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2025/02/07 23:15 |
(東方)
闇黒片 ~Chaos lives in everything~


STAGE1 博麗神社

――次代博麗、最弱につき



後編 前編は上の記事に





拍手



 博麗神社裏の猫の集会場まで出向く。以前とは違い気紛れな野良猫たちも言うことを聞いてくれるようになったが、それは自分への畏怖からくるものではなく、あくまで対等な信頼関係を前提としたものに過ぎない。自分が紫や藍ほどの妖怪になっても、こいつらはいまと態度を変えることなんかないんだろう、と橙は投げやりに思う。
 「ミケ。隣いい?」
 返事はにゃーという気の抜けた鳴き声だった。
 
 樹に背を預け、ぼんやりと空を見上げる。どでかい雲がのんきに漂っている。こちらの悩みなんか知ったことではないという風に。零無のことを考えると、溜息しかでない。ルーミアに言われずとも、このままじゃだめだということはわかりきっているのだ。
 零無はこの上なくがんばっている。修行についてこれずとも、彼女が弱音を吐いたところなど見たことがない。彼女は彼女に許された全部を賭して努力している。それはつまり、教える側にいる私に責任があるということ。
 零無は初めての弟子、初めての教え子だった。博麗の巫女でなく妖怪であれば、初めての式にでもなっていたかもしれない。藍や、慧音といった女たちの偉大さが身に染みてわかる。けれど少なくとも、零無がギヴ・アップするまえに放棄してしまうわけにはいかない。
 
 けれど、そもそも零無になにができる? 実戦の場、最後の土壇場で、どういう選択をすることができる? 私はまだそれほど彼女のことを知っているわけでは――
 
 「どうしたらいいんだろうね、ミケ」
 答えなどくるはずないとわかっていても訊いてしまう。ミケは大きく欠伸をして橙を見上げ、にゃ、と一声鳴いてみせる。
 『オレが協力してやってもいいぜ?』
 「……生意気な」
 
 
 
 このまえは秋刀魚を出したが、海のない幻想郷では本来、刺身といえば鯉と相場が決まっている。零無は橙の喜ぶ顔を思い浮かべながらまな板と向かい合った。が、ふとなにか物音が聞こえた気がして、包丁と鯉をそのままにして社務所を回った。なにもなかった。ひとり暮らしはどうにもこういうことが多くて困る。
 帰ってくると、ルーミアが鯉を頭からばりばりと喰らっていた。
 
 「あーっ!!」
 「ごちそーさまー」
 唇の端から黒い血を零しながらにこりと笑う。
 
 反射的に跳びかかり、鯉の下半身を奪おうと手を伸ばしていた。ルーミアはひらりと舞い上がって身をかわし、残りを鱗ごと噛み砕いた。零無のまえに落ちてきたのは尻尾だけだった。
 
 「なにするんですかーっ!?」
 「危機感ないなー」
 
 ばかりと開かれた大きな口が零無の眼のまえをよぎった。鯉は綺麗な水に一晩つけておいたから川魚特有の生臭さはなかった、が、それ以上に、その牙に染みついたなにかの肉のおぞましい匂いが漂ってきた、気がした。ひっっと息を飲んで後退りした。
 ルーミアは、んーと唸りながら零無を下から上までねめあげた。値踏みするような眼に、零無は気圧されたように胸のまえで拳を握り、身をよじって半身になった。
 
 「自己紹介がまだだったっけ? 初めまして、私はルーミア。ルーミアリシ・ディオニュソ・レダ・ノス・サン・ディ・リュケイロス・エル・グランバニア4世」
 「え、え、はい!?」
 「全部嘘。ただのルーミア。真っ黒くろすけのるみゃ」
 「ぅ、あ、私は……みんなは零無って呼んで……」
 「本名?」
 「いえ……」
 「まあいいやなんでも。散りゆく者に名など不要であろ?」
 
 ルーミアは親指で自らの唇を撫ぜた。その瞬間、ぎゅむりと奇天烈な音を立てて闇が広まった。瞬きするあいだに世界は艶のない漆黒に染まっていた。
 「なっに、なにを!?」
 「からのー」
 ぱっと両腕を広げ、手のひらを上にかざすと、闇が散った。光が戻ってきた。まったくついていけず、零無はぱちぱちと眼をしばたたかせた。
 「と思うじゃん?」
 「にゃあっ!?」
 両腕が鉈のように振り下ろされるとまた闇一色に染まった。零無が完全に混乱するとルーミアはいつの間にか彼女の背後に回り、肩の上から腕を回していた。ぱくぱくと開閉される口を手のひらが覆った。
 
 「んっッ」
 「はい、おしまい。悲鳴も上げられないまま私にばりばり。ゲーム・オーヴァー、満身創痍。コンティニューがあると思った? 負けイベントだと思った? 残念、タイトルでしたー」
 「なんの話ですかーっ!」
 
 ルーミアを振り解き、零無は腕を振り回して離れた。既に涙ぐんでおり、消えない闇のなかでその表情は歪んで見えた。ルーミアは面白くなさそうな顔をして彼女を眺めていた。
 
 「どうすればよかったのか教えたげる。私と向き合った瞬間に一撃目、夢想封印。口を利いた二撃目に八方鬼縛陣。倒れた私に止めの弾幕結界。霊夢ならそーしたろーなー」
 「っ、っっ、わた、私、はっ……敵意のないひとにそんなことしませんっ」
 「敵意がなくたって喰われるときは喰われる。あなたは敵意を持って鯉を下ろすの? ルールが自分を守ってくれると思ってる? 三分間十二ラウンド制だって、素人が無防備な頭にイッパツ喰らえば簡単に逝っちゃうよ。観客は大喜びだろうけどね。ワオ! 見て見てダーリン、あのひと眼から脳味噌はみだしながら戦ってる!」
 
 零無はなにかを言い返そうとし、なにも言い返せず、もどかしそうに唇を震わせながら俯いた。腕だけが戦闘を続けているかのように持ち上がり、が、すぐに下がり、また持ち上がり、また下がった。
 ひどく惨めな気分になった。巫女と言いながらこんなにも簡単にもてあそばれてしまっていることに対して、哀しさばかりが湧き上がってきた。妹ならいとも容易く対処できただろうと思うと余計惨めだった。先代の霊夢の威光はただひたすらに重荷だった。重すぎるほど重かった。
 
