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2024/05/17 20:29 |
(東方)
 
 闇黒片 ~Chaos lives in everything~
 
 
 
 Stage4 地底教会
 
 
 
 ――ラヴリーラヴリーベイビーズ

 1/4
 

拍手



 
 ――二ヶ月前
 
 
 
 幻想郷と淡い境界を介して接している地底の、旧地獄跡――地霊殿は、主であるさとりを慕って、多くの獣たちが寄り集まって暮らしている。ちょうど紅魔館のメイド妖精のように、館の仕事に従事している者もいれば、本当にただのペットでしかない者もいる。
 空や燐は、前者だ。彼女らほど見事に人化できる者もそうはいないが、だいたいは、元は地獄周辺の野生の獣がほとんどだった。
 もちろん、子を為す者らもいる。なかには親子三代でさとりに仕えている獣もいて、出ていくほうが少ないから、昔よりはずっと賑やかになったようだ。
 だが、親もなく地霊殿で産まれ、成獣となるまで育った者となると、不思議といなかった。
 
 だからその卵が孵れば、そういう初めての住人となるのかもしれなかった。
 「お燐……」
 「うにゃ?」
 
 燐の裾をくいくいと引っ張り、己の胴ほどはあろうかという巨大な卵を抱えた空が、振り返った燐を見つめている。
 マントごと翼が静かに畳まれ、卵を包むようにし、常とは違ってどこか厳かな空気を纏っている。燐に向ける眼はじいっと真剣に澄んでいて、緊張した無表情だ。普段が陽気すぎるほど陽気なせいで忘れがちだが、もともと凄まじいほど美しく整った顔立ちの空がそのように立っていると、内なる神の影響もあってか、どこか神聖に輝いているように見え、燐はちょっとどぎまぎしてしまう。
 
 「な、なに? お空」
 「産まれる」
 「えっ」
 
 言った瞬間、空の抱える卵に黒い亀裂が稲妻をかたちづくった。
 
 「……――にゃあーーーーー!!!!!」
 
 事態を見て取った燐の叫びが地霊殿中を駆け巡った。同時に心模様が強く放射され、自室で是非曲直庁への定例報告をまえにしてうんうん唸っていたさとりの第三の目を直撃し、砲弾のようにがつんと衝撃、仰け反った拍子に後頭部をしたたかにぶつける。さとりは頭を抱えながらも事態を把握し、机に飛び乗るや否や資料を蹴飛ばしてさらに跳躍、扉を蹴破って廊下をダッシュ。百メートル十秒フラットの見事な疾走はすぐにふたりの許へ届いた。
 
 「燐! 空!」
 「さとり様! 卵が! 仙人のお姉さんからもらった例の卵が! わざわざお空を呼び戻してあっためってもらってたあの卵がッ!」
 「さとり様産まれる」
 「おおおおお落ち着きなさいふたりとも、出産にはもう何度となく立ち会っているはず、慌てることはありません要はいつもと同じです。まずは母体の安全を確保しつつ父親に通達するのです、気をつけねばならないことは――」
 「さとり様! 哺乳類じゃないです派虫類ですッ、親御さんは地上の仙人のお姉さんのとこですっ! どうしましょういまから行っても絶対間に合わないです、こうなれば不肖あたいがおっかさん代わりにッ」
 「ふたりとも落ち着いて」
 
 取り乱す主と親友は放っておき、空はひび割れた卵を抱えて先程までいた部屋に戻る。既に温度は適切に保っており、あと孵化に必要なものといえば、時間と、雛自身の意志だけだった。ひび割れの奥から、心の深奥に響くような、掠れた小さな声が聞こえてきて、殻が内側からくんくんと叩かれるのを感じた。
 空は座り込み、ほとんど母親のような優しさで翼をたたみ、ひび割れに唇を押しつけて囁いた。
 
 「おいで。さあ」
 
 生まれ落ちる者の最初の鼓動が世界に響いた。
 燐とさとりは空の肩越しに卵を恐る恐る見下ろし、そのときを待った。こうした場面には何度遭遇しても慣れるということがない。それが哺乳類にしろ、爬虫類にしろ、誕生の瞬間はもっとも生と死に近しい。心の奥底から揺さぶられる感覚がするのだ。知らず知らずのうちに喉をからからにして、息をすることさえ忘れている。
 一片の殻が破られ、羽根のように、空の膝に落ちた。
 
