オリジナル。おおむね独身三十路女が登るだけのお話。
……派遣、採用説明会受けて誓約書その他諸々記入までしたけれどいまだ働けるかどうかはry
バイトのときは「じゃあ明日から来て」で終了だっただけになんてーかこう、焦らされてる感がパネェ
ssのネタもなし。うぎぎ。ウギギ。
……派遣、採用説明会受けて誓約書その他諸々記入までしたけれどいまだ働けるかどうかはry
バイトのときは「じゃあ明日から来て」で終了だっただけになんてーかこう、焦らされてる感がパネェ
ssのネタもなし。うぎぎ。ウギギ。
暗い部屋に白い光が射し込んでいる。空は眼を細めてアイス・バイルを手に取り、そのささやかな灯りのなかにかざした。三日月のように強く湾曲したかたちに捩れはない。鋼の刃も、時が止まったかのように、錆のひとつも浮いていなかった。
涙ぐんでしまうような強い感覚が駆け抜け、空は舌で唇を濡らす。自分の吐息が耳にうるさかった。なんにせよ、待ち侘びていたのだろうと思う。この身にしろ、この道具にしろ。そう思うと、もう耐えられなかった。ザックを背負って扉を開いた。
茅野駅からバスで美濃戸口へ向かい、赤岳鉱泉へ向かう。三月の八ヶ岳は深い雪に埋もれている、が、登山者が多いためにほとんどラッセルの必要はない。夏のコースタイムとほとんど変わらない、むしろ早いタイムで山荘に到着する。通年営業の小屋で受付を済ませ、テントを張る。そのときにはもう日が暮れている。
女一人でも妙な顔もされない。時代の流れに感謝しながら早々にシュラフに潜り込む。天気は良くなく、悪くもなく、曇りがちで気温が低い。今年は春の訪れが例年に比べて遅いという。好都合だ、と思う。雪は不安定になるだろうが長く冬を楽しめる。もう少しだけ。もう少しだけ。
眠くならず、困ったように夜をやり過ごす。どれだけ慣れても孤独の深い淵には底がない。夢と現のあいだ、思考と妄想が暴走し始めるのをじりじりと耐える。どれだけ優秀なダウンシュラフでも冷気を遮る限界はある。からだを丸めて耐える。ただ耐え、時間が過ぎ去るのを待つ。
朝は突然にやってくる。腕時計のアラームが鳴り、空は上体を起こす。
テントは置いたままにするから、準備は早い。コンビニの菓子パンを喉に詰め込み、あらかじめ淹れてあったコーヒーを温めなおし、アタックザックに装備を詰めていく。凍えるほど寒いが、何度となく繰り返した行為に迷いはない。素早く準備を終え、外に出て登山靴にアイゼンを装着する。
三重の手袋が掴む雪の感触に、脳の一部分が疼いてドーパミンだかアドレナリンだかを分泌する。交感神経が興奮し、心拍数が増加し、末梢神経は収縮、血圧が上昇して唾液の分泌が抑制される。
歯を噛み締めて思う。落ち着けよ、あたし。取り付きはまだからさ。
腕時計を見る。(五時半――)
早いか? いや、大丈夫だろう。
八ヶ岳の岩稜帯は浮石や草付きが多く、夏場は不安定で崩れやすい。その上通常の登山者も多く、空自身何度か訪れたことはあるが、その時期の登攀は正直なところあまりやりたいとも思えない。が、冬さえ訪れれば不安定な足場は凍りつき、藪は雪稜の下に埋もれ、豊富なバリエーションルートを抱く魅力的な、文字通り近くて良い山に変貌する。
大同心北西稜。
西面から横岳に抜けるバリエーションのひとつで、赤岳南稜などに比べれば知名度もなく、トポもそれほど広まっていないルートだ。案の定通常の登山道を外れ、取り付きへアプローチする段階に至ると、トレースのない道なき道をラッセルする羽目になる。が、それもほんの短い時間だけだ。
(七時前、か)
上空は暗い。が、もう夜とも言えない。陽が稜線越しに反対側から登ってくるから、影になってはいるが、視界は良好だ。ただ青空が狭い。
このルートは昔一度登ったことがある。父親と同じ山岳会で、父親のザイルパートナーだった、篠原武士という男と。雪の付き具合は記憶と誤差があるが、取り付きはわかる。
(篠原――そういえばあいつも現役復帰したって、芦田が言ってたっけな)
くすりと微笑む。
ソロ・クライミングは基本的にナンセンスな行為だ。二人以上のクライミングに比べ、決定的にビレイが完全でなはなく、どんな手段で、どんな方法で確保したとしても、危険な上に時間がかかる。ビレイだけでなく、レスキューの観点から見ても。あらゆる視点で見たとしても勝っているところなどなにひとつない。
怖気立つほど煩雑極まりないザイル操作と、ばかばかしいまでの労力を要するZ式登攀。空身で一度登り、懸垂下降してザイルを固定、荷を背負ってもう一度登るというビレイ・システム。
そこまでしても墜ちたからだを支えられるかどうかはわからない。そもそもそうした確保自体、『絶対に墜ちない』ということを前提としているのだ。このジレンマ。
(莫迦なことだよ、ほんとうに)
思いながらも岩稜を見上げる。覆い被さるような圧力はないが、傾斜が強い。なかなかの迫力だ……そもそもこうした場所にくることさえ……この時期のバリエーション・ルートは何年振りだったっけ?
