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2024/05/17 21:03 |
(東方)
 
 闇黒片 ~Chaos lives in everything~
 
 
 
 Stage3 山間雪原
 
 
 ――その道の中途で……


 前編


 

拍手



 絣の生家は、人里のなかでも山に程近い、斜面に並ぶ段々畑のあたりだ。狭い谷状になっており、早朝のまだ暗い時間帯、鏡面のように白く輝く水田が延々と続き、山の深奥へと伸びる道がその中心を刻んでいる。湧き上がる薄靄が情景を水墨画のように染め抜いて、ひどく懐かしい匂いがするのだ。
 直線状に背の高い木が植えられており、収穫の頃になると、そのあいだに横木を張って天日干しにする。横木が足りなくなると、竹でつくった柱を田に突き刺して、風通しをよくするためにねじり干しにする。稲架木といって、昔はそのあいだを、絣と妹のふたりが空を飛ぶ練習をしている光景がよく見られたものだ。
 
 いま、絣はひとりで稲架木の上に立ち、妖怪の山のほうを見ていた。巫女服から巫女要素を取っ払った、赤一色のツーピース姿である。普段はリボンもなくそのまま流している髪を、首の後ろあたりでひとつに結っている。山からの風が強すぎるためだった。
 (ときどき、ここまできたくなる。意味ないって、わかってるのに)
 
 妹が幻想郷から出て行くとき、そこから山へと続く道を使ったのだという。絣は当時知らなかったが、その山のどこかに、博麗大結界の綻びがあるらしかった。いや、綻びというにはあまりにもささやかな裂け目なのだが、資格ある者が抉じ開ければ外界と幻想郷を一時的に繋ぐこともできる――らしい。
 絣には確かめようもないことだ。
 山のほうには、まだ雪が残っていた。山脈のつくるまだら模様の影はところどころ純白だった。春とはいえ、そのあたりは冬の匂いが残って肌寒い。守矢神社への参拝客も、これでは妖怪だけだろう。
 
 (なにやってんだろ、私)
 
 自分でもなにを考えているのか、ときどきわからなくなる。朝の冷たい空気に頭が晒されて、凍りついていくようだ。妹が帰ってくるのを待って、ここでこうしているのか。妹の性格からして、それはないと誰よりもはっきり知り抜いているのに。逆に、妹が帰ってこないように見張っているのかもしれなかった。
 巫女の役目を取り戻されないため? 妹がそう望めば、きっと返さざるを得なくなる。実力、才能、素質、性質、その差はなによりも明白なのだから。そうではなく、夢半ばで戻ってきた彼女のケツを蹴飛ばして、後悔させないよう、また茨の道に押し戻してやるため? どちらでもあるかもしれない。またそうですらなく、ただこのもやもやした感情を自由すぎる妹に吐き出したいだけなのかもしれない。
 
 考えても、わからなかった。自分の本当の気持ちなど……
 
 
 
 マヨヒガの書斎。橙は行灯の火を頼りに書物を開き、ここ数十年の幻想郷の記録に眼を通していた。人里の慧音が記している、詳細な歴史である。自分の過ごしてきた年月とはいえ、それらすべてを経験したわけでもないから、知らぬことも多いのだ。
 廊下からはどたばたと雑巾がけしている音が聞こえてくる。不器用なもので、そうしたことに慣れていないのか、何度もごろんと転がっているようだ。絣ならあっという間にマヨヒガ中を片付けてしまえるのに、と溜息をつく。淫魔というやつは己の興味あること以外はてんでダメらしい。
 
 そのとき不意に意識の端が揺らめくような気配を覚え、橙は顔を上げた。その眼が明り取りの窓に向き、さらにその向こう側を睨むように細められる。書物に置いている指先が、わずかにひくついた。
 「結界が――?」
 
 淫魔が襖をばしんと開け放ち、書斎に押し入ってきた。ブロンドに近い赤毛は三角巾のなかでひっつめられ、襷を締めた作務衣にフリル付きエプロンの、なんとも淫魔らしくないちぐはぐな格好である。ぜえぜえと荒く息をつき、額には汗の珠を浮かばせ、すっかり疲労困憊といった様子だった。
 
 「橙!……っっ、ッ、サ・マっ!」叫ぶように敬称をつけ、まったくこの上ない屈辱といった風に、「終わりましたわよッ、やっとこさ! 何日かかったと思っていやがりますかっ、でもこれですみからすみまで見落としなくッ! これで私はお役御免ですわね、実家に帰らせていただきます!」
 「蔵をやってないでしょ。スキマであっちこっちと繋がってるから一年くらいかかると思う、よろしく」
 「は――!?」
 
 愕然として雑巾をはたと落とす淫魔は放っておき、開かれた博麗大結界に意識を集中させる。幻想入りとは違う。故意に結界を押し開き、外界から侵入してくるのがわかる。
 橙はおもむろに立ち上がる。淫魔はびくりと震え、ずざざざと敷居の外へ後退りする。
 
