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2024/05/17 21:03 |
(東方)
闇黒片 ~Chaos lives in everything~


STAGE1 博麗神社

――次代博麗、最弱につき



前編 後編は下の記事に





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 あれからどれだけの年月が経っているのかわからない。もう百万回は異変が起きた気がする。そう思えるくらい凝縮された日々だった。なにはともあれ、もう、博麗霊夢は現役ではなかった。次の少女に巫女の座を譲り、その実力は留まるところなく研ぎ澄まされ続けながら、いまはきっと木星あたりで暴れているに違いない。考えても仕方のないことなので、橙はなるべく彼女のことを考えないようにしていた。
 くるくると円を描いてステップを踏み、神社の石畳の上に結界を張る。弾幕はランダムな周期のなかに指向性を得て撒き散らされる。本命は一拍置いてぐぐっと溜め置き、三、二、一、どっ――かー――……ん。ばんばんばんばん、ぎゅるるるるる、グオーーーーー、ずん。
 
 「……ふぅ」
 橙は目にかかる前髪を払い、溜息をついて容易な標的を見やる。
 
 巫女姿の少女はうつ伏せでばったり倒れ伏し、ぷすぷすと煙を上げながら、地面とキスしていた。一対の陰陽玉がころころ転がって足元までやってきたので、拾い上げる。篭もった霊力は情けないほど薄かった。かつて自分も相対した、霊夢の一撃とは格が十桁ほど違っていた。
 思い出はいつでも五割り増しで心に迫ってくる。それが哀しいものであれ、楽しいものであれ。けれどもできる限り客観的であろうとする眼で自分たちを顧みても、かつての紫と霊夢のようにはいかないものだ、とどうしても思ってしまうのだ。なんでもないように思えていたものほどひどく得がたい。
 
 『弟子』のまえまで行き、屈み込んで声をかける。「生きてる?」
 「……だっ、大丈夫、ですっ」
 
 少女は唸り声を上げ、よろめきながら立ち上がる。息を荒くし、眼の端に涙を溜めながらも、気丈に自分を律し、歯を食い縛って橙を見ようとしていた。橙はその煤だらけの頬を袖で拭ってやった。
 自分が『巫女』に対してそんなことをしているという皮肉な想いから、橙はくすくすと微笑んだ。が、巫女のほうは落ち込んでいるかのようにしゅんとしていた。そうしていると、巫女は年齢以上に幼く見えた。とはいっても実際、彼女は今年でほんの十二歳、記憶にある最も若かった頃の霊夢よりもさらに若かったのだが。むしろそうしたときの橙くらいの容姿でしかなかったのだが。
 
 
 
 鮮やかな茜色の斜陽が世界の半分を燃やし、もう半分を黒く塗り込んでいた。橙は博麗神社の縁側を伝い、開きっぱなしのスキマに戻ってきた。元は紫の能力である次元の裂け目は、未だ開閉自在という領域には程遠かったが、いくつかの術式を通して限定的にA地点とB地点を繋ぐ程度には、橙にも操れるようになっていた。
 スキマの両端に手をかけて抉じ開け、術を再起動させて空間を安定させた。そのへりに足をかけると、とたとたと軽い足音を鳴らして少女が駆け寄ってきた。
 
 「あ、あのっ、橙さまっ。もうお帰りになられるんですか!?」
 
 風呂で修行の汚れを落とし、頭から湯気を上げている少女は巫女服ではなく緩い着物姿で、そうではあっても、橙の眼にはどうしても霊夢とだぶって見えた。そうであるがために、どうしても彼女が自分を敬称付きで呼ぶことに違和感があるのだ。紫のように、少女が充分成長してから姿を見せたほうがよかったのかもしれないと思う。
 ……あとの祭りだ。
 
 「うん」
 「でも、でもでも、お食事の用意をふたりぶん――」
 橙は困ったように頬を掻いた。「ありがとう。でも、私じゃなくて妹がいるつもりでつくっちゃったでしょ? つい」
 
 少女は声を詰まらせ、おろおろと眼を泳がせた後、両手を合わせてだらんと垂らし、もじもじと身を揺らした。
 仕方なく、橙は、「食べてくよ」
 少女はぱっと顔を輝かせ、橙の腰のあたりに抱きついた。橙は少女の頭を軽くぽんぽんとはたいてやった。
 幼い娘の頭が腹の辺りにくるくらいには、橙の背丈は伸びていた。目線の位置は、藍とほとんど変わらなかった。日によってころころ体格の変わる紫を、見下ろすことさえ、ときにはあった。
 