 「なにしにきたんですか……」
 「遊びにきたんだけど。橙はいないのかなー。代わりがこの子じゃなー。もっと才能のある子を巫女に据えればいいのに。比較が霊夢じゃ誰でも同じかー」
 「私の才能はみんな妹に持ってかれました!」零無は叫んだ。「お母さんのお腹のなかでどんなお話したかなんて覚えてもいませんけどっ! 本当はふたりでふたりぶんの魂だったのが、まるで交渉済みの出来レースみたいに! 優れたところは全部妹が受け継いで、劣った部分は全部私に押しつけて!」声が裏返った。「1……足す……1……イコールノット、2……! 私は二百分の一、妹は二百分の百九十九、って……! いつだって私は、私はまるで妹の引き立て役みたいに――まるで妹の出来損ないみたいに、妹の付属品みたいに――!」
 「へー。そーなのかー。だからなにさ?」
 「そんな風に納得しようとしてる自分がすごくすごくものすごくイヤだっ!!」
 
 零無は肩を荒く上下させてさらに叫んだ。
 
 「私は……私は……っ!」
 「ふむふむ?」
 風船が萎むように零無のからだから力が抜けた。「私、は……」
 「封印の日は遠いなー」
 
 闇が消え、一緒にルーミアも消える。また元の静寂が戻ってくる。ただ先程と違い、まな板の上の鯉だけがない。
 零無はしばらく茫然としている。夕暮れの強い西日が満ち、その姿の半分を影のなかに落としている。やっと態勢を整えると、零無は苛立ち紛れに言う。
 
 「なんの用もないならこないでくださいっ!」
 「からのー?」
 「うわあああああっッ!」
 「闇はいつでもそこにある、らしいよ? 気を抜くと食べちゃうからなー。じゃ、今度こそさよならー」
 
 ようやくルーミアが消える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 結局その日、橙はこなかった。風呂に入る気にもなれず、夜のへりを巫女服のまま歩いた。袂に札と針を仕込み、御幣を手に、リボンを結んで。林のほうから吹きつける風が耳元で唸った。全世界から無視されているような感覚が襲い掛かってきた。
 自分は博麗霊夢に似ているという。顔が。妹を迎えにきた彼女を見たとき、そんな風には露ほども思わなかった。零無の眼から見て彼女は、あまりにも精悍すぎ、あまりにも美しすぎ、人間というよりも化け物染みて思えた。巨大な雷雲を眼にして震えるように怖ろしく感じた。どうして妹がなんでもないように接していられるのかまったく不思議でならなかった。
 
 妹の世話役であるかのように一緒に家を出た。母親はそれが名誉であるかのように喜んでいた。惜しみなく贈られる妹への、贅を尽くした夥しい数の賛辞。妹が消えてからも、自分に、時折便りがくる。元気でやってるかと。たまには顔を出せ、便りを寄越せと、テンプレート通りのことばが送られてくる。自分でことばを考えるということはしないの?
 
 「おかあさん……」
 零無には母親に抱き締められた記憶がない。妹を抱き締める母親を眺めていた記憶はある。
 『零』、『無』、自分にはぴったりな名前だと思う。しばしば本当の名を忘れそうになる。そうして自分を博麗霊夢や妹の劣化コピーのようだとも思う。
 
 
 
 社務所の座布団に座っていると、がたりと物音が聞こえた気がした。ひとり暮らし特有の幻覚だと思い、零無は眼を閉じる。もう一度ががぐぐと聞こえる、風が強いのだろうかと思う。ふと眼を開いて明り取りの窓から境内を覗く。樹木の黒々とした影は静寂を保っている。無風。さらにががががががががと聞こえ、零無は尻を打たれたように立ち上がる。
 ルーミアだと思う。あるいは、橙かと。が、物音はあまりにもあからさますぎ、乱暴すぎる。そのへんの壁を力任せに叩いたような音。さらに続けざまに五度。零無は息を潜め、聞こえたほうへと歩く。
 
 零無は霊的な感知能力をほとんど持たない。そちら方面には盲目に近い。執拗な修行によってどうにか眼のまえにあるものの区別はつくようになったが、正直なところ、神と悪魔、妖怪と妖獣の区別さえろくにできない。博麗の女が持つという鋭い勘も、いまのいままで発揮した覚えがない。が、人間である以上誰もが備える普遍的な六感から、漠然とした厭な予感ばかりが秒刻みに深まっていく。
 遠雷のように、くぐもった、重苦しい振動音。壁が何度も叩かれている。それに加えて明らかに尋常のものでない唸り声が聞こえる。ポルターガイストではない。確実な肉体を持ったなにかの仕業。なにか? なにかって、なに?
 巫女。襲撃される理由など妖怪の数ほど存在する? それが私でなくとも。
 
 足音を潜めて音の元へ向かう。賽銭箱の横を通り抜け、正殿の裏へ。自分の呼吸がうるさく聞こえ、必死で呼吸を止める。ごくりと喉が鳴る。得体の知れない気配が強まるにつれ恐怖が染み出してくる。
 音はもう皮膚に振動を伝えるくらいには近づいている。
 
 「なんなの……?」
 
 壁に手をつき、自分を抱いて眼を閉じる。もう一度ががっががっと聞こえ、びくりと全身が跳ねる。たまらなくなって壁に背を預ける。
 眼だけを壁から覗かせる。神社裏の林は闇の底に沈み、夜空の黒よりも黒い山のように見える。そうした単色を背景に蠢いているものを見つけたとき、零無は腹の内蔵物が丸ごと一回転したかのような感覚を覚えた。生まれて初めて味わう混じり気なしの恐怖だった。
 