 「ちょっと出てくる」
 「へっ?……あーそうですかどうぞごゆっくり! 二度と帰ってこなくても結構ですからっ!」
 ルーミアは機を逃さずに言う。「へえ。じゃあ私とふたりきりだなー」
 
 全身全霊の恐怖をぶちまけた悲鳴をBGMに、橙はスキマに潜る。
 
 
 
 「死にかけているのがわかる」と彼女は呟く。「心臓の鼓動は弱まり、いまにも止まりそうだ。肺に送り込まれる空気は針のようにか細い。脚は縺れ、膝は砕けかけている。腕は鉛のように重く、感覚は消え失せ、ゴム製の義肢のように痺れている」
 喰らいつくように結界の空隙を押し広げ、頼りにならないからだを頼りになおも突き進む。春の陽気にさえびくともせぬ重い雪が太腿まで埋め、思わず立ち止まってしまう。が、さらにもう一歩雪を掻き分けてゆく。次の一歩はこれ以上に辛いとわかる、そんな想いを押し潰してまだゆく。
 
 「なにもかもが役立たずだ。眩暈がし、視界は白く霞がかってぼやけている。いや、いま黒くなったぞ。千の虫が蠢いているように、濃い紫色だ。胸に溜まる不快感、これは吐き気か。だが胃液以外に出すものはなく、その胃液が食道を溶かす。酸化させる。鼻に抜ける酸性の匂い。口のなかはからからで、水、水を、一滴でいいから飲みたい」
 
 彼女は光のなかへと彷徨い出る。山脈の遠いスカイラインが青空を縫っている、が、それは彼女には見えない。高く、豊潤に膨らむ雲が素早く流れていく様も。それがその一帯の雪原に、縞模様の影を落としていることも。眼のまえの道なき道すらも。
 くそ、と彼女は毒づく。
 重い荷物を背負っている。それがぼろぼろの肩にさらなる負担を強い、腰も、膝も、心も、いまにも倒れそうになるほど疲れ切っている。が、それでもその荷だけは手放せないのだ。手放してしまえと囁きかける自らの利口な一部に、暗愚極まりない魂の深部が反逆している。怒りだ。彼女は冷静に分析し、唇に笑みめいたものを浮かべ、そうした感情に道を譲る。
 
 「角は折れ、尻尾は千切れ、爪牙は砕けた」なおも言い、「だが、気を失ってはいないぞ」さらに言う。「心臓はそれでも動いているし、脚はまえへと進む。あァ、それで充分さ。ここまできたら逆にどうしたら死ぬのかわからん。喉を潤すために雪を飲んではだめだ。それだけはだめだ、火が点いたように焼けつくからな。こうして喋っているうちは我が身の内に水分が残っているんだ。それにいまはあたしより、おまえのほうが辛いだろう」
 『荷物』に向かって言う。
 「おまえはもう死んでいるかもな。どうでもいいさ。生きるも死ぬもおまえの勝手だ。それでも結局、弱音だけは吐かなかったな。だったらあたしもまだ行けるさ。それに、そら」
 
 ついたぞ。もはや声にならず、その世界の空気を一杯に吸い込む。潰れかけた肺を酷使して懐かしい匂いを精一杯嗅ぐ。
 最後の気力を振り絞って自らを取り戻す。視界が、生気が還ってくるのがわかる。つくづくそんな状態になるのが不思議に思えるが、死線を乗り越えて、また新しい自分が現出したかのようだ。これまで何度も繰り返したことなのに、そんな自分に感動さえ覚えるのだ。
 
 「ただ一度の人生で何度も何度も死んできた。だが、まだ生きている。あたしは不死身だ」
 
 おまえはどうだ、と、荷物に向かって囁き、返事がこないまま、また彼女は歩き出す。山の雪原に己の道を刻みつけて。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 Stage3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 博麗神社に戻ると、絣は台所に入っていった。昨晩橙と食べた、肉じゃがが残っているから、簡単に済ませてしまえる。細切れにした牛肉と玉葱だけのシンプルな代物なので、新しく人参を乱切りにして、しらたきも加えて量を水増しした。
 そこまでは良かったが、考えごとの残滓がまだ頭にこびりついていて、味噌汁に味噌を入れすぎてしまった。味が濃い。味醂を入れてごまかしてしまうことにする。ほうれんそうのおひたしに鰹節を削って、切り干し大根を炒り煮すれば、卓袱台の上もそれなりに賑わう。
 お昼ごはんのいただきますは、ひとりで手を合わせた。
 
 静かな食事。先代がいた頃はそんなことはまずなかった。妹もいたし、しょっちゅう乱入者がやってきて、折角つくった料理の味もわからなくなるほど、賑やかだった。先代がいなくなって客はめっきり減っても、妹はうるさいくらいに元気だった。最近は橙とばかり食べ、その橙も、いつもいるわけではない。
 修行も、ひとりではろくに成果を得られない。教えてくれる者なしで実力を磨ける領域には、まだいない。午後は掃除でもしようかなと思う。巫女としての仕事はなくとも、それなりに広い敷地だ、掃除だけはしてし過ぎるということはない。ときどき寂しくなる。いやずっと寂しくて、それが普通になってしまいかけている。
 