 
 
 少女には立派な名前があった。けれども実際にその名で呼ばれることは滅多になく、以前の、妖怪たちの脳裏に最も鮮やかに刻みつけられた巫女にひどく似通っていることから、『レイム』と呼ばれてしまうことがしばしばあり、また少女自身の性質から、いつしかその当て字として、『零無』と定着してしまっていた。
 それで橙はますます霊夢と少女をだぶらせ、顔かたちは似ていても仕草や性質がまるで違うものなのだから、余計に頭のぐらつくような違和感ばかりが増していくように思えて仕方なかった。それでも本名で呼ぶと、少女のほうがひどく不思議そうな顔をするので、結局、
 
 「零無。おしょうゆ取って」
 「はい、橙さま」
 となってしまうのだった。
 
 零無は料理が巧かった。いまは神社にひとり暮らしだが、少しまえまではふたり暮らしだった。料理当番はもっぱら彼女の役目で、同居人に喜んでもらおうという素直な想いから、その歳ではちょっとした腕前になっていた。派手さはなく、シンプルで、落ち着いていて、優しく、飾るようなところのない味だった。毎日でも食べたくなるようなものだった。
 白米に、かぼちゃを甘く煮たものにいんげんを添え、きゅうりと人参の浅漬け、秋刀魚(スキマ経由)の刺身、山葵は妖怪の山で取れたものだった。味噌汁の具は舞茸とエリンギ、なめこで、魔法の森産でない証拠に、魔力の欠片も見て取れない。鶏肉のから揚げと白菜には、とろりと熱いあんかけに、青葱を散らしてある。
 美味しいと思うより、ほっとしてしまった。箸は止まることなく進み、ことば少なな食事になった。しばらくして、橙が日本酒を手酌で注ぐと、がんもどきの表面をかりっと焼いたものまで出てきた。自然に頬が緩んだ。
 
 「零無のお嫁さんになるひとは幸せだね」
 「えっ、あ、えへ、えへへ。……え、あれ?」
 
 とっても美味しいよ。眼を見つめて言うと、零無はすっかり恐縮したように膝に手を置き、耳まで真っ赤になって俯いた。
 食器を片付け、袖をめくって襷を締めかけると、零無は橙の背中を押して台所から押し出した。
 
 「橙さまはお休みになっててくださいっ」
 「いや、そこまで――」
 「いいですからっ」
 
 橙は柱を背にしてあぐらをかき、困ったように溜息をついた。まったくそうした風に扱われれば扱われるほど、なんとも言えぬ心地が湧いてくるのだ。自分がどれほど未熟者か、知りすぎるほど知っているせいで……
 
 
 
 料理の腕前に関しては眼を見張るものがあり、懸命に他人に気を遣おうとする当たりまえの感覚は持て余すほど持っているのに、零無には肝心なものが決定的に欠けていた。結界を張り、術式を組み、弾幕を撒き散らす、そうした能力を、実戦ではおろか橙との修行においてさえ発揮できぬまま地に伏す――霊的な分野における才能が、限りなく『零』に近く、力ある人妖から見ればほとんど『無』でさえあるのだった。
 霊夢の、直接の娘ではない。血の繋がりがあるのかどうかも疑わしい、遠縁の、なんの変哲もない農家に生まれた娘だった。巫女として見出されたのは彼女ですらなく、双子の片割れである妹のほうだった。
 
 「あの、お帰りになるのですか?」
 「えーっと」
 「でも、もう遅いですし」
 「うん……」
 「あっ、お風呂、まだ熱いんで! ついでですし、入っていかれたら……」
 そういうわけで、泊まっていくことになった。
 
 天気が良かった。月が冴え冴えとした、霞むような光を送ってきていた。先立って寝室へゆく零無について、縁側を伝う。最近ではこの身に式が憑いていることのほうが珍しく、風呂のまえと風呂上りとで、体調が変わったりもしない。水は未だ苦手だが、お湯はそうでもない。
 布団はもうふたつ、並んで敷いてあった。両手を思いっきり伸ばしてうつ伏せに飛び込んだ零無に、子供らしい愛らしさを見て微笑ましく思いながら、帯を緩めて座り込んだ。障子越しでも、部屋のなかが蒼白く見えるくらいには、月灯りが強い。
 疲れた? と訊くと、数秒の躊躇いのあと、枕に顔を埋めたままこくりと頷く。修行はそれなりに厳しい。一を聞いて十を知る要領の良さは、零無にはない。真面目にやればやるほど心は固くなり、自然体まで遠くなり、ただ疲労だけが溜まっていく。
 
