闇黒片 ~Chaos lives in everything~
Stage6 天境線上
――邪神、堕天使、闇黒の巫女
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満月前夜。雲のない空。どこか遠くで巨大な火柱が天を穿つように昇った。いっとき、炎のつくる風と光がすべてを抱くように広がり、霊夢が腰かけているところまで真っ白に染まった。
霊夢はコンビニの袋をがさがさ言わせて500mlの缶ビールを手に取り、光源に向かって高々と掲げた――「かんぱぁーいっ!」
既に七本目だった。空き缶が彼女の周りに転がっていた。もう耳から首の根にかけて真っ赤に染まっており、二日酔いは不可避で、止める気配もない。腰を下ろしているのはごつごつした荒削りの白い岩で、そのあたりの盆地は、そういう岩が折り重なってできているから踏み固められている道もない。蹴飛ばされた空き缶のひとつが、岩の隙間に転がり落ちて、からからと乾いた音を立てて消えていった。
もう一方の手でもう一本ビールを取り、橙に放って、自分の分のタブに指をかけた。酔いから、そうした仕草さえままならず、開けるのにひどく苦労してからぐびりと飲んだ。喉元が大きく上下に波打った。
つまみはもう食い尽くしており、橙の持ってきた、霊夢の好きだった酒の一升瓶も空になってどうにもならない。橙はずきずきする額に手のひらを押しつけて、なんとなくここにいない主の主を恨めしく思った。霊夢を甘やかすのはだいたいにおいて、紫の役目だというのに。
「今晩はどうするの、霊夢」と、橙はようやく訊いた。「博麗神社に帰る? 他になにか約束がなければ」
「んーん」霊夢はなおも飲むようだった。「魔理沙んとこに泊まるわ。明日も明日でいろいろ回らなくちゃだし、神社はその後かしらね。まあそれも」引き裂くような光が次々と夜空に放たれ、霊夢は花火の観客のように歓声を上げた。「このどっかの誰かの弾幕が収まってから!」
「酔いすぎだよ、霊夢。それで魔法の森まで飛べるの?」
「つれてけー」
橙は溜息をついた。「はいはい」
色褪せた紅のタンクトップに、膝まで裁ち切られた短いジーンズ、便所サンダル。魔理沙が見たら悲鳴を上げるんじゃないかと思うような装いだった。外界に毒されているというより、巫女でなくなってから霊夢本来のずぼらさが表層にまで出てきたようだ。
橙は溜息をつく一方でくすりと微笑みながらも、懐かしそうに誰かの弾幕を見上げる霊夢の顔を見た。かつて少女であった女はもう、少女ではなかった。ただ表情だけがあの頃のままで、いまもまだ彼女を突き動かし続けている感情もまた、あの頃のままなのだろう。精悍さと美貌とが混然とした、得難いところにある顔だった。
「変わらないね、霊夢」と橙は言った。「実年齢より十は若く見えるよ」
霊夢は鼻で笑った。「実年齢より何百年も若く見えるやつにそんなこと言われたって嬉しかないわ。化け物ども。ところで紫は元気?」
「死にそうだよ。周りが化け物だらけだっていうのに霊夢がいなくなるもんだから。誰かと誰かが結婚するって話になるたびにあいだに入って、頭陀袋みたいになるんだから。『スカーレット夫人』のときなんか最初から最後までもうずっとめちゃくちゃだった」
「あら素敵」
「いい加減こっちで腰落ち着けない?」
「そうねえ。ひとつだけ言うとすれば」霊夢は缶を四指で持ち、人差し指を橙に向ける。「外界でも結婚式は山ほどあるのよ」
それだけで外界で霊夢がどういう道を歩んできたのか、橙にはわかりすぎるほどわかった。恐らくはそういうことで。
橙は夜空を見上げた。弾幕はいつしか止んでおり、星灯りの勢力が帰ってきていた。