 「……ばか」
 
 誰にともなくそう言って立ち上がる、そのとき不意に、馴染みの気配が境内のあたりに現れるのがわかる。絣に霊的な感知能力はほとんどないが、向こうのほうで知らせてくればさすがにわかる。立ち上がり、そちらへ駆け足でゆく。
 賽銭箱のまえ。スキマが開き、主が出てくる。
 
 「橙さま?」
 「絣。早速で悪いけど、布団敷いてくれるかな」
 
 師の腕に、小さなからだが横抱きにされており、絣ははっと息を呑む。
 絣と同じ年代の、少女だった。ブロンドの髪に、欧米風の高い鼻梁、ぐったりと眼を閉じて首を反らしている。顔が土色に近い。ほとんど裸同然のぼろきれから、骨の浮き出た、ぞっとするほど細い腕が覗いている。弱りきっていた、一目で尋常ではないとわかる。
 背筋が怖気立つ感覚を憶えながら、絣は操り人形のように頷く。
 
 「寝室、に。まだ片付けてません」
 「わかった――」
 
 そのとき、橙の背後の石畳が弾ける。叩きつけるような足音。スキマから、もうひとつの人影が出てくる。鮮やかな翠銀色の輝きが陽光を反射し、絣の眼に幾筋もの軌跡を残す。しなやかに撓み、身を丸めて膝を突いたその者は、血のように濃い紅金色の瞳を絣に向ける。
 絣は思わず後退りしている。ほとんど本能的な畏怖を咄嗟に感じて。が、その表情が困惑に変わる。
 
 「――あ、え? 慧音先生……?」
 その者は顔を思いっきり歪める。「おい。あたしをやつと間違えるんじゃない。不快だ」
 
 指より長く伸びた、裸足の爪が石畳をえぐる。膝のあたりまでの、翠と銀の鉱石のような髪は高い位置でポニーテールで結ばれ、絣に鬣を連想させた。剥き出しの二の腕は白銀の体毛に埋まり、橙の肩を押して絣のまえまで出てくる。
 満月の晩ではない。人里で暮らしていたとき寺子屋で教わった、上白沢慧音ではない。が、それでも絣は慧音と思った。纏っている空気が百八十度違うものなのに、そのからだつきは柔らかい筋肉質の、狼のようなものなのに、その顔つきがまるで慧音と生き写しのように似ていたからだった。
 
 その者は。……獣は、絣を傲然と見下ろし、その眼つきだけで威圧すると、おもむろに言った。
 「あたしはハクタクだ。純粋なハクタクだ」橙に振り返り、「こいつが今代の巫女か? 冗談にも程がある……それ以上のなにかでもあるのか?」
 橙は肩を上げてみせた。「大したもんだよ」絣にウインクしてみせ――「そりゃすごいもんさ」
 
 絣は固まっていた。魅入られたように獣の顔から眼を離せず、圧倒されていた。その気配に。その頬に、袖を裁ちきった迷彩柄の衣に、鋭利な爪に、それら全部にこびりついている黒い染みに――恐らくは血に。
 
 「あんたも相当傷ついてる」と橙。
 「こんなのはなんでもない」
 「折れた角に千切れた尻尾、砕けた爪を見てそんなことばを信じる気にはなれない」
 「四百ヤードの距離からホローポイント弾を撃ち込まれて、半身を跡形もなく吹っ飛ばされたこともある。条約で禁止されたやつだ。そのときに比べればかすり傷みたいなもんだ。一眠りすれば治るさ」そこでけらけらと笑って、「そのスナイパーもいまではビジネス上のパートナーだ。この傷をつけたやつと違ってな」
 橙は抱いている少女を持ち上げてみせる。「この子にとっては正義の味方より頼もしかっただろうね」
 「正義。そんなことはどうでもいい。あたしは連中を皆殺しにしたいだけだ」少女に舐めるような眼を向ける。「そいつも非常食に持って帰ってきただけだ。ガキは美味いし、軽いからな。あたしは特に頬肉が好きだ。何度反芻しても味が染み出してくる」橙を見て、「それもいまでは叶わなくなってしまったな。八雲の末娘に抱かれてるとなれば」
 「残念だったね」
 「ああ、残念だ。帰ってきて最初に迎えにきたのがよりにもよって」
 
 絣は停止しかけた思考を必死になって廻し、なんとか言う――「――え、永遠亭、に」
 「私が行くよ」橙はスキマ越しに少女を布団に寝かせ、そのまま道を開く。「絣はその子を見ててやって」
 
 獣は踵を返しかけ、まだ硬直したままの、取るに足らぬ巫女に言う。「皮を剥いで、煙で燻しておけ。あとで食えるようにな」
 「汚れたからだを拭いて、綺麗にしてあげて。きちんとした服も着せてあげてね」反対側の耳に、橙が言う。
 