 「ゆっくり休みなさいね」
 「はい」
 「あんたはよくやってるよ」
 反応は鈍かった。潤んだ瞳の上で、瞼はもう閉じかけていた。
 
 どうしたものかな、と思う。零無が巫女に向いていないことは明白だったが、代わりもいないのだ。少なくともなにかしらかたちにしなければならないと思う。いまのまま、霊夢を基準にして修行をさせ続けても仕方がない、零無は霊夢ではないのだから。
 方向性を変えたほうがいいのだろう。彼女がここからどこへも進めないのであれば、それは間違いなく、自分の責任であるのだ。なんとかしてやりたいと思う。零無のことを、それほど知り尽くしているわけでもないのだけれど。
 
 「妹はまだ見つからないのでしょうか?」
 「うん……?」
 
 ぼそりと呟かれた声は、枕の下でくぐもっていた。躊躇いがちに放たれたような声音で、少し震えてもいた。
 
 「そうだね」と橙は言った。「正直に言うよ。全然見つからない。足取りも掴めない。紫様が暇を見つけては探してくれてるけど、いかんせん、世界は広いから」
 「ありがとうございます」
 「心配だよね」
 「そうでもないです。妹は――妹ですから」
 「そっか」
 
 橙は布団を被って天井の木目を見つめた。眠気はやってこず、心の赴くままに思考を巡らせていると、いくつもの心配事、いくつもの未解決事項、そうしたものを抱えて今日という一日を終えることへの心地悪さ、明日への漠然とした不安、それがもたらすぼんやりした疲労などが、次から次へと襲ってくるようだった。気を抜くと溜息ばかりが出そうで、思考をシャットダウンし、眼を閉じて闇のなかへと潜った。
 こんなに悩んでたっけな、と不思議になるのだ。昔の自分は、もっとシンプルな世界のなかで生きていたような気がするのに、緩慢に変遷し続け、気がつけばこうしたところにいる。そうである一方で、実のところ自分で思うほど変わってもなく、ただ気がつかないよう、見ないようにしていただけなのかもしれなかった。またそうでもなく、幼い思考は既にたくさんのものを抱えていて、それに対処しようといつでも必死だったのかもしれないし、この零無のように、周りから見れば不安定に思えるほどただ自分ひとりで立ち続けようと気張っていたのかもしれなかった。
 
 「あの」零無が不意に言い、橙は我に還った。「そっちへ行ってもいいですか?」
 
 橙は零無が眠るまでその頭を撫で続けてやらなければならなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 零無の妹は橙の眼から見ても途方もない才能に溢れた少女であるように思えた。霊夢が彼女を見出したとき、紫はどこかほっとしたように見えたし、藍は『まあ、妥当だろうな』と誰にも聞こえないように呟いていた。とはいえまだ少女は幼く、家族と引き離されて博麗神社へくることは忍びないということで、双子の姉である零無も――当時は零無などと呼ばれてはいなかったが――やってくることになった。歳相応にやんちゃな妹よりも数段大人びていて、零無がいれば妹の精神状態も安定し、世話役としてはずいぶんと心強かった。
 砂が水を吸収するように少女は霊夢の教えを余すところなく受け取り、それ以上に昇華してみせた。霊夢はさっさと修行の過程を終わらせてしまった。思えばそのときから、彼女はもう気づいていたのかもしれなかった。
 霊夢は次第に博麗神社に帰らなくなり、旅路のなかに身を置くことが多くなった。それでも巫女であった頃とやってることが大して変わらないのが、霊夢らしいといえば霊夢らしかった。茶を飲んで、昼寝して、妖怪をしばいて、酒をかっくらって、眠って――
 
 「生きてる?」
 「……だ、大丈夫、ですっ」
 
 天を仰ぎ、同じ空の下にいるかどうかもわからない霊夢に向かって思った。そっちはどう? こっちはこんな感じ。順調の真逆。どうしたらいいんだろうね。
 起きれるかどうか訊くまえに、零無は立ち上がろうとしていた。橙は袖のなかに両手を隠し、彼女が復帰するのを見つめ、待った。何度もよろめき、膝が笑った。どうにか橙の眼を真っ向から見つめ返したところでまた崩れかけた。橙はそこでようやく手を差し伸べた。
 