(――だ、だめだ。なんか笑っちゃう)
アイス・バイルをダブルアックスで。一ピッチ目。
ここのグレードは、トポによればⅣ-。RCC準拠のグレード表示で、フリーのグレードで言えば5.5~5.6程度のレベルになると言われているが、もちろんここはフリーのゲレンデではない。着膨れしてごてごてした装備と、凍りついた岩、ホールドにへばりつく雪のせいで体感的には数段難しく思える。
(取り付きにはっきりした支点をつくれないね。氷じゃないから、アイススクリュー……ってわけにもいかんし。このまま行っちゃうか)
固まった草付きを氷に見立て、バイルの刃先を引っ掛ける。そっと――下手な重心をかけぬように、真っ直ぐに。打ち込んだわけではないから、余計なバランスを加えれば容易く外れる。
アイゼンの爪先を岩に置く。ふうん、と思う。ふうん? 傾斜は強いし、安定しているとは言い難いが、難しいムーブは必要ない。そのままゆく。
がしがしと登る。いかにも崩れそうな岩だ。ところどころハーケンが見えるから、パートナーがいれば確保してもらえたのだろうが、いまはフリーソロだ。なんてふざけた行い。足元が悪い……墜ちれば死ぬよ? と思ってみて、腹の奥がきゅっとしなる。
(早速指が痛くなってきた。冷たい)
わりときちんしたビレイ点を見つける。1ピッチ目が終わる。といってもまだザイルを出していないが。
トポを確認する。次は八十メートル……グレードはⅡ……見上げる。ほとんど歩きに近い。むしろ雪崩れそうに見えるのが怖い。触れてみる。雪は薄い、払ってみればすぐに岩が見える。ザイルを出さないことにして、やはりそのままゆく。
徒歩ではないが、クライミングというには物足りない。ぐんぐん高度を稼ぐ。こういうときにいちばん怖いのは、浮石や落石だ。その気配は感じられないとはいえ、山は気紛れなのが常だ。気を抜くなよ、と自分に言い聞かせ、登る。がんがん登る。
ルートファインデングをミスらないように。どこへゆくかを明確にしておき、終了点を眼で探る。岩では、登れはしても降りるのが辛い。探すのに神経を磨り減らす。岩全体が陰に落ちており、陽射しが遠い。青空をかすめて、雲が走るように通り過ぎていく。
(ここか……?)
はっきりした終了点ではない。岩の角にスリングを引っ掛け、それを支点にする。バックアップが欲しいが、いい角が見つからない。
次のピッチ……三ピッチ目。グレードはⅢ+になるが、四・五ピッチ目にⅤが並んでいる。ザイルを出す。ソロエイドを使い、自分を確保する。しかし、この器具ははっきり言ってあてにならない。ソロ・クライミング用のあらゆる確保器は、まず墜ちないことを大前提につくられている。どれだけ頼りになる耐久度だろうが、プロテクションがしっかりしていなければ――
岩混じりの草付き。ザックを置き、固定する。やはりダブルアックスで、正確にピックを打ちながら登る。良さげなハーケンは見つからない……みるみるうちにランナウトの距離が伸びていく……ひとつ見つける。クイックドローをひとつ、片側のカラビナをふたつにしてセットし、それぞれにザイルを通す。そして、ゆく。
結局そのひとつしか中間支点がない。あったのかもしれないが、見つけられなかった。ビレイ点を見つけ、そこにザイルを固定。懸垂下降するには頼りないが、そこで一旦降りる。
(ソロだとこういうのが面倒くさいね!)
ザックを背負い、スリングを回収し、ユマーリングで登る。とはいえザイルの固定も完全でないから、ユマーリングはあくまでバックアップに留め、ほとんどリードと同じように登る。ザックの分だけからだが動かない。もどかしいが、この感覚すらも山の一部だ。
登り返し、一息つく。次!
四ピッチ目!