 絣は突然の事態に愕然としながらも、よろめくように神社に戻る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 少女は点滴を打たれ、仰向けに横たわっている。絣はその様を茫然と見つめている。布団から出ている、針の刺された、か細い腕。絣自身、その年代の少女としてはひどく小さなほうで、妹よりも一回り以上小さいほどだったが、少女はそれ以上だった。というより、その少女の細さは明らかに栄養失調がもたらすものだった。
 
 「ひとまずは大丈夫でしょう」医療器具を片付け、永琳が言う。「精神的なショックがどれほどかわからないけど、しばらくはこのままかも。でも、からだが準備を終えればいずれ必ず目覚めるわ。そのときにしっかり受け止めてあげること」絣を見つめて――「あなたにそれができるかしら?」
 「が、がんばります」
 永琳は微笑を浮かべる。「あなたの仕事よ。今代の巫女」
 
 獣は敷居の上で腕を組み、永琳の処置を見つめていた。永琳は手を動かしているあいだは彼女をいないもののように振舞っていたが、そこで初めて獣を見た。
 あらゆる想いを伴う複雑な視線が行き来した。永琳はこの上なく興味深く感じる内なる一部の眼で獣を観察した。紅い闇を湛える瞳に、狼の四肢を思わせる毛深い腕。裸足の爪は力強く地を捉えるスパイクと化している。獣は満月の晩の慧音以上に獣めいていた。
 もはや、慧音ではなかった。
 
 「絣さん」声音はあくまで穏やかだったが……「橙さんを呼んできて頂戴な」
 「はい」
 
 絣が出ていく。獣の横を通り過ぎるとき、獣と、永琳に交互に眼をやり、いっとき躊躇した。ふたりのあいだにある空気はどうにも妙に思えた。普通でない女ばかり見てきた絣にとってさえ、獣は普通でない以上になにか深奥に訴えかけてくるものがあった。が、結局なにも言えずにその部屋を出た。
 数秒だけ沈黙があった。敵意ではない、が、ともすればそれに変わってしまいそうな危ういものがあった。
 
 「あの頃私は、蚊帳の外だったけれど」と永琳。「もし反対の結果になっていたら、あなたとやりあうことになっていたのかしらね?」
 「簡単なことでなかったことは確かだ」獣は棘を隠さずに返す。「あのとき、はっきり言っておまえが最も怖ろしかった。あたし自身がやつの病気みたいなものだったからな」離魂病だのドッペルゲンガーだの。獣は鼻を鳴らす。「いまだから言うが……ほっとしているあたしもいた。だが、実際にそうなるとしたら躊躇いはしなかった」
 「あら。私はいまからでも構わないわよ?」
 「やるとしたら、おまえは最後だ」獣はにやりと笑う。「おまえ相手だと、捨て身になるだろうからな。それより先にケリを着けなければならないクソどもが残っている」
 
 永琳は医療器具をまとめ、鞄に仕舞い込む。が、立ち上がると部屋の隅に開いたスキマではなく、獣をなおも見ている。
 
 「この子の診察は終わり。次はあなた」
 「あたしはどこも悪くない」
 「そういうことを信じるというなら、私の頭は脳死状態同然ってことになるわね」
 「断る」
 「あなたの言い分はどうでもいいわ。いいから診せなさい。見たところ少なくとも――左腕は折れてるわね。肋骨も。脚を捻ったかしら、青く腫れ上がってる。頭を打っているようだけど、吐き気はない?」
 「余計なお世話だ」
 「なら、仕方ないわね――」永琳はゆっくりと手を開き、拳を握る。「力ずく、ってことになるけれど。ある種のサンプルとしても実に興味深いし」
 
 獣は組んでいた腕を解いた。
 永琳が一歩まえに踏み出すと、そこで唐突に獣は動いた。疾風の一陣、砕けた爪が彼我の距離を裂いていた。音もなく風が薙いだ。永琳は喉のまえで爪を受け止め、その流れで肘を突いて力のベクトルを流し手首を逆方向に捻じった。態勢を崩したところで左足を下げつつ手首を掴んだままからだを折り曲げ床に落とした。
 獣はうつ伏せに倒れ、永琳に掴まれた腕が天を向いていた。永琳の膝が肩の付け根に食い込み、全身の動きを封じていた。
 
 「やっぱり折れてるわね」永琳は腕を覆い包む銀毛をなぞって言った。「にしても……彼女は満月の晩でも、ここまで変化はしないのに」
 「ここ数十年、日ごとに変わり続けてきた」倒れ臥しながらも、獣の声音に切羽詰ったものはなかった。「昨日と同じままでいられたことがない。今日より明日、明日より明後日……これからどうなるのかもわからない。一年後にはまたいまのあたしには想像もつかないことになっているんだろう」
 背中越しに心臓に手のひらをつき、永琳は眉をひそめた。「鼓動がおかしい。なにか病気でもした?」
 「やつに貫かれたときからずっとな。ところでこれはなんだ? こんなものであたしを拘束してるつもりなのか?」
 