 「今日はもうやめよっか」
 「まだやれますっ!」
 やれるようには見えなかった。が、本人より先にそう断ずるのは侮辱だった。「わかった」
 
 弾幕の、弾幕による、弾幕のための結界。霊夢であれば眼を瞑っていても封殺していただろう。零無は渦巻く妖力の中心で眼を見開き、その流れを見届けようとしていた。が、見ることはできても、からだがついていかなかった。霊力の防壁はすぐに破れ、結界は結界に押し潰された。
 
 「かわしちゃだめだよ。そのための修行じゃない」
 「……ぅ、『夢想封――きゃっ」
 
 空を飛ぶ程度の能力も、術者の力量次第だ。零無の場合、地べたに足をついて走ったほうが早いくらいだった。弾丸は、上下前後左右東西南北から襲いくる。ボムの効力は一瞬より短い。零無はあえなくまた墜ちた。
 霊力の絶対量が絶望的だから持久力がない。持久力がないからホーミング弾で粘ることができない。ワンパターンを回避できるだけの術の種類がない。ワンパターンだから針の軌道は容易く読まれる。つまるところ霊夢が確立した巫女式戦闘術にまったくもって向いておらず、新しい戦術を開発するには、独創性というものがまるっきり欠けているのだった。
 
 「今日はもうやめよう」
 「ま、まだ私は」
 「焦るのはわかるけど、慌てるような歳でもないよ」ふらふらと立ち上がる零無の肩に手を置いて――「今日はもうおしまい。顔洗ってきなさい」
 たっぷり十秒経って、やっと零無は頷いた。
 
 零無が立ち去ると、傾き始めた茜色の陽射しのなか、鳥居のつくる影が黒々と伸び、自分の上半身を丸ごと隠していることに気づいた。西に眼を向けると、鳥居は影そのものとなり、身を撓めた巨人のように見えた。
 一歩ずつしか歩けない。それはわかっているのだ。どこかの誰かがそうしているように、最短の道筋を一飛びに進めることはできない。あの子は。自分も。花を咲かせるまえに蕾をつけねばならず、蕾をつけるまえに茎を伸ばさなければならず、茎を伸ばすまえに根を張らねばならず、根を張るまえに土をつくらねばならず……
 それでも自分たちの行くべき道筋を思うと、闇のなかを見通そうとしているかのように、途方もない気分にしかならないのだった。
 
 
 
 「あの子は食べてもいいほうの巫女?」
 
 鳥居から眼を離し、神社に足を向けたとき、声が飛んだ。振り向くと、その一瞬の合間に、鳥居の上、ひどく小さな人影が腰かけていた。
 橙の眼には黒々とした影、鳥居の一部のようにしか見えなかった。が、だからこそそれが誰だかすぐにわかった。我知らず顔をしかめてしまい、猫耳のすぐ後ろをがりがりと掻いた。
 「ルーミア」
 
 ぐわんと世界が歪んだ。テレビの電源を切ったように闇の帳が降り、彼女らの周囲が暗黒の色に沈んだ。何物も見通せない真なる黒に。
 自分の手さえ見えないほど色濃かった。いきなり後ろから抱きつかれた感覚があり、橙はつんのめった。首の後ろに柔らかい感覚と、生温く湿った吐息。「ぅ……っん」と唸り声が聞こえ、額を擦りつけられているようだった。
 橙は闇に指を突き刺し、真っ直ぐに振り下ろした。爪の軌跡が空間を引き裂き、そこから剣のように陽射しが射し込んだ。ルーミアは眼を細め、光から逃れるように橙の首に隠れると、丁度良く口のまえにあった襟をかじかじとかじった。
 
 頭の後ろに腕を回し、ルーミアの額を手のひらで押し退けると、目の前に回された小さな指先がなにかを摘まんでいるのが見えた。ひらひらと揺らめく、リボンと見紛う赤い呪符。
 「……また封印解いたの?」
 橙が呪符に手を伸ばすと、さっと腕が跳ね上がり、ルーミアのからだが離れた。闇の奥底から声が響いた。「あの子は……食べられないほうの巫女?」
 