 喰われるときは喰われる……
 
 四足歩行の獣の容姿をしていた。闇に溶け込む黒色の毛に七割が覆われ、細かなパーツはまるで見えず、ところどころ、金毛と白毛が申し訳程度に生えていた。遠目でわかるだけで全長四メートルほどはありそうで、尻尾は長く、気持ち悪いほど毛が密集しており、そこだけで二メートルはあるように思えた。薄く降り注ぐ新月の灯りを捉えて双眸は白く明滅しており、正殿の壁に向かい、零無にはわからないなにかを映して睨んでいた。頭部を傾け、全身を揺らすように壁に額を打ちつけ、そのたびに異様な音と振動が世界を満たした。なにが目的なのか、知性の有無は判別できず、時折ぐるぐると喉を引き攣らせて唸り、誰かになにかを伝えているいるようにも、訴えかけているかのようにも見えた。長々と伸びた爪が地面に食い込んでいた。不意に後ろ脚だけで立ち上がり、壁に前脚を押しつけ、がりがりと容赦なく壁を削り始めた。熊のようにも見えた、が、それは紛れもなく妖怪、あるいは妖獣だった。
 そんな大きな妖怪を見るのは初めてだった……見知っている妖怪はみな美しい女の容姿を保っていたから。本性を剥き出しにしている者など滅多にいなかったし、そもそも本性がそんな醜悪な――
 
 零無は反射的にしゃがみこみ、眼を閉じて祈るように両手を組んでいた。
 「橙さま――!」
 胸の内側に閉じ込められた幼い魂が助けを求めていた。
 
 逃げるのだ、と思い、自分に言い聞かす。話が通じそうな様子にはとても思えない。とにかく正殿も、社務所も危ない。人里のほうへ。守屋神社の分社を通じて、連絡を取るというのは? どこかにあるかもしれないスキマを探し、橙のいるかもしれないマヨイガへ?
 思考のさなか、またもや壁と空気の震える振動が奔り、膝から腹にかけてがくがくと震える。
 「……っ、怖い、怖い――」
 
 敵意がなくても喰われるときは喰われる? 嘘つき。こうして離れていても実物を目の当たりにすれば明確にわかる、触れられるほどはっきりした敵意の塊が見える。そんな風に意志を感じたことは初めてだった。
 立ち上がり、逃げなければ。零無は地面に手をついて必死に足を伸ばした。耳を塞いで音を遠ざけ、眼を背け、足の裏を擦るようにして歩き出した。
 妖怪の気配に自分の感覚が収斂していくことがはっきりとわかった。涙ぐみ、ただ恐怖だけで全身を傷だらけにして、喘ぐようにして逃げ出した。が、数歩進んだところで立ち止まっていた。
 
 
 
 毎日のように橙と続けてきた修行の日々が思い出された。それは一日の大半を費やしていた。なんの収穫もなく、なんの価値もなく、なんの進歩のなくても、そうした時間は紛れもなくいまの零無の根幹を成していた。
 弾幕に成す術もなく呑み込まれ、絣模様の傷痕がいくつも生々しく残った。がりがりとグレイズするたびに心ごと皮膚が削れた。霊的な才能など欠片もなくとも、喰らうダメージは誰でも同じだ。馬鹿だろうが天才だろうが等しく傷だらけになる。世界でたったひとつの公平で平等な痛みに毎日を捧げてきた。あの日々はなんのための日々だった?
 
 じんとした痛みが恐怖を砕いて叫びを上げていた。あらゆる理性的な判断をぶち破って、零無の足は勝手に百八十度方向転換し、見知らぬ妖怪に向けて歩き出していた。
 
 
 
 「あの」
 震えた声に妖怪の顔らしき器官がこちらを向いた。あまりにも毛深く、暗闇のなかではなにがなんだかわからなかった。
 「ウチの壁なんで……あんまり丈夫じゃないんで、むかしいっぺん倒壊したらしいですし……あんまり乱暴なことはやめていただけませんか……」
 
 妖怪は水浸しの獣のように全身をぶるぶると鳴動させ、天から地まで震えるようなやかましい叫びを上げた。あまりのうるささに零無は片耳を塞ぎ、荒く深呼吸を何度も繰り返した。
 「借り物の家なんでっ!」叫びに負けないよう必死で叫び返した。「なにか用事があるんならいくらでも伺いますっ! 特に用もないんならお帰りください! っていうか、帰れー! どうせこっちの話なんて聴く気ないんでしょ!? なんかこうっ、暇潰しかなんかできただけなんでしょどうせっ、どうせーっ!」
 
 こうなってしまえばやけくそだった。零無はからだが勝手に逃げ出さないように両脚を肩幅に開き、両拳を爪が白むほど強く握り締めた。距離が近づくと比例関数的に恐怖が高まった。いまにも崩れ落ちてしゃがみ込んでしまいたくなるほど怖かった。
 みしりと両脚をしならせて妖怪が近づいてきた。全身の関節を蛇のようにぐにゃりと曲げながら蛇行して歩いてきた。ほんの数歩で至近距離になってしまった。
 そもそもの質量が絶望的なほど違っていた。零無は必死で妖怪の眼を見続けた。対話に応じる意志などまるでないように思えた。ルーミアはなんと言ったのだったか? 向き合った瞬間に一撃目、夢想封印、二撃目――
 
 「警告、します」結局、なおもことばを重ねた。「い……いますぐここから立ち去りなさい。壁に頭を打ちつけるのをやめて、爪を引いて、背を向けてください。なにもしなければ、追いません。こちらから危害を加えたりはしません。だから……さもなければ……」
 
 聞こえているのかどうかもわからない。少なくとも聴く気なんかありゃしない。ことばの途中で遮るように、頭から丸呑みするように顎を大きく開き、眼のまえで叫びが轟く。反応できずにいると、それでも足りずというふうに強く背を逸らし、夜空に向けて狼のように吼える。世界が揺れる。零無の膝もまたがくがくと揺れる。
 あからさまな威嚇。さあやるぞ、やるぞやるぞと溜め込んでいる、すぐに爆発しそうなほど充満する。ああ、これはくるな、とわかる。もう止める術などないほど高まっている。なにがどうしてそうなっているのだかわかりもしないが、自分の身に危険が迫っていることだけは火のように明白だ。スペルカードルール? なんだそれは。
 
 「なんで……っ」
 
 巫女であれば、たぶん、当たりまえの日常茶飯事なんだろう、どうせ。危険な妖怪の逆恨みに遭うなんてことは。こっちは正義の味方、あっちは悪の親玉、ふたつ揃えば鳴り響くのは野蛮なゴング。私は食べられてしまう巫女……
 納得できなくても現実は現実だ。眼のまえに牙。だったら、やるしかない。変な意地を張って逃げなかったのは私だ。それがどれだけ理不尽で不条理な事態でも。そう必死で自分に言い聞かせている自分に気づく。きっと博麗霊夢だったらなにも考えずにそれが自然であるかのように応戦してるんだろう。当然のことのように。
 私は誰?
 私はなに?
 ちくしょう!
 