人里の大通り。静かな夜。千早は連なる屋根の片隅にしゃがみこみ、翼を小さくたたみ、「獲物」を見下ろしていた。居酒屋の暖簾を潜って出てくる逞しい体格の青年二人組み。存分に酔っているのだろう、千鳥足で、互いに寄りかかるようにして歩いてくる。いかにも無防備に。
千早はわずかに眼を開き、猫の瞳で静かにあたりを見渡した。その二人以外に人間はおらず、寝静まっているかのように、気配もない。話し声はその二人のものだけだ。こちらに注意を向けることもないだろうと、そっと屋根を伝い、足音を立てないようにして歩く。
耳を澄ますまでもなく、なにを話しているのか聞こえてくる。内容に興味はないが、自然に耳に入ってくる。
「――だからな、俺が思うに――」
「――ああ、うん」
「今代の巫女には華がないね」
巫女、という単語に千早は首を傾げた。足を止め、目的を後回しにして会話に聞き入る。
「先代と比べれば明白だろう。実力もない、霊力もない、才能もなければ容姿も十人並み。まったく、あれで巫女が務まるなんて考えもできないな。弾幕だって、きっとしょうもないものなんだろうさ。勝てるか勝てないかとかじゃないんだ。要は博麗として相応しい、器があるかどうかって話さ」
案の定、博麗のことかと思う。
守矢の巫女はまだ早苗だし、先代も今代もない。守矢は博麗に比べればまったく新参者で、人里で巫女といえば、まず間違いなく博麗のことだ。
「いつかその辺の妖怪に喰われちまうんじゃねえかな。そうなるまえにさっさと退場してくれればいいが。巫女があんな有様じゃ、俺たちだって安心して眠れもできないってもんだ。こっちにゃ慧音先生がいるからまだいいってものを、あのひとだって明日の晩は妖怪だからな。まったく、一刻も早くきちんとした巫女がまた現れてくれないものかね」
千早は溜息をつく。(……言われ放題ですね)
千早の姿。いまは守矢の巫女服ではなく、露出度の低い、闇に溶け込むような藍色の衣で、普段はロールヘアにして胸元に垂らしている髪を、真っ直ぐに解いて伸ばしている。生来の癖毛で波打つようにパーマがかっていて、ぱっと見る限りはまったくの別人のようだ。
巫女ではなく、妖怪として活動するときの姿。人里で正体を見分けられるのは、幼少時に寺子屋で世話になった慧音くらいのものだろう。
さっさと済ませてしまおうと、千早は翼を広げる。布を大きく振るったような音が響き、赤紫色の羽根が舞う。
二人組が気づき、夜空を見上げるのも既に遅い。月をバックに、千早は風を切って急降下し、片方の男の肩に着地する。
「ひっ」
「なっ」
千早の足。人間のものではない。御伽噺のハーピーのような、四本爪の鳥の足だ。それがそのまま、男の肩に食い込む。
突然の事態を、男らが飲み込むより先に、千早は男の頬に両端からそっと指を添え、撫でつけるように爪を這わせる。恐怖に滲んだ顔を真上から覗き込む。翼の陰に入り込み、いまにも喰らいつくかのようにからだを丸めて。
千早はそっと注ぎ込むように言う――「恨めしや」
唾液を滴らせる牙が覗く……
絶叫。
「づがれだ」
絣は前のめりにぶっ倒れる。
「れ……霊力が、から、っぽ」
博麗神社。ディーとサフィとのプラクティス・モードを終え、開きっぱなしのスキマを通って帰ってきた絣に、そこで体力の限界がきた。
縁側であるし、着替えてもない。炎と爪にずたぼろにされた衣服はスカートしか残っておらず、さらし代わりに巻いたルーミアのリボンも解けかけ、ほぼ全裸に等しい。が、それ以上進むことができないのだ。急速にやってきた眠気に、抗うこともできずに屈する。
散々爪符を放った上に、主砲の黒符、さらにそこから派生するラストワードの雛形を撃ったのだから、当たりまえだ。もともと霊力の総量も少なく、黒符自体の特性から、ここまで帰ってきただけで奇跡のようなものだ。全身はサフィの爪に裂かれて掠り傷だらけ、ディーの炎に軽度の火傷、さらには弾幕後の寝技で関節まで痛い。