 がつん、がつん、と内側から殻を破ろうとする必死の音が聞こえてきた。神聖な沈黙が三人のあいだを満たし、その瞬間を見届けるために、全神経を注ぐようにしていた。
 やがて、闇を弾き返し、赤子の腕が殻を突き破った。その下から小さな瞳が覗き、すべてを捉えると――戦場の銅鑼のように高々と、耳をつんざく産声が響き渡った。
 さとりは耳を塞いだ。燐も耳を塞いだが、猫耳のほうは腕が足りずに塞げず、すぐに目を回して気絶してしまった。空は卵を抱えながらも、翼を持ち上げて耳を護っており、赤子に向けてにっこりと笑顔を浮かべてみせた。
 
 「地霊殿へ――じゃなくって――世界へようこそ。おチビさん」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――現在
 
 
 
 
 マヨヒガの縁側。午後の柔らかな光が射し込むなか、淫魔はじいっと固まってその一角を見つめていた。作務衣に襷をかけてピンクのフリル付きエプロン、着替える間もなく、近頃はもうずっとこの姿だ。外界にいた頃愛用していた、ボンテージもドレスも捨てられてしまった。
 見つめる先には、なにもない場所にぽっかりと開いた、赤と黒の、不自然な亀裂。ひとの眼のかたちに押し広げられ、その両端には、小さなリボンがくくりつけられている。内側からは夥しい数の目玉がこちらを向き、ぎょろぎょろと気持ち悪く蠢いていた。
 
 「……ここに突っ込めば、ここからおさらばできる――?」
 
 ごくりと息を呑み、その考えをもっと深めようとする。橙は外出するとき、三回に一回はこのスキマを用いている。開閉自在というわけではないようで、ずっと開きっぱなしになっているから、おおかた誰かの借り物の能力なのだろう。自分がここに連れてこられたときも、こうしたスキマを使ったのだ。いまいち理解しきれないが、恐らく次元を捻じ曲げてA地点とB地点を繋ぐことのできる力なのだろう。
 思えばここにきてから、まったくひどい日々だった――といってもまだ一ヶ月も経っていないが。あんな猫娘ごときにこの私とあろうものがメイドか女中扱い、慣れぬ水仕事の毎日のせいで皮膚は荒れ果て、ひび割れ、異性を問答無用で誘惑する白魚の手だったものが労働者階級の太く厚い指になりかけている。外界ではこんなのはみんな、あの自分が創り出したとも思えないチェーンスモーカーの娘の仕事だったのに。顎で扱き使われ疲れ果てた末に泥の眠りを貪る日々、メイクの時間さえ取れない。鏡を見て戦慄した、映っていたのはどんよりと曇った表情を浮かべた不細工な女、変わり果てた自分だと気づくのにたっぷり一時間かかった。
 
 「屈辱だわ、ああっ、まったく恥辱の極みだわっ」
 
 思わず両手で顔を覆ってわっと泣き叫ぶ。
 こんな生活を続ければもうどうなってしまうかもわからない。事実だけが心を変え、心だけがわれわれを変える。死ぬよりもっと怖ろしいことを想像し、淫魔はぶるぶると全身を震わせた。
 いまこそこの悪魔の屋敷を脱出し、自由を取り戻すのだ。外界での栄光を再び。あの凶兆の黒猫と鉢合わせになるのはまったく怖ろしい、しばしば纏わりついているあの闇はさらに百倍怖ろしい。なんとかして、逃げ出さなければ。ええいままよ! 主よ一握りの憐れみを、我に!
 淫魔は意を決してスキマに飛び込んだ。
 
 闇雲に腕を振り回して、出口らしきものを掴むと、水面から顔を出すようにぷはっと大口を開けた。
 その瞬間に弾幕の網が淫魔を包んだ。
 
 「へっ? ちょっ!? あーーーーー!!??」
 
 絣は錐揉み回転しながら橙の弾幕をがりがりとグレイズし、たまたまそこにあったなにか柔らかい足場――淫魔の頭――を思いっきり蹴飛ばし、空中で鋭角の軌跡を描いた。地に擦るようにさらに飛び、弾幕の一波を潜り抜けると一気に跳ね上がり、標的の頭上から、
 
 「霊符『夢想封印・劣』ッ!!」
 
 橙はバックステップを三回踏んで射程範囲から逃れる。射角に回り込もうとする絣に牽制弾を放ちつつふわりと浮かび上がり、太陽の陰になる鳥居を背負う。
 絣は撹乱のためになおも弾幕を放ちつつ地を駆ける。橙を追って地対空のタイミングを計る。が、遅すぎる。橙の弾幕が雨のように降り注いで石畳を間断なく叩く。
 
 (ッ、……ッっ!!)
 