 人間ではありえない向きに獣の腕が曲がった。うつ伏せのまま永琳の胸倉を掴み、無理な体勢のまま永琳を投げ飛ばした。永琳はしなやかに膝を曲げて着地し、少し驚いたような顔をした。
 
 「解剖学は――一通り修めたつもりだったんだけど」
 「人間のからだについては、そうなんだろうな。おまえあたしをなんだと思ってる」
 「完全に獣に堕ちたということね。あなた……」
 「堕ちた? ことばは正しく扱え。成ったんだよ」
 
 そのとき、寝たままの少女が唸った。獣は弾かれたように少女を見やった。
 が、目覚める気配はなかった。また元の深すぎる眠りに戻り、静かに表情が緩んだ。
 
 「……こいつにとっては眠ったままのほうが穏やかなんだろう。あたしはそんなのごめんだ。絶対にごめんだ」
 いまだ臨戦態勢にある永琳に背を向け、獣は少女のまえで屈んだ。顔に顔を寄せ、なにごとか囁いた。
 そこで永琳も精神を解した。
 「きっとすぐに目覚めるわ。いまはちょっとばかり休んでいるだけ。肉体が準備を終えれば、心もまた追従する」
 「準備ね。なにごとも準備は大切だな。反応のないまま頭から喰らうのもつまらんからな」そこで永琳に向き直り、「永琳。礼儀知らずのこいつの代わりに言っておく……ありがとう」
 
 獣は部屋を出ていく。
 
 
 
 「橙さま、あのひとは……なんなんですか?」
 絣の声音は不信感が露になっていた。橙はお湯を沸かし終え、火の後始末をした。「あいつは霊夢の式だった女だよ」
 絣ははっとする。「先代さまの……?」
 「霊夢はチビって呼んでた。昔は私よりも小さかったから。でも、いつの間にか――私と同じように……大きくなったね。霊夢はいまでもチビって呼ぶんだろうけど」
 「……こわい気配がしました」
 「聖獣の類だよ、あれでも。そうだからじゃないけど、私はあいつを、あんたを信用するのと同じように信用してる」絣はことばを失くす。「かなり危ないことに足突っ込んでたときがあったんだけど、そのときいっぺん助けられて。あいつにしてみれば霊夢の命令でやっただけなんだろうけどね」
 「そういう風に思われてたとは知らなかったな」
 
 絣は弾かれたように振り返る。敷居の向こうで獣がこちらを見ている。橙は肩をすくめてみせる。
 
 「だろうね。言ったことなかったし」
 「あの純粋無垢な小娘が、しばらく見ないうちに胡散臭く育ったものだ。誰の影響だ?」
 「みんなの」
 「嘆かわしい。罪悪だな」
 
 獣はそれで行ってしまう。絣は一瞬の恐怖で身を固めている。気配よりも、伝わってくる感情の片鱗が怖ろしいのだ。どす黒いものを垣間見たような気がして。
 
 「あいつが何者で、どこからきたのか私は知らない」と橙。「慧音先生に似てるけど、ハクタクはみんなこんな顔なんだってあいつは言い張る。他にハクタクなんて見たことないから、その言い分を信じるしかない。霊夢の式といっても、私や、藍様みたいに主に忠実だったわけじゃないけれど。まあ霊夢はそれで構わなかったんだろうけど……霊夢だし……」
 「いまは……」
 「霊夢の式からは随分と昔に解放されてる。幻想郷から旅立って。それでも霊夢の最後の命令にだけは忠実に従ってる」
 「最後の命令?」
 橙は霊夢の声音を模倣して、「『ま、たまには顔見せだけでも戻ってきなさいよ』」
 
 
 
 永遠亭に戻る永琳を見送ると、橙は絣に、
 「あの子の里親を見つけてあげないとね。人里をあたってみるよ」
 「え?」
 「幻想郷にきてしまった以上、そういうことなんだよ」
 
 外界にいるだろう、あの子の親は? 絣は困惑して眼を泳がせる。臥したままの少女と、隣に座る獣を見る。獣は億劫そうに首を傾け、負傷しているらしい右拳を開いたり閉じたりしている。
 
 「いないぞ」絣の視線の意図を察し、獣は言う。「こいつは売られたんだよ。そういうところからぶんどってきたんだからな」
 絣は絶句する。
 「あたしの言っている意味がわかるか? 抵抗もできないちっちゃな女の子に首輪と枷と値札をつけて、豚みたいにぶくぶく肥えたクソども相手に売り飛ばすことに生きがいを感じるような畜生ども。行き過ぎて腐れ熟れたような色欲の権化ども。そういう連中に肉奴隷オークションの商品にされたんだよ、こいつはな」
 「……」
 「で、こいつの値が二束三文を越えたあたりであたしがその場を滅茶苦茶にしてやったのさ。いや、あたしたちだな。得意げに値を吊り上げた豚の首を後ろから捻じ切ってやった。歴史を隠してたからな、自分の家のように忍び込めたものだ。悲鳴が上がると、銃を手にしたやつらがぞろぞろ現れてばんばんばん!……丁度良く仲間が手榴弾をぶん投げてくれたから、片付けるのは簡単だった」
 