 疾風が夜を引き裂いたと思うと、妖怪の姿が霞のようにぶれ、次の瞬間には、零無の細い首筋に濡れた牙が迫っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 時間が一秒から一時間へ引き延ばされたような感覚が満ちた。心臓が凍り、胸の内側が引き攣った。妖怪の眼は見るからに怖ろしかった。零無は生まれて初めてそうした距離で敵意の燃える闇と向き合った。
 心が粉々になるまで砕かれる思いがした。欠片になるまで。自分のことをこの遠い場所に置き去りにされた闇黒の一片であるかのように感じる。
 
 
 
 「ルーミア。いる?」
 「いるよー」
 「あんたの眼から零無はどう見えた?」
 
 なにも見えない真の暗がり。互いの姿さえなく、声だけが行き来する。ふたりの女。
 それを私に訊くの? とルーミアは首を傾げる。橙は苦笑し、その場に座り込む。ルーミアはふよふよと雲のように漂い、彼女の肩に腰かける。少しまえまでは有り得なかった配置なのに、どこかしっくりくるように思い、橙はふっと息をついて肩の力を抜く。
 
 「てゆーか、よくみんな許したなー。そっちのほうにびっくりだよ。あれでそもそもが成り立つわけ?」
 「いや、みんなは大反対だったよ。紫様も含めてさ。それはもちろん、あの子のことを慮ってのことだけど。霊夢の影がどこまでも纏わりつくからね、次となれば……」
 「じゃあどうしてこーなったの?」
 「霊夢がゴーサイン出したの。やってみればなんとかなるんじゃないの? って。それが例の勘からくるものかどうかは知らないけど。あとはまあ、私。それで面倒見てる、いま」
 
 へえ? とルーミアは鼻を鳴らす。どこかその声にぎこちない、重苦しいものを感じ取り、橙は彼女を見上げる。表情さえも藍色の闇に遮られ、見えない。けれども……
 
 「嫉妬?」
 「はあ? まさかー。橙はずっと私のじゃない」
 「いや藍様のだから」
 
 まあ藍様は紫様のだけど。橙はごちゃごちゃな妖怪関係を面倒くさく思いながら言う。
 
 「なんとなくダブって見えてさ。私とあの子と」
 ルーミアは手をひらひらと蝶のように舞わせ、頭の上で静止させ、「最強の妖怪……足す……」ふっと落とし、腰の下で留まらせ、「最強の妖獣」胸のまえに戻し、両手の指を軽く合わせてハート型をつくり、「イコール、そのへんの黒猫」
 「重い、重い」橙は苦笑する。
 
 おかげでまだ姓名ももらえないよ。やんなっちゃう。そう吐露する橙に背中から抱きつき、昔よりも大きくなった背中に手のひらを這わせる。
 
 「こんな立派になったのに?」
 「かたちだけだよ。だからかもね。気軽に養子縁組できなくなった。老夫婦と、婚期を逃した不肖の娘。昔のトラウマ引き摺ってさ、新しい恋に逃げることもできなくなっちゃった」
 「ごめんね?」
 「いまさら?」
 「私と共に生きよう」
 「いまさら!」
 
 橙は立ち上がる。その拍子にルーミアが転げ落ちる。腕を組み、じっと虚空に視線を注ぎ、侮られ、ないがしろにされ、劣化コピー、下位互換、入門用イージーモードと揶揄され続けてきた少女のことを思う。
 (追いかけると、比較対象がきっついんだよな)
 それでも模倣しなければ向上しないのだから、ジレンマだ。
 
 「だから私くらいはね」
 「現実は非情だよ。潰れるときは一息」
 「あの子はあの子だよ。霊夢じゃない。それがわかればいいんだけど」
 「誰が?」
 「私が」
 
 
 
 零無の眼が見開かれた。それを才能と呼ぶにはあまりにも……ささやかなギフトでしかなかった。
 この地上で最初に博麗を名乗ったどこかの誰かが有していたひとつの性質、しばしば霊的な才能に隠れ、見過ごされてきた力の種。遺伝子の内側に刻まれた螺旋模様は遥か神代から脈々と受け継がれてきた。橙との修行によっても一向に上昇しない霊力とかけ離れたところで、しかし、努力は奏者を裏切らない。それは少しずつ、着実に、緩やかに花咲くときを心待ちにしていた。一歩ずつ、一ミリずつまえに進み、決して後戻りしなかった。
 
 それは己の身に向けられる敵意や悪意といったものへの順応性だった。飛来する弾丸への、西部劇のガンマンめいた鋭い嗅覚と、それに付属する胆力。多くの場合博麗の勘といった風に発露されるそれらは、霊夢自身には意識されないまま彼女を支え、またそうしたものが可能にする現象の一部は、多くの者にいつからかグレイズと呼称されるようになった。
 弾丸に紙一重でかする程度の能力。無理にことばにすればそうなるだろう。だがただ回避したという単純な事実をあえてそう表現することに意味はあるのか。弾幕に飛び込むだけなら博麗でなくとも誰でもできることなのに。
 
 牙を剥き首に喰らいつく、妖怪の動きは素早かった。
 が、零無はもっと速かった。というより、妖怪が動き始めたときにはもう動いていた。がりがりと牙を皮膚の上でグレイズしながら、その巨大で毛深い懐に自ら飛び込んでいた。
 