「だ――大丈夫、寝れば、寝れば治る、たぶ、ん」
傷も痛みも永遠亭製の軟膏でなんとかなるし、霊力は一晩眠って回復しなかったことがない。回復力は並程度だが、霊力量自体の少なさから、三時間の睡眠で満タンになる。
「暖かいから、風邪、も、引かない。明日はきっと大丈夫、大丈夫、だから――」
意識が闇に溶けていく。
「お――おやすみなさ。い……」
絣は眠る。
「――ふう」
千早は髪をかき上げた。
「まあ、こんなものですかね」
男の二人組は情けない叫びを上げて逃げ出した。
驚かせるという目的は充分に達した。後は面倒なことにならないうちに逃げるだけだ。明日に備えて、体力は温存しておかなければならない。もっとも満月の晩になれば、気が昂りすぎるくらいになるから、いつもなら疲れ果てるくらいになっても問題はないのだが。
「相手が気になるんですよね。天境線、か。異変みたいに連戦じゃありませんし、ふたりがかりならどうにかなるとは思うんですけど」
「ふたり?」
「ええ、絣さんと。一度手を合わせただけですけど、紡さんから彼女のことはよく聞いてますし、こんな風に好き放題言われてはいますけど、わたくしはそんな――え?」
「絣か。ふむ。私も様子を見に行きたいんだがいかんせん仕事が忙しくてな。おまえのようなやつがこういう問題を散々起こすものだから」
後ろから両肩を掴まれ、千早はびくりとからだを震わす。恐る恐る振り返ると、にこにこと明るい笑顔が余計に怖ろしい、人里の守護者が見下ろしてきている。
「け、慧音先生」
「紡も絣もおまえほど問題児ではなかった。いや、比べるのもくだらないことだな。なにせ寺子屋を卒業してまだ頭突きしなければならない子はおまえくらいのものだから」
「ええと、いやあの、これはその、わたくしこうしなければ妖怪としても神としても格が上がらないもので」
「覚悟はいいな?」
丑三つ時に鐘の音が響いた。
千早が博麗神社に着いたのは陽が茜を帯びる頃だった。
空には雲の筋さえなく、今晩の満月は遮るものもなく煌くだろう。妖怪の身の奥底に、すでに滾り始めるものがある。半分が人間である千早は純粋な妖怪ほど影響を受けないが、それでも上白沢慧音のように、容姿そのものが若干変容するくらいには昂るものがある。
石畳の上に降り立ち、翼をたたむと、庭を見渡した。閑散としたあたりに絣の気配は感じられなかった。声をかけても返事はなく、縁側を目指す。手を袴にやって、巫女服の皺を伸ばす。
「絣さん――」
呼びかけても一向に反応はないが、そこにいた。夕に焼けた陽の当たる場所に、うつ伏せになって倒れている。
千早は首を傾げた。「絣さん……?」
はて妖怪にでもやられたのかと思う。ずたぼろのスカートに、上半身を申し訳程度に覆う赤い呪符。傷だらけの全身。
寝息は健やかで、すぴすぴと間抜けな鼻息が聞こえる。
肩に手を置いて、そっと揺すると、うにゅうにゅ言いながら身を捩るけれども、目覚める感じもない。骨の浮き出る薄い背中が、ひくつくばかりで、返事もない。
「絣さん」
少し強い調子で呼びかけても、反応はなし。
「……ちょうどいいですね」
千早はくすりと微笑んだ。
ぶつぶつと、口のなかで呪文を転がす。守矢の秘伝ではなく、生まれるより先に会得していた、能力の切れ端。魔力が糸を引き、口から肩、肘を伝い、指の先に伸びる。
絣の後頭部に指を置く。髪の先が、火を舐めたように縮れていることに気づいたが、構わず術を発動させる。千早の能力が絣に染み入る……
「――ぅ、ううん?」
絣が眼を開き、腕を突っ張って起き上がった。そのときにはもう千早は手を引っ込め、指先は袖のなかに隠していた。
何事もなかったように千早は頭を下げる。
「おはようございます、絣さん。もうこんばんはが近いですが」
「ふえ?」
寝呆けまなこを擦り、絣はきょろきょろと辺りを見渡す。現実に戻ってくるまで、数秒かかる。