グレードはⅤだが、空にとってムーブ自体の難易度は大して変わらない。要は怖ろしいかどうかだ。不意打ちがなければどこだって登ってやる。先ほどと同じように、Z式登攀で登る。
なかなかの傾斜の凹角だ。右側がすっぱりと切れ落ちており、高度感が素晴らしい。ダブルアックスを一旦しまい、手袋で登る。当然フリーのようにはいかないから、それが怖ろしい。滑ることが。神経が張り詰め、動作に滑らかさを欠く。削れているのか、ホールドが思ったより丸い。それでも、フリー的にはまったく大した動きではない。腹の内側に根源的な怖れがある。
どうした? と自分に問いかける。昔のあたしだったらこんなの余裕で突っ切ってた! 昔のあたしなら――そんなものに負けるわけにはいかないだろ?
五ピッチ目。上方に潅木帯が見える。辺りを見渡し、右側に回りこみ、眼を凝らす。中間支点らしきものが見える……遠い……いまにも崩れ落ちそうなホールドを掴み、登る。
草付きはところどころあるが、アックスを打ち込むか? ホールド自体は豊富で、その必要を感じられない。いいや、このまま行け。肉体に命令し、忠実な兵士のように動く。止まらない。迷わない。
ホールドは雪に埋まっている。払うたびに指先がきんきんに冷え、動きが鈍る。風が強くなってくる。頼りにならない確保では不意の風が怖ろしい。避ける道筋は、さっさと登ってしまうことだ。しかし、中間支点の少ないことといったら! ランナウトの、圧倒的な恐怖を誤魔化すために余計に早く登る。ほとんど闇雲だ。それでも的確ではある。
登り返し、6ピッチ目――
潅木を掻き分けるようにして抜け、見ると上方の岩壁まで雪のついた稜線だ。クライミングにはならない。アイゼンの爪をきかせて距離を稼ぐ。
上部に淡い光が差しかかっている。あそこを目指して登るのだ。ドームを抜けて横岳の稜線に出れば、東から陽光を浴びる。山梨県側まではっきりと見えるはずだ、ガスっていなければ。
ラスト・ピッチ! 手前の潅木をビレイ点にする。
下部はクラック状になっている。城ヶ崎海岸で散々フリーの練習をしたが、こうした場所に出てくるとやはり緊張する自分の一部はある。トポを見ればグレードはⅤ+。古くはA0――人工登攀として、プロテクションをホールドとして利用する――とされたピッチ。今回の核心と言えるだろう。見上げれば岩がかなり被っているように思われ、威圧感がある。唇を舌で濡らす。濡らしたそばからきんと冷え、ネックウォーマーを鼻の下まで引き上げる。
胸がどきどきする。一手目に触れ、眼を細めて――
夢中で肉体を動かす。一瞬たりとも止まらずに、登りまくる。しかし、絶妙の位置にあるボルトだ。思わず使ってしまっても誰も文句は言わないだろう、観客も対戦相手も誰ひとりとしていないのだから。それでも使わず、フッと霞むような速度で突破してしまったのは、ただそうできると思えたからだ。使わなくても登れる、と。だったら使わずに登るのが礼儀というものだ。気がつくと、無意識のままに染み込んだムーヴで登っている。五年近く離れていたのに、からだはまだムーヴを覚えていた。一点の穢れもなく! この歓喜!
しかし、なんて短いんだろう! もう終わってしまう。
泣き出しそうな思いで登る。
当てにならない残置支点を無視し、ホールドを細かく刻んで――脚を大胆に振り上げて――アイゼンが岩に触れるたびかつんかつんと音がする。風の音に紛れて……
最後の垂壁を抜ける。視界が一気に開け、横岳の尾根がすぐ先に見える。しかし、全体的にはガスっている。下界が見えない。黄金色の光が煙に呑まれ、白い砂漠のように見える。
稜線の風が真横から吹き抜ける。
いっとき、寂しさに立ち止まる。
「――は、ぁ……」
篭もるような吐息をつく。余韻を味わうように。
登り返して、荷を引き上げる。ザイルをしまえば、もうクライミングではない。後は硫黄岳を経由して、赤岳鉱泉に帰るだけだ。
腕時計を見る。
(十時になってない)
素早く計算する……
(小同心か石尊稜なら、近い。難易度だって、ほとんど変わらない。昼で雪が柔らかくなっているのは怖いけど、いや……中山尾根は? 地蔵尾根から降りて……どっちにしろ……やった、もう一本登れる!)
そうと決まれば早い。休憩もせずに、サングラスをかけ、光の煙に包まれた横岳の稜線を突っ切る。固い雪がざくざくと気持ちのいい音を立てる。ほとんど走るように、叩きつけるような足取りで駆け抜ける。胸が焼けつくように熱い。ヤッケのジッパーを胸元まで引き下げ、フードも外す。メットの内側に熱が篭もったようになって、頭が焼ける。
熱い――!
PR