 歯を食い縛って、飛ぶ。がりっ、と奥歯が軋むほど強く表情を歪めている。緩やかに後退する橙を追い、必死で距離を詰める。近づかなければ話にならない、霊力が弱すぎて遠距離では弾幕の密度があまりにも薄すぎる。
 グレイズし損ねた弾丸が頬を切り裂き、ぱっと血が飛び散る。絣は思わず顔を背け、背けてから自分を叱咤する。
 
 (この位で怯んでちゃ、だめだ! 標的から目を離してる!)
 
 眼を見開いて橙を見る。その姿が弾幕の向こう側に霞む。見るだけじゃ足りない、とむりやり意識する。視るんだ。みんなが無意識にやってることを私は意識的にしなきゃならない。足りない、なにもかもが全然足りない! どうすればいい!? どうすれば!?
 わからないままに強引に距離を詰める。至近距離での弾幕が際どく交差する。手を伸ばせば届きそうな位置まで。橙の無表情が自分を見下ろすのが見え、ここが機と見て取った絣はもう一度霊力を収束させ、
 
 「霊符『夢想――」
 「仙符『鳳凰卵』」
 
 橙のほうが一拍も二拍も迅い。自分のものでない弾丸が全身を叩き、咄嗟に張った防壁を次々と打ち砕いていく。ぱっと視界が紅く染まった。額を切り裂かれていた。傷は浅いが、頭だから、血は過剰に流れ出す。眼に入り込んでしまう。
 
 (遅すぎる!)
 
 絣は悔しさから腹の底が震えるような叫びを上げ、飛び退く。一目散に弾幕の外側へ、外側へと退避する。そのまま神社の敷地から離れ、裏の林に飛び込んでいった。
 弾幕が収まると、橙は石畳に爪先をそっと置き、着地する。前髪を静かに払い、辺りを油断なく見回し……そこで妖力を鎮める。
 
 「……ふう」
 
 ふと賽銭箱の前を見ると、絣の靴底の跡をくっきり顔に残した淫魔が、へたりこんで涙目を浮かべていた。
 
 「なにしてんのさ」
 淫魔はごしごしと顔を拭って、「それはこっちの台詞よ!」
 「いや普通に修行だけど。さて、私のほうは一休みしよっかな。丁度いいや、あんたちょっとお茶淹れてよ」
 「なっ――」
 
 絶句する淫魔を後に、橙はううんと背伸びをひとつ。こきこきと首を鳴らして社務所にすたすた行ってしまう。
 まったくもって逃げおおせていない。淫魔はがっくりと膝を突き、不幸のどん底にある己が身を嘆く。屈辱だわ、まったくもってこの上なく、恥辱だわ! あんな小娘にさえ足蹴にされて!――
 
 淫魔が嘆いた瞬間に影が飛ぶ。社務所の扉を開けた橙に向かって、放たれた矢のように絣が飛びかかる。淫魔は思わず耳を塞いでいる、その小さな少女の口から弾けた、身にそぐわぬ黒々とした雄叫びに。
 石畳の上に、ぽたぽたと血飛沫が散る。
 刹那の交錯、が、それも結局は橙の予測の内だ。零距離での撃ち合いもまた、橙が制した。さらに傷を増やして絣は地を蹴り、神社を丸々飛び越えてまたどこかへ行ってしまう。
 
 再び静かになると、淫魔は橙を指差して、
 「修行――って! あんたたちどっかおかしいわよ!」
 橙は肩をすくめてみせる。「ああやって自分を曝け出してくれるようになったのも、つい最近だけどね」
 
 
 
 淫魔の淹れた不味い茶を口にして、橙は溜息をつく。
 絣。……最近はどこか詰まってしまったように、物思いにふけることが多くなっている。自分がスキマを開いて、神社に立ち寄るたびに、どこかぼんやりした視線をここでないどこかに向けている。こちらに気づいて挨拶するまで、数瞬の間がある。
 その上で、修行として弾幕を交わすと、ああいう風に激しくなる。鎖を解こうとする餓えた狼のように、自分を噛み千切るように、無茶なグレイズが増えていく。
 