「――ち、千早さん?」
ばっと飛び跳ね、
「あああああ、すみません! 完全に寝過ごしてましたっ! 妖怪退治ですよね!? いますぐ準備しますちょっとだけ待っててくださいっ!」
そのまま奥に引っ込んでしまう。
「ゆっくりで大丈夫ですよー、まだ時間ありますのでー」
さて、と千早は縁側に腰をかけて座り、軽く眼を伏せる。
能力の世界に潜る。
「ああもうっ、私って私ってどこまで間抜けーっ!」
眠りすぎたせいで、昨晩からなにも食べていないことになる。慌てて台所に向かい、生の人参、きゅうり、白菜を手掴みしてばりばりかじる。炭水化物が足りないが、米を炊いている暇がない。つくり置きしてあった乾し飯をここぞとばかりに口に突っ込む。
水を柄杓から直接ぐびぐびと飲んで、口許を手の甲でぐいとぬぐう。そのまま自分の部屋に猛然とダッシュ。いつもの服を出しかけ、ふと手を止める。
「……ちゃんとした格好のほうがいいのかなあ」
妖怪退治の依頼。
紅魔湖畔のときは、依頼されてそのまま向かったからそんな暇もなかったが、今回は状況が違う。しっかりと準備していく時間がある。もともと用意だけはしてあった。着る機会がこれまでなかったが、いまがそのときなのかもしれない。
まだ大したアレンジもしていない、普通の巫女服。紅い袴、黒く染めた小袖――橙が黒猫なのでリスペクト――に、切り離した袖。髪はシュシュでひとつに束ねた。
袖を通して、ふと気づく。左腕のほうに、違和感がある。爪符の術式。スペルカードに、腕を振り回すという動作が必要になる以上、邪魔にしかならないように思われた。
袖は右腕だけにする。
「妖怪の山か……」
弾幕のことを考えれば、緊急用のメディカル・キットは必需品だ。袂に突っ込んでおく。墜落して、山奥で一晩明かすことを考えて、レスキューシートや非常食を詰め込んだ、サバイバル・キットも。
ルーミアのリボンも。最初に会ったときあげると言われてから、いつも肌身離さず持っている。彼女に対抗する、たぶんただひとつの手段。今回にルーミアが出てくるとは思わないが、お守りのようなものだ。
全部を袂に入れると、右腕がずしりと重くなる。けれど要は左腕が軽ければいいのだ。
左腕の術式をいったん解いて、新しく塗り直す。
黒と紅の染料で、花乃に教わったとおりに、指先へ塗り込む。より深く霊力とシンクロして、強い毒になるように。染料自体は、術の始動スイッチでしかない。魔法陣とは違う。発動さえしてしまえば、あとは霊力自体が黒と紅の花びらになる。
「よし……」
部屋の隅の姿見に、自分を映して最終確認した。
自然に溜息なんかが出てくる。
「……やっぱりどう見ても巫女らしくないよなあ……」
がんばって修行すればするほど、こんな風になる。
逃げないと誓った。妹が去っていったあの日から、自分が代わりにならなくてはと、必死になって修行した。才はなくとも、師には恵まれた。橙でなければ、ここまでくるより先にきっと見捨てられていた。
生まれて初めて自分になって駆け抜けた夜の博麗神社、サクラの太刀筋を眼に焼きつけた紅魔湖畔、獣と対峙した山間雪原、花乃の毒を刻んだ地底教会、ディーの火をグレイズしたマヨヒガ。ただただ必死に走り抜けた。少しでも強くなりたくて。昨日より今日、今日より明日……日に日に良くなると自分に言い聞かせて。
まだ足りない。全然足りていない。自分でわかっている。
そして、巫女らしくもならない。むしろ遠ざかっている気がする。
「……それでも、立ち止まってもいられないっ」
頬をぱんぱんと挟むように叩いて、千早の元へゆく。
やるべきことをやる。自分がどうであれ。それだけの話だ。それだけの。周りからなにをどう批判され続けようとも。
陽が沈むのに合わせて、妖怪の山に向かって飛ぶ。夜になれば妖怪の時間だから、余計な労力を使わないためにも、夜になると同時に天境線に辿り着くのが理想だ。