 声のするほうに眼を凝らした。辛うじて見える少女の姿は霞んでいた。指先で呪符を弄び、黒ずんだ紅い双眸で橙を舐め回すように見ていた。
 「ルーミア」声をかけると、くすくす笑い、両腕を翼のように広げて軽やかなステップを踏んだ。そのまま世界の裏側に消えていくかのように姿が薄れた。橙は頭が痛くなりながらも彼女のほうに歩いていった。
 
 「久し振りに起きてみたら霊夢がいない。霊夢がしごいてた例の娘もいない。いるのは、なんとも貧相で貧弱そうな巫女服姿の女の子。おかしいなー、困ったなー、私は大人しく再封印されてあげにきたはずなのに、それができるはずの巫女がどこにもいない」
 「霊夢は元気にやってるよ。どこかで」
 「霊力らしい霊力を感じない。不思議だなー。頭からかぶりついても、なんにも反撃なさそうだなー。あれは人柱なの? 私たちへのいけにえなの?」
 「巫女がそんな迷信に殉じてた時代はとっくに終わってる」
 
 探るように受け答えしている自分を厭に感じながらも、首を巡らし、ルーミアの姿を探す。視界とともに音も消え失せている。妖力を帯びた自分と彼女の声以外にはなにも聴こえない。
 不意打ちのように、また後ろから抱き締められる。が、今度は予測がついている。橙のからだはつんのめることもなく、黒く熔ける彼女の金髪を見下ろす。
 
 橙は躊躇いがちに言う。「……。久し振り、ルーミア」
 「やだ。昨日会ったばかりじゃない」
 「あれはあんたじゃない」
 「私だよ。きちんと記憶はあるよー」
 橙のまえに回り込み、腰の後ろに手を回し、ねめつけるように頭を傾げ、見上げてくる。その眼の色は夜の火に似ている。曳き込まれるような揺らめきに気圧され、揺さぶられていたのは、もうずっと昔の話だ。
 「また会えて嬉しい。でも、その反対のことも思ってる、私は」
 
 ルーミアは驚いたように眼を見開く。が、すぐに細められる。
 「しばらく見ないうちにまたおっきくなったね」
 「そう?」
 
 唐突にその姿が闇のなかに溶け落ちる。気配の一厘まで完璧に空間と同化する。なにも見えなくなり、なにも聴こえなくなり、橙は黙って天を仰ぐ。
 なにもない場所から腕だけが伸びる。その爪はきつく砥がれたように鋭利な角度を保っている。橙のすぐ眼のまえに、匂いを嗅げるほど近く、近すぎて輪郭が霞んで見えるほど近く。いまの橙にはその指先に秘められた剣呑さを余すところなく感じ取ることができる。未熟なまま笑い合い、他の少女たちも交えて戯れていたあの日々と違って。
 一瞬、過ぎ去った年月の幻影が鼻先を掠めて吹き飛んでいく。なにも持たぬ月並みな少女であった頃の……
 
 ぱさりと帽子が地に落ちる。
 「――素敵なことだなー」
 
 黒髪を掻き分け、ルーミアの手が橙の頭をくしゃくしゃに撫で回す。橙はなにも言わずになすがままになっている。猫の耳を軽く伏せ、眼を細めて。
 
 
 
 「橙さま!?」
 いきなり声が響く。零無は境内を覆い尽くす黒い塊を見て愕然とする。
 橙は後退りし、ルーミアの手から離れる。残念そうに眉間に皺を寄せる彼女を注視しながら、中指と親指を合わせて弾く。ぱちん、と小気味良い音がし、闇が晴れる。
 あたりはより色濃い夕暮れに染まっている。零無は帽子を落とした橙を見、見慣れぬ少女を見、顔を引き攣らせる。「妖怪……!」
 
 袖から出した札をばら撒く。一瞬遅れてターゲットを捕捉し、追尾軌道に入る。が、遅すぎる。ルーミアは既に空中に浮かんでおり、札の描く弧の内側に入り込んでいる。
 針の掃射はとっくに読まれている。するすると、かつての霊夢のような優雅な浮遊で、ルーミアはもう零無の鼻先に迫っている。仰け反る零無の首を鷲掴みにし、にんまりと微笑み――唇のなかの牙を見せつけている。
 