 焦り……とはまた違う。あの獣と出逢い、別れてからだ、と橙は考える。
 (いい影響を受けたのか、悪い影響を受けたのか。どっちにしても、絣にはちょっと大きすぎたのかな)
 
 身の裡に放り込まれてしまった種火を、自分でどうにかしようと、もがいている……
 最近の絣には、そういう印象を受ける。彼女の内側で育っていた闇に、さらなるきっかけを与えてしまったのか。
 思春期の少女特有の、答えのない苦悩がかたちづくるカオス。自分自身、一度ならず体験したことだ。いや、恐らくはほとんどの子供が。
 
 だからわかる。出口はない。それぞれがそれぞれ、なにかしらの決着をつけるまで、迷路は続く。一区切りつけても、さらなる険峻がまえに立ちはだかっていることに気づくだけで、きりがないものだ。それは生き続ける限り続くのだ。
 (彼女には感謝すべきなのかな。それともその逆?)
 
 
 
 淫魔はどうしたら橙を出し抜けるのかうんうん唸りながら考えている。なんとかしてこの神社からも脱出しないと! 縁側で頭を抱えているところに、ざり、と砂を踏む音が聞こえ、顔を上げる。
 「……」
 ぽかんと口を開けて唖然とする。
 
 裏の林から姿を現した絣は、裂けてしまった額に手拭いを巻きつけてむりやり閉じ、全身の生傷のひときわ大きい場所に包帯を巻き、泥だらけで、すっかり戦場の兵士染みているのだ。その顔ときたら怒り狂った猫のようで、食い縛った歯の隙間から火のような息を吐き出して、爛々と病的な瞳で淫魔を見つめている。
 
 「橙さまは!?」
 淫魔は呆れながらも、「……なかで休んでる」
 
 弾幕戦は継続中なのだ。絣は臨戦態勢のまま淫魔の横を駆け抜け、飛ぶように橙のもとへ向かう。淫魔は慌ててその後を追う。
 絣がばすん、と襖を開くと、既に橙は立ち上がってこちらを向いている。
 絣は腰を落とし、腹の底からびりびりするような気合を発し、間合いに踏み込んだ。
 
 弾幕を伴った突撃。橙は初動を悟らせぬようにバックステップを踏み、その分だけ踏み込んできた絣の額に指先を置いた。
 淫魔の眼からは、橙が指一本で絣を止めたように見えた。
 橙は絣の眼をしっかりと見、はっきりと言った。
 
 「じゃ、これでおしまい」
 
 絣のからだから、ふっと戦意が抜け出た。
 
 「無理な前進が多いね。きちんと戦況を見極めて、冷静な頭で進むか退くか判断しなさい。グレイズはいいけど、その後が続いてない。かわすだけじゃ敵は落ちないよ。あんたの霊力からしたら、踏み込まなきゃ話にならないのはわかるけど。でも思い切って撤退したのは良かった。そうして応急処置して、もう一度やってきたのもね。しぶといのは武器だよ」額に巻かれた手拭いをなぞって――「でも、血を眼に入れてしまったのはだめだ。目玉に油の膜が張って、しばらくはどうしても視界が塞がってしまう。額の出血が激しいのは当たりまえなんだから、眼に入れないように流しなさい。
 いちばんの反省点はそこかな。後は自分で考えられるでしょ?」
 
 絣は肩で息をし、数歩後退りした。
 心臓に手を当て、呼吸を整えると、ようやく頭を下げた。
 「――ぁりがと、ございまし、たっ……」
 
 橙は微笑んで、「お風呂に入って、からだを綺麗にしてきなさい」
 「はい……」
 「傷があまり痛むようなら手当てしてあげるけど」
 「これくらいなら、大丈夫です」
 「疲れたでしょ? 今日はご飯つくらなくていいよ、こっちでやっとく。夜までなにもしないこと。休んでおくのも、修行の内だと考えなさい」
 「はい、橙さま。申し訳ありません、ありがとうございます」
 
 絣はふらふらと敷居を跨ぎ、部屋を出る。淫魔にぺこりと頭を下げて通り抜けかけ、ふと気づいて、
 
 「……あ、えと、初めまして……? どちらさまでしょうか?」
 淫魔はぐっと声を詰まらせる。まさかここぁに爆弾仕込んで紅魔館ごと吹き飛ばそうとした悪魔です、などと言えない。困り果てると、橙が声を上げる。
 「それは気にしなくていいよ、絣。ただの荷物持ちだから」
 「……――!?」
 「はあ……」
 