千早は横目で絣を見やった。黒の小袖に紅の袴、右腕だけの袖――紅白でさえない巫女。禍々しい紋様の刻まれた左の指先。見れば見るほど、確かに、博麗らしくない。
千早自身、博麗霊夢とは何度か弾幕を交わしている。どれもこれもぼろ負けというのが言い足りないほどのぼろ負けだったが。弾幕の鮮やかさにしろ、美しさにしろ、巧みさにしろ。早苗に向けるのと同じ畏敬の念を抱いている。そして、この絣は。
「大丈夫ですか?」と千早は言う。「なんだかぼろぼろみたいでしたけれど。昨日、妖怪退治でもしたのですか?」
「あ、いや、全然平気ですよ! 練習してただけですから!」
「練習?」
「準備万端ってことです! う、でもなんでしたっけ、一時的にしろ大妖?みたいな相手なんでしたっけ。私なんかが戦力になるかどうかって――」
言いかけて、絣は首を振った。自分の気持ちを振り払うように。予感になにを感じているにしろ、あえて感じないようにしているかのように。
「やるだけやりますっ。その、誘ってくれてありがとうございます。いまは少しでもたくさん、弾幕やっときたいんで。紡に比べれば、頼りないと思うんですけど」
「いえいえ。わたくしのほうこそ、突然申し訳ありません。まあ弾幕と決まったわけじゃないですし、実物を見てからですね」
「天境線、って。私たちにはどうなんでしょうか。悪影響を受けたりとか」
「近づく分には何事もないはずです。長居はしたくありませんけど。だから余計に、そこに居座っている者が問題なのです」
絣は左手で拳をつくり、その上から右手で覆った。話の通じない妖怪なら……もしそうなら。そういう覚悟には未だ慣れない。最初に会ったとき、ルーミアはなんと言っていたのだっけ? 顔を合わせた瞬間に夢想封印、倒れた追撃に八方鬼縛陣――
千早は翼をはばたかせ、絣の上に回り込んで肩に手を置いた。「いまからそんなだと疲れ果ててしまいますよ」
「っ、はい」
「慧音先生にも言われたことないですか? 毎日毎日朝から晩まで戦闘モード入ってたって、なんにもいいことないぞって」
はっとして、絣は千早を見上げた。「千早さんも寺子屋に?」
「ええ。毎日のように頭突き喰らっていましたわ。毎日のように、授業中とか構わずに、弾幕を挑んでましたから」
「毎日!?」
「対抗意識を燃やしてたのです」千早はくすりと微笑んだ。「わたくしも先生と同じで、半人半妖なので。同じ種族に負けたくなかったのですね。そういう理由もばかばかしいですけれど、子供の頃はばかばかしいことにこだわるものですから」
その頃のことを思い出すかのように、千早は胸に手のひらを当てた。眼を伏せたように絣には見えたが、元が糸のように細目なので、はっきりしない。
「それはもう犬かなにかのように挑み続けましたが、結局一度も勝てませんでしたね。ここに何度も」額に指を添えて――「手痛い一撃を受けて。いまになっても。まあ、わたくしなどその程度の女ですよ」
「えと、はあ」
「そんなわたくしでもなんだかんだで、巫女の真似事などやらせてもらっていますし」
千早のからだがすっと宙を滑り、絣の真下にくる。思わず顎を引いてしまうくらいの至近距離。千早の首は折れそうなほど細く、睫毛は細工でもされているかのように長い。絣は一瞬、気圧されたかのように眼をぱちぱちさせた。
「お互いがんばりましょうね。……わたくし相手に緊張なさることは、ありませんよ?」
絣は細く息を吸った。「……だ、大丈夫です」
そう、大丈夫だ。わかりきったことだ。これから対峙する相手もどうせ遥かに格上なのだろうが、そんなのはいつものことだ。自分の能力がまるで通用しない敵などいつものことだし、次元の違いを思い知らされるのもいつものことだ。