 「あなたは食べられてしまう巫女」
 
 慌てて振られた御幣をかわし、百八十度逆立ちになりながらもなお、その顔は彼女の顔のすぐそばにある。指先で摘まんだ呪符をひらひらと振ってみせ、なお笑みを深める。
 
 「私の弱点はこれ。出血大サーヴィスということで、あげちゃう。私を封じて。私を縛って。できるものならなー」
 
 呪符が地に落ち、ルーミアのからだが後退し、鳥居の上にまで離れる。零無は判断に迷いながらも呪符を拾い上げ、深呼吸をひとつ打ち、札をひとつ掲げる。
 私がなんとかしなくちゃ、私が! 橙の眼から見ると、零無からそうした気持ちが漏れすぎていた。なんともぎこちない、不自然な態勢に成り果ててしまっていた。
 
 「霊符『夢想封印・――」
 「はいそこまでー」
 「うにゃっ!?」
 橙は零無の足を引っ掛けて転ばせる。
 
 「びっくりしたのはわかるけど、敵意の有無くらい判別つくようになろう。それに残念だけど、ルーミアはいまの零無じゃまったくお話にならないよ。ここは逃げの一手が正解」
 「え、あ、う」
 「あんたも」ルーミアに――「今日は帰れ。しばらくそのままで遊んでればいいよ。私がやってもいいけど、こういうのは巫女の役目だからね。この子がなんとかできるくらい成長したら、また倒しにいく」
 
 零無はうつ伏せのまま顔を上げ、どうにかルーミアを視界に入れる。たっぷり十秒経って、その小さな人影から伝わってくる剣呑さに気がつく。気がつくとだんだん顔が引き攣り始める。口をぱくぱくさせ、橙を見上げ、
 「……橙さま、えっ、あの、あれ、あれあの、え、えっ?」
 「やっとわかった?」
 ルーミアはにっこり笑って言う。「楽しみにしてるわ。今代の――たぶん歴代最弱の巫女様」
 「あの、あのあの、わ、私? 私、が?」
 「そうだよ。零無が再封印するの。私はなんにもしないからね。見てるだけ」
 「えー」ルーミアは口を尖らせて言う。「つれないなー。私は橙と遊びたかったのに」
 「言ったでしょ、こういうのは巫女の仕事。あんたとはもう二度と遊んだりしないから」
 「あんなに激しく愛し合った仲なのに……」
 
 零無の顔が固まる。
 「……えっ?」
 橙は面倒くさそうに耳の後ろをがりがりと掻き、腕を振るだけで意志を示す――さっさと帰れ。
 「あ、あのぅ、橙さま?」
 ルーミアは投げキッスらしき仕草で橙に微笑みかけ、背を向け――鳥居の影と完全に同化し、すぐに消え失せる。
 橙は大きく肩を落とし、疲れ果てたように溜息をつく。
 「橙さま……?」
 
 「明日からまた修行だよ、零無」と橙は言う。「疲れを残さないように。私はもうさっさと寝ちゃいたいよ。季節じゃないけど、炬燵に丸まってさ……」
 「橙さま、あの、口から出任せですよね? 愛し合ったってなんですか? あの、さっき、真っ黒ななかでなにしてたんですか?」
 「お風呂入りたいなあ。ご飯はいらないからお酒呑みたい。熱くして……なんにも考えずにのんびり時間潰しながら。そのまま朝を迎えたい」
 「ありえないですよねっ!? だって賢者さまの使いである橙さまがっ、あんな怖ろしい妖怪とっ! っていうかだって女っ、女同士でそんなっ!?」
 「……」
 「どうして黙っちゃうんですか橙さま! 橙さまー!?」
 
 腰にすがりつく零無を、橙はひたすら面倒くさそうに押し退け、神社に足を向けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 霊夢は気づいていたのだろうと思う。『なにものにも縛られない博麗の巫女』が行き着くところまで行き着くことの示す意味を。
 風呂から上がり、寝室まで戻ると、零無はもう布団を被って眼を細めていた。行灯の火を消し、隣に敷かれた布団に座って彼女を見下ろした。まだ起きてはいるようだった、が、いまにも眠ってしまいそうに瞼を開いたり閉じたりしていた。
 
 「……さっきのひとと、なにかあったんですか?」
 雲のような声で訊かれ、橙は言い淀んだ。一言二言ではとても伝えきれない物語だった。困ったように頬を掻き、ごまかすつもりで零無の頭を撫で回した。零無は猫のように眼を閉じてじっとしていた。
 「友だち。……少なくとも」
 それ以上はなんとも言えなかった。実際、自分のなかでもあのことをどう扱っていいのか決めかねていた。
 