 屈辱に固まる淫魔にもう一度頭を下げ、絣は出ていく。一拍置いて、わなわなと震え出す淫魔の肩に、橙はぽんと手のひらを置く。
 
 「というわけで夕飯よろしく」
 
 淫魔は崩れ落ちる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 夕飯時にさえ絣はぼうっとしていた。
 辛すぎる味噌汁、味付けの薄すぎる野菜炒めに、橙は顔をしかめたが、絣は無心に箸を動かしていた。芯が残っていてとても食べられたものじゃない白米も、絣はきちんと平らげた。橙がそっと自分の皿から絣の皿に豚肉の煮付けをよそっても、まったく気づかない様子で食べていた。
 
 「不味すぎる」
 「どっ、どうも申し訳ありませんねー橙サ・マっ、なにぶん和食なんて初めてづくしなものでッ」
 
 橙が背を向けると思いっきり舌を突き出す淫魔である。あの態度じゃ上達しないだろうなあ、と橙は苦々しく思う。絣と、料理の才と魔力を少しくらいでいいから交換してやれないものか。
 まだ明るい。縁側から、裏の林のこんもりとした黒い影が、消える寸前の儚い茜色を背負っているのが見える。風の冷たさは肌寒いというより心地良く、こういう時期の晩酌は外の空気が美味い。
 杯に酒を注ぎながら、さてどうしたものかと考える。絣の苦悩を一から十まで解決してやる気はないけれど、ちょっとしたきっかけくらいは与えてやりたいものだ。その先の答えは絣のもので、自分がもたらすものではないが……
 
 「気分転換でもね……」
 
 何気なく呟く。それだけでも随分と違うものだけれど。
 するとそのとき、意識の端に気配を捉え、顔を上げる。賽銭箱のまえまで行くと、鳥居の下の階段を登って、人影がひとつ現れる。
 
 「申し訳ない。こちらに賢者殿はいらっしゃるだろうか?」
 橙は首を振って答える。「身内でよければ」
 
 
 
 話を聴くと、こめかみのあたりから牛のような角を生やした鬼は、深々と頭を下げた。
 「ありがとう。そう言ってくれると助かる」
 「構わないよ。現地獄からはるばるお疲れ様。今日はどこかに泊まる当てがあるの?」
 「いや、すぐにでも地底へ向かうつもりだ。突然ですまねえ」
 「わかった。準備が出来次第私も行くよ」
 「いいのかい? おまえさん、八雲家の娘さんだろう。忙しいんじゃ――」
 「忙しすぎて、もう少しくらい忙しくなっても全然変わらないくらい」
 
 鬼はもう一度頭を下げ、鳥居をくぐって階段を降りていく。
 橙は顎を撫でて一思案し、絣のところへ向かう。
 
 
 
 絣は寝間着姿で、永遠亭製の軟膏の匂いを全身から発しており、額の傷には変えたばかりの包帯を巻きつけていた。黒髪が包帯に押し上げられるかたちになり、その下にある双眸は、いつもより小さく見えた。
 
 「地底?」と絣。
 「明日にでも行くつもり。まあ長くても一週間いないだろうけど」
 「私になにか手伝えることがあれば――」
 「うーん、巫女の仕事じゃないかな。でも、あんたもくる? いい機会だから、地底を見ておいても悪くないと思うし」
 絣は眼を泳がせる。「でも……神社にひとがいないと……」
 「留守番は置いとくよ。じゃあ、決まりでいいね。問題は泊まるところなんだけど」
 
 自分は地霊殿を訪ねてみればいいし、そうでなくてもスキマで簡単に行き来できる。けれど地獄に程近いあそこは障気もそれなりに濃く、溶岩の上を飛ぶ巫女はそう珍しくないとはいえ、絣にはまだ早すぎる。旧都の宿は鬼だらけで、橙としてはなかなか心配だ。
 スキマを開いて、地霊殿と繋ぐ。
 