 「――ッ、」
 
 手触りの悪い体毛越しに、手のひらを心臓と思わしき部位に押しつけ、押し潰されるような質量に圧倒されながら、必死でなけなしの霊力を織った。はやく、はやくと念じ、妖怪の脳が牙をかわされたという現実を把握するまえに、スペルカードの発動を宣言していた。
 
 「――霊符『夢想封印・劣』!」
 
 札と霊弾がばら撒かれた。光芒が闇を引き裂き、妖怪の体躯を包む込むように広がり、そこで静止した。一瞬置いて一気に収斂した。
 射程範囲をほんの数歩の距離に限定することでようやくマシな威力を発揮するようになった夢想封印だった。が、それでも本来の持ち主が使うオリジナルのものには遥かに及ばなかった。一度掻い潜られ、弾幕の外側に逃げられれば、それだけで無力化する張りぼてのようなスペルだった。射程の短さから、ほとんど零距離にまで近づかなければ発動さえできなかった。が、初見殺しには辛うじて使えた。それに相手は、当たり判定が人型よりも遥かに大きな、虎のような妖怪だった。
 
 弾幕が集中し、妖怪の体躯が弾かれた。何発も叩き込まれていた。その動きに巻き込まれ、零無も土の地面に叩きつけられた。
 肺が縮んだようになりながらも、零無は必死で妖怪の姿を眼で追った。
 
 「……やっ――た……?」
 
 ぐるぐると一声唸り、妖怪の眼が零無をねめあげた。そうして数秒そのまま見つめ、背を向け、林の奥へと逃げ出した。
 
 
 
 ぜえぜえと息を荒くしながら零無は上半身を起こし、地面に直に座り込んだまま両腕を自分に回した。
 なんとかなったという思いから、じんわりとした安堵が胸の奥から染み出してきた。が、すぐに安堵は反転した。いまのいままで黙りこくっていた博麗の勘がこんなときになって彼女に告げていた。
 
 「……ただの……使い魔。親玉がいる……」
 
 怒り狂った妖怪としてはあからさますぎた。ルーミアは言っていたじゃないか、敵意がなくったって喰われるって。それが普通なんじゃないか? 自分を喰うために出てきたとすると、あまりにも不自然な邂逅だった。まるで主張するみたいに壁に頭を打ちつけて――
 
 「誘ってるの……?」
 
 スペルカード一枚で撤退したことがそもそもおかしい。自分の程度は自分がいちばんよくわかっている。
 が、なんにせよ、追い払ったことは事実なのだ。零無はそう自分に言い聞かせる。深追いする必要はない、親玉がいるとすれば間違いなく自分の手に余る事態だ。よしんば異変だとしても、橙ならなんとかしてくれるに違いない。一刻も早く縁側に開かれたスキマに顔を突っ込んで、マヨイガに声をかけるのだ。
 
 「橙さま――」
 
 どうにかして立ち上がり、林に背を向け、神社の正殿に向かい――そこで足取りが止まった。
 
 
 『私は食べるよ、橙。おなかを差し出されて、お好きにどうぞと誘われたら。見て見ぬ振りはしない。橙はそのたんびにこの子を助けて、それがずうっと続くのかなー』
 ルーミアの嘲るような声音がひどく生々しく耳に蘇った。
 『あなたは食べられてしまう巫女』
 
 
 悔しかった。
 ただもうひたすらに悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて仕方がなかった。
 
 牙が掠めた首筋から血が滲んだ。妖怪に触れたときに捻ったらしい手首がじんじんと痛んだ。霊力を解放したときに覚える胸のなかが空っぽになってしまったような感覚が全身を満たした。
 心がこんな風に軋むなんて知らなかった。なんの疑いもなく橙に頼ろうとした自分を憎々しく感じた。そういう選択しかできない自分を。
 
 気づくと歯を食い縛り、引き攣る頬に吊られて唇が歪んでいた。陽炎のような息を重く吐いていた。痛む手首を鞭打つように拳を握り締めていた。
 「なんで……っ!」
 心が動くままに動くと、零無は闇に足を向けていた。博麗神社に背を向けて、恐る恐る妖怪の逃げたほうへ歩き出した。次第にその歩みが駆け足へと速まっていった。すぐに、足の裏を地面に叩きつけるようなものになり、身を削り尽くすような全力疾走で樹木のあいだを駆け抜け始めていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 空を飛ぶ能力も術者の力量次第だ。結局、地べたを泥臭く走ったほうが全然速かった。だから零無は走った。しばしば行く手を塞ぐ樹木の枝を薙ぎ払い、何度も転びかけてよろめき、喘ぐように突き進んだ。
 
 「私は、私は……っ!」
 
 零無の精神は白よりも白く白熱していた。すぐ眼のまえを通り抜けた牙、牙に乗せられた死の匂い、それらが彼女の心をどこか遠いところまで追いやっていた。
 視界はゼロに近かった。それでも辛うじて妖怪の背中が見えると、叫びを上げて追いすがろうとした。妖怪は付かず離れずの位置で逃げ続けた。もう疑いようもなかった、どう考えても誘われていた。恐らく自分ではもうどう対処することもできないだろう、親玉の場所へ。
 
 盲目に近い感知能力に、それでも、闇の向こう側にいるなにかの気配は伝わってきた。というより、向こうから伝えてきた。さあ、きて。私を求めて。私を奪って。そう言いたげな空気すら感じた。遥か高みから気配だけで挑発してきていた。
 零無は息を呑み、恐怖を超える恐怖に立ち止まった。が、すぐにまた走り出していた。もうなにがなんだかわからなかった、ただ、剥き出しの状況に上っ面が剥ぎ取られると、そこにあったのは、(自分でも驚いたことに、)偽りのない膨大な怒りだった。幼い魂に蓄積されてきた闇黒の欠片だった。
 
 「私は物語のための都合のいい駒じゃない!! いなくなった博麗霊夢の代替品じゃない!!」
 
 自分は博麗霊夢に似ているらしい。顔が。ただそれだけで。それで誰も彼もから自分の本当の名を忘れ去られ、脊髄反射的にレイムなどと呼ばれ、その内面が取るに足らないものだと見るや否や、いつしか零と、無と名づけられるようになった。
 