 零無は橙の手のひらに額を押しつけるようにして頭を振った。小さな少女のリアルな感触に気圧されるような感覚が訪れ、橙は零無から眼を背け、闇の奥底に向けて凝らすようにした。
 「あの……妹がどこかへ行ってしまった夜のこと、まだ話してなかったと思うんですけれど」
 橙は視線を戻した。それは零無が落ち着くまで訊くまいとしていたことだった。
 「私たち人里にいた頃から、よく、紅魔館の図書館に忍び込んでたんです。魔理沙さんが真正面からどかーんって突入する裏で、こっそり。妹はメイド妖精さんや、小悪魔さんに見つからないようにそうすること自体を楽しんでたみたいなんですけれど、次第に本そのものにも興味を示すようにもなって。私はただ、あの、付き添いみたいな感じで……」
 「うん」
 「外の世界の本がたくさんたくさんあって、私たちにとっては宝島みたいなところでした。文字は異国のことばですし、日本語があっても難しくてわかんないものばかりでしたけれど、ときどき、絵巻物みたいに、文字よりも絵で綴られた本もあって。私は妹と一緒にそういうのを読むようになりました。
 それは私たちの知らないスポーツでした。ひとの頭よりも一回りくらい大きな球を、籠に入れ合う……ルールは理解しきれませんでしたけれど、そこに描かれてる男のひとたちの表情がすごく活き活きしていて、写真でもないのに興奮が伝わってくるようでした。弾幕勝負の最中みたいに真剣な顔して、勝ったほうも負けたほうも涙を流して、見てると自然にこっちもからだを動かしたくなってくるような、すごくドキドキしてくるお話でした。最後のほうには私も妹も、感情移入しすぎちゃってわんわん泣いちゃったくらいに。でも、妹は私よりもその物語に感銘を受けたようでした」
 
 なんとなく話の行く末が読めたような気がして、橙はずきずきしてくる目許を抑える。
 
 「そのお話を読み終えた晩でした。眠ってた私を起こして、妹は枕元で眼を爛々と輝かせていました。それで……」
 
 『お姉ちゃん。私ちょっと外界で高校進学して全国制覇してくるわ』
 『は!?』
 『卒業したらそのままアメリカ行くから。たぶん幻想郷には帰ってこないと思うからあとはよろしく。じゃ!』
 『ちょっちょっちょっちょっ!? いくらなんでも唐突すぎるよ!? 巫女はどうするの!? 紫さまにはどう説明するの!?』
 『お姉ちゃん! 幻想郷で常識に囚われてちゃいけないよ! 私は常に感動し続けていたいの! 感動が私を動かすの! 感動なしでは生きていけないの! だから私は見果てぬ夢を追うわ、真っ白に燃え尽きるまで! なぜなら私は――』
 
 「……ちょっと待って。その物語のタイトルは?」
 「スラムダ」
 「ごめんやっぱりいい。わかった。だいたいわかった」
 
 零無の妹は霊夢が認めるほど『博麗の巫女』的な少女だった。それはつまるところ、なにものにも縛られないということであり、結局、『博麗の巫女』という立場にさえ縛りつけられなかったということだった。
 霊夢はこうなることをなんとなく察していたのだろうと思う。彼女自身がしばしば、巫女にあるまじき女であったように。それでも巫女を全うし、われわれに付き合ってくれたのは、彼女の最後の優しさだったのだろう。
 
 
 
 寝返りを打つと、零無の顔が歪んだ。暗がりのなか、橙は目敏くその変わりように気づいた。
 「零無。傷が痛む?」
 声をかけられたことに驚いたように零無のからだがぴくんと動いた。「……えっと、そんなには」
 「永遠亭の薬があるよ」
 「もう塗りました……」
 
 どうしたものかな、と橙は腕を組む。弾幕を生業とする以上、生傷は悪友のようなものだ。妖怪であればそう気にも留めないが、人間の、幼い少女とあればそうはいかない。
 自分も何度も弾幕のなかに飛び込んで、グレイズして、撃ち落されて、うつくしい絣模様のように幾重にも傷痕をつくって、そうして歩いてきた。彼女の痛みはここまで辿り着いた自分のものでもあり、道を同じくするすべての者の絣模様でもある。
 
