『GOOD GOD』の行間。早苗さん高校時代捏造。というかほぼオリキャラSS。
駄弁っているだけです。東方キャラとオリキャラの絡みとかマジ勘弁という方はスルーでお願いします。
――いつからだろう。自分が空を飛べるということに気がついたのは。
自分が呼吸できる、息を吸い、吐けるという事実を改めて認識することがないように、空を飛ぶという認識も、気づいたときには私の内側にあった。
ただそれを、実際にやってみる勇気はなかった。
手作りの羽で飛び、太陽の熱に焼かれて落ちた若者のお話。
自分がそうなったら嫌だなあとなんとなく思いながら、試す機会もないまま、日常に追われていた。
卒業後の進路もなんにも決まってないけれど、三年生になってしまった。
始業式の後、重苦しい曇り空のせいで、薄暗い教室。番号順の通りに座る。列の一番後ろ。
一つ前の席が、空席だった。
櫛灘さん? というらしい。初めて同じクラスになるので、あまり彼女のことは知らないけれど、聴くところによると、不良、らしい。
ホームルーム中に、堂々と遅刻してきた。なんの前触れもなくどかんとドアが開いて、どかどかと足音も高々に――
「櫛灘!」と、先生が咎めた。
「あー、すいません、先生。本当は昨日帰ってこれるはずだったんですけど。天気が悪くて無理っした、駅にさっきついて、そっからてくてく……」
「どこへ行ってた!」
「パチンコ」
クラス全員が唖然とした。
それは遅刻の理由がそうであったからなんかじゃなくって、彼女が口にしたことと、彼女の容姿のひどいギャップがそうさせたものだった。
春とはいえまだ寒いのに、薄っぺらい生地の、学校指定のものではないジャージ。
それになにやら、彼女の背中をすっぽりと覆い隠している、まるで亀の甲羅みたいな印象の、ぱんぱんに膨れ上がったどでかいザック。
「――あ、パチンコって、違います。パチンコじゃないです、いやパチンコなんですけど。連続登攀のことです。山です、山。上高地から槍のほうに……」
櫛灘さんが慌てて説明しだして、思い出した。
うちの高校の、廃部寸前の山岳部。彼女はそこのただひとりの女性部員で、ただひとりの上級生で、副部長のいない部長だった。
「吹雪いちゃって、停滞してました。降りるに降りれず。でもしゃーないっすよね。無理に学校こようとしたら間違いなく遭難しちゃってましたもん。でもこーやってなんとかこれはしたんで、オマケで出席扱いお願いできませんかね」
「制服はどうした」
「家です。駅から直行でこっちきたんで」
「……座れ……」
先生が呆れたように、彼女の席を指差した。
どかん、と音を立ててザックが床に下ろされた。
大きい。
机と机のあいだが、それで埋まってしまった。
ホームルームが終わると、椅子の背もたれに腕を置いて、櫛灘さんが私のほうを見た。
「騒がせちゃってごめんね。あたし櫛灘。よろしく」
悪びれもせず、彼女が言った。
私の机に頬杖を突いて、にやにやと笑う。
「あんた、東風谷早苗だろ? 有名だよ、このご時勢に貴重な現役巫女さんだって。色々と伝説は聴いてるよ。諏訪湖の水面を真っ二つに割ったとか……白米の雨を降らせたとか……蛇と話してただとか……蛙と一緒に歌ってたとか」
手早く筆記用具やその他諸々を鞄のなかに突っ込んで、立ち上がろうとする。
興味本位は無視に限る。
椅子を引こうとすると、手首を掴まれた。
「待ちなって。おしゃべりしようよ。十日間も山んなか篭もりきりだったからさ、餓えてんだよ、こういう女子高生っぽいコミュニケーションとか」
「……全部でたらめですから」
「あ、そうなの? 了解。で? 実際のところどうなの、巫女って」
「別に……」
「じゃあさ、あたしでもバイトで雇ってくれない? 年末年始とかお盆とかは無理だけど、山だから」
「年末年始に居れない巫女とか、ないです。論外」
「マジで。残念」
私は彼女の手をやんわりと払う。
中学生と言っても通用しそうな、小さな代物だった。
背丈も、せいぜい百五十、あるかどうか。
私くらいの髪の長さも最近は珍しいけど、彼女もたぶんそれくらいの長さで、それを無理矢理一纏めにしてアップにしてるから、なんだか妙な髪形だ。日焼けでぼろぼろになった皮膚が、なんだか痛々しいけれど、変に日本人離れして真っ白。
不良?