 「私は霊夢の劣化コピーじゃない! 私は霊夢の下位互換じゃない! 私は霊夢の入門用イージーモードじゃない!」
 
 眼が合ったときにわかる、誰もが視線の焦点を自分ではなく、その後ろにいる霊夢の影に合わせている。私を霊夢の一部だと、霊夢の一部を背負った取るに足らないものだと見下す。立派な妹の代わりに立ち去らなかった半人前以下の厄介者とみなす。冷静な眼で見ればすぐにわかるのだ、自分がいないほうが世界はずっとうまく廻るのだと。双子の片割れなどではなく、妹がただひとりで生まれてきていたほうがずっと、なにもかものためになったのだと。本来はひとつであったはずの魂がふたつにわかれて生まれ出てきた。一方に優良なすべてを与え、もう一方に邪魔なすべてを投棄して。結果、博麗の巫女として完璧に求められた女が生まれ、結局、博麗の巫女という立場のほうがその女を御し切れなかった。
 それで、都合よく操りやすい私のほうが巫女に……
 侮られ、見くびられ続けてきた人生。絣模様の傷口が失望に変わるにつれ、心の痛みは加速していく。それでもなにも聞こえていない振りをしてここまできた。本来以上に無能に振る舞い、場違いな女を演じることで巫女に縋り続けてきた。せめて……せめて、ほんの少しでも必要とされたかった。妖怪に身を捧げる人柱としていけにえにされるならもうそれでもいいと思っていた。
 
 「私は誰? 私はなに!? いればいるほど疎ましく思われる! 一刻も早く消えたくても誰も他に巫女なんかやりゃしない! どんなに精一杯やっても届かない! そのへんの妖精にだって勝てやしない! どうすればいいの? どうすればいいのよ!」
 
 安全地帯からこちらを見下す顔のない正義の味方がこぞって言う。博麗の巫女はもうオワコン。そんなあまりにも簡単な一言ですべてを切り捨てる。口を閉じてそっとしておくこともできないくせに自分の気に食わないものをこきおろすことにかけてばかり達人めいたぽっと出の専門家たち。未来に期待をかけることもせず、重荷を背負った現在と栄光の過去を比較することばかりに必死になる評論家様たち。
 
 「私はここ以外に居場所なんてないのよ!!」
 
 闇の向こう側で待っているだろう脅威に向けて叫び放つ。わかってる。おまえがそうした者たちの代表格なんだろう。口先でこきおろすのに飽きて、自らの手で凌辱してみたくなったんだろう。そういうことが容易くできる手頃な相手だと思ったんだろう、私を。
 近づくにつれて相手の妖気がはっきりとわかるようになる。絶望以外になにものも浮かんでこなかった。自分に比較できるどんな大妖の力よりも強大だった。ただ感じるだけで打ちのめされそうだった。
 
 いますぐ戻って橙に助けを求めるべきだという理性の声を踏み潰し、零無は走り続けた。今日がその日だ、という心の声ばかりが大きくなっていった。妹が消えたあの日からいつもどこかで自分に言い聞かせてきた、巫女としての力が及ばずに地に倒れ伏し、死ぬ日だと。今日が終わりの夜だと。
 今日がその日だ。偽りの巫女が終わりを迎えるときがきたのだ。
 怒りと自殺衝動が零無を聾唖にし、突き進ませた。心の奥底が血の流れに炎を送り込むがままに動いた。それは間違った行動なのだろう。利口になれない愚者の過ち、ばかばかしい、唾棄すべき選択なのだろう。が、零無の精神状態はもう知るかよクソがとでもいうような極点にまで達しており、巫女としての責任感など遠くへ過ぎ去り、ただ己の抱いた怒りを果たすためだけに、生まれて初めて彼女は彼女自身となって武力を振るおうとしていたのだった。
 
 
 
 橙は立ち上がり、闇の果てを見つめた。
 いっとき、風に身を任すように軽く顎を上げ、眼を瞑り、両袖を合わせてそのなかに手を隠した。
 
 「ルーミア」
 「んー?」
 「博麗の巫女ってなんだと思う?」
 「私にとってはイコール霊夢かなー」
 「それがほとんどの人妖の答えだろうね。でも、そうじゃないやつがひとりくらいいてもいいとは思わない?」
 
 
 
 枝葉を薙ぎ払い続ける腕はもう傷だらけだった。零無は袖を引き千切って捨てた。
 仕込んだ針や札も投げ捨てた。こんなのは巫女が使うから強いのであって、自分が使ったってなんにもならないものだ。直接ぶん殴ったほうがずっと強いのだ。
 リボンもスカーフも外して捨てた。ひたすら邪魔だった。ふっとからだが軽くなるように思った。
 巫女の体裁はどこにもなくなった。
 
 いまの零無を誰が見ても、霊夢に似ているなどとは思いもしなかっただろう。
 あたりがふっと明るくなった。林が途切れ、ちょっとした広場のような空間になっており、雲の途切れ目から降り注ぐ月灯りが蒼白く満ちていた。そこに妖怪が立ち止まっていた。そのすぐ横に人影があった。
 
 「アーーーーー!!!!!」
 
 見えた瞬間、零無は飛んだ。とはいえ、実際のところはなにも見えていなかったが。喉を振り絞るように戦士の絶叫を上げ、醜悪に顔を歪め、握り締めた小さな拳を振り上げた。巫女ではなく、臨戦態勢の猫科の肉食獣のように。
 これで死ぬんだという思いだけが強く胸を締めつけていた。
 土壇場に祈る神もなく、走馬灯の記憶はあまりにも短かった。たった十二年の人生、彼女の内面はあまりにも希薄だった。ただこうしたときに誰もが陥るであろう、自らの起源を思う心が、ただひとこと、お母さん、と胸のなかで呟いていた。が、実の母親の顔はどうしても思い出せなかった。脳裏に浮かんでいたのは、巫女となるまえ、ただの妹の世話役であった頃からずっと折を見ては修行をつけ、話し相手になってくれ、頭を撫でて抱き締めてくれた黒猫の――もうひとりの母親の顔だけだった。
 