 獣はけらけらと甲高く笑う。
 
 「あたしは皆殺しにしたかったんだが、さすがに多すぎてな。関係ないやつらまで雪崩れ込んできたから。仲間の弾薬が尽きたところで、店じまいにした。こいつがすぐ近くにいて、咄嗟に掴んじまった。いまは仲間のほうが気になる、途中ではぐれて……。あたしと違って空も飛べない普通の人間だ。まあゴキブリみたいにしぶといやつだから、心配はしてないがな」
 「ひとりで無茶してるわけじゃないんだね。安心したよ」と橙。
 「利害が一致してるうちはな」黙ったままの絣に――「ガキが知らなくてもいい世界があるんだよ。おまえには想像もつかないおぞましい歴史が」にやりと凄絶な笑みを浮かべ、「気をつけろよ。巫女なんてのはそれこそ遥か大昔から、とびっきりの凌辱対象だ。穢れのない真っ白なものにザーメンぶっかけて大喜びするような連中が同じ口で敬虔な祈りを捧げてみせる。おお神よ哀れなわたくしめをお赦しください、年端も行かぬ娘を想ってセンズリ扱くことをお見逃しください、千の処女がいるという天国にわたくしめをお導きください、とかなんとかかんとか」
 
 獣は胸のまえで両手を組み合わせ、敬虔な信徒のイメージを提供してみせる。その身に激しく纏う、はっきりとかたちを為して見える憎悪に反して、いっそ清冽なほど整っているうつくしい顔。絣にしてみれば、人里の寺子屋で慧音に習い……彼女と同じ顔をしている獣がそんなことを言う様に、内臓がひっくり返るような不快感を覚える。この違和感。
 
 「そのへんにしてあげてよ。そういうことはおいおい知っていけばいい話だ」
 「なにも知らぬ娘にそういうことを明かすのが好きなんだ。凍りついたようになって、ちっぽけな歴史もぐにゃりと曲がる」
 「意地悪だね」
 
 獣は立ち上がり、ふたりのあいだをすり抜けて敷居を跨ぐ。
 
 「蔵の裏を借りるぞ。永琳にしばらく安静にしておけと言われてしまった」
 「寝るんだったら布団にしなよ」
 「猫じゃないんだ、獣はベッドで眠らん。風雨が凌げさえすればなんでもいい。樹の下がいちばん心が休まる」
 橙は肩を竦めた。「犬の気持ちは昔からわかんないね。傷が癒えるまでずっとそこにいるつもり? もう春だけど、風はまだ冷たいよ」
 「知ってるさ。山のなかはまだ雪原だった」
 
 その出会いそのものがこの上ないショックになる瞬間がある。絣にとって、それはまさにそうした事態だった。獣の佇まいが、闇黒の欠片を具現化したような空気が絣の深奥を殴打していた。
 心臓が激しく波打っていた。……剥き出しの女。獣に対して絣が抱いた印象は、そういうものだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 獣は眠り、目覚める。
 博麗神社は猫の楽園だ。裏林の深奥に古くから続く集会所があり、人間は寄ってこず、妖怪は酒にばかり気が向く。魚はないが、鼠はある。居心地の良い静寂に満ちた、過ごしやすい場所。それで獣は、気がつくと夥しい数の眠る猫に囲まれてしまっていた。
 口を噤み、顔をしかめる。毛玉に擦り寄られている腕を注意深く動かし、腹の上で丸まる黒猫をどかす。太腿に、膝に、足首に、まったく警戒心のない様子で猫に眠られているのがわかるとますますげんなりした。
 
 「なんなんだ、おまえらは、昔から――どけ、動けん」
 「みんなあんたが好きでさ」
 
 振り返ると、朝陽の靄がかった白い光のなか、小柄な女がにやにやと微笑みながらこちらを見つめている。色濃い褐色の肌に、膨らむように豊潤に伸びた真っ白な髪。月のような金色の瞳。肩と腹、脚の大部分を大胆に曝け出した、露出度の高い衣服で、腰を屈めて目線を合わせてきている。
 
 「ミケか。おまえも変わったな」
 「ほんとだよ。オレときたらまったく不器用でさ。人化できるようになったのも、最近だぜ」
 「それはおめでとう。だが、こいつらをどかせ。あたしに近づけるな……警戒心はないのか、野生の獣が」
 「おいおい、いいじゃないかこれくらい。聖獣様だろ? オレたちは眷属」
 