まあ、先程のやり取りを見る限り、そうなんだろう。
今も、ザックは通路の一角を占領していて、いかにも邪魔だ。
「……どれくらいあるんです? そのザック」
私も興味本位で、訊いてみる。
「三十キロ――ないかな。食糧の大半は食っちまったし。持ってみる?」
……肩に、ずんときた。
「――これで山登るんですか? ばかじゃないですか?」
「たまにそう思うよ。でも折角長野県に生まれたんだし、その特権を活かさないと」
私は窓の外を見た。
八ヶ岳の、見慣れた山容が遠く、雪と雲を抱いて広がっている。
「あれに登ってきたんですか?」
「八ヶ岳もいいとこだよね。いいとこすぎて、目ぼしいとこはもう全部やっちまったから。最近はもっぱら北アルプスだよ」
「富士山は?」
「実は一回もないんだ。あんまり面白そうじゃないから」
セーラー服にザックは、まずい。
首を捻じって背中を見ると、一気に皺になってしまっていた。
「どれくらい登ってるんですか?」
「さあ。物心ついたらもう登ってたよ、親父に連れられてさ……」
「すごいですね」
「ちょっとザイルの結び方知ってるってだけのつまんない女だよ。クリスマスもヴァレンタイン・デイも花火大会もみーんな山のなかでさ、高校生らしいイベントなんて全部ガン無視で、彼氏とかそういうのと丸っきり無縁で」
「山のなかじゃなくったって無縁です」
「え、本当? 東風谷さんってアレ? 男に興味ないとか……」
「そういうんじゃ」
「だっていかにもな美少女なのに」
「自分のことをそういう風に思ったことはないです。三次元でガチな巫女とか、変人か、せいぜいコスプレイヤー扱いですよ。電波ゆんゆんのネタキャラです」
「へえ? 話してるとなんだかそんな感じしないね。正直さ、あんたのこと、なんだかお高くとまってるお嬢様みたいなイメージしてたよ。ごめんね」
私は少し笑った。
「……新しいクラスになって最初の印象は、間違いなく櫛灘さんのほうがインパクトありましたよね」
「そう?」
「制服が普通の教室に、いきなり私服で登校とか。しかもそんなおっきな荷物背負って……」
「あたしは常識ってやつに縛られてないだけだよ」
「ありえないですって。ほんとばかみたい」
最初の会話としてはそんな感じだったから、気の置けない友人とまではいかなくても、まあ、話しやすいクラスメイトではあった。
友情を深める機会はそれほどなかった。筋金入りの不良なのか、大学に進級する気が最初からあんまりなかったのか、櫛灘さんは学校は休みがちで、本当に山ばかり行っているようだったから。
山に行かない日は、アルバイトでお金を稼いでいるようだった。
私もたまに学校を休んで巫女の仕事をしていたから、シンパシーのようなものはあった。
教師たちは常日頃、もっと『真面目に』登校するよう、進路や成績や、お決まりのフレーズで彼女を説得していたようだったけれど、どうしてだろう、私の眼には櫛灘さんを前にした教師たちのほうがどこか、空虚な現実感を伴ってうろついているようにしか思えなかった。
彼女の纏う山の――長野に住む者なら誰しもが多かれ少なかれ心の根に持っている、自然という圧倒的な現実への畏怖の――匂いが、そう感じさせたのかもしれなかった。
神奈子様や諏訪子様は、なにせ、まず第一に山の神なのだ。
「山に登るって、どんな感じなんですか?」
ある日、ふとなんでもないことのように、私は訊いた。
珍しく櫛灘さんが普通に登校してきて、授業中は爆睡して、空は曇りがちで憂鬱な、そんなお昼。
「えらい抽象的な質問だね。なんて答えたらあんたは満足する?」
「質問に質問で返さないでくださいよ」
「んー、そうだね、なんだろ。いろいろあるよ。山っつってもひとつじゃないし、縦走にしろ……登攀にしろ……スキーとか、ハイキングとか……」
「あんまり深く考えなくていいですよ。ぱっと思いつく範囲で」
櫛灘さんは頬杖を突いたまま唇を尖らせて、しばらく考えた後、
