておまえは――どうする? ひざまずいて命乞いでもしてみるか? あたしに……言の葉なんぞまるで通じんまったき獣に。
 所詮は劣化だな。霊夢の下位互換にすらならんとは」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 風通しのよくなってしまった腕を抱き、絣は眼を閉じる。
 不思議といえば不思議だった。空っぽにされてしまっても、絶望も屈服も――胸のなかに、欠片も浮かんでこないのだ。
 レミリアは抜本的な解決にはならない、と言ったのだ。ほんのちょっぴり程度の助けにしかならない、と。過信してはならないと。そう言われてしまえば、そうするのが絣だった。槍にも契約にも、絣の根は、なにひとつ頼っていなかった。
 むしろ、契約よりも、レミリアのことばのほうが根に食い込んでいるのだ。その佇まいそのもののほうが。そちらのほうは紛れもなく絣の歴史だった。感激に似たショックは偽物などではなく、本物だった。彼女自身が感じ、受け取り、喰らった、彼女だけのものだった。
 
 薄い胸越しに心臓を握り締め、衣が千切れそうなほど強く握り締め、絣はそっと呟く――「――真の武力はこの胸のなか」
 
 そっと自らの闇黒片を剥き出しにする。
 
 絣の顔が歪む。手のひらのなかで心臓が強く脈打つたびに表情が醜悪に変わっていく。幼い魂に蓄積された膨大な怒りが顔を覗かせる。霊夢の劣化コピーだと、霊夢の下位互換だと、霊夢の入門用イージーモードだと蔑まされ続けてきた歴史が、そうした百万の嘲りに真っ向から反逆する怒りが。
 心臓が手のひらを殴打し始める。
 絣模様の傷痕が怒りに変わるにつれ、心の軌跡は加速していく。彼女に残されたすべてを巻き込んで流星のように動く。ずっと、考えてはいたのだ。巫女となったときから……妹のようにはなれないと悟ったときから……紅魔湖畔であなたに合った武器が見つかりますよと言われたときから。
 私にできること。
 私にできること。
 私にできること――
 
 
 
 私は何!?
 
 
 
 ――絣は獣そのもののように咆哮する。
 
 
 
 「黒符『カオス・リヴズ・イン・エヴリシング』!!」
 
 
 
 渦巻き始める新たな霊力のなか、獣はにんまりと笑う。「あァ。そんな顔もできるんじゃないか。猫かぶりが、焦らしてくれて。それがおまえか?」
 絶望するには怒りが深すぎ、
 屈服するには怒りが強すぎた。
 絣の絶叫はもはやことばにならない。雪崩を起こすほどの耳障りな大音量がガラスを引っ掻くように響き渡る。
 
 「Welcome to……the world of……realⅰty」誘うように両腕を広げて――「いいぞ、ガキ。相手してやる。来い」
 
 己のスペルカードを纏い、絣は走り出す。
 その日、その春最後の吹雪が妖怪の山に吹き荒れようとしていた。
 
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2012/04/12 20:11 | Comments(0) | 東方ss(長)

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