 「そういうことなんですけれど、燐さん、どこかいい場所ないでしょうか?」
 「うううん? ま、参ったな、あたい地霊殿じゃなければ野宿してるんだけど。旧地獄の四丁目六番裏の空き地は静かでいいとこ……あ、人間には無理かぁ。さとり様どこか知らないです?」
 スキマの二番回路が開く。「わ、私に振るんですか!? そんなこと訊かれても私だって地底は地霊殿と橋以外にはあまり――パルスィはどうですか?」
 スキマの三番回路が開く。「いや私に訊かれても困るってば! そりゃこの辺は障気に限ればだいぶマシだけど、私の家は狭すぎて年頃の女の子なんて無理っ。私だって友だちいるほうじゃないんだからこういうとき誰に頼ればいいのか――ヤマメ!」
 スキマの四番回路が開く。「蜘蛛の巣でよければ歓迎してあげるけど。二度と地上に帰れなくてよければねえ? じょうだんだって、そんな顔しなさんな。でも、旧都もいやなのかえ? そうなると困ったね、ろくな宿なんてあそこくらいにしか――なぁに、キスメ? うん? あいつぅ!? そりゃたしかにむかしに比べりゃマシになってるけどさぁ……うぅん……まあ子供には弱いから大丈夫かねえ……」
 
 そういうことになった。
 
 
 
 「明日は早めに出るから、あんたはもう寝ときなさい」
 
 絣は頷き、寝室に向かう。橙は続けてその者とスキマ越しに交渉を始める。
 からだじゅうの傷が痛むが、それがいつものことになってしまっている。最近では、そういう感覚がなければ逆に不安になってしまうほど。布団を敷いて、ふと手を止める。毛布を掴んでいる指先をじっと見つめる。
 網膜に焼きついたひび割れた爪が、どうしても思考から剥がれてくれない。白銀の毛皮に覆われた腕の感触も。あの獣は今頃どうしているのかと思う。その感情の赴くまま、またその爪を削るように……
 
 「……っ」
 
 からだの痛みよりこのもやもやした感覚のほうが辛い。所詮は他人だ、と自分に言い聞かせる。遠い、別の世界の住人だと。立っている場所がそもそも違うのだと。
 あの獣になにをするわけでもないのにこんなにやきもきしている。ばかばかしい、親でも姉妹でもないのに。どうしてこんなに自分の根っこにまで食い込ませてしまっているのか。
 寝間着の胸越しに心臓を掴む。胸の張り裂けそうなほど重い感覚がある。
 
 「悪いものでも食べたみたい……」
 
 獣に歴史を喰らわれて、代わりに彼女の抱える矛盾を喰らってしまったように。
 ばふりと毛布を被って眼を瞑り、眠れ眠れと自分に言い聞かせる。橙との修行によってからだは疲れ果てている、が、眠れない。それでも眠れと思い続ける。明日は地底へゆく――地底へ――いつまでもこんな風にくよくよしてる場合じゃないのに!……
 結局その日、ほとんど眠れはしなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 眠りの浅いときに限ってろくでもない夢を見るものだ。
 黒塗りの夢の闇を薙ぐ五太刀の爪。……獣の放った弾幕が、延々と繰り返し流れ続けた。それによって一度撃墜されたせいか、そのときに感じた悔しさと惨めさまで伴って、生々しくリプレイされた。
 絣は地底への道を飛びながら、ぐらつく頭を抑えて、なんとかしてその光景を忘れてしまおうとした。忘れようと意識すればするほど、忘れられなくなる。より深い領域にまで刻み込まれてしまう。
 
 (消化不良なんだ)
 そんなことを思う。
 
 橙から、泊めてくれる者の家までの地図をもらっていた。凄まじい風の吹き込む縦穴を降りながら広げた。ばさばさと激しくはためく四隅をむりやり広げて、岩棚に腰かけて眺めると、旧都までは行かないようだった。誰も渡る者のいない橋の架けられた川筋を遡り、山裾状に広がる地形のなか。
 地底の、郊外とでもいうのか。なるほど人家はまばらで、鬼は安定して酒の飲める旧都に集中しているから、危険度でいえば多少はマシなのだろう。それに旧地獄からは遠く、障気も薄そうに思われた。縦穴くらいの障気なら絣にもなんとか防げる。
 
 (でも、ほんとうに大丈夫かな。都からこんなに離れてるってことは、なにか事情があるひとたちなんじゃ?)
 