 獣は皮肉な笑みを浮かべる。
 
 「……人間には妖怪扱いされ、妖怪には人間扱いされてきた。これまでそんな風に言われたことなどなかった」
 「そうかい? でも、友だちはいたんじゃないのか」
 「そうだな。だが、あたしのほうから背を向けてしまった」
 
 獣は立ち上がり、朝陽のほうに向かって歩く。
 
 
 
 橙は人里に出て行ってしまい、しばらくは帰ってこれないだろう。絣は朝飯を簡単に済ませ、少女の眠る部屋へと向かった。永琳に言われたとおり、点滴を変えなければならない。それにそう長く眼を離してはいられない……近頃はルーミアが頻繁に忍び込み、橙にちょっかいを出し、食糧を漁っては去っていく。無防備な人間がいるとわかれば、ルーミアがなにをしだすかわかったものではない。
 その部屋には、獣がいた。少女の隣に座り、表情の読めない眼で少女を見下ろしていた。
 絣は反射的に身構えていた。
 
 「――なにを、してるんですか」
 獣はにやりと笑みを浮かべてみせ、「捕らえた獲物を眺めてなにが悪い?」
 「食べさせません。その子はいま、神社のお客さんです。橙さまが里親を見つけるまで、大切なお客さんです」
 「なんとな。橙サマときたものだ」堪えきれずに声を出して笑う。「だがその橙サマは留守なようだな。で、どうする? あたしがこいつを食おうとして、おまえにそれが止められるのか? 弱々しい巫女が」
 レミリアさん、と心のなかで言う。「――私は確かに無力です、でも……自爆覚悟なら、あなたを止めるくらいはできます」
 
 絣の声はどこまでも固い。が、揺るぎない。獣はそんな絣を漠然と眺める。
 この娘は霊夢とそっくりだと思う。顔が。それこそ自分と、自分の起源くらいには似ていた。けれどそれ以外はそれこそ、自分と自分の起源くらい似ていなかった。
 
 「なにもかも勘違いしてるな。おまえが相打ち覚悟で向かってきたところで、あたしにはどうってこともない。歯牙にもかけん。それとも」絣に向かって砕けた爪を伸ばし――「おまえから喰らってやろうか、ええ? 頭からがいいか、でなければ脚の先から?」
 先日にもう、遺書は書いてあるのだ。「その子から離れてください」
 「霊夢には多少なりとも借りがある。先代に感謝するんだな」
 
 獣は少女から離れ、絣の横を通り抜けて敷居を跨ぐ。
 
 「……先代さまにはいつも感謝してます。いまの私は、先代さまの影というだけでやってるようなものだから」
 「わかってるじゃないか」
 「……あの」
 
 呼びかけ、が、そこで迷う。自分はこの獣をなんと呼べばいいのか。チビ、などとは呼べない。実際、この獣はまったくチビではないのだから。
 
 「あなたはなんて呼べばいいでしょうか?」
 獣は立ち止まる。「……――」絣を見下ろし、その顔に複雑で微妙な色を浮かべる。が、すぐにそんな色も消え失せる。ひどくシニカルな笑みだけが残る。「――『ツムギ』」
 「つむ――」
 
 絣は絶句する。顔が真っ白に染まり、直後、首の根まで紅く染めて頬を歪める。
 
 「ふざけないでください!」
 「なにが?」
 「つむぎ、『紡』はっ……私の、私の妹の名前です!」
 叫びが部屋を包むと、獣は立てた人差し指を唇に当ててみせ、眠る少女を示す。「そう騒ぐな、ガキが」が、そう言う獣自身、喉を震わすようにして小さく笑っている。「不味い歴史だ。それでもおまえにとっては不可侵の代物だったようだな」
 
 思い出に土足で踏み込まれた感覚があり、絣は息を荒げ、両手を強く握り締める。同じ歴史食いだって、慧音は決してそんなことはしない。無断でこちらの歴史に踏み入ってくるなんてことは。それもよりによって、妹の……妹の……
 怒りに全身を浸し、それに翻弄されているあいだに、獣は消えている。最初からいなかったかのように。
 
 
 
 震える指先から怒りが抜けなかった。憤懣やるかたなしといった様子で境内を歩いているあいだに陽が傾いた。掃除のつもりだったのだが、先日の春一番で散った桜の花はちっとも掃かれていなかった。
 橙もおらず、晩飯はおざなりなものになった。鶏肉の竜田揚げをつくろうと思っていたのだが、下味をつけたあと汁気を拭き取るのを忘れ、油の温度が上がりきらないうちに放り込んでしまい、粉が剥がれて油に衣が浮いてしまった。気合で揚げきった。腹立ち紛れに野菜を片っ端から千切りにした。タマネギ、人参、小ネギ、セロリにキュウリにレタスにトマト、ナスは炒めてかぼちゃは大きいまま突っ込んだ。乱雑な、量だけはあるサラダ。竜田揚げにかけるつもりだったレモンを絞って塩を散らせ、余った野菜はざっくりかき揚げにした。
 誰に食べさせるわけでもない料理。それでもそれなりに美味くなってしまったのでご飯と一緒にがつがつかっこんだ。料理に愛情なんていらない、慣れれば勝手に手が動く。喉を詰まらせかけ、キノコの味噌汁で流し込んだ。たくさん食べてるつもりなのにちっとも成長する気配がない。この一年で成長した度合いは絣より橙のほうが遥かに大きい。
 