「……地べたを這うのと、空を飛ぶのと、その両方を一緒くたにやってる感じ」
空を飛ぶ、ということばに、私の一部が過剰反応をした。
「正直さ、クソ重い荷物を背負って、山道をてくてく歩いてるときなんか、あんまり楽しくないよ。肩は痛いし、疲れるし。標高何メートルでも同じだね。そういうときってほんと、四つん這いになってアスファルトの上をハイハイしてるようにでも感じて、いやんなる。
でもたまーにさ、森林限界越えて視界が開けた瞬間とか、荷物を置いて休憩してぼんやり空を眺めたときとか、ザイル一本で絶壁にしがみついてるときとか、クライミングで最低限の荷物だけ持って核心越えたときとか、なんかこう、どかってくるときがあるのよ。ああ、あたしは今、天地の境界にいるんだなって、変な実感を覚えるときが。空の色が違うんだ。コバルトブルーっての? 薄い青空じゃなくて、黒いんだ。そんときは太陽もむちゃくちゃでかくて、雲、そう、雲だね。雲が違う。
すごいスピードで流れてくの。でかいくせにさ。そんでその影が、見える限りの広い雪原のなかで、動いてる。たまに雲の海のほうがあたしの足元にある。あたしのほうが雲よりも高いところにいる。あたしと同じ世界にそういうのがあるんだ、って気づく。人間って翼もなけりゃ飛べもしないけど、そういうときって、空を飛ぶ気持ちがわかったような気になるんだ。そういうときって、幸せ。生まれてきてよかったって、単純に思う。もちろんそういうのって、山の喜びの一面でしかないし、それだけのために登ってるわけじゃないんだけどさ……」
そうしたことばの群れよりも、彼女の心底楽しそうな表情が、その経験の一端を伝えてくる。
「あたしさ、いつかヒマラヤ行きたい。未踏峰でもそうでなくてもいいんだけど、登りたい。そういうとこの雲ってどんな感じなのかな。本を読んだり写真を見たりはできるけど、やっぱりそういうのって、実物と全然違うよ。空が飛べたらいいなって思うけど、でも飛べないからこそそういうことを思うのかもしれないし、うん……まあ、なんだかそんな感じ!」
急に恥ずかしくなったように、櫛灘さんは自分の頭を掻き乱した。
「東風谷さんさ、いつでもいいんだけど、一緒に登らない? 別にガチでやんなくたっていいんだけど、ほら、ハイキング程度で。さくっと行けていい気持ちになれるとこならいくらでも知ってるから。きっと気に入ってくれると思うよ、東風谷さん結構、運動神経いいし、ガッツあるからさ。どうよ?」
「……えっと」
「あ、ううん無理に合わせてくれなくていいの、たださ、ひとりでも山のよさを知って、いい気分になってくれると嬉しいから。山は逃げないし」
そこで櫛灘さんはにこりと笑った。
照れ臭がって無理に表情を変えたような、微笑ましい代物だった。
「覚えといてよ、あたしがこう言ったこと。何年後でもいいから。三十路とかアラフォーとかになっても、山は登れるから。そういう気になったら連絡してよ、一緒に登ろう?」
なにか温かいものが溢れるような気分になって、自然に、私は頷いていた。
――空を飛ぶのは、怖いだけのことではないのかもしれない。
試す価値のあることなのかもしれない。
彼女との約束は果たせなくなってしまった。
山は逃げない。でも、こうして幻想郷にやってきた今、八ヶ岳も北アルプスも見ることはできない。
ただ、もはや手足を動かすのと同じように操ることのできるようになった飛行能力を使って、雲と同じ高さで飛ぶとき、たまに、彼女のことを思い出すのだ。
視界には、コバルトブルーの空。
ばかばかしくなるくらい美しい、雲の海。
初めてあなたの作品を読んだのが『BITCH WE GOT A PROBLEM』で、その時の「指がパキったわ」でも思ったのですが、もしかして山岳部だったんでしょうか
他の話でも出てくる山岳用語やらクライミング用語やらでいつも気になって気になって仕方がなかったのですが、あちらでそのコメントをするのも場違いな気がして……