 だって農地ですらないのだ。地上でも、人里と妖怪の山のあいだの空白地帯に住む者をいくらか知っているが、例えば半妖のような、どちらかといえば妖怪寄りの、社会に馴染めない者が多い。妹が彼女たちのあいだでなぜか人気者で、訪ねていく妹によくついていった絣は、子供心にいろいろなことを感じ取ったものだった。
 初めて見る地底は、地の底というだけでなく不思議な場所だった。
 川筋に降りて、歩きながら遡った。天井が塞がる屋外というだけではない。ところどころに翠や蒼の鬼火が静かに揺らめき、障気の白い靄が薄く棚引いている。空気が柔い。気を抜くと魂を持っていかれそうな危うさを、肌で感じた。
 
 薄暗く、光の質が違う。地上では屋外でも屋内でもこんな感じはしない。光でも闇でもないものだ。(別の世界に立っていることを意識しろ)、獣のことばが思い返される。改めて気を引き締めた。
 それに、耳に届くこの音。風の唸り声だろうか? ウゥゥン、ブゥゥゥンと、常になにかが振動しているような、それがさらに反響しているような感じがする。いや、視覚や聴覚だけではない。空気の匂いも。空気の触感も。唇のあいだから入り込んでくる空気の味覚も、地上のそれとはなにか……一段階深まっているような……
 
 (き、緊張してきた)
 
 誰も渡る者のいない橋が見えてきた。短い金髪に緑眼の、思わずどきりとするくらい綺麗な女が欄干にもたれており、こちらを見ると、軽く手を振って会釈してくれた。がちがちになりながら頭を下げた。
 再び頭を上げると、どこかを指差しているのが見えた。そちらを向くと、川沿いに整備された四つ辻、比較的新しい看板が突っ立っている。どこへ行けばいいのか、はっきりとわかるようになっている。
 
 「ありがとうございますー!」
 
 声を張り上げて、旧都でないほうへ向かう。
 
 
 
 旧都の方角から、同じ道を辿ってきたらしい、ひょろりとした背の高い男が木陰で休んでいた。膨らんだ頭陀袋に腰かけ、ぼんやりと目線を泳がせていたが、絣が擦れ違い様頭を下げると、はっとしたようにこちらを見た。
 
 「やあ、待ってくれ、もしかして今代の巫女殿じゃないか?」
 絣は怪訝な眼を向けた。「はあ、あの、はい」
 
 絣の服装は、いつもの紅一色のツーピースで、先代以上に巫女要素などどこにもない。どうしてこのひとはわかったんだろうと思う。
 
 「いやあ、よかった。どうやら無事合流できたようだ。八雲の方から聞いていないか? 君が滞在するひとのところに、ちょうど僕も頼んでいてね。いろいろと事情があるんだが……」
 「あ」そういえばそんなことを橙が言っていたように思う。今朝見た夢で頭がいっぱいで、なんとなく聞き逃していたのか。「えっと……是非曲直庁のお役人さんですか?」
 「そうそう! 初めまして、巫女殿。メズだ、よろしく。馬の頭と書いてね」
 「絣です。飛ぶ白じゃなくて、紺絣模様のほうの」
 
 言いながら、このひとはどうして旧都のほうに滞在しないのだろうと思った。地図を見るだけでもわかる、このあたりは旧都まで、神社と人里ほどは離れている。不便さは身を持って知っている。
 絣の表情を見て取り、馬頭と名乗った男は、肩を竦めてみせる。
 
 「僕のほうはちょっと事情があってね。連れに頼まれて……まあそれはおいおい話そう。でも君がこっちの静かなほうを選んだのはわかるよ、鬼についていくのはしんどいものな。まったく規格外の物騒極まりない連中ばかりで、酒に付き合うのも命懸けときたものだ。こっちは普通の人間程度にしか強くないのに、引っ張りまわされて、何度潰されたことか」深々と溜息をついて口調を変え、「一週間ばかり有給をとってね。地底へは仕事でしかきたことなかったから、ゆっくり見て回りたいと思っているんだ。まあ、それが目的ではないんだが……君は?」
 「私は特に用事はないです、でも一通りは回ってみるつもりです」
 「そうか。お互い楽しめるといいね」
 
 馬頭はかすかに微笑みを浮かべて、頭陀袋を背負うと、先導するように歩き出す。絣の小さな歩幅に合わせるような速度で、絣は後ろからついていく。
 
 「しかし、君は十歳くらいかい? 随分と若い巫女殿だね、いろいろと大変だろう?」
 「十二です。その……聞いてませんか? いろいろ……」
 「ああ、噂話はね。いや、またひどい貧乏くじを引かされた子だろうと思って、勝手に共感していた」苦笑しながら頭をがりがりと掻き、「すまない。だが僕のほうもなかなか負けてないぞ、噂話になるようなことじゃあないが。毎日毎日クレームの処理ばかりで、少しでも対応がおざなりになるとお役所仕事だと罵倒されるし、出張するたびにわれわれがどれだけ嫌われてるのか思い知ることばかり。胃薬が手放せなくなってしまったよ、まったく矢面に立つのが仕事みたいなもので――おっと! 愚痴るつもりはなかったんだ。それよりもうすぐじゃないか? 僕の聞いたところだとこのあたりのはずなんだが」
 「えっと」地図を広げて言う。「あれかなあ……」
 