 「心配だなー。朝起きたらお布団血塗れになってないかなー」
 「ひゃあっ!?」
 
 いきなり第三者の声が響き、零無は陸に上がった鯉のように跳ねた。両の手のひらに顎を置き、ルーミアが至近距離で座っていた。
 
 「きゃーっ! きゃーっ!」
 「零無うるさい」
 「ぎゃおー。たーべちゃーうぞー」
 「むむむむむ『夢想封」
 「やめなさい」
 
 橙が足を引っ掛けると、零無のからだがぐるりんと回って布団に落ちた。ルーミアは腹を抱えてけらけら笑った。それらがみな一歩先も見通せぬ闇のなかで行われており、零無はもうなにがなんだかわからなくなっていた。
 
 「なん、なんでっ」
 「闇は私の手のひらのなか。私の腕は闇の外側。手は闇のへり、闇は手の指」
 「ルーミア。どこから出てきたの?」
 「私はいつでもあなたの心のなかに」
 「ふうん」
 「なんで橙さまそんなに落ち着いてるんですかー!」
 「いや慣れてるから……こういう神出鬼没……昔は紫様に散々驚かされて」
 零無はびくびくしながら橙の後ろに隠れた。
 
 「そんなことより、零無。痛むんでしょう? あんまり動かないで、じっとしてなさい。今日は明日も続くのよ」
 零無の表情が叱られた直後のように縮こまった。口のなかでいくつかの反論がぼそぼそと転がされ、けれどそのすべてが自分の未熟からくるものだと知っている零無は、懸命にもなにも言わずに頷いた。
 
 ルーミアは翼のように両腕を広げ、くるりと軽やかに半回転し、ふたりに背を向けた。「私は封印されなおしにきたはずだったのだけど」暗がりのなか、その輪郭ははっきりしなかった。下半身は特におぼろげに見え、零夢の眼には亡霊そのもののように映った。「霊夢もいない、跡継ぎもいない。いるのは巫女の格好をしたどこにでもいるような月並みな女の子だけ」ふっとその姿が消えた。気がつくと背後に回っていた。零夢の頭の上から橙の首に腕を回し、耳元に口を寄せていた。「困ったなー。橙はどうするのかなー。こんな女の子でも巫女が務まるくらいいまの幻想郷が平和だと思えなくもないけれど、いつまでもそうだとは限らない。霊夢みたいに、力尽くで守りきれるだけの力があるようにも思えない。これからあなたはどうするの? なにかを見捨て、なにかを拾う。この子になにか――見込みはあるの?」
 剥き出しの問いかけに、零無は腹と背が震えてくるような感覚を味わう。いまのルーミアのことばは、おまえに巫女は務まらないと真っ向から罵倒されたのと同じだ。なにより、零無自身が橙の答えを聞きたいと思ってしまっている。
 「私は食べるよ、橙。おなかを差し出されて、お好きにどうぞと誘われたら。見て見ぬ振りはしない。橙はそのたんびにこの子を助けて、それがずうっと続くのかなー」
 「あんたが」と橙は言う。「私やこの子にないものを持っているように、私が、あんたやこの子にないものを持っているように、この子も、私やあんたにないものを持っている。そうとだけ言っておくよ」
 
 ルーミアはいきなり言う。「愛してるわ。私の凶兆。私の黒猫」
 零無の顔が強張る。橙は手をひらひらさせて応える。「はいはい、ありがと」
 ルーミアの姿がふっと掻き消える。
 
 
 
 橙は零無の手首、袖口から見える傷にそっと触れて言う。「寝よっか。おやすみ、零無」
 「あの」
 
 零無が二の句を継ぐまえに橙は額に額をこつんと当て、至近距離で眼を見て言う。「自分がいないほうがうまく世界が廻ると思ってるなら、それは違う。あんたはまだ十二歳、過去より未来のほうが遥かに大きい。私はあんたの何倍も生きて、たくさんのことを経験してきたけれど、それでもまだわからないことのほうがずうっと多い」いまだふたつから増えない尻尾を揺らしてさらに言う。「最後の最後まで道を進んでから迷いなさい。いまはやれるだけやるだけ。あんたにしろ、私にしろ」
 
 ほとんど力押しに等しいことばで、橙は零無を黙らせる。そうして布団を羽織らせ、ぽんと頭を叩いて言う。
 「おやすみ。また明日」
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2012/01/29 20:46 | Comments(1) | 東方ss(長)

コメント

Σ(●´Α`●)ぇ??
これのどこが地雷なの?

妹がフリーダムすぎてワロタw
後半いてきまー
posted by MORIGE at 2012/02/01 18:10 [ コメントを修正する ]

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