所詮は私だ。全力を費やして勝てなくてもいい。負けてもいいと思う。ただそのなかで、少なからず譲れないものがある。巫女としてではなく、絣として。この弾幕をかたちづくる限りは。
――同時刻。
まったくの同時刻。同じ次元。
絣は墜落していた。
「――は?」
黒塗りの闇のなか。周りを見渡してもなにもない。なにも見えないし、なにも聞こえない。星灯りさえもなく、数メートル先さえ見通せない完全な真黒のなか。
「――。……?……!? ちょ、え!? あれ!? なんっ、なにコレ!? なに、あ、ぎゃあああああ!! あああああ!?」
ルーミアの闇と似ているが、違う。伝わる力に妖気も障気も感じない。皮膚に伝わるのはむしろ、自分自身の、放ち慣れた霊力。無臭という匂い。
自由落下だった。なぜか飛べない。いや、飛んでいる。飛んで、それで墜ちているという感覚がある。飛べば飛ぶほど墜ちていく。加速し、全身を強い風が撫で、それで地面を目指してしまっている。
「……――ぁぁぁぁぁぅああああぁアアアアア、アあーっっ、だ、でぇっ!?」
頭から地面に突っ込んだ。
その地面も、他の闇となにも変わらない。つるつるの、皿のような感覚があるだけで、地面とわかるがガラスのように視認できない。
強く打った鼻を押さえて、涙目になりながら、起き上がった。状況がまったくわからず、自分を見下ろす。黒の小袖に右腕だけの袖、紅い袴。千早と一緒に博麗神社を出たときのままの格好。
いや、でも、なに? どこ? ここはなに? ていうかなんなんこれ? なんでいきなり墜ちてるの?
「ここはどこ!? 私は――私は絣、私は絣、誕生日は二月十四日十二歳、血液型はA型、妹は紡で師匠は橙さま、よしっ記憶喪失じゃない、千早さんと博麗神社から飛んで、妖怪の山の天境線へ向かう途中――よしっよしっ、ちゃんとわかってる――それでなに!? これはなんなんですか!? 誰か! 誰かいませんかーっ!!」
「いますよ」
「ひぇっー!?」
真後ろから聞こえた声にバッと飛び退り、距離を離して、反射的に鞘から抜き放つように左腕を振るう。とっ、と右足が地面についたときには、からだ全体を捻って逆向きに跳躍、聞こえた声の方角に向けて全速で突っ込んでいる。
左指の、黒と紅の花びらが開放される。掌全体に広がり、手首を越え、肘を伝い、首の根から頬にまで至る。霊力と術式がシンクロし毒を形成、同時に爪の弾幕が展開する。
「爪符『カラードネイル』ッ!!」
「落ち着いてください」
「ひゃっ!」
静かな声が届くと同時に足払いを喰らい、グレイズされた感触、また地面に鼻先から突っ込む。咄嗟に受身を取って横転、四つん這いの姿勢に。そうなったときには、四肢をバネのように動かして飛び跳ね、今度は真上から突撃を仕掛けている。
「だから落ち着いてくださいと」
声の主は爪の弾幕を軽やかなステップで回避し、絣の左腕を鷲掴みにする。手首が逆方向に捻じられる。一瞬の痛みにつられてからだが縦に一回転する。
絣は意味のない叫びを放ち、地面に足裏を押しつけて無理やり体勢を戻す。袂で重い右腕を振るい、開いた掌に結界を展開、
「霊符『夢想封印・――」放ちかけ、「――え、え!? 千早さん!?」
溜めた霊力がブレイクし、散り散りになる。
千早はにこりと微笑み、頷いてみせる。「はい」
「はい、って、なんなんですか!? なんですかコレ!? どこですか!? っていうか、え!? 千早さん!? え!? ええ!?」
「いいスペルカードですね。出が早くて隙が少なく、属性は毒ですか? こじんまりとしてるのは……本命が後に控えているから」
「えっ、あっ、ありがとうございます……? じゃなくて!」
「わたくしの能力です。安心してください」
絣は霊力を解く。花びらが滲んで消え、指先に戻る。千早から数歩後退りして、「能力……?」