 「絣」
 
 拳が受け止められ、ふわりとからだが舞っていた。地面に四足で着地し、零無はなおも跳びかかった。手首が掴まれると、無我夢中で歯を剥いた。肩口らしきところに思いっきり噛みついていた。
 
 「絣。こら。痛い痛い」
 
 抱き締められるように拘束され、それでも零無は暴れた。唸り声を上げて蹴飛ばしにいった。焼けるように熱いからだの熱を解き放ち続けた。
 
 「絣」
 
 そう、橙も最初は自分のことをそうやって本名で呼んでいたのだ。それが辛かった。霊夢のコピーとして誤魔化すように巫女でいられたのに、橙にだけは、そうした欺瞞を見透かされているように思えて。自分さえ騙し続けても、本当の自分を見られているようで。もしまた本当の自分の名で呼ばれるようなことがあれば、もう二度と、上っ面を飾ることさえできなくなるかもしれない。それが怖かった。いつしか初めて出会う人妖に、自分の名を言わなくなった。絣は自分を、零無とだけ言うようになった。
 感情がとうとう極点を越え、自分を思い出し、絣は涙を零した。喰らいつく力も次第に弱まり、暴れることさえできなくなり始めた。両腋に腕を回してからだを離され、絣はそこでやっと妖怪の親玉を見ることができた。
 
 「まったくあんたは、度胸だけは一人前だね」
 「……ぅえ?」
 
 橙は絣を下ろすと、袖口を彼女の顔に当て、涙でぐしゃぐしゃになった頬を拭いた。ぽかんとする絣の頭をぽんぽんとはたき、傍らでぐるぐる唸る妖怪に向かって言った。
 
 「ミケ。ありがと」
 『オレの演技もなかなかのもんだったろ?』
 「生意気な……」
 
 ミケは橙に甘えるように頭を擦りつけ、巨大な前脚を持ち上げると、絣に向かって器用にサムズアップらしき仕草をしてみせた。
 
 『じゃあな、お嬢ちゃん。驚かせちまってごめんな。でも、ひとりでオレみたいな女にのこのこついてきちゃダメだぜ。頭からがぶりとやられたって、誰も助けちゃくれないんだからな?』
 
 ミケは最後にウインクしてみせると、広場の隅にある古い祠らしきもののまえまで行き、他の子猫らと同じように、巨体を丸めて眼を閉じた。
 博麗神社裏の、猫の集会場だった。絣にも見覚えのある野良猫たちが、思い思いの場所でたむろしていた。突然の来訪者である絣に月のような眼を向け、警戒している者もいたが、大半はなんでもないことのように無視していた。絣は困惑して橙を見つめた。橙もまた片目を瞑り、立てた人差し指を唇に当ててみせた。
 
 「静かにしてようね。私たちは、ここじゃお客さんだから」
 「なんっ……なんでっ……!?」
 「ごめんね。でも、実際にやってみるのがいちばんだったから。霊夢と同じ修行をしても、絣には向いてない。だったら、絣にはなにができるのか。土壇場でどう動け、どう選択でき、どう戦えるのか。足が竦んで、なんにも抵抗できないようだったら、普通の村娘に戻ったほうがいいよって言おうと思ったけど。まったくあんたときたら、相手がどういうモノか確かめもせずに突っ込んできちゃって。気配だけで思いっきり脅かしてあげたのに、全力疾走してくるなんて」
 「なっ、なに、なに考えてんですかー!? 私がどれだけびっくりしたと――」
 「私に頼ってくれなかったからおあいこだよ。あーあー、ショックだなー。私のこと呼んでくれたらすぐ行ってあげるつもりだったのになー。私ってそんな信用ないんだー。どうせ私なんかそのへんの黒猫ですよー」
 「ふぇっ」
 
 まあ。と橙は微笑んだ。
 
 「初めての実戦っぽかったのに、よく相手の攻撃をかわして、スペルカードを撃てたね。偉いよ。実際にそういうことができるんなら、私にもいろいろと教えられることが――」
 
 が、絣はもう橙の話を聞けていなかった。限界を軽々と越えていった感情の反動、分泌されたアドレナリンが抜け落ちた後の代償、あれだけ怖ろしく感じていた気配の正体が他でもない橙だったことへの衝撃、そういったものが若干十二歳の巫女の心をばーんと突き飛ばし、
 
 「……――フニャッ」
 
 ぐるんと白目を剥いて仰向けにぶっ倒れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「……脅かしすぎたかな。ミケのせいだかんね!」
 『おいおい、おまえのせいだろ? 本気出しすぎだぜ、こっち向かってる最中オレだって実際ビビっちまった』
 
 絣を背負い、橙は深く溜息をついた。見込みはあるが、長い眼で見てやらねばなるまい。なにせ異変の基本は六連戦、自分の気当たりだけで気絶してはお話にならないのである。
 
 「で、どーすんのさ?」
 いつの間にか橙の傍らにいたルーミアが言った。
 橙はにやりと笑って、「札も針もない。それでも相手の弾をかわして、懐に潜り込むことはできる。だったら、回避からのワンチャン大火力で運ゲーに持ち込んで、荒らしてやればいい。博麗の巫女としてはまあ、邪道だろうけどね」
 「ワオ」
 「勝てるところで勝負するのは基本でしょ?」
 
 ルーミアは肩を落とした。「どのみち、封印の日は遠いなー」
 そう言うと、またいつものように、闇のなかに掻き消え――
 
 「待った」
 「うん?」
 「愛してるよ。ルーミア」
 「……」
 「だから嫉妬はなしで」
 ルーミアがなにかを言うまえに、橙は博麗神社に向けて歩き出していた。
 
 そうと決まれば明日からそういう修行をつけてやらねばなるまい。これからのことを思い、橙は思案に暮れる。怖がりを克服させるために、今後はわざとらしく本性を曝け出すことも必要になるかもしれないし、紫のように、ときには敵対してやらなければならないかもしれない。
 なんにしても火力を上げることが必要だろう。陰陽玉とは違うマジックアイテムがいるか。その路線で修行した先の理想像まで考えて、ふと、なんだかそうした戦い方に見覚えがあるような気がして立ち止まった。
 