 食べきれない。余ったメニューをお盆に乗っけて、少女のところまで行った。美味しそうな匂いがすれば起きだすかも。が、少女に目覚める気配もない。
 『ガキが知らなくてもいい世界があるんだよ』……。
 私の知ってる世界はおまえはオワコンだと何度も何度も陰口を叩かれ、取るに足らないものだと見下してくる眼に囲まれた蔑みの世界。ちょうどあの獣が自分に向けた眼のように。それでも美味しくなるよう祈りを篭めてつくったご飯はちゃんと美味しいし、橙さまはルーミアとあれな関係だけれどずっと優しい。
 起きてきたほうがいいのに。
 
 持ってきた料理をどうしようか迷った。が、そのままにしておくのはどうしても勿体なかった。癪だが、獣に持っていくことにした。
 
 蔵の裏を借りるぞ、と獣は言っていた。
 絣はそこまで行く。月は蒼白く、霞のようにそのあたりを照らしている。明るく、足元を照らす必要がない。影法師が異様に長く伸び、そういう妖怪であるかのように樹木の隙間を縫っていく。
 なにかこんもりとしたものがひときわ大きな樹に寄りかかっている。そこまで行くと、
 
 「あっ……」
 
 夥しい数の猫がぱっと散り散りになり、一斉に絣に向けてまんまるの月のような眼を送る。獣はその中心部に座り込み、絣に横目を向けている。
 自分のほうが突然の闖入者のように思われ、自分の家の裏庭なのに、絣は気まずくなって佇んでしまう。
 
 「なんだ」
 「ご飯を……つくりすぎてしまったので、よろしければどうぞと思って」
 「気の利くやつだな。霊夢はいつも餓えていたから、そんな発想はなかったものだが。ありがたくいただいておこう。どうにも血が足りない……猫は不味くて食えたものじゃないからな」
 
 地面に盆が直に置かれると、獣はごくりと喉を鳴らす。
 
 「おおっと。なんとなんと、おやおや! 予想以上だな、こいつは美味そうだ!」
 爪が竜田揚げを弾く。高々と放物線を描いた肉が、魔女の猫のように月を背景に宙返りする。着地点は天を仰いで喉を逸らした、大きく開かれた獣の口だ。獣の頬が膨らむ、が、むしろ喉で味わうかのように反芻して飲み込む。
 いっとき、感動的なオーケストラを耳にした礼儀正しい観客のように獣の眼が細められる。唇の端が頬を裂き、三日月をつくり、怖い笑みが浮かぶ。
 
 「おう、素晴らしいぞ。これこそまさに人間の叡智だ。子々孫々にまで受け継がれるべき正統な歴史だ」
 
 舌なめずりを一度。
 皿に盛られた竜田揚げの山に手を突っ込み、マナーもなにもなくがっつく。地面に零れ落ち三秒経過したものさえ構わず口に放り込む。五秒も経たずに全部食べ終えると、サラダも手掴みで食べ始める。それも終わると味噌汁を一息に飲み干し、「これは魔法の森のキノコだな。どれが毒でどれが食えるかも把握しているわけだ。巫女らしくないやつだな、魔法使いに転職したらどうだ」言うだけ言うと、今度は白米さえも握り掴んでたいらげてしまう。
 
 「ふむ、足りんな」
 「も、もうありませんよ」
 「喉を潤そう。酒だ、酒を持ってこい」
 「うー……」
 
 持ってきていた。なんの変哲もない瓢箪だが、絣の腰にくくりつけられていた。獣はそれをひったくるとラッパ飲みした。喉がごくりごくりと上下に動いた。
 酒精の白い吐息が獣の口許に漂った。もはや絣は顔をしかめる以外になにもできなかった。さすがにもう、この獣と慧音を重ね合わせて考えることはできなかった。
 
 「ああ、いつぶりだろう。……おいしい。しあわせだ」瓢箪を置き、静かに両手を合わせた。「さすがのあたしも、文句のひとつも出ないぞ。ごちそうさまだ」
 
 絣ははっとしてあたりを見回す。離れていた猫が、また擦り寄り、獣の傍に近づいてきている。うろたえて後退りすると、猫は獣にもたれかかるようにして眠り始める。
 警戒心の弱い猫ではない。自分などが餌付けしようとしても、まず失敗する、生意気なやつらだ。橙でさえ、ろくに手懐けられてはいない。
 ハクタク……聖獣。神聖なる――
 
 (冗談、でしょう? こんな、私にさえわかる悪意を纏っているのに……)
 
 矛盾……矛盾……矛盾。
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2012/04/12 20:14 | Comments(0) | 東方ss(長)

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