「最初に言っておきますと、あなたはご自分のことを絣さん本人だと思っているかもしれませんが、正確には違います」
「は!?」
「絣さんであることには間違いありませんが、いま絣さんの本体は現実世界でわたくしの横を飛んでいます。あなたのことは勘付いてもいません。そうですね、あなたはいわば、『絣さんB´』とでもいうべき存在でしょうか。ご自分の胸を見てください」
混乱しかけながら、絣B´は自分の胸を見下ろす。最初はなにも見えない――が、眼を凝らすと、かすかに糸のようなものが見える。糸はわずかに発光しながら上に向かい、その先は遥か闇の奥へ消えている。
「それは絣さんの魂の糸です」と千早は言う。「それを辿れば、本体のところへ戻れます。あなたは絣さんの、魂の切れ端です。ほんの一片です。まあほとんど本人ですが、例えばここであなたがなにを思っても、絣さんにはなんの影響もありません。弾幕に当たって、墜落したとしても。首の後ろが痒いなくらいには思うかもしれませんが」
「は、はあ」
「そしてここは」
千早は腕を広げ、一帯を示してみせる。完全な闇に覆われ、なにもわからないが。
「端的に表現すれば、わたくしの心、あるいは夢、または魂の一部分。そこにあなたを喰らい、色づいたもの。そういう世界です」
「な、なるほど」わかったようなわからないような感じで頷く。が、「……え? 私を喰らった?」
「はい」
「喰らった?」
「それはもうばりばりと。頭から」
「……千早さんの能力ってなんですか?」
「阿求さんには『心を喰らう程度の能力』と申告してあります」
「ギャーッ!」
逃げかけた絣B´の首根っこを掴み、千早はとてもいい笑顔を浮かべている。
「そうやって驚いていただけますと、わたくしはたっぷりとお腹が膨れるわけです。妖怪としての格を上げることができるのです」
「逃げて私の本体ー!」
「絣さんにはなんの影響もありませんからご安心を。心は海のようなものですわ。片隅で誰かが喉を潤しても、海の水嵩が減ることはありません」
「黒符『カオス・――!」
「だから安心してくださいと」
霊力が集束するよりはやく鼻先を指で弾き、素早くひょいとからだを担ぎ上げる。すたすたと歩いて椅子状になっている地面までゆくと、そこで絣を下ろし、向き合って座り合う。
まだ臨戦態勢と退却態勢の狭間にある絣にくすりとして、首を振ってみせる。
「もう食べてますから、これ以上消化するようなことはありませんよ」
「っ、っ――!」
「こうして、誰にも邪魔されないところでお話すること。それ自体がわたくしの能力です。早苗様とも、赤子のときに初めて眼を合わせた瞬間から――まあそれはいいですね。とにかく、機を見て返して差し上げますから」
フーッと猫のように威嚇する絣は、まだわかっていない。とはいえ、その程度のことで調子を乱す千早でもなかった。彼女の心を喰らった本当の理由は、もうひとつあるのだ。
「話を進めましょう。あなたをここに招いたのはわたくしのためでもありますが、もうひとりいるのです」
「――。もうひとり?」
「口を交わしたほうがはやいですね。さあ、もうきているのでしょう? 出てきてください!」
絣は千早が声を向けたほうを見やる。
「――そんな。まさか」
絣の色――闇を押し開き、溢れんばかりの光が覗く。真っ白な夢の色が、帯のように幾筋も黒を照らす。
物心つくより先に何度となく向き合った弾幕の色。色取り取りではなく、光の色。ただの白、黄色混じりの白、この身にグレイズを刻み込んだ不可侵の色。触れることのできない美しさ。
『夢を追う程度の能力』……だからこそどんな立場にも縛られず幻想郷から飛び出していった。
「紡?」
妹は変わらない満面の笑みを浮かべていた。「やっ。お姉ちゃんおひさー!」
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