 元は段々畑であったような起伏の、淋しい岩と土くれの荒野に、小さな家が点在している。地底の空は剥き出しの岩ではないが、黒紫の異様な雲が覆い尽くしており、見渡すだけで心が不安に侵されるようだ。踏み固められた道がすうっと一筋伸びているが、その外側はひどく歩きにくそうで、ちらと横を見ると、そこかしこで朽ち果てた骨が散乱しているのがわかる。
 絣は少し震えた。けれどこれくらいなら、獣に爪を向けられたときほど怖くはない。
 
 「不気味なところだね。まあ地獄ほどじゃあないけど」と馬頭。
 「地獄で働いてらっしゃるんですか?」
 「いや、昔ね。獄卒だった時期があった。周りが鬼ばかりってのは辛かったけど、基本的に気の良いやつばかりで、そのお陰でなんとかやっていけたよ」ふう、と溜息をひとつ。「それでも毎日がきつくて、明日がくることにさえ怯えてたものだ。肉体労働よりも、そこに堕ちる連中と顔を合わせるのが辛かった、おまえはどうなんだって糾弾されてるみたいで……。鬼のなかにさえ、欝になるような者もいた」
 絣はなんとなく相槌を打ち辛く思う。
 「ここにきたのもそういう経緯があって――」
 
 ふたりは声を潜めるようにして話し、気持ち足早にその者の家に向かう。もともと地底は忌み嫌われた者のための土地であり、そうした場所に、快く受け入れられるとは思っていない。それは地上でも大して変わらないことだが……
 やがてそれらしき家のまえまでやってくる。大きくはない、こじんまりとしたつくりだが、一家族くらいは問題なく暮らせそうで、小奇麗な見目をしていた。庭には草一本生えていないが、それでもきちんと掃除され、整えられており、北側と西側は盛り上がった岩壁に覆われて、いかにも静かで住み心地良さそうだった。
 
 「あの、どんなひとかって、知ってます?」
 「いやあ。直接会ったことはないんだ、話に聞いただけで。女性だそうだが。君も知らないのか?」
 「橙さまがスキマ越しに話してらしたんですけれど……」
 
 そういえば今朝、橙はどこか疲れているようだったが。文字通り閉口して、食事中もことば少なだった。絣のほうは物思いにふけっていて、気づかなかったが、なにか申し訳なさそうな目線を送られていたような気もする。
 
 「まあ、彼女の世話をしてくれていたひとだ。悪いやつでもあるまい」
 
 馬頭は気にすることなく扉をノックした。数秒の間があり、内側から勢いよく蹴飛ばされた扉に吹き飛ばされ、仰向けに大の字になってダウンした。
 絣は唖然と女を見上げた。
 
 
 
 「じゃあ行ってくるから、留守番よろしく。なにかあったらすぐにわかるから、くれぐれも逃げようとしないこと。掃除は毎日きちんとしてね、お酒はほどほどに。戸締りはしっかりしなさいよ、神社に空き巣にくるようなやつもいないと思うけれど、いざってとき食われるのあんただからね。火の元の始末も忘れないように」
 「ぐっ……」
 
 わなわなと全身を震わせる淫魔に背を向け、橙は地底へと繋いだスキマに入り込んだ。
 自然にもう何度も溜息が出てくる。絣がまったく心配でならなかった、キスメには大丈夫いいひとだよと判を押されたものの、実際に話して受け取った印象は、もしかしたら鬼のほうがずっとマシなんじゃないかと思うほどのものだった。
 
 (大丈夫……だとは思うんだけど。チビと向き合っても無事だったし。悪い影響だけ受けなければいいけどなあ)
 
 危機察知の感覚が全麻痺していると、こういうときに困る。自分の身ひとつならともかく、絣まで気遣ってやらないとなると……
 
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2012/05/13 15:06 | Comments(0) | 東方ss(長)

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