 なんだっけ。
 
 回避とパワー重視の――
 
 「……ああ、魔理沙か」
 
 しばらくは弾幕はパワーだということになるらしい。
 博麗の巫女に魔理沙式の弾幕を目指させるとは、なんとも不思議な話だ。橙はシニカルな微笑を唇に浮かべ、ククッと喉を落とした。とりあえず八卦炉でも与えてやろうかと思い、
 「ね、絣? もう零無とは呼ばないからね、ややこしいったらありゃしない」
 絣のからだを抱え直し、夜の雲のスキマから降り注ぐ蒼白い月灯りの欠片を浴びて、うさんくさい表情を浮かべたまま歩き続ける。
 
 
 
 「次代博麗、最弱につき。……私が一人前になるまで見ててあげます。それでよろしいですね、紫様、藍様?」
 
 
 
 
 
 
 
 Stage1 CLEAR! to be continued……
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2012/01/29 20:43 | Comments(9) | 東方ss(長)

コメント

初コメです。
あなた様の作品は一通り楽しく読ませていただいております。
夜麻産さんのキャラはみんなカリスマが強くて好きです。

地雷とは何だったのか。
独自設定大好きな私としては未来編でもドンと来いでした。
続き気長に待っています。
posted by シズク at 2012/01/31 15:11 [ コメントを修正する ]
それぞれの葛藤が面白かったです~
『知るかよクソが』がすごく印象的でしたね、前半はおしとやかな女の子してたのでインパクトがww

成長した絣が一撃必殺重視の撲殺巫女になってしまう未来を幻視したww
後、橙の進化っぷりがやばいね八雲性もらえる日も近いんじゃね?

まぁ続編はゆっくりマイペースに仕上げてくださいな
それでは・w・ノ
posted by MORIGE at 2012/02/01 18:17 [ コメントを修正する ]
巫女とか、博麗とか、劣化とか、イージーモードとか、
きっと色んなことひっくるめての、知るかよクソが。
色々溜め込んでる子だなと思ってたら予想通りというかなんというか。
自分自身全開でいい感じにブチ切れてる女の子は大好きです。
みすちーの、「世界の試練はあんたのもの」
この台詞を思い出して絣ちゃんに言いたくなりました。

師弟百合かとかと思ったら橙×EXルミだった。な、何を(ry
と思ったけど結構前に橙×EXルミがどーたらって書いてあったなー。

最後に、お疲れ様でした。この地雷、とても美味しゅうございました。
posted by Carrot at 2012/02/02 04:30 [ コメントを修正する ]
地雷臭はまったくせずに楽しめました。
絣ちゃんは無事に開眼したようなので一安心。
いずれはふざけんな妹と、妹ちゃんまで撲殺するぐらいにまではっちゃけてほしい。

これが予告していた橙×EXルミなのですね!
過去に何があったのかもすごく気になる…
posted by NONAME at 2012/02/02 06:55 [ コメントを修正する ]
>>シズク様
ご読了お疲れ様です+ありがとうございます! カリスマ……ありますでしょうか(汗
未来設定プラスオリキャラ主軸という俺得のためだけのようなSSで……まあぶっちゃけおねえ橙が描きたかっただけ(ry

>>MORIGE様
オリキャラということでギャルゲに出てくるような従順で大人しくて普通に可愛くて書いてて疲れないキャラにするぜ! と思い立ったところ案の定ブチギレました(てへぺろ
なんかもう怒り狂う女の子が好きすぎる変てこな性癖で(ry

>>Carrot様
怒り狂う女の子が好きすぎ(ry
一応うちの原則として東方キャラ×オリキャラはないですぜ! 母娘とか師弟とか、たぶんこのラインが限度ですw オリキャラ自体はすごく楽しいのですがががが。

>>NONAME様
姉は妹を守り慈しむものなので逆に愛で尽くします! というかこの妹は幻想郷に帰ってこないんじゃないかと(ry
ちぇんルミはいずれ夜伽でやりたいと思っています。下手すると永遠にできないかもしれませんが、ここでエピローグを先にぶちこむというイカレた発想をしまして(汗
posted by 夜麻産 at 2012/02/09 00:02 [ コメントを修正する ]
地雷臭?何のことです?なお話でした。予告の橙×EXルミキター!!
絣ちゃんの零無脱却(キャストオフ)シーンは圧巻でしたねー
結局のところ、自分の行きたいところのために転んでも笑われても走っていけるということが『博麗』であることの証明みたいなものかな、と感じさせられました。
Fuck up(無能な愚図)呼ばわりされてたヤツが相手をFuck up(ぶっ壊し)するっていうのもすごくグッとくる展開ですよね。
本当にありがとうございました。

絣は霊夢と魔理沙の娘!!
posted by TORCH at 2012/02/09 21:36 [ コメントを修正する ]
>>TORCH様
突っ走るシーンは似たような構図で何度もやってる気が(汗
オリキャラ主軸なのでものすごくびくびくしてます、東方の世界観を冒すかたちになりますし。私自身二次創作の境界ってまだいまいちよくわかってませんので怖い怖い(滝汗
結局頭のなかでできあがったキャラから描いてくことしかできないのですがががが
posted by 夜麻産 at 2012/02/13 23:18 [ コメントを修正する ]
一気に読んでしまったので、一つ一つコメントしてます。

イージーモード、零に等しいと言われ続けている
絣が全身全霊をかけて突っ込んでいく姿が、良いですね。
こんな子が嫁だったらうれしいってくらい、絣ちゃんどストライクです。

いつもながら、こんなぞくぞくするような設定を思いつけるなーと思いながら読んでいます。

とっても、楽しみに読ませていただきました。
posted by みなも at 2012/10/30 17:32 [ コメントを修正する ]
>>みなも様
絣についてはどこから出てきたのか私自身よくわからないような、書き続けてぽっと出てきたというか、橙を橙さま呼ばわりしてひたすら崇め奉りたいという願望が(ry
設定は完全に妄想の産物なのです。万年厨二病です。くっ、鎮まれ俺の右腕(ry
とにかくご読了お疲れ様でした&ありがとうございましたっ!
posted by 夜麻産 at 2012/10/30 23:49 [ コメントを